ソ連での宗教弾圧 |
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共産主義政権下の典型的な宗教迫害の実態を、ソ連の特に目だった事例を下に見てゆきたいと思います。
…政教分離の名の下に行なわれた一連の宗教抑圧政策は、しばしば聖職者の処刑や教会の強制的閉鎖といった直接的な宗教弾圧をも伴い、その結果、宗教界の抵抗を招いて各地で流血の衝突が頻発するにいたった。 ロシア正教会の場合、1918年から1920年までの間に少なくとも28人の主教が殺害され、数千人の聖職者が殺されるか、あるいは投獄された。 またほぼ1万2000人の信徒が宗教活動を行なったかどで処刑され、数千人が逮捕の後、労働キャンプに送られるか、流刑処分を受けたといわれている。 1919年2月にロンドンで公刊された、ロシア正教会オムスク大主教から英国聖公会カンタベリー大僧正に宛てた書簡は、当時の教会迫害の様子を生々しく伝えている。
過激派が1917年のロシアで政治権力を掌握すると、彼らは社会の教養階級だけでなく、宗教そのもの、教会の指導者たち、そしてあらゆる人々から尊ばれた宗教的記念碑を一掃しはじめました。 モスクワのクレムリン大聖堂、ヤロスラーヴリやシンフェローポリといった諸都市の聖堂は略奪され、多くの教会が汚されました。 由緒ある至聖所も、モスクワとペトログラードの有名な総主教書庫も略奪を受けました。 キエフ府主教ウラジーミル、20名の主教そして数百人の聖職者たちが暗殺されました。 しかも殺害する前に、ボリシェヴィキどもは犠牲者の手足を切り刻み、そのうちの幾人かは生きながら火で焼いたのです。 ペトログラード、トゥーラ、ハリコフ……の市民たちが参加した宗教行進には銃撃が浴びせられました。 ボリシェヴィキが権力を握ったところではどこでも、キリスト教会はキリスト歴の最初の300年間よりもずっと野蛮な迫害を受けました。 尼僧は暴行され、女性は共有財産としてもてあそばれ、放縦と劣情がはびこっています。 いたるところに死が、不幸がそして窮乏があります。 人々は完全に打ちひしがれ、戦慄すべき経験に曝されているのです。 あるものは苦しみによって救われますが、他のものは惨めに屈服します。 ボリシェヴィキどもが追い払われたシベリアとウラル山脈地区でのみ、市民と信徒の生活は法と秩序の保護の下にあるのです。 (w・ストローイェン『共産主義ロシアとロシア正教会 1943−1962年』) (廣岡正久著『ロシア正教の千年[聖と俗のはざまで]』日本放送出版協会刊 P136〜137)
スターリン政権は、第一次5ヵ年計画(1928−32)に対する反対を抑圧するために、ウクライナで数百万の農民を餓死にいたらせ、また数百万の市民を労働キャンプに送り込むか、あるいは銃殺隊の前に立たせた。 こうした中で、それまで戦術的な理由から中断されていた宗教迫害も再開されたのである。 総主教代理セルギー府主教によると、1930年当時、ロシア正教会は3万の教会、163人の主教、6万人の司祭、そして数千万の信徒を擁していた。 しかし、強制的な教会閉鎖が始まると、翌1931年には教会数は激減し、2万強を数えるだけになる。 モスクワでは1917年当時と比べると教会は半減した。 1932年になると、「戦闘的無神論者同盟」が積極的な反宗教闘争を展開しはじめた。 “反クリスマス・キャンペーン”や”反イースター・キャンペーン”といった運動である。 ロシア正教はますます勢力を失い、1933年には活動している教会は革命前の15〜25%にまで減少した。 1930年代末の時点で、ロシア正教会の教区数は数百を数えるに過ぎなかったといわれている。 1932年には、活動していた修道院のほとんどすべてが破壊された。 たとえば、レニングラードでは2月18日、318人の修道士と修道女が強制収容所に送られた。 そして、22の聖堂が閉鎖された。 モスクワでは400以上の聖堂と修道院が爆破された。 当時のソ連の一般紙もしばしば教会破壊の実態を発表した。 『イズヴェスチヤ』紙(1936年8月12日)と『プラウダ』紙(1937年4月15日)は、次のような数字を挙げて、その”成果”を伝えている。 都市、地区 革命前 1934年−37年・ベルゴロド市と同地区 聖堂47、修道院3 教会4(1936年) ・ノヴゴロド市 聖堂42、修道院3 教会15(1934年) ・クイブィシェフ(前サマラ)市と 聖堂、モスク、 325(1936年) その管区 その他の寺院2200
しかし、スターリン体制下の教会攻撃はこれにとどまらなかった。 これ以後、本格的な迫害が始まり、もはや利用価値のなくなった革新教会派をも含めて、ロシア正教会は壊滅的な打撃を被ったのである。 その結果、1939年にはソ連国内で実際に活動している教会は、実に100程度にまで減少したと見られている。 レニングラードでは1918年当時、401に上った正教会が5つを数えるに過ぎなかった。 教会攻撃がもたらした聖職者の犠牲も戦慄すべきものであった。 1932年以降の主教の逮捕者数は、1936年の20人、翌37年の50人をはじめとして全部で100人に上った。 1930年に府主教セルギーが挙げた163人の主教の中で、86名の主教が7年後に収容所の奥に姿を消した。 同時期に29人の主教が死亡し、27人が”引退” させられた。 結局、1930年代と40年代に総主教教会と革新教会派とを合わせて、約600人の主教が殉教したといわれている。 迫害の犠牲が主教などの高位聖職者に限らず、教区司祭にも及んだことはいうまでもない。 レニングラードでは、1935年当時に教区司祭を務めていた100人の聖職者の中で、1940年まで生き延びたのは7人だけであった。 革新教会派の場合は、1935年当時50人を数えた司祭は1941年には8人が生存していただけであった。 モスクワやレニングラードといった大都会は外国人の目に触れるために、他の地域に比して迫害の程度は低かったと思われる。 こうしたことから、地方の教会と聖職者に加えられた弾圧の実態が想像されよう。 結局、1930年代の10年間に3万人から4万人のロシア正教会聖職者が銃殺されるか、もしくは収監されたと見られている。 また、修道院から追い出されて修道士や尼僧も流刑に処せられ、監獄に放り込まれ、あるいは射殺された(レフ・レゲリソン『ロシア正教会の悲劇 1917年−1945年』)。 (廣岡正久著『ロシア正教の千年[聖と俗のはざまで]』日本放送出版協会刊 P159〜161)
迫害を受けた多く所聖職者や平信徒たちに課せられた罪状は、すでに触れたように多岐にわたっていた。 信徒たちの尊敬を集めているというただそれだけの理由で処刑された聖職者もいた。 教会財産の没収に対する反対や抵抗も逮捕の口実となった。 あるいはまた、革新教会派との対立やセルギー府主教の忠誠宣言に対する批判も犯罪と見なされた。 これら以外に、ドイツや日本のスパイ、スターリンと対立したトロツキー派あるいはジノヴィエフ派、人民の敵、国有財産の横領、闇経済、反革命陰謀などが、教会関係者の投獄ないし処刑の理由とされたのである。 とくに1930年代後半には、信者であることはいわば伝染病に感染しているのと同じように見られた。 教会と何らかの関係を持つことは、時には生命をさえ危険にさらすような行為であった。 さらに家庭にイコンを所有していたり、司祭を自宅に招いて私祈祷を行なうことが、直ちに投獄される理由となったのである。 (廣岡正久著『ロシア正教の千年[聖と俗のはざまで]』日本放送出版協会刊P170〜171)
−フルシチョフ時代の迫害−−−−−−−−−−−−−−−−−− …スターリン死後の権力闘争を勝ち抜いて最高指導者の地位についたフルシチョフは、1959年より大々的な宗教弾圧を再開した。 フルシチョフの宗教弾圧は1930年代のスターリン政権のそれにも匹敵する、大規模かつ徹底的なものであった。 その結果、ロシア正教会は著しく勢力を弱めることとなった。 1917年のロシア革命以来数々の迫害に耐え抜いて閉鎖を免れた69を数えたロシア正教会修道院は、1965年には15に減少した。 1961年から翌年にかけて約1万の教会が閉鎖され、その後の数年間に さらに5000の教会が活動を停止し、1958年当時活動していた2万5000の教会が、1965年には8000以下に激減した。 1962年に管区主教が74名から63名に、教区司祭が2万名から1万4000名に減少した。 修道士と修道女も1万人から一挙に半減した。 1950年代に開校していた8つの神学校は1962年には5つに、後には3つに減ってしまった。 フルシチョフによって1959年に大々的に開始された宗教攻撃の戦果は以上のようなものであった。 (リチャード・マーシャル・ジュニア編『ソ連における宗教の諸相 1917年−1967年』) (廣岡正久著『ロシア正教の千年[聖と俗のはざまで]』日本放送出版協会刊 P179〜180) |