アルメニア・アゼルバイジャン紛争における航空隊

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 紛争は、80年代末、アゼルバイジャンの構成に入っていたが、アルメニア人が優勢なナゴルノ・カラバフ領域で始まったが、アゼルバイジャン人もかなり多く居住していた。アルメニア側の目的は、ナゴルノ・カラバフのアルメニアへの併合又は独立国家の創設であり、アゼルバイジャン側は、共和国の領土保全のために戦った。

 徐々に、紛争は先鋭化し、重装備が使用され始めた。当初、これは、民間機関により雹対策、今や敵の居住区の射撃用に使用された旧式の高射機関砲だった。

 紛争の鎮圧に参加したソビエト軍及びMVD国内軍の部隊も、砲兵及び装甲車両を含む装備の源泉となった。同期間、カラバフでは、ソビエト軍、国内軍及び国境軍のMi-8、Mi-6及びMi-24ヘリが広く使用された。航空隊の主任務は、軍事縦隊の護衛及び不法武装部隊に対する打撃、後に戦闘員により包囲されたアルメニア部隊の必需品による保障であった。ソビエト軍と国内軍は、ソ連崩壊に至るまで、明らかに反アルメニア的立場を占めた。

 1990年1月、バクーにおいて、アルメニア人虐殺と共産権力の武装交代の試みが始まった。数日後、ソビエト軍は、戦闘員の抵抗を撃破して、市内に入った。援護は、陸軍航空隊が実施した。ギャンジェ近郊で、1機のMi-24が、雹雲消散用砲の射撃により撃墜された。

 バクーでのアルメニア人虐殺は、アゼルバイジャンからのアルメニア人(37万人)と、アルメニアからのアゼルバイジャン人の(13万5千人)の集団流出、両国の一種の「民族浄化」の原因となった。例外となたのは、間もなく激しい戦闘行動の舞台に変わったナゴルノ・カラバフとシャウミャノフ地区だった。

 カラバフで行動していた主要戦力は、当初、軍人が支援及び保障した1万人のアゼルバイジャンOMON(ちなみに、ロシア人が80%を構成した。)だった。OMONは、アルメニアの交通路を完全に封鎖し、並びにアルメニア人の文書の一斉検査、逮捕及び追放等、アルメニア人村落に対する作戦を行った。この段階の戦闘においては、アゼルバイジャンの民用Mi-8も広く使用された。例えば、1990年1月20日、マリベリ村地区に、15便のヘリで、OMON支隊が輸送された。類似の便は、シュシュ、ホジャルイ及びゲルヴェントでも実行された。

 この際、当局は、事実上同じ戦闘員だったアゼルバイジャン・ナゴルノ戦線の戦闘グループの存在を完全に無視した。

 カラバフのアルメニア人がアルメニアとの地上連絡を有していなかったため、そこへの食料、医薬品、武器、弾薬及び義勇兵の運搬、並びに負傷者及び難民の救出の唯一の手段は、アルメニアの民間航空隊だった。しかしながら、総じて、バクーの合法政権を「尊重」し、アルメニア人分離主義者と戦ったステパナケルトに駐屯するソ連国内軍は、滑走路の直ぐ側まで装甲車両を進出させ、そのような便を突然制限しようと試みた。エレバンの抗議後、これらの制限は、モスクワの命令により解除され、後に 全てが再び繰り返された。1990年4月、マルダケルトの住民は、外界との連絡維持のために、An-2が着陸できる無舗装滑走路を建設した。しかしながら、5月21日、アゼルバイジャン人労働者は、ソビエト軍の警備の下、滑走路を鋤き起こし、設備を破壊した。アルメニア人居住区の状態は、狙撃兵の射撃と武装攻撃のために農耕を行うことが不可能だったため、何よりも、食糧不足により危機的になりつつあった。

 唯一の運搬手段は、航空隊だった。アルメニアの民間航空隊は、An-2、Mi-8及びYak-40を運用した。少なくとも1機のAn-2が敵の地上火力により撃墜されたことが確認された。人道作戦には、アルメニアのヘリも参加した。1990年8月1日、ラチン地区のファラジュ村の側で、エレバン-ステパナケルト便を遂行していたアルメニアのYak-40が事故で失われた。

 乗客39人と搭乗員4人が死亡した。調査は、ソ連国家航空監督局がアゼルバイジャン代表と協力して行い、「ブラック・ボックス」がモスクワに送られ、公式結論によれば、「機体は、視界の悪条件下での方向喪失により墜落した」と表明した。しかしながら、アルメニア側は、8月6日に発見されたか、破壊された「ブラック・ボックス」が機体の破片周辺に転がっていたと主張し、調査の客観性が疑われた。

 9月18日、Mi-24戦闘ヘリは、アルメニアのアスケラン地区のノラギュフ、メフチシェン及びベルカドゾル村において目標を攻撃した。ヘリがソビエト軍に所属し、アルメニア兵の火点を制圧する目的を有していたのは明らかである。戦闘員に損害が出たかは明らかではないが、ノラギュフでは、女性1人が死亡し、更に7人が負傷した。

 1990年9月23日、アゼルバイジャンOMON部隊は、マルダケルト地区のチャパル村の突入に着手した。火器、擲弾筒及び迫撃砲の外、攻撃者は、民用ヘリを使用し、手榴弾を村に投下した。戦闘中、アルメニア側からは、6人が死亡した。

 9月25日、2機の民間ヘリが、ステパナケルト、並びにショシュ及びカリン村を「爆撃」した。つまり、10月14日、民用Mi-8が、アルメニアのカラチナル村に着陸した。現地住民は、これが貨物を運んできたアルメニアのヘリだと判断して、着陸現場に移動し、搭乗していたアゼルバイジャンOMONの射撃を受けた。2人が死亡し、7人が負傷した。

 1991年4月30日、OMONは、アゼルバイジャン領内のアルメニア人の事実上最後の村、ゲタシェンとマルトゥナシェンの襲撃を行った。集結したソビエト軍は、村を封鎖し、その後、7両の戦車と軍のヘリが、2時間、彼らを射撃した。これに引き続き、OMONが攻撃に入り、村に突入した。アルメニア人15人が死亡し、45人が逮捕され、男性住民は、バスでアルメニアに運び出され、女性と子供は、数ヵ月後、アルメニアのヘリでステパナケルトに搬送された。

 1991年5月13日から6月末まで、ナゴルノ・カラバフにおいて、アゼルバイジャン内務省(ソ連MVD国内軍とソ連軍の積極的な支援の下)は、「リング」作戦を行った。「パスポート体制の検査」を口実に、一連の軍事作戦が行われ、その結果、カラバフの24ヶ所のアルメニア人村の完全追放が行われた。

 「リング」作戦中、軍用ヘリは、一風変わった強襲着陸作戦に広く使用された。特に、1991年5月15日朝11時頃、アルメニアのスピタカシェン及びアルパギャドゥク村(ガドルト地区)地区において、ジェブライルから20分 間隔で2回の強襲を実行したソ連国内軍のMi-8ヘリから、「パスポート体制の検査」のために、アゼルバイジャンOMONの降下部隊が着陸した。事実上、市民が従順に署名した次なる「市民の常住地の自発的離脱」行為が行われた。これに引き続き、勿論、全くの偶然だが、火災が発生し、スピタカシェンは全焼した。

 国の混乱の条件下において、紛争地帯に駐屯するアルメニア部隊は、徐々に状況に対する支配を失った。しばしば、敵対両者の攻撃及び射撃に曝され、しばしば、報復射撃を行っていた以上なおさらである。戦闘員の火点の制圧のために、戦闘ヘリも使用され、少なくとも、1991年7〜8月のアルメニア陣地に対するMi-24の打撃に関する報道が存在し、その上、7月20日、シャウミャノフ地区のブズルク村近くのアルメニア兵の攻撃の際、3機のMi-24が損傷し、1人の飛行操作員が負傷した。

 1991年8月、ソビエト連邦は、「事実上」、その存在を停止し、1991年9月2日、ナゴルノ・カラバフは、アルメニアだけが承認した独立国家の建国を宣言した。ソ連崩壊のおかげで、アルメニアとアゼルバイジャンは、崩壊したソビエト軍から奪取された兵器だけではなく、公式に両国に譲渡されたものによっても、その武器庫を満たした。

 1992年1月28日、アゼルバイジャンの航空会社「アザル」の民用Mi-8が、30〜40人を機上に乗せつつ、アグダムからアルメニア人により封鎖されたカラバフのシュシュ市への飛行を実行した。着地場への接近の際、ヘリは携帯式高射ミサイル複合体により損傷し、住宅アパートから離れて墜落した。搭乗者全員が死亡した。

 1992年初め、アゼルバイジャンは、サンガチャルイ飛行場のMi-24飛行隊(14機)とMi-8飛行隊(9機)を、アルメニアは、エレバン近郊に駐屯していた第7親衛ヘリ連隊の編成下に入っていたMi-24×13機から成る飛行隊を手に入れた。1992年2月19日、戦場上空に、アゼルバイジャンのMi-24が初めて現れ、カラガルイ村側のアルメニア陣地に対して打撃を行った。ヘリは、契約勤務でアゼルバイジャン軍に移った元ソビエト飛行士が操縦し、敵の装甲車両及び火点に対してかなり上手く行動した。3月、アルメニア人は、2機のMi-24を撃墜できたと表明した。

 間もなく、最初の空中戦も記録された。1992年3月3日、Mi-24戦闘ヘリが護衛するロシアのMi-26軍用輸送ヘリは、アルメニア人の村ギュリスタンに 20tの小麦粉を運搬し、そこから、女性、子供及び負傷者を搬出した。アルメニアに到達する前に、Mi-26は、アゼルバイジャンの迷彩塗装のMi-8の攻撃を受けた。しかしながら、この攻撃は、Mi-24護衛ヘリにより挫折した。それにも拘らず、飛行は、悲劇的に終わった。地上から発射された携帯式高射ミサイル複合体のミサイルがMi-26を撃破し、ヘリは火災を発生し、アゼルバイジャンのセイディリャル村辺りに墜落した。搭乗していた50人の内、12人が死亡した。ステパナケルト(カラバフの首都)には、アルメニア人住民と同様に、アゼルバイジャン側から常に射撃に曝されていたため、非常に早期にアルメニア人側で戦闘に引き込まれた第366自動車化狙撃連隊が駐屯していた。その外、連隊は、カラバフ軍にとって、事実上、唯一の重装備の源泉となった。

 1992年の最初の4ヶ月間に渡り、アゼルバイジャン人は、第4諸兵科連合軍から戦車×14両、BMP×96両、BTR及びBRDM×40両以上、BM-21「グラード」ロケット発射機×4基を奪取し、この装備は、搭乗員と班の編成後直ちに戦線に現れ、重大な火力優勢を創出した。アルメニア人も、一定の戦利品を得たが、カラバフに戦闘機材を輸送することは不可能だった。ロシアの司令部は、ステパナケルトから第366連隊を装備と共に撤収する決定を採択したが、この決定は、全装備の奪取を見込んでいたカラバフ当局の公然たる抵抗に遭った。1992年2月27日から3月7日まで、アルメニア人により封鎖された第366連隊の救出に関する作戦が成功し、輸送ヘリMi-6、Mi-26及び戦闘ヘリMi-24のアルメニア航空隊が広く使用された。この期間、1機のMi-24が地上火力により撃墜され、不時着を行った。

 1992年4月8日、アゼルバイジャン航空隊は、最初の軍用機、第80独立攻撃航空連隊が駐屯していたシタル・チャイ飛行場から、ワギフ・バフチヤル-オグルイ・クルバノフ上級中尉(アゼルバイジャン国籍、1967年生まれ、ボリソグレブ飛行士学校の卒業生)により強奪されたSu-25攻撃機を受領した。飛行機技師マメドフ中尉と航空整備士クリエフ准尉の2人の同胞の援助の下、パイロットは、攻撃機の飛行準備を行い、エヴラフ民間飛行場に移動し、数ヵ月後、そこから、ソーティーを実行し始めた。

 ロシア国防省は、グルジアのワジアニ飛行場に駐屯していた第982戦闘航空連隊にも脱走機を撃墜する命令が下達されたと伝え、1992年4月、アゼルバイジャンの攻撃機の迎撃用に、2機のMiG-23を常時準備待機させたが、迎撃の何らかの実際の試みがあったかは明らかではなく、少なくとも、5月8日から、Su-25は、定期的にカラバフを爆撃した。

 主な標的となったのは、ステパナケルトと近隣の村だが、これらの空襲の効果は、様々であった。打撃により、居住区と平和的住民が被災すると同時に、アルメニア部隊は、事実上、損害を受けなかった。クルバノフのSu-25の2日間(1992年5月8日と9日)の空襲に渡り、アルメニア人住民は、死者30人と負傷者120人を出した。1992年5月8日、カラバフのアルメニア人は、アゼルバイジャンのシュシャ市に対して攻勢を開始した。ステパナケルト市から11kmに存在する周辺の村も、アゼルバイジャン人にとって戦略的に重要であり、高射砲、「アラザニ」及びBM-21「グラード」 を使用して、ステパナケルトを効果的に射撃することを可能にした。後者の射撃は、アルメニア人に非常に大きな損害を与えた。シュシュ突入は、急速であり、市内において、攻撃者は、「グラード」のロケット弾その他の弾薬の倉庫と化していたアルメニアの教会に到達した。アゼルバイジャンの打撃の主要兵器は、通常の爆弾だった。1度だけ、シュシュにおいて、クルバノフがSu-25でミサイルを使用しようと試みたことがあった。パイロットは、ミサイルで特に教会を破壊しようと試みた。構想によれば、このことは、弾薬の誘爆及び飛散を引き起こすはずだった。アルメニア筋は、打撃の結果について伝えておらず、恐らく、しくじったようである。ちなみに、第80独立攻撃航空連隊長は、ワギフ・クルバノフの職業的熟練度を非常に月並みなものと評した。

 同日5月8日、4機のアゼルバイジャンのMi-24が、ロケット弾でステパナケルトを射撃した。2機のヘリが、ミュリシェン、アヴドゥル、クラースヌイ・バザール及びノルシェン村(マルトゥニン地区)を攻撃した。

 想像だが、特にクルバノフのSu-25は、アレクサンドル・ゴルチャコフ少佐が操縦するロシアの軍用ヘリをミサイルで攻撃した。この将校によれば、彼のヘリは、雲の上を飛び、空中の敵しか彼を攻撃できなかったことを疑っていない。

 5月9日、アゼルバイジャンの戦闘ヘリは、ショシュ村を攻撃し、攻撃機は、ステパナケルトから負傷者を搬出していたアルメニアのYak-40を迎撃し、撃墜した。Yak-40の搭乗員は、火災を起こした機体を不時着させ、乗客を助けることができた。機体は、除籍されたものと予想すべきである。5月の戦闘は、両者にとって決定的な意義を有した。5月、アゼルバイジャン航空隊は、非常に活発に行動した。カラバフの居住区に対する多数の空襲が知られている。例えば、5月10日、4機のヘリが、ステパナケルトとその空港を攻撃し、アスケラン並びにガロフ及びクラスニ村もヘリからの射撃に曝され、これらの村に対しては、Su-25も「働いた」。翌日、5月11日、アゼルバイジャンのヘリは、アスケランを再び打撃した外、アルメニアのダグラズ及びアグブラグ村に到達した。この日のクルバノフの標的は、マルトゥニ市だった。

 5月12日、Su-25が、アスケラン地区のショシュ及びフラモルト、並びにヴェリンシェン及びアイ・パリス村を爆撃した。シャミャノフ地区において、ヘリは、ダグラフ村を攻撃した。攻勢を展開しつつ、アルメニア人は、ラチン市に進出し、5月18日、突撃でそれを奪取し、封鎖を破り、アルメニアとナゴルノ・カラバフを結ぶいわゆる「ラチン回廊」を創設した。この戦略的成功は、カラバフの都市及び村落に対するアゼルバイジャン航空隊の新たな波状打撃を引き起こし、同日、Su-25は、4度、マルトゥニ市を爆撃した。クルバノフの行動は、同市に対して打撃を行ったヘリも支援した。

 5月19日、ヘリは、マルダケルト地区のマラチ・チャイル村を、一方、攻撃機は、マルトゥニ地区のアテルク及びザグリを射撃した。

 翌日、4機のMi-24が、シャウミャノフ地区で襲撃を実行し、その標的は、ブズルク、エルケジ及びマナシドだった。「スホーイ」は、5月25日にマルトゥニを、26日にブズルクを絨毯爆撃した。同日、4機のMi-24がシャウミャノフ地区に再び現れ、マナシド及びベリーションを襲撃した。

 1992年5月のアゼルバイジャン航空隊の使用は、興味深い特徴を現した。Mi-24は、都市及び村落に対する打撃に使用されただけではなく、自軍に効果的な支援も提供したが、経験豊富な飛行士が操縦していた以上なおさらである(周知の通り、ソビエトのヘリ飛行士の大部分は、アフガニスタンを経験した。)。当時、部隊の火力支援にも素晴らしく適応したSu-25攻撃機は、都市と村落の「戦略爆撃機」としてのみ従事した。軍用機の使用は、戦争全期間において典型的だったが、恐らく、カラバフ国防軍の士気及び戦闘潜在力の破壊を主目的として有したが、アルメニア人住民にカラバフを捨てさせるほどではなかったようである。ちなみに、結局遂行できなかったこの任務は、民間施設に対して打撃を絶えず加えたアゼルバイジャンの火砲及びロケット砲兵が有した。

 5月、第4諸兵科連合軍の装備のアゼルバイジャンへの公式引渡(1992年6月22日付ロシア国防省令第314号(3)022に従い、計戦車×237両、戦闘装甲車両×325両、BMP及びBTR×204両、並びに「グラード」を含む火砲×170門がアゼルバイジャンに引き渡された。)が始まった外、軍事要員の切迫した不足は、旧ソビエト軍の将校及び准尉約300人のアゼルバイジャン軍勤務への移行により若干軽減された。戦闘能力のあるアゼルバイジャンOMONは、チェチェン、カザフスタンからの義勇兵、ウクライナ人、並びにアゼルバイジャン人、「ソビエト人」及びトルコ人将校により即席で教育された多数の召集兵により増強された。

 一方、アルメニアは、1992年6月1日までに、戦車×54両、BMP及びBTR×40両、並びに火砲×50門を受領した。ラチン回廊の奪取は、これまで第366連隊及びアゼルバイジャンOMONから奪取された数量の戦闘車両、並びに2両の手製の装甲車しか有していなかったカラバフに、この機材を輸送することを可能にした。

 5月の戦闘において、アゼルバイジャン軍は、しばしば無知な運用のため、装甲車両の半分以上を失った(主として、旧ソビエト軍の守備隊から奪取されたもの)が、カラバフのアルメニア人は、悪くない戦利品を鹵獲し、ラチン回廊から援助を受け取った。6月12日、アゼルバイジャン軍は、攻勢転移した。6月、3機のアルメニアのMi-24戦闘ヘリがアゼルバイジャンのクバトリン地区に侵入し、アゼルバイジャン軍を射撃したという報道が現れた。アルメニアの2機のヘリが、撃墜され、アゼルバイジャン領土に不時着し、その搭乗員は、捕虜となった。1992年6月13日、アゼルバイジャン空軍は、大損害を負った。ワギフ・クルバノフが撃墜され、戦死したのである。テレビ放送は、破片を放映し、その中には、アゼルバイジャン国旗を付けたSu-25の特徴的な垂直尾翼があった。クルバノフによるアルメニア人居住区爆撃は、ありのままに評価された。死後、飛行士は、アゼルバイジャンの最高勲章、「アゼルバイジャン国家英雄」の称号が授与された。

 それと共に、特にこの期間、アゼルバイジャンの航空隊は、その戦闘力を急激に向上させた。共和国領土には、シタル・チャエの第80独立攻撃航空連隊(Su-25)、ナソースヌイの防空軍第82戦闘航空連隊(MiG-25PDS)、ユルダミルの第976爆撃航空連隊(Su-24)及びダリャルの第882偵察航空連隊(MiG-25RB及びSu-24MR)の空軍及び防空軍の4個航空連隊が駐屯していた。ソ連崩壊後、これら全ては、ロシアの管轄下に移管されたが、武器を必要としたアゼルバイジャンは、ロシア守備隊への圧力を急激に強化した。要請、説得、買収、最後通牒、ロシア人将校の家族の人質略取、武装攻撃 の全てが使われた。これらの条件下において、1992年6月9〜10日に行われたロシアへの航空機の脱出が始まった。機体の大部分は、搬出に成功したが、しばしば買収されたロシア人将校のサボタージュにより、主として非飛行状態で、若干機がアゼルバイジャン人の手にも渡った。

 ナソースヌイの防空飛行場において、MiG-25PD迎撃機若干機(恐らく、30機以下)が奪取された。ここで少なからない役割を演じたのは、少し後に将軍かつアゼルバイジャン空軍司令官となったウラジーミル・クラフツォフ大佐だった可能性がある。

 ダリャルの偵察航空連隊副連隊長アレクサンドル・プレシュ中佐も同様に振舞い、恐らく、特に意図されていたロシアへの飛行機の脱出についてアゼルバイジャン人に伝え、後に、アゼルバイジャン空軍で飛行大隊長の地位を得た 。何れにせよ、6月9日、飛行場領域に、アゼルバイジャン兵が侵入し、滑走路を封鎖し、8機のMiG-25RBの翼を取り外し、そのタイヤを切り刻んだ。この飛行場において、アゼルバイジャン人は、計16機のMiG-25RB及びSu-24MR偵察機 を奪取した。その外、戦利品の中には、撤収の保障のために派遣されたIl-76もあったという情報がある。残念なことに、アゼルバイジャン空軍における同機の存在に関する西側の情報は確認されていない。

 Su-24MR偵察機は、爆撃用のいかなる照準設備に有していないが、アゼルバイジャンには、実際、MiG-25を専門とする航空機修理工場が存在した以上、アゼルバイジャン人は、原則上、爆弾架及びロケット弾架を設置することができた。当該場合、「目分量」で標的を攻撃することができ、都市に対してはしくじりようがない以上なおさらである。MiG-25RBとその改良型は、大型固定目標に対する打撃、並びに写真及びレーダー偵察の実施を目的とした。MiG-25RB偵察・攻撃機を描写するに当たって、しばしば故障し、熟練した整備と予備部品を必要とする複雑な照準複合体の使用なしでも、攻撃が行われたと言及された。ここで、MiG-25PD迎撃機 がR-60熱線空対空ミサイルでアルメニアの戦車を勇ましく破壊したという主張には、不信の態度を取るべきである。余り良くない下方視界を有する高速、機動性のない迎撃機のパイロットが、山中で単独の戦車及びBMPを探し出し、急降下して、攻撃に出たことを想像するのは非常に難しく、この際、一般に、R-60ミサイルの自動誘導弾頭が動作中の戦車のエンジンの熱放射を捕捉できるのかは知られていない。もし、エンジンが冷えていれば?そして、重量3.5kgの破片(!)弾頭は、戦車戦闘用の最良の手段ではない。このようにして、「MiG-25PD戦車戦闘機」に関する噂は、少し誇張された公算が大きい。これらの情報は誇張された公算が大きく、アゼルバイジャンには、クルバノフにより奪取された1機のSu-25しかなかった。それにも拘らず、アルメニア人は、1992年8月末 までに、3機のSu-25を撃墜したと主張している。機数については、疑いはない。アゼルバイジャンは、アルメニア兵が6〜7月に2機、8月20日にもう1機(一般に、これは、ユーリー・ベリチェンコのMiG-25である。)を撃墜したことを認めた。アゼルバイジャン人クルバノフを含む最初の2機のパイロットは戦死した。

 1992年7月19日、アルメニア人は、敵の攻撃部隊に対して逆襲を行い、アゼルバイジャン人により占領された領土の一部を奪還した。悪天候にも拘らず、アゼルバイジャンの航空隊は、アルメニアの縦隊、本部及び砲兵陣地に対して活発に打撃を行った。ロシア人傭兵であるZU-23-2指揮官の情報によれば、日没時、彼は、据え付けられたD-30榴弾砲中隊を破壊しようと試みた低空飛行するアゼルバイジャンの2機の「Su-24」の内1機を機関砲の射撃で自ら撃墜した。迅速な攻撃速度のため、飛行士の捜索は、翌朝にのみ限定された。山地では、パラシュート、操縦席のみが、数kmの地点では墜落機の残骸が見つかった。捕虜から入手し、後にユーリー・ベリチェンコにより確認された情報によれば、パイロットは、カタパルト脱出し、ゴムボートを利用して、アゼルバイジャン領土まで川を下ることができた。同情報によれば、これは、これまでアフガニスタンで戦っていたロシア人の中佐だった。機体の名称が括弧付きなのは、この著者が「Su-24」と「MiG-25」にしか出会わなかったためで、Su-24の飛行士は、2人でなければならなかった。これは、6〜7月に撃墜されたこの2機目のアゼルバイジャン機 の可能性があり、クルバノフと2機目のパイロットは、戦死したものと考えられている。

 予備役を集結させて、アゼルバイジャン軍は、アルメニア兵の前進を停止させた。アルメニア人は、マルダケルトに隣接し、平野を観測できる高地を占領した。高地は、「グラード」と砲兵により常に射撃され、1日に2〜3回、アゼルバイジャンのMi-24が空襲を行った。マルダケルト高地の高射援護は、2門のZU-23-2が実施し、戦利品であるその1門は、「ウラル」に据え付けられた。これら機関砲の射程は2〜2.5kmでしかなかったため、1つの高地のみをカバーし、残りの戦闘グループは、携帯式高射ミサイル複合体を当てにしていた。Mi-24搭乗員によるフレアの使用は、旧式の「ストレラ」からそれらを確実に防護した。ヘリは、4〜6機 のグループで行動し、アルメニア陣地上空で「メリーゴーランド」を作った。周回飛行しつつ、Mi-24は、標的に対して順番に急降下すると同時に、残りの機は、観測を行い、背後からの射撃から互いにカバーした。

 8月8日、数機のヘリが、陽動機動を行い、もう2機は、低高度で接近しつつ、「ウラル」を高射砲と共に損傷させた。数日後、発射機は、ロケット弾により仕留められた。

 ラチン回廊を通って、エレバンからカラバフに、57mm高射機関砲S-60×8門が到着した。2門が防空強化のためにマルダケルト高地に輸送されたが、ヘリとの最初の戦闘において、アゼルバイジャンのMi-24は、低空で陣地に忍び寄り、1門を撃破した。しかしながら、良く訓練されたZU-23-2班は、敵に反撃し、同戦闘で別のMi-24を撃墜した。

 準備射撃とヘリの攻撃後、アゼルバイジャンの戦車大隊は、「グラード」と多数の歩兵の支援の下、攻撃に転移し、アルメニア集団を撃破し、マルダケルト高地 から10kmに撃退した。後退しつつ、アルメニア兵は、2門の57mm高射機関砲(破壊されたものと無傷のもの)を放棄し、「ウラロフ」高射砲中隊に所属していた2門の内1門はヘリが炎上させ、もう1門は、アルメニア兵がパニックになって放棄した。アルメニア人の情報によれば、同日、2機の敵ヘリが撃墜された。

 主導権は、完全にアゼルバイジャン人に移り、彼らはアルメニア人を著しく圧迫し、1992年9月までにナゴルノ・カラバフ領土の約25%を占領した。

 1992年8月、アルメニア人による数機のMi-24の使用が認められ、9月、アゼルバイジャン人は、その内1機の撃墜について表明した。2機目のアルメニアのMi-24が、1992年11月12日に撃墜された。8月20日にアゼルバイジャンのMiG-25PDにより撃墜されたユーリー・ベリチェンコ大尉は、捕虜になった(これがMiG-25RBで、彼が8月31日に撃墜されたという報道に出くわすが、これは誤りである。)。

 このパイロットが捕虜となった後、アゼルバイジャン空軍に元ソ連空軍パイロットの傭兵が存在することが明らかになった。ベリチェンコの言葉によれば、通常、飛行士は、1日に2ソーティーを行い、20分間働いて帰還した。休息して、更に20分間働いた。夕方には、ぐったりとしていた。

 8月、ベリチェンコは、相棒と共に、最初のソーティーを実行し、カサペト村に500kg爆弾を投下した。「戦闘機から爆撃機に改造された」MiG-25(恐らく、修理工場で)で行動し、このようにして、仮にMiG-25PDS-Bと呼ばれる以前に知られたことのない改良型 について話されている。そしてこれは、新聞の「デマ」ではなく、後に、アゼルバイジャンは、その損失中に、2機のMiG-25RBだけではなく、1機のMiG-25Pも認めた。

 8月20日、ユーリー・ベリチェンコ大尉は、16回目のソーティーを実行した。兵舎には、キエフまでの飛行機チケットがあり、バクーに家族を連れてきたがっていた。 「この考えが私を捕らえ、弛緩させ、注意不足が生まれ、その結果撃墜された」。カタパルト脱出に成功し、飛行士は、パラシュートを外し、コンパスで方位標定しつつ、北東の「味方」の方へ向かった。森の中で、3人のアルメニア兵と衝突した。

 当初、アゼルバイジャンの航空隊には、ZU-23-2高射機関砲×6門、ZSU-23-4シルカ自走高射機関砲×4両、57mm高射機関砲S-60×4門及び旧式の携帯式高射ミサイル複合体「ストレラ-2M」数十基を数えるアルメニアの非常に弱体な防空部隊が対峙した。後に、既に言及した8門の57mm高射機関砲S-60が到着し、アゼルバイジャン兵からは、「ウラル」搭載ZU-23-2及びZSU-23-4シルカ1両が鹵獲された。これらの低空手段は、敵機の空襲に効果的に対抗できず、アゼルバイジャン航空隊は、事実上毎日、ステパナケルトに対して打撃を行った。時折、1日に数ソーティーが行われた。通常、アゼルバイジャン機は、2機で行動した。しばしば、高度4km以上が利用され、爆撃精度が低かったにも拘らず、この高度は、機体の非脆弱性を保障した。時折、別の戦術が使用された。機体は、迂回経路を取った後、迂回を行い、高度100〜200mにおいて、予期せぬ方向から市に対して打撃を行った。住民の損害は、非常に著しかった。1992年8月から、アゼルバイジャン機は、破片子弾頭(いわゆるボール爆弾)を有するRBK-250及び-500(使い捨て爆弾コンテナ)も投下し始めた。8月23日、3機の「Su-25」がステパナケルトを爆撃した。500kg爆弾の1発が、マルダケルト地区からの難民が住んでいた5階建ての寮に落下した。14人が死亡した。

 8月31日、カラバフの首都に、20発のRBKが投下され、その結果、16人が死亡し、121人が負傷した。ロシア人搭乗員も、何れかの側で戦闘行動に非合法に参加していたことが知られている。つまり、司令部の監督外にあったセルゲイ・シニュシュキン少佐とエウゲニー・カルロフ大尉は、「分別のある代金」で、アゼルバイジャン軍のためにソーティーを行うことに同意した。飛行士にとって不幸なことに、この飛行は、彼らにとって最後のものとなった。2人の不運な傭兵は、「戦死」した。1992年9月4日、携帯式高射ミサイル複合体により、アゼルバイジャンのMiG-21が撃墜され、その飛行士が捕虜となったと報道された。ステパナケルト刑務所にいたアナトーリー・チスチャコフの話である可能性がある。9月18日、Mi-24がアルメニア高射砲兵のもう1つの犠牲となった。

 カラバフ北部での航空攻勢の著しい成功にも拘らず、アゼルバイジャン参謀本部では、総合的な成功がラチン回廊の閉鎖後初めて達成されえることが明らかに理解されていた。それ故、9月中盤、アゼルバイジャン軍の山岳狙撃兵連隊が、カラバフ山脈を踏破し、北方からラチンに対して攻勢を開始した。ダルダシュ・ルザエフ少将指揮下のアゼルバイジャン第2軍団は、ラチンまでの最後の3〜4kmを克服できなかった。

 都市及び居住区に対する打撃の外、アゼルバイジャン空軍は、しばしば、自軍の航空支援、敵の拠点の撃滅に参加し始め、1992年10月、ラチン回廊のアルメニア縦隊を爆撃する試み、並びにアルメニア領内の発電所に対する打撃が認められた。当期間、アルメニアが 戦闘機を有していなかったため、アゼルバイジャン空軍は、空中で抵抗に会わなかった。しかし、旧ソビエト軍の機体のアルメニアへの引渡と共に、カラバフのアルメニア人は、機動ミサイル複合体「オサ」及び「クルーグ」で、高射機関砲ZSUシルカ及び携帯式高射ミサイル複合体を補足して、強力な防空システムを創設することができ、このことは、アゼルバイジャン航空隊の損失に直ちに反映した。

 1992年10月10日にステパナケルトに対する打撃後、マリベリ村地区で撃墜された2機目のSu-25がどこから取られたのか語るのは難しい。パイロットは、カタパルト脱出したが、彼のパラシュートは開かなかった。ベリチェンコ及びチスチャコフと異なり、もう1人の傭兵は、ついていなかった。彼から残されたものは少なく、文書の切れ端から、アレクサンドルという名前だけが判別できた。

  西側の情報によれば、1992年12月7日、アゼルバイジャン人は、マルトゥニ地区において、地上射撃により、Mi-24とSu-25を失った。1993年初めまでに、アゼルバイジャンには、8機のMi-24(受領した14機の内)が、アルメニアには、11機の同ヘリ(13機の内)が残っていた。

 1993年1月15日、アルメニアの防空部隊は、アゼルバイジャン空軍のMiG-21を撃墜することができた。

 1993年2月、カラバフ国防軍は、マルダケルト地区において攻勢を開始した。大量の降雪後、アゼルバイジャンの戦車とBMPは、移動能力を失い、機動力のあるアルメニア部隊は、サンガル貯水池に進出し、ケリバジャルへの道路を遮断した。このようにして、アゼルバイジャン陸軍第2軍団は、両側からアルメニアとカラバフ間に圧迫され、克服し難い冬のカラバフ山脈(海抜3,700m以下)によりアゼルバイジャンから切り離された。

 3月中盤にマルダケルト地区で反攻を行うアゼルバイジャン軍の試みは失敗した。3月25日、アルメニア人は、ケルバジャル作戦を開始し、その過程において、アゼルバイジャン第2軍団が 撃破された。兵員は、重機材(15両の戦車及びBMP)を捨て、カラバフ山脈を越えて、ギャンジ側に去った。アゼルバイジャンは、アルメニア側から主攻が行われ、カラバフ側からは助攻しか行われなかったと表明した。何れにせよ、ケルバジャル作戦は、アルメニアとアゼルバイジャンを開戦の瀬戸際に追いやった。作戦の結果、アルメニア人は、アルメニア-アゼルバイジャン国境のほぼ半分を支配下に置き、アルメニアからカラバフへの2つ目の道路を開設した。

 ケリバジャル奪取直後、カラバフ人は、フィズリに対して攻勢を行い、アゼルバイジャン軍の南部クバトリン集団をアゼルバイジャンから分断しようと試みた。彼らはフィズリから4〜5kmで停止させられたが、アゼルバイジャンは、そこに全ての予備部隊を集結せざるを得なかった。フィズリ接近経路を保持し、アルメニア兵は、ラチン回廊地区から南方、クバトルイに対して攻勢を開始し、敵を25〜30km撃退した。

 1993年6月4日、ギャンゼにおいて、アブリファズ・エリチベイ大統領の更迭をを要求するスレット・グセイノフ大佐の第709旅団(旅団は、解散されたソ連軍第23自動車化狙撃師団に基づき創設された。)の反政府反乱が始まった。他の若干の部隊が彼を支持し、並びにバクーへの前進を開始した。反乱兵と政府部隊間の戦闘にまでは至らなかったが、大統領は退任し、その権限は、ゲイダル・アリエフが引き受けた。

 アゼルバイジャン人が内部分裂に従事している間、在カラバフ・アルメニア人は、カラバフ戦争におけるアゼルバイジャン軍の主要基地であったアグダムに対して攻勢を開始した。市内には、旧ソ連軍の弾薬庫が存在し、戦車旅団(あるいは、それから残されたもの)、修理基地が駐屯していたのに加え、道路の交差点に存在する市内からは、ステパナケルト側も、マルダケルト側も攻撃できた。長射程砲が、アグダム郊外からステパナケルトを射撃していた。1993年6月18日までに、40両の戦車から成るアルメニアの集団は、「グラード」、歩兵及びMi-24ヘリの支援の下、アグダムの外れに進出し、北方から市を包囲し始めた。1ヶ月以上、アグダム強化地区を巡る激戦が続き、7月24〜25日になって初めて、アグダムは奪取された。

 今、カラバフ人にとって唯一の潜在的危険だったのは、フィズリ、ジェブライル、クバトルイ及びザンゲラン市で形成されるカラバフ南部のいわゆるザンゲラン扇型区だった。クバトリン及びザンゲラン地区において、アゼルバイジャン軍は、ラチンを脅かし得るほぼ2個歩兵連隊を有していた。しかし、同集団の充足及び補給は、戦線沿いのフィズリ及びジェブライルを通してのみ可能だった。1993年8月18日、アルメニア兵はフィズリを、8月19日、ジュブライルを奪取し、アゼルバイジャン軍の南部集団を分断した。

 8月19日0713、3機のアゼルバイジャン機が、アルメニア南東部のカファン市に対して打撃を行い、10人が死亡した。続く日、攻撃対象となったのは、カラバフのマルトゥニン及びガドルト地区の居住区であった。

 アルメニア軍は、敵の南部集団の撃破を続け、7月25日〜8月3日、既にクバトルイ及びザンゲランへの接近系路上に進出した。9月1日、アルメニア兵は、Mi-24を撃墜し、同日、クバトルイを陥落させ、それに引き続き、ザンゲランが奪取された。

 1993年9月16日、ナヒチェヴァン地区(アルメニア領土によりアゼルバイジャンから分離)から飛行したアゼルバイジャン空軍のヘリが、ザンゲラン地区において、地上から射撃を受け、イラン国境を侵犯せざるを得なくなり、そこに不時着した。現地住民により搭乗員及び乗客に示された暖かい歓迎の後、ヘリは、アゼルバイジャンに戻ることが許された。

 1993年の夏季戦役の結果は、一言で言えば、アゼルバイジャンにとって、大惨事だと評価できる。同国の7地区が、在アゼルバイジャンのカラバフ人が言うところの「アルメニア遠征軍団」により完全又は部分的に占領された。アルメニアは公式に参戦していないにも拘らず、カラバフの20万人のアルメニア人住民が、外部からの積極的な支援なしにはこれほど戦闘能力のある軍隊を創設できないことは明らかである。アゼルバイジャンは、各種評価によれば、30万〜50万人の占領地からの難民で再び満たされた。アゼルバイジャン軍は、衰弱し、戦意喪失した。

 残念なことに、以下のアゼルバイジャン空軍の損失リストが初めて掲載された日付は知られていない。

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MiG-21×1機

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MiG-23×1機

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Su-25×2機

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MiG-25RB×2機

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MiG-25P×1機

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L-29×3機

 計10機である。仮定的に、これは、1993年のものであり、恐らく、アゼルバイジャンにより公式に認められた損害のリストである。飛行機の型式とMiG-25の改良型が、余りに正確に掲げられている。専門家ですら、MiG-25Pの破片をMiG-25RBと簡単には識別できないはずである。その上、機体の型は、大部分、1992〜1993年に渡ってアルメニア人が出した情報源と一致していない。

 飛行機の大惨事は、アゼルバイジャンの新しい国防相の任命をもたらした。国防相になったのは、「アフガン帰り」のマメドラフィ・マメドフ中将であり、厳格な方法で軍に規律をもたらした。徴兵忌避、脱走、陣地放棄に対しては、射殺にまで至った。軍は、新攻勢に準備された。初めて、アゼルバイジャン軍は、1993年12月末、冬季に活発な攻勢行動を始めた。戦闘行動は、3方面で直ちに始まった。北部において、アゼルバイジャン軍は、戦闘と共にオマルを奪取し、ケリバジャル地区の数ヶ所の村を占領した。東部では、アグダム及びマルダケルトが打撃された。南部では、フィズリ及びイランと国境を接するゴラジズだった。しかしながら、2月中盤までに、攻勢は弱まり、 増援を得たカラバフ兵は、ゴラジズを含む失われた陣地の大部分を奪還した。

 1994年1月23日、アルメニアの戦闘ヘリは、カラバフ国境付近のアゼルバイジャンの居住区に対して打撃を加えた。同日、2機のアゼルバイジャン機が、アルメニア人を爆撃し、後者は、1機の撃墜(勿論、これは「Su-25」だった。)と墜落現場の発見について伝えた。アゼルバイジャンは、この報道を否定した。

 2月17日、アルメニアのヴェジェニス地区上空でのSu-24MR偵察機の護衛の際、携帯式高射ミサイル複合体「ストレラ-2M」により、アゼルバイジャンのMiG-21が撃墜され、そのパイロットは捕虜となった。

 1994年、アルメニアに軍用機の出現が認められた。4機のSu-25がCIS軍事協力の枠内でロシアにより譲渡されたことが明らかになり、恐らく、アゼルバイジャン軍との戦闘に参加し、報道によれば、1機のSu-25が敵により撃墜された。西側のプレスは、1994年1月18日 の味方のSu-22のアルメニア兵による撃墜を航空事故のリストに記載した。Su-17の輸出型であるSu-22とは異なり、やはりSu-25が撃墜されたのと同じ事例について語っている公算が大きい。

 1994年3月25日、2機のアゼルバイジャン機が、ゴラジザのアルメニア兵陣地にカセット爆弾を投下した上に、アゼルバイジャン兵も被災した。同日、アルメニアの防空部隊は、ステパナケルトへの空襲を阻止した。

 1994年4月、アゼルバイジャン軍は、新たな攻勢を展開した。つまり、4月10日、アゼルバイジャン機が、ステパナケルトに3発の爆弾を投下し、その上、1発はカセット爆弾だった。他の居住区も打撃を受けた。TVは、特徴的なSu-25のシルエットがはっきり見えるビデオを放映した。

 2日後の4月12日、2機がステパナケルトを再び爆撃し、2人が死亡し、38人が負傷した。内1機がチラ村上空で撃墜され、その飛行士は、カタパルト脱出した。総じて、着手された攻勢は、著しい成功を収めなかった。4月21日、アルメニア兵が1週間の戦闘に渡って、敵兵約600人を殺害し、戦車×8両、BMP×5両、装甲車×15両を鹵獲し、並びに1機のアゼルバイジャン機(恐らく、4月12日)を撃墜したと表明したという報道が発表された。

 1994年4月23日、7機から成るアゼルバイジャン機のグループが、ステパナケルトに対して強力な打撃を行ったが、1機(Su-25)が防空部隊により撃墜された。アゼルバイジャン側は、同日、1機が失われたことを認めたが、事故の結果であると主張した。飛行士は、カタパルト脱出し、基地に存在する。

 1994年5月12日、両者は、和平協定に署名したが、個別的な交戦が今日まで観察されている。1991年11月21日から1994年5月12日までの期間に渡り、カラバフの首都ステパナケルト(11平方km)に対して、約21,000発の「グラード」ロケット弾、2,700発の「アラザニ」のロケット弾及び1,900発の砲弾が使用された(アルメニアのデータによる)。アゼルバイジャン航空隊は、180発のRBK(破片子弾頭を有する爆弾コンテナ)と、8発のODAB(液体爆薬を有する立体起爆航空爆弾)を含む約100発の500kg破片・フガス爆弾を市に投下した。

 総じて、第1次アルメニア・アゼルバイジャン戦争は、アルメニア側の勝利で終わったと、躊躇うことなく主張できる。アルメニア人は、ナゴルノ・カラバフ、並びにアゼルバイジャンのクバトリン、ザンゲラン、ジェブライル、フィズリ、ケリバジャル及びアグダム地区を完全に支配し、そこにいわゆる「安全地帯」を創設した。

 アゼルバイジャン人住民(35万人以上)は、制裁を恐れて、これら全ての領土を離れたが、紛争は、他民族住民に対する両者の特別な残虐性を特徴とした。アゼルバイジャンにより保持されている唯一のアルメニア領土は、シャウミャン地区とハンラル地区のアルメニア部分であるが、これらの領土は、カラバフの構成にも含まれておらず、そのアルメニア人住民は、紛争中に追放された。

 疑いなく、カラバフ人にとって戦略的に必要かつ正当な隣接地区の占領は、アルメニア軍がこれら領土、並びにナゴルノ・カラバフ を奪還する試み、従って戦闘行動再開の疑う余地のない前提条件を創出している。

 恐らく、アゼルバイジャンがその領土の4分の1の喪失を甘受できないことは明らかだが、戦争中、アゼルバイジャン軍は数的優勢と最良の装備にも拘らず、人員及び装備に大損害を被り、低い戦闘訓練と精神面を示した。ウクライナその他のCIS諸国、並びにトルコとの活発な協力が完全にあり得るにも拘らず、深刻な経済状態は、その軍の近代的な武器による装備を真剣に改善することを許さない公算が大きい。

 一方、ナゴルノ・カラバフ国防軍も、多くの場合アルメニアの援助のおかげで、自軍の戦闘能力を向上させようとしている。1995年5月9日、ステパナケルトにおいて、大祖国戦争戦勝50周年、ショシュ奪取3周年及びアゼルバイジャン戦争和平1周年 の3つの日付に充てられた観閲式が行われた。この観閲式では、反応装甲を付けた戦車、BMP、1両の自走高射ミサイル複合体「オサ」、高射ミサイル複合体「クルーグ」及び高射ミサイル複合体S-125用ミサイルを搭載した数両のZILトラック、並びに2機のMi-24ヘリが展示された。占領地を奪い取ろうとするアゼルバイジャンのいかなる試みも、重大な抵抗にぶつかっている。

 アゼルバイジャンがロシアとの軍事関係と一線を画したのと同時に、アルメニアは、モスクワと積極的に協力し、これから著しい配当を得ている。Su-25×4機の受領、T-72戦車×7両の納入 のセンセーショナルなスキャンダル、並びに近代的戦闘機及び高射ミサイル複合体S-300のエレバンへの引渡に関する情報を想起すれば十分である。カラバフで新たな戦争が発生した場合、この機体が、ナゴルノ・カラバフ国防軍の支援のために行動するのは疑いない。

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最終更新日:2004/10/07