「八切史観」で家康と徳川家を考察したものは多い。
中でもこの「家康は世良田徳川の出身だった」家康の出生から、天下平定までを描ききった大作で、家康物の集大成といってもいい。通俗的な”英雄賛美”とは違い、虐げられ差別に喘いでいた日本原住民の内、騎馬民族系の家康の世直し(革命)の実態を書いている。
経営学の手本になるような社長家康ではなく、夢と希望だけで苦労して努力していく男一匹の家康を人間的に温かい目で描いている。300ページ以上の大部なので、ここに全てを紹介できないが、序文を転載する。




世を挙げて、これ戦乱の世である。
府中の町並みでは、美しい唐衣を被った女たち、鱈腹メシをくい、大路を我が物顔で歩く狩衣姿の武士達。しかし一歩辻を入り裏町へ入ると、そこは地獄さながらの餓鬼道だった。逃散してこの町へ逃げ込んできた百姓、相次ぐ合戦で人狩りで傷つき不具になった者。
年毎の物価高に喘ぐ庶民の群れが、飢えて集まりひしめいていた。
 ここ、駿河、遠江、三河の三国は、今川氏親が大永6年(1526年)に、「仮名目録」33条という法令を出したが、今川義元が家督相続して17年目の天文22年2月26日には、追加21条までを制定した。これは「富国強兵」のため点役(天役、転役)とよぶ均等割税を人頭税のごとくかけ、棟別銭という固定資産税をもうけ、その他に四分一、押立という人夫役、戦に出す軍夫の割当、つまり
血税もかけ、徴兵猶予を願い出る者からは命代も取り上げた。

 この他、桑役、茶役、船役、湊役、など数え切れないくらい何でも片っ端から税をかけた。
だからこの当時は、あちこちからてんでんばらばらに逃げてきた連中が、この駿府の宮ケ崎から八幡小路あたりに蓆小屋を作ったり、蒲の穂や萱草で屋根を葺いた掘っ立て小屋で疲れきってその日の暮らしに喘いでいた。そして庶民は「世直し」を望んでいた。
こうした当時の社会状況下で、比丘尼の中に源応尼という女がいた。彼女が家康の祖母にあたり、その娘の於大が家康の母なのである。
於大はその当時のアウトローともいうべき、流れ者の江田の松本坊という旅の願人と一緒になる。
 天文11年11月26日。於大は松本坊の間に子を産んだ。だが松本坊は子を残し蒸発してしまう。
残された於大は子を抱えては食ってゆけない。そこで於大は子を残し、有度郡石田村の富士見馬場の久松土佐という家へ、後家にと貰われて行った。すぐ、後の三郎太康元と名乗るようになる異兄弟が出来てしまう。だから幼い家康は祖母の許で育てられる。
そして大変な苦労をしながら育った。見かねた円光寺の智短和尚に引き取られこの寺で育てられる。
家康が9歳の時、生活難の源応尼が寺から誘拐して人買に売ってしまう。
この史料は『駿府政事録』『大日本国駿州城府分時鐘銘』が在る。

この「駿府政事録」とは、林道春が、駿府に引退した後の家康に仕えてからの日常をつけた日記である。
その中に、「慶長17年8月19日。公御雑談の内に、昔年御幼少の時、又右衛門某という者あり、銭五貫
にて九歳の御所を売り奉りしと、緒人伺候していたるゆえ、衆みなこの話は聞く」とある。
71歳の家康が自分の口から漏らしたというのである。直接耳にして書いているのが林羅山の祖先の道春だし、日時も明確にされているから、これは事実であろう。

だが9歳の時というと、今川義元が天文21年(1552年)11月に現在静岡県駿東郡裾野町の、
「佐野郷御検地之割付」という書付が現存していて、これに1反の田への年貢高が、上田600文中田500文
下田400文の定めが在る。すると5貫という当時の価値は平均の中田1町分(3000坪)の年収にあたる。
これでは現在の200万円相当だから、9歳の子供の売買価格にしては変である。
 しかし、家康ほどの英雄にしても功なり名をあげた後では、こんな見栄を張って自分が高く売られた
ように家来どもに話したかと思うと、人間的な親しみがもててくる。まあ100分の1の50文か、あるいはそれ以下だったろう。

私は終戦のとき満州の奉天にいたが、北春日小学校に収容された難民の母親が、毎朝チェンピーやマントーを満人が売りにくるとそれを買いたさか、母子ともに餓死するよりはと自分の子を売ってしまうのを見て、それまで、(母というものは吾子のためならば、どんな犠牲をもあえてするものだ)といった浪花節的概念しかなかったものだから、びっくりして、周章てふためき初めは止めに回ったところ、
「子を捨てる竹薮はあっても、女が身を捨てる藪は無いものだ」という古来からの日本の言い伝えを、
その時聞かされてしまい、しまいにはなすすべもなく子供を満人に売っては買い食いする邦人の母親の群れを、唖然と眺めて暮らしたものだが、その時の相場が女児200円男児100円だった。だから又右が売った値も、それ位だったろうと思われる。

もちろん彼の手数料や儲けもそこから引かれるから、源応尼の手取りはまあ半分だったろう。
しかし人間は飢えにはきわめて弱いものだから、そういう極限状態におかれた場合はこれは致し方もないことらしい。
 俗説では、家康は三河岡崎上に生まれ、それから今川義元へ人質に取られ駿府へ行ったことになって
いるが、寛永年間に釈春外東劫がしたためた「大日本国駿州城府分時鐘銘」には、
 時の大老土井勘三郎利勝が、家光の命令で1万5千石の施米を駿府の民に配って、亡き家康の回向をした盛事をのべるに当たって、
「そもそも駿府というは中んずく、東照大権現垂迹地なり」と明記されている。
垂迹というのは「本地垂迹説」等で説くような仏教用語であって、「仏が民衆を救うために仮に人間に
化けて現れること」とあるように、出現とか生誕を意味している。これでは三代将軍家光が、
 「祖父の家康は駿府で生まれたのだ」と、折角供養に1万5千石の米をまいているのに、何故昭和の大衆作家が「三河で生まれたこと」にせねばならぬのか、まことにおかしな話である。また「駿河誌」に、

 「延喜式神名帳に記載されている小梳神社の社地は、今の伝馬町華陽院境内なり」とあるが、その玉桂山華陽院府中寺の掛軸に、
 「大将軍 翁 印」の署名捺印のものがあって、その中に、
 「既シテ始メニ、義軍ヲ浜松ニ発シ、而シテ数州ヲ征ス、禅尼コレヲ思ヒ心痛。時ニ永禄三庚申夏五月、 ソノ訃ヲ陣中ニキク、哀慕ノ情ニ堪ヘズ、シカルニ如何ニセンカ、使ヲモッテ葬ワススベモナシ」というのがある。これは家康の名は無いが、慶長14年に征夷大将軍であったのは彼しかいない。
 又現在の誉田町にある府中寺が、この華陽院であるが、旧幕時代は東海道を通る大名はこの寺の門前で駕を降りて参拝する習慣があった。そして、この境内から百メートル位離れた上八幡町の安南寺の西隣の一区画が、俗に、「榊原越中守拝領屋敷」といわれて、何故か空地にされて、ここに建物を建てることを徳川時代は許さなかった。しかし明治政府が天下を取ると、
「この地は朝敵家康生誕の地なり、もって徒刑場を建つべし」と刑務所用地にしてしまった。
 後には旧幕臣の骨折りで小学校に変えられたが、この一帯が昔の八幡小路であり宮ガ崎である。

『烈祖成績』に「神祖、宮ガ崎にあり」
『武徳編年集成』は「宮ガ崎を仮の住まいとなされ」
『城塁記事』では「府中紺屋町にあらせられたりとか。宮ガ崎というが、安南寺西隣こそ正しからん」というような記録が残っているのも、だからであろうか・・・・・・

 諸説はいろいろあるが、落れば同じ谷川の水で、源応尼のいた所は華陽院府中寺のあたり。
於大と松本坊が暮らしていて子供の生まれた地点が、安南寺西隣というのが正しいらしい。
が、それより問題なのは、源応尼の死んだのが、永禄三年五月ということである。
 この年月は丁度いわゆる桶狭間合戦で今川義元が信長に討たれた時に当たっている。さて、後述するが何故織田信長が今川勢を破れたのか、これは正直なところ確かではない。「信長公記」によっても、故意に年月を十年遡らせてあったり、岩室重休以下近習数名のみを従えて出かけていった信長が、いったい誰の手引きで奇勝を得たのか。この時従軍したらしいと想像される者は、後に粛清されてしまい、
いわゆる信長の家臣団というのは、この戦後に採用されたと思われる新参の連中によってのみ、その後は編成されていく・・・・・・・・・
という奇怪さがある。

俗説では松平蔵人元康がこの時今川の先手となって、大高城へ兵量入れをした手腕が当時評判となった。
松平元康は義元の死後、三河岡崎城の自分の旧領を取り戻し、ここに「徳川家康」と改名してしまったことにされているが、それは義元の
死んだ永禄三年五月より実際は二年後のことである。
 源応尼の亡くなったのが今川義元の死んだ永禄三年五月と同じだということは、これは偶然の暗号とみればそれまでの事だが、もし義元の死の為に彼女が殺されたものと見るならば、彼女の孫は、今川義元の死に一枚加わっていた、つまり信長と組んでいたことにもなるだろう。そうでなければ直接に協力していなくても、義元を死に至らしめるような状態に持っていく下地を作っていたことでないとあまりにも偶然過ぎてつじつまが合わないのである。

 だからして、ここに信長と源応尼の孫とのひっかかりは、やはり永禄三年五月という時点に結びつくから、これが後の天正十年六月二日の信長殺しに全く関係が無いと言えぬような暗い翳を濃くひくことになる。
 そしてあらゆる謎は、源応尼の孫で九歳の時に又右に売られたと自分で告白した家康と、彼と同一人とされている松平蔵人元康なる人物が、果たして同一の人間かどうかということになってくる。
その永禄三年五月のとき、家康の方ならば逆算して十九歳。現行の満年齢ならば十八歳である。
しかるに松平元康の方は瀬名姫との間に、二歳の岡崎三郎信康の上に、長篠城主へのち縁づいた五歳の長女阿亀、本田家へ嫁した
次女三歳までがいた。こうなると同一人物なら「幼な妻」ならぬ「おさな夫」で、十八歳で五歳の娘以下三人の子持ちとは、十二歳で受胎
させてしまったことになる。
しかしそれでは変ゆえ、この作品の中での徳川家康は享保二年二月二日に大岡越前守忠相が、徳川吉宗に登用されてから作り変えてしまった東照権現様のイメージとは大分違うことになろう。なにしろ、その後300年近く経った今でさえ、江戸時代そっくりそのままの家康像が氾濫しているので、これを読んで違和感をもたれるむきがないでもないだろうが
『徳川家に対し奉っての異説はお咎め厳罰のこと』という、すでに死んでしまった大岡越前守の政令などに、最早気兼ねすることも無いだろうから、私なりにこつこつ調べ上げた家康を書いていくことにする。

資料としてとったものは、明治になって新田男爵となった上州の新田義貞の後裔で、徳川家に系図を貸していた当人の「万次郎日誌」と、
その同志であった金井允恭の手記。それに日本橋蛎殻町に明治二十年頃に住んでいた村岡素一郎『史疑徳川家康』も参考にしたが、
これは労作だが『後三河風土記』よりの引用が多すぎる。しかも後述するがこれは贗本で史料ではないのである。
しかし、徳川家康と築山御前や岡崎三郎信康とは赤の他人だったことは、徳川家が崩壊した後、すぐ明治から言われていたという立派な証拠でもあろう。

 さてこの物語は、単なる読み物ではないからそうすらすらとはゆかないのである。ここで一息何とか入れていただきたい。
かって私の書いた『信長殺し光秀ではない』は、自分の見た目から、これまでの史料といわれたものの出鱈目さをつき、絶対に光秀ではないことを解明したものだったが、続の『謀殺』は、春日局と江与方の対立をエリザベス女王とメアリ・スチュアート女王との対決において、
信長殺しを説こうとしたものである。『信長殺し、秀吉か』では信長の弟の有楽の立場から、織田一門はあくまで秀吉こそ本能寺の変の黒幕ではないかと見ていたのを書いた。
 だからすぐ続けて、この「信長殺し、家康か」ともいうべき本書で締めくくりをつけねばならなかったが、これを書くと従来の徳川家康像が一変してしまうので、書き出してから二年経過してしまい、途中明智光秀からの立場で『正本織田信長』をエンタテーメントとして、
これまでの総ざらえのように判りやすいものを書いた。それらによって天承十年六月二日の本能寺の変は、江戸期まで日本には輸入されなかった新開発のチリー硝石によるフェリッペ二世の新黒色火薬によって、信長始め家臣団の小姓らは誰も弓も刀も振るわず、みな一瞬に髪毛も残さず吹っ飛ばされたことを証明した。

そしてマカオやヴァチカン法王庁、イベリア半島で漁ってきた当時の記録書簡では、信長が当時のイエズス派に悪魔の如く憎まれていた事実から、ここが火薬の出所であること間違いない。もちろん国内的には、時の正親町帝のおおみことのりを奉じた光秀が、さながらその責任をとらされた恰好に、張り合っていた秀吉にされてしまっているものの、徳川家康その人にしろ、
「これは光秀遺愛の槍である。汝も光秀にあやかれ」と、その家臣の水野勝成に手ずから与えた記録がある。もしこの時代に、
信長殺しが明智光秀と見られていたなら、水野勝成は槍を受け取った瞬間に、家康をぶすっと刺したろうが、彼はそんなことはしなかった。
家康の死後も徳川家に忠義を尽くし、島原の乱の時には、備後福山の城から馳せつけ討伐している。
・・・・・・・だから家康でさえ信長殺しは光秀と、見ていなかったこれは証拠であろうというのは、これらの拙書に対する故日本歴史学会長
高柳光寿博士の説でもあった。そこで、
「光秀でなければ、信長殺しは誰だろうか」ということになるが、直接に本能寺へ向かったのは、以前は信長の寵臣でありながら、当時は不興をこうむって不遇の身となり、明智光秀の軍へ目付に左遷されていた斎藤内蔵介その人であることはこれは間違いない。
ところがである。この内蔵介の末娘の福を、なぜか家康は探し出してきて、これを有名な春日局にしたててしまった。
 そして俗説では、春日局は家光の乳母ということになっているが、総理府の内閣図書館にある「家康公遺文」では、家光のお腹、つまり
生母は彼女であった秘密が書き残されている。すると信長殺しの内蔵介の娘の子供に徳川家を継がせたのは、家康その人の意思ゆえ、
ここに、「信長殺しは家康」の推理が出てくるのである。・・・・・これは『謀殺』てもふれておいたが、それは家光や忠直の立場よりだったから、この本では家康当人と信長自身の対決から説きたいと思う。


何しろこれまでの角度からとらえた既刊4点が、30余万出ているのになかなか入手できないそうだから、その内の前述二冊は「八切日本史」の1、2で再刊したが一応の概略の説明がしたかったのである。
もちろん私の本などが多く求められるのは、それはここ数年来、「全ての既成概念を投げうって、本当のところは、真実とは何かと言うことを、今こそ根源的に見直し追求すべきではなかろうか」といった風潮が高まってきているので、おそらくその影響によるせいでもあろう。さて、そうなると一応は何故こんなに、これまでの歴史と私の書くものとが相違するのか・・・・・・・と疑問をもたれる方も多いだろうから、
その言い訳も少しさせて欲しい。
 他の国では、「歴史学」というものが独立しているから、歴史博士とか歴史修士といった学位もあるが日本には無い。瀬戸物の研究や修辞学で文学博士を取ったような人たちが(・・・・・ゴキブリや蛙の研究で医学博士になった人が平気で大切な人間の病気を診察するみたいに)
「歴史家」になっているからかもしれない。ボゥイックだつて、理論の教えることが出来ない知恵を教えるもの、それが歴史だとはいっているが、「歴史学教授の説くものが歴史だ」等とはいっていない。
しかし日本では、学校の本に出ているのがみな「正史」ということになっている。もちろん学校の先生の教えるもとになっている教科書なのだから、みな正しいものだろうと思いたいが、私も大学で講義を持っていた時、どの教授も少しも勉強はせずに古いノートで教えておられたのにびっくりしたが、これでは高校中学となれば教科書を鵜呑みにして教えるしかないかもしれない。それに日本では、
(歴史は過去のもの)という観点から、(古くから伝わっているものこそ正しい)というのが根本をなしている。
しかし古いといっても、これは限度があるから何時頃からかというと、正直なところ、どうもそれらが作られたのは江戸期あたりに出来たものに拠るらしいのである。ところがこの江戸時代こそ(紳君家康公の御為)というのであろうか、講談本では名奉行様の大岡越前守が江戸町奉行になってから、「みだりに新説はとなへまじく候。もし御当家(徳川)につき何かと書き候は法度たるべきこと」といった出版統制をしき、奥付に著者発行人の名を明記させ検閲のためとそれからは奉行所へ納本制をとらせた。
それが、昭和の戦前まで続いてきたのである。だから、もっともらしい歴史全集がいくら出版されても、はっきり日本歴史というのは徳川中期で線が引かれてしまい、それ以前のことは本当のところでは今ではあまり判らなくなっているのが、どうも常識的には正しいようである。

 何しろ徳川家にとって都合のよい御用学者や、こびへつらうものは出版を許され伝わっているが、そうでないものは、もしあっても内容がすっかり歪められてしまっているとみえる。そして一般大衆には、知らしむべからすの根本政策がとられてきた関係で、
「眼学問は芝居、耳学問が講談浪花節」といったのが、かってのお国ぶりだったのでもある。そこで、今でも幕末の講釈本の種本を、
「史料」としたり「史実」とするような可笑しなのが堂々とまかり通っている。だからでもあろうか、

「日本は義務教育で文盲は一人もいない。しかしフランスは12%以上の文字を読めないのがいる」とはいうが、だからといって日本人のほうがフランス人より文化的だとは誰も言わない。なぜかというと、みんなも字が読めるということは、それは悲しいことだが押し付けられた活字を誰もが読まされているということに過ぎないからである。
つまり日本人が活字に弱いといわれるのは、誰も彼もがまあ読めるからして、活字になってしまったものには批判精神もおきず、文字通りにそれを鵜呑みにしてしまう危険性があること、これをさすのだろう。昭和45年2月2日の『東京新聞』に、テヘランにいる日本イラン研究所長本田実信の談として「こちら二十三枚、十四枚の浮き彫りが見つかっているから、・・・・・十六枚のもあります。わが国の菊の御紋章がペルシャからの渡来と立証できればと思い、帰国までには突き止めます」と掲載されているが、菊の御紋章がペルシャからとなれば天朝さまの御遠祖は今のシュメール、むかしのスメラからとなるかもしれないが、そこまでは書いてない。だから目に付く活字しか頭に入らない人が多いので、これについて何もいう者もいないといったことになるのと同じである。

というのは、なにしろ自分がそれまでに覚えていることを既成概念として「教養」と思っている人が多いから、習ったり聞いたりしたのと異質の事柄には、頭ごなしにこれを排斥したがる傾向が多いからであろう。しかし数学や物理と違って、歴史というものには定理などありはしないのだ。かっての騎馬民族国家説にしろその対立意見も、日本朝鮮中国といった陸路の線を引いての考究にすぎない。
だがワットが蒸気機関を発明するまでの地球は、特に島国で四方を海に囲まれた日本は、年二回交互に吹く季節風と貿易風によって、その交通は成されていたものである。信長の頃はマカオ=堺間に定期航路が開かれていて、火薬の輸入をしていた事実もある。

それより四世紀前の壇ノ浦合戦で、平家の軍船がみな鎖で繋ぎあっていたのを、今日の歴史家は安定性を図るためだというが、これから海戦をしようというのに何十何百もの舟を一つにつなぎあわせるという馬鹿げたことをするはずなどなかろう。あれは何のためだったかというと丁度、南支那海やペルシャ湾の方角へ向かって、今まさに季節風が吹き出そうとしていた時期であったのだ。
 正倉院御物のペルシャ渡来の物を、シルクロード経由で陸路で入ってきたものと、今日ではみな説明するが、そのシルクロードが出来た年代までには触れていない。つまり安芸の厳島神社の宝物になっている太刀は、いわゆる日本刀でなくて、サラセンの細い剣であるし、彼らの舟はガレリ船であった。つまり従来唱えられている騎馬民族の他に、船舶民族というのが西暦四、五世紀から十一世紀にかけて日本へ漂着してきて、これが建築その他の高度の技術を持って当時のエリートになったことは、これまでの歴史では解明していないが、疑えない事実であろう。
また後になって信長や家康の16世紀というのは、ヨーロッパではスペインやポルトガルまで押えていた回教徒が、白人の十字軍に追われた時代で゜ある。だから日本の戦国時代というのは源平時代と同じように、十字軍の戦火を避けた民衆が貿易風によって流入してきたのが戦乱の原因の一つかもしれない。しかし、これは香港の蛋民がその末裔かも知れぬが、その裏づけするものが彼らには無く、私もスペインの古都トレドまで、何か手がかりはないかと行って来たが徒労だったでふれられないが、戦国時代の馬印にサラセン風の物があるから私は今も疑っている。


さて、紳君家康の死後350年かかって、大阪の立川文庫では、「おのれ狸親爺めッ」位に扱われてきたのが最近は反動で経営の手本みたいにもされているし、またとるに足らぬフィクションの小説をもっともらしく引用し、それを反証することによって、家康は一人であると説くのもいる。だが後年の徳川家康と松平蔵人元康はどう考えても、いくら調べてみても、間違っても同じでない。
 案外に男というものは、いくら豪くても賢くても経験の全く無いことは出来ないものである。だから元康のように19歳まで今川に幽閉されていたきりの人間が、家康のように千軍万馬の英雄になれるとは考えられもしない。秀吉と互角に太刀打ちできたのも、彼も諸国を歩き回るような成長の仕方をしてきて、耳目で知恵や学問をつけてきたせいからだとしか考えられなかろう。
また徳川家では、三河出身者は一万石以下の旗本として冷遇され、伊勢出身の榊原康政とか、駿府出の伊井直政や酒井忠次、遠江の
本多忠勝か「徳川四天王」となり、他国者だけ大名に立身した謎も、三河の松平元康と、他国者の家康が別人と判れば、よく納得できるし、その訳も呑みこめ、信長殺しの手がかりともなる。
つまり私は、経営学の手本になるような社長家康ではなく、夢と希望だけで苦労して努力していく男一匹の家康を人間的に書いてゆきたいのである。そのために特殊な当時の社会状態から入らなければならない。
埋め合わせに後は面白くするつもりである。 

≪終わり≫
引用参考文献・八切止夫著「家康は世良田徳川の出身だった」(日本シェル出版)