「一生かかっても織りつくせません。次から次に織りたいものが。」
尾浦七重さん(豊川市在住・織物教室主宰)

 秋の気配が始まると、手織りの布の温かさに触れたくなります。十月に浜松
で彫金の内藤清子さんとの二人展「ジユウリー・染織展」の準備に追われてい
る尾浦七重さんを訪ねました。彫金のシャープな冷たさと尾浦さんの手織りの
温もりが程よいバランスを醸しだしています。
 豊川市八幡で織物教室を主宰されている尾浦さん、「教室の名前もないんです
よ。」と迎えてくれたお宅は木とレンガの外装で、ガーディニングの行き届いた
庭はすでに秋の色でした。
 居間とキッチンを開放し、週三回手織り教室を開き、若い方から年配の方ま
でたくさんの生徒さんが通っています。七年前、自宅で手織りを楽しんでいた
尾浦さんに「気楽に教えてくれないかしら」というひとりの生徒さんとの出会
いから始まりました。
 「自分の好きなものから、織って頂いています。一番、最初に織ってみたい
という思いやその切欠になったことを大事にしたいですから。難しいものであ
ろうと、そこから学ぶことが大事です。始にこれをしなくてはいかないという
ことはありません。」と織る事が好きでたまらないという感じ。そして、「ここ
は学校ではありません、楽しんでいただく場所ですから。技術は後からついて
きます。思いついたことが大事です。」と続ける尾浦さんは人も好きでしょうが
ないというふうです。
 「そして、私の仕事は、生徒さんが失敗した時にどうやって修復するのか、
ミスをどう言う風にフォローするのかで、失敗したほうが得ですよ。織ること
は本があれば、ひとりでも誰でもできます。生徒さんには失敗しても『大丈夫
よ。私の仕事がなくなるから。』といつも言っています。」教える事が天性のよ
う、生徒への愛情が溢れています。
 尾浦さんと織物の出会いは、高校時代に美術系の大学に行こうと通っていた
予備校の先生の一言でした。「普通科のデザイン科行くより、一生関わっていけ
る染織、ものを作ることを学んでみたら。」という言葉から。染織は未知の世界
でした、調べてみると面白く、大阪芸術大学染織科へ進みました。
 「大学があったのが、富田林、南河内という大阪でも言葉の荒いところ、始
はなかなか馴染めず、毎日怒られているみたいでした。しかし、芸大は当時、
世良正則はじめ個性豊な人材の集まりで、面白かったです。京都や奈良にもよ
く出かけ、関西を十分に楽しみました。正倉院の宝物展で見た、今では、復元
できない織り方を見たときは感動しました。織物はいつの時代も人の英知のか
たまりです。」
 卒業後、豊橋へ帰ってきて、蒲郡のテキスタイルの会社に就職しました。し
かし学生時代にお母さん、続いてお祖母さんを亡くされて、女手を失ったため
1年程で家に入りました。「自分の稼いだお金で、まず機(はた)を買いました。
1年ぐらい好きなものを織って、作品展でもと考えました。本当に世間知らず
でした。」
 結婚後、ご主人の仕事の関係で新潟、豊橋、知立と引越しを重ね、十年前に
豊川に落ち着きました。結婚したときは、「昔だったたら、機織り上手なお嫁さ
んで通ったのに。」ってお姑さんに言われました。「ちょっと前まで、織物は生
活の一部でした。どこの家でも機があり、お母さんやお祖母さんが家中の布を
作っていました。綿や麻まで作っていて、布団や着物、そして、藍染めや草木
染めまで。」
 「私は、今はとにかく生活の一部のものを作りたいと思っています。身近な
物を。飾っておいたり、仕舞われたりするより、『使ってなんぼのもの』だから。」
芸術品というよりあくまで、生活の中、用の中の美を大事にしたいという手工
芸、民芸本来の姿を求めたいと言われました。
 「織物を通じて、多くの出会いがあり、生活が広がりました。ここ豊川は自
然にも恵まれていますので、糸からよく染めますが、草木染めの材料にもこと
かきません。中部中学校で珊瑚樹の剪定をして山の様に捨てられた元気な葉を
貰ってきたり、宮路山の道に落ちている冬青(そよご)の芽を拾ってきて植え
てみたり、これはきれいなピンクの色が出せるんですよ。栗のいがが欲しいと
いえば、どこからかたくさん届きます。」
 尾浦さんが手織りをされていて、今までに3回、自分の作品に巡り会われた
ことがあるそうです。知人や友人ではなく、全然知らないところで、ストール
とタペストリーとして使われていました。そのときは昔の恋人に出会ったよう
な感激を受けました。手をかけたものは、いつまでも心に残っています。
 「ずっと織りつづけていたい、次から次から、織りたいものが出てきます。
出来あがったとき、経糸にはさみを入れる瞬間は、いつもわくわくします。織
り上がって、その巻き上げたものをひろげる時は、舞台から下りてくる緞帳の
ようです。この瞬間がたまりません。」

とよはしっっ子 2000年11月号 (取材/記 北村 起美子)