【紹介者・註】                                     天皇家の謎● NO-1

天皇に”後”のつく御方は(後鳥羽、後醍醐など)前後二十二人おられる。このように”後”のつく帝は、崩御後のおくり名であるだけに、非常に意味深長である。

日本史の秘密を解く鍵は、前帝の生涯と対比してゆけば謎解きも出来るし「日本の天皇は常に体制側に在り、民の上に君臨していた」とあながちいえないものがある。今日の歴史屋が説くように「適当な贈り名が見つからぬ場合にやむなくつけた」といった、命名の仕方ではなかったようである。後、を付けておけば、何時かは、誰かが対比するだろうと先人は思ったのかも知れない。今までこの研究に取り組んだのは、八切止夫氏だけである。日本人は「一銭にもならぬことを誰がする」と昔から酷いエコノミックアニマルである。歴史屋もこの例に漏れず、真実の探求という大事な役目を忘れ、金儲けに専心している。さて、後、のつき始めは十一世紀初頭の、人皇六十八代の後一条帝からで、途端に次々と続く。対比して見れば何故そうなったのか判りうる。その前に最後の”後”の付く帝、後西帝についての考究を紹介する。
 さて、私も天皇制護持論者だが、鹿島昇著作「裏切られた三人の天皇」(新国民社)には、孝明天皇は長州によって暗殺され、その子睦仁も即位後直ちに毒殺され、そして睦仁の身代わりになった明治天皇は、実は南朝の末裔である、長州力士隊の大室寅之祐である。
こうした説は明治以後しつこく囁かれ続けていたようだが、官学合同の偽史シンジケートは明らかにする筈も無く、現在では闇の彼方である。鹿島氏は弁護士でもあり、論理と論証を尊ぶ職業柄、この説は一考に値する。しかし私は仮令今生陛下が、南朝であれ、北朝であれ、
天皇制護持の思想は変わらない。

〓〓後西〓〓1654〜1663
このお方は明治の末まで後西院の名だったのは、国定歴史教科書重田編集人も「史説史話」の著の中で、歴代の天皇にして院のつくのはこのお方一人のみで他にはない。とは言え、いくら調べても判りません、と弁解している。
何しろ院は別にしても他の後の付く帝にはそっくりな生涯を送られた方が前におられ、同じご境遇だというので偲んで後の文字が付けられたのに対し、後西様に限っては違うようだ。

西という天皇は前にいないのである。私は大和民族単一説を否定し、日本民族は4から5の複合民族で、遡れば天の王朝や蘇我王朝、崇神、等のどれかの王朝に繋がると考え、天皇制護持擁護論者なのですが、その根元はこの帝の反体制的存在に感動し、傾倒したからである。さて、前に同名の帝が居ないのに後の冠称が付けられたり、生前から院号が付けられた異例さは、この帝が日本歴史史上空前絶後の他に比類無き存在だったからである。
現代の天皇をもって天皇制に対する批判をする人は多い。しかし歴代に渡っての天皇とは何かといえば、六、七世紀以降は原住民の暴発に備えて、懐柔策として蘇我系や高野系の帝を擁立しても、全て藤原氏の意の儘であって、よく言えば象徴、飾りものにすぎぬ存在だったのにこの帝は違う。

未だ江戸期ゆえ解明すれば出来るのである。それなのに、大正時代に入ってから院の名称だけを省略。臭いものに蓋をとそのままになっている。的確にその生涯を追跡しているのは八切止夫著の「徳川五代記」が嚆矢である。なにしろ北条時代の六波羅探題にあたる江戸期の京都所司代の査閲を受けてきた「皇運紹運録」や「槐記」では、「帝の治世は天災が多く地震もやまず、民が帝の不徳に拠るところと位を求められたので、その後は読書喫茶悠々となして生涯を終えられた」とある。これは嘘である。

大地震があったからといって総理大臣官邸に押し掛ける民衆は居ない(現代は危機管理無策の官邸だから、デモぐらいしても不思議ではないが)昔でも御所へデモってフランス革命の真似などする訳がない。七世紀以降は長いものには捲かれろと弁髪だった藤原氏に奴隷として徹底的に圧迫されてきた日本人には出来ぬ話しである。こういった史料史実が日本史なのである。

さて、実際は徳川の圧迫で帝のご生母の実家が窮乏し、帝の妹姫らを身売りし、伊達政宗が銀二十貫で求めた一人を倅忠宗の側室にした。この腹から後の綱宗が誕生する。帝は彼が従弟にあたると判り、伝奏役の姉小路公知を奥州へ下向させた。
これが徳川のCIAともいうべき柳生探索方に察知され、伊達の叛乱を恐れた幕府が、飯田橋堀改築工事資金として膨大な資金を吐き出させてから綱宗は閉門処分で馬込に生涯閉じこめ。

「徳川家に対して不穏な企をなす者は帝にてもかくのごとし」と、仙洞御所に竹矢来を張るのでは費用が大変だからと、今の京御所、御苑に鳥小屋の如き牢舎を作って幽閉した。ここを凝華洞と呼ぶ。だが幽閉の身の帝は、江戸城を朝廷、閣老を公家と言い出した徳川綱吉に対し、水戸光圀差し入れの筆墨で23年にわたって六国史を書き纏められた。何も判らぬ歴史学者の故黒板勝美などは、各六国史の巻頭に、後西帝の院本を拝読出来て完成できたのは光栄の至りであると書いている

帝の書かれた意味は「京を反体制として扱うが、それは違うのだ」と怨念で書き綴ったのを、さながら自分のために書き残してくれたごとくとる歴史家が泰斗の国が日本である。「中国の血を引く方は貴種ゆえ誰が王となっても差し支えない。しかし前から日本に住まって居た者は未開人種の血をひくゆえ王にはなれぬ」とする山鹿素行の説が幕府の忌憚にふれ、赤穂へ配流されたのも、この綱吉の時代である。

そもそも大陸人たちが、仏教をもって国家宗教を統一しようと、全国に国分寺まで建てたが不成功だったのを、綱吉は強制的改宗転向のための宗門改めの寺社奉行を一度に四人立てまでして、ついに神仏混合令を出して成功した。綱吉が、自ら王と称せんとしたのも無理からぬことかも知れぬ。さて、山鹿素行は江戸を京に変えようとする徳川の施政方針に敢然と筆誅を加えたのだから、勤皇の大先達として取り上げるべきである。父後西帝を御苑北隅の茅屋へ幽閉した吉良上野介を、親王様は怨仇のごとく恨んでおられた故、赤穂浪士に対してまだ誰も批判がましいことを言うのは遠慮していた時、「牡丹の花のごときもので義士である」と賛辞を送っている。

(まさか綱吉側近の柳沢吉保が小笠原豊後守や松前伊豆守、仙石伯耆守を使っての京での小判改鋳の秘密をばらされては困るから、吉良の口封じのため、ヤラセの討ち入りであったとは、親王様は知る由もなかったろう)快挙なりと仰せられたと、故三田村鳶魚の「上野の宮様」に出ている。

勿論、事の起こりが、京所司代の小笠原が加増されて老中職、松前京奉行は江戸南町奉行、勘定宰配荻原は勘定奉行に栄転したのに、高家筆頭の吉良はそのままにされ、これが不服で隠居すると言い出した吉良を、抜刀させんとしたのが、松の廊下の刃傷だったのだが、親王様はご存じなかったのだろう。吉良が毎年京へ行っていたのは、小判改鋳を言いつけた堺のえびす町の中村内蔵介が、横領した小判で祇園の一力茶屋を借り切ってのだだら遊び(豪遊)や、金蒔絵の盃を作らせ配ったり、小唄を流行させれば、女房は女房で、嵐山で今で言うファツションショー(衣装比べ・何時の世も泡銭を持てば馬鹿は何処にもいる)を始めだしての乱痴気騒ぎの監視のためである。
が、親王様は父後西様を見張るための上洛と勘違いして憎んでおられたのだろう。「忠臣蔵」の芝居では討ち入りの、山鹿流陣太鼓が有名だが、これは当時の荻生徂来の「山鹿の説は藤原氏への太鼓持ち、太鼓叩きなり」と決めつけていた一章からで、今でいえば流行したCMをもぢって舞台へ出すのと一緒だろう。

こうした語呂合わせは「地口」ともいい江戸時代にはしゃれだけでなく公儀でも、「近頃は京にては大きな鳥駕篭にて雀をかう」と後西帝幽閉の悲惨な有様をもじって書かれた「京雀」を政道上表向きは取り締まれぬ故、すぐさま逆にひっくり返して「口さがなきは京雀。なきこともあるがごとくに」と黄表紙を出させ、京雀とは他愛もない事を言う謂われなり、とこれは現在も使われている。
23年にも及ぶ後西帝救済のために皇子は江戸へ出てきて上野寛永山へ入られたが、後西様は寒い京の冬、貞享二年二月二十二日崩御。せっかく救出せんと江戸入りして寛永山に入って僧になられた親王様は落胆したと思われる。

〓〓〓引用参考文献〓〓〓八切止夫「日本特殊部落発生史」「徳川五代記」
六国史・皇運紹運録・槐記・赤穂義人纂書・三田村鳶魚考察・
天野信景「塩尻百巻」・阿部弘蔵「日本奴隷史」・その他

            天皇家の謎 NOー2

【後一条】1016〜1036
藤原道長によって九歳にて即位。八ヶ月後三条前帝の枇杷殿に何者かが放火。前帝は危なく命拾いされたが世人は、「この世をばわが世とぞ思うもち月の欠けたる事のなしと思えば」の歌を詠んだ道長の子ではないかと帝を疑う。だがこの噂は生母研子が道長の娘だからだが、他の女に産ませた子を猶子として娘へ押しつけたものなら、当時のこと故まあ有り得る。なのに道長が死んでしまうと後ろ盾が無くなり
ご不幸にも突如として病まれ一日で僅か二十九歳で崩せられると、摂政藤原頼通の血脈と噂のあった皇太弟が直ぐに即位する。

【一条】986〜1011
本来なら、皇統を継ぐべきであった醍醐帝の皇子盛明親王が五十九歳まで位につけずのまま亡くなると、藤原兼家は時の花山帝十九歳を、翌月その菩提を弔うよう髪を下ろして退位させてしまう。代わって帝が七歳で即位したものの寛弘八年になると年上の冷泉第二皇子居貞三十六歳へ突如として譲位させられる。そして慌ただしく三日後には剃髪し、その四日後にた仆れられて不可思議な死を遂げている。
藤原道長の陰謀なりという。帝位が藤原氏の意の儘だった時代のお気の毒な帝である。毒害されし帝なりと後世に伝わる。

【後朱雀】1036〜1045
満28歳で帝になり、のちに後冷泉となる第一皇子12歳が既に居たという事になっている。今と違って栄養の悪かった当時である。まさか15歳の少年に受胎能力があったろうか。やはり藤原頼道の子を猶子として、初めから押しつけられたと見るべきだろう。全て藤原氏の思いの儘の時代ゆえ、腹は借り物どころか父としての帝位も恰好だけだったらしい。在位9年にして不本意だったろうが譲位させられその三日後に他界とは、あまりに不審である。


【朱雀】930〜946
八歳で醍醐帝に代わられたが、世に云うところの平將門が承平元年に伯父の良兼と仲違いしたと通史は云う。だが実際は25年も前に藤原氏の後援母体である血をひく唐が契丹に滅ぼされ、8年前には後唐と呼ばれる荘宗が復活を図ったが、すでに崩れた唐の勢力の挽回はならなかった。それゆえ日本もこの影響を受け、次々と瀬戸内海や安房海岸から新興契丹勢力が武器食料を送り込み、反唐戦線を助けたのが天慶の乱の真相と想われる。テレビでは加藤剛の將門役の敗死で終了だったが内乱は帝の在位中ずっと続き、帝は24歳で退位させられて飾りものであった。


【後冷泉】1045〜1068
藤原頼通によって即位された。当時多武峰の藤原鎌足の像を毀すような反藤原の過激派が出現。やがて太政官や朝所の御所も焼討ちされ、若い帝は台所の大膳職行器所(ほかいじょ)へ難を避けられたり、藤原頼通の二条の館へ移っている。
日本史では契丹と言わず宋と呼ぶが、彼らは日本海を渡り武器資金の支援をした。為に藤原氏への圧迫はすごく、せっかく立て直した新内裏が焼討ちにあう。時こそ至れりと奥州へ流されたアマの系の阿部一族が叛乱。「夷を征するには夷をもってせしむ」と、藤原氏は、騎馬系である源頼義に討伐させたが、それでも又内裏を焼かれる始末である。よって帝は高陽院の仮住まいに44歳の多難な生涯を終える。

【冷泉】967〜969
天慶の乱で官に背いた板東八ケ国の原住民の叛徒を東北へ追い立てたが、生かして使えと先に制定されていた<延喜式>を実施。つまり彼らへ種もみを与えて、奴隷百姓と農奴化し、編戸の民として、厳しく年貢を取るようにした。それに目を付け収穫の穀物を奪って軍糧にしようとした契丹系の橘繁延らの企てを、密かに源満仲が密告してきた。安和の変と言うが、せっかく年貢取りの増収を図ったのが裏目に
出て責任をとらされ在位僅か2年で11歳の円融帝へ譲位させられ、藤原氏の監視下に42年の生涯を送られる。不運薄倖の帝である。


【後三条】1068〜1072
仮殿太政官庁で即位された帝は、三条内裏を新築されたものの、落成式に又しても放火され開院に避難し即位二年目の延久元年を迎えた。帝は反体制の徒の大和の紀伊致親や岡為房の討伐をさせている。また政務を公平に成すため記録所を新設。しかしそれでも人心は落ち着かず、翌年には反体制側の巣であった祇園社を焼いている。そして翌年ようやく完成した新内裏へ移る。よって平穏を願われて藤原氏の帝としては前代未聞の又新築された祇園社と稲荷へ行幸された。これがかえって藤原教通の怒りをかい、僅か在位四年で「行末恐ろしきお方なり」と追放される。藤原氏とは直接血縁のなかったお方である。


<紹介者・補記>

★★稲荷について少し詳しく記しておきます★★
「江戸に多いは○○稲荷に犬の糞」と侮称されるくらいに、何々稲荷は町毎にあったし、地方にも多い。
夷也(いなり)が転化して稲の荷となったのは、農耕を幕末まで絶対しなかった騎馬民族と違い、マレーシアやベトナムから水田耕作をつたえて漂着してきたアマの王朝系は、稲を育成して荷として年貢米に出していた。「大日本神社誌」等の大冊の本が数多く出版されているが、朝鮮半島からの白木カラ神の社と、赤塗りの堂との区別はまったく解明されていない。稲荷の赤鳥居は周知だが、八坂神社や祇園、安芸の宮島のごとくやはり赤いのは西南アジア伝来の物である。

つまり朝鮮のカラ神様との区別を一目で判別出来るようにしているのである。稲荷のお狐さまが火焔玉をくわえているのも、堂の者は拝火教で火こそ神聖にして全てを浄め守ると言う信仰からである。「大乗院寺神雑事記」に、西南より渡来の者には、古来よりの慣例にて平氏の姓を賜る、とあるのは唯一の文献ゆえよく引用するが、平氏の赤旗は今もアラブで軍旗に使用されているが、日本でもアラブ系拝火教の目印とされている。勿論マホメット出現の七世紀以前のアラブでは、拝火教だけでなく、拝水教もあった。今では水神様というのは、航海中の船の無事を守るコンピラやアツタ位が海神として知られているだけであるが、ヤマと古代語で呼ばれる水の神がありその御神体をお祀りするのが水天宮で、水はどんな孔でもするりと流れ出るというので、安産の神に変えられてしまっている。


【三条】1011〜1015
36歳で即位されたので、関白藤原道長の娘を皇后として、権力側に大いに気を使われたが、それでも石清水八幡へ参拝されたのが、藤原氏に睨まれたのか、御所が次々と失火し続けた。道長の自宅へまで行幸をしてしきりと藤原氏の気嫌をとったが、新築した御所が又焼き討ちされた。在位僅か五年で眼病を理由に道長に退位を求められ承知なさったが、それでも二年と生存は許されなかった。
「心にもあらで浮き世にながらへば、恋しかるべき夜半の月かな」の悲しき歌を詠まれ、42歳で寛仁5年9日に崩御。


【御白河】1155〜1158
僅か足かけ四年で降ろされたのが不服で、平清盛だけでなく源義朝まで召して旗あげした。相手が兄弟の崇徳上皇ゆえ、藤原氏も忠通、頼長と兄弟で分かれ、源氏は義朝の父の為義が相手に廻り、平氏も清盛の叔父忠正が相手についた。どっちが勝っても負けても親兄弟が生き残れるという苦肉の策はこの時からで、以後この形態は日本史では無数に見られる。明治になっても西郷隆盛を討伐するのが実弟の従道ごとく続き、日本的な血脈を重視する保身策となる。


【白河】1072〜1086
従来は退位すると剃髪して法皇となって仏門に入る。これが仏教の藤原氏の掟だったのに、14年間の在位後も多忙であった。というのは、加茂川の氾濫に悩まされ、それに山法師がたえず京へ攻め込んでくる不安に落ち着かず、上皇なのに自分で政務を執らざるを得なかった。院政の始まりである。東北へ出征させた源義家らが三年で戻ってくると、これら失業武士が叛乱してはと、救済策に北面に採用し己の親衛隊として創立した。<北面の武士>の始まりである。


【後鳥羽】1183〜1198
安徳天皇が入水されたので即位できたようなものだが、時に僅か四歳の幼児だった。それがやっと十九歳になった途端におろされたのだから、長ずるに及んで怨念がこもる。退位した翌年に頼朝が死んで、北条政子が源頼家に命じて、源氏一門の大幹部ともいえる梶原景時への破門状を出させた。そこで翌年正月に怒った梶原一族が鎌倉へ陳情に押し出してきたのを、駿河の清見潟で同じ源氏の三浦一族に迎撃させて誅殺させた。これを聞いた院は「よし、それでは源氏の散らばった者らや反北条の者らを集めて政子を仆して又帝位へ」と計画したが、北条氏に攻められて島流しになる。


【鳥羽】1107〜1122
五歳で即位し二十一歳で藤原忠通によって帝位をおろされる。これは契丹系の菅原在良を信任したため、藤原氏としては自分たちを追落す気ではないかと怪しまれたからである。院政をしいていた白河法皇が崩御されると、今度は自分が取って代わって院政の二代目となり、堀川三条小路の囲地に日本に漂着していた子孫の者で三十三間堂の建立に新技術を見せた忠盛に工事功労者として、平の姓を賜い昇殿を許可した。やがて彼らを己の親衛隊にと、藤原氏の焼討や暗殺を恐れて、今日のガードマンのように組織して馬や甲冑武器を支給された。


【後堀川】1221〜1232
四月に順徳帝が二十五歳でおろされたのは鎌倉の北条氏に睨まれたためだが、四歳の次の仲恭帝も承久の役によって北条軍が京へ進駐してくると、又直ぐ四ヶ月で、この時十歳の帝に代わった。南北六波羅探題に挟まれ、常時北条の監視下だった。
<皇凰紹運録>によれば、帝は在位十一年間全く喜怒哀楽をその顔には絶対に見せなかったと謂われる。つまり北条氏に何時、どんな目に遭わされるかと、戦々競々として、生きた心地もなく御所の中に逼塞していた不幸なご生涯であった。ポーカーフェイスもたまなら別だが、十年の余にわたって木像の如く、じっと顔色を変えずでは、さながら生きるし屍のごとき有様だったろう。

【堀川】1086〜1232
後世に伝わる頼朝御判もの28座の中に入っている御神楽は、八歳で即位された帝が幼児より好まれて後世に広めたものという。俗に清和源氏なる呼称があるが、正確には堀川源氏と謂うべきとの説もある。と言うのは、源義家が東征から戻ってきて失業した源氏騎馬民族を、今の皇宮警察官に全面採用したのは、白河法皇へ帝が献策した為と伝わり、後の源氏を育成したお方であるからである。だから出身が源氏系統かとの疑いがもたれている。もちろん御生母が騎馬系の末裔の意味らしいが、その為藤原氏に白眼視され「眉ひとつ動かされぬ帝にてありし」と全く無表情で生涯を通されたと伝わっている。


【後嵯峨】1242〜1246
即位されたのが成人の二十三歳だったゆえ、何かしでかしはせぬかと疑心暗鬼の執権北条経時に睨まれ、鎌倉の厳命で北六波羅探題北条重時や南六波羅探題北条時盛らが競って帝のアラ探しに躍起となった。為にやむなく帝は言いなりになって「六波羅の命に背く者は厳罰に処す」との寛元三年の新刑法も帝の名で発布されるような有様。その年末の諸国守護人の内で、源氏の残党を庇う者の所領は没収する旨の法令も勅許した。それなのに北条氏は逆に勅許によって各地の守護地頭職が動揺しだしたのは、次々と法令を出されたからで遺憾なりと、翌年四歳の新帝に替えた。帝の余生は<続古今和歌集>の選をなして一生を終わられた。

【嵯峨】809〜823
桓武帝が崩御され、平城帝がたたれたが、僅か四年で交替即位。この桓武王朝は今来の平野四神を奉じるれっきとした百済系である。東北から日本原住民が静岡まで来攻、その末端が清水の江尻にまで及ぶ勢力のため、藤原氏は大事をとって奈良王朝の血統をもってた、いわば飾り物の傀儡政権である。だから今の京を坊門平城京として仏教都市にした藤原氏にしてみれば、恰好だけ故気にくわなければす
ぐ廃立される不安定な立場だった。


【後深草】1246〜1259
二十七歳の後嵯峨帝を都合悪しと判断しておろした北条時頼が、四歳の幼帝に交代。この方のみ特に後の、深草帝と申し上げる。在位十三年にわたって、反仏教の北条政権は、新帝にも南無阿弥陀仏を唱えることさえ厳禁してしまったので、帝は床の間
の飾り物の如く過ごされていた。ナムアミが御禁制ならナムミョウホウレンゲキョウと日蓮が鎌倉松葉谷まで乗り込んで辻説法をしだしたのは、この帝の御代である。仏教に似ていても従来のとは違い、純日本式であると滝の口で頑張ったが、やはり弾圧され続けた。それでも帝は仏教体制の藤原の血をひくゆえ、日蓮の教えにひかれたが、それもならず北条体制下に怯えながら生涯を終える。

【深草】833〜850
仁明天皇と申し上げる。表向きは百済系桓武帝王朝の時代で、女官も昔の奈良の都の名残をとどめる朝鮮美人揃いだったが、唐より季節風で来日する勢力の圧迫が酷くなったため、騎馬系の源の常や契丹系の橘氏を登用し、大臣にして対抗させたが、藤原良房が右大臣になるや契丹系を源氏並の庶民に格下げし、嘉祥三年三月十九日に帝を坊主になし、そして三日後には崩御された。せっかく最澄や空海が唐から来たのに入信しなかったのが、仏教を国教に統一せんと意図していた藤原氏の怒りをかったものと推理される。

此処まで18名の帝を紹介した。長くなるので以下24名の帝は省略する。
54深草・91後宇多・59宇多・94後二条・78二条・96後醍醐
60醍醐・97後村上・62村上・99後亀山・90亀山・102後花園
95花園・103後土御門・83土御門・104後柏原・50柏原・

105後奈良・51奈良・107後陽成・57陽成・?光明・110後光明
108後水尾・56水尾・111後西・

現在の記紀を金科玉条とした皇国史観とはまるで違うが、四十数年余の生涯を懸けた八切止夫氏の「八切史観」で解明すればこうなる。

(引用参考文献)
八切止夫著「日本の特殊部落発生史」「天の日本古代史」「野史辞典」
記紀・神皇正統記・類聚国史・建武式目追加・皇運紹運録・三国史記
三国遺事・その他
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