―日本誕生―(1)

古代東アジアと日本の歴史探訪

我々の国をどうして日本と呼ぶかご存知ですか?

答えられる人は少ないと思います。

そう、この国の重大な秘密なのです

―文明国で、国民が自分の国の名の由来について知らない国はそう多くはありません。

憲法に表現の自由ができ、象徴天皇制が宣言されて久しいのですから、そろそろ少しづつ漏らしてもよいのではと思います。―

「日本国」の誕生

明確に残存する記録上、「日本」という国名の漢字表記は、西暦六百七十年頃に大和王権が発した清和令に初めて現れました。

聖徳太子の派遣した遣唐使・小野妹子は、唐に対して「日の出る国」からの使者と自称し、日本が旧倭と異なる倭の新政府であることを主張したともとれる記録が残っております。

天武天皇と藤原鎌足は、西暦六百四十五年の「大化の改新」以来「壬申の乱」 までの二十七年にも亘る「内乱」に勝利して大和の政権を奪取した後に、戦乱を水に流し、新たな王朝の成立を意識して「日本」を新国名として名乗りました。

それは対外的には、中国における唐の覇権強大化に恐怖して、最近まで高句麗と連合して中国政権に刃向かい続けた百済系の倭の王権と、新王朝との連続性を断ち切るための方便のようにも感じられます・・・。

これより国の大王は「天皇」と称するようになりました。

― 本当は、常識として用いられ意識されている意味での「日本国」や「天皇」は、千三百年ばかり前のこの時期の創作であります。

歴史の展開において、イデオロギーの役割は大きいものです。このことを国民がもっと正しく知っていたならと悔やまれます。歴史についてもっと冷静になって

1,000万人もの人命を失うような無謀な結末を招かずに済んだのかも知れません・・・。―

天武登場の穏やかな解釈

それでは、天武天皇より前にこの列島の上に確かに存在した倭国の王権と新しい 「日本国」 は無縁のものでしょうか?

天武天皇についての歴史資料は不自然なほど少なく、天智の弟とされる以外には出自についての記録もほとんどありません。

大化の改新を区切りとして、日本書紀の登場人物は一種の断絶を起こし、それ以前の人物は死亡し、あるいは舞台から消え去ります。

論理的には初代となる日本国天皇・天武―大海人さえ、大化の改新以前には影も形もありません…。

このような旧王統との連続性を前提としてはつじつまの合わぬ断絶について、石渡信一郎氏は、「天智登場以前の日本書紀の登場人物について消去法で大海人

(天武天皇)に相当しうる人物を探索すると古人大兄に該当する人物のみが残る。」と推測しています。―「大兄(オオエ=タケイ)」は倭の王位承継資格を表す称号とされます。しかし以前には、これは旧高句麗の官位として用いられたものです。―

石渡信一郎氏は「本当は、古人の父は大王ではなく、父は用命と大王位を争って殺された彦人大兄の子で、以来、大王家の監視の下、最も外側に追いやられた傍系の?田村である。」と主張します。氏の論考によれば、古人は大王・用命―

用命とする石渡氏の論考については後ほど紹介します。―からほど遠く、およそ王位の継承権とかかわりのない人物で、この人が「大海人」と名を変えて権力の中枢に浮上することとなる訳です・・・。

しかし、日本書紀においては田村皇子は天皇に即位し、実は傍系とする氏の推論とは異なります

・・・氏は考古学的出土物の年代測定を独自の論考により変更して断絶を飛び越えます…石渡氏は主張します。

「日本書紀は真実を語らない」と・・・

もし、古人が大海人とすれば、古人の母は蘇我(石渡氏によれば大王用命)の娘ですから、かろうじて旧王統との絆を結ぶことが出来るのですが・・・。

―それにしても、日本書紀を真実の物語と仮定しても、古人が大海人でないならば、天武は突然に権力中枢に湧いたように出現する人物となりますからより深刻です。大海人は「大化改新」の際には記録に値しない人物であったのに僅かの年月の内に独裁者・天智の子孫を滅ぼすほどの実力者にのし上がるのはどうしてなのでしょうか?

天武はその後、天智の弟・大海人として正史に登場します。

しかし、多くの学者が指摘しているとおり、記録文献の断片を丹念に張り合わせて年齢比較をすると、天武は天智よりも年上で、明らかに弟ではありません…。

そして、溯る記録は途絶えてしまいます…。―

正史によれば、大海人の母は漢人・高向王の妻で、その人と離別し、天智の父によって娶られたとされます。

常識の如く、日本書紀が「日本国」の純血性や天皇の万世一系の最高貴種性を正当化する為の書物であるなら、天皇の母が渡来人の妻であったなどという些末な過去を隠さず態々記録に残すのは何故なのでしょう?

当時は、先進的な?中国や半島の諸国との交流が活発で、半島への結びつきは隠すよりむしろ誇りであったと考えるべきなのでしょうか?

しかし、百済派と新羅派に分裂した血で血を洗う戦乱の後に、明らかに反半島(新羅)的な日本書紀の成立期に、独立宣言書のような新国史の編纂に当たって、態々中国や半島への憧憬を織り込むほどリベラルな権力でなかったことは明らかなのです…。

それにも関わらず、なぜこのような事情が堂々と正史の記録に残るのか…?

―示唆的な記述が「日本書紀・皇極三年正月条」にあります。

皇極の神祇官を下命された藤原鎌足は病気を理由に参内せず、反皇極的

(反主流)な軽皇子を訪ねて侍宿を申し出る。軽皇子は鎌足に深く恩義(疑念??)を感じ、寵妃の阿部氏を下賜する。

朝鮮の伝承には、さらに古くから妊娠中の寵妃を下賜する話がみられ、生まれた子は新しい父の子として処遇されるため、この上ない絆

(人質)となる訳です。

天武の母は同様に高向王から天智の父に下賜された寵妃なのでしょうか?

天皇に姫を下賜する高向王の地位は?天皇が庇護する下々の妻を奪う不名誉が記録されるわけなどありえません…。

それにしても、そのような事態を書き記す意味の謎は益々大きく膨らむばかりです。そのようにして、渡来

(外国?)王との絆をつくることが在地勢力にとって果たした意義は…?―

状況や年齢から推算すると、どうやら、大海人の父は天智の父ではなく、本当に高向王であったようです。

すると、はじめて年齢を逆さにして天武を天智の弟としなければならなかった筋立ての秘密が解明されます。

「日本書紀」が編纂された時代には、未だ天武についての記憶は生々しく、高向王と大海人との近さについて隠すことができぬほどに多くの人々が知っていました。

「続群書類従十八巻・坂上系図」には、「高向王は、応神天皇の時代に戦乱を避け帰化した漢高祖の系・阿智王(信濃には大蒜を伝えた伝説があります)の末で、第四代阿多部王は、高徳天皇の庇護を受け大和国高市郡桧前村に住んだ。」と記されています

―天智の嫡男・高市皇子の名が気にかかります。高向王の住む地から天智の子が輩出するということは…―

小林*

(やす)子氏はこの高向王が、日本書紀に登場する国博士・高向玄理と同一人物であることをほぼ論証しています。

―「日本書紀」の愛好者はびっくりして異をとなえるに違いありません。しかし、「日本書紀」を単純にその記述とうり信じるわけにはいきません。「日本書紀」は一定の政治的目的をもって様様な歴史を換骨奪胎して編纂されたものであることはもはや否定しようもなく明らかなのですから…―

そして、高向王玄理は権力から追いやられるように唐に渡り、後には幽閉され不遇の死を遂げました。高向王の妻で高貴な身分の大海人の母が天智の父に奪われる事態は、下賜でないとしたら、高向王と天智の父との権力の入れ替えを意味するのは常識でしょう…。    本当に権力は入れ替わったのでしょうか…?

中国をめぐる文化圏では、帝王は皇統であることが必須の要件となります。

三国志の劉備玄徳でご存知のとおり、たとえ遊民から浮上した王すら皇統を僭称し、自らの占星術的に予定された運命を描き出します。

これは極東アジアにおける統治のためのイデオロギー上の絶対条件なのです。

父母が帝王であれば子は当然に皇統であります。            

父母が帝王でない場合は、母が皇統でなければなりません。

高向王と天智の父の共通の女が皇統であるからこそ天武は皇統となるという点はきわめて重要です。

皇統の継承者である高貴な天武の母について、当時のあまりに広く多くの人々が知っていたために、天智と天武の絆を結ぶためのやむを得ない方便として

―この辺の事情について公言する者はおそらく死罪を免れなかったでしょう…。実際に柿下人麻呂、稗田阿礼をはじめ多くの人々が退場を迫られました。―このような筋立てが挿入されたのかもしれません…。

―これまで我々が正史として理解したものは、実はこの政治的意図の上っ面をなぞるだけの空虚な王朝絵巻きにすぎなかったのです。

ついに知られることのなかった日本国の秘密の糸口を明らかにしますから、少々の間お付き合いをお願いします。…―

飛鳥の王権

 

大和は国のまほろば…

私達の日本国は、大和の地に都を構えて栄えた大和民族の国だと言われております。

それでは、大和の都以前の、中国や三韓の記録に残る「倭人」の王権もヤマトと称したのでしょうか?

太宰府天満宮に保存されている唐時代の百科本「翰苑」巻三十の

倭国条には・・・・・

「山に憑り海を負いて、馬台に鎮し、以って都を建つ」

とあり、「翰苑」が引用する晋の「広志」には、「

末羅国の東南に陸行すること五百里、伊都国に至る。又、南して邪馬台国に至る(・・・意訳) 」・・・・・とあります。

石渡信一郎氏によれば、馬台

(マド=マト)は面上(マド)とも記され、古代朝鮮語のマラ(マロ)に由来する「首、上、宗」を意味する言葉で、倭の面上国=倭馬台国は、倭の宗主国という意味となると述べます…。

―氏はこれを「魏史・倭人伝」に移項しますが、「倭人伝」が書かれた時代の魏の発音では、倭はウォーに近い音で発音されていたことは確かですから、ウォーがジャやヤに変化するのは邪を卑語と考えても不自然です。

倭馬台(ウォマタイ)は、けっして邪馬台(ヤマタイ)とはなりません?

邪馬は倭馬ではなく山(神聖な=スメル山信仰)とする方が正しいと思われます。また、台、壱論争に言うとおり邪馬壱が正しいとしたらマタイは成り立ちません…?

本論から外れますが、ここで、一つのアイデアを提供します。邪馬台壱国(ヤマ・ダイ―随書にも608年隋の文林郎・*(はい)世清の報告書に*(ダイ)国が登場します。―)国が正式な名称で、台壱を複雑な中国漢字で表記したらどうなりますか?

ご存知のとおり台と壱の原文字は論争になるほどよく似ています。このような場合、表記や刻印の能率化の方便としてどちらか一方を省略するケースがあります。この場合どちらの文字を省略するでしょうか…?

これが、両文字による表記が残る理由と考えますがいかがでしょう…―

また、「中国鏡の出土状況から倭の諸王が佐賀県を中心にした九州に分布したことは明らかで、倭の宗主国は伊都国

(福岡県糸島郡?)の南にあるということは、吉野ケ里遺跡の位置にあり?発掘された望楼や倉庫などの建物の配置が倭人伝の記載とおおよそ符号することなどから吉野ケ里は卑弥呼の邪馬台国そのものである」と述べています。

―現在の糸島郡が伊都国であったという通説は現在の地名から類推して他にふさわしい場所がないことにより、あまり定かな根拠はありません。、吉野ヶ里は糸島の西で、南ではありません伊都国は何処にあったのでしょう?・・・加治木義博氏は伊都は数詞の五

(イツ)で牛津(ウシツ=ゴズ=五津)と主張しています。ちなみに伊都国が末羅(現松浦市)の東南とするのもこの説の方に適合します。他の地名と同様伊都も変遷していると思われます。

・・・このように混乱した話から始めるのは、現在の日本史学の混乱した状況をなぞらえるためです。なにしろ、珍説に至っては、臆面も無く「奈良県に魏史倭人伝中の耶馬台国そのものがあった。」と主張する者さえあるのですから…。

その歪みの根本の理由は、この国土に住む人々の文明を侮り、アジア世界との結びつきの深さを見誤り、「外界から隔絶された島国に、二千数百年連綿と続く世界にまれな単一王国文化」などというありえない空想に固執しながら実は、高々千数百年程度しか見えぬ視力であるためなのです。

その誤った思想の土台には、「縄文人?という原始人がおり弥生人?という文明人が文明を齎し国を創った」などという発掘考古学の断片資料をもって人間の品定めをして分類するような方法で多くを断定する愚かしい無理解があるのです…。ここにも近代主義の先進、後進という生産力史観が潜んでいます…。縄文の文明は近代主義者が主張するよりもずっと高度に文化的で、多数の文化の高い国々を営んでいたことは既に明らかなのです。

異なる類型の権力の登場は、異なる集団の侵入としてしか説明がつきません。しかし、それは決して文明的な弥生人による未開の縄文人の征服などという薄っぺらな解説によっては解決しません。

それは唯、縄文人の文化の類型が、弥生人の文化類型へと置きかえられたということを意味するに過ぎないのです。

また、三世紀になって始まる古墳時代という画期も、それ以前の低い文明段階から高い文化段階への飛躍と捉えることはできません。

これまで私達の教えられてきた学校の教育は、新しい征服者の侵入による権力の変貌を生産力の増大による国民文化の高揚すなわち、日本国の誕生への予定調和的前進ととらえる、腹黒くあきれるほど能天気な飛躍にすぎないのです。

低い段階の文化をより生産力に優れた征服民族が制覇して文明を高めるのが歴史であるかのように描くのは、多分に西洋植民地主義の影響を受けた近代化万能主義の「科学的史観」の特徴です。

悲しいことに、今日の日本の歴史学の学派のほとんどは、もれなくこの傾向を備えています。

これらのこじつけの行き着く先は、考古学的資料を御都合主義で勝手に読み替え国体(国学の史観)に接ぎ木するところにあります。

この国体は明治時代に初めて成立した統一民族国家・日本の思想的(イデオロギー的)核心であって、この状況は天皇を象徴と位置づける日本国憲法をも支える柱でもありますからそう簡単には揺るぎません…。

発掘考古学的事実は、この国体の踏み絵によって倒錯されてしまいます。

様々な権威の虚飾に包まれた驕慢な人々は、これより、自ずからこの国体の守護官となります…。

この矜持に溢れた教養(史観)を身につけた途端、大和の古墳と日本書紀の結びつきを描き出すこと、すなわち悠久の日本大和民族の知恵と尊皇の性癖を証明することが使命となり学説は変貌してしまうのです…。

致命的なことに、やがて、この列島以外なにも見えなくなります。

例えば「朝貢」とは既に発見され具体的に侵略されることを畏れて臣下として申し出ることであるにもかかわらず、「尊大な中国人は、我々を野蛮人とみなし臣下の所在にさえ興味を持たず、方角さえ定まらない」などとねじれた主張をしてはばからないのですから…。

中国の政権の統治政策から極東が外れていたなどということは一度たりともありませんでした。彼らにとって極東の支配がいかに重い意義をもつか…隋はこのために滅亡しましたし、何時の時代にも中原の支配者達は、常に西の匈奴と東の夷族と戦うことにより中華アイデンティティを醸成していたのでした。また、西と東の王朝は相互に婚姻を結び、中原の拡張を牽制しあっておりました…。

実際に彼らの権力闘争がこの国土の支配者をどのように変遷させたかについては、やがて明らかになるでしょう…。―

はたして吉野ヶ里は本当に邪馬台国なのでしょうか…。

春秋戦国時代の魏の歴史書・魏史の東夷伝倭人条に記された倭人の宗主国・邪馬台国は何所にあったのでしょう?

そして、倭はどの範囲に広がっていたのでしょうか?

確かに、我々が「単一の大和民族」であるためには、古すぎる過去を水に流し大和の地からはじめるのが好都合のようです…。

「日本書紀」は、実際にそのように「歴史」を描き、政治的権力の簒奪を果たした大和天武―藤原の王朝が古の昔より倭を支配した正統王朝であるかのように工夫をこらしています。

そして、一千年間の封印の後に徳川幕藩体制の動揺により古の「日本書紀は」開封され、大和朝廷の権力を巡る権謀術数や民族や宗派的死闘の数々ははまろやかに熟成され万世一系の調和に包れた芳香であるかのように人々に迎えられました。

― 日本書紀に秘められた政治的意志

日本書紀は、中国の辛酉革命説( 辛酉年には革命がおこる。特に干支一運の二十一倍の辛酉年には 大革命がおこるというもの )に基づいて、壬身の乱の終結をもって朝廷内の出身系列間の長い派閥闘争に終止符を打ち、「太古よりの正統王家による新国家・日本国」 の成立を宣言する目的で編纂された政治的な…しかも藤原系王族の意向に沿って編纂された書物です。個々の歴史的事実の記録はともかく、その構成は終始この目的に絞られており、不都合な歴史事実は排除され、排除しえない部分は周到に脚色されています。

年代は辛酉にあわせてケースバイケースで二運

=百二十年も繰り下げられ、登場人物の系図は作り変えられ、官位や身分は変造され、多数の国の人物が挿入され、舞台となる地名を大和周辺にばらまいて、神話的な装いを凝らし真実の土地や人物が分からないように工夫されたた政治的書物です。

しかも、その内容に合わせて、証人の殺害や追放、系図資料の取り上げが行われました。さらにその出典と偽って、失われた多氏古事記を復元するために大伴氏の創作した古事記を改竄し裏づけ用の種本として用意して、全国の神社宮司を通じて民間伝承の創作、改変を組織的にすすめるなど国策の中心課題として周到に計画され、徹底したものでした。

藤原氏の業績

新興王・天智と謀って在地の支配王を焼き殺し、次に天智を欺き天武を「傀儡として」飛鳥王朝を「乗っ取った」藤原氏…。

その権力欲と策謀の凄まじさは子・不比等に引き継がれ、やがて失われた加羅の神アマテル神の復活を通じた歴史の捏造によって、新王朝の神格化へと突き進みます。

 

その後の時代にもこれが習俗化し、御用学者が石碑の偽造などを繰り返したため偽書はますます真実味を帯びてきます。

「稗田の阿礼も殺されき」

という恨みを湛えた石碑が九州の野に佇んでおります。今日では、官立学校で「稗田の阿礼が文字を持たぬ野蛮な原住民のユーカラであった」 などと珍説を教えるありさまです。万葉集の編纂さえこの政治目的のために奨められたもので、日本書紀を裏付ける偽歌が随所に編入されております。実は藤原鎌足の活躍もまた架空の説話なのですが―

しかし、やがて味覚は昂揚し、今や芳香は贋酒の匂いをさえ漂わせております。

不都合なことに、「魏史倭人伝」には、邪馬台国について、温暖にして冬にも生野菜のとれる風土や、男は全身に刺青をし朱丹を塗り、女は一枚布に穴をあけて頭から被る簡単な服装などの暖かい土地の風俗、米ではなく豆を食べること、さらには倭国に至る里程まで具体的に記述されていますが、どれひとつとして大和に適うものはありません…。

―御用学では御都合にあわせるために、記述や引用の間違いのせいにし、果ては驚いたことに、後代のいいかげんな地図を引き出して南を東と解釈すると言い出し一家をなすありさまです??―

長い間、日本の歴史の土台とされてきた「日本書紀」には邪馬台国という名はどこにも出てきません。

奈良飛鳥の大和の王権は、この邪馬台国とどのようなご縁があるのでしょうか?

日本書紀神話によれば、神武天皇の東征によって、大和の支配者・安日彦は殺害され、長脛彦は追放されたとされますが、この追放された大和の先住民の兄弟王と邪馬台国の絆は…?

三世紀末頃、飛鳥に侵入し王権を打ち立て、突然この地に前方後円の巨大古墳を築きはじめた人々は何処からやって来たのでしょうか?…

―疑問は次々と噴出し、解決はさらに遠くに去り、邪馬台国への旅は定年退職後の豊かな知的娯楽として愛好され続けます。

しかし、人生は永遠ではなく年金生活には確実に終焉がおとずれますから、そろそろ曖昧でない結論がほしいものです…。―

歴史観は、文化の根源です。今日のように、時代が閉塞し新しい文化の創出が求められる時代には、その確かな土台として、正しい歴史認識が求められるはずです。

この小冊子は、その素材を提供するためのものでありますから、異聞に対する多少の耳障りを我慢なさって、もう少し先まで読み進めて下さるようお願いします。

日本「島国論」の虚妄

「日本は島国であり、海によって外界から閉ざされているために、比較的外国の影響を受けることなく独自な日本民族・文化が発達した」というのが、今日の我々の歴史観を支える通念です・・・。しかし、これは、殆ど根拠のない迷信なのです。

八世紀頃には既に、日本海を中心に複数の帆をもった大型の船によって、定期的に海産物や金属などの交易がおこなわれていたことが、送り状などの確かな資料によって裏づけられています。

江戸時代以来、長い間の鎖国時代を通じて、数千の兵を海を越えて運ぶ海の民としての倭人の海運力についての認識が退化してしまい、丸木船や筏で海を越えるような錯覚が根強いようです。

なんと筏に乗った仏教僧がお経を持って難破を繰り返し、遂には潮風で失明した話まで登場します。

元々、倭人は極東の海を支配する民であり、その海運技術は内陸の諸民族より格段に古く優れておりました。

実際、唐といえども、大陸側の海人(倭人の同族)の海運力を支配することによってしか海を制することはできませんでした。

松前船や伊勢の安宅船のような立派な造船技術は古代から引き継がれたものであることを忘れてはなりません。

人類の造船の歴史ははるか悠久に古く、旧約聖書のノアの箱舟は有名でその痕跡?とされる遺物らしきものが人工衛星から確認されているそうです…?

エジプトピラミッド内で発見された外洋を航海する船をご存知ですか?

紀元前数千年前に外洋を走っていた船があれば、その外洋にあった民族のところへもこれは伝わっているとする方が正常です。

日本の四国足摺岬にはシュメール人?の反射鏡機能を備えた「灯台」らしき巨石が並べられています。

また、エジプトから南米への海路に浮かぶイースター島には航海する太古の外洋船を威嚇する巨人像が林立しています。

我々の近代主義の概念では、技術は進歩するものとばかり考えられておりますが、現実では、技術は、戦乱や災害や文化の様態により衰退し退化することさえ普通なのです。

この国土でも、縄文時代には、北海道や東北と日本海沿岸や沖縄との交易が成立していたことが考古学的事実によって証明されております。

中国の史書によれば、徐福は三千人ともいわれる人数を引き連れて渡来しています。また琉球出土の粘土板には多数の櫂を備えた軍船が描かれております。軍船は多くの人力による機関船のような櫂の大動力を持っていたため帆に頼らず、むしろ安定を損なう帆柱を備えませんでした。

今日のような技術革新の時代でない古代に、海運技術は突然に進歩するものではなく、それ以前、千年の時代に亘っても同様の事情であったと考える方が自然です。

―日本海域の海上の交通は、縄文時代から活発でした

沖縄のハーレー船や台湾の海岸に普通に見られる船クラスのものはもとより、数十mの帆船や、帆にたよらず数十の櫂をもつ三層の快速軍船もありました。ボルブドールの遺跡に刻まれた帆船を見て下さい・・・。―

紀元前後の倭人は、もっぱら南海中に生活拠点を置く海の民で、今日我々がまるで自然の要壁のようにイメージする海によって隔てられた国境などとは元来無縁の人々でした。

シルクロードの陸上運送路よりはるかに便利で活発な「海の路」は、南インド―カンボジア―琉球―朝鮮―倭―関東―東北―北海道南部にわたって縦横に走っておりました。

―海の支配は時々の権力者達の重要課題でしたが、如何様にしても支配しきれない海の路こそ、次の権力者をもたらす歴史の幹線なのです。

鎖国など所詮狭い上陸点を封鎖したにすぎず、その意義は、富の権力者への集中を目論んだ関税政策のようなもので、海の路を封鎖し、物資や文化流入を遮断しえた訳がありません。

海を行き交う船は、木船のため跡形もなく腐朽し、焼き払われるためなかなかその正体となる遺跡や痕跡がありませんが、運んだ物資や人数の記録など客観的な状況証拠から判断して相当の大きさの船が想像されます。

今日までも琉球のハーレー船や、アイヌ族に伝えられる十メーター以上の船の大きさから推察しても、その船よりも大きいものがあったに違いありません。筏による渡海などは、船により大量の馬や物資を曳航したり、海賊や密航に利用されたと考えるべきでしょう。―

東南アジアは、古代より一体として繋がって連動しておりました。その中で、海上の路の民族としての倭人(海人族)が存在しました。

「邪馬台国が大和か九州か?出雲国はあったか?」といった華々しい「論争」を収拾のつかぬ混乱に追い込む最大の原因は、この海の道の発達についての呆れるばかりの無理解にあるのです・・・。

「島国文化論」は、バビロニア崩壊から始まる悠久の昔からアジア貨幣

(宝貝)の民として生かされてきた尤も国際性に富む民族であった「日本人」の重要な一祖先を見失い、我々の民族要素を見誤らせる誤まった見解であり、なんとしても正さなければなりません。

倭人は「この国土に発生し根づいた固有民族」といった統治政策上のイデオロギーによっては何一つ理解することが出来ません。

繰り返すならば、中国人から見た「倭人」像は、漁労に長けた海運の民であります。

その活動範囲はインドシナ、台湾、沖縄、南朝鮮、九州を中心に西はシュメール、東は南北アメリカ大陸、南はポリネシアからオーストラリアにまで広がり、我々の語る高々二千年ばかりの歴史の時代にあっては、その海運力を用いて台湾、朝鮮半島から中国東岸内陸部から関東地方奥部にまで縦横に活動していた人々の総称なのです。

「未開の部族である倭人が中国人や朝鮮人から鉄器を手に入れ、北九州で日本国を誕生させたか?それとも奈良県で日本国を誕生させたのか?」などと言う、つまるところ「万世一系の単一民族」という踏み絵を前にした権威ある?論争は、国民のより良い教養の土台である悠久の歴史を狭い国土の片田舎に閉じ込め曇らせる知的堕落・学問的退廃への毒であることを十分に理解しなければなりません・・・。

中国からの海路

まず、中国東北地方の地図を開いて下さい。

中国東北沿岸地方の対岸は、奄美大島、沖縄でその海流の行き着くところ種子島さらに済洲島、九州佐賀です。

大陸から強い海流を横切って直接奄美大島へ上陸することはそう容易でなかったものの、対流する海流を利用して九州を迂回すれば、気象や海流に精通した海の民にとっては、容易に行き来することの出来る土地です。

内陸で陸上を行く苦労に比べれば交易には実に利便の多い土地でありました。

―紀元前二千五百年頃にすでに、海の道は東アジアは倭人、インド海域はクメール人、以西はフェニキア人によって分割されていた可能性があります。秦の始皇帝が中国東北を征服した時代の「中国航海史」には、亀甲文字により船の帆について語られております。また、岩田明氏が

1992年に実際に復元して、インドー日本間で航海して見せた帆付きのシュメール船の例もあります。

記紀神話時代以前に実在した国々と夷洲及び*

(えい)洲、*(せん)

五世紀、南宋の「後漢書」に西暦五十七年、倭の極南界の国・倭奴国の朝貢及び金印授与の記事があり、続いて「会稽海外、東(てい)人あり。分れて三十余国を為す。又、夷洲及びせん洲有り。伝えて言う「秦始皇帝、方士徐福を遣わし、童男女数千人を入海、蓬莱神仙を求めしむも得ることを得ず、徐福誅さることを畏れ、敢えて還らず、比の洲に止まる。世々相承けて数万家あり。会稽東冶県の人、海に入り行きて風に遭い、流移してえい洲に至る者有り。在る所絶遠にして往来すべからず」とあります。

さらにさかのぼる「漢書」地理誌には、有名な「倭人百余国朝貢」が出てきますが、次の指摘にも注目すべきです。

「中国東海岸沿岸には、北から燕、斉、魯、呉があり、他に東夷(白夷他九夷)がある。東夷は大陸の夷が次第に東に拡大した。」

―「東夷伝・倭人」という表記は倭人がこの夷人であり、すなわち大陸の夷であることを語ってはいませんか?―

と記され、また「会稽海外、東(てい

又はし)人あり、分かれて二十余国をなす、歳時を以て献見す。」とも記されています。

―「魏史倭人伝」をあたかも独立の記録のように取り上げて「魏史烏丸朝卑東夷伝・倭人」としての記述の構図を無視、これらの記録を切り離すのは、倭=大和とする論理の飛躍に無頓着なこじつけを意図し、現在の日本国土に複数の国々が存在した事実を封印してしまったためです。

倭=大和には、倭(ウオー)をヤマトと読み替え、これを大和とする操作が混入されています。普通では大和をヤマトなどと読めはしません。―

倭人は、中国東北沿岸から朝鮮半島南部、九州北部を縦横に行き来する海の民であります。

西暦五十年頃、倭よりも東にあった「東(てい

又はし)国」は、明らかに邪馬台国とは異なる国です。

この国土にあった我々の知らない「東*(てい

又はし)国」とは…?

また、会稽海外にあった夷洲及び*(えい)洲の範囲は?

―夷洲は、蝦夷の類推から北海道とし、えい洲はサハリン方面であろうなどとする説や同じ発想から夷洲は東北でえい洲は北海道などとする説も流布しております。…尤も日本のこと以外には呆れるほど無頓着でまともな論議さえありませんが…蝦夷がアイヌ族などと考える誤まった理解からはこれも当然です。それらが何所にあったか?その答えもやがて明らかになります。・・・―

徐福船団の渡来記事

前漢の史家・司馬遷が同時代、紀元前百二十四年の出来事として記録した徐福の渡海は、二百年後の情報収集能力の高い漢の史家によっても語られております。

―最近では斎藤某などを始め多くの素人史家によって訳も分からず侮辱されていますが、広大な大陸を政略

(情報戦)によって統一した彼らの情報精度の高さは、知る人ぞのみ知る高度なものなのです。―

徐福の船団は、「史記」によれば、巨費を注いで訓練され編成された大船団で、紀元前二百十九年に出港、始皇帝を欺き秘密裏に前進基地を築き、翌年更に増補して渡海したとされます。

蓬莱は、荒唐無稽な空想の地のように思われますが、会稽の海上に出れば、良く晴れた日には幽かに島影が見える距離にあり、噴火などがあれば噴煙ははっきりと見えます。始皇帝がその実在を信じ征服を試みたことはなんら不思議ではありません。

「漢書」によれば、紀元前百二十四年には徐福は平原広沢の地で王になったと記され、

司馬遷の記録と一致します。

―実際に王となったのは、徐福船団員の子孫でしょう。ずっと東ですが、佐賀県には徐福渡来伝説があり、金立神社の祭神は徐福で、奇しくも紀元前二百十九年創建との由来があります。今日でも毎年「徐福祭り」が催されます。中国文献からの流用とは言い切れないものがあります。―

徐福伝説は、会稽海外の人々を「中国人」の末裔と描くための「中華伝説」でもありますが、徐福の渡海そのものを否定することは出来ません。中国・呉の人・徐福の渡来時期は人類学上の長身、長頭人の日本出現時期とも符合するばかりか、甕棺埋葬や青銅器製作や古代陰陽道的文化など多くの事柄について、吉野ヶ里と大陸沿岸の風習面での間接的な符合を示唆します。

―秦の始皇帝を魅了したという会稽海外にある不老不死の常世国・蓬莱とは?

最近まさにその会稽海外海中に驚くべき遺跡が発見されました。

それは八重山群島の海底に眠る巨大神殿?です。

これが何物であるかはまったく分かりません。しかし、ティティエンイッツアなどの南米の古代遺跡を彷彿とさせるこの古代遺跡は、所謂「縄文文明」などによってはとても理解しがたいスケールのものです。

この地域に高度な古代文明があったことは、単なる可能性ではなく、我々が現にその姿を見ているわけですから明らかです。

その昔、地殻変動によって?滅びた大文明の記憶を人々が常世の国・蓬莱として語り伝えたとしたら…?

中国長江四川省の竜馬古城には、黄河の麦作文明よりも早くから階段状ジグラードをもつ米作の都市文明が栄えておりました。まだ全く研究されておりませんが、この文明の痕跡は八重山の遺跡にかかわり、日本列島にも分布している可能性さえあるかもしれません。―

徐福に代表される中国沿岸の民の多くは、秦の始皇帝の侵入によって彼地に追われ、秦の圧政に苦しむ人々でした。

また、元々の沿岸の民はおよそ四千年前のバビロンの崩壊以後、東方へ拡散した殷文明の末裔で古代アジア貨幣=宝貝の交易によって鍛えられた海の民カリエン人でもありました

―ミャンマーの山奥やチベットにまで倭人と同じ家々や風俗の人々が暮らしております。彼らもまた匈奴の末裔で、ペルシャ系の文化を持つ鉄勒人や東西に分裂した突厥人達でした。漢民族への同化に抵抗を続けた人々は次第に中原から遠い「辺境」に追いやられていますが、最近のテレビ等に登場する「辺境」の人々の顔形や「文化」があまりにも「日本人」に近しいため今更ながら驚かされることが多いようです。―

予てよりさらに東方の地理に通じており、秦以来歴代王朝の圧迫から逃れる時は、何時も東方の新天地に脱出したであろうことは、彼の地理や海流を知れば至極当然の成り行きです。

実際、犬神を祭る日本人

―小林*(やす)子氏は、犬祖伝説と中国西北部の遊牧民・犬戎との係り、狗や奴のつく国々についての氏族的な連携について洞察力に満ちた論考をしています。―

には、中国の古代国家、殷・商の文明へのつながりが感じられます。

―「日本人」が伝える農暦やメジャーはシュメールやエジプトのものです。―

対岸への海流の行き着く先は、琉球諸島や朝鮮半島の南端から九州の諸島です。

この地の民は、大雑把な分類によれば、インドシナから朝鮮北部まで広がるカリエン人コーレー

(宝貝=高麗)です。

―南九州では既に九千年前には部族集団を形作っていたらしい米作遺跡が発掘されています。―

徐福の到来がこの国土でどのような結末を迎えたかについては知るすべはありません。

空想の翼を広げるならば、徐福船団は、銅剣と彼らの祭祀シンボルを携えて台湾からこの列島までの何処かに上陸し、倭人の一部を政治的に統合し、布教したかもしれません…。

西暦二百年頃の記事としては、「三国志」呉書・倭人条に、耶馬台国七万戸―通説では主に統計学を利用した人口計算により三十万人程度とされるが、倭人の一戸は大型の集住住宅で妻が少なくても三人から四人はおり、老人子どもが妻一人に五人としても一戸の人数は十人以上…即ち七十万人となります。この統計学的計算との大きな誤差によりどちらを信じるかは国土の在りかを探る上で大問題となります。

統計学的手法は精密で一つ一つの推計は究めて正しいものですが、始点のとりかたの違いや発掘頻度の地域による大きなばらつきを補正するプロセスさえも統計学的に確定したドグマを利用します。

しかし、具体的に統計学を当てはめる段階において合成の誤謬が発生した場合、誤差はドグマにより積み重ねられ増幅拡大します。

ここは、単純に記録にある戸数に平均的人数をかけるやり方が勝ると考えられますがいかがでしょう。―

の他、東方海を越え

一万二千里という同時代の魏書の記録の制約から九州島以南…倭種がいると記されています。

また、同書呉主伝には、西暦二百三十年に孫権が兵一万名に命じて東方調査

―呉が魏に敗れるまでの間、南海の倭(邪馬台国)は呉の支配下にありますから、当然、南倭より東方の調査です―をさせた記事があり、この調査に符合する記事が「後漢書」の「東てい人数万戸あり、漢に朝貢」の記載であります。

三世紀頃の中国側の常識として、沖縄・奄美から九州に倭があり、倭の遠方に「東(てい)国」がありました。

古くは後漢時代に成立した「山海経」に「*燕は南倭に在り、北倭は燕に属す」と記され倭人が南北に分断統治されていたことを記録しています。

また、漢人の王朝である南宋系の正史には「東倭」が、常に記載されております。

しかし、晋以来の匈奴系の王朝への移行により文字記録への執着は薄れ、徐福と東倭の記録は途絶えてしまいます・・・。

紀元前五世紀春秋末期となると、江南の呉・越間の争奪戦は熾烈を極めるようになり、敗軍やその難民が大量に海上に流出するようになり、東南アジア海域への大陸人の影響はいよいよ色濃くなります。

倭列島に「弥生文化」をもたらした人々が、この大陸人であることは、生物学的形質分析や民俗学的研究によって、もはや殆ど反論の余地はないと言ってよいでしょう。

―稲作と大陸人の関係については、この渡来した人々が稲を持って流入したと考えるのはやや行き過ぎのようです。発掘考古学上の資料によってもそれ以前から既に列島に稲作があったことは明らかですし、今日の大陸人の主食が麦に偏っていることからも推察できるとおり、米の文化はもっとずっと古いものです。縄文人は狩猟民で、米文化が弥生人の渡来と同一で倭人が米とともに生きる民族であるかのような誤まった認識は、発掘考古学の成果によって次々と否定されつつあります。―

扶桑国など

五世紀後半以降の事情を記した「梁書」諸夷・東夷の記述には、倭以下、扶桑国、文身国、大漢国、女国が現れます。

これらを当時の中国語でどのように発音するかについては、いまのところ研究が至りません。

―文身国の仮面・刺青の風俗が能登半島のものに酷似しているため、文身国を越とする説もあります。数千年間の国土や風俗の移動は想像を越えるものがあり、その地を直ちに古代文身国に比定することは出来ませんが、残された地名や姓名を手がかりとする検索は有力です。―

漢書には、「夷州には東夷が拡張」とあり、九州以北に北の烏丸・鮮卑族などの流れを汲む東夷が広がったと思われます。

―一般に言われるような「縄文人=アイヌ系から弥生人=倭人への発展」などは事実ではありません。日本人の古層の一部・アイヌ系種族は高句麗の北東に隣接した国・邑婁

(ユーロー=粛慎チクシ氏)の民と同族で、彼らは与那国(ユーナ国)と関わりのある人々で、宝貝貿易の為にヨーロッパへでかけた古代ギリシャ人(毛人=白人)にも連なるという説を信じますか?

疑うなら秋田美人の肌や顔立ちを実際に触れてご覧ください…。

ちなみに邑婁人は夏は裸、冬は身体に動物脂を塗り毛皮を着ていました。加治木義博氏は、「邑婁原姫の伝承によれば「雄牛に連れ去られたユーロの姫を追って、ユーロの王子が彼の地から出発して古代ギリシャに住み着いたのでユーロ原

(パラ)という」という粛慎の伝承を紹介しています。

これはギリシャ神話そのものでおよそ現代人の常識を覆すものです。・・・九州の筑紫という名もこの粛慎と無縁とは思えません・・・。

しかしまた他方で、アイヌ人の衣装や名前はインドシナやペルシャとの深いつながりも観察されます。最近のウィルス研究の成果によっても彼らが南の人々に近いことが証明されています。おそらく、この南北問題はもっと深く悠久の歴史的民族移動の問題で、今のところあまり知った風の論を立てるわけにはいきません。―

古代国家・商の時代に古代貨幣・宝貝産業を営む東南アジア貿易の主人公達の中から誕生した倭人集団の特徴は、漁業はもとより鏡師、機織りや船師、医薬師など工芸に優れた集団で、農耕用の広い土地を持たぬ貿易民でありました。

多分、各地に拡散し、島々に離散し大地を持たぬ民を統合し続けたものは、氏族的な宗団であると思われます。

この宗団の祭祀的特徴は、各地の神社や、祖霊憑依する巫女を囲む沖縄や津軽の習俗として我々の文化の中に伝えられていることは、容易に感知することができます。

コーレーは、中国の物産を運び各地の先渡来・先住民と同化しながら金属文化を拡散させ、東南アジア海洋上の島々から関東沿岸にまで足跡を残しております。

―加治木義博氏は、やがて、宝貝貨幣の金属貨幣への変化によって宝貝産業は衰退し、生活の糧として

殷の稲作技術(陰陽の暦)を身につけて漁労・農耕民化したと述べています。―

これが外国文献によるこの国のはじめです・・・。

総じて、記録が指し示しているところによれば、三世紀以前の「倭人についての記録」は、九州以南の地域の出来事のようです。

―所謂「邪馬台国」論争の枠組みは、「オリジナルな大和王朝文化」などという実利的な権威派と王朝の権威に刃向かう多分に左翼的な反王朝派との間の凡そ学問と無縁な政治的権力争いのように思えます。

大和=倭の最大の論拠である巨大古墳が魏史に記録された邪馬台国の文化であるなどというのは全く根拠の無いこじつけにすぎません。

前方後円墳という加羅系の墳墓は三世紀の卑弥呼の死の直後から築造され始めるのであって、その築造が始められたことと卑弥呼が権力を喪失した(殺害された)ことは密接に関連しているようです。―

南海の倭人国

常識は大いに揺らぎました。

そこで、もう一度原点である魏史東夷伝三十条(所謂倭人条)にたちかえりましょう。

「倭人は帯方の東南大海の中にあり」「その道里を計るに、会稽の東冶の東にある」とあります。

―この段落は、是非極東アジアの地図を開きながら読んで下さい。―

朝鮮半島の帯方郡の東南(東ではなく東南と正確に方位を刻んでいることに注意)、すなわち、倭国への行路の入り口が九州にあることが明記されています。

その位置は、会稽山のある夏王朝期の会稽国の東方、しかも、態々台湾の対岸内陸に当たる「東冶」を指定し、その「東冶」の東(北東ではなく東であることに注意)と狭く限定しているのです。

この位置にある島は日本列島ではなく琉球諸島です。

四国、九州を含むことは可能ですが決して本州ではありえません。このことは、続く文脈によっても読み取れます。

「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え或いは連なり、周旋五千余里可りなり」とありますから、孤島や島々が連なっていると描写しています。

その範囲は、うねうねと五千里ということですから、沖縄から九州までほどの広さということになります。

女王国の先には、斯馬国以下北から南の奴国まで二十一国        

「女王国より以北はその戸数道里は略載す可きも、其の余の旁国は遠絶にして得て詳らかにす可からず」―

(東西の方位がなく記載されている点に注意、すなわち直線的に並んでいますから東西のある内陸ではありません)が続きます。

その南には女王国に服属しない狗奴国があります。

朝鮮半島経由での邪馬台国までの里程はどうでしょう?

―ここでは「南は東であるという珍説」や「風聞を記したもので邪馬台という名前以外は全部誤記」という人を食った説については相手にしません。また、魏の里程が、秦以来の漢の長里ではなく短里(一里77メートル位)であることは測量法による研究によっても裏打ちされていて最早常識ですが、この小冊子の読者は邪馬台国論争について詳しい方々を対象にしておりますので長里、短里論争については省略します。―

吉田武彦氏は、帯方郡都から伊都国までの里程一万二千里を上手く解読しています。

しかし、これでは北九州の不弥国にまでしか至りません。

もう一度、その先を普通に読み直してみましょう。

魏史倭人伝の里程の記載では普通の漢時代の表記用法からは所謂放射線行路説はなりたたず、直線行路と考えられますから、

―詳しくは白崎昭一郎氏の指摘を参照して下さるようお願いします。―

「南、投馬(ツマ)国に至る水行二十日」とあり、

―末羅の東南伊都の東南奴国の東不弥国から船で岸沿いに停泊しながら二十日投馬国に至る、薩摩はツマを含む名前です…

倭人語でサは方向を表すとすれば、投馬は薩摩近辺にあります。

末羅国からの方位を無視して伊都国を福岡県の糸島とするとこの行路は豊後水道経由で日向灘に沿い宮崎県の西都原古墳近郊の妻(ツマ)までとする説が妥当性が高いようです。

また、末羅国からの方位を重視すると伊都国は糸島ではなく佐賀方面となりますから有明海、八代海に沿って鹿児島方面となります。―

「南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」…島々を経由して十日、やはり辿り着く場所は、東冶の東にある琉球諸島です。

中国文明が継承している測量技術は古代より正確で、「部分里程の総計」などではなく、測量法により計算され測られておりますから、帯方郡の都からの直線距離は「万二千余里」とすると、奄美大島まででドンピシャとなります。

―陸行一月を重視して沖縄本島と考える説もあります。―

女王国(邪馬台)を奄美大島とすると、南の港に上陸して急峻な山路を超えて反対側の王都までの厳しい難路によりますから、陸行一ヶ月も決しておおげさではないそうです。

不弥国から先の詳細はともかく、所在については、その入国路から方位広さまで実に立体的に記録されていて充分であります。

しかし、なぜか日本学のマカ不思議な文献解読の綾に絡まると、堂堂巡りの挙句常識的に?九州北部に落ち着いてしまいます…。

何故なら何よりも「南方海上、沖縄方面に行ってしまうという不都合」を生理的に嫌悪し、ヤマトは日本という信念に凝り固まっているためのようです…。

沖縄方面ではなぜ不都合なのかはわかりません。

前述のとおり、位置も風土も風俗も、誰にもわかるほど明白に琉球諸島付近を指し示しているというのに…

―このような頑なさの弊害は、半島経由で降臨した「筑紫の九州王朝」と南から北上した倭人の王国との接点を見失わせることにあります。―

どうでしょう、「魏史倭人伝」の時代には、邪馬台国は琉球諸島に在ったことがお判りになったでしょうか…。

すると、ややこしく難解に捻じ曲げられた倭人像は様変わりし、記録は常識的に受け入れやすいものとなり、その効果として、台湾や中国、中央アジアの動乱による民族移動と我々の深い結びつきが表出します。

また、これによりかえって、北方から降臨した尊命達の歴史的性格も分明されることとなり、さらに、北陸以北のまつろわぬ人々についての手がかりさえ表出することとなるのです。

邪馬台国の位置の意味は、それほど重いのです。

これにより漸く、我々の古代史が、外部世界から隔絶した島国のユニークな文明などではない「普通のアジア文明」に連結されることとなるといってもよいでしょう。

 

女王 卑弥呼

在野の顕学(歴史言語学者)・加治木義博氏による面白い説を紹介しましょう。

卑弥呼を魏の時代の発音で読むと

phemyergo(ピェミャルゴ)となるそうです。

卑弥呼が記録される「魏史倭人伝」は魏の正史ですから当然、魏の時代にはこう発音されていました。

マレー語ではピェーミェルは政府という意味で、ペーメーロクは保護者を表します。

―アイヌ語でもピミクは「解き告げ吠える」神託を下す人を意味するそうです。―

彼女の居た高天原はどこでしょう?

加治木義博氏は、次のように指摘しています。

「日本書紀の本文の最初の高天原の下に「訓高下天云阿麻下効此」と割注があります。

―なるほど氏の指摘の通り、何故これが千年に亙って無視されてきたのかは本当に理解に苦しみますが…ー

ズバリ高

(コウ)阿麻(アマ)(ゲン)と読めという割注です。

高天原はタカマガハラやコーテンゲンではなくコーマゲンすなわちコマゲ

(熊毛)ですよという親切な注釈なのだと言います。

天照大神が降臨した場所は高千穂の峰

(鹿児島)―御用学者達は都合が悪くなるとコロコロと山の場所さえ変えてしまいますが―と明記されていますから、その南には屋久島や種子島を含む鹿児島県熊毛郡があります。

その周辺を探ると沖縄本島の北に伊是名村という島があります。

鹿児島発音はaをeと訛る癖があります。すると

izenaizanaで、卑弥呼の父はイザナ岐(チ=沖縄語で父)、母はイザナ美(ミ=女)となります。」

やはりイザナ王は琉球諸島の王なのでしょうか…。

氏は、その妻イザナミから生まれた卑弥呼は大隅半島に上陸、後に種子島

(タチバナ)狗奴国に殺害さたと推論します。

やはり卑弥呼は、鹿児島の女王であったそうです…

「魏史・倭人伝」には、「卑弥呼は鬼道をよくし衆を惑わした」とあります。

―忠臣・但馬守は病に倒れ「橘を食べたい」と望む天皇のために海を越え橘を持って帰ると、天皇は既にこの世に無く、彼は悲しんで詠ったそうです。この美談は実に不思議なものです。橘は南九州沿岸に自生する原種です。

甘い蜜柑に親しんだ私達には柑橘類の酸味はさほど強烈なイメージではありませんが、何故、臨終という重大時に及びあの目の飛び出るほど酸っぱい橘の実を懐かしんで食べたがったのでしょうか?

そう、天皇はタチバナ

=奄美大島〜種子島の出身者だったのです!

スサノウの尊はアマテラスに追放されて「常世の国」へと旅立ちます。

何故かトコヨの国は南方を彷彿とさせます。

スサノウの故郷は、南方の彼方に…。―

「魏史・倭人伝」には、「卑弥呼は鬼道をよくし衆を惑わした」とあります。

「卑弥呼の鬼道」という名は良く知られていますが、では鬼道とはどんな宗教だったのでしょうか?

日本神道とヒンズー教

神道はシンドーと読みます。神通力はジンツーリキです。

シンヅーリキとは違いますか?

シンドーとシンヅーは…?

天は沖縄発音ではチンです。鹿児島発音ではシンです。

宗はソー又はズーです。天宗はシンズー?

人はヒトと発音しますか?それとも江戸弁や関西風にシトと言うでしょうか?

濁音をもたぬシトと発音する人々は神道をシントー、ヒトと言う人はシントーをヒンドーと発音します。

天宗

(沖縄発音のチンスー)はヒンズーです。

これを単なる駄洒落とお考えですか…?

ところで天神は誰でしょう?

毘娑門天

(ビルシャナ仏)がビシュヌー神であることは良く知られています。ビシュヌー(梵語ではkubera=句奴羅=百済)はヒンズー教のシバ神(の妻)であるのは常識ですよね…。

―徐福はこの宗教の中国版

(キョンシーでおなじみの)の神官である方士です。我々の民族と仏教の歴史については、後ほど目の覚めるような視点が提供されます。いよいよ我々を閉じ込める中国優位の歴史観(中華思想)が転覆されます。―

邪馬は、この宗教の神聖なシンボルです。

―インドネシア邪馬

(ジャバ)やフィリピンの人々の言葉ビサヤ、ビコールやタガログは南部フィリッピンから台湾(大和ン)高砂族との共通のマレー古語であります。―現在ではずいぶん変化してお互いに通じなくなっておりますが、単語による意志のやり取りには困らぬほどに接近しています。信じられないなら一つの言葉を覚えて意志疎通の実験をして見て下さい!―

また、琉球の言葉も殆どが同じマレー古語です。

邪馬

(ジャバ)の人々は世界で最も古い宗派で、マガダ仏教徒と争って海上に逃れた古代のヒンズー教徒でした…。

卑弥呼の鬼道はこの邪馬シンドーだったのでしょうか?

―しかつめらしく当て推量で、景教(ゾロアスター教=古代キリスト教的拝火教)のようなものであったと述べる方もいますが?―

中国の鬼は、胡人、すなわち呉や西辺の仏教徒系民族を指します。魏の民族から見て胡鬼、すなわち胡の鬼は、魏の伝承が主張する「洞窟に住み、逃げ込んだ人を捕まえて食った」という胡の僧侶達のことです。

三国志の時代、魏の曹操の敵・呉の孫権はこの胡人です。

呉は仏教徒の国でした。呉の海岸の目と鼻の先、琉球のイザナ王の娘・卑弥呼は呉の孫権の一族で、後にその盟邦・燕の支配下にありました。

―倭人伝中の有名な魏への朝貢は呉の滅亡に続く燕の滅亡による危機を乗り越えるためのものであったことは明らかです―

胡の同族である卑弥呼の「鬼の道」とは…?

西暦紀元前後の極東アジア

中国大陸の王権と朝鮮の王国

春秋戦国時代を通じ中国に漢(前漢)が建国し、紀元前一〇八年には武帝が、朝鮮半島内に漢の直轄領土を設け楽浪郡としました。

武帝は紀元前百十一年に南征してインドシナ半島東半分までを支配下においています。

楽浪郡の設置はこの南征にも連動する東征とも言うべき漢の拡張政策の一部で、これにより、半島から南下する人々と日本列島や琉球列島の人々の間に大きな軋轢が生まれ、政治的動乱が引き起こされたことは想像に難くありません。

この時期は、考古学的な意味で弥生列島への「古墳時代人」の出現の時期に符合します。

―敗戦避難民の渡来のように考えられがちな「渡来人」は、実は、漢王朝との軍事的衝突をも回避しない組織された軍事集団(国)の列島上陸であったのです。

渡来した国は、漢王朝と対峙し、隙あらば半島への反攻を企てていました。

この「渡来人」が上陸した地点にはすでに高い弥生の秩序を備えた国が存在しました。

状況証拠からしても、また倭人伝にもあるとおり、弥生の国には身分序列が確立し奴隷を従え軍事的組織をも有する国でありました。

弥生の国は、吉野ヶ里以南の女王国(邪馬台連合国)の他にも奈良の唐古・鍵遺跡や大阪・桜井市の遺跡など整備された環濠を伴い、祭祀施設や倉庫群、身分位階別に整然と区画整理された居住区を伴う高度な秩序社会でありました。

教科書的歴史では、「くにから国へ」などと牧歌的共同体である縄文の「くに」が、弥生文化を飲み込み銅鐸の音で召集される村会のロマンを漂わす文明的な国が誕生したかのように描きますが、これは誤解です。

しかも、「山海経」によれば、この国々は周の時代の初めにはすでに燕

(北京地域)に属していたと記されています。実際、南部朝鮮や沖縄からは多数の燕の明刀銭が発掘されます。―

西暦元年頃には、王奔が漢王朝を簒奪するなど漢王朝の動揺に乗じて、高句麗王朝が成立し朝鮮半島北部及び中国東北部を支配しました。

朝鮮半島を中部で分断するかたちで楽浪郡の配置が存続し続けたのは、半島中部が山東半島から黄海を経由して中国に至近であることによります。

中国政権は、楽浪郡の配置により半島の南北を分断し、高句麗の中国進出を牽制するとともに、半島南部の諸国及び倭人を監視しました。

三世紀初頭になると、後漢朝は内紛により乱れ各地は無統制状態に陥りました。

中国から楽浪郡への行路の戦略的要地、遼東半島では、遼東太守・公孫度が台頭し漢王朝から自立しました。

公孫度は、内海を渡り山東半島の東莱郡までを傘下にし、遼東候・平州牧を僭称します。

西暦二百四年に公孫度が死亡すると息子の公孫康は、曹操に追われて遼東に逃げ込んだ袁紹を殺害、その功績によって後漢の左将軍に任ぜられました。

威勢をかった康は、西暦二百七年に独断で楽浪郡の南部に帯方郡を設置しました。

我々の日常的な感覚では、邪馬台国は、孤立した島国の「悠久の昔である縄文の霞」に包まれているように思われておりますが、実は文明の真っ只中のこの時代の出来事であったのです。

我々の歴史は、まるで大陸の動乱から隔絶しているかのように思われておりますが、一歩島国文化論から離れて冷静になると、しきりに半島や大陸との生き残りをかけた外交を繰り返しており、大陸や半島の記録によれば、海を越えた戦乱の当事者でさえあったのです。

どうやらそろそろ倭国については、無難な一国論から東アジア世界の中での倭人論へと視座を移さなければならないようです…。

所謂45年体制とか55年体制とか呼ばれる官僚主導的な国家制度も、具体的な政治情勢による現実的な選択の結果の産物でありそれなりの成果や歴史的意義を有しているもので、決して「日本書紀の誤った解釈により成立した」などと幼稚な解説で済ませるわけにはいきませんが、もはや国際的にはエゴイティックで破綻さえおこしつつある「一国平和主義」や「官僚主義的規制←日本的エリート主義(学歴社会)」がこの学校教育的歴史認識「ジャポニズム」に支えられていることは明らかなのです。

最近ではハンチントン教授の「文明の衝突」というベストセラーによっても、日本文化特殊論(なんと他の文明とまったく異なる文明類型の一つに祭り上げられています…)が喧伝されましたが、これは外国からは反日的「日本異質論」を助長する誤った認識で、日本人にとっては「ジャポニズム」を煽り国際化を阻害し国家の進路を誤る重大な間違いです。

氏の論の背景となる理解は、極めて日本的な「ジャポニズム」をまるで科学的事実であるかのように誤解した不勉強によるものであり、ぜひ小論が取り上げる視点からもう一度考え直してほしいものです。―

 

…小冊子は、以下248頁ほど続きます。次第に連載しますのでお楽しみに…

 

 

―「官許日本史」を揺るがす

         「日本史異聞」―

倭国大乱

倭については、朝鮮や中国の政権との外交的事績の記録が多く、「倭王師升

(スイショウ)の死後、倭国に大乱がおこり、諸王の協議により女王卑弥呼を立て平和がおとずれましたが、卑弥呼の死後(西暦二百四十七年〜八年)再び戦乱が始まり、また協議の後、女王・台()与を立てた」とする「魏史倭人伝」文末の記録は有名です。

―在野の碩学・加治木義博氏はこの空白について、魏に敗れた高句麗の位宮

(垂仁天皇)は生地種子島に帰還後、西暦二百四十七年に鹿児島県隼人町の姫城にあった天(チン=アメ)の都を攻略、最高祭祀・卑弥呼を殺害。

位宮

=伊支馬は、倭王を僭しましたが女王信仰の厚い倭の諸王の反乱により果たせず「倭の大乱」が始まったとし、戦乱の後十三歳の壱与を新「卑弥呼」として擁立し倭連邦を復活させることで妥協が成立、戦乱は終結したと述べております。

加治木氏によれば、邪馬=八幡

(ヤマ)神を祭る位宮の狗奴・国(クド・ラ)は倭連邦の宗主国となり、鹿児島八幡宮を建立、邪馬壱国と称します。―

朝鮮の「正史」による夫余像

古朝鮮には「壇君朝鮮」「箕氏

(キシ)朝鮮」「衛氏朝鮮」の三王朝が順に興亡したと伝えられます。

―伝説によれば夫余族は、北方の古代国家ミオヤマにルーツをもつ、現中国東北部松花江の流域にいた騎馬に優れた北方の猛民族と言われます。俗説では、それは北方のツングース族が南下したものであると言われます

しかし、最新の言語分析によれば彼らの言葉は南方のマレー語系で南方の高床建物を持つことからもこの常識にはほころびが感じられます。―

夫余族の朱蒙の率いる「北夫余」は、紀元前三十七年頃、沸流水(ペクチェ)の辺・卒本で高句麗を建国したといいます。

ともに「半農半狩猟民系」の寒冷地の騎馬民族である夫余と高句麗は互いに牽制しあい闘争を繰り返しながら、より肥沃な南部を目指して朝鮮半島を南下したそうです。

―三世紀初頭には、高句麗は鴨緑江(現中国吉林省集安)に進出し、ここを都として盛衰を繰返しながら西暦七世紀半ばまで続きます。―

一方夫余では、箕氏が中国からの逃亡民である衛氏に追われ、箕氏の王準は南の倭人の土地・韓(加羅)に逃れ、ここで馬韓を建国したといいます。

箕氏(キシ)にかかわり気になる人物がおります。

原田常治氏が「古代日本正史」文中で三輪山の主とするスサノオ尊の子・大物主尊、すなわち饒速日です。

「饒速日の命」は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と形容されています。これを解読すると、

「天照国照彦(アマテラスクニテラスヒコ)天火明(アメ=古くは沖縄・後に天草などの加羅地方)の樋(=出雲の樋?)の首領の櫛玉(クシタマ=箕氏の魂)である饒(ニギ=豊かにする)速日(ハヤヒ=ソカ=蘇我?)(ミコト) となります…?(注・この解読は筆者により原田氏の主張ではありません。)

原田氏は、スサノウ尊はフルという内蒙古系の氏族名を伝承すると主張します。(氏の主張については全体に文学的想像が勝ると感じますが…筆者はフルは蒙古ではなく、シュメールの古代都市ウルに通ずると感じます…氏の論拠は全国各地の神社の詳細な文献検索によりますが、先述したとおり、大和朝廷の主要な文化政策は全国各地の神社の建立による神話の統一でありましたから、神社の文献は「日本書紀」の記述の「立証」という結果を齎すようです…。

しかし、全国の神社の多くが古くは牛頭=スサノウを祭神とし、しかも、大和の聖地・三輪山信仰の主がアマテラスではなく、スサノウやその子・饒速日であるという氏の指摘は重要であります。)

最初ソ

(薊=朝鮮半島)フルのクシフル(箕氏の降る又はウル)岳に天下ったとされる神が櫛(箕氏)であるとすると実につじつまが合います。

氏の指摘のとおり、この本来の三輪山の日神「箕氏の魂?」は何故か「日本書紀」においては退けられ黙殺されます。―

その後、衛氏は魏によって滅ぼされました。

おおよそ一世紀頃、馬韓の月支国の辰王が馬韓、弁韓、辰韓の盟主として台頭し、都を倭人の多い加耶の地に移したそうです。

三世紀になると、辰韓には新羅が、馬韓に百済が勢力を擡げたと云います

半島最南部・加耶の地には加耶(伽羅)諸国が在ります。

―「辰王の国」は、五世紀初頭までには忽然と朝鮮半島から姿を消してしまいます。彼らは何処へ去ったのか…?―

「宋書」には、倭国の使者が五世紀の中国南朝に対して、「使持節都督、倭、百済、新羅、任那、秦韓、慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と名のった記録があります。

聞きなれない秦韓、慕韓とは何者の国なのでしょう?

―何故か伽羅は入っておりません。―

倭は本当に半島を武力統一したのでしょうか?

しかし、時代は比較的新しいにもかかわらず、中国の史書を始め何所にも、これに符合する倭の覇権の樹立やこれを巡る半島での戦乱の記憶は発見されません。

―「高句麗本記」「三国史記」や「三国遺事」などの半島の「正史」もまた、中華思想を後ろ盾に倭と反対の方向から南下した固有の朝鮮民族を喧伝するための「大韓史観」により解釈され続けております。

権威ある人々の解釈は、日本書紀同様に厚くイデオロギー粉飾を被っており、歴史資料としての精緻な読み合わせによる再検討抜きに「日本史」と接合する事は容易ではありません。―

中国吉林省にある五世紀前半に作られた高句麗の広開土王碑には、当地における倭との戦争での土王の勝利が記されています。

敗北したはずの倭が、何故「六国諸軍事、安東大将軍」を名乗るのでしょうか?

しかも、中国南朝は、百済を除く五国について倭の主張を承認しております。

小林*

(やす)子氏は、綿密な資料分析を通じて、倭王・讃(仁徳)こそ倭を打破った高句麗の英雄・広開土王であると論説しています。

倭を破った広開土王(談徳=慕容佐)は海を渡り倭王・讃となって大陸と対峙したという、「学校教育的常識」からは一聞ではとても信じがたい事実―筆者はおそらく真実と考えます。―を語っています…。

しかし、長年に培われた常識を突き崩すことはそう容易くはないでしょう…。

この事柄は、多くの人々が薄々は感じながらも、「国体の根源に係る事態」として決して触れることのできないもののように誤解していました。

しかし、時代は変遷し、国際化の大きなうねりの中で我々日本人がアジアの人々と共通の歴史的土台を持つことなしには、最早平和も繁栄も保つことが出来ない事態が到来しています。

敢えて自らをユニークな特殊文明と規定して国際的孤立を選ぶのか、それとも、歴史の真実に正対して妥当な友好の方途を切り開くのか?二者択一を迫られる日は既に到来しているのです…。

―不思議なことに島国文化論者はほとんど洩れなく反米的心情の持ち主です。

しかし他方では中国を支那(チャイナではなく)と呼び反中国的でもあり、近代における「日本文化の優位」を誇張します。

両文明に組しない独自の存在の自立を主張する彼らにとって「島国文化論」は誠に好都合であります。

そして、時に利害的な圧迫の少ない欧州に文化の夢をはせかけ孤高の文明に酔いしれます。

まさにこのようにアンビバレントな「近代」こそ夏目漱石亡き後「東西の教養に板ばさみとなって」自己喪失した日本文化人の心景であったといえるでしょう。

「島国文化論」は、こうした鬱屈した日本文化人が共同で編み出した芸術的「文明論」として心のよりどころとなり、

自らを武士(さむらい)と位置付ける独特の官僚文化を生み出し、その意味では確かにユニークな日本特殊論ではありました。

しかし、特殊なのは彼らであって歴史ではありません…。

厳しい現実世界の変遷により、それらは最早時代の足枷となりつつあります。

自らの地理的、歴史的位置を無視し米国を味方とせずアジアにも友を持たず、中国でもない自立を果たし、ひたすら畏敬され他国が友好のエールを送り続けるような子供じみたユートピアなどありえないのです。

そのようなことが実現するためには、瞬時に地球を死の海と化すほどの核や宇宙兵器による重武装をなす以外にはありえません。

それが非現実的である以上、次の世紀をより良く生きるために、好むと好まざるとにかかわらず、まず、我々が過去において「卑しい」アジアの一員であったことを承認しなければなりません。そして誰に味方するのか?決断しなければなりません。小さくともきらりと光ったとき、その光が核の光であることに気がついたのでは遅すぎます。―

…ここまでで本日はお休みです。

予告

―瀬戸内や日本海側の日本人と朝鮮半島の韓人の日常語の音韻や抑揚はうりふたつであり、語彙までもが一致することを多くの両国人は認めたがりません・・・。―

「倭国大乱」は我々の常識よりももっとスケールの大きい海を跨ぐ騒乱であったようです。―

蘇我の馬子は天皇であったか?

「倭国大乱」の謎に到るためには、「日本書紀」に記された歴史と真実の歴史の間にある偏差を正しく測定しなければなりません。

すなわち、日本国成立(「大化の改新」から天武朝成立)期の事情を理解することにより難解に織り込まれた歴史の綾はおのずと紐解かれるのです。

まず、ふんだんに筆者の勝手読みを交えて、初めて「日本書紀」の神話構造の解明に挑んだ石渡信一郎氏の論考を補完(曲解)しながら、氏の説の輪郭をご紹介しましょう。

―繰り返しますが、この紹介は結果的には、かなり氏の高説をねじ曲げていますので、ぜひ、実際の氏の論説については「応神稜の被葬者は誰か」「蘇我の馬子天皇だった」「日本書紀の秘密」「蘇我王朝と天武天皇」以下の本物の著作に当たって下さることをお願いします。―

 

飛鳥

(明日香)

大和の豊日の中心には、古い纏向の都がありました。大和最古の古墳群があるこの地は、東倭の重要支配領域でありました…。

    ―以上は筆者注―

石渡信一郎氏によれば、金首露の弟・昆支は倭地の纏向

(ミマキイリヒコ=任那から来た彦が向った処=マキムク)に入り婿して 「斑鳩(イ=大・カル=加羅の・ガ=土地)飛鳥」 を建国しました。―入り婿は大概征服ですが、石渡氏は征服王を崇神としています。因みに日本書紀は崇神を「ハツクニシラススメラミコト」と呼んでおります。そして記紀神話の建国神・神武の名・神倭磐余彦(カミヤマトイワレヒコ、すなわち、もう一人のハツクニシラススメラミコト)の磐余はそのものズバリ夫余です。

磐余は夫余、即ち慕容氏であり、加治木氏が位宮

=伊支馬と呼ぶ人も実はこの氏族の高句麗王です。

しかし、日本書紀の人代の初代王として最初に斑鳩に入った崇神を百済―加羅王・金首露とすると、百済も磐余ということになります。

高松塚古墳や最近のキトラ古墳の例でも判るとおり、七世紀の王朝は高句麗文化そのものですが、七世紀以降の初期大和王権は、後に明らかになる通り百済の滅亡と戦争「壬申の乱」を経て成立した新政権であり、高句麗文化をもった新政権の成立以前の旧政権も同じ高句麗系ということでは混乱が生じます…。

神話に沿えば、一番その人に似るのは須佐の王子・饒速日命や孫・宇摩志麻治尊(ウマシマジ)となります。出雲風土記も大和三輪山を平定に向かった大物神(饒速日)にそっとふれています。三輪山の主・大物主命は倭豊日百襲姫と神婚します。須佐の王は誰だったのでしょうか・・?ここで記紀の東征物語は突然に昏迷してしまいます…。須佐の王を祭る三輪山信仰は衰退し、疫病が流行しますが、これを治めるべく信仰の主人公は十代崇神に入れ替わります。スサノウの命の失脚に合わせ天照神は復活し、この新しい天照大霊神に屈服した須佐の王子・三輪山の大物主命・饒速日は記紀神話からは意図的に排除されてしまいました…。―

石渡氏は、飛鳥は古代加羅の言葉で、

()()カラ(加羅)とも理解されたと言います。

東=Bは加耶人にとっては鳥=Cを連想する語でもあるため豊日の東加羅は、「飛ぶ鳥の」

東加羅 (アスカ) となると主張します。

石渡信一郎氏によれば、アスカラ

(東加羅) の政権は旨=垂仁、イニシキイリヒコ()、ワカキニイリヒコ()と続きます。その後、イホキイリヒコ、ホムダマワカ()、興とおよそ百二十年間続いたそうです。

百済の王権

石渡信一郎氏によれば、西暦四百六十年頃に、倭王ホムダマワカ

(中国の「宋書」などでは済)の娘ナカツヒメの夫として婿入りしたのは、加羅の兄弟国=百済の蓋鹵王の弟・昆支(コンキ、又はホムチ=誉田王)であったといいます。

―氏の説に準じて解説すると次のような事情となると思われます。

加羅―百済連邦の中では、大加羅(オーカラ)の王は、東加羅で宗首として統治しており、朝鮮半島における鎮守としての百済

(南加羅=ナムカラ)の力が相対的に高まっていました。百済は沸流十済(ピリュペクチェ)の本流を唱え、東加羅王家としても百済との血脈をより強く保つ必要があったためでしょう。

もちろん百済は、倭

(東加羅ヤマト)の力なくしては中国、高句麗に対抗して独立を保つことはできません。

西暦四百七十五年百済

・蓋鹵王一族が高句麗軍に殺害されると、弟の昆支が王位継承順位第一位となりましたが王権につかず、叔父の文周を百済王に即位させ、対高句麗の軍事緊張を利用して、自らは「義兄?」倭王()に代わって倭国王(応神)となりました―

文周王が暗殺されると昆支は、子の余大(東城王)を百済王とし、さらに東城王の死後、その異母兄弟で倭にいた斯麻(武寧王)を派遣し百済王として即位させました。

―中国の文献では余大と斯麻の血縁を否定していますが・・・。―

これより倭の王権は百済系となり、かつ、半島百済との絆は一層深まり、百済と倭

(百済倭)との一体化がすすみました。連邦の盟主・昆支の政策は、加羅勢力に封土をひろげさせる為の倭への植民政策でした。大量の加羅人の倭への渡来が始まりました。その数は原倭人口をも凌ぎ、古墳時代を通じて百万人をはるかに超えるものでした。加耶諸国の一つ安羅(アラカヤ)や多羅(ウガヤ)は国中丸ごと移民しました。関西人の血の半分以上は渡来系のものです

昆支のこの移住政策によりしだいに加羅は実態を失い、朝鮮半島における百済の勢力伸張をもたらしました。百済と百済系の倭に吸収されてゆく半島の加羅諸国は、やがて属国化を嫌い新興国・新羅に接近、半島の勢力は百済系と新羅系に二分されてゆきました…。―

昆支の死後

石渡氏によれば、西暦五百六年に(速)日下(クサカ=ソカの婿)大王・応神(昆支=誉田王)が王都橿原で死亡すると、男大跡王(男弟王=オオド=継体)、―越や甲斐、信濃及び尾張氏等の淀川水系側の勢力を背景に、箕氏系の加羅王族や伝統的な大和川水系の旧勢力を押し退けて―即位しました。

この説によれば、オオドは昆支の実弟で、昆支を擁護するために倭王・済の娘メノコヒメ―「記紀」ファンはまたもやびっくり!日本書紀での継体の正妻は尾張連草香の娘タシラカ皇女です。―の入り婿として、百済から軍事集団を率いて渡来して、既に政権ナンバー2として河内で活躍していたそうです。

石渡説によれば継体の王位継承により旧加羅系の倭は、完全に百済系の倭王朝に様変わりしたと言えます。

―石渡氏は、「継体征服王朝説」は、日本書紀に継体が大和・樟葉宮に入るのに二十年を要したという記述を重要な根拠としていますが、この記述自体が嘘で、天智や天武の「放浪」応神の血統断絶というフィクションのお膳立てのためのものであると主張します。

しかし、継体を昆支の実弟とする説は根拠が薄弱で、むしろ、継体を別系とする「継体征服王朝説」のほうが説得力は高いようです。―

石渡氏は数々の考古学資料を引用しながら、「晩年には、継体即位以来造営の続いた継体の寿墓・大山古墳(所謂、仁徳天皇陵)が完成したと主張します。

―継体の墓は最近では、高槻市にある今城塚古墳に比定する説が継体研究者間の定説となっており、大山古墳=継体大王墓という氏の論理的帰結と衝突するが、今城塚説は「架空の天皇?雄略」を基準において比定されていることから論理的には完全ではありません。いずれにしても、古墳そのものの調査が宮内庁によって阻まれている状況では判定しようがないのです。

ここで「架空の天皇説」に注意を喚起しておきたいと思います。殆どの場合「架空の天皇」については「新撰姓氏録」などに子孫が記載されていないこと、記紀の記載に経歴などがないことなどによりその「天皇は架空である」と断定されます。この背景には記紀の年代記述が「二運」百二寿年単位で繰り下げられていて途中に空白があることが大きいのですが、安易に「架空」と断定することなくもう一つの重大な可能性も視野に割り当てる必要があります。すなわち、複数の国の歴史を張り合わせた可能性です。この場合敗者や不都合な王については名前のみとなり、かつ、「架空」とされる王族は滅びたのですから子孫はありません。

古墳の造営は、被征服氏族とその部民に造営の役務を割り当て勢力涵養を防止するとともに、河内湾を埋め立て広大な農地を切り開くものです。古墳は積み上げられたというより削り取られたのです。―

継体死後のクーデター

石渡氏は、西暦五百三十一年に継体が死亡すると、昆支の死後は傍系となってしまった昆支=応神の子ワカタケル(欽明)が、継体に排斥された加羅系氏族を背景にクーデターを起こし、継体の子・安閑、宣化を殺して大王権を奪取したと言います。

―九州では、この百済系王族の内紛に乗じて、加羅系の筑紫王「磐井」が先頭に立ち、同じく加羅系の豊の国王、火の国王とともに、百済系による政権乗っ取りに抗して反乱を起こしました。戦乱に乗じて盟主・金官国は西暦五百三十二年に新羅に投降し加羅諸国は次々と新羅に奪われたとされます…。―

倭と百済は、「任那復興会議」を開き三千人の倭軍の朝鮮駐留などを実行しましたが、西暦五百六十二年最後の加羅国・高霊が滅び、加羅は滅亡しました。

一方、百済系の飛鳥政権でも加羅の支配地を失った痛手は大きく、西暦五百七十一年、欽明は臨終にあたって「任那」奪回を遺言したとされております。

―これにより倭は、六国軍事同盟の盟主としての地位を失いました。

「任那」とは失われた土地、すなわち、東加羅にとっての「エルサレム」を意味していたことになります。―

応神の子欽明は、政権奪取後、継体系の大王家とも融和策を諮り、殺した宣化の娘石姫を大后とし敏達を生ませ自らの死後王位を譲ったと言います。

―継体を百済と異系列の王と考えれば、ここで王統内部に二系列が発生したこととなります。―

一方、応神

(崇神=速日=蘇我氏の入り婿)系から堅塩姫を娶り石姫の後に大后とし用命(=馬子)を生ませたそうです。

氏の主張を要約すると、蘇我氏は昆支系の大王家であり、稲目は欽明に該当し、用命は馬子に該当する。

さらに聖徳太子は実在の人物ではなく、葬り去られた馬子

(用命)を寓話的に復活させたものとなります。

石渡氏の描く「大化の改新」

石渡氏によれば、欽明の応神系―継体系宥和策は再び両系統への大王家の宿命的分裂をもたらしました。

継体系の敏達の末期には、大王位の後継を狙って継体系の彦人大兄と応神系のタリシヒコ(馬子=用命) の争いは激しく交差し、五百八十七年「飛鳥寺建立の誓願」 をめぐる策謀により孤立させられた彦人大兄は、馬子の率いる討伐軍によって殺されました。馬子は彦人や彦人側の物部守屋の領地、部民すべてを没収し一部を四天王寺などの寺院に分配しました。

馬子(用命)は大王に即位し六百二十年代まで東加羅の専制君主として君臨しました。

石渡氏は「隋書」

にある六百年に隋に朝貢した大王・阿毎多利思比狐 (アメノタリシヒコ)は用命(後に三人格に分割され馬子と仇名される)で、大王の太子・ワカミタフリは後に蝦夷と仇名される人物、と主張しています…。

―古田武彦氏は、これと異なり阿毎多利思比狐は大和王朝とは異なる「九州王朝」の王で九州王朝の滅亡によりその子・薩耶摩は唐に連れ去られたと主張しております。―

多利思は中国の新政権隋皇帝に対して小野妹子を派遣し「日出ずる処の天子…」とする国書を送りました。

国書は、建国したばかりの隋に対する牽制と考えられます。

隋は小野妹子の送使として将軍*(はい)世清を倭に派遣しました。

倭は将軍を礼遇し、国書の表現の非礼を詫び、見事に隋との和睦を果たしました。

―新興国・隋は高句麗との緊張が高まっており、仮に倭国征伐を決意しても高句麗の勢力を強める結果となり利がなく、倭は百済を動員して一定程度の防戦をしていれば逆に隋と高句麗との軍事バランスが崩れ高句麗と隋の戦争が勃発するという絶妙のタイミングで仕組まれた、新興国隋に対する相対的地位の上昇を賭けた冒険的政策です。

そして、その戦略とおり隋は滅亡します。(教科書には「聖徳太子が初めて中国に対してナショナリズムを高揚させた」などというあまりにも馬鹿馬鹿しすぎる解説が載っております!)―

国書はみごとに外交的成功をもたらした訳です。隋との外交的勝利を背景に六百二年には倭は百済を支援して新羅

との戦端を開いています。

六百十二年には隋も高句麗に出兵、以降三回出兵したが撃退され、隋は国力を衰退させ、六百十八年までに新興の唐により滅亡させられました。

六百二十四年には高句麗が唐に朝貢し上柱国遼東郡公に封じられ、新羅は柱国楽浪郡公に、百済は帯方郡王に封ぜられました。

六百二十二年〜六百二十六年の間に用命が死亡すると、太子ワカミタフリ(いわゆる蘇我蝦夷に相当する)が即位しました。

六百四十二年十月に高句麗で、対唐強硬派の泉蓋蘇文

(イリカースミ=後の天武―筆者注)が国王や大臣を殺害、寶蔵女王を擁立して実権を掌握、高句麗と唐の関係は緊張する。

―イリカが寶女王

(斎明)を擁立するのは何故か日本書紀でも同様です???この秘密は後ほど…。―

六百四十三年七月から戦端が開かれ、唐は翌年初には十万の大軍で高句麗に押し寄せましたが、激しい抵抗により退却、その後再三高句麗に出兵しました。

新羅も参戦し唐を援護しましたが征服できず、六百四十九年には唐の太宗帝が死亡、戦いは中止されました。

この期をとらえ高句麗は逆に新羅に侵攻、呼応して百済も新羅西部四十余城を奪いました。

新羅の政治体制は動揺し*

(ひ)雲がクーデターを試みましたが、金官国の後裔・金*(ゆ)信、金春秋によって鎮圧されました。―新羅の政権が加羅系となりました!中臣鎌足の「親戚?」です。―

新羅の権力を掌握した金春秋は直ちに唐に臣属しました。

これに対し、高句麗は百済と盟約して対抗しました。

六百四十三年には唐の百済征服の意図が明らかにされ、緊迫した国際情勢は百済倭の政権にも大きな動揺を与えました

―「日本書紀」によれば、加羅系の金春秋は、「権力獲得前に人質として日本に渡り長期間滞在した」と記述していますが、金春秋は後の新羅王・武烈で、捏造記事の内でもこればかりは余りにも法外であります。

金春秋(=天智)は確かに唐軍と共にこの国土に上陸したのでしょう…これは誰もが知っており隠せなかったと思われます。

しかし、これに「人質として到来した」と法外な解釈を加えたのは、後々の親新羅派の台頭に対する予防を込めて、藤原不比人の抱く中国に取り入り百済や故郷・任那を乗っ取った新羅に対する加羅系同族としての対抗心の吐露です

日本書紀を導びく「正史」に織り込まれた藤原氏の反新羅の怨念は、時代を超え国民教育により増幅されて、今日に至るまで反朝鮮感情として跳梁を止めることがありません。―

石渡氏によれば、十月、大王「蝦夷」は病弱を理由に退き、才気煥発で評価の高い太子「入鹿」が即位したといいます。

大王「入鹿」は国内の専制体制を強化、前年には唐使高表仁を大王に会わせず帰国させ、以降朝貢を止め唐を無視し国内の親唐派、親金官国派

(新羅派)を弾圧しました。

そして母国百済を思いはかり高句麗と手を結んだため、唐を恐れる親唐和睦派との間に大きな溝が広がりました。

六百四十四年、唐の太宗は高句麗征討計画を公表しました。

加羅系・中臣の鎌足は継体系の

「中の(大兄)」らと結託、加羅系、百済系を問わず「入鹿」の危険な対唐政策に危機感を募らせる倭国の豪族を糾合、用命のクーデター以来、傍系に転落した継体系一族の怨念を梃子に親唐和睦派勢力を結集しました。

また、秘密裏に唐懐柔による百済支援を名目として、亡命百済貴族のネットワークを張り巡らせました。

六百四十五年、

唐は高句麗に進入、緒戦に大勝しました。

期をみた鎌足は、昆支系の蘇我倉山田麻呂を仲間に引き入れ、馬子に謀殺された彦人の怨霊の宿る因縁の法興寺

(飛鳥寺)を拠点としてクーデターを決行したとされます…。

虚を衝かれた蘇我大王家は焼き尽くされ、蘇我大王始め皆殺しとされました。

叛乱派の奇襲作戦に大王の近衛軍・東漢氏も出遅れ、不利と見て戦線離脱してクーデターは成功したそうです。

―「日本書紀」の「大化の改新」の入鹿暗殺劇は、架空の人物を配したその非現実的な舞台設定を考えるとおそらく創作芝居でしょう。

そればかりか、日本書紀の語る意味での「大化の改新」の史実性はしだいに否定されつつあります。―

神話としての「大化の改新」

六百六十三年「白村江の戦い」で百済―倭連合軍が唐―新羅連合軍に大敗し遂に百済が滅亡すると、朝鮮半島の王権は新羅(シロのキリ)の手におちました。

―日本書紀の記述を真実と仮定すれば、百済滅亡は、倭の新政権の優柔不断によるところが大きい。「同胞百済滅亡」という土壇場になって慌てふためき、親唐和睦路線に矛盾して同族への救援軍を送らざるをえなくなりましたが、戦略を欠く中途半端な介入により反って全滅という最悪の事態を招いてしまったとも解されます。―

新政権としては、彼らのネガティブな役割を記録できません。

「同族」の滅亡を招いた親唐和睦というクーデターの意義は完全に隠蔽しなければなりませんでした。

彼らはその方便として、倭と百済の王家が同族であることまで否定してしまいました。「日本書紀」は滅亡した朝鮮半島の百済国に対する絶縁状でもありました。

以降、殆どの日本人は今日に至るまで、自分たちの王族が百済の王家であることを知りません…。

―半島の百済勢力は何処に去ったのか?太宰府の近く筑紫の長津です。古田武彦氏の「遠の都」太宰府は当時既に百済の兵站地・副都でしたが、亡命府・筑紫の長津(那珂津)は百済や高句麗からの難民で溢れ、半島反攻の熱気で都のような様相を呈しました。唐も郭務Uを兵士二千人とともに派遣して以来、繰返し軍事査察を続け反抗の兆しを探りました。

これで太宰府の名が突然に都督府に変わった理由が明らかとなります。又、飛鳥政権が、東国の官領・毛野臣に命じ彼らとは言葉の通じない東国の兵(我々の祖先)をわざわざ遠路九州に派遣した秘密も納得ゆくものとなります。この百済からの亡命者の一行の中に、倭地で百済を支援していた百済王子・夫余勇がおりました。

韓国の金思T氏は藤原姓を新羅、百済国境の比二伐(フィジバル)に求めています。加治木義博氏はフジワラは百

()()()()だと的中させます。領地・比二伐を失った藤原鎌足と夫余勇の奇妙な相似が気にかかります。

やがて、筑紫の長津の亡命者達は、中国による軍事査察を嫌い近江の長津

(那珂=中)に亡命政権を移します。

しかし、大和政権の中枢ともいえる地に強力な亡命政府の都がどうして易々と引越しできたのでしょう…?柿ノ本人麻呂は後に荒れ果てた近江京を「さざなみ(楽浪―韓半島)の志賀の都」と懐かしんだそうです…。

重大な疑問が浮かびます。天智天皇=近江の人・中

(那珂)の大兄は・・・?

天智の名乗り「天命開別=アメ

(チン)ヒラキ・へチと金春秋智=キンハラキ・チが同音で天命の天と秋智の智をむすぶと天智となるのは偶然でしょうか…?すると「大化の改新」の穏やかな解釈は吹き飛んでしまいます・・・。続く「壬申の乱」は、「亡命者達」と飛鳥政権の戦争による亡命者側の勝利としなければ辻褄が合いません。

しかも、この場合、時の飛鳥の政権は唐を後ろ盾として倭を打ち破った金春秋の支配する政権(本人は半島におります)でなければさらに辻褄が合いません。

亡命百済勢力による政権乗っ取りについては、一部の研究者(韓国の研究者やいき一郎氏等)が主張しておりますが、その根拠とされる認識はともかくとして、それなりに説得力のある説ではあります。

「日本書紀」には次の幾つかのハイライトがあります。

一、国生み―スサノウの活躍と追放―アマテラスの復活―国譲り

二、神武東征―建国

三、神功皇后の帰還―篭坂・押忍王の死亡と応神の即位

四、大化の改新

これらは、いずれも「旧勢力の追放」をテーマとした物語であります。

一〜三までの史実性が否定される以上、なぜ、このような創作を物語の骨格に持ち込んだかを理解しなければなりません。

即ち、蘇我王族の追放による権力の獲得を、この国の古来よりのマナーとして正当化するための創作であります。そして四も、その内容においての史実性はほとんど認められません・・・。

大海人の母の前夫?高向王の先・阿智人は阿羅人、すなわち角鹿大阿羅人。日本書紀ではツヌガオオアラシドと発音され、国を意味するラは那すなわちナ=マですから、大海人

(オオアマヒト)はオオアラシドではないか?

大海人が登場するためにこそ角鹿阿羅人の渡来を挿入しなければならなかった理由が判りました…。

加治木義博氏は、引用された三世紀の記憶による本当の角鹿阿羅人は、新羅王子・天日矛

(アメノヒボコ)で、日本書紀では神功皇后(息長足日姫)の夫(仲哀天皇)に相当する人物で、神功皇后は比売語曾神(卑弥呼と壱与の複合人格)で、第一人格の卑弥呼は福井の敦賀ではなく、本物の天日(チヌカ)である沖縄の女王で、夫となった天日矛(チンカ彦=崇神)の二人の子鹿児島王と大隈王はこの神功皇后(壱与の人格)によって攻め滅ぼされたと解説しています。―

唐突なクーデターによって幸運にも権力を掌握した鎌足らは、現役の大王殺害という当時の道徳律

()に最大に反する大罪を犯しました。―果たしてそれほど容易に権力奪取が可能か?大いに疑問がありますが・・・。―

彼らが親唐ー反高句麗の論拠として利用した高句麗の王殺しの逆臣・泉蓋

(イリカ)と同類となる訳です。

―後に大海人となり権力の頂上にまで上り詰める泉蓋は何故王殺しの逆臣と規定され歴史の栄光の舞台から葬り去られなければならなかったのでしょう?

筆者は天皇家の墓地に天武天皇の墓が無いことを聞いたことがあります。(確かめたわけではありませんが…)

「日本書紀」の編集は藤原氏の権力の基盤強化のためのものであったことは皆さんはもうご存知のことと思います。

小林*(やす)子氏によれば、天武の父・高向玄理は、その後中国に幽閉され顔面の皮を剥かれ非業の死を遂げたそうです。

朝鮮半島での新羅の権力が安定するにつれ、中国側からは、新羅系の天智一族を滅ぼして列島を乗っ取った張本人として天武に対する風当たりは強まったと考えられます。

天武の死後、しだいに天武系は天皇位から退けられ天智系や蘇我系と考えられる天皇へと変遷して行きます。

そして、それらの系列を縦に繋ぐ糸は藤原氏の血脈となります。

中国や新羅側からは天武が泉蓋であることは明白でありましたから、日本国が反泉蓋の国であることを表明するためにはどうしても泉蓋を公然と貶める必要があったと思われます。―

この汚名を被ることだけはなんとか回避しなければなりません。

そこで、歴史を改竄し、殺された大王の出自をどうしても隠蔽しなければなりませんでした。

それは次のように行われました。

一、王権の源泉の記憶を切断すること

既に見たように王権の成立を神話に置き換え、新しい建国神・天照大日霊女神

(古い耶馬台の卑弥呼にも、加羅の神アマテル男神にも似た始祖スサノウの上位に立 つ日本の神)を創作して三輪山の両始祖神を消し、加羅、百済との系譜を断ち切って、新生「日本国」が太古から続く固有の王権であったかのように粉飾すること

―「出雲と日向」は、「国生み」という統一権力誕生のキーワードなのです。

出雲の重要性は、半島から大和への直接上陸の入り口としての戦略的重要性にあります。

軍事拠点・出雲

(須佐原=菅原)の王スサノウは金首露、その子は大和に攻め込んだ大物神・饒速日でした。

須佐の下は速日下

(クサカ)であり、蘇我(ソカ)となります。

その後の百済王子・昆支への権力移行以来、蘇我氏の地となりました。

民は額田部、すなわち昆支=誉田王の部民で、溯って加羅の樋氏を思い起こすまでは藤原氏との接点がありません…。

藤原の朝廷は、出雲大社を造り伊勢大社との神話的紐帯を固め加羅のアマテル神を蘇らせることによって、額田部の民と蘇我王朝の記憶を断ち切り、壬申の乱に勝利した新しい百済倭

(藤原)系の出雲の臣の地位を強化したのでした

出雲は「歴史のまほろば」でしょうか…?

「葦原の中つ国」は、出雲らしくも思えます…。出雲の田植え祭では茅を供える儀式が中心となっており、茅は伽耶

(加羅)を表すものでしょう。

出雲の斐伊郷には、大和朝廷による全国の国分寺建立の布令よりもずっと古くから仏教寺院があります。斐伊川の中流域は大豪族・樋氏の領地で、「樋の速日」が祖神として祭られています。

速日は「天の火

()明饒速日(アメノホアカリニギハヤヒ)」であり建国の父祖神・金旨露王の霊の体現と思われます。隣り合って意宇(オオ)の国があり、須佐の王(スサノウ)の後継である意宇国主(大国主)の領地であります。意宇国の主は速日の家婿(下)昆支であります。

いったん百済系の大国主・昆支に譲られた出雲は、再び「国譲り神話」により藤原鎌足の加羅神天照

(アマテル)神に返納されます。韓神と国神が統合され天照国照大神となり、その威光の下に、出雲大社が建立され、神の位階が確定します。日本書紀の裏本・古事記の神代神話そのままの配置は、果たして出雲の「歴史のまほろば」としての地位を裏付けるでしょうか?このように正確な古事記との符合は「出雲の歴史」もまた書紀にあわせて捏造されたものであることを示唆しています…。―

新王朝は、戦略的重要地の民を、イデオロギー的に昆支系蘇我王権から引き離して日本神話に従えるために出雲大社を建立し

「出雲風土記」 を創作して日本書紀とつじつま合わせをしたのでした。出雲の神は爾来、繰返し々々天照大霊神への忠誠を唱えさせられます。―出雲の神賀詞―

―二つの土着勢力の拮抗ととらえた瞬間、神話の罠にはまるのです。

真実は加羅からやって来たのです。一世紀頃までに製作され、継がれてきた、既に反乱の武器としてしか意味をなさない銅鐸や銅剣は土地の鎮めとして山中に埋められました。ー

この神話の基本構造は「親神―子神」による歴史の展開であり、始祖神の魂が子神を生みながら現実を形作って行くところにあります。ここで展開される現実

(歴史)は行き着くところ二つの霊(陰陽)に帰着します。一つは昆支の霊であり、他は継体の(母の)霊です。前者は出雲のスサノウに象徴され、後者は日向のアマテラスによります。―アマテラスは一時隠れ世は暗闇となりますが、藤原氏の祖・加羅の神アメノヒコネらの努力により蘇り、アマテラスは勝利します。辛酉年に五瀬と神武は東征します。新しい孫神の祖神は倭()の太古の母神であり、やがて応神の母=神功皇后として現世に再臨します…。沖縄や鹿児島の古代史は、大和の古代史として換骨奪胎の後姿を変えて「蘇り」ます。

架空の女王神功は架空の悪玉、蘇我の祖・武内宿禰

(蘇我)に唆され三韓出兵を繰り返します。

これは、唐に対する朝鮮出兵の言い訳であり、戦争責任を蘇我に転嫁するためのものです。―

応神の死後王統は断絶し、王権は神威により継体に移ります。

しかし実権はやがて蘇我に乗っ取られ、遂に辛酉の革命

( 西暦六百六十一年天智の称制 )をむかえ「日本国」が誕生します。

かくして、歴史は日本国誕生の創作神話となりました。

登場する神々は始祖神・昆支の霊

()とその子神であり、この祖霊は韓神・三輪山の饒速日を押し退けて石上神社に居座り、神の入口・出雲の対局に座する継体の母の霊() 伊勢の天照大神に祖霊の地位を譲渡します。

神話の中で、女神の再来・神功皇后の子・応神の系は断絶し、この世に残る唯一祖王の血を引く者・継体が発見されます。

彼以外の王統はすべて絶え、もはや時系列を飛び越え蘇我の王統は復活することはできません…。

蘇我は大臣として君臨したにすぎない偽の権力者で、正しい王・継体の血を引くとされる中大兄・天智こそ天皇でありその「弟」天武が皇統となります。

(応神の「弟」・継体に比喩)この世の権力はこの神威による王政復古を果たし、正統な天皇・天武を補佐する神官・ 藤原氏が司るものであります

二、殺された人物の正体を消し、王殺しを否定すること

まだ記憶に新しい大王殺害を消し去ることは至難でした。まず、旧王権への怨憎を掻き立て権威を失墜させねばなりません。

人々の記憶にある蘇我王族の権威のルーツを攻撃する準備として、大王用命を三人格に分割しました。

第一人格

用命…新王家の先祖で正統天皇(過去に病死)

第二人格

馬子… 天皇の臣でまともではあるが家畜の名を持つ (アマコ)の甘は古代韓語でタリと読めるのでタリ()ヒコ=アメノタリシヒコ

第三人格

百済の聖徳王の名を冠する人物、聖徳太子…天才、権力を求めず仏法を広める聖人、真の「天皇」になるべき人物であるがクーデター前の天智、天武 と同様!に在野。蘇我の非道を懲らしめるためクーデターを指揮する。第二人格・馬子の子は「蝦夷」=エミシ…代々の宿敵で、今もまさに東加羅とし烈な戦争を繰り返している蛮敵への蔑称を冠した不思議な大臣。 天皇を蔑ろにして専横を極める金日成のような悪役です。蝦夷の子は「入鹿」=イリカ…王殺しの逆賊・泉蓋(イリカ)と同じ名を持つ金正日のような人物。人々を墳墓造営の苦役に駆立てる民衆の敵。 悪逆を窮め遂に「聖者と英雄()」によって成敗される…。

飛鳥の石舞台

救済者である新政権はまず、民衆を古墳造営の苦役から解放するため馬子の墳墓解体に動員します。蘇我親子を糾弾する怨歌は、造営を凌ぐ苦役の囃し唄として能く響きました。

暴かれた大王の石柩は、こころなく「石舞台」 (古墳)と呼ばれ、千三百年にも亘り、イカルガ(大加羅の土地の意)に晒されていると言います…。

「大化の改新」

は辛酉の革命ではなく、百済が滅亡し、権力の簒奪者達が、大国・唐に対して自分たちが、連邦の盟主にして唐の朝敵・百済であることを隠さずには生きていけない新時代の到来にあたって、新興の新羅と修好し権力を保持するために、三百年続いた東加羅の歴史を廃止する神話の創作でありました。

「旧唐書・東夷伝」に「倭国は古の倭奴国なり…」「日本は倭の別種なり。…倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。…或はいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり…」とある記事の真相は、七百一年第一回遣唐使、大臣朝臣・粟田真人が唐に初めて「日本」と名乗り、倭国との続柄を隠し、曖昧に説明した内容が掲載されています。

これに対して唐側は「実を以って対えず」

(疑わしい)と感想を述べたことが記録されています。

対外的には、唐の仇敵・百済倭と、日本が別国で在ることを説明しようとして苦労したことが察せられます。

新国家用の歴史編纂

(偽造)を命じられた編集委員達は、ありとあらゆる文献を収集し、分析することを通じて、逆に誰よりも正しく国史の真実を知っていました。

これを換骨奪胎して定められた政治目的に沿って編集することは大変な作業でした。

―しかも、表現の仕方は表現者の一族の生死にかかわりました

...。始祖王昆支系と継体系の闘争と権力の委譲は、スサノウ、アマテラス、神武等の象徴に背負わせ、以前の事実には直に触れないこととし、集めた資料は全て焚書して消滅させました。歴史編纂という名目の歴史滅却。歴史を神話に置換える任務を背負った者の苦悩は、同情するにはあまりにも惨いものです。―

その後も日本書紀を正統の歴史とし、古事記を日本書紀の種本とする偽装をベースに、家臣、神社や仏閣への言論の統制の徹底を通じて完全に歴史の改竄ができあがりました。

今日の我々は、僅かな外国の文献と考古学や自然科学的手法による資料収集以外に具体的に歴史を知る手だてがありません。

―それにしても、「日本」という呼び名はどこから現れたのか…?

同じく「旧唐書・東夷伝」に曰く「其の国日辺に在るをもって、故に日本を以って名と為す」と…。

広大な中国大陸の民は、平板な大地の切れ目として地平線を捉えてはおりませんでした。地平線のさらに先にも延々と大地が続くことを知っています。

「日の出」ではなく「日の辺」は、日中に陽の傾かない場所を指します。大和は日の辺でしょうか…?

日の辺は日本には南九州大隈半島以南にしかないと云います

日はカ国(=羅)はラ、伽羅は日国でもあります。―

一説にはカーラは、イスクモ(出雲=大宿母)から出発しイタリアにまで進出したとする。これは戦前の「大陸浪人」を魅了した右翼思想に影響した奇説です。ツングース族や高句麗の言葉や住居、風俗は南方渡来のものですから、彼らの研究そのものを無意味と切り捨てることはできません。加羅の伝承によると、金首露はインドの仏教国マガダ国の娘を王妃にもったといわれます。この伝説の真相は?

高橋良典氏は中国・斉の人々の真の祖国はデカン高原にあり、メソポタミアに居住し、漢字を発明したのは彼らであるとし、この民は日本人であるとやや荒唐無稽ながら「論証」を試みております。

そこではカは力、ラーは太陽を表し自らをカーラと呼んだといいます。

「日本・ユダヤ同祖先論」も根が深く、紋章や民謡などにユダヤ民族に連なるものが多く、日本人のルーツはエジプトに進出し、古代ユダヤを脱出した上エジプトの失われた十種族であるとしております。

ユダヤ人の側に意外とこの信者が多く、最近では故ラビン氏が単独で日本に立ち寄るなど、彼らの神秘主義的性向にもマッチするようです。

最近では埋葬者のDNA分析により中国東北省からの渡来が大きくクローズアップされています。

単語における南方民族との絆は想像以上に固く、九州の地名は、加羅よりも遥かに古い民である台湾民族同様、南方のマレー古語です。

この古語に通ずる熊襲は肥素すなわちヒノモトとなります。韓国の高ジュンファン氏によれば、熊はkomaすなわち金で、金首露の七人の兄弟は海を渡り七熊半島を支配した。その内の一人が妙見=卑弥呼=神巧皇后であったと独自の説を展開しています。

朴ピョングシク氏は、「日本原記」の中で半島における熊(黒)信仰について述べております。

「日本書紀」では熊襲武は大和武にその名を譲ります。

すなわち、大和武は元々は熊襲武であった訳です。

熊(金)素、すなわちカラ(日国=肥の素=日本)が倭(ヤマト)の名を継いだということになります。

このように伽羅にこだわる者は誰なのでしょう?

伽羅に祖神・天の彦根をもつ藤原氏です。

藤原の由来は朝鮮半島の不比ニ伐(フィジバル=不比人の名に注意)にあります。

藤原は百済(フシ)倭羅。

大化の改新を思い起こしてください。

「韓人(高貴な人=天智)が鞍造(高句麗人)を殺した!」

百済人であることを捨てた藤原氏のなお任那を偲ぶ心(欲)は止まず、すでに世にない加羅の名をたよりに、新国名の中に中国人には分からない表記法を使って半島任那・加羅との絆を埋めたのでした。

このロマンチックにさえ思われる加羅への憧憬には、実は、王家の出自を加羅にまで溯らせることによって、新羅・武烈王(金春秋)の出自・金官伽耶国との血縁を確認することにより半島の覇者・武烈王を懐柔し、しかも、金官国の上に、密かに、かつて大加羅の盟主として君臨した倭王族の地位を潜り込ませようという、百済貴族・藤原不比等の屈折した反新羅の怨念が宿っているのです。

かくして、極めて現実的需要により「日本国」は誕生しました…。―

そろそろ眠くなった上にホームページが満杯で重くなりました。

今月中には

www5に移動できるそうです。

もっと沢山上手に書けるようになりますからお楽しみに…今夜はここまで…