南アフリカで日本のすごさを知りました。
野本幸子(岡崎市・炭花アート)

 半田にある古い蔵を再生した「ギャラリー花くら」には、多くの人が詰め掛
けていました。入り組んだ古い街並みにあるギャラリーには、問い合わせの電
話が鳴り響き、小さな庭にも人で溢れていました。岡崎の野本幸子さんが「春
の野の草展」と銘打って、教室の生徒たちと炭花アートの作品展を開催してい
る真っ最中でした。
野本さんは、小さな骨董の器や瓦に野の草や花をあしらいます。小さな器に
可憐な草花や苔を活け、瑞々しい大きな自然そのものを表現しています。その
ミニチュアの自然を少しでも長持ちさせようと炭を土の下に敷き詰めました。
炭は昔から土を活性化したり、水を浄化したり、また雑菌を除去する効果が知
られています。野本さんは、その炭を敷き詰めるだけでなく、竹炭そのものの
なかに活けたり、丸太の炭を利用したり、始められた年数は浅いのですが、そ
の炭花アートは独自にあみだされたものです。
野本さん以前、岡崎で草木染と編物を自宅で教えていました。しかし、今か
ら8年前、ご主人の仕事の都合で、南アフリカのダーバンというところに赴任
することになりました。中学生と高校生のお子さんと一緒に、日本人が赤ん坊
を含めても20人もいないというところでした。ご主人の「誰一人知らない人
の中では、どんな人間にもなれる。あなたの性格ならどこへ行っても大丈夫。」
という言葉に後押しされて、はじめはショックだった子供たちも就いて行きま
した。「そんなところならなおのこと、家族で主人を支えないと大変だろうとい
う思いもありました。日本食だって口にできないだろうし・・・。」
そこで、もの作りが好きだった野本さんは、自分を磨くことに徹しようとお
稽古事に明け暮れる毎日を過ごしました。リボン刺繍、パッチワーク、食器の
絵付け、陶芸・・・。英語は笑顔と度胸で乗り切り、車の運転も進んでやりました。
南アフリカという国は、まだまだ黄色人種への差別も色濃く、打ち解けるのに
はなかなか容易ではありませんでした。しかし、『手作りが好き』という共通項
を武器に積極的に地域に溶けこみ、少しずつお友達を増やして行くことができ
ました。「私の作るものにまず、興味を示してもらい、少しずつ私自身に興味を
示してもらいました。気持ちを持って接していけば、心は伝わります。主人の
言葉は正解でした。そして、子供にとっても親にとっても親離れ・子離れもう
まくできました。」
「でも、英語の方は日本の文化に造詣の深い通訳に恵まれたこともあって、
ちっとも上達しませんでした。」その通訳の人に日本の文化について、色々と聞
かれました。しかし、答えられず、「日本人なのに何で知らないんだ。」と言わ
れるはめに。
日本語の新聞や書籍はなかなか手に入らないこともあって、新聞は隅から隅
まで読みました。そして、持っていった雑誌や長年読めずにいた本も活字に飢
えていたこともあって何度も読み返すことができました。「南アフリカで日本っ
てすごいと改めて実感・・・。」遠く日本を離れて、日本文化の素晴らしさを改め
て見なおすことができました。
3年半、南アフリカに滞在しました。日本へ帰り、家の改築中の仮住まいを
しているとき、偶然、割れたような器や乳母車を花篭として花を生けている人
に出会いました。四季折々の自然をうまく生活のなかに捕り入れようとするこ
とが、まさに日本文化の良さを見た思いでした。それから、その方や名古屋の
花屋さんから色々とアドバイスをいただき、花や草や苔をいけることに夢中に
なりました。骨董とであったのもそんなときでした。「花が無くなったときも楽
しめるようにしています。そして、蔓があって動きのあるものを心がけていま
す。」部屋やテーブルの一角に緑があるだけで、夏は涼しさを演出してくれます。
「何かしようとすると会うべくして人に出会えます。」今では珍しい、岡崎市
奥殿町で炭を焼く人と出会ったのも、そんなときでした。炭の効果を教えて頂
きました。「器のそこに炭を入れていたのですが、なかなか炭の良さを分かって
頂けなくて、そんな時、丸太の形の炭に偶然出会いました。割れやすかったの
ですが、それを削っていけることを始めました。竹の形のままの炭も焼いてい
ただきました。」無理を言って焼くのに難しい炭の器を手に入れることができま
した。
「手作りが好きだったおかげで、たくさんの人と巡り合うことができました。
今までやってきたこと、洋裁や編物、パッチワークやちりめん細工、絵付けや
陶芸、いろんなものを取り入れて総合的に炭花を続けたいと思います。」

(取材/記 北村起美子)