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漁火新聞では昨年五5月から、単に日本の中だけで政治や経済を考えるのではなく世界的な視野から先進国そしていま国力を伸ばしている国々から学ぶべき点を、加瀬英明先生や高山正之先生と中村会長との対談シリーズで、また喫緊の課題と言える世界的な金融危機や資源問題についての会長の意見も交え、我が国の進むべき道を模索するという観点から幣紙第一面では「日本再考」をテーマに取り上げてきました。さて今回は会長の巻頭言、対談はちょっとお休みをいただいて、これまで我が国がいったいどのような歴史を歩んできたかについてを「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝会長から述べていただくことにします。「歴史認識」が取り沙汰されている中にあって、正しい歴史を学ぶことにより、我が国の「国柄」について、より一層の理解を深めていただければ幸いです。


藤岡信勝・新しい歴史教科書をつくる会会長


聖徳太子の対中「対等外交」

 6世紀の末、300年にわたって小国分立状態が続いていた中国大陸は、隋によって統一されました。東アジアに強大な帝国が出現したことは、この地域の諸国を震撼させました。朝鮮半島の高句麗、新羅、百済の三国は、早速中国の皇帝に朝貢します。
 極東の日本は大和朝廷の時代で、聖徳太子が国政を担っていました。西暦600年、大和朝廷は遣隋使を派遣しました。日本が中国の王朝と交渉を持つのは約120年ぶりのことです。隋の強大さを知った聖徳太子は、日本が独立した国家として発展するために国の体制を整備する必要を痛感しました。
 聖徳太子は、隋との対等な外交を進める前に国内の改革に着手します。まず、603年、有力な豪族が朝廷の役職を占めるこれまでの仕組みを改め、生まれや家柄に関わりなく、国家のためにすぐれた仕事をした人物を役人に取り立てる「官位十二階」の制度を取り入れました。
 次いで、604年、「十七条の憲法」を定め、公のために奉仕する役人の心構えと国家の理想を示しました。こうして国内の改革に成功した聖徳太子は、隋との外交に乗り出します。
 607年、小野妹子を団長とする2回目の遣隋使が派遣されました。彼は地方豪族の出身で、官位十二階の制度によって才能を認められ、取り立てられた人物でした。この時、隋の皇帝にあてた手紙には、「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す。恙なきや」と書かれていました。
 隋の皇帝・煬帝は、この手紙を無礼であるとして激怒しました。天子とは皇帝の別名で、手紙の文面は、もともと中国の王朝に服属していた倭国が、自らの君主を「皇帝」と名乗って中国の皇帝と対等であると自称したことになるからです。当時の東アジアの国際秩序のなかでは考えられない大胆な行動でした。




「天皇」号は国家自立の宣言

 隋の煬帝は、小野妹子を斬り殺すこともできたのですが、隠忍自重し、返礼使までつけて遣隋使の一行を日本に送り返しました。聖徳太子の外交は大成功を収めたと言えます。
  翌年、3回目の遣隋使を派遣することになりました。ここで再び、日本の君主の称号をどうするかが問題になりました。3つの選択肢がありました。
 第1は、あくまで「皇帝」を名乗り、対等性を主張する道です。このやり方には、リスクが伴いました。日本はまだまだ中国の進んだ制度や文化を取り入れて国を発展させなければならないのですが、国交断絶のような事態になれば中国に学ぶことはできなくなります。
 そこで、第2に、安全パイとして「倭王」の称号に戻る方法が考えられます。中国の皇帝は、ベトナム、朝鮮、日本などの周辺諸国を服属国とし、「王」の称号を与え、柵封という任命書と金印を下賜しました。この体制を華夷秩序と言います。かつての日本も卑弥呼の時代には、魏の王朝から「親魏倭王」の金印をもらったことが文献に見えますが、これは日本が中国の王朝の家来になっていたことを意味するのです。倭王を自称することはこの屈辱的な立場に戻ることを意味します。
 そこで、第3の方法が工夫されました。その方法とは、皇帝でも王でもない称号を発明することで、それが他ならぬ「天皇」という称号だったのです。
 日本書記には708年の記事として、「東の天皇、西の皇帝に曰す」という国書の書き出しが記録されています。これが日本における天皇号の初出です。
 「天皇」という称号は、実によくできています。まず、「皇」の字が入っていることで、日本の天皇が中国の皇帝と同格であることが主張されています。この点で、日本は1歩も譲っていないのです。他方で、中国と全く同一の「皇帝」という称号を敢えて使うのを避けることで、いわば相手の顔を立てる形になっています。見事な発明といわなければなりません。
 天皇という称号の発明と使用は、日本が中国の華夷秩序から離脱して、独自の道を歩むことを表明する国家的な自立宣言だったのです。天皇は第125五代の今上陛下にいたるまで纏綿と絶えることなく続き、日本の皇室は世界最古の王家となっています。朝鮮文明は存在しないのに、日本文明はアメリカのハンティントンという学者も一個の独立した文明であることを認めています。
 この4月に文科省の検定に合格した自由社の『新編 新しい歴史教科書』は、この天皇号誕生のドラマを視覚的に再現すべく、小野妹子の肖像画を苦心の末に入手し、隋の煬帝と向かい会わせることで教材としました(上掲図版参照)。これで、全国の中学生が、日本という国の本当の成り立ちとその国柄を学べる準備が整いました。このような教科書を創りあげてきたのは、「新しい歴史教科書をつくる会」という国民運動の力によるものです。


 

「自虐史観」克服の課題

新しい歴史教科書をつくる会」が発足したのは、今から12年前の平成9年(1997年)1月のことでした。産経新聞に連載して単行本になった『教科書が教えない歴史』が百万部を超えるベストセラーになる一方で、「従軍慰安婦の強制連行説」が中学校用の歴史教科書のすべてに新たに入り込むなど、「教科書が教えている歴史」の中での「自虐史観」の横行は目に余るものがありました。こうした現状に危機感をもって、有志が立ち上がったのです。
 「つくる会」の発足が報じられると、会の事務所には、戦場体験をもつ年配者から「よくぞ日本人の名誉のために立ち上がってくれた」という感謝の電話がひっきりなしにかかってきました。中には、話しているうちに感極まって電話口で泣き崩れるお年寄りもいました。それほど、戦争を生きた日本人の心は、長年にわたる事実無根の誹謗・中傷によって深く傷つけられていたのです。
 「つくる会」の教科書は、『新しい歴史教科書』(代表執筆者・西尾幹二)として平成13年に検定に合格しました。しかし、中韓からの内政干渉と日本国内の左翼勢力の総攻撃にさらされ、その年の採択では、採択率はわずか0.039パーセントにとどまりました。4年後の『改訂版 新しい歴史教科書』(代表執筆者・藤岡信勝)では採択率は約10倍になりましたが、率にして0.4パーセントで、1パーセントにも届きませんでした。
 しかし、「自虐史観」の克服という点では、会は実は巨大な成果を上げたのです。わずか0.039パーセントの「つくる会」教科書が、教科書業界の勢力地図に激変をもたらしていたのです。「自虐史観」の傾向のはなはだしい教科書会社(大阪書籍、教育出版など)は、軒並み採択率を減らしました。「自虐史観」が一番ひどい日本書籍という教科書会社は、採択率が13.7パーセントから5.9パーセントへと半分以下に落ち込み、倒産してしまいました。
 このように2回の採択を経て、教科書の内容の上でも、日本を悪逆非道に描く毒々しい教材は激減しました。「従軍慰安婦」は本文からは消え、資料の形で載せているのは2社だけになりました。南京事件の記述でも、過大な数字を書く教科書は1社だけになりました。



「中韓隷属史観」の陥穽

では、これで教科書問題はあらかた解決したのではないか、という印象を持たれる方がいるかもしれませんが、事実は全く異なります。
 「つくる会」が運動を始めてから、2回の採択で大幅にシェアーを伸ばした教科書会社があります。東京書籍と帝国書院です。帝国書院は、1.9パーセントから10.9パーセントへと、実に10倍にシェアーを伸ばしました。この2社は、教科書の「自虐史観」の度合いがあまり高くなかったということから、「中間派」と見なされて、いわば「漁夫の利」を得たのです。今ではこの2社で、中学校の歴史教科書全体の65パーセントを占めています。
 ところが、この2社の教科書には、ある共通する特徴があります。大月短期大学の小山常実教授の研究によれば、日本が古代以来、中国や朝鮮・韓国の下にあり、いつも両国の後塵を拝して来たという「中韓隷属史観」の傾向が最も顕著なのが、ほかならぬ、この2社の教科書なのです(雑誌『正論』五月号)。
 1番上位には中国があり、次に朝鮮・韓国が続き、最下位に日本が位置するという、まさに華夷秩序の観念をそのまま事実であるかのように教科書は描き出しています。文化はいつも中国、朝鮮からやってきて、日本はその恩恵だけを横取りしたかのような書きぶりです。本当は、聖徳太子の自立外交が示すとおり、日本は独自の道を探り出し、日本文明を築いてきたのです。
「自虐史観」からも「中韓隷属史観」からも自由な教科書が自由社の『新編  新しい歴史教科書』です。この4月から全国の教育委員会で来年から使用する教科書の採択換えが行われます。この教科書の全文を収録し、さらに歴史を巨視的に大観した15人の有識者のエッセイを集めた『日本人の歴史教科書』が五月に発売されます。本紙の多くの読者が手にとって歴史をとらえ直す一助にしていただければありがたく存じます。




漁火新聞 2009年5月号