2.坊ちやん
 社会的な孤立状態をあり得た利益の断念という禁欲的形式で肯定的に評価するのが初期作品の特徴である。これは相対的に優位な地位にあるインテリが現状を守ろうとする保守的な意識である。坊ちゃんの場合それは正義感という形態をとる。瑣末な現象に対する道徳的な批判意識は現実に対する無力と消極性を肯定する意識形態の一つである。
 坊ちゃんが教頭の声や赤シャツに注目するのは苦沙弥が鼻子の鼻に注目するのと同じで、教頭の社会的な力に媚びない気質を示すと同時に、赤シャツとの深い人間関係を形成する必要と意志と能力を持たず、赤シャツの社会的な力を認識する能力を持たないことでもある。媚を売らないという意志以上の積極的な意志も能力も持たない坊ちゃんには自分が客観的には本質的な対立を回避していることが認識できない。坊ちゃんは校長や教頭に従属することで得られる利益を拒否する形式で対立を避け、自分の現状を保守的に守っている。
 できないことをできないと言う坊ちゃんの正直はできないことを誤魔化す者よりいくらかましであろう。しかし、幾何の問題を解決する実質的能力よりできないことを告白する正直の方が上等なわけではない。それは正直でないこととの比較によって自分の無能を弁明しているにすぎない。
 生徒の悪ふざけは坊ちゃんの力量を試し、人間関係に組み込む過程である。しかし坊ちゃんは生徒の悪ふざけを人間関係を形成する契機とするのではなく、生徒を道徳的に批判し、田舎を嫌う契機にしている。坊ちゃんの道徳的意識は坊ちゃんが松山の人間関係に積極的に関与できず、分離されていることを肯定する意識である。
 坊ちゃんが自分の価値観において人間関係の形成を拒否していると考えるのは『吾輩は猫である』と同じである。同様に、それによって人間関係が形成されると想定されている。坊ちゃんは蕎麦を食い天麩羅を食い温泉で泳ぐだけで注目されている。坊ちゃん対して外から人間関係が働きかけてくると想定されている。苦沙弥の世界に鼻子や金田が舞い込むのと同じ想定である。汚いことをしてまで利益を得る必要はないという正義感を発揮するには汚い手段で彼に利益を与えようとする外的な力が常に働いていなければならない。現実にはそのような都合のいい悪党がそうそうはびこっているものではない。
 漱石は坊ちゃんの正直を肯定している。しかし具体的には正直の無力と滑稽を描写している。漱石は坊ちゃんの正直と知恵がないことの一致を理解している。正直には知恵がなく知恵のない正直に現実的な勝利はない。正直だと知恵がなくて困るが困っても負けずに意地を張るのが坊ちゃんの滑稽さの魅力である。坊ちゃんの弱点を知り、そのうえでそれを貫徹するのが漱石の現実的精神である。赤シャツや校長に対して現実的な勝利はありえず対立は滑稽と敗北であることを理解できるのが漱石の知恵である。赤シャツとの関係で、考え得るあらゆる勝利形態を本質的だと認めない現実認識によって赤シャツに対する非妥協的対立と無力の一致が描写される。この点においてはじめで、坊ちゃんの正直と非妥協性は精神の傾向性であり知恵の基礎となりうる。坊ちゃん的な正直と非妥協性なしに真の知恵はあり得ない。知恵のある漱石だからこそ知恵の出発点となる精神の傾向を正しく設定し、無限の発展の可能性を持つ内容を描写している。坊ちゃん的な正直が勝利することを想定するのは、智慧の度胸の欠如を意味しており、発展の可能性がないことを証明している。
 坊ちゃんは現実に通用しない正直や純粋が軽蔑され単純や真率が笑われる世の中に反発している。しかし純粋や単純や真率が無力と同一である場合現実的な力を持つ赤シャツに笑われて当然である。笑われないためには正直で純粋であることを越えて社会的な能力を持たねばならない。赤シャツの笑いを受け入れることは正直が現実的な力を得ようとする衝動であり正直の真摯さの証である。正直でなおかつ赤シャツの社会的な力に対抗するには赤シャツの出世するための能力と質的に違った高度の能力を必要とする。その力を得るまでは正直な坊ちゃんが赤シャツを笑うことは現実にはあり得ない。坊ちゃんが赤シャツに笑われるのが現実であり、その現実が真理である。
 このような基本的特徴において、人間関係と関わる程度に比例して坊ちゃんの消極的な道徳的精神は矛盾を抱え込む。悪い事をしないという消極的道徳を貫徹しようとするとひどい目にあう。消極的に現実に接する場合でも、ひどい眼にあわないように用心するには少なくとも人の悪いのを見抜く能力が必要である。自分が悪い事をしないという消極的な正直さには、むやみに人を信じあるいは疑うという臆病で非実践的な精神が必然となる。積極的な人間関係が形成されない孤立的な世界では、正直に生きて笑われるか嘘をついて成功するか、相手を正直だと信じるべきか疑ってかかるべきか等々の道徳性に特有の矛盾が生じる。この作品では道徳性に特有の矛盾はまだ具体的に意識されていない。しかし漱石が矛盾の巣窟である道徳性の本性を捉え、その本質を解明すべき使命を持っていることは、坊ちゃんの正直さを無力との同一性において描くこと、坊ちゃんの正直さを赤シャツとの関係で否定的に描写することに現れている。

 校長か生徒か山嵐の誰が悪いのかという疑問は坊ちゃんに特有の現実認識である。現実には校長が悪いのでも生徒と山嵐が悪いのでもない。誰が悪いかなどという単純な問題は現実には存在しない。生徒に対する処分という現実的な問題では学校制度や学校を巡る社会的な関係が問題になる。社会的な人間関係に認識が及ばない坊ちゃんだけが誰が悪いかという個人の罪を問題にしている。善悪だけを問題にして生徒を厳しく処断するのは道徳家特有の意地の悪い復讐である。この低レベルの選択肢では坊ちゃんの主張を入れて全員を放校するより、偽善的な演説をし、下らない会議を続ける方が現実的である。生徒全員の放校という無責任な結論は松山の現実に深い関わりを持たない坊ちゃんの気まぐれなだぼらである。赤シャツや野だいこの理由づけがどんなに馬鹿げていても結論は坊ちゃんより松山の現実に即している。自分の主張を通す必要を感じていない坊ちゃんは自分の主張の結果にも主張を通すための方法にも関心を持たず「徹頭徹尾反対です」と断定することで満足している。現実の人間関係は坊ちゃんの正直にも校長や赤シャツの現象的な俗物根性にも関わりなく独立して展開している。彼らは無為無策である点で共通しており、校長や赤シャツが現実的利益を得て満足しているのに対して坊ちゃんは現実に対して不満を持つ自分に満足しているという違いがある。
 坊ちゃんが宿直中に温泉に行ったことに対する山嵐の批判は、瑣末な現象を批判する道徳的な意識に特有の下らない公平さである。坊ちゃんは宿直中に温泉に行った自分の非を認め、自分の非を公に認める自分の道徳性を誇っている。坊ちゃんが認める非は公にしても問題にならないくらい内容が瑣末である。山嵐も坊ちゃんも生徒全員の放校という主張の愚かさには気づかないが宿直を抜け出して温泉に行った瑣末な過失では反省し、しかもその下らない反省によって自分の道徳性を肯定している。布団にバッタを入れたことが悪いか良いか、宿直中に温泉に行ったことが悪いか良いか、悪いことを公にできるかどうかなどという瑣末な価値観は、自分の非を認めることでしか自分を肯定できない無力な人間にとってのみ重要な意義を持っている。
 坊ちゃんは自分が単純だと自称しているが単純であることの現実的な、否定的意義を理解していない。現実の複雑な人間関係を抽象的な善悪のカテゴリーに解消することは現実認識の単純化であり非現実化である。社会的、具体的規定を善悪という単純な形式に解消する坊ちゃんにはうらなり君を捨てて赤シャツを選ぶマドンナの行動が不合理に見える。「つまり月給の多い方が豪いのぢやらうがなもし」という下宿の婆さんの言葉はマドンナが赤シャツに靡く現実の説明であり多くの社会的内容を含んでいる。月給が多いことを評価しない坊ちゃんの価値観が現実認識を阻害する主観上の要因になっている。
 坊ちゃんはマドンナが落ちぶれたうらなり君を捨てて赤シャツに靡く現実を受け入れない。赤シャツが悪人でうらなり君が善人であるから美しいマドンナは赤シャツと対立しうらなり君と結婚するのが当然だと坊ちゃんには思われる。しかし現実には赤シャツは、社会的地位が低く、独力で運命を切り開く可能性を極端に制限されている女性に対して、自分の美しさで高い地位を獲得しようとする欲望を梃子に強力な支配力を持っている。だから赤シャツは俗だから誰にも好かれず、まして美しい女性に好かれるはずがないのではなく、美しいお嬢さんであればこそ田舎の数少ない学士に靡くのが現実である。
 このような人間関係を自分の利害に基づいて変革する必要がある場合は赤シャツの社会的な力の法則を肯定的に理解することが課題になる。しかし坊ちゃんにとっては不合理を感じること自体が結論であり自分の価値である。出世の可能性があり、出世しつつある赤シャツやマドンナを出世主義の点で批判することは坊ちゃんの自己満足、自己肯定であり、彼らに対して何の影響も持たない。マドンナが赤シャツを選ぶのは彼女の自由であり現実の必然を反映した合理性を持っている。彼らの欲望の実現は資本主義社会の発展の一過程である。赤シャツやマドンナの出世は同時に赤シャツの世界に入る可能性がなく、したがって赤シャツらと同質の精神を持ち得ない大多数の人々の形成を意味している。赤シャツらの力の増大が対立する勢力の拡大を同時に意味するのが資本主義の特徴である。その大多数の貧しい生活に法則的に形成される、出世と対立的な独自の人生の意義や楽しみは資本主義的成功を望みながら成功できず、可能性を失った生活の長年の蓄積によって形成される。赤シャツとマドンナの関係に対立して形成される人間関係を視野に持たない坊ちゃんは赤シャツとマドンナの関係の現実的合理性を認めることができない。現実を不合理とするのは坊ちゃんの単純な現実認識が現実を反映していないことの表明である。
 マドンナが赤シャツに騙されたと考えるのは坊ちゃんと山嵐だけである。マドンナは赤シャツに騙されたのではなく赤シャツの金と地位に靡いた。だから問題にすべきは金と地位の力である。金と地位を得る利益以上の現実的利益を示すことも金と地位を得ることの矛盾を示すこともない道徳的な非難は無責任である。坊ちゃんにとって金と地位は道徳的な禁欲の対象であって認識の対象ではない。坊ちゃんの特殊な立場を反映した金と地位に対する禁欲的な価値観を坊ちゃんと違った立場にいる者に適用することはできない。
 判断力より善意を重視する坊ちゃんは赤シャツの単純な策略にひっかかったことで自分の無能を反省するのではなく、赤シャツの腹黒さと自分の潔癖さの証明を発見し、赤シャツに対する怒りを増幅させている。赤シャツや野だいこの言動を地位や知恵の現実的威力としてではなく、策動や虚偽という悪意として批判するのは坊ちゃんの現実的な無力を正直とか信じやすいと評価することに対応している。騙す連中の意図の悪さと騙される人間の善良な信じやすさを対比するのは現実的に無力な者の負け惜しみである。赤シャツが裏表のある悪い奴だという認識にもとづいた彼等の対応は彼らの認識能力の無力を証明している。
 彼らは自分の行動の客観的根拠を認識できず、自分の行動の社会的な意義を考慮することもなく単純に行動している。彼らは野だいこには軽蔑的に対処しており退治する必要を感じていない。卑劣で裏表があって気色悪い等々では共通する野だいことの赤シャツの違いは、うらなり君からマドンナを横取りし、うらなり君を日向に追いやり、坊ちゃんと山嵐を計略で酷い目にあわせ、新聞を使って中傷した上山嵐を辞職に追い込む社会的な力を持つことである。しかし赤シャツの社会的な力に対抗する能力を持たない彼らは赤シャツの瑣末な特徴に悪を発見して攻撃の根拠にしている。彼らの能力で攻撃できるところに悪を発見している。「到底智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても腕力でなくつちや駄目だ。成程世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とゞの詰りは腕力だ」は彼らの能力に応じた結論である。地位と金の力に対抗する力は知恵である。彼らが知恵の必要のない個人的制裁に満足できるのは赤シャツらと深刻な関係にないからである。
 「鉄拳制裁」という個人的制裁は社会的な力に対して何の効力も持たない。鉄拳制裁によって赤シャツが慎むことはないし、うらなり君や山嵐に対して反撃できなくなるほどに力関係が変化することもない。赤シャツを叩きつけるとはその俗物根性を物質的に支えている彼らの地位を破壊することである。後悔させるという主観に対する報復を目的にすることはすでに対立を回避している。赤シャツが露骨に俗であるほど赤シャツの力は強力で利害を脅かすのは難しく、したがって彼らを反省させたいという安易な個人的な報復が目的になりやすい。個人に対する報復は泥仕合を生み赤シャツの地位の安泰に力を貸すことになる。赤シャツは無知な善意を自分の利益のために利用する手段と能力を持つ点で坊ちゃんと対立しているから、坊ちゃん的正義感が瑣末な過失をつつき回すほど赤シャツの利益になる。赤シャツや野だいこは実質的な利益を獲得する。赤シャツの小理屈は現実的力関係の優位に立った居直りである。言葉巧みな弁解をさせないためには社会的な力関係を変えるための高度の知恵が必要である。

 田舎の下衆野郎を罵倒して喧嘩して辞表を叩きつけて東京に帰るのは気分がいい。生きるために泣く泣く東京に引っ張り出される場合でさえ田舎に止まるより大抵は幸福である。逆に対立の結果が東京から赤シャツの住む田舎に飛ばされるような状況では無鉄砲を誇ることはできない。非妥協的であろうとすれば結果としての厳しい人生に対する覚悟と準備が必要になる。坊ちゃんが楽天的に無鉄砲を維持できるのは無鉄砲が運命を好転させるからである。無鉄砲は坊ちゃんが自分の利益を追求する特殊な形態である。無鉄砲が自分の利益を顧みないことだと考えるのは誤解である。坊ちゃんは自分の行動を自分の追求している利益の観点から理解することができない。それが禁欲主義的な自己認識の弱点である。
 漱石の課題は坊ちゃんの正直が如何にして現実の具体的内容を獲得するかである。坊ちゃんの正直を肯定し赤シャツの俗物根性を否定することは、赤シャツの俗物根性を肯定し坊ちゃんの正直を否定することと同じであり、現象的な現実認識に止まることである。この同等な対立物のどちらを肯定するかは現実の情勢に規定される偶然事である。すれたインテリには正義を守ることで滑稽になるより赤シャツを肯定することの方が厳しい現実認識であると思われる。しかし論理的に坊ちゃんと赤シャツは同レベルであり両者の対立の段階にいる場合は両者の肯定と否定が常に同時に含まれている。両者を同時に否定しこの対立形態を廃棄する傾向を持たない限り坊ちゃんを擁護するか赤シャツを擁護するかは第二義的であり、両者とも俗物である。
 赤シャツとの非妥協的な精神が同時に坊ちゃんに対する非妥協的な精神である場合にだけ坊ちゃんと赤シャツとの対立関係を克服する発展的な精神である。赤シャツの俗物根性の徹底した否定は坊ちゃんの正直の徹底した否定と同時的に描写されている。坊ちゃんを肯定することは赤シャツを肯定することであり、その逆も真である。赤シャツに対する批判意識の徹底は坊ちゃんの赤シャツに対する批判意識の徹底した批判である。坊ちゃんは赤シャツに勝つのでも負けるのでもなく赤シャツとの対立という自分の価値を自己自身において否定しなければならない。この自己否定こそ漱石を天才たらしめるものである。
 坊ちゃんの意識の現実化、あるいは現実を坊ちゃんと赤シャツの対立とする現象的な認識を廃棄して現実的な認識を獲得することは非常に困難である。現実認識の具体化の過程はこの段階では漱石にもまったく予想もつかないほど複雑な過程をたどる。

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