《第一巻
2》

 5.   「婚礼の前」   6.   「聖ペテロ祭り」  7.   「裁判」  8.   「芸術家の妻」  


5. 「婚礼の前」

まず、結婚する二人がお似合いのカップルであることが、非常にうまく、つまり外見だけでも内容について予想がつくほどに、内容の展開が期待されるほどに説得的に説明されている。小説というか、文学というものは、こうした外的な説明の具体的内容を描写する。こうした人物はどう生活しどういう具体的な精神を持っているのかを現象として生活として描写する。

 この説明の部分も子細をうがったいい文章であるが、全文引用するわけにもいかない。たとえば、
 「いったいどういうわけで、今日あたり、毛織の服なんぞを着こんでいるの?今時分は薄紗の服でもかまわないのよ。頭がひどく痛いわ!」
 これは母親の説教の冒頭部分である。このような文章を読むと、なかなか冴えているな、と感じられ、良からぬ言葉が期待される。そして実際冴えた文章が続いている。こうした序曲から入って、なぜ結婚がうれしいのか、家が嫌なのかと聞き、それはそうだろうけど、として二段構えで、じゃあ、あんな男が好きなのか、と不思議がっている。彼女としては、なにをどう考えても、結婚がうれしいはずはない。それは母親としての貴重な経験からする真実である。結婚なんて何一ついいことはない、なぜなら、
 「男なんて、みんなバカさ、あんな連中といっしょに暮すのは大して楽しいもんじゃないよ。お前のあの人だって、偉そうにふんぞり返ってはいるけど、やっぱりバカさ。あの人の言うことなんぞ、そんなにきかなくていいからね、あらゆる面で甘やかさないことだわ、あんまり尊敬するんじゃないよ。絶対にね。何から何まで、母さんに相談なさい。」
 ということだから、笑っている場合ではない。もっとしっかりしなければ。というのは、
 「あの人は、お前のお父さんじゃあるけれど、そりゃ厭な、ためにならない人だからね。あんな役立たずの人間でも、顔だけは善良そうなんだけど、その代り、根性がひどくねじくれているのよ。お金を借りに行っても、貸しちゃだめよ。九等官のくせに、チャラッポコなんだから」
 等々を結婚生活の長い経験で知ったからである。このチャラッポコはまだ生きていて、苦労は過去の話になっていない。母親としては娘の結婚をまえに、グチとか教訓を言わずにはおれない。母親の言葉は、この家庭で生まれた、この家庭に必要な、また最初に描写された、そして母親が観察した結婚相手とのこれからの生活にも当然必要な、婚礼の前というまじめになる瞬間にに、母親としてどうしても言っておかねばならない真実の教えである。教えておいてもひどい生活になるが、教えていなければもっとひどい眼に逢う。自分がひどい目にあうより新郎や父親をひどい目にあわせた方がましである。

 母親が自分の夫や娘の未来の夫に対して悪意をもっているとしても、彼女の性格が決して褒められたものではないにしても、あるいは、そのような意志や性格を生み出した生活から生まれた教訓であるからこそ、その意図や性格を別としてもその言葉は正しい。それがウソで作り話で、中傷であるならば、つまり彼女の悪意や性格を示すだけならば、彼女一人の精神的な属性であったならば、娘はグチを聞くのをその場で我慢すればいいだけである。しかし、それは生活的な真実であるから、娘にも説得力を持つし、生活の中でおいおい身に沁みて効果を発揮するに違いないし、それどころか、母親の舌の根が乾くひまもなく、その真実を語るために、父親が呼んでいる。

 父親の言葉は、罵倒から入っていく母親とは導入部が違って、まず祝福からはじまる。しかし、同じ生活から出て来た同じ真実を述べている点でも、効果の点でも同じである。生活の真実は彼にとっても黙っていることの出来ない、無視することのできない、隠しておくことのできない、結婚する娘に言っておきたい真実の生活だからである。違いは、生活をどのように表現するか、言い回し、言葉の運びの好み等の、つまり生活の反映の個性的なニュアンスの違いである。これは無限であるが、そのニュアンスにも真実の様々の側面が反映する。様々の無限のニュアンスにおいてくだらない生活てある。そのようにチェーホフはうまく書いている。
 「それからな、母さんの言うことをきくのはいいが、十分用心するんだよ。あれは気立てのいい女なんだけど、裏表があって、自由思想を抱いていて、軽薄で、気どり屋だからな。上品で誠実な人間なんだが……どうもいかんよ!」
 婚約者の場合は、伊達者らしく、ゾラとか、ヒューマニスティクとか合理的とかの装飾を使うが、それは知識とか接触した言葉の違いであり生活は同じである。彼等は様々の言葉で同じ内容をしゃべっている。
 「僕は懐疑派でもなけりゃ、シニックでもないけど、やはり教養というものはわきまえているんです。あの人たちには厳しくしましょうね!僕の両親も、うちではずっと前から、一言も言えないようにしてあるんです。で、あなたはもうコーヒイをお飲みになった?まだですか?」
 彼等はお互いに自分にふさわしい相手を選んでいる。同等の違った個性として開花している。グチも罵倒も苦労も我慢もみな同等で、お互いさまである。
 「婚礼の前からこの始末である。…結婚後いったいどういうことになるのかは、予言者や夢遊病者でなくともわかると思う」
 どうなることかは誰にでも分かっていても、結婚しなくてもすでに十分にろくでもないのだから、習慣に従って新しい不幸を経験する方がましだからかもしれない。人間関係は結婚前からこれ以上崩壊しようのないほど崩壊している。慰めは、この崩壊が意識され、それが現実として是認された上で自分の利害を守ろうとしていることである。人間関係が崩壊した結果として陰気な精神に支配されていながら、なおその崩壊に気がつかず、受け入れず、それを肯定的関係として理解しようとする精神の段階にはない単純さがここにはある。

  6. 「聖ペテロ祭り」

 「久しい間夢にまで見て待ちに待った日の朝がおとずれた。ハンター諸君、万歳、六月二十九日がおとずれたのだ。……」

 このような文章は、ロシアにも待たれる日がまだあること、そんな一日にチェーホフが関心を持ち楽しむ力があることを示している。誰もがうきうきし、満足している。しかし、それは時間としては、猟に出掛ける準備を終える間もないほどで、つまり一時的な出来事、偶然にすぎず、再び相変わらずの現実が描写される。
 うきうきした気分はごたくさの短い序曲で、「彼らが庭を出るかでないうちに、厄介なことが起こったのだ…」という主旋律が現れる。厄介なこととはミヘイ・エゴールイチが罵倒とともに割り込んできたことで、ミヘイ・エゴールイチは「この世でもっとも鼻持ちならぬ人間であり、県全体に隠れもないスキャンダルの常習犯である」。
 鼻持ちならぬミヘイ・エゴールイチが現れたからには楽しいはずの猟はぶち壊しになるに違いない、と思われる。しかし、本当はそうではない。ミヘイ・エゴールイチがろくでもなくないのではない。彼が登場したために、彼が悪いために幸福な一日がぶち壊されたのではない、という意味である。どんなに素晴らしい一日になりそうな予感がしていても、ほんの些細なことで馬鹿げた一日に変わるのがロシアの現実である。ミヘイ・エゴールイチが事件を引き起こす常習犯であるのは、彼が引き起こす些細な事件が、必ず大きなもめ事に発展するという意味であるから、厄介な事件は彼が引き起こすのではなく、彼を起点にして彼の仲間が引き起こすのでもある。彼は最初の一撃をくらわすだけであり、彼の責任はそこまでであって、あとは他と同等である。彼がいてもいなくても馬鹿げたことは起こるが、彼がいればよりスムーズに馬鹿げた事件が引き起こされる。彼は彼の世界の人間関係の潤滑油としてなくてはならぬ、必然的且つ必要な人物である。

 ロシア文学によく登場する人物の一人として彼は平気で嘘をつく。というより彼がしゃべるのは皆嘘である。それは嘘の方がもめごとを引き起こすのに都合がいいからで、したがって彼の趣味に合うからで、その嘘が彼の持つ人間関係に対してより有効であるという意味ではより真実だからである。実際彼が鼻持ちならぬのは、彼のくだらない思いつきの嘘の中に真実が含まれているからである。森でドクトルが消えてしまった。すると彼は、「ドクトルはエゴールの細君のところへ行ったんですよ」(エゴールは彼の弟である)と断言し、ドクトルが「可愛いイチゴを摘みに行くんだ、と言ってましたっけ」云々と、ことこまかに説明している。それはすべて兄の機嫌を損ねることだけを目的としたつくり話であり、嘘である。しかし、この意地の悪い嘘には彼の意図しない真実が含まれており、その真実が人間関係に効果を発揮する。もともと彼が嘘をつくのは常であるのでそれを信じるのは信じる方が悪い。常習犯のウソを信じる方に信じるだけの事情がある。でまかせの嘘が彼らの行動の引き金になるのであるから、それは彼らの生活の真実と言える。
 エゴール・エゴールイチが大急ぎで帰宅して家中を捜査したがドクトルはいなかった。妻のベッドの下にいたのは聖歌隊の下僧フォルトゥナートフだった。だから、ウソは名前の部分だけだったことになる。

 ドクトルはウオッカを飲みすぎて木陰で寝込んだために森に置き去りにされ、夜の森を歩き通して朝方に郡会病院についた。幸福に始まった一日は結局は全員が罵倒しあい、憎み合う結果に終わった。ドクトルはエゴール・エゴールイチに釈明を要求する手紙を書き、将軍もエゴール・エゴールイチが八千ルーブリを返さなければ執達吏を差し向けると手紙で脅した。
 幸福な一日は最悪の結果に終わった。しかし、本当の最悪はこの結末にあるのではない。最悪とは、これが結末ではなく、このようなくだらない関係が終わらないことである。彼らはどのようにいがみ合い、憎み合っても決着をつけることはできない。どんな下らない結果に終わってもそれは終わりではなく、明日は再びいっそう下らないか同等に下らない生活が始まり、明後日もまた同じである。だからこそミヘイ・エゴールイチはスキャンダルの常習犯の名誉を得て陽気に生きている。彼らの生活の不幸は、この馬鹿げた関係以外に関係を持たないことであり、ミヘイ・エゴールイチを必要とし生み出さざるをえないことである。
 彼らは自分の生活を終わらすことはできないし、その意思を持つこともできない。彼らの対立は関係の破壊を意味するのではない。特有の下らない対立が彼らの現実的関係であり、生活の唯一のあり方である。彼らの馬鹿げた関係を終わらせるのは、この関係を耐えがたいものと感じる人物を生み出し終わらせる意思を持つ人物を生み出すのは、彼らの意思とは関係のない、社会的、経済的な発展である。全能の神である商品経済の発展である。

 この作品には、大雑把に説明すれば、このようなことが描かれている。しかし、森での生活の描写はまだ密度が低く、あった事実をありのままに描くという意味での単純な鏡のような写実である。その点は「車内風景」も同じである。

 この二つの作品の間にある「体質」という小品は、「多血質」、「胆汁質」、「粘液質」、「憂鬱質」、の男女を分類している。すべてについて共通な特徴づけは「○○質の人間と一つ部屋に寝ることは、おすすめしない。」である。立派な人物の特徴づけではなく、多血質の、胆汁質の粘液質の憂鬱質の俗物たちの特徴づけである。人間の特徴についてこのように簡潔にしかも4ページにわたって描写するには非常に能力がいる。創作を目指す人ならこのような文章をつぎつぎに生み出し、それを練り上げることを楽しむ力量が必要だろう。
 7. 「裁判」

 これは肯定的にも否定的にもロシア的な風景である。小商人のクジマ・エゴロフは、息子が自分の金を盗んだと疑っている。いずれにせよクジマ・エゴロフが息子を折檻するに違いないことは野次馬も息子のセラピオンも知っている。町の有力者たちが集まって脅したり、すかしたり、説教したりする「裁判」は、みんなで折檻を楽しもうという趣向である。「リンゴのために」と同じように、罰を与えることが町の有力者の趣味である。
 しかし、今回は「リンゴのために」ほどには楽しめない。セラピオンは彼等の生活も精神もよく理解して対応している。何をどういってもムチでなぐることは分かっている、だからさっさとやったらどうですと言っている。謝ったり、弁解したり、ごまかしたり、後悔させたりして、つまり精神的にもいめつけて、それを楽しんでから、体を痛めつけて徹底的に屈伏させることが楽しみである。自分の権力を味わい、見せつけるという反動的で悪趣味な満足である。セラピオンはこの悪趣味に抵抗している。弱々しい体で、物腰は丁寧だが、判断は正確であり、対応は堅固で頑強ある。儀式の間セラピオンは、自分を脅したり説教したりする連中の生活を非難し、嘲笑し、罵倒している。鞭を前にしながら、相手を怒らせることを恐れず、痛い所を衝いている。精神的屈伏を楽しむ自由を与えていない。儀式はむしろセラピオンを楽しませ、自分らの恥をさらす結果になっている。

 「ご当人が自白によって罪を軽くすることを望まない以上、鞭打たねばなりますまい」と補祭は言っている。しかし、頭を垂れることで罪が軽くなり罰がゆるめられることはないであろう。逆である。精神をいじめる楽しみを余計に与えたのだから、体を痛める楽しみもそれだけ多くなる。彼等はいじめた屈伏させることを望んでいるのだから、その望みをかなえたら、さらに望みは大きくなる。

 セラピオンの罵倒や嘲笑は、有力者の敵意をかきたて、情熱を燃やさせて楽しみを増すことも考えられる。しかし、屈伏して楽しみを増すのとは質が違う。同じ罰を受けるのなら、この方が気分がいい。もしムチの恐怖に抵抗できるなら。頑強な精神でなければ鞭を前提にして嘲笑は出来ない。こんな根性はそうたやすく持てるものではないし、描けるものでもない。特に妥協とか屈伏によって得るものを求めようとする我々日本人にとっては縁の薄い精神である。チェーホフ個人が優れていることはむろんであるが、このような精神は彼に先行する多くの労苦によって社会的歴史的に蓄積されたもので、個人的労苦によってそう獲得できるものではない。蓄積された精神によってこのような作品が描かれ、理解され、再び歴史的精神として蓄積される。日本では逆に屈伏する精神を弁護し肯定する努力が払われ、それが歴史的に蓄積される。
 「「最後にもう一度だけきくがね。お前か、お前じゃないのか?」クジマ・エゴロフがたずねる。「どちらでも…かまいませんよ…いたぶってください!覚悟しているんですから…」
「ぶちのめしてやる!」クジマ・エゴロフは肚をきめ、顔を真赤にして、テーブルの向こうから出てくる。」
 ぶちのめす方も、ぶちのめされる方も覚悟ができている。父親も息子も徹底しており、非妥協的である。残念ながらわれわれはこうはなれない。無意義でくだらない話し合いが得意である。
 「「もういいだろう!」クジマ・エゴロフが言う。
  「もっとだ」憲兵のフォルトゥナトーフがささやく。「もっとやれ!もっと!そんな奴はそれでいいんだ!」「もう少し必要だと思いますがな!」補祭が本から眼を離しながら言う。「せめて悲鳴でもあげりゃいいのにな!」弥次馬が驚嘆する。」
 この時、クジマ・エゴロフの妻が部屋に入ってきて、夫のポケットからお金を見つけたと言った。しかし、フォルトゥナトーフはもっとやれ、とつぶやいている。補祭りはバツが悪くなり、クジマ・エゴロフは「勘弁してくれ」と謝っている。
 「「いいですよ。別に今はじまったことじゃなし…ご心配なく。僕はどんな苦しみに対しても常に覚悟ができてるんです。」「一杯飲めや…憂さ晴らしにさ…」セラピオンは一杯飲み干すと、青い鼻を昂然とそびやかして、勇士のように家を出ていく。しかし、憲兵のフォルトゥナトーフはそのあとも永いこと庭を歩きまわり、真赤な顔をして眼を剥きながら、言っている。「もっとやれ!もっと!そんな奴はそれでいいんだ!」」
 非妥協的精神は、対立的諸関係の中で自己の独立性を守る形式として重要な意義を持っている。しかし、このような精神をもつことはわれわれにはほとんど不可能である。むしろ、妥協までも非妥協的形式をとるように精神が発展している。ここに描かれている形式とは逆に、的確な批判はしないものの、鉢巻きをして、眉根を寄せて、拳を握りしめて、涙を流して、黙り込んで、等々の形式で決意を示すことが妥協の形式としてテ発展する。無力で小心な小市民的精神が支配的である場合は、妥協の形態が高度に発展する。様々の形式で非妥協性の決意、意思を示すことが自尊心にとって非常に重要な、妥協の儀式として承認される。固い意思、決意は了解した、しかし、と別の事情のために、やむを得ずという形式を整えて妥協する。非妥協性の形式を貫く妥協という、複雑で面倒で、単純な妥協よりはるかに見栄えも悪く、妥協によって得られるものも最悪であるが、非妥協的精神が発展しにくい世界では、妥協的精神のみが複雑多様化していく。このような精神のありかたを具体的に研究し描写するのも文学の楽しみの一つであろう。うまく書くことは難しいが我々の時代、我々の世界でも描写する材料に事欠くわけではない。しかし、セラピオンの精神がわずかでもないことにはそれは描けないのであるから、やはり難しいことだろう。
 8.  「芸術家の妻」

 題名から期待できる通りこれも不幸な、しかし比較的明るい生活の話である。芸術家というとどうしても次のような文章が期待される。「首都リスボンの、この上なく自由な市民であり、きわめて…ただし自分自身にだけ、有名な、そしてやはり自分自身に大きな望みをかけている若い小説家であるアルフォンソ・ジンザガは、…」

 芸術家という言葉からは普通には、金がなくて、自分が世に認められないことに不満で、生活と創作がうまくいかないのは、世間とか、金持ちとか、とりわけ妻のせいだと考えている人物が想像される。「芸術家の妻」と言われると、その特有の自己意識に苦しめられている不幸な女というイメージが自然に湧きだしてくる。
 ここには小説家と、風俗画家と、歌手兼演奏家、とその妻の生活が描かれている。一言で言えばひどい生活である。世間を見下してわけのわからない、常識外れをやらかすし、妻を罵倒するのが彼らの会話だし、何といっても自分の才能が世間に認められないという大きな刺がささっているから、日々不満と無茶の連続である。だから、結論は次のようになる。
 「世の娘や未亡人たちよ、おわかりかな?ゆめゆめ芸術家などと結婚してはなりませんぞ!小ロシア人の言う通り、「芸術家なんぞ犬に食われろ!」だ。世の娘や未亡人たちよ、「毒ある白鳥」の最上の部屋で、バラバンタ・アリモンダ伯爵の一番お気に入りの子分などといっしょに暮らすぐらいなら、どこかそこらのタバコ屋で暮らすなり、市場でガチョウを売ったりしている方が、よっぽどましである。
  そうとも、よっぽどましなのだ!」
 そのましでない生活の一部分を、歌手兼演奏家のホンのさわりの部分だけを紹介しておこう。
 「「僕は明日の朝の十時までうたわなけりゃならなんいです。睡眠なんて、われわれに何一つ与えてくれませんよ。寝たい奴は寝りゃいいんだ、しかし僕はポルトガルの利益のために、いや、ひょっとしたら全世界の利益のためにも、眠るわけには行かんのです。」
 「でも、あなた、」妻が口をはさんだ。「あたしと、赤ちゃんは眠りたいわ!あなたがあんまり大きな声をだすもんで、眠れないばかりか、部屋に座っていることさえできない始末よ!」
 「その気になりゃ、眠れるもんだ!」こう言うと、ラーイは片足で拍子をとって、うたいだした。」
 ポルトガルの利益どころか全世界の利益のために、妻も子供もうるさくて眠れないのを我慢しなければならないとしたら嘆かわしい人生と言える。しかも歌手兼演奏家が特別にひどいのではない。他の芸術家がどんなにひどいのかは、この引用だけでも想像できるだろう。
 この作品の描写も結論的教訓も示唆に富んでいる。実際芸術家なんてものはろくなものではない、とこれを読めば誰でも思う。
 自分の仕事に対する不当に高い評価とか自信があって、平凡に現実的な、つまり、他人を自分と同等に評価することを忘れている。特に弱い立場にいる妻のことをまるで理解しない。このような狭量な精神が文学において成功しないのは当然であると思われる。自分の書いたつまらない文章が世間に受け入れられない事実を受け入れることが出来ずに、世間や妻が堕落していたり無知や無能や俗にみえる。芸術家には自分の運命が不当であるように思え、不満の種がそこここに見つかる。

 芸術家の妻は貧しい生活を事実として受け入れている。これは大きな精神である。妻との対比は非常にうまい。こうした感覚はやはり厳しい生活を不平なくやり抜いているチェーホフの力量である。芸術家の偏狭さに対しても、偏狭な批判精神をもっておらず寛大に対処している。
 現実には、様々の馬鹿げた生活が有る。ここでは芸術家にかかわる様々の生活が描かれているが、他の分野も同じ事である。このような生活の中で、妻たちも芸術家も、不満や罵倒や嘆きや涙の中でも、基本的には現実肯定的に生きている。これがこの世界でのごく現実的な生きかたである。彼等が俗衆を見下しているとしても、彼等は現実に受け入れておらず、貧しい生活に耐えており、その意識は定着していない。だとすれば、こういう自己肯定的な意識なしに生活できないことも明らかである。このような生活や精神を神経質に否定することこそ偏狭な精神である。これらの芸術家や妻や、さらにはロシアの愚かな地主達の生活のすべてが、社会的に存在し自分の中にも取り込み、内部に位置づけ、自分のものとすることが肝要である。チェーホフはそうしており、そのように余裕をもって描いている。チェーホフに描かれたすべての精神の対立物となるようでは豊かな精神とはいえない。それでは描くことも分析することもできない。

 チェーホフの描いた内容の現象形態は、単純な事実である。しかし、それは批判されていのではない。これを非難したり、自分がそうでないことに安心してもなんの意味もない。このような生活の描写を見ると我々はむしろ、うらやましく思う。我々日本人の生活は、このような自由よりも遥かに遅れており、より不自由な精神においてこれらの精神を否定しがちである。このような生活をより生産的にすべきだとする贅沢な課題を我々はまだもたない。このような生活の方がまだしも耐えやすかろうと思える生活からなかなか抜け出せない生活の方がまだ一般的である。このような生活を見下したり非難するより、このような生活を一つの人生として楽しむだけの度量を必要とする段階に有る。
 腹を減らしてほっつき歩くこともなく、規則正しい健康的な生活をし、妻にもご近所にも優しく、かつまた社会全体の、人類全体の幸福も求めており、おだやかで知的で常識を備えた生活をしている…よりも、ポルトガルの利益のために夜中にわめいたり歌ったりする方がましな場合もある。崇高な目的が嘘と分かるほどの無茶な生活によって、「芸術家なんぞ犬に食われろ!」と言われた方がまだ真実の生活と言える場合もある。
 「世の娘や未亡人たちよ、おわかりかな?ゆめゆめ芸術家などと結婚してはなりませんぞ!小ロシア人の言う通り、「芸術家なんぞ犬に食われろ!」だ。世の娘や未亡人たちよ、「毒ある白鳥」の最上の部屋で、バラバンタ・アリモンダ伯爵の一番お気に入りの子分などといっしょに暮らすぐらいなら、どこかそこらのタバコ屋で暮らすなり、市場でガチョウを売ったりしている方が、よっぽどましである。
  そうとも、よっぽどましなのだ!」
 この言葉を、非難としてではなく言えることを、さらには自分の生活についてこういわれながら生活することをより自由だとは感じないだろうか。

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