「汗にぬれつゝ」(明治42年7月)


  ▲厳然として充実し、而して、洞然として空虚なる人生の真面目を、敵を迎へた牡獅子の騒がざる心を以て、面相接して直視するといふ事は容易に出来る事でない。直視するに堪へないからこそ、我等は常に「理想」といふ幻象を描いて瞞着(ごまか)してゐる。
 ▲その頃、天地人生に対して、予は予の主観の色を以て彩色し、主観の味を以て調理して、以て、空想の外套の中に隠れてゐる自分の弱い心に阿(おもね)つてゐた。一切が一切に対して敵意なくして戦つてゐる如実の事象を、その儘で自分の弱い心に突きつける事が出来なかつた。--今も出来ない。
 ▲詩--詩とは何ぞ? ??語(たわごと)ではないか--
 ▲我等はモツト早く目を覚まさねばならなかつたのだ。……夏蜜柑を砂に葬つて来た事を二三の友人に話すと、三四日経つてから其人達が散歩の序、その砂丘に立寄つて、標の木片を見付けて掘り出して見たさうだ、夏蜜柑ば腐つてゐたといふ。然り、夏蜜柑は腐る物である。--
 
 
 これは「汗にぬれつゝ」の最後の部分である。啄木は、全体として軽い調子で、しかも落ち着いた文章を書いている。自分が古い精神を捨てて新しい精神世界に入ろうとしていること、それが時代の精神でもある事を確信しているのであろう。漱石の『三四郎』に似た心境である。浮ついた自信を捨てた真面目さがある。しかし、漱石と同じく、自分がどれほど深刻な問題に直面しているかをまだ理解していない。
 啄木は、かつて人生に直面できずに理想という幻想で自分をごまかしていた、と自覚することでその過去を超えている。しかし、過去の否定にとどまっており、次の一歩を踏み出していない。この一歩に飛躍がある。現実との関係における困難は、現実を直視する意志と勇気を持つことにあるのではない。現実を直視することの重要性を理解し、直視する意志を持つことは、現実を直視することへの前進ではない。啄木は、現実を回避する心の弱さをなくす意志を持つことを重視しているが、たとえどのような主体的な意志をもつとしても、それは現実の直視と直接の関係はない。理想を掲げて現実との対峙を回避することもあれば、理想を掲げて現実と対峙することもあり、現実の直視を掲げて現実との対峙を回避することもあれば、現実の直視を掲げて現実と対峙する場合もある。
 「敵を迎へた牡獅子の騒がざる心を以て、面相接して直視する」という啄木の言葉に、現実との関係の認識の甘さが見られる。人生と面相接することの困難が、心が弱いために人生から目をそらすことであり、直面すべき人生の真相がそこに厳然として存在するのであれば、困難の克服は弱い心をなくし、そこにある人生の真相に勇気をもって向き合うことである。しかし、現実の困難は、人生の真相が厳然としてそこに存在するのではなく、それがどこにどのように存在するか認識できないことにある。特に階級的な利害関係が明確でない日本では、社会的な堕落や腐敗や諸悪が目に余るほどはびこる情況にありながら、その克服のために何を敵とし、どのように闘えばよいかを発見することに非常な困難がある。勇気という言葉を使うならば、無数の個別的な堕落・腐敗を前にして、個別に対立するのではなく、本質的に対立する方法が見つからない情況に耐えて方法を見つける勇気と忍耐力を持たねばならない、ということである。漱石はその勇気と忍耐力を持っていた。啄木は、理想や空想をすてて現実を直視する勇気を持つことが現実の直視であると考えている点で、自分が直面している課題の深刻さ、困難さの理解が足りず、その意味で十分な真面目さを得ていない。啄木はこのあと、生活・現実との一致の当為を掲げることの限界を理解するために多くの努力をすることになる。
  


home