《第一巻
3》

 9.  「忘れた」   10.  「告白、あるいはオーリャ、ジェーニャ、ゾーヤ」  11.  「緑の岬」 


9. 「忘れた!!」 (1882.2.20)
 「かつては如才のない少尉であり、ダンスの名手であり、女蕩しであったが、今や肥ってずんぐりとし、もう二度も中気に倒れたことのある、地主イワン・プローホルイチ・ガウプトワフトフは、妻に言いつかった買いものでへとへとに疲れ果てた末、楽譜を買いに大きな楽器店に寄った。」
 きままな生活の結果として、イワン・プロホールイチ・ガウプトワフトフ氏は、今や買いものに行くくらいの用事を自分の役目にしており、それも簡単にはできない。
 彼は自分が何を買いに来たのか思い出そうと、善良でまじめな努力をしているが、イワン・プロ・・氏の頭からは、何らつながりのない、とりとめのない話が、ぼうふらのように無意味に湧いてくる。まとまりのない、場当たり的で無意味な生活が彼の舌を饒舌にしており、今は彼自身が自分のとりとめのない頭の動きに翻弄されている。
 この作品はめずらしくハッピーエンドである。無意味な饒舌も彼のまじめな努力にほかならず、その努力は報われ、氏は、自分の求めていたものを思い出した。残念ながら、それは、自分がそれを忘れて帰ったらどれほどひどい眼にあうかを、我知らず思い起こしたいたときのことであるから、この幸運をもたらしたのは、彼の日常的な不幸であったとしても、束の間の幸福ではある。

 もともと彼は悲劇的な性格を持たない。大きな矛盾なしに遊び暮らすうちに、いつのまにか、日に日に体がよわり、脳の働きがよわり、気力が失われ、妻の尻にひかれ、子供にも軽く扱われるようになった。彼はいつの間に、誰のせいで、どうしてこうなったか気づきもせずに、あるいはどうなっているのかも気付かずに生きているようである。外的な力によって、強制的にこのように屈伏させられたのではなく、自らの必然性において、自らの欲望のままに、それを満足させつつ、その欲望の質におうじて自己を形成してきたから、努力は、このような自分になることに向けられていた。ダンスとか女の尻を追い回すことにエネルギーと時間と能力を費やす生活の自然的な結果をその都度彼は自分の人生として受け入れて来た。彼は自分の限定された欲望を十分に満足して、その結果を得たのであるから、満足のいく人生であった。不満はあるにしても、こうやって、なんとかやりすごしている。四苦八苦しながら、結局は自分が楽譜を買いに来たことを思い出して、当面の困難は乗り越えた。彼の人生に求められる使命とか困難は、日に日に小さくなり、その都度彼はなんとか切り抜けるだろう。どうにもならなくなれば、そのような仕事が彼には求められなくなることで解決する。深刻な葛藤とか困難はついぞなかったし、これからもめぐり合うことはない。しかし、だからといって人生全体として幸福とか幸運とは言いがたいようである。

  10. 「告白、あるいはオーリャ、ジェーニャ、ゾーヤ」 (1882.3.20)

 小説家が、十五遍も結婚を志しながら 結婚しなかった、その小さないきさつを書簡による告白の形式で、三つのサンプルについて書いている。

 オーリャの場合は、愛の告白の前置きとして、学問についての高尚で意味不明の話をしていたその時、子ガチョウが通りかかって「ガア…ガア…ガア…」と鳴いた。オーリャが子ガチョウに手を延ばすと、親ガチョウが脅すようにオーリャに向かってきた。オーリャは怯えていた。
 「わたしは臆病は我慢できないのです!…バカに見えるほど臆病な顔が、わたしの頭にこびりついてしまったのです…わたしにとって、オーリャは一切の魅力を失ってしまいました。わたしはオーリャを棄ててしまったのです。」
 この別離の直接的原因はガチョウにあるが、鵞鳥に大きな役割を果たさせたのは、彼の高尚な精神であろう。彼自信にとっても、オーリャにとっても理想が高すぎた。彼がオーリャに話していた高尚な精神さえ持っていなければ、ガチョウが何百羽通りかかっても問題はなかっただろう。とはいえ、若い時代にはこのような弱点はありうるし、それは時間を経なければなおらないものである。それに、ひどい不幸にあったときに、それをガチョウのせいにせずにいられるものでもない。実際には彼もオーリャもガチョウに助けられたのだから、恩知らずといわれても仕方ないのであるが。

 二度目の、ジェーニャの場合、はガチョウとかカモとかの鳥類ではなく、社会的な事情が、特に作家という職業につきものの社会的事情が彼の結婚の障害となった。
 「地球は芸術にとって、まことによくない場所です」とこの作家は考えている。この地球上では、芸術家は焼餅やきによって危害を加えられ、破滅させられる。とくに編集者や出版者が彼らの人生を台なしにしようとしている。ところが、残念なことにジェーニャはこのことを理解していなかった。
 ジェーニャは作家を尊敬していた。で、彼の作品を活字で読みたいと言いだしたので、作家は自分の文章をある雑誌に送った。すると、「君には才能というものが一滴もありません。まったく、何という下らないものを書くのです!切手をむだに使わずに、わたしたちをそっとしておいてください。何かほかの仕事をなさるんですね。」

 この手紙は、人類を作家と焼き餅焼きの二つに大別する作家の分類の正さと、編集者の汚らわしさを証明しているはずであったが、ジェーニャは「もしかしたら、あなたには本当に才能がないのかもしれないわ!この人たちの方がよくわかるはずですもの。」と言った。ジェーニャは冷淡になり二人は別れた。

 第二の場合になると二度目ではあるし、相手は人間であるから、才能が一滴もないとまで言う必要はなかったにしても、彼自身にも何か問題がありはしないか、彼を拒否する編集者やジェーニャにも正当性があるのではないかという反省が頭をかすてもいいはずである。むろんジェーニャとの結婚には間に合わないにしても。一般にはこのような経験を経て現実は頭の中に徐々に侵入する。しかし、それが順調にいかない場合もある。歪んだ鏡には新たな経験も歪んで反映するから。

 第三のゾーヤの場合は、もっと単純であるが、しかし、何か不吉な印象を与える別れ方である。
 作家は、芸術家として音楽が好きで、また得意であった。彼はペプシノフ家が予約した特別席で、「ファウスト」を鑑賞しながら恋を打ち明けようとした。ところが、そのとき、どうしたわけたしゃっくりがでた。これが一つならよかったが、一つ目のあと二つ目が続いたばかりでなく、つぎからつぎへと後が続いて、恋の告白をぶつ切りにしてしまった。それだけでなく、ボックス席の笑い物になってしまった。
 作家は「いや、俺は笑いものにされたわけじゃないんだ!笑い倒されたんじゃなく、しゃっくりの奴にやられたのさ!」と考えることができたし、作家を礼儀正しく振る舞うことのできぬ人間だと非難したペプシノフ大佐を「間抜けめ!しゃっくりを起こす器官が精神的スティミャラスに関係ないことを、彼は知らないのです」という彼の主張に正当性がないとも言えないが、結果はまずかった。彼にとってゾーヤも滅びてしまった。

 作家のみならず、学者でも何でも、崇高な一般的使命を果たそうと努力している人々が多くの困難に見舞われることは周知の事実であり、一度でもそのような理想を抱えて社会と接すれば誰でもこの困難を経験しなければならない。
 ここに描かれた、がちょうや編集者やしゃっくりの他にも、この作家ですらまだ十二の障害を数え上げることができるし、この様子なら、どんな障害があるものやら想像することすら出来ない。ともかく、数多く、数えきれないほど多く、意外なほどというか当然と思えるほどの障害があることはこの例からもはっきりわかる。
 地球上のあらゆる存在が、作家の結婚とか恋愛の障害になる。しかし、作家の結婚を優先して、がちょうや編集者やしゃっくりやその他の十二以上のすべての意地の悪い障害を地球上からなくすことはできない。また、がちょうや編集者やしゃっくりは作家の結婚を阻止するために存在しているのでもない。彼らは作家の結婚と関わりなく、独自の目的や意義をもって存在している。しかし、それらが作家と関係する場合には、その意志や存在自体と無関係に結婚を阻害する要因になってしまう。
 地球上のすべてが作家の結婚を阻害すべく存在しているのでもなく、結婚を阻害すべく彼と係わるのではないにもかかわらず、彼とかかわった結果が結婚を阻害することになっているとすれば、そのすべての関係の統一性は作家自身にあると考えたほうが妥当である。地球上のすべての存在を結婚の阻害要因に改造するのは、作家自身ではなかろうか。彼自身が結婚を阻害する要因を身に纏っているのであり、一度は彼に近づいても誰もが結婚にはいたらないのではなかろうか、と考えるほうが、天動説から地動説に移行するほうが彼の不結婚という現象を合理的に説明できるように思われる。
 作家や芸術家や学者等、とにかく崇高な目的を追求している人々はどうしても地球上の様々の対象を敵を相手にしなければならない。つまりすべてを敵に回してしまうものだ、つまり、崇高な目的を追求するかぎりは不幸はつきものである、と考える場合は、この作家につきまとう不幸は作家ではなく崇高な目的自体につきまとっているように思われるし、作家から去っていく美しい女性は崇高な目的から去っていくように見える。しかし、ここに描かれた実例を冷静に観察すれば、どうもそうではないような気がしてくる。創造的な仕事には巨大な困難がつきものであろうが、それはこのような困難とは種類が違うだろうと思われる。

 ジェーニャのような若い女性が、掲げられた崇高な目的に幻想を持つことがある。幸運なことに、彼女らには幻滅、つまり現実的な精神が、理想家によりも速やかに、決定的に訪れる。ところがこんなささやかな幻滅を沢山背負い込んでも、理想自体に幻滅を感じることが困難な場合がある。理想だけが自分の価値となったり、あるいは理想が自分の価値であると思われたかったり、自分が孤立しているのは理想が高いためであり、また人々が理想を理解しないためである、と考えることが、生きる上で必要になる場合がある。このような形で理想を守る羽目にならないためには、このような苦い経験や、それを描写したチェーホフの作品を読むことを契機に一度自分の理想を点検する必要があるだろう。でないと彼のように取り返しのつかない年齢になってしまう。

 11. 「緑の岬」 (1882.4)

 黒海沿岸の別荘でのささやかなロマンとされているが、ロシア風のおだやかな、おおらかな、雄大で度量の広い、静かな精神が描写されている。ロシアにはこのような精神が存在している。このような精神をチェーホフ自身がもっており、それをうまく直観的に捕らえ対象化している。
 『モスクワは涙を信じない』というソビエト時代の映画のピクニックのシーンを思い出した。湖の辺で、ギターを引き、食事をし、静かな時間を過ごすのであるが、このような時間は日本人には決して過ごせないと、感じた。これは、やさしさとか、ふれあいとか、自然との会話とかの当為を掲げることに自己満足することはまったく違った精神である。精神全体のレベルが高くないとこういう人間関係に身をおき、人生を楽しむことはできない。

 別荘の持ち主は、公爵夫人であることを最大の価値としており、公爵夫人らしく振る舞うことを信条としている。
 「たとえば彼女は決して笑うことがない。きっと、自分にとっても、上流婦人一般にとっても、そんなことははしたないと考えているのだろう。彼女よりたとい一つでも年若な者は、みな青二才にされてしまう。彼女に言わせると、高貴ということは美徳であり、この前にでては他のすべてのことが、まったく取るに足らぬたわごとにほかならぬそうだ。彼女は軽佻浮薄の敵であり、沈黙を愛している、など、万事がこの調子なのだ。」
  あるいは、
「毎晩、公爵夫人はわたしたちを客間に集め、顔を真赤にしてわれわれの『恥知らずな』行状を非難し、叱りつけ、わたしたちのおかげで頭痛がすると、こぼした。彼女はお説教が好きだった。真情をこめて諄々と説き、自分の説教がわたしたちのタメになることを心から信じていた。」
 若者が公爵夫人の説教を我慢してひと夏を別荘で過ごしているのは、この公爵夫人に、陽気で愛くるしい、誰にも愛されているオーリャという娘がいたからだけではない。公爵夫人との関係も人をひきつけるものがある。
「時折りは、おもしろ半分にわたしたちの中のだれかが何かしら過ちをしでかし、密告によって老夫人のもとに呼びつけられることもある。『蛙を踏んだのは、あなたですってね?』裁判がはじまる。『どうしてそんなことができるの?』『僕はついうっかり・・・』『お黙りなさい!どうしてそんなことができるかを、たずねているんですよ!』裁判はいつも恩赦と、手へのキスで終り、裁判官が部屋から出て行ったあとは、割れるような爆笑に終るのだった。公爵夫人がわたしたちにやさしかったことは、一度もなかった。彼女がやさしい言葉をかけるのは、老婆や小さい子供たちに限られていた。」
 公爵夫人のこのような価値観は、若い連中の受け入れられるものではないが、彼等はそれを公爵夫人の個性の一部分として尊重しており、この点で深刻に、陰気に対立することはない。夫人のこの点での価値観を無視している。公爵夫人はこの価値観の背後に人間的な魅力をもっており、それを彼等が認める力量を持っている。だから、この表面的な価値観の無視とか軽視は、彼女自身に対する無視とか軽視にはならない。このことによって、彼らは公爵夫人に対して卑屈になることもなく、独立的で、しかも彼女の価値観を尊重する度量を示している。公爵夫人は自分の価値観を傷つけることなく、また彼等を傷つけ、押さえつけ、人間関係を損なっていると感じることなく彼等と生活できる。公爵夫人としての表面的な価値観は、彼女にとっては自分の過去から引き継いだ、棄てることのできない、自分自身の存在意義の形式をもっており、それを自分の価値の代表として、自分に対する敬意として認めるように求めているし、彼等もそれを理解している。この点で日常的な瑣末な対立は、彼等の信頼関係のあかしともなり、まじめな精神の楽しみともなっている。
 このような信頼関係は、日常生活における瑣末な対立を越えた、娘の結婚という重大な事件において、証明された。この小さなロマンスにロシア的な雄大さが現れている。

 公爵夫人の夫には生前、チャイヒーゼフ公爵という無二の親友がおり、彼が存命のころ自分の娘と親友の息子を結婚させようと思いついた。そしていまわの際に、「いいか、そこらのバカ者と結婚しちゃいかんよ!チャイヒーゼフと結婚するんだよ。あれは頭のいい、立派な人間だからな」と言い残した。娘のオーリャは、チャイヒーゼフと結婚すると約束した。
 父親に対する愛情の点でこの約束は彼女に満足を与えた。むろん公爵夫人にとって娘は公爵にのみふさわしく、夫の意志も神聖であった。オーリャはチャイヒーゼフが非常に愚かな若者であることがすぐにわかったが、それでも自分がチャイヒーゼフと結婚することを信じていた。チャイヒーゼフも結婚を信じていたが、この結婚が妙なものであることを自覚するほどの善良さをもっていた。
 「あなたが僕を愛していらっしゃらないことは、知っています。僕たちの縁組はたしかに、妙な具合に馬鹿げています。でも僕は、あなたも今にきっと愛してくださるようになると、期待しているんですよ。」
 時が来てついに、二人の結婚披露が行われた。この時、公爵夫人が軽薄だとか不信心だとか、下らぬ真似をしたりする人間だと考えている若者連中は悲劇に終止符をうつために策略を巡らした。彼らはエフグラフ中尉が死にそうだ、と嘘をいってオーリャを舞踏会から連れだした。オーリャはあずまやで、ただ酒を飲んで蒼白になっているだけの中尉を見つけたが、怒らなかった。
 オーリャは幸福であった。オーリャの満足をチェーホフは魅力的に描いている。公爵夫人としての最大の勤めをぶち壊されたマリア・エゴーロブナの感情もオーリャの幸福と同様に心頭に発するものがあった。幸福なオーリャがあずまやから帰ったとき「憤りと羞恥にふるえ、真っ赤になった公爵夫人が、傲然と首をあげて、戸口にたっていた。…二分ほど沈黙がつづいた。「公爵の娘が、公爵の婚約者ともあろう者が、中尉風情との逢いびきに出かけて行くなんて、?!あのエフグラーシカと!汚らわしい!」

 若者たちは、チャイヒーゼフに事情を説明した。この気まずさを自分でも認めるように、彼らの干渉を大目に見てくれるようにと。チャイヒーゼフは父親の遺言を重視するつもりはないが、オーリャを愛しているので、これほどこだわるのだ、と返事をし、立ち去った。彼にとってもオーリャとの関係は苦しいものであり、彼は十分にそれを自覚していた。
 若者達は公爵夫人を説得しにかかった。彼女の気に入りそうな文句をふんだんに使ったエゴロフ中尉からの手紙を全員で書いた。しかし、効果はなかった。
 「あなたがたのように、乳の香もまだ脱けぬ人たちは、わたしのような年寄りを教るなんて柄じゃありません。お茶を飲み終ったら、ほかの人の頭をまどわせに出て行ってください。わたしのような年寄りといっしょの生活はお厭でしょうから。…あなたがたは賢い人たちですし、わたしは愚かですもの氏…じゃ、ご機嫌よう!…一生あなたがたには感謝しますよ!」
 彼らは不本意ながらエゴロフ中尉の領地に移った。チャイヒーゼフも彼らといっしょにこの別荘を出た。
 
 「わたしたちは彼のところに二週間暮した。三週目に、わが法学士の男爵が公爵夫人から手紙をもらった。公爵夫人は彼に、緑の岬に来て何かの書類を書いてくれと頼んでいた。男爵は出発した。出発後三日してから、わたしたちも、男爵を迎えに行くような顔をしてくりだした。緑の岬についたのは、昼前だった。わたしたちは家に入らず、窓を眺めながら庭をぶらついていた。公爵夫人が窓からわたしたちを見つけた。
 『今いらしたのは、あなたがた?』彼女は声をかけた。
 『ええ。』
 『ご用でもおありになるの?』
 『男爵を迎えに来たんです。』
 『男爵には、あなたがたのような不良といっしょに肩肘を怒らせてる暇はありませんよ!書きものをしているんですから!』
 わたしたちは帽子をとり、窓に近づいた。
 『お元気ですか、奥様?』わたしはたずねた。
 『なんだってうろうろしているんです?』公爵夫人は答えた。『家にお入りなさい』
 わたしたちは部屋へ入り、おとなしく椅子に坐った。われわれの一党をひどく恋しがっていた公爵夫人には、このおとなしさが気に入った。彼女はわたしたちを昼食に引き止めてくれた。食事の最中に、スプーンを落とした仲間の一人を彼女は、間抜けよばわりして叱り、わたしたちがテーブル・マナーも知らぬと非難した。わたしたちはオーリャと遊び、その晩は泊った。…翌晩も泊り、こうして九月まで緑の岬に根をおろしてしまった。平和はひとりでに取り戻された。」
 オーリャは魅力的に描かれている。しかし、彼女の愛らしさ、美しさの魅力は若さであり、無邪気さである。この美しさと無邪気さは公爵夫人との関係によって、オーリャが公爵夫人の深い愛情に包まれることによって、言葉に尽くせない奥深い魅力を放っている。
 公爵夫人は公爵夫人としての自分の価値観を守っている。しかし、それは日常的な瑣末な価値観に限定され、形骸化されている。それが彼女の個性として、単純な弱点にすぎなくなっているのは、彼女がすでに公爵夫人としての地位が持つ本質的な価値観を放棄しているからである。彼女は自分が公爵夫人であることに誇りをもっているが、それが現実の人間関係の障害になるほどではない。それはすでに言葉だけになっている。彼女の実際の人間関係は公爵に限定されていない。彼女の主張する価値観と表面的に対立する若者と多くの時間を過ごしている。公爵夫人として彼女は娘が公爵と結婚することを当然と考えており、それが幸福だと考えている。しかし、現実に娘が公爵との結婚を幸福だと考えていないことを理解すれば、彼女は娘の幸福を優先する。彼女の自尊心は自分の古い、形式な価値観を放棄したり傷つけたりできない。夫人も娘も公爵との約束を自ら破ることはできない。しかし、礼儀知らずの若者の策略によって、約束が破られたのなら、そしてオーリャがエゴロフを愛しているのなら、やむを得ない、諦めて現実的な幸福に甘んじようという気になる。
 こうして現実との和解が成立し、もとの生活が復活した。彼女が若者たちに説教するのは、公爵夫人としての礼儀作法を身につけることが彼らのためになると実際に思うからである。それだけ彼女は公爵の地位による価値観に捕らわれていることになるが、他方で若者たちに対する愛情が公爵的な価値観より優位にある。彼女の説教はどんな効果も表さないにもかかわらず、彼女は説教を続け、彼らとの関係を維持していることに価値観の本当の姿が現れている。
 若者たちも、公爵夫人の価値観を傷つけることなく、彼女の性格を尊重している。彼女の説教がいかにわずらわしくても、彼女の誠実さや愛情には偉大なものがある。公爵夫人は没落階級としての偏狭な価値観を自分の価値とする形式をとりながら、それを放棄している。これこそ歴史的発展を反映した希有な精神である。しかもそれを意識しておらず、自分は公爵夫人として生きていると信じて、端的に若者を愛しており、若者たちに対する愛情が公爵夫人としての地位が規定する価値観より優位にあることは意識されていない。だからこそ、若者たちのために、という意識を持ちながら、それが恩きせがましくも押しつけがましくもない、相手に対する愛情という形式を取らない、自己自身における充足という形態をとった、実際に誠実な愛情となっている。深い愛情や誠実さが歴史的な産物として特有の形態をとることがよくわかる作品である。
 貴族社会の崩壊が、このように悲劇的でなく自分の階級的価値観を無意識的に放棄する精神を生み出す場合もある。これがロシアの多様性というものであろう。われわれの住む日本にも無限の多様性がある。しかし、その多様性はあまりにも狭く限定されている。馬鹿さかげんも偉大さもほどほどである。そのほどほどがあまりにも限定されていて、なんら馬鹿げてもいないし偉大でもないほどである。馬鹿げていないのは、馬鹿げることすら出来ないという限定でもある。多様な精神の世界から見ればこの一様な世界は、退屈で、陰気で、偽善的で、つまらないものであろう。
 

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