《第一巻
1》

 1.   「隣の学者への手紙」   2.   「二兎を追う者一兎を得ず」  3.   「パパ」         

4.   「リンゴのために」  


 この全集の第16巻には池田健太郎氏によるチェーホフの評伝が収められている。作品の進行に並行して、この評伝からチェーホフの生涯を簡単に紹介しよう。
チェーホフは1860年に、南ロシアのアゾフ海に臨んだ港町で生まれた。1876年チェーホフ家は破産し、一家はモスクワに住むことになった。チェーホフは大学入学者の資格をとるために、タガンロークに止まった。1877年チェーホフはモスクワを訪れ、都会の活気溢れる生活を知った。この直後から、商業的なユーモア雑誌の仕事に手を染めた。
1879年、モスクワでの生活が始まった。モスクワ大学での医学の勉強と、雑誌への投稿で一家の生活を支える忙しい生活が始まった。第一巻の最初に収められているのは、1879年12月24日に投稿された作品である。第一巻には、82年10月までの作品が収録されている。


 1. 「隣りの学者への手紙」

 この手紙は、文体にも文章の内容にも、自己においては謙譲が、相手に対しては敬意が満ち満ちており、礼儀作法にうるさい人々に取っては、丁重な手紙の例文として役立ちそうであるる。
 手紙は相手の学者とその学識に対する、さらには学問一般、学者一般に対する多大の敬意と愛情を重ねて表明し、田舎に住みながらも教養を重んずることを自分の主義としている。
 これは、貴族出身である老人の意志、意図、表看板の部分で、そのあとに、「それでもやはり」とか「失礼ながら」とかの接続詞によって内容がつきしたがっている。これは彼の立場とか能力に類するもので、善良な老人の礼儀や作法のわくから溢れ出して善良さを台無しにしている。
 学問とか教養とかの精神に接する機会の少ないか絶無である田舎貴族には、学問や学者に対するこころからの敬意や愛情は育つとしても、常識的な知識もゼロだから、謙譲と自惚れと丁重さと不躾と、賞賛と罵倒が混在して、しかも本人は自分の善意に疑いを持たない。人間関係における礼儀作法の訓練と学問とか知識は分野が違うとはいえ、これらは相互に影響するもので、しかもこの例からいうと、知識の方が重要で、無知が丁重か謙譲とかに侵入して、不躾とか自惚れにしている。狭い知識をもって丁重さを発揮すると、不躾になる。滑稽な意見を丁寧な形式でつつんで押し通すから、悪丁寧になり、ずうずうしさに限度がなくなる。わたしは愚かですと繰り返し断言しながらも、愚かというにはもったいないほど珍妙な意見を自信をもって表明している。これでは丁重さは無理押しのやりかたの、しかも最悪の方法の一つになる。
 だから礼儀作法を守るにしても、結局は内容が主だということになる。では内容とはなにかということになるが、それはまた長い話になるので、又別の機会にさせていただきましょう。
 ついでに言えば、この家庭には立派な娘が後継者として育っており、老人は「娘はわが家の解放者で、娘に言わせるとだれもがバカであり、自分一人が聡明だということです。」と紹介している。

 若いチェーホフは、形式で表明していることを真っ向から否定する内容を持つ文章を楽しんでいる。少々理屈っぽくなるきらいはあるが、こうした力量は、文章力というより、主には社会的な精神の観察眼である。これは現実的な、よくある滑稽な現象である。田舎地主らしく無知で社会的経験が不足していて、偏見と自信が堅固である。その精神に社会的地位を示す諸飾りがついている。謙虚というのは、彼の地位に発達する田舎貴族らしい特有の精神である。いかに洗練されようと、それは田舎的な洗練で、洗練するほど特徴がよくでる。こうした狭苦しい精神は、多少とも人の多い所、つまり都会に出るだけで解消される。つまりは、人と接する機会が少なければどうにも抜けだしようのない精神的な病である。
 2. 「二兎を追う者一兎を得ず」

 「少佐夫人である若い妻カロリーナ・カルロブナが、遠来の従兄といとも心安げに談笑し、夫シチェルコロボフを薄のろよばわりしたあげく、女心の浅はかさで、夫シチェルコロボフは愚鈍で、物腰態度が百姓的で、精神錯乱と慢性アル中の気味があるから、過去現在を問わず愛したことはないし、これから先も愛すことはないだろう、などと力説していたのである。」

 すでに頭が禿げる歳になっている少佐が、二十歳の娘と結婚した場合に、心配の種が尽きないのは当然の報いである。若い妻が遠来の従兄と夫の悪口をネタにして楽しむのも彼女の犠牲に相応する当然の権利である。こういう権利が守られている点で彼等はこの現実と和解している。このような罵倒は、精神を自由に、愉快にさせる。この言葉から彼女がロシア的な不幸の中にあって比較的自由であり、精神的には夫のくびきから部分的にせよのがれていることがわかる。あるいは、公平に言えばどちらが軛となっているかわからないくらいに互いに自己を主張している。少佐も陰気な圧政をしておらず、それなりに現実と和解した、穏やかな生活をそれなりに楽しんでいることをこの罵倒は教えている。これもセンスであり、チェーホフの自由な精神の現れである。
 従僕に対する少佐の罵倒も、二人を隔てる垣根がすでに崩壊していることを示している。少佐は自分を裏切り、罵倒した妻を罰するために百姓の意見を必要としている。罰するのに勇気がいる。妻が浮気ができないようにうまく圧政を敷いているより、この夫婦の間はずっとうまくいっている。罵倒され、浮気をされてもまだ関係が残っており、憎しみに席を譲ってしまうほどではない。
 「例をあげてみろ!」と少佐にいわれて、従僕はロシアの百姓がどんなに女房を乱暴に扱っているか、旦那衆がどれほどひどいしうちをしているかを話している。裁判官は妻を見事に罰している。妻は裏切ることも罵倒することもできないが、それだけ愛情も生まれようがない。お互いに憎しみだけが精神上の繋がりである。少佐は妻に罵倒されている。しかし、それを聞いて、妻を罰する上流階級の実例を聞いて憎しみを奮い立たせねばならないようでは憎しみは本物ではない。これも良好な関係とはいえないし、充実した人生とも言えないが、圧政のもとで心底憎み合っているよりましな人生であろう。

 このような関係のなかで予測される悲劇は、妻が鞭打たれることではなかろう。また、婦人が少佐をムチで打つという、より自然な悲劇が船の転覆で回避されるのも自然である。彼は不用意であるし、慣れていないし、それは妻にしても同じであろう。いずれにせよ、二人の罵倒のしかたからして罰を与えることはうまくいきそうにない。悲劇は起こるが、彼等にではなく、とばっちりのほうにで、彼等は是までどおり、悲劇にならない滑稽な対立を続けていくのが自然である。

 少佐と妻は、溺れそうになって、自分の方を助けろと好き勝手なことを言っている。しかし、これは彼等の生活の習慣であって、褒美の約束と同様全部口から出まかせで、現実的な意味はない。助かって抱き合っているのが彼等の生活の真相である。イワン・パーブロビッチはこれをみて自分がしくじったことを理解した。彼は「村の若い娘たちが湖に水浴に出てくる至福の瞬間をまちうけ」ている時に、この不幸にであった。彼もまた生活に満足を求めうる幸福な人間の一人だったが、運が悪かった。この夫婦は、言葉ほどには不仲でなかった。というより、言葉を自由に使えるほどには良好な仲であった。少佐と妻の衝突が具体的にどのように展開するかを楽しめないのは残念であるが、それは、彼等を助けたためにせっかくの幸福な生活を台無しにしてしまったイワン・パーブロビッチの不運に免じて我慢することにしよう。

 3. 「パパ」

 ママがパパの書斎にはいっていくと、「パパの膝から小間使いがとびおりて、衝立のかげにもぐりこんだ。」しかし、ママは「パパのこうした小さな欠点には、もはや慣れていたので、教養の高い自分の夫を十分理解している聡明な妻という観点から、それらの欠点を眺めていた」。つまり家庭内の人間関係が完全に崩壊して、その生活に必要な知恵とか教養とか感情とかがじっくり醸成されていまや熟成の域に達している。崩壊は是認され、お互いの自由に干渉しないことが了解されている。いまさら家庭的なもめごとを引き起こしてもどうなるものでもないことが経験的に理解された段階にいる。
 しかし、夫婦であるから、それぞれの自由とか欲望が対立する場合もある。家庭を顧みないパパは子供に対して寛大で放任的である。しかし、夫とも世間と切れている母親は、子供だけを、世間と切れた母親に必要な宝として大切にしている。だから、子供が落第するとなると、夫の社会的地位が必要になり、小間使いを膝に載せるくらいの小さな弱点、つまり生活の一部として日常として定着し、容認していることについても、文句を言いたくなる。愛情などなくなった父親にとって、家庭のいざこざはもっとも退屈で消耗的な事項であるから、この威しは有効で、母親は特に父親に押しつけられた世間知らずのヒステリーを手段にして家庭での力を維持している。実りのない家庭的ないざこざが聡明な妻の武器である。妻が落ち着いているのは、私の云うことを聞かねば、いつでもひどいヒステリーをおこしますよ、という切り札をもっているからである。この武器の威力をよく承知している父親は、それを逃れたいばっかりに妥協し、家庭的な父親になり、家庭のまがままを外に押し通してやらねばならない。でないと、とんでもないことになる。
 彼等の内部の関係である思いやり、やさしさは、他の人間関係に持ち込まれると、独善、自己満足、他を顧みないわがままである。そういう関係を彼等はつくり出している。そしてこれが平均的で平凡な家庭である場合には、社会もまたそれにふさわしく作られている。正しくは、特定の社会がこういう家庭をつくりだしたのであるから当然である。

 息子は、母親が世間の垢にまみれないようにそだてたから、立派な宝に仕上がっている。母親はいつでも世間から息子を守ろうとしているし、息子も母親の期待に応えている。

 「あの子はわるくないのよ。…この裏には何か企みがあるんだわ。…何も謙遜することはないわ、あの子はあんなに知能も発育してるんですもの、何やら愚にもつかなぬ数学なんぞがわからないなんて、信じられないわ。あの子は何でもよく知っているのよ、あたしその点には自信があるの。」

 謙遜なんぞまさか、と思われるが、これはすべて自分にもわかったウソで、息子との間ではどんなウソでもすでに真実として平気で通用するようになっている。

 「息子は憤慨し、眉根をよせて、仏頂面を作り、数学なんぞ先生よりもよく知っている、この世で五点をもらうのが女生徒や金持ちやオベッカ使いだけなのは自分の責任ではないと、申し立てた。」

 世紀末のロシアらしい徹底した堕落には、特有の端的さや明快さがある。パパもママも息子も世間体を気にしているが、世間体はすでに無意味な形式であり、無視していると言った方が適当である。ともかく留年さえしなければ、実際がどうであろうと、他人にどう思われようと、自分の説明がどんな嘘だろうと、それがどんなに見え透いていようと、その場で言い訳できさえすれば後は構わない、あるいは言い訳をすること自体が生活であり快楽であるほどの端的さがある。
 この端的さも彼らの立場のなせる技である。世間体に関しては中産階級が何といっても得意とする分野であるが、例えば百年後の日本の中産階級ないし、中産階級的意識を持っている労働者も含めて、世紀末のロシアほど危機に瀕しておらず、したがって世間体はより実質的な意味をもっており、このような厚顔無恥、恥さらし、つまり道徳的な意識の無視、否定までには到達していない。世間体が実質的な意義をもっており、息子は実際に五点を貰うことを要求されるし、本人もそれに意義があると思っている。優秀な成績を取ることの現実的な意味が薄れつつあっても、というより、そういう時代こそ優秀な成績だけが彼らの価値の主な支柱であり、特に小市民の内部では、その世間体は実質的に重要な意義を持っており、その価値観の重圧に苦しむことになる。この重圧が厳しくなるに比例して、つまり彼らが守ろうとしている価値が実質的な意味を失い、それにしがみつくことで自分の価値を維持しようとする努力の成果が虚しく消えていく現実を経験しなければならない場合、性格の歪みや精神の萎縮となり、ここに引用した堕落の明快さはその重圧からの解放として羨むべき側面を持つことになるだろう。生活自体が社会的な意義をもっている間は、努力にたいする成果が期待できる。しかし、生活の内容が実質的な意味を失うと、その実質を得ようとする努力は報われることのない陰気な苦悩になり、真面目であるという評判や自己意識を得るための労苦の代償は人間関係の崩壊であり、自己意識の崩壊である。
 陰気な努力のなかで形式を守るか、それともこの家族のように、道徳性や世間体を形式的にのみ守って、中身などどうでもよいとする無恥な気楽さを獲得するか、日本的に俗な表現を使えば、本音と建前が客観的に分離する過程で、それを一致させることを当為として掲げて努力する苦しい真面目さの内に生きるか、本音と建前の分離を前提として、建前などなめてかかってその日その一瞬をやりすごすことで満足して生きる形式での本音と建前の一致を獲得するか、この生き方を選択できるものではないが、いづれも不毛で無意義であることは同じである。この両者の間に明確な区別がないこと、この堕落した形態が小市民的に真面目な道徳的意識の発展の結果であることは、現在では理解しやすくなっているのではないかと思う。

 世間体を嘲笑するロシアの地主の厚顔無恥は、彼らが大胆であるとか、非道徳的であるとかの個性に基づく( これは同じことを別の言葉で表現しただけである) のではなく、世間体など問題にしえない状況に至ったために、その立場の必然として獲得した精神である。したがって、世間体の実質を求める窮屈な生活から解放されるには、世間体を実質的に守ることのできる生活のレベルが崩壊していなければならない。この崩壊の過程も厳しい苦しみを伴うものであるから、世間体を放棄することも簡単なことではなく、何とか守りきれるあいだは守ろうと最大限の努力を払わざるをえない。それが19世紀末のロシアと違った我々の現状であろう。チェーホフはこの崩壊の過程を綿密に描写している点でも意義をもっており、日本的精神にとって興味深い。

 パパは数学の教師を買収した。このような力関係において彼らは楽観的である。このような地位にありながら、数学の成績など、まして数学をどれほど理解しているかなど彼らの生活にはどんな意義ももたない。彼らが社会的に積極的な役割や果たす時代は終わっており、積極的な知識は彼らの生活には必要でなくなった。ただ、息子が留年すれば、飲んで食って馬鹿遊びをする生活のどこかに不愉快なところが出てくる。それだけのことで、それだけのことをなくすにはちょっと買収すればよいことで、その買収も彼らになくてはならぬ生活の一部であり、楽しみですらある。まだ矛盾は破滅的ではなく、破滅の傾向を建て直して実質的な力を得るための努力をするにはすでに遅すぎる。このような独特に不毛な時期に生ずる実直さ、呑気さが彼らの精神の特徴である。
 彼等の愚かしいわがままは衝突を引き起こさず、貫徹される。教師は賄賂を自分の利益としている。買収は蔓延しており、社会的関係を回転させるために必要な潤滑油である。数学の教師は直接現なまをもらうことには抵抗がある。しかし、この父親と親しくなり、後ろ楯とすることには魅力を感じている。「いい奴だな!心に思ってることを、口にだしちまうんだから。見た通りの単純で、善良な人間なんだ…ああいう連中は好きだよ」と言っている。ここから、現なまを直接もらうことにはたいして距離はない。教師にとっても外にいい方法があるわけではない。時代のお荷物になり、無益無能でありながら自己肯定できる特殊な時期の彼らの端的さが善良に見えるのも当然である。

 全体として彼等はうまくやっている。賄賂はどこにも大きな矛盾を引き起こさない。しかし、それこそが社会全体、一般においては決定的な問題である。誰もが積極的な、生きかたができない。閉塞状況に有るということが大きな矛盾が起こらないことの意味である。少佐が教師を買収して妻の欲望を満たすことができるということは、少佐が家庭内でこの種のくだらない欲望を育てていることと対応しているのであるし、少佐が妻のヒステリーに脅かされていることでもある。だから、少佐は妻のヒステリーをうまく回避できたことを誇るに当たらないし、そう喜んでもいられない。この繰り返しが彼等の生活となっているからである。くだらない課題とかくだらない苦悩とか喜びとかが生活を彩っている。

 4. 「リンゴのために」

 この作品もロシアの地主生活の徹底した馬鹿らしさを描写している。この地主が自分のリンゴ畑で盗み食いをしていた若者と娘を、残忍で執拗なやりかたで懲らしめるのは、地主がリンゴ畑を大事にしているからとか、りんごが惜しいからではない。単に懲らしめるのが面白いからである。それが彼の道楽であり、生き甲斐である。彼はこのような楽しみを持ちたいがために、カルプーシカという老人を雇っている。「このカルプーシカという男は、善行にかけては当のトリフォン・セミョーノウィチを上まわりかねぬほどだ。長靴はきれいに磨くし、それにもまして手際よく余計な犬どもを絞め殺すし、あらゆる人から盗みを働くし、スパイをやらせたら右に出る者はいない。」
 彼の領地は、他の地主の場合と同様担保に入り、売りに出されている。しかし、駆け引きによってまだ自分の領地になっており、「金を借りても、利息は払わないし、たまに払うことがあっても、まるで善良な人々が魂の安らぎや、寺院の建立のために寄進する時のような、仰々しい態度で払う」という生活をしている。要するに銀行がまだ力をもっておらず、彼ら地主が優位にある。リンゴは商品になることもなく腐ってしまう。リンゴ畑の意義は、リンゴを盗む若者をひどい目にあわす機会を与えるだけである。もしリンゴが売れるようになり、若者をイラクサで打ちのめすことより、リンゴを売った金で得られる多様で発展的な快楽を追求するようになったら、つまり、リンゴ畑が経済的に積極的な意義を持つようになったら、その時は彼らの運命は終りである。一般的に言えば彼らは商品経済の発展によって確実に破滅させられる。彼らの野蛮な道楽も、いま彼らが横着に対応している銀行によって、人の顔を失った経済的な法則によってより残酷に破壊されていくことになる。
 彼等は、若者をいじめ慣れている。この愚かで執拗で残忍な楽しみから村の誰もが苦しめられており、これは特別の事件ではなく、村中の人間のすべてにたいして日常的に押しつけられている楽しみである。唯一の肯定的側面は、対立がはっきりしており、彼等とは妥協の余地がないことがはっきりしているだけである。このような野蛮な生活のしみ込んだ地主を教育し、打ちのめすには、なんといっても貨幣の支配が、商品の流通が、資本主義の発展が必要であり、それ以外に方法はないと痛感させられる。停滞的な世界では、村の住人がどれほど苦しんでもそれを解決する方法は見つからない。この停滞に流動性を持ち込み、変革の希望を生み出すのは貨幣の支配だけである。

 チェーホフは彼らの運命の深刻さをまだ描写の対象としていないと思われる。彼らの生活の馬鹿さかげんがうまく描写されている段階である。うまく、というのは彼らの生活の馬鹿さかげんに対する道徳的な批判意識は登場せず、生活を生活として客観的に描写する力を持っている点である。彼らの馬鹿げた生活を否定するのは道徳ではない。堕落しているから、それへの天罰として破滅するのではなく、破滅の過程でこのような生活と意識が生まれる。その意識が契機となって彼等の破滅を促進する。この対立を見ていると彼等が自分の発展か穴をほっていること、自分に対する憎しみを蓄積していること、それが非妥協的であろうことがはっきりわかる。彼らの生活そのものが彼らの生活を破壊する。道徳的な批判意識は彼らの崩壊の運命を認識することができない。チェーホフはそのような批判意識に後退することなく、このような現象の客観的な観察から、彼らの生活自体の崩壊の必然性を描写する方向に発展することになる。


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