共産主義者による宗教抹殺政策ー旧ソ連の例 |
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共産主義にとって政治的に障害あるいは脅威となると見られた団体、特に宗教団体等がどのような道をたどるか。それは、共産革命がなされ社会主義化された国々で例外なくみられる事実です。 典型的な例として、ソ連における宗教(ロシア正教)に対するレーニンをはじめとする共産主義者の対応を見てみたいと思います。 共産主義者にとっては、「宗教はアヘン」というだけでなく、政治的脅威と映り、「権力の手先になって、社会主義、共産主義へと移行する歴史発展を妨害する反動勢力」「人民の敵」として、粉砕・打倒しなければならない敵として、容赦なく攻撃される対象となっていました。 財産の没収をはじめ、悪印象をつけるための虚偽宣伝、レッテル張り、教会内反対勢力を利用しての内紛、それを口実にしての介入、差別、強制労働、投獄、殺害等、様々な攻撃にさらされ抹殺・弱体化される姿が如実に示されています。
参考文献:『ロシア正教の千年』(廣岡正久著:NHKブックス)、 『迫害下のロシア教会』(高橋保行著/教文館)ほか−−−−− ロシア革命前: 1905年にレーニンは、信仰と不信仰の自由を保障。 信仰のために差別を受けるようなことがあってもならないとした。 しかし、暴力革命により実権を握ると、ボルシェビキ(共産党)政権にしてみれば、国民全体の支持を受けたわけでなく、腕ずくで勝ち取った政権であるから、自分たち以上に国民に影響力のある教会は脅威である。 (革命前のロシアでは、ロシア正教は930年に及ぶ国教であり、その影響力は侮れないばかりか、ボルシェビキ(共産党)政権からみれば、ロシア正教はロシア皇帝の帝政(権力)維持のためのお抱え宗教であり、自分たちの政権基盤をゆるがしうる政治的に大きな障害・脅威と映った。(ゆたか(著者)による注)
革命後: 1918年1月23日から教会を国から、教育を教会から引き離すことに決定。したがって1918年以降に教会で行なわれる一切の冠婚葬祭は法律的に認められないことになった。 つぎにレーニンは、教会の所有する土地、聖堂、修道院をはじめとして聖職者たちの住む家、教会所属の学校、福祉施設、蝋燭工場などの土地をすべて政府のものにした。 6千にわたる聖堂や修道院の建物が、博物館あるいは歴史的に価値ある建物として没収。1914年に1025あった修道院が、1920年までに674が閉鎖。 土地に続いて教会の銀行預金すべても没収。 教会所有の42億4800マンルーブルが没収され84の工場、436の酪農場、602の牧場などが国有となり、なかには集団農場と指定されて、修道士や修道女がそのまま強制的に労働者とさせられたところもあった。 無神論に徹した理解に基づく法律を作り、「20人組」制度により、聖職者を個人営業の司会者のように扱う。 聖堂を無神論の講義場、劇場、講演会場、ダンスホールなどにも使えるようにし、その用途ですでに使用されている時には、(教会としての)使用は許可されず、空いていて使用が許可された時には税金を払うことが義務付けられた。 祈祷儀礼人である聖職者も、社会的に劣等国民として辱めを受けた。食糧の配給を受けられないだけでなく、国営の仕事にはつけなかった。 しかも、その子どもたちは小学校以上の教育は受けることができないなど、やっきになって教会を抹殺しようとしていたかわかる。 教会が学校経営などすることはもってのほかで、信仰についての学びは個人的に許されるということにとどまり、未成年者に対する信仰についてのいかなる教育も禁止された (参考文献:『迫害下のロシア教会』高橋保行著/教文館P77)
ロシア教会を帝政ロシアの御用信仰と軽く考えていたボルシェビキ政府は、教会が簡単に崩れないことを知ると、あらゆる口実をねらって足元をすくおうとした。 そのよいきっかけとなったのが、旱魃による飢餓と、革命前から教会改革を極端なかたちで現実化しようと試みていた聖職者たち、そして在外ロシア教会の存在であった。
1920年代初頭に起きた旱魃は、ロシア全土を飢饉にさらした。 ティコン総主教は、21年8月に全世界のキリスト教の指導者たちに救済援助を呼びかけるとともに、国内の信徒から義援金を集めた。 これにたいして政府は、教会が集めた義援金を没収して、教会の救済活動をとりやめにさせた。 それではと、ティコン総主教は、聖機密と呼ばれる重要な祈りに使われる聖器物を除いた器物を救済のために供出するように信徒たちに呼びかけた。 こうした教会の動きに最初のうち賛成していた政府は、すぐ禁止させて直接介入して祈りに使う聖器物をすべて教会から無差別に没収しはじめた。 それでもティコン総主教は抗議せずに、信徒たちに聖機密に必要な最小限の聖器物は渡さずに、それ以外のものを供出するように呼びかけた。 ボルシェビキ政権は、ティコン総主教のこの呼びかけの最初の部分だけを引き延ばして、国民が飢饉の苦しみに喘いでいるのに、教会は救援援助のための政府の要請を拒んでいるという印象を国民に与えた。 (引用:『迫害下のロシア教会』高橋保行著/教文館p74、76、82) (このロシアでの1920年代初頭の飢餓に対して、ティコン総主教が義援金を集め、救済活動を行ったことに対して、ボルシェビキ(共産党)政権それを取りやめさせ、没収しただけでなく、「重要な祈りに使う最小限の聖器物以外はすべて救済のために供出するように」と総主教が信徒たちに呼びかけたことに対して、その事実を捻じ曲げ、「国民が飢饉の苦しみに喘いでいるのに、教会は救援援助のための政府の要請を拒んでいる」という虚偽の印象・レッテルを国民に与え、その上で弾圧を加えて行った:(ゆたか(著者)による注) ご参考)1920年代初頭の飢餓の際のレーニンの秘密書簡(グラスノスチによって1990年4月にソ連共産党中央委員会会報誌に掲載されるまで、その存在すら国民に知らされなかった)には、目的のためには手段を選ばない残忍で狡猾な手口が示されています。 スターリンの対宗教態度 ・・・・モスクワで最大の聖堂である”救世主ハリストス”大聖堂の爆破(1932年)の命令(『ロシア正教の千年』廣岡正久著、NHKブックスp128) にみられるように、無神論の共産主義者にとって、教会・寺院等は、爆破・破壊の対象となり、無神論教育・思想改造・強制労働がなされたり、ダンスホールや博物館と変えていかれた。それにもまして、ロシア正教信徒たちへの迫害は弾圧から抹殺へと(P111)言語に尽くしがたいものがあった。ただ、第2次世界大戦のときに、ロシア正教が国のために信徒たちに呼びかけたことに対するいくばくかの自由が与えられるようになるが、それもフルシチョフの登場により、レーニン主義の復活が叫ばれ、宗教撲滅によって、共産主義社会が実現されるというレーニンの路線の考えがさかんになり、科学的無神論研究所などが設けられ、徹底した無神論宣伝が行われた。P153 参考)スターリンの宗教弾圧 1930年2月の記者会見 少しは迫害が緩和されるであろう、と共産党政権が宗教の自由を擁護しているということを示すための記者会見まで行ったが、さしたる変化ももたらされなかった。
犠牲者の罪状 迫害を受けた多くの聖職者や平信徒たちに課せられた罪状は、すでに触れたように多岐にわたっていた。 信徒たちの尊敬を集めているというただそれだけの理由で処刑された聖職者もいた。 教会財産の没収に対する反対や抵抗も逮捕の口実となった。 あるいはまた、(*共産政権寄りの)革新教会派との対立や(*共産政権寄りの)セルギー府主教の忠誠宣言に対する批判も犯罪と見なされた。 これら以外に、ドイツや日本の スパイ、スターリンと対立したトロツキー派あるいはジノヴィエフ派、人民の敵、国有財産の横領、闇経済、反革命陰謀などが、教会関係者の投獄ないし処刑の理由とされたのである。とくに1930年代後半には、信者であることはいわば伝染病に感染しているのと同じように見られた。 教会と何らかの関係を持つことは、時には生命をさえ危険にさらすような行為であった。 さらに家庭にイコンを所有していたり、司祭を自宅に招いて私祈祷を行なうことが、直ちに投獄される理由となったのである。 「ロシア正教の千年」(廣岡正久著:NHKブックス)P170〜171 (*)は、ゆたかによる注 フルシチョフの対宗教態度 参考)フルシチョフの宗教弾圧 弾圧のため、宗教人・反体制派の人々を「精神病院送り」にするという弾圧方式をはじめた張本人
教会改革運動「生ける教会」(共産党政権寄りの改革集団): ロシア正教弱体化に利用されるが、共産党の目的はP87生ける教会も撲滅することにあった。「生ける教会」は自分たちの要求ばかりを考えていたから、ボルシェビキ政権の策略に気づく余裕はなかった。 内側から崩れないならば、再び外から落とそうというわけである。P89 P137 無神者同盟:1925年の(イエス様の復活を祝う)復活祭の日に結成式 P144共産主義社会が完璧に具体化されたときには、自然消滅する「今あっても、将来はなくなる、本来あるべきでないものであった。」 したがって無神論国家は、政教分離といいながらも、分離させた後に相手を抹殺するという最終的には教会あるいは宗教のない社会である。 |