花棕櫚のはじまり       トップへ





















 

建築家との出会い

 生垣に囲まれ、存在すら忘れられたこの家が、30年来の区画整理の道路拡張に伴い、木々が取り除かれたことで、大きく浮かび上がってきました。壊すべきか、残すべきか…。

 何十年もの間、人が住むことなく、物置でしかありませんでした。傷みもひどく、雨漏り、埃、土壁が剥げ落ち竹の小舞まで見えて・・・。それは、惨憺たる状態でした。

 偶然にも、その家の行く末に悩んでいたとき、豊橋の女性建築家・富田真知子さんの目に留まりました。「いい家だから、壊すには勿体無い。何とか次に繋いで…」という彼女の思いから始まりました。平成11年7月のことでした。

 

「とよはしっ子」

 皆さんは、何年か前まで続いていた三河の地域情報誌を覚えていますか?20年余り、大きさや形を変え、地域の情報誌としてあった豊橋発の「とよはしっ子」という雑誌を。

 1999年(平成11年)6月号から縁あって、その中の『松とその仲間たち』レポートを書くようになりました。『その20』9月号に、冨田真知子さんを紹介しました。女性の建築家で現代的な建物を設計もするが、当時としては、珍しい古民家を再生させることにも関心があり、もっと勧めたいと考えていた方です。

 「潰して建てる」ということが当たり前の世界で、歴史的な建物でない限り、なかなか古い家をリメイクするという考え方は一般的ではありませんでした。住んでいる方もなかなか、その良さが判らず、何よりリフォームできるということもご存知ないという現実。

 

偶然と偶然は必然か

 その冨田さんを取材するという機会を得て、初めて古民家再生を知りました。まさにそのとき、うちの現実的な問題として、『離れ』の問題が浮上していたのでした。区画整理事 業の一環で、壊して貰えるはずだったのが、道路の拡張幅が変わり、自費で取り壊すことに。それも数百万円もかかってしまう。しかし、工事が進行中のこの時、それに取り掛かかれば、早く安くできるという業者への回答も差し迫っていました。

家族皆がその家を早く壊してしまおう、目障りでしたなかったその家を壊そうという方向へ話が進んでいたまさにそのときでした。一ヶ月前に冨田さん会っていれば、そんな問題も起きておらず、一ヵ月後に会っていれば、壊してすでになかったかも知れません。彼女に、あうべくして、あったような。

冨田さんは、忙しいにも関わらず、お蔵と古屋の壊す準備をしているという話をした翌日には、うちに来ていました。ひとしきり、離れと蔵を見てから、「このうちは、ただの家じゃないよ。」という言葉を残して帰りました。

父には、そんな話もできませんでした。私にとって、それはとてつもなく大変なことだったから。夫に言うと、「トンでもないことだということが判っているのか。壊すより大変…」と。しかし、とりえず業者への回答を先送りにすることになりました。

 

父・武雄の思い

大正3年の生まれの父は、小学一年生のときに父親を亡くしています。この離れ(花棕櫚)で肺結核を患い、床に臥した父親を見舞った記憶があるとか。大正11年にはこの家は、存在していたことになります。村長をしていた武雄の祖父が、道楽で建てたもので、大正の初めか、明治の終わりには、すでに建てられ、その年が定かでない。

豊津(旧一宮町)の大工が建てたと話してくれた。隣のみちびき不動(養学院)の本堂が明治の終わりに建てられ、その後、数年かけて、その副棟梁だった若い大工の手によるとのことでした。

幼い武雄が学校から帰ると縁側から父の様子を恐る恐る窺がった様子が目に浮かぶ。二人の姉、生まれたばかりの妹、祖父母と母。当時不治の病だった結核、大人たちの顔色を見ながら不安ですごしたに違いない。お父さんを守ってくれた家、お父さんの思いを包んでくれた家には、武雄の父そのものの存在だったに違いない。

その後、砥鹿神社の宮司や遠洋航路の船長さん家族が借家として住まったとか。第二次大戦の終わりごろは、生まれてすぐに父親を亡くした武雄の妹夫婦とその家族が、豊橋の空襲で焼けだされ、住まいにしたとも聞いている。

その後は、武雄の子供たち(5人)が遊んだり、勉強したりと昼寝をしたりと贅沢な子供の座敷だったとか。成長とともに、物置状態になっていった。今は土間になっているところが、板間でその上に、納戸があり、子供たちの小学校の頃の通知表、教科書や本、編み物や手芸をしていた姉の未完成作品がでてきた。子供たちの中学から高校までの思い出の宝物が詰まっていた。

 

こんな偶然

 私が嫁いできたのが、昭和562月、それ以前から、この村の区画整理事業が続いていた。なかなか話が進まず、平成10年ぐらいに大枠ができ、道路の整備、公園の整備、住宅地の整備と販売、住所表示の変更が終了したのが、一昨年平成203月。土地改良の話が出はじめた頃からは半世紀が経っていた。昭和43年に東名高速道路が、横切り、その道路公団との交渉から始まり、地域の整備、村の将来を考えて、父・武雄は積極的にそれらの事業に貢献してきた。農業の仕事を二の次にしてまで。そして、その完成を見届けて、昨年1月、父・武雄が、95歳を前に亡くなった。

 そんな背景の中、まさに『離れ』であるこの家が、平成11年夏、道路拡張のため壊されるはずであった。

続く…