ヴィクトル・ユシチェンコ

horizontal rule

ヴィクトル・ユシチェンコ ヴィクトル・ユシチェンコは、1954年2月23日、スームイ州ホルジェフカ村の教師の家庭に生まれた。彼の父、アンドレイ・アンドレーヴィッチは、大祖国戦争時、前線で戦い、捕虜となり、アウシュヴィッツの囚人となった。

 ユシチェンコは、テルノポリ財政・経済大学を卒業し、イヴァノフランコフスク州ヤロヴォエ村で、簿記係として労働活動を始めた。1年間、ソビエト軍に召集され、ザカフカーズの国境部隊で勤務した。

 1976年から、銀行システムで働く。1993〜1999年、ウクライナ国立銀行理事長。1999年12月から2001年4月まで、ウクライナ政府議長。

 このポストからの辞任後、2002年1月、10党が入る選挙ブロック「我がウクライナ」を創設し、率いた。ブロックは、同年3月の議会選挙において、選挙人の24.7%の支持を得た。

 ヴィクトル・ユシチェンコは、経済科学準博士、ウクライナ功労経済学者である。絵画、養蜂、製陶を趣味とし、骨董品、民族生活品及びウクライナの民族服を収集している。

 妻帯(妻は、カテリーナ・クレア・チュマチェンコ)、5児 (前妻のアンドレイとヴィタリーナ、後妻からソフィア、クリスチーナ及びタラス)と孫娘(ヤルイナ)を有する。

horizontal rule

 ヴィクトル・ユシチェンコは、ウクライナ政治の「不具者」となり、「アメリカの連れ合い」と仇名を付けられた元首相かつ大統領候補である。時折、ユシチェンコは、「ロシア系ウクライナ人」とも呼ばれる。彼は、事実上、ロシアとの国境、ロシア語系のスームイ州、片田舎のホルジェフカ村に生まれた。ユシチェンコが事実上ロシア系なのにも拘らず、「西側」は、彼を典型的なウクライナ人と、ドンバス人は、「小包」と考えている。ユシチェンコは、自分の国に非常に似ている。彼は、無名から大政治に出て、ロシアからの独立を証明しようとしている。

○政界に去った銀行家

 ヴィクトル・ユシチェンコの未来は、今、ウクライナ最高裁判所と議会が解決している。 自分の過去について、ユシチェンコは、政治に相応しいことだけを語っている。50歳の彼には、5人の子供(前妻のアンドレイとヴィタリーナ、後妻からソフィア、クリスチーナ及びタラス)と孫娘のヤルイナがいる。ユシチェンコは、テルノポリ財政経済大学を卒業し、軍に勤務し、国立銀行ウクライナ共和国支店の局長となり、商業銀行「ウクライナ」の第一副理事長まで勤め上げ、ウクライナ国立銀行とウクライナ政府を指揮し、在任期間最長の首相となり、2年以上、ポストを保った。ユシチェンコは、ウクライナの最も成功した首相と呼ばれている。彼の下で初めて、国は、GDPの成長を収めた。公正さのために、この速度が最近ヴィクトル・ヤヌコヴィッチ政府が誇示したものよりも遥かに控え目なものだったことを認めるべきである。また、インフレについて言えば、ユシチェンコ内閣は、「逆記録」を樹立した。彼の首相在任初年、インフレ率は、11,000%に達した。

 ユシチェンコは、10党連合「我がウクライナ」を組織し、2002年の議会選挙で善戦し、他のいかなる団体よりも多くの票数を獲得し(24.7%)、その結果、最高会議の最大会派の長となった。この会派は、実際、予算委員会委員長の1つの緊要ポストしか得られなかった。残りの指導職務は、親大統領勢力と左翼政党間で分けられた。

○「しばしば遅れ、自分のことしか聞かない」

 ユシチェンコの議会の同僚は、ヴィクトルのだらしなさ(3時間遅れる)と人々と働く彼の未熟さについて語っている。このため、ユシチェンコは、自分の会派の一部を失った。ユシチェンコから離れた代議員タラス・チョルノヴィルは、「非常にしばしば、ヴィクトル・アンドレーヴィッチは、自分のことしか聞かない」と訴えた。

 人間としてのユシチェンコについては、彼自身が語っている。彼は、直ぐにはウクライナ民族主義の権化にはならなかった。執権初期、彼は、幼年期、牛を放牧し、豚を飼育したことを誇って語っていた。

 幼年期当時、ユシチェンコは、自分の最初の銀行取引を行った。垣根の銀行にお金を埋め、それで自転車を買おうとしたが、預金は両親により発見され、没収され、ユシチェンコのための学校の制服に変った。

 つまり、彼の最初の「銀行危機」がヴィクトルを襲い、事後、彼は、これを避けようと努めた。彼は、1998年危機の結果から国立銀行を守り、彼の下で、ウクライナには、デフォルトはなかった。

○ユシチェンコ、マルクス・レーニン主義大学で「プロパガンダ術」を習う。

 今日極民族主義者として位置づけられるユシチェンコは、つい最近まで、「親ロシア活動」に従事していた。彼は、ボリス・エリツィン名称ウクライナ・
ロシア・マネージメント・ビジネス研究所所長だった。これ以前、ソビエト時代、マルクス・レーニン主義大学の「プロパガンダ術」分校を卒業した。

 ユシチェンコは、6年間、スムシチンのウリヤノフカ村の貯金局長として過ごし、ようやく、キエフのソ連国立銀行農業課に異動し、ウクライナの有名な財務官ワージム・ゲチマンに認められ、その出世を開始した。

 農業銀行「ウクライナ」を率いていたゲチマンは、ユシチェンコを自分の副官とした。ゲチマンのサーブで、ユシチェンコは、国立銀行のNo.3となった。彼は、ゲチマンが生きている限り、成功した財政官として振舞った。彼が玄関で殺された時、このことは、ウクライナの金融システムだけではなく、ユシチェンコ個人に対しても打撃となった。彼の周囲には、奇妙で、過激な人々が現れ始めた。

○「アメリカ人妻」−カテリーナ・クレア・チュマチェンコ

 取り巻きが、ユシチェンコを経済学者かつ未経験の政治家にしたが、結局、国王には変えられなかった。ヴィクトル・アンドレーヴィッチにとって最も重要なものなったのは、氏族に発展しつつある彼の家族である。当初、ユシチェンコは、ワージム・ゲチマンの名付け子、スヴェトラーナ・コレスニク、次に、アメリカ人のカテリーナ・クレア・チュマチェンコと結婚した。最近のインタビューにおいて、彼は、「自分が非常に誇らしい。というのも、結婚に関するこれほどの非難に耐えられる男性は稀なはずだからである」と表明した。彼は耐えていた。

 ユシチェンコのアメリカ人妻(今、43歳)は、「銀行保障」プログラムのディレクター、人権担当国家書記官アシスタント特別補佐官であり、ホワイト
ハウスの社会関係事務所と米財務省で各種職務を占めた。彼女のおかげで、ユシチェンコは、若き改革者かつ「アメリカの連れ合い」の地位を得た。合衆国は、彼を改革者と呼び、「ユシチェンコの下」でウクライナに借款を与え、国務長官マドレーン・オルブライトすらも共感していた。

 ロシアは、ユシチェンコを「アメリカの連れ合い」と宣言し、モスクワの何れの政治学者も、彼の妻をCIAのエージェントと呼び始めた。これらの非難に対して、インタビューにおいて、ヴィクトル・アンドレーヴィッチは、「カテリ−ナには、3人の子供を腕に抱えてスパイするのは非常に難しかったはずだ」と指摘した。

 ユシチェンコの敵は、かつてチュマチェンコについて書かれ、今アメリカのレーガン図書館に保管されている資料を研究した。その内、4件だけが秘密解除され、残りは、「米国の国家秘密」である。新妻のおかげで、ユシチェンコがアメリカのエスタブリッシュメントへの直接の出口を得たと考えられている。ウクライナ大統領候補に対するチュマチェンコの影響力は、巨大である。カテリーナの周囲は、ユシチェンコの主要な「家族」となった。

○飛行機のロマン

 カテリーナとヴィクトルは、真面目にアメリカとウクライナ間の空中で知り合った(これまで、彼らは、互いに自己紹介しただけだった。)。ロマンは、
機内で始り、電光石火のものだった。何時間もの飛行は、ユシチェンコが家庭を変えることを決心するのに十分だった。ヴィクトル・アンドレーヴィッチは、かなり早くチュマチェンコと結婚したと語られている。戸籍登録課への「公式な」届出について言えば、かなり後に行われた。

 女性達の恋人が彼女の意中の人となったことは、カテリーナを困惑させなかった。彼女は、「私は、夫が多くの人々に好かれていることを誇りに思う。だけど、毎晩、彼が私の側に来ることも誇らしいわ」と語った。カテリーナは、ユシチェンコとのロマンがいつ、どのように始ったのか語ることを好んでいない。「私は、答えに必要な全ての情報を提供したくはない。私とヴィーチャは、決して誰かを傷つけたくはないのよ」。

 このアメリカとウクライナのカップルについて、ウクライナでは、アネクドートが生まれた。

−「ユシチェンコは、妻をどう呼んでいるのか?カテリ−ナか、それともクレアなのか?」
−「ボルシチが欲しいときはカテリーナ、お金をねだるときはクレア」。

 CIAへのチュマチェンコの関与の噂は、レオニード・クチマ大統領とウクライナ保安庁すらも関心を有した。チュマチェンコに関する会談は、クチマの書斎の会話を非合法に記録したメリニチェンコ少佐のテープに記録されている。「彼女がエージェントで、彼女の家庭が愛、相互理解及び尊重ではなく、特務機関の作戦であると人々が信じ得る考えの下で、カテリーナを不快にさせている」。

○名付け親、兄とスポンサー

 ウクライナの有名な政治学者コスチ・ボンダレンコは、特に名付け親がユシチェンコの側近形成において主要な役割を演じたと確信している。彼の
子供達を名付けた人々の中には、「アジオ」銀行理事長スタニスラフ・アルジェヴィチン、議会予算委員会委員長ピョートル・ポロシェンコ、ウクライナの有名な女性歌手オクサーナ・ビロジルがいる。

 名付け親達は、彼が大統領となる時、必ずユシチェンコを取り巻くだろう。ポロシェンコは、首相のポストを要求することになり、アルジェヴィチンは
財務相、ビロジルは文化相になることを欲するだろう。「ユシチェンコ一家」のもう1人のメンバーは、彼の政治的盟友、最も過激で、多分、最も愛らしいウクライナの野党、ユリア・チモシェンコである。彼女は、ユシチェンコの下で首相となり、彼の後に大統領となることを期待している。

 ユシチェンコの「第2層」の人々は、ハリコフのビジネスマン、兄のピョートル・ユシチェンコが率いている。特にユシチェンコの兄は、以前ヴィクトルが指導していた「ウクライナ」銀行の資金横領で起訴された。ユシチェンコ勝利の場合、ピョートルは、多くの者が考えているように、議会における大統領の代理人となり得る。

 この「兄弟層」には、ユシチェンコの事務所の指導者、代議員オレグ・ルイバチュクが入る。彼は、ユシチェンコとクチマ大統領の間の連絡係である。オレグは、クチマの娘のエレーナ・フランチュクと彼女の夫のヴィクトル・ピンチュクの旧友である。ルイバチュクは、有名な「ユシチェンコのロシア人への書簡」の発議者となった。そこで、ヴィクトル・アンドレーヴィッチは、ウクライナ民族主義を否定した。

 ユシチェンコの「第3層」は、議会副議長アレクサンドル・ジンチェンコと代議員アレクサンドル・トゥルチノフ等、クチマの元盟友である。後者は、過去ビジネスマンで、元ウクライナ首相で、今米国で裁判に掛けられているパーヴェル・ラザレンコと密接に協力していた。

 ユシチェンコの「第4層」は、金融界である。彼の最も鮮明な代理人は、グルジア出身、バドリ・パタルカチシュヴィリの友人、ロシア検察総庁が手配
している代議員ダヴィド・ジュヴァーニヤである。ジュヴァーニヤは、ロシア大統領候補イワン・ルイプキンがキエフに隠れるのを助けた。ユシチェンコと並んだジュヴァーニヤの存在は、パタルカチシュヴィリだけではなく、彼の友人かつパートナーのボリス・ベレゾフスキーのウクライナの選挙キャンペーンへの関与も示唆している。

 ジュヴァーニヤと共に、ユシチェンコの「財務官」となったのは、ロシアの「欧州保険同盟」ウクライナ代表部を率いる代議員アレクサンドル・モロゾフ
である。ユシチェンコ勝利の場合、彼の「スポンサー」達は、ウクライナの燃料・エネルギー省、「ネフチェガス」及び「エネルゴアトム」の指導部に、
自分の味方を送り込むことができる。

 民族主義者は、長い間、KGBに属していた国境軍へのユシチェンコの勤務を許すことができなかった。

 軍務は、2月23日、ソビエト軍の日に生まれたユシチェンコが出世するのを妨げた。当時KGBに属していた国境軍に服役したユシチェンコは、昔からの特務機関職員のイメージを獲得した。このイメージは、彼がウクライナの極右と合意するのを長い間許さなかった。彼らの目に「復権」されるために、ユシチェンコは、自分のブロックにファシストの国家民族主義者を招請すらした。

 ユシチェンコの政治経歴は、戦場となった。彼に対しては、代議員調査委員会が活動し、ウクライナの外貨準備金のキプロスへの不法預金で彼を起訴することが試みられた。5億8千万ドルの話だった。ユシチェンコは、「ウクライナ」銀行の破産への関与で告訴された。今回の大統領選挙キャンペーン時、野党候補者が「自分自身で毒を飲んだ」か、自分の側近にこれを行うように命令したと語られた。ユシチェンコ自身は、「この国に公然と暮らし」ており、誹謗中傷を恐れていないと語っている。彼に対して提起された非難の1つも証明されなかった。

 ユシチェンコは、ウクライナ信用の「金融人」である。彼は、ある時は国家の水色と黄色の服、ある時は自分のオレンジ色を上手く着飾っている。それにも拘らず、何よりも、彼は、昔に買った暗赤色の縞模様のネクタイと皮のズボンを好み、別荘でずっと着たがっていたことを率直に認めている。しかし、今、ウクライナの主要な敵対者には、郊外旅行までには至らないのは明らかである。

○ユシチェンコの趣味

 ユシチェンコは、小農場と養蜂場を有している。骨董品、古いイコン、日用品、コサックの武器、刺繍を好む。陶芸と鍛冶に従事することを好み、絵を描く。政治家は、ユシチェンコの党の紋章が彼の筆によるものだと主張している。ユシチェンコは、ワインとリキュール「ベリーズ」、民族料理、牡蠣、日本の寿司を好む。後者への過度の執着は、悪意ある人々の意見によれば、彼の選挙前の中毒の原因の1つになったともいう。

○勲章と賞

 ユシチェンコは、ウクライナ大統領名誉賞を授与し、経済科学アカデミーのアカデミー会員、サイバネティックス専門家、「キエフ・モギリョフ・
アカデミー」とオストロシュク・アカデミーの国立大学名誉博士、ウクライナ功労経済学者、科学及び技術領域のウクライナ国家賞受賞者、金融問題
に関する300件の記事の著者である。1997年の「Global Finance」のレイティングの結果によれば、世界最良の金融学者の6人の中に入った。テルノポリ市の名誉市民。

horizontal rule

上へ

最終更新日:2005/01/08