「文学と政治」(明治42年12月19日)


 この評論は、飛躍的に重要な内容を含んでいる。それは「具体的」という言葉の意味である。
 
 ■ つまり斯ういふ比較論が人の話頭に上るやうになつたといふのも、文学と実際生活との交渉が余程具体的に考量されるやうになつたといふ事を証明するものである。--如何なる問題にあつても、具体的といふ事は最後の、而して最良の結論だと私は思ふ。--斯ういふ傾向は、広い意味に於ての唯美主義の人々・・からは一笑に附されるかも知れないが、いつかはそれが一つの重大な勢力となつて、将来の日本の文学の内容にも或る変化を与へる時期があるだらう。否、必ずさうならなければならぬと私は考へてゐる。
 無論、嘗ても試みられたやうな浅薄な政治小説とか社会小説とかいふものに再び出て貰ひたいといふのではない。--私は、芸術は自然人生を理想化したものであり、従つて人生自然を批評するものであるといふ事を「確定した真理」として徳田秋江さんの意見に(細かく論じ合つたら相違もあるだらうけれど)全然同意するものであるが、其批評には少くとも三つの形式がある。第一は論理的批評、第二は暗示といふ風な形に表はれる批評、第三は具体的批評--と言つただけでは、第二と第三の区別が明瞭でないが(実際また此三つの形式は離れ ぐ ではない。)
 ・・・私は私の実際的、具体的、政治的といふ事に最後の満足を認めるやうになつた現在の立場から、前者よりも後者の方を好む。・・
 
 ●啄木が「きれぎれに心に浮んだ感じと回想」に書いた「批評」という言葉の意味が具体化している。まず、「文学と実際生活の交渉」と書いていることが注目に値する。これは一致の主張ではない。両者が分離され、両者の関係が問題になっている。生活と意識の直接的な一致が主張される場合は、両者のの関係としての内容を問題にすることができなくなる。両者を分離すれば、両者がどのように一致するかを問題にできるようになり、それが両者の関係と両者の内容の具体的内容になる。
 文学の内容、したがって文学と一致すべき生活の内容が、「実際的、具体的、政治的」として分化した内容を持つ現実性として捕らえられている。実際的と具体的と政治的がどのような関係にあるかを啄木はまだ問題にしていないが、それが現実の具体的内容の基本的な構造として深い関係にあることを直感している。この「実際的、具体的、政治的」は、「きれぎれに心に浮んだ感じと回想」で使われていた「国家」のより具体化した表現である。
 啄木はこの具体化によって、さらに具体化を促す問題に突き当たっている。それは、「嘗ても試みられたやうな浅薄な政治小説とか社会小説とかいふものに再び出て貰ひたいといふのではない。」という文章である。啄木の実際生活が政治を意味する場合、政治小説の経験を避けて通ることはできない。啄木は、自分の主張が必然的に政治小説や社会小説の肯定になることを理解している。しかし、政治小説や社会小説ではない形式での政治との一致がどのようなものであるかを具体的に書いていない。無論書くことはできない。啄木は生活との一致を、文学と現実との一般的な一致ではなく、現実の中の一つの現象としての政治との一致を一般的形態としてあげているのだから政治小説を肯定する以外にない。政治を描いたすぐれた文学を実例とあげることができれば、それが文学の一般的な形式ではなく一つの実例にすぎないことがはっきりする。しかし、そんな作品がないからこそ政治との関係を一般的形式として代表させることができる。政治的な批判は批判意識の一部分であり、文学についての一般論を問題にすることとはまったく別問題である。具体的という言葉の意味は、実例という意味ではない。啄木は基本的には一般性内部の具体性を問題にしつつあるが、部分的にはこうした実例としての具体性をも含みながら論を進めている。
 啄木は文壇小説の瑣末な日常性の描写や耽美主義的傾向を批判するために国家や政治を掲げている。文壇小説が一般的な意義を持つ現実との関係を失っているために、啄木は現象自体で一般的な意義を持つ様に見える国家や政治を実生活の内容として掲げることができる。啄木が四迷や一葉や漱石を理解して批判対象にしていれば、その作品の限界を克服するために国家や政治を問題にすべきだとは考えなかっただろう。国家や政治の批判を当為として掲げることは、啄木の批判対象のレベルの低さにも規定されている。啄木は国家や政治を掲げることによって、非現実性の他の極端を対置している。しかし、こうした当為を掲げ、さらにその当為を批判することによって現実性の具体的規定を得ることが啄木の現実認識の発展過程である。
 啄木と比べると天渓の論理は抽象的であるとはいえ、論理は現実の普遍性の内部にとどまっている。啄木は、現実とは何かを、現実と主観の関係一般としてではなく、現実の諸現象との直接的関係とする経験的な認識の限界にとどまっている。現実の緒現象を現実そのものと前提した上で、瑣末な日常性を非現実的とし、一般的、普遍的な形態として国家や政治を持ち出すことは、現象の経験的認識である。それは現実一般の認識の具体化ではない。国家も政治も現象である点では自然主義的な瑣末な私生活と同等であり、それが現実一般を代表するものではない。だから、現実と芸術の関係の問題を国家や政治との関係に解消することはできない。
 
 ■遡つて言ふと、「文学界」の人々及び民友社の一団の文学的運動は、国会開設騒ぎの後であつた。紅露対立の盛時も、天外の写実主義唱道も、樗牛博士を中心にした活動及び其晩年の一種の革命も、すべてそれらは日清戦争といふ大事件に前後して起つた色々の政治的なでき事の後であつた。(詳しく考へ合して見たら随分面白からうと思ふ)そして、漸近自然主義の運動--日本文学に於ける今日迄の最大の運動は、実に、日本帝国が明治になつて以来の最大事件であつた日露戦争の後に於て起つたのである。
 斯ういふ比較は正しいか正しくないかは私は知らないが、少くとも其間に何等の脈絡がないとは、私はどうしても考へ得ない。
 
●日露戦争後の日本に対する「空中書」の批判の発展がここに見られる。啄木はここでは、具体的な実際生活として「日本の国勢」を挙げている。これは国家や政治より具体的である。それは一つの現象としての実例的な具体性ではなく、現実そのものの具体性である。文学的運動の展開は、国勢によって説明できるのではないか、文学運動の変化の内容は国勢によって規定されているのではないか、ということが、文学と実生活の一致の内容である。これが「具体的」という言葉の意味である。
 
 ■ 自然主義の運動の目的は何かといふ事は私のやうな者が言はぬとして、国と国との戦争の目的は、一国若くは両国が其現在の国力及び其国力から生れる欲望によりよく満足を与へるところの平和を獲ると言ふ事である。ところが明治三十八年夏の末に於ける日木人の多数は、それを忘れて了つてからに、どうせ露西亜の奴と戦争を始めたからには、理が非でもウラルを越えなければならぬ--少くともバイカル湖までは推詰めなければといふやうな考へで殆んど噪狂患者のやうな盲目的狂熱を以て、唯々戦争其物の中止に反対したといふ趣きがあつた。日比谷に大旗を推立て「国辱!」を連呼した人達は、愛国者には違ひないけれども(尤もあの騒ぎの費用は政府の機密費から出たといふ噂もあるが)現在の国力といふ一大事を閑却した、幼稚な、空想的な、反省の足らないことは中学生位の程度な愛国者であつた。何故中学生位といふかといふと、私自身あの頃もう学校を飛び出してはゐたが、恰度それ位の年頃でゐて、そして彼の人達のいふ事やした事を殆んど完全に承認してゐた事を思出したのである--あの当時の日本人の心持と態度とを思出しながら、島村抱月さんの所謂第一義論などを見ると、どうも私は、あの当時の児玉大将なり内閣の人達のえらい事を思はずにゐられない。そして私は、少くとも此二つの場合から、人間が或る空想を抱いてそれに夢中になつてゐる時は、一番熱心に見えるものだといふ事を知つた。
 
●文学の内容を理解するには、その当時の国勢を見るのがいい、という啄木の考える具体的考察の実例である。この観点からすると、当時啄木もそうであった空想的な精神は、国力について冷静に考えず、知りもせずに、日清戦争の結果に規定されて、戦争遂行を連呼していたことである。現実から分離した空想性は、社会的な情勢との分離として意識されている。
 啄木の空想性は、個別の生活との対立ではなく、まず政治的現実であり、日本の具体的な経済情勢との対立分離である。実際生活の具体的規定が社会性として意識されると、熱心という主観の態度・心構えは意味を持たなくなる。それは形式規定であり、ここに書いているように、空想で夢中になっている場合に、熱心になる。だから、真面目で熱心であることをもって立派な心構えだとは言えなくなる。作家は真面目でなければならない、という当為も、生活と一致しなければならない、という当為もこうして思想の具体化とともに姿を消していく。


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