レーニン極秘文書1 |
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引用文献) 『あらかじめ裏切られた革命』(岩上安身著・講談社1996年)より
・・・私は一通の手紙について書きたいと思っている。 1922年、モロトフ党中央委員兼書記に宛てて、レーニン自身がしたためた秘密書簡である。 この書簡は、レーニンの指示によって極秘扱いとされ、「ソ連共産党中央委員会会報」誌の1990年4月号に掲載されるまで公開されることがなかった。 この書簡が68年間にわたって公開されなかった理由は一読すればおのずと明らかである。 1922年、ロシアは革命に続く内戦によって荒廃し、おぞましい大飢饉に見舞われていた。 この書簡はその飢饉を背景にして書かれた。 ソルジェニーツィンは『収容所群島』の第一部第九章「法は成人する」のなかで、22年の飢饉の様子をこのように描写している。 「内戦の末期、その当然の結果としてヴォルガ沿岸地方に未曾有の飢饉が起った。これはあまりこの戦争の勝利者の桂冠を飾るものではなかったので、わが国の歴史書には2行ぐらいしかこのことについては触れられていない。 だがこの飢饉は人肉を食べるところまで、親がわが子を食べるところまでいった恐ろしいもので、このような飢饉は17世紀初期の《動乱時代》にもロシア人の知らなかったものであった」(新潮社版、木村浩訳) まさしく「自分の子供を食べる」ほどの飢饉の中に農民たちがおかれていたとき ― 一説では約2500万人の国民が危機的な飢餓状況にあったといわれる― レーニンはこのような命令を書いていたのである。 「まさに今、飢えた地方では人を喰い、道路には数千でなければ数百もの屍体がころがっているこの時こそ、教会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならない)のです」 レーニンにとってその飢餓は、共産党の独裁を達成するための障害となっていた教会を徹底的に弾圧し、その財産を没収する絶好の機会という以外の何ものでもなかった。 しかも、彼は書簡の中で繰り返し、聖職者たちが数十年にわたって忘れられないように最も残酷な手段で弾圧せよ、と命じている。 しかしその一方、苦しみのどん底にある農民たちに対しては、一片の憐れみすら示していない。 絶対的な権力を掌中におさめるという目的のためには、手段を選ばない冷酷な戦術家−。 この書簡の文面から浮かびあがるレーニンの貌はそのようなものだ。 「人類の蒙をひらく偉大な社会主義者」として、あるいは「弱者への慈愛に満ちたソ連建国の父」として、美しく語られてきた偶像の面影は、そこには微塵もない。 よほど頑迷な教条主義者でもない限り、これをよんでなお、レーニンの道徳的無謬を信じられる人はいないだろう。 以下、その秘密書簡の全文を紹介する。(翻訳は古野武昭氏による)。
この秘密書簡が掲載された党機関誌を私に見せてくれたのは、レニングラード(現サンクト・ぺテルブルク)で会った、あるロシア正教の主教だった。 クーデター事件の一年後、90年夏のことである。 ペレストロイカのもと、信仰が国民の間で復活しつつある喜びとともに、教会再建の道のりの険しさを語った彼は、同時に宗教を過酷に弾圧した責任は誰よりもレーニンにあると静かな口調でつけ加え、その証拠の一つとして、この機関誌をさしだしたのである。 (このときのいきさつについては、『ソ連と呼ばれた国に生きて』(宝島刊)をご参照いただきたい)。 内容はたしかに「衝撃的」なものだ。 レーニンの歴史的評価にかかわる貴重な資料であることも間違いない。 しかしあえて書けば、レーニンの評価については「今さら」といった思いが私の中にはなかったわけではない。 スターリンを断罪しながら、他方でレーニンを擁護するような政治姿勢が愚劣で欺瞞でしかないことは、共産主義の実践が現実にもたらした災いの数々を直視すれば明白だろう。 レーニンの「罪」がいつか明らかになることは、ある程度予見可能なことだった。 この秘密書簡は、その予見を決定的に証拠づけるものであり、逆にいえばそれ以上でもそれ以下でもない。 |