《第一巻
4》

 12.  「逢いびきはしたものの…」   13.  「不必要な勝利」  14.  「逃がした魚」
15. 「いまわしい話」  16. 「六月二十九日」 


12. 「逢いびきはしたものの…」 (1882.5)
  「俺は、彼女が俺のどういう点を愛しているのか、知っているんだ!。知っているとも!彼女は、俺が非凡な人間だからこそ、好きになったのさ!そうだとも!あの娘は、誰を愛し、どういう点を愛すべきか、十分わきまえているんだ・・なにしろこっちは非凡な人間だからな!そんじょそこらの、お兄さんとはわけが違うんだ・・俺はそこらの馬の骨とは違うんだぞ!彼女が俺に惚れたのは・・俺が天才だからだ!天才だぜ!世界的な大天才さ!俺をだれだと心得る!俺が何者だと思っているんだ。」
 グボォズジコフは、この種の自己肯定的な自己認識をもっている。彼は逢びきの手紙をくれたソーニャに、酔った上でのこととはいえ、このような平生の自己認識の果てに、あまりに不遜な、不用意な、侮辱的な態度をとってしまった。彼は自分自身に、自分の才能に、自分の重要性に関心をもつあまり、このような認識を他人も自分に対して持っていると誤解するにいたり、その誤解が酒のせいで、外に出てしまった。酒に酔えば誰でも彼のようにしゃべるわけではないし、酒を飲んだのもしゃべったのもグボォズジコフであるから、酒のせいではない。
 しらふにもどった彼の謝罪の手紙に対してソーニャは「返事は御無用です。あなたなんか、大嫌いです。」と書いている。こうした手紙を読むのも楽しい。作家や芸術家にとっても、このような端的な精神世界の方がより自由である。思いやりのある陰気な説教より何倍も飲みやすく消化しやすい言葉である。たとえ作家といえどもこうした悩みなしに生きられるものではない。
 むろんこのような精神はチェーホフが抽出したものであって、これほど露骨な状態では存在しない。このような精神が部分的にとか一時的にとか芸術家やその他どのような職業や無職業の人々にも含まれている。問題は、これまでの様々の愚かしい精神に対してと同様、そこらに平凡に見られるし自己内にも見られるこの種の精神にどのように対処するかである。このような単純な精神であっても正当に批判するのは困難である。
 こうした苦悩を真剣に受け止める道徳的な否定は同等に愚かしい精神である。もしこのような精神が道徳的に厳しく批判され、否定されるなら、それがいかに愚かしい精神であろうと精神の自由を損なうものであろう。このような単純な自惚れに対してさえも道徳的な批判意識がはびこっている場合は(この種の瑣末さが道徳的意識の得意とするところであるが)、若者がこのような何の害もない瑣末な精神的弱点を持つことさえ禁じられている場合は、謙虚という形式の萎縮した臆病な、卑屈な精神が発展する。つまらない失敗を大げさに評価して悲劇的だとか、人間的弱点だとか評価するのは、この種の瑣末な失敗とか弱点に人を押し込め、閉じ込めることを意味する。
 このような精神の克服は、それ自身の否定によってではなく、まったく別の積極的精神の獲得という方法によってのみ、このような精神を精神全体の部分となし、形式となし、愛すべき個性となすことによってのみ克服すべきである。だから、それ自体としてはたいした問題ではない。
 このような自惚れは褒められたものではないが、批判としてはソーニャの端的な対処で十分であり、厳しく否定する必要はない。道徳的な規制や否定の厳しい世界から見れば、このような若者の精神も自由で端的であり、それに対する娘の端的な批判もまた、一つの人間関係として魅力を持つものである。そのような意味でも楽しめる文章である。
  13. 「不必要な勝利」 (1882.6)

 これは116ページに及ぶ特別に長い作品で、なおかつ面白い作品である。解説にこれまで何度も映画化されたと書いてある。貧しく、蔑まれることになれたジプシーの父親と侮辱を我慢できない美しい娘が、ハンガリー全土に知られた美女である伯爵夫人の侮辱に対して、美貌と機知によって復讐する話である。伯爵夫人にはかつて恋人がいたが、彼が落ちぶれたために金持ちの伯爵と結婚した。しかし、いまでもその落ちぶれた恋人を愛している、とか、この恋人がジプシーの娘と、百万フランもってくれば結婚すると約束する、とかの派手な道具立てがそろっている。
 この作品を読むと若いチェーホフがすでにディテールの描写力においても作品の構成力においても非凡な才能を持っていることがよくわかる。
 この作品は想像力によって構成されたものである。こんなことが現実にあるわけではない。しかし、ディテールの描写力によって真実らしさという意味でのリアリティがある。この作品は経験的世界を再現したものではないが、それがあたかも現実であるかのように追体験し、楽しむことができる。
 しかし、この作品は高度の芸術性を持つわけではない。この作品の面白さは高度の芸術作品としての面白さではない。
 芸術作品としての小説も作家の構成物である。あるがままの、見たままの、経験したままの現実は偶然的であり、真実は構成されなければならない。現実はこの意味で虚偽であり、芸術こそは現実の虚偽性を撤廃し、真実を構成して描写するものである。この場合の構成やディテールの描写はこの「不必要な勝利」とは違っている。現実にない空想物ではなく、経験的世界より一層現実的な世界が構成される。それが真の芸術のリアリティである。この作品のような構成物は経験的現実から空想の世界へ飛び立つものであり、現実との距離は大きくなる。このような空想的作品の人間関係は入り組んで複雑なように見える。次々に展開する目新しさで読者の興味をひきつけなくてはならない。しかし、いかに複雑に見える展開でも現実に存在する人間関係と比較するとまったく単純で抽象的である。現実の人間関係は無限に高度で巧みで複雑である。
 チェーホフはこのような読み物としての小説で描写力の才能を見せつけている。しかし、それは天才としての部分的な、天才的な仕事の中では技術的とも言える才能である。天才の天才たる所以は現実の奥深い真実を観察し描写することであり、それはこのような興味本位の面白さを構成する能力とは質的に違っている。このような作品を幾つも書いていれば本来の才能は死んでしまうだろう。チェーホフの巨大な才能はこの種の作品に多くの時間を費やすことを許さず、道を踏み外すことはなかった。
 この作品でチェーホフは構成力の才能を見せつけている。しかし、この時期のチェーホフの他の作品はむしろ「構成」を意識していない。古典的な芸術に学んでいるにしても、まだ直観的に現実をとらえ単純に対象化しているように思われる。それでもなおこのような構成的作品より単純な描写の方が内容は遙に高度である。
 14. 「逃した魚」 (1882.6)
 「泣きたくてたまらない!声をはり上げて泣けば、心が軽くなるかもしれない。」
 これが冒頭の文章で、「今わたしはベッドに寝ころんで、枕を噛み、自分の後頭部を殴りつけている。気が滅入ってならないのだ…読者よ、どうやって事態を立て直せばいいのだろう。?口頭でなり、手紙でなり、彼女に何と言ってやればよいのだろう?どうにもいい知恵がうかばない!魚を取り逃がしてしまったのだ…それも、何と愚かしいやり方で逃がしてしまったことだろうか!」

 これが結末の文章である。これもまた滑稽で愉快な、愚かしい精神を適切に、つまり批判した作品である。
 チェーホフはこの作品に(ボードビル的な出来事)と副題を付けている。この作品も実は現実に存在しない話である点では「不必要な勝利」と同じである。しかし、これは現実にはなくても現実の真実である。
 簡単に事情を聞くだけでも芸術家にとっていかに嘆かわしい出来事であるかは分かる。「若くて美しく、三万ルーブルの持参金つきで、多少は教養もあり、わたし、つまり筆者を、子猫のように愛している」この魚を逃した。とくにこの美しい女性の魅力は三万ルーブルの持参金であることは言うまでもない。貧しい芸術家とって三万ルーブルの持参金がいかに魅力的であるかは誰にでも想像できる。
 愛とか恋のことはまったく順調に行った。これこそがまったくの作り話であるが、あまりに(というのは現実にはありえないほどという意味である)順調であったために、つい余計なことを言って真実を引き出してしまうのがこの虚構の真である。
 「私は未来の妻の前で、ちょっと気どってみせ、自己の主義主張をひけらかして、自慢したくなった…ひどく胸くそのわるいことが起った!」

 三万ルーブルは一生遊んで暮らせる額ではないが、めったなことで手に入れられる額ではないことはどんな愚かな芸術家にも理解できる。ワーニャの持参金は、貧しい芸術家が自由で気楽な生活を当分楽しむのに十分な額である。だから、それが手に入ることになって、まったく有頂天になって手綱が緩んでしまった。
 彼の演説は、要約すると、自分は貧しいが貧しい故の誇りがある、貧しさに慣れている、あなたは僕のために貧しい生活に耐えることができるでしょうか?持参金?それがなくなったらどうなります、それに僕がそんなものを自分のものにできるとおもいますか、僕には誇りがあります、という、つまるところ、金を問題にしていないということであった。
 こういう言葉を彼自身は立派と思っているが、実際は、芸術より金に関心がある場合にのみ思いつく高尚な言葉である。芸術的内容とか高度の精神を持たない場合には、金に関心がないことを自分の価値として主張しなければならない。しかし、そこには金にしか関心がないという真実が現れるから失敗のもとになる。沈黙は金であるが、ここが売りである場合は黙っておれない。それ以外に取り柄がないのだから仕方がない。だから肝心の時にこの不必要な言葉がつい漏れ出てしまう。
 この演説を聞いたワーリャは考え込んだ、「考え込ませた以上、私は尊敬されたのだ」という小説家の観察は正しかった。しかし、彼はこの成功に酔って、峠を越えてしまった。この尊敬がどう向きを変えるかに考え及ばなかった。
 ワーリャは彼の言葉を尊敬し、理解し、自分が小説家の妻に相応しくないと感じた。
 「あなたのおっしる通りだわ。」彼女は言った。「もし、あたしがあなたと結婚するとしたら、あなたを欺くことになるのね。あなたの妻になるべき人は、あたしじゃないのよ。あたしは金持ちの娘で、弱虫で、馬車はのりまわすし、山シギだの高いピロシキだのを食べたりするんですもの。お食事の時にも、スープやシチュウなんて、絶対に食べないのよ。母にもいつも叱られているの…でも、あたし、そうせずにはいられないんですもの!…」
 こんなことは予想していなかった。彼は自分がよく知っている貧乏な生活について、感情に訴えるほど具体的にしゃべった。しかし、彼の理想は具体的な内容を持たない空虚な言葉だから、ワーリャには分からなかった。その上彼女は芸術家の気質についても無知であった。彼はまさか貧しい者の口先だけの誇りを本気にするとは思わなかったが、ワーリャは貧しい生活を経験しなかったので、この種の誇りが何を意味するか知らなかった。作家が持参金を問題にしないのは、持参金が欲しくないからではない。欲しいという気持ちを出さずに美しく受け取りたい。強欲でもなまけ者でもない、優秀で高尚だから持参金にあたいするのであり、持参金に相応しい精神的な価値を持ったまま金を受け取りたい、というのが自尊心である。貧しい者には金に代えられない精神的な誇りがある、というのは、貧しい作家の欲望のあり方であって欲望がないことではないというのが素人のワーリャには理解できず、話を額面どおりに受け取ってしまった。持参金の申し出を断ることは、実は精神の高尚さを証明しており、つまりは持参金を受け取る資格を証明している。欲しくないという欲望が純粋であるほどそれは持参金にふさわしいというひねりを理解して、断るほど金を押しつける価値があると考え、無理強いしなければならない。ところがそれを、その微妙なところを理解せず、断っているのを素晴らしいと受取り、それはよかったとしてもその素晴らしい小説家に自分はふさわしくないとまで考え、持参金とともに身をを翻してしまうとは!欲しくないという自尊心を尊重して貧しい生活のままでいさせるなどという工夫の足りない理解は、芸術家をもとのままの貧しさに放置するという、芸術家の甘い夢を打ち砕くだけの、あまりに残酷でたわけた結果をもたらすだけである。これが嘆かずにいられるだろうか。貧しい芸術家のために何度でも念を押しておきたい、持参金が欲しくないというのは、持参金に値するという意味であって、持参金などなくてよいのだろうなどという話ではない。なくてよいことなどあるはずがないではないか。

 小説家もやり方も不味かった。誇りとか芸術とか犠牲とかを問題にするときは、ましてそれが三万ルーブルとかいうはっきりした目的物と関係している場合には特に相手を考えて慎重に行動すべきであった。作家の言動は軽薄と言わざるをえない。
 しかし、彼の言葉の一つが失敗なのではない。こうした言葉をしゃべらせるのは彼の精神の全体である。小さな余計な一言の失敗ではない。この言葉をなくすには精神の全体を改造しなければならない。だから、不当な失敗とか不運ではなく、現実的な、自分にふさわしい事件だと思いなおして受け入れることか現実的な対処である。全然嘆くには当たらないし、悔やむべきことでもない。

 実際小説家を非難するにはあたらない。現実にはこのような失敗はないであろう。というのは、貧しい小説家に持参金が舞い込むといった、小説家を有頂天にさせて軽薄にさせた甘い話がもともとありそうもないからである。しかし、貧しい生活の中でこの種の欲望が生まれ、それが徐々に醗酵して空想的な世界を形作ることはよくある。このような欲望自体は現実的で社会的真実である。
 この種の精神は作家にとっては身近な精神なので、材料にしやすいし、作家の卵などには興味深いものであろう。この種の精神を扱う方法には、芸術家の才能というより、一般的精神のレベルが現れる。
 チェーホフの作品を読めば、この作家の欲望が実に滑稽であることがわかる。しかし、日本ではまだこのような批判精神は獲得されていない。これをボードビルとして楽しむレベルは遙か遠い世界である。私が以前紹介した「くれの廿八日」にはこれとまったく逆のことが書いてある。立派な志を持っているから、それに金持ちの女性が惚れ込むなどということが真面目に描かれている。これはあまりに素朴に描かれているから、広くは受け入れられていないが、ポピュラーな作品では鴎外の作品もそれと同じレベルにある。鴎外の場合は金より色気の方が得意で、才能のある若者にあらゆる女性が惚れ込むと想定されている。芸術的才能を金や色気の種にすというのが馬鹿げていることが理解できないのは、金や色気に主な関心を縛りつけられている芸術家の特徴である。芸術には芸術独自の課題があり、才能には才能の独自の運命がある。その課題や運命に金や色気が付き纏う場合もあるしそうでない場合もある。しかし、それは第二義的で、偶然的で、芸術的才能とは別の事情によるものである。持参金や色気が望みなら、それを端的に追求するほうが、ここに描かれたような失敗がなくて成功の可能性は大きくなるだろう。ただし現実にはそれも簡単ではないので、この両者が組み合わせることが平凡な才能の好みになる。
 漱石はこの問題を「野分」でいかにも漱石らしく扱っている。才能に対する援助を期待する若者と、そのような夢想を拒否する決意が対置されている。しかし、拒否する決意は才能に対する援助との関係であり、そのようなものがありえない現実が感覚として獲得されていないことを意味しており、いかに厳しい決意が示されていてもその決意を導き出す現実認識が甘く、作品としても甘ったるくなる。ただし、漱石にとってはこのような精神の段階を経ることも必要であり、このような精神を逐一克服していったことが後の作品に生かされている。
 この作品は我々日本人にとっては、まだ笑うべき、楽しむべき内容ではなく、認識すべき理解すべき内容である。それが理解できない場合はチェーホフの描写は、そしてその描写のことさらの紹介は、何かしら不快な、不埒な、横着な、芸術家の真摯な努力の無理解、冒涜、外的な嘲笑のような印象を受けることになろう。しかし、それはそのような精神にふさわしい自己認識である。

 15. 「いまわしい話」 (1882.6)
 実に忌まわしい話である。適齢期を過ぎた地主の娘と、その弱みにからんで自堕落な飲み食いの生活をする若者の話である。この話が忌まわしいのは、堕落した生活をしているのが若者だからであろう。堕落した生活はその生活の終わりを告げるものであり、新しい精神の誕生を予感させる。しかし、若者がこのような堕落した、なんら積極的な意義のない生活をしている場合、新しい精神の予感は生まれない。顔を背けたくなるような生活である。
 「村の医者」も、文明化や発展などまったくあり得ないと思わせる停滞、対処のしようのないような愚鈍な現実の描写である。しかし、これもやはり変革される時代は来る。不動ではない。これがどのように変化するか、それは一般に予測は出来ないものであるが、それを観察するのも文学や理論にとっての関心事である。この後ロシア文学の天才たちはそれを描写していく。
 
 16. 「六月二十九日」 (18827)
 この作品は、「聖ペテロ祭」と同様の内容をより簡潔により高度に描写している。狩猟の場面はなく、馬車の中でいざこざが始まって、狩猟をせずにいがみ合いながら馬車で帰ってくる。ごく日常的な言葉をきっかけに罵倒がはじまり、それが罵倒の呼び水になる。罵倒がこれほど自然であると、彼らには悪意などなく、単に彼らの会話が罵倒だとか揚げ足取りとかで構成されているにすぎない、相手の弱点を突くことは、悪意というより単にそれが彼らの精神のレベルにおける具体的関心にすぎないということがわかる。それが当たっていてもいなくても、相手に対して打撃であれば、相手が不愉快であれば、有効な雄弁な気の効いた会話と感じられる。彼らの生活ではこの楽しみが、行ったことがなければその楽しさは理解できない、というほどの狩りの楽しみより大きな意義をもっている。

 チェーホフはこの作品に描かれた状況について次のように書いている。
  「 二日ほどしてから、オトレターヘフと、プレドポロジェンスキー、コゾエードフ、判事、群会医、それにわたしの六人は、オトレターエフの家に坐り込んで、ポーカーをたたかわせた。われわれはポーカーをやりながら、例によって噛みつき合った。
 三日ほどのち、われわれはこっぴどく罵り合ったが、五日後にはいっしょに花火をあげた…われわれは口論をし、中傷し合い、憎み合い、軽蔑し合っているが、袂をわかつことはできないのだ。読者よ、おどろいたり、笑ったりしてはいけない!オトレターエフカ村に来て、一冬一夏を暮してみれば、諸君にも事情がわかるだろう。…
 草深い田舎は、首都とはわけが違うのだ。…オトレターエフカ村では、ザリガニも魚であり、フォマーも人間であり、口論も人々の眠りをさます言葉なのである。…
 このような一般的な視点の明確な獲得によって個別の人物に対する個別的な批判意識はまったく払拭されている。だから、会話は愉快であり、活き活きしており、客観的な世界を構成している。チェーホフの主観が登場する必要がなくなっている。チェーホフはあれこれの個人を問題にしているのではなく、その現象の背後に有る田舎の生活を問題にしている。
 寒さに閉じ込められた冬の間のわだかまりは、このような対立によって解消されることはない。それにしても、一時的にしても内々の対立が明るみに出されることによる自由や解放感はある。明るみに出すことは即ち罵倒し中傷し軽蔑することであるが、それが内々に蓄積されるよりはまだしも健康的であろうし、流動的でもある。相互の不信感やわだかまりが解消される可能性などまったく見えないばかりか、明るみに出すことすらできないほどの厳しい状況もある。さらに状況が厳しい場合はそれが不信感やわだかまりであると意識されもしない。その場合は、このようなロシア式の会話は、礼儀知らずで恥知らずの、ひどい世界であると感じられ、自分たちがこのような世界にいないことが幸福と感じられる。このような会話をしないようにと説教する気になったりする。これほどひどい場合は、とても愉快とか滑稽とか喜劇とかの範疇ではない。チェーホフほどの才能をもってしても、それを喜劇にしあげることは難しいだろう。それはまだ喜劇にも到達できないほどの悲惨な停滞的生活であるから。

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