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横浜ラーメン@茨城・北浦

茨城県行方郡北浦町小貫
常磐道土浦北 IC から旧6号で土浦市内に向かい「真鍋交差点」から国道354号で霞ヶ浦町(旧・出島村)をめざす。霞ヶ浦大橋(有料380円)を渡り,玉造町をぬけて低い山あいの道を行き小貫小学校を過ぎると右側に「横浜ラーメンは左」の立て看板(少し地味),狭い坂を上がりすれ違うのがやっとの農道をしばらくいった左側にぽつんとある。駐車場(というか空き地)に15台くらい入る。まわりも何もないので路上駐車には困らない。
12:00〜20:00  水休らしい

1999年5月31日のテレビ東京「愛の貧乏脱出大作戦」に出ていたという「横浜ラーメン@茨城・北浦町」に「(茨城県内と言う意味では)地元の話題だし一応行っとこうかな」と日曜に行ってみた。水戸を回っていったら,1時間以上かかった。

みのもんた司会のこの番組は,売れない飲食店の店主を有名店で修行させて得意メニューを作りだし,店を売れる店にして「貧乏脱出」させ,「生まれ変わった店と父の姿に妻と子供がうれし泣き」というパターンの番組である。実は今回のテレビを見ていないんで,番組の内容を情報が入った範囲で言うと,潮来に出店していたラーメン店が潰れ,300円ラーメンというのを自宅の店でやっていたが売れず,番組に応募,なんとあの「ラーメン王」石神秀幸氏が味見に来て(酷評されたようだ),さらにあの藤沢の「支那そばや」の佐野実氏(弟子どころか客にも厳しいので有名)のもとで修行させるといったもの。最後に佐野氏が秘伝のレシピを渡したらしい。今日は番組後最初の日曜と言うことになる。
テレビ見てなかったんで,着いてびっくり。国道354号(周りは畑)沿いの立て看板をみつけ,案内通り細い坂をあがり,少し不安になるくらい農道を進むと,ビニールハウスの並ぶ畑の向こうの空き地に,ぽつんとそこだけ車があふれ,人が50人くらい並んでいる。周りには点々と家があるだけの畑地。典型的な茨城の田舎の風景。もちろん近くに観光名所などない。およそあらゆる商売に向かない環境だ。

とりあえず並んでみる(午後1時半)と,整理券(手書き)を持っている人がいる。午前11時くらいで券は100食分出たという。つまり,すでに売り切れ。しかし店からの説明や看板等は一切ないので後から後から客が来る。普通の農家を改造したような程度の「店」の庭先で,人が行ったり来たりの大混乱。事情を知らない人は券を持ってる人があとからでも入っていくのに不満顔。客層も多彩。子連れ夫婦・アベック・杖をついたお年寄り・一族10人以上の3世代家族もいた。子供は飽きて駆け回っている。
並んでも無駄なようなので帰ろうかと思ったけど,2時くらいになって「整理券をもらっても来ない人がいるから,券がなくても何人か(20人くらい)食べられる」と中学生位の息子さんが「頼りなげに」言うので一応待つことに。風に乗って「田舎の香水」の匂いが運ばれてくるのには,みんなまいっていたが・・・。
結局,3時近くになってもポロポロと券を持ってる人が来て,あと3人というところで売り切れ。つまり食べられなかった。この時午後3時。それでもひっきりなしに客の車は入ってくる。平日もこんな感じという。近所でなけりゃしばらく無理そうだ。奥さんが「今度は近所にお友だちでもいたら整理券をとってもらって明日にでも・・・」と言う。そんな友達は普通いるわけがない。
結局2時間くらい無駄にしたが,不思議と頭にもこなかった。なぜなら,食べられなかったから。食べてたら違う意味で頭に来てたかもしれないし・・・(出てきた人の表情である程度は予測がつく)

   この日は店主の息子さん娘さん(だと思う・中学生くらい)も総出でお手伝い。みんな不慣れで対応にてんてこ舞いと言った感じ。無理もない。ある日突然行列店になればどこだってこうなる。手伝いのそこそこの歳のキツイ感じのお姉さんが,段取りの悪さをずっとぼやいていた。
3時を過ぎ「売り切れです」と出てきた主人が妙にニコニコしていたのが印象的だった。その隣でギプスをなぜか手首に巻いて,食べられない客に謝ってまわっていた気の弱そうな奥さんが,「もうわけわかんなくなっちゃって・・・」とあたまをかかえて,おろおろしていたのと対照的だ。いつか必ずくる「潮が引いた後」のことが心配になった。「貧乏」は脱出できるだろうが・・・

   15年前くらいに,愛川欣也の「探検レストラン」と言う番組があった。荻窪で有名店(春木屋・丸福)に挟まれた売れないラーメン店「佐久信」を,糸井重里氏が「突然,ばかうま」とコピーをつくり,山本益博氏とかもかかわって「売れるラーメン店」に作り上げた。実は当時並んで食べたのだが,友人と苦笑してしまった記憶がある。店主に「研究心」と「向上心」がなければ,どんないい材料とレシピがあってもうまいラーメンはできないということだ。いきなり行列に振り回されてりゃなおさら味は落ちる。そしていづれ客は減っていく。でも「佐久信」は荻窪だからまだいい。人通りがあるからである。

  北浦町は霞ヶ浦大橋ができて土浦に行くのにずいぶん便利にはなった。とはいえ,茨城の,しかも霞ヶ浦と北浦という大きな湖に挟まれたいわば「陸の孤島」のようなこの町には,はたして「支那そばや」の味でよかったのだろうか。食べて出てくる人の表情はみんな重かった。「味がわかんねえよ」と言って出てきたお兄ちゃんもいた。もっと違うわかりやすい「うまさ」を期待してたのだろう。番組的には,佐野氏による「修行」の方が絵になったのかもしれないが,テレビ東京もコクなことをしたとおもう。むしろ店名が「横浜ラーメン」と,なぜかもともというのだから,「家系の店」で修行させて,茨城にはまだまだ少ない「家系」のラーメンにでもしたほうがよかったのではないかと「僕は勝手に」思う。その方が茨城の人にはちょっとめずらしい味になったと思うし好き嫌いはあっても固定客はつくと思う。県外からわざわざ来るなんて最初のうちだけだろうし・・・。

「佐久信」もこうして記憶に残ってるくらいだから,「横浜ラーメン」も記憶に残るだろう。でも今の場所じゃだんだん忘れられていくのは目にみえている。うっかり入っていくような道ではないからである。(1999.6.6)

2年ぶりにこの店を訪ねてみた。「霞ヶ浦大橋」の東側にある「玉造町」とさらに東の「北浦町」を結ぶ国道354線,小貫小学校東側カーブのところ(南側は一面水田)に手書きの看板がある。「北浦工業所」の看板も目印だ。なんでもない坂を上がり,何にもない畑道を1kmほど。左手にある大きな駐車場(と言うか「空き地」)の奥の「全く普通の民家」がこの店。奥の建物(倉?)の1階部分を覆うように建てられた「横浜ラーメン」と大きく書かれた青いテント看板がやけに目立つ。店そのものは民家の普通の土間の部分に強引にカウンターと調理場を詰め込んだような構造。左側の4帖半の「茶の間」の部分が畳席と言うことになる。しょうゆラーメン・550円を注文。今日は奥さんがひとりで作っていた。地元の製麺所に粉の配合とか指定していると言う加水率の高いにゅるっとした麺は独特の食感。だがしっかり醤油色のスープは思いっきり和風。旨味も強い。奥さんに聞けばやはり味を変えたそうだ。厚めのチャーシューはけっこうしっかり作ったもの。それにあっさりした味付けのメンマ。あと海苔。先客がいなくなったので奥さんとちょっと話が出来たのだが,例のダンナさんは「雷電ラーメン」と言う軽トラ屋台(庭に置いてあった)で深夜0時までの屋台営業を始めたそうだ。だから昼間は店には出てこない。しかもその屋台に追突されて今は「ムチ打ち症」だそうで,TV出演前に逆戻りしたような運のなさ。深くため息をつく奥さん。ちょっと心配になることは,前回来たときと変わらなかった。余りにものどかな風景。まばらな人家。商売的に難しすぎる場所。やはり「貧乏」はそう簡単には脱出できないと言うこと?。水休で8時頃まで営業だそうだ。もはや絶対に行列も売り切れもないだろう・・・。(2001/04/29

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