『文藝春秋』に掲載された検事調書

      「A少年の供述調書」の虚構を暴く

一、「少年Aの犯罪の全貌」宣伝の流布を弾劾する!


 二月十日に発売された月刊『文藝春秋』三月号に、神戸事件の犯人とされ関東医療少年院に送りこまれているA少年の「供述調書」なるものが、掲載されました。 門外不出のはずの検事調書七通が、「少年A 犯罪の全貌」(『文藝春秋』のタイトル)などと銘うって、今日このとき突如として公表されたのです。
 このことに、私たちはまず驚きました。そして、この驚きは、やがてこみあげる怒りへと変わっていきました。この調書が「少年自身の言葉で語られた犯罪の全貌」などというかたちで喧伝されていることを、私たちは黙って見すごすことはできません。なぜならばそれは、あきらかに、A少年を医療少年院に送りこんでもなお広く静かに日本全国に浸透しつつある「真相究明」の声を、国家権力がなんとしてでも葬り去ろうとしていることを示すものにほかならないからです。権力はいつでも、自らの都合のよい時に、自らに都合のよいことだけを、国民の間に洪水のように流しこむのです。そしてマスコミは、あいもかわらず、「国民の知る権利」「言論の自由」の美辞麗句のもとに、この権力の意を汲んだ広報活動にいそしむのです。
 だがしかし、私たちは言わなければなりません。――透徹した理性をもってこの一連の調書とあい対するならば、じつにこれこそは、検事のでっちあげた虚構の”現実”でしかないことが、くっきりと浮かんでくるではないか、と。色もなく音もなく匂いもない、モノクロームの世界。およそ非現実的なことを書き殴ったバーチャル・リアリティの世界。……まさにそこには、「冤罪の構図」そのものが鮮やかに浮き彫りになっているのです。
 ほかならぬこの調書こそは、A少年の逮捕が不当かつ違法であったことを銘記した十・十七家裁決定の第四項目、ならびに三つの挑戦状とともに、A少年が神戸事件の犯人ではないことを逆に示す、動かしがたい証拠なのです。
 私たちは、調書に書かれていることを、即「少年自身の言葉で表現された犯行の事実」(『文藝春秋』のまえがき、「編集部から」)などと信じこむ愚をおかすことなく、自分自身の職業上・生活上の体験をも想起しつつ、かつ想像力を逞しくしつつ、調書に書かれていることがはたして真実なのかどうかを見抜いてゆくことが、何よりもまず大切なのです。

二、みえすいた検事の作文


 A、死亡推定時刻が合わない! (五月二十四日)

 五月二十四日の淳君殺害について、検事調書は、A少年の自供と称して、次のような筋書きを述べています。すなわち「……B君(淳君)を平成九年五月二四日昼過ぎ頃、T小学校の北側の道路の北側の歩道上で、偶然見つけた」。「僕は『向こうの山にカメがいたよ。一緒に見に行こう』と言いました」「B君は、嫌がる様子もなく、素直に付いて来た……」。
 タンク山のアンテナ基地の入り口付近に来ると、「僕は真後ろからいきなり僕の右腕をB君の首に巻き付け……力一杯B君の首を締め上げました」。→「B君を前に倒し……覆い被さって、なおも締め付けました」。→「馬乗りになり……B君がエビ反りになるような感じで持ち上げて締め付けました」。→「今度は仰向けにして、両手で力任せに締め付けたのです」。→「(ナイフで殺そうと思ったが)この時初めて、ナイフを持ってきていなかったことに気付きました」。→「石で殺そうと考え、右手で首を締め付けながら、左手でその石を持とうとしました。ところが石は土の中に埋まった状態であり……動かすことができませんでした」。→「そこで今度は、左足の靴の紐で、B君を絞め殺そうと思ったのです」。
 「僕は、右手でB君の首を締め付けながら、左手で僕が履いている左足の運動靴の紐を少しずつ解いていきました」。「その靴紐を地面に置いて、左手で輪っかを作りました。その輪っかは、一重で、強く引けば結び目ができるようにしたのです」。「うつ伏せになった……B君の首に回した靴紐を力一杯両手で引いて持ち上げるようにしました」。「しかし、なかなか死んでくれないB君に対し、腹が立ち……」「B君の首を絞めながら、両足の踵で蹴ったり、右手で殴ったりしました」。「そうしている内、靴紐がねじれているのに気付いたのです」。「(そのねじれを解き)靴紐の両端を、両手で力一杯引きました」。「それでも、B君が完全に死んだのかどうか分からなかったので、B君の首を締め付けたままの状態で、……端を施設入り口のフェンスであったか桟であったかまでは覚えていませんが、そのどちらかに結び付け、更にB君の首を絞め付けました。……」
 一読すると、淳君殺害の場面が、本人にしかわからない細かな事実をちりばめて、いかにもリアルに描写されているかのようです。だが、本当にそうでしょうか? むしろこれこそは、検事はこうやって物語を作るという好見本なのではないでしょうか?
 まず第一に決定的なことは、これでは、淳君の死亡推定時間と全く合わないということです。
 淳君が祖父の家へ行くために自宅を出たのは、当時の全ての新聞が報じているように、午後一時三十分から三十五分です。そして淳君の死亡推定時刻は、午後一時四十分頃なのです。
 淳君が自宅を出てから殺害されるまで、五分から一〇分しか時間はありません(ということは、おそらくは淳君は、ワゴン車のようなものにひきずりこまれて、直ちに殺害されたにちがいないのです)。この短い時間では、タンク山に登ってアンテナ基地の前にたどりつくのが、精一杯なのです。
 ところが、検事調書が語るあの長い格闘劇を再現したら、おそらくは一時間くらいにはなるはずです。実に検事は、殺害場面を描き出すにあたり、いかにもリアリズムを装おうとして、とんだ馬脚をあらわしてしまったのです。
 第二には、検事調書のいう格闘劇が事実だとするならば、当然にも淳君の遺体には首を絞めた手の指の跡だけでなく、靴紐の跡が何本もつくはずです。ところが、そういう事実はないのです。
 第三に、そもそも淳君は、A少年の誘いに簡単についてゆくのでしょうか? 検事調書では「僕は『向こうの山にカメがいたよ。一緒に見に行こう』といいました」「B君は、嫌がる様子もなく、素直に付いて来た……」と書かれています。しかし、淳君をよく知る住民の方の話によると、「淳君は用心深い性格なので、人に声をかけられても付いていく子供ではない」とのことです。
 第四に、アンテナ基地前でのA少年による淳君殺害の叙述は、いかにも話しのうますぎる「バーチャル・リアリティ」にすぎないのではないでしょうか。
 あれだけ長いこと格闘したのなら、一時間ぐらいは経過するはずです。その間、淳君は、逃げ出そうともしなかったのでしょうか?
 調書では、はじめに「大きな声を出し、手をバタバタさせました」の一行をのぞけば、淳君の描写は何もないのです。淳君は泣きもせず喚きもせず、ただされるがままだったのでしょうか?
 そしてA少年は、淳君の服装ひとつ「覚えていない」というのです。荒唐無稽のきわめつけは靴紐で絞殺する場面でしょう。「右利き」でどちらかといえば「不器用な」A少年が、淳君を組み伏せ右手で首を絞めたまま、左手一本で、しかも手袋をはめたままで、靴の紐をはずし、地面の上で輪っかを作り、さらにこれを施設のフェンスか桟に縛りつける、――このようなことが、現実にできるのでしょうか?
 第五に、当日の午後は小雨が降っていました。これだけ長時間格闘すれば、当然衣服は泥まみれになるはずです。ところが、そういう事実はないのです。
 私たちはA少年のお母さんに、「五月二十四日、着ているものは泥で汚れていましたか?」と聞きました。するとお母さんは、「洗濯は毎日するが、衣服や靴が泥んこになっていて洗濯したという記憶はありません。五月二十四日、泥はなかったです。そうなんです。おかしいんです。私は前から、警察にも弁護士にも言っているんです。でも、取り上げてくれない」と、言われたのです。
 なお付け加えておけば、調書では、A少年が淳君を連れてタンク山のアンテナ基地へ向かったルートは、「タンクの下付近を廻りながら、山頂へ向かう獣道を歩いていきました」となっています。しかし、A少年の逮捕直後の、警察のリーク情報にもとづくマスコミ報道では、タンク横から基地へむかう直登ルートを登ったとされていたのでした。この直登ルートを登れば泥だらけになること必定であり、このことは当時の新聞でも書かれていました。だからこそ、調書では、左回りの獣道を行ったことに変えたにちがいないのです。
 第六に調書によれば、少年はこのあと、アンテナ施設の中の建物の床下に遺体を隠すことを思いつき、「死体はそのままにして」タンク山を降り、コープ・リビングセで「糸ノコギリ」と「南京錠二つ(ワンセット)」を万引きしてまた基地に戻ったことになっています。そして「糸ノコギリ」で施設入り口の南京錠のツルを切り、「両手をB君の脇の下にいれ、B君の死体を後ろ向きに引きずって、施設の中に入れ」たというのです。
 全長四十七センチの金ノコギリを、手提げ袋ひとつ持たずに、どうやって首尾よく万引きできたのでしょうか? フェンスの平面にへばりつく形で取り付けられている南京錠のツルを、この長い金ノコギリで切るためには、フェンス平面とほぼ完全に平行に前後運動させなければならないはずなのですが、それにはなんの苦労もいらなかったのでしょうか? そして錠のツルを金ノコギリで切れば、約二百六十ミリグラムの真鍮の粉が舞い落ちるはずなのですが、これについて一言もないのは一体どうしてなのでしょうか?
  それだけではありません。一時三〇分頃に自宅を出た淳君を、おそらく一時間くらいかけて殺害した後に、さらにこれだけのことをして、午後四時二十五分頃に何くわぬ顔で友人たちとおち会うことが、はたして時間的に可能なのでしょうか?
 

B、「糸ノコギリでスムースに切れた」!(五月二十五日)


 次に検事調書は、五月二十五日のタンク山・アンテナ基地内での頭部切断について、次のように述べています。
 「(前夜)糸ノコギリがあることを思い出した僕は、自然にフッと僕の頭の中にその糸ノコギリで人間の首を切ってみたいという衝動に駆られ」、翌五月二十五日に、「B君の首を切るために自宅を出ました」。「僕は、人間の首を切ると滅茶苦茶血が出ると思い」黒いビニール袋二枚を用意しました。基地の中で、「B君の首が溝の上付近に来るように置き」、「…首の下付近に持ってきた黒いビニール袋の内の一枚の口を開けて敷きました」。糸ノコギリで首を切ってみると「……肉が引っ掛かったというような感じではなく、……スムースに切れ、切り口が見えました。それで、僕は、この糸ノコギリで、人間の首が切れるのだと確信し、更に、左手でB君のおでこを押さえながら、右手で首を切っていきました」。………
 だが、このような頭部切断の物語もまた、淳君殺害のそれと同様に、検事の稚拙な作り話にすぎません。
 まず第一に、調書は「自宅を出た時間は……午後一時から午後三時までの間だったと思います」などと書いています。しかし、これは、でたらめなのです。A少年のお父さんは、「五月二十五日のお子さんの行動はどんなでしたか?」という私たちの質問に、次のように答えてくれたのです。
 「私はこの日は、朝の八時頃から、下の子を連れてタンク山へ淳君の捜索に行っていました。私がAのママチャリに乗ってきてしまったのですが、午後十二時三〇分頃、コーポの前で休んでいると、Aが自転車でやってきて『自分のママチャリと替えてくれ』というので、交換しました。Aは『ビブロスへ行く』と言って、その方角に行きました。それからまた、私は下の子と一緒に、淳君を探すためにタンク山に登っていったのです」。
 既に私たちが明らかにしてきたように、五月二十五日(日曜日)は行方不明になった淳君を捜すために、大がかりな捜索がなされたのでした。警察や、学校の先生や、PTAや、自治会の人々が大勢、この捜索に加わり、タンク山にも登っていきました。しかも警察は、朝から警察犬を連れてタンク山に出動していたのです。そして先ほどのお父さんの証言にあるように、A少年のご家族もまた、この捜索に朝から加わっておられたのです。
 このような状況のなかで、A少年が、逃げ場のない檻のような基地内に自ら入りこんで、長い時間をかけて淳君の頭部を切断し、それを鑑賞し、目や口を切り、さらに血を飲んだ、などということは、断じてありえないことなのです。
 第二に、調書は、「B君の首が溝の上付近に来るように置きました」といっています。しかし、第二頚椎を斜めに切断するためには、大きな段差のあるところで、首を仰向けにして首を垂らさなければ不可能ということは、殆どすべての法医学者の一致した見解であり、私たちがパンフレット『続 神戸小学生惨殺事件の真相』で指摘してきたところです。
 さらに第三に、「糸ノコギリ」で首を切ってみると、「……肉が引っ掛かったと言うような感じではなく、……スムースに切れ」た、などと述べています。けれども「糸ノコギリ」にせよ「金ノコギリ」にせよ、これらを用いたとしたならば、あたかも電動ノコギリで一気にスパッと切ったような「一様で滑らかな切断面」には決してならないこと、また、「粗い刃の目の跡」もつくはずはないこと――これらのこともまた、既に私たちが指摘してきたところです。
  第四に、調書によれば、A少年は「家の台所の食器棚の引き出しの中から黒いビニール袋を」持ち出して二つ用意し、「その内の一枚の口を開けて(頭部の下に)敷」いたことになっています。そして、このビニール袋に溜まった淳君の血を、「口一杯」飲んだ、というのです。しかし、ビニール袋の口を破って大きくすることなく、その中に頭部を入れてこれを切断するなどということが、はたしてできるのでしょうか? また、衣服を血で汚すことなく、ビニール袋を口にあてて、その中の血を飲みほすなどということができるのでしょうか?
 それだけではありません。警察の当初のリーク情報によれば、遺体の下に敷いたのはビニール袋などではなく、ビニールシートだったはずです。
 第五に、「B君が、僕の声を借りて、僕に対して『よくも殺しやがって。苦しかったじゃないか』と文句をたれました」云々と、あたかもA少年と淳君の頭部とが会話したかのような叙述が、調書に出てきます。このような幻聴は重度の精神障害に陥った人に特有のものでしょう。しかし、A少年に関しては、家裁決定においてさえ「少年は……意識は清明である。精神病ではなく、それを疑わせる症状もない」と断言されているのであって、そのような事実はないのです。まさにこれこそは、今回の事件をいかにも猟奇的な「日本初の快楽殺人事件」に仕立て上げるための、検事の作りごとにちがいないのです。
 第六に、調書は、「この首を、ゆっくり鑑賞しようと考え」た少年が切断した頭部を血の入ったビニール袋とともに、もう一枚のビニール袋に入れて右手で持ち、糸ノコギリは持ってきていた補助カバンに入れカバンを折り畳んで腹の中に入れて、入角ノ池まで行き、そのほとりにあった「木の根の穴」に隠した――というストーリーを描き出しています。
 従来のリーク情報では、頭部は「草むらに放置した」あるいは「フェンス外の別の場所に隠した」、従って五月二十六日にタンク山へ首を取りに行った、とされていたのでした。ところが調書では、その日のうちに入角ノ池へ隠した、という話に変えているのです。これはおそらく、捜索のまっただ中で五月二十六日にもう一度タンク山へ首を取りに行き、しかも自宅へ持ち帰って夜風呂場で洗ったことにするのは、ご家族の証言と食い違ってしまい、完全に無理が生じたからにちがいありません。そこで検事は、人々が滅多に足を運ばない入角ノ池へ、この日の昼間に行ったことにしたのでしょう――これに真実味を持たせるために、途中森の中で少年と三名の機動隊員とが会ったなどという作り話までちりばめて。
 だが「B君の首を入れた黒いビニール袋を右手に持って、町の中を歩」き、さらに友が丘西公園から「森の中に入り」「ロープを伝わって池の淵へ降りた」となどという話は、いかにも作り事めいています。頭というものは重いもので、大人の体重の七分の一から八分の一あるといわれます。子供の場合は、さらに頭の重さの割合は増えるのだそうです。淳君の体重は四十二キロと言われており、おそらく、彼の頭部の重さは七キロ近くあるでしょう。痛ましい犠牲となられた淳君の事を思うと、次のようなたとえは適切ではないのですが、たとえば七キロの米をビニール袋に入れて持ち運ぶことを想像してみて下さい。その重さにビニール袋は伸びて破れるにちがいありません。
 それだけではありません。補助カバンというのは、縦四十三センチ、横三十七センチ、幅十センチの大きさの布製で、布地の肌合いは厚地のジーンズ風のものです。蓋は何もありません。そして、その持ち手は短くて、肩にかけられる長さはなく、手でもって提げるしかないのです。
 この補助カバンに調書がいうように、長さ四十七センチ・幅十センチの金ノコを入れるには、斜めに対角線上にしか入れられず、二つに折るといっても角の方を曲げることしかできないのです。そしてこれを腹の中に入れたとしたら、その端は確実に少年の首のあたりまで届いてしまうはずなのです。しかも少年は途中から、補助カバンの中に首と金ノコの双方を入れたというのです。するとカバンは中が丸見えになるくらいにパンパンにふくらんでしまうはずです。ところが少年は、街の中で学校の女の先生に会った(先生の方は気づかなかった)だけでなく、森の中で、一見して淳君捜索とわかる「三名の機動隊と思える人達と会」ったというのです。警察がこのカバンの中を覗きもしなかったのは、不思議というものです。もちろん、この機動隊の証言というものは、どこにも明らかにされてはいないのです。
 ところでさらに、検事調書ではじめて開陳されたこの「木の根の穴」なるものは――ちょっとした窪みならともかく、「穴」といえるようなものは――私たちの調査ではどこにもありません。むろん住民も「見たことがない」といっているのです。
 おおよそこのようなストーリーは、検事が机の上でこしらえた絵空事でしかないということ、もはや明らかなのではないでしょうか。

C、「糸ノコギリ」?


 さて次に、A少年が淳君の頭部を切断した際に用いたとされているノコギリに関して、これが凶器たりえないことについては既に触れましたが、さらにいくつかの矛盾を指摘しておきましょう。
 まず第一に、供述調書によれば、少年は一貫して右のノコギリのことを、「糸ノコギリ」と言っていたことになっています。そして七月十三日付調書ではじめて、「今示された『金ノコギリ』は、向畑ノ池から発見されたというものですが、僕がB君の首を切断するのに使ったノコギリに間違いありません。このノコギリのことを、僕は、これまで糸ノコギリと言って話してきました」などと、検事に教えられて修正したことになっているのです。
 だが、これは、決して少年がノコギリの名称をとり違えていたということではありません。じつに、少年の自白を誘導しつつ調書をでっちあげている検事自身が、糸ノコギリをイメージしつつ物語をこしらえていたのであり、後でそれに気づいて慌てて、あたかも少年が間違えていたかのようにとり繕ったのです。それは、既に述べたように、まさに検事自身が小さな糸ノコギリをイメージしていたからこそ、「補助カバンに入れ」とか「これを腹の中に入れた」とか「首と一緒にカバンに入れた」とかの、非現実的な話を作ってしまったことの中に、あきらかというものです。 第二に、調書によれば、この金ノコとアンテナ基地に付いていた南京錠の二つだけは、「向畑(むこうはた)ノ池」へ捨てたというのですが、その他のもの――すりかえた南京錠のカギ、およびこの錠とワンセットであったもうひとつの南京錠とそのカギについては、これらをいつどこへ捨てたのかは、まったく曖昧になっています。このことは検事が、A少年の自供通りに向畑ノ池から金ノコがみつかったというただこの一点をもって、あたかも「A少年の犯行の裏が取れた」かのように言いなす、そのための布石を打ったこと を意味しているのです。
 そして第三には、この金ノコギリをはじめ、A少年が淳君の殺害と頭部切断の両方に使ったとされている手袋、二つのビニール袋、補助カバン――これら一切のものについて、そのルミノール反応の有無に関しては、警察は今なお黙して語ってはいないのです。

D、A少年にはアリバイがある!(五月二十六日)

 調書によれば、五月二十六日、A少年は再び淳君の頭部を観察するために、入角ノ池へ行ったことになっています。しかし「ほとんど変化のない」ことにがっかりし、この首を、「自分の通っているT中学校が……一番の盲点になる」と思い、そこの正門へ置くことを思いつきます。そして少年は、首を家へ持ち帰って風呂場で洗い、天井裏に隠したというのです。しかしこれは、検事のでっち上げた全く架空のストーリーなのです。
 第一に、調書によれば、「その日僕が入角の池へ行くために家を出てから、最後のBくんの首を天井裏に隠すまでに掛かった時間は、約一時間くらいだったと思います」といっています。だがこれはまず、時間的に可能なのでしょうか?
 いうまでもなく友が丘は、山をきりひらいて造った人工の街で、その周辺には元のままの山の姿が残っています。友が丘西公園から入角ノ池へ行く道は、まさにそういう所で、藪こぎをしながらしかすすめない道です。そして、入角ノ池は、四方を切り立った崖のような山肌に囲まれたすり鉢の底のようなところにあり、ロープを伝わってでなければ昇り降りできないのです。この森の中の道を行くだけで片道約二十分(往復で四十分)はかかるでしょう。しかも少年は池のほとりで五〜六分、首を鑑賞したことになっています。それからまた元の道を引き返し、家へ頭部を持ち帰り、そして約十五分かけて家の風呂場で首を洗って天井裏に隠したというのです。さてこれだけで、すでに一時間を越えてしまうのです。ロープで池に昇り降りする時間も、家から友が丘西公園まで往復する時間も、全くないはずなのです。
 では、なぜこんな無理な作り話をこしらえなければならなかったのでしょうか? それが第二です。実はA少年のお母さんのこんな証言があるのです。
 「五月二十六日はどうでしたか?」という私たちの問いに、お母さんは言われました。
 「私はこの日、淳君の家へ留守番に、電話番に行っていて、家に帰ったのが午後二時でした。するとあの子が二階からパジャマ姿で降りてきたんです。それから少しして、学校のT先生も来てあの子に会いました」。
 お母さんはこのことを警察にも話したと言います。まさにこの証言があるからこそ、検事は、午後二時までにはA少年が全てを完了したことにせざるをえなかったにちがいないのです。
 これらのことは、本当はA少年には、立派なアリバイが存在しているということを意味しているのです。
 さらに、この五月二十六日の供述調書には、おかしなことが一杯あります。これが第三です。
 まず、頭部を家に置けば、家族の人が死臭に気づかないはずはないのです。普通、死者を安置する場合には、耳や鼻の穴に綿で栓をし、口が開かないように枕で固定し、さらにドライアイスで保存します。それでも死臭は漂うので、香を焚くのです。まして淳君の頭部は切断されており、しかも死後三日も経っているのですから、強烈な死臭が漂わないはずはないのです。
 さらに、淳君の血をビニール袋に入れたまま、頭部と一緒に自宅まで持ち帰り、風呂場ですべて流したというのは、いかにも不自然な話です。
 そして、淳君の首を洗うのに使ったタライ、髪をとかしたクシかブラシ、タオル、そして風呂場そのもの――これらから、ルミノール反応は検出されたのでしょうか? これらについてもまた、警察は一切こたえていないのです。

E、「午前三時までに頭部遺棄」の作り話(五月二十七日)


 調書によれば、五月二十七日、少年は「午前一時頃から午前三時頃までの間に、Bくんの首を置きにいった」とされています。しかしこの物語も至るところで破綻しているのです。
 まず第一に、A少年は、首を補助カバンに入れ電気コード二、三本をつないで、二階の窓から庭へおろし、自分は窓から外へ出た、帰りも「やはり家の側にある鉄の柵を利用して、窓から二階の僕の部屋に戻」った、ということになっています。しかしそれははたして可能なのでしょうか?
 A少年のお父さんはこう言っておられます――「あの子は力はないし、そんなに器用じゃないし……」「音がしないでというのは無理です」と。
 実際、私たちも現場を見てみましたが、足場もなくて、昇り降りするのはとても無理だと思われます。まして、一階のご両親、二階の隣室のご兄弟に気づかれることもなく、というのは、とうてい不可能というものでしょう。
 第二に、A少年は、学校の正門へママチャリで行くと、まず塀の上に頭部を置いたが下に落ちてしまったので、次に門の中央付近に置いた、とされています。しかし、淳君の頭部は五時三〇分にはプレートの下に、六時三〇分には向かって左の端のように、そして六時四〇分には中央にと、五時以降何回も移動させられていたことは、私たちが現地調査にもとづいて指摘してきたとおりです。
 五時三〇分には首はプレートの下にあったことを、あるおばあさんは家族の同席のものではっきりと、その様子とともに、私たちに証言してくれたのです。また、六時三〇分に正門の左の端の方で見たことを、毎日新聞の配達員の方が証言してくれたのですが、この場所に血痕が歴然と残っていたことは、当時のTVのビデオもくっきりと映しているのです。そして、五時一〇分には「首はなかった」ことを、神戸新聞の配達員が証言していたのです。
 調書では、この神戸新聞配達員の「五時一〇分には首はなかった」という証言について、検事がわざわざ質問を発し、これに対して少年が、「単なる思い違いです。僕の親は、午前五時頃には台所にいるので……少なくとも午前三時頃まででなければ、親に知られずに行動することは出来ないのです」などと”供述”したことになっています。
 だがこれこそは、検事が、いかにして誘導尋問をおこない、「供述調書」をでっち上げていくのかを、はからずも露呈させたものというべきでしょう。もしも本当に少年が首を正門に置いたのであれば、「自分の親は五時には台所にいるので、午前三時までに全てを済まそうと考え、午前一時に行動を起こすことを決意し、実行した」というように、主体的に現実を再生産するはずなのです。「三時頃まででなければ……出来ないから……目撃者の証言は単なる思いちがいです」などとわざわざ“理屈”を並べて目撃証言を否定する必要は、さらさらないはずなのです。
 これは明らかに、頭部を置いた時刻について、当初は五時〜六時説で話をとおそうと考えていた警察が、おそらくはご両親の証言などを聞いてこれを断念し、後に一時〜三時説に強引に切りかえざるをなかったことを示すものに、ちがいないのです。ちなみに警察は、その後神戸新聞の配達員の方に、「見なかった」ではなく「気づかなかったにしてくれ」と、わざわざ調書を取り直しに来たということです。
 

F、少年には「怨」の字が書けない!
   だが「第二声明は一時間三〇分で書いた」!


最後に、犯行声明についてのでたらめを暴露しましょう。
 まず、第一に、第一犯行声明について。調書には「五月二十六日の夜、僕の部屋で一気に書きました」「僕が書いた文章については……僕が書いたとおりに再現することができます」という供述が出てきます。ところがつづいて、「積年の大怨」という一句について、「今書いた文章だと『恐』という字を書きましたが、僕自身、この時はそのマンガの本を見ながら書いたものであり、僕が覚えていた字ではなかったので間違っているかもしれません」などと、わざわざ“釈明”が入っているのです。このことは一体何を意味するのでしょうか? A少年は――直観像素質者とされているにもかかわらず――警察が実物を見せて何度も何度も第一犯行声明を「再現」させようとしてみても、「怨」という字が書けずに「恐」になってしまったにちがいありません。そこで検事は、こういう”弁解”を、調書に記さざるをえなかったにちがいないのです。
 じっさいご両親も、「あの子は絵は上手だが、国語は大の苦手で、漢字がよく書けない」と言っておられます。今回の『文藝春秋』では、付属資料の一切が掲載から省かれていますが、もしもそれを公にしたら、――かの家裁決定第四項目にも示されたように――A少年と犯行声明の実際の作者との筆跡のちがいが歴然となるにちがいないのです。
 第二に、神戸新聞社に宛てた第二犯行声明について。調書は、「まず僕は、ノートに粗筋みたいな文章を書きだし、その文章の順番を並べ替えたりしながら書いていきました」「手紙を書くのに要した時間は一時間三〇分位かかったと思います」などと言っています。
 だが、これこそはまさに、供述調書なるものが、でたらめな検事の作文であることを、検事の低能ぶりとともに、見事に示したものではないでしょうか?
 あの第二声明に示される高い思弁力、論理的思考力および表現力が理解できないだけでなく、「物事に集中しない」A少年ならずとも、あの声明を書きあげるのにどれ程の時間を要するものかさえわからないヘボ検事の作文!「語るに落つ」とはこのことなのです。「……あたかも僕の他に犯人がいるとして、その犯人像を、僕がイメージして、僕が今まで持っている僕の知識を駆使して、僕がイメージしている犯人像に僕自身がなりきって、手紙を書くことにしたのです。したがって、僕が書いた手紙の内容は、あくまでも僕がイメージした犯人像が持っている動機を書いたものであり、いわば僕の作文であって……」などと、「僕」「僕」とシャックリのようにくり返しつつ、検事が必死になって調書を書いているのは、まさに何をかいわんや、というものでしょう。
 しかも「僕が、はっきり別のものから取ったと覚えているのは、『吊るされる』という言葉でした」「僕が、漢字を知らなくて、辞書を引いて書いた漢字については覚えています。『愚弄』『追跡』『銜えさせた』『滲んで』でした」と。だが、声明に刻まれた誤字の全てがアップル社製のワープロの文字と奇妙に符合している事実は、全くの偶然とでもいうのでしょうか。
 さらにこの第二犯行声明の投函場所について、「僕は、神戸西区では投函しなかったので、神戸西郵便局管内から投函されたと言っているマスコミは嘘だと思いました」などと、ここでもまた”理屈”を並べてマスコミ報道を打ち消しています。まさにこれこそは、歴然とした物証も目撃者も存在しているにもかかわらず、A少年の「自供」によって強引にそれらを抹殺するためにする、検事の下手な作文の典型なのです。
 そして第三には、この第一、第二犯行声明の作成にまつわる全ての物証が、うやむやにされていることです。「積年の大怨」という句をとったマンガ本『バ羅門の家族・第三巻』は「後で燃やしたと思います」。第二声明を書くにあたって「粗筋みたいな文章を書いたノート」も、第一、第二犯行声明に使用した「スケッチブック」も、「後で燃やしたと思います」! いったいこの無能な検事は、本もノートもとても燃えにくいもので、それを燃やせば記憶に鮮明に残らないはずがないということを、全く知らないのでしょうか。
 なおつけ加えれば、第四には、調書は、かの第三挑戦状といわれている「懲役13年」については、一言もふれてはいません。この作文は、A少年を逮捕する前から警察が入手していたはずなのに、なぜこれについては言及しないのでしょうか?
 昨年九月二十六日に突如として発表されたこの作文は、自己の内なる深淵に住み込んだ虚無を魔物に見たて、この魔物に自分がどのように操られているか、しかもこの自分が周りの人々に対してはどのように振る舞っているのかを、実に深く省察し、見事な文学的表現をもって表しています。自己の内面世界をここまで鮮烈に対象化できる人物が「分裂病あるいはその前段階」などではありえないことは、明かです。ニイチェの『善悪の彼岸』やダンテの『神曲』の中の言葉を巧みにちりばめつつ、人間実存の深みを哲学し能動的ニヒリズムの構造をかくも見事に表現したこの歴史的文書が、はたして十四歳の少年に書けるでしょうか?
 しかもこの「懲役13年」は、いわゆる「犯行メモ」に出てくる「バモイドオキ神様へ」という手紙形式の文章とは――たとえ「犯行メモ」が本当にA少年の書いたものだと仮定してみても――、筆者のメンタリティがまったく異なっています。「バモイドオキ神」の方は偶像崇拝です。しかし、ニヒリズムは決して偶像崇拝したりはしません。精神性の違い、思想の違いは、隠しようがないのです。
 さらに「懲役13年」というタイトルがまた、実に不思議なものです。というのは、少年院に「犯罪少年」を収容できる期間は、神戸事件が発生するまでは、「最長三年間」でした。ところが、昨年九月八日になって、法務省矯正局はこの期間を延長し、「最長二十六歳まで収容できる」とする新通達をだしたのです。A少年がこの作文をつくったのは、昨年四月上旬、十四歳の時だといわれています。すると、二十六歳まででちょうど十三年間になります。つまり、法務省がまさに神戸事件への対応のために新たに下した決定を、ぴたりと予言したことになるのです。これは「偶然の一致」ではたして済まされるのでしょうか?
 検事が、この「懲役13年」について(A少年の自筆のものはむろん存在しません)ひとことも触れていないのは、この名文の作者がA少年ではないことを、自認したに等しいのではないでしょうか?
 ちなみにご両親は、この文章についてこう言っておられます。「あの子には書けません。あの子は文章を書けないんです」と。
 

G、深まる三月事件の疑惑


 ところで、三月事件についても、調書には数々の矛盾があり疑惑はいよいよ深まるばかりです。
 まず第一に、犯行の様子について、調書は「右手が丁度僕の右耳付近にくる位まで僕のハンマーを振りあげて……」と書いています。ハンマー=八角玄翁(金ヅチ)を、右耳あたりの高さからふりおろすことによって、はたして横に長い頭蓋骨の割れかたになるものでしょうか。実際、遺体を鑑定した龍野教授も当初は「凶器はバットで・後ろから」という説をとっていたのであり、警察に強引に押しこまれて「ハンマー=八角玄翁」にかえたのです。
 第二には、いわゆる「犯行メモ」についてです。メモの日付=3・23が間違っていること――三月二十三日の朝は、彩花ちゃんはまだ死んでいなかったにもかかわらず、A少年と母のやりとりは、彩花ちゃんが死亡してからのそれになっていること――について、調書はこう“弁解”しているのです。「てっきり思いこんでいたので、そのような日付になっている」と。だが、「ひどく疲れていたようなので……」などという時制のずれた表現にもその一端が露出しているように、後からつくった作文だからこそ、日付を間違えてしまったと考えられるのです。
 しかも第三に、このメモは、そもそも本当に警察がA少年の自室で発見し、押収したものといえるのでしょうか?
 お父さんはこう言いました――「家宅捜索の時、警察が、『こんなのがありましたから、確認しますよ』と持ってきて、指をさして、写真をとった。この時ノートはどこから持ってきたかは分からない。『ありましたから』と持ってきた。私は今まで見たことがない。あの卍に羽のついたマークがあったので、頭が真っ白になった」と。
 調書を読むと、三月事件についての疑惑も、いよいよふかまるばかりなのです。

 

三、広がる真相究明の声を今こそ国民的世論に!


 これまで、七通の検事調書をつぶさに検討してきました。ここでその特徴を、もう一度列挙しておきましょう。
 まず第一に、調書では、タンク山での淳君殺害の場面ならびに頭部切断後に淳君と少年が会話する場面、この二つの場面だけが、いかにも”リアリズム風”を装って描かれています。しかしそれは、下手な三文小説以下の作文でしかありません。むしろそこには、神戸事件を「少年Aというサイコパスによる猟奇殺人事件」に仕立てあげようとする検事のどす黒い意図がみえみえになっているのです。
 第二に、調書では、右の二つの場面については記憶鮮明(?)である少年が、もしも本当に犯人なら忘れるはずのない物証にまつわる話になると、途端に一転してすべて「よく覚えていない」というようになっています。確かなことは、「ノコギリは向畑ノ池へ捨てた」ということだけ。これは「少年の自供通りに凶器が池から見つかった」というこのことだけをもって、「少年の犯行が裏付けられた」ことにするという検事の悪辣な意図にもとづいて、この供述調書が作られたことを、逆に示すものといわなければなりません。そしてもちろん、かのマスコミのカメラの放列の中での「凶器発見」劇が、警察の自作自演のショウにすぎないことをも、それは逆証しているのです。
 第三に、調書によれば、淳君殺害も頭部切断も頭部遺棄もすべて、A少年の「思いつきの連鎖」となっています。それにもかかわらず、ご家族の方が後になっても「全く思い当たるところがない」ほどに身内にも誰にも気づかれることなく、あたかも「完全犯罪」であるかのように、「犯行」は遂行されてゆくのです。この「あまりにもうますぎる話」は、しかし、逆に、「A少年による犯行」物語が、検事の後から作った作り話だからであることを示しているといわなければならないのです。
 第四に、しかし検事の作文は、所詮、机上の絵空事。この検事は、たとえば、一時間も格闘したらどれほど疲れるものかとか、重さ七キロの頭部をビニール袋に入れて長時間持ち歩けばどうなるかとか、死後三日間経った遺体の死臭はどんなものかとか、というようなことには、全く頓着しないままに、この調書をでっちあげたにちがいありません。本当の自供には、第三者にはさして意味がないが本人には鮮明に記憶されていること細かな事実というものが、いくつも出てくるものでしょうが、この調書には、そういうものが何一つないのです。
 第五に、この調書には、マスコミで報道されたことや目撃者の証言を、「A少年の供述」という形をとって必死に否定している箇所が、随所に出てきます。しかもそれらが「嘘」であることを、「犯行の事実=現実」によってでなく「理屈」によって”論証”しようと躍起になっているのです。たとえば「正門に首を置いたのは五時以降というのは、五時には台所に立つ母に見つかるので僕には不可能だから、それは嘘です」といった類のものが、その典型です。しかしこれこそはまさに、検事がA少年のご家族や付近の人々の証言から得たさまざまの情報を参考にし、そこから「A少年がやった」ことにしうる時間帯を見つけ出しつつ、「A少年の犯行」物語を作っていったこと、このことの証左なのです。友が丘中学校正門前での頭部の目撃情報や「第二犯行声明」の目撃情報などが、ひとつ残らず抹殺されてしまったことが、このことを雄弁に物語っているのです。
 検事調書は、まさにA少年を神戸事件の犯人に仕立てあげるために検事がでっち上げた、みえすいた作文であることは、もはや明らかでしょう。 私たちは、この検事調書の虚構をあばきだし、神戸事件の真相究明を求める私たちの声をさらに広げ、今こそ国民的世論の大きなうねりへと高めていかなければなりません。
 「A少年の供述調書」なるものの虚構をつき崩し、真実を闇から引きずり出すその日まで、みなさん、ともに頑張りましょう。を医療少年院の高い塀の中に閉じこめようとも、たとえアンテナ基地や中学校正門などの「事件現場」を改造して証拠の隠滅をはかろうとも、この真実を闇に葬ることは誰にもできない、と。


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