《第一巻
5》

 17.  「奥様」   18.  「生きた商品」  19.  「咲きおくれた花」


12. 「奥様」 (1882.7)
 この作品にはゴーリキーの描く世界に似た激しい、凶暴な、暗い、方向を得ない情熱が描かれている。すべての人物が非常に強い個性を持ち、独自の欲望を強力に追い求めている。その中で、自分の労働で独立的に生きようとする青年の欲望が押しつぶされ、人生を破滅させられる過程が描かれている。ステパンの価値観や自尊心は、個人としては破滅するが、こうした精神の存在は、変革的な精神の一般的な存在の具体化として大きな意義を持っている。
 ステパンには若い妻がいる。しかし、妻との幸福な生活は許されなかった。男を漁る事を道楽にしている地主の未亡人はステパンを情夫にしようとしている。ステパンの父も兄も、彼を餌にして未亡人から甘い汁を吸おうとして、未亡人の邸に行く事を嫌うステパンを笞で殴った。ステパンはしたがうしかなかったが、したがいながらも復讐を誓った。未亡人に、父や兄に何一つやらないことを条件に情夫になった。
 没落しつつある、すでに遊びにしか興味を持たない未亡人の特徴も非常に厳しく描かれている。彼女は自分の欲望だけを忠実に、貪欲に、恥知らずに追求している。そういう行動においてすべてが個性的であり徹底している。ステパンが笞で強制された自分の運命に対して絶望的な熱情に身を任せると、その情熱を未亡人はアバンチュールとして楽しんでいる。
 ステパンの絶望的な行動は父や兄にはそれまでに増して凶暴な報復で酬いられた。父親はステパンの妻マリアを家から叩きだした。身寄りのないマリアが教会のかげで泣いていると聞いて、ステパンは翌朝邸を出た。そして教会の近くの居酒屋で一騒動になった。ステパンは自分が未亡人の慰み物になっていることに屈辱を感じている。彼はそうした隷属状態をもっとも嫌う人間であったが、笞の力で追いやられた。しかし、それを強制した兄も、酒場の連中も、この点を嘲笑した。情夫になっていながら、父親にも兄にも分け前を与えず、自分だけで地主の贅沢を楽しんでいる、と彼等は嘲笑した。兄と殴り合いをしたあげく、村人に追われ、殺されると感じたテスパンは最愛のマリアに会った。彼はマリアにこの村から逃げようと言った。しかし、マリアも、ステパンが自分を裏切って地主未亡人の情婦になり、自分をさんざん苦しめたと罵った。
 『言うわよ!乱暴する気?いいわよ……ぶって……身寄りのないあたしをぶつといいわ。どうせ終ったんだもの……やさしい言葉なんか期待すると思う?せいぜい殴るといいわ……殴り殺してよ、悪党!いったいあたしに何の用があるの?あんたにはお邸の奥様がいるでしょ……お金持ちで……きれいなのが……あたしは賤民だけど、向うは貴族だもの……どうしてぶたないのさ、悪党?』

 マリアは一度ステパンを連れ戻しに行ったことがある。そのとき、ステパンは淋しさと腹立ちをまぎらすために夜の川岸をうろついていた。一緒に帰ろうというマリアを、それができないステパンは悲しみのあま殴りつけた。ステパンに見捨てられ、家から追い出されたマリアが酔っぱらったステパンを罵るのも絶望のあまりの叫びである。マリアの言葉はステパンの急所をついた。マリアを愛しており、情夫になることを心底嫌っていたステパンにとって、自分が地主のものになったと思われることは耐えがたいことであった。マリアにも罵られたステパンにもすでに残されたものは何もなかった。彼はマリアを殴りつけ、マリアは死んだ。二人とも絶望の淵に追いやられ、愛情深い者らしく傷つけあうことになった。
 父親も兄も村人も、ステパンがなぜマリアを殺したか理解できなかった。彼等には、地主の情夫になって贅沢をすることを絶望的に耐えているステパンを理解できなかった。地主の未亡人は男好きのするタイプであったし、未亡人から金を引き出せればマリアを含めた家族全員の利益であると誰もが考えていたからである。マリアとの生活を引き裂かれ、隷属的な生活に耐えがたい屈辱を感じているとは誰も思わなかった。

 ステパンにもマリアにも、金のために自分の独立を売り払って安楽な生活に満足することはできない精神がすでに生まれている。マリアやテスパンには、彼ら自身にも理解できないあたらしい情熱が生まれている。ステパンにとっては地主夫人の情夫になって利益を得ることは罪であり、自分の価値の否定であり、それとはまったく別の方法で生きたかった。情夫になることを笞で強制する父親のやり方に我慢できなかった。強制される生き方を拒否した結果は破滅であった。ステパンは孤立しており、彼の心情を理解するものは一人もいなかった。しかし、ステパンの心情はわからなかったにしても、これまでの習慣や価値観を否定するこの不可解な破滅は村人になにか恐ろしい印象を与えた。その精神の正体が何であるから彼らにも理解できなかったが、何かある強烈な、恐ろしい力を秘めていることはあきらかである。情夫になることを拒否することを命に変えて示した彼の精神は他の精神に痕跡を残し、うけつがれる。凶暴な連中に対してもやはり痕跡を残さずにはいない。

 未亡人は何も理解せず、感じなかった。
  「事件は奥様に報告された。奥様は叫び声をあげて、気つけ薬の壜をつかんだが、気を失いはしなかった。
  『おそろしい人たちね!』彼女はつぶやいた。『まあ、何て人間だろう!人でなしね!いいわ!あたし、思い知らせてやる!みんなも今こそ、あたしがどういう人間か、わかるだろう!』
  ルジェブェーツキーが気持ちをやわらげにあらわれた。彼は奥様をなぐさめ、気まぐれな奥様によってステパンのために取り上げられた自分の地位を、また取り戻した。身入りの多い、有利な、彼に打ってつけの地位だった。年に十遍くらい彼はこの地位から追い払われ、十遍くらい退職金をもらっていた。少なからぬ収入だった。」

 ステパンの破滅は、未亡人の理解や関心の外にある出来事である。しかし、ステパンの破滅は、彼女に依存して利益を得ることを拒否した結果である。ステパンの破滅は死を代償にしても彼女に依存せず別の生き方を求める精神が現れたことであり、彼女の力がステパンの心の内で否定されたことである。ステパンの父親はすでに未亡人やルジェブェーツキーに対する尊敬も恐れももたず、ステパンを情夫にし、ルジェブェーツキーを斧で脅しさえして、自分の利益を得ようとしている。ステパンとマリアの運命はそのような環境のなかで、そのような精神をも越えようとした精神とする破滅した。未亡人はまだ自分の絶対的な権力を信じている。しかし、不敵なマクシムの言動をも越えた独立的精神の誕生をステパンの破滅は示しており、未亡人にはルジェブェーツキーのような従僕しか残されていない。
 ロシアの地主の堕落の下で、多様で強力な個性の対立の中でこのような力強い、共謀な支配に対する、命をかけた抵抗の精神、価値観が生まれている。圧迫、奴隷的隷従への強制とそれに対する抵抗の両者とも強力な精神を持っている。露骨で野蛮で凶暴な精神の中で生れる、それに抵抗しようとする新しい精神は非常に魅力的で、チェーホフの力を感じさせる。
  18. 「生きた商品」 (1882.8)
 これは不自然に構成されたという印象の強い作品である。金のために妻を売る男と金で他人の妻を買う男と、金で自分の運命を売る女が、この三人が、金や領地を媒介にしながら、三人だけの狭い世界で、多額の金や領地に力がないかのように、平凡な女の方が金や領地の社会的威力よりも大きいかのように、この堕落した人間たちが金の力より大きな情熱を持ちうるかのように描いているのは、いかにそれが堕落した弱い精神とされていても自然とは思えない。グロホーリスキイとリーザの最初の会話からすでに違和感がある。妻を売った男が、妻と情夫がいるクリミアまで追いかけて来る段になると不自然さが際立ってくる。彼らの生活について、『醜悪な生活だ』と書いているし、最後で金で妻を買った男の性格の弱さが念を押されているが、それではこの作品の不自然さは回復できない。
 10万とかいう単位の金が、彼等の狭い精神と人間関係の形式を変化させるに過ぎない役割を果たしているのが不自然である。それだけの大金は彼等の三人だけの狭い生活を破壊するだけの、多様な関係を可能にするための社会的な力を持っている。大金が彼等の関係をかえることなく、最後まで三人だけの狭い世界の内部で浪費されている。ただ、それが実に醜悪であることは、ばかげた生活に耐えている生活の馬鹿らしさはよくわかる。三人で財産と人生を単に浪費した話である。

 
 19. 「咲きおくれた花」 (1882.10)
 わずかの使用人が残るだけの、破産の瀬戸際にある公爵家では、当然のことながら身を持ち崩した息子がいる。しかし、侯爵夫人と侯爵令嬢マルーシャはこの堕落しきったエゴールシカをこころから愛し、彼に希望を託している。彼女たちはエゴールシカの放蕩が、失恋の苦しみのためだと解釈していた。どんな愚かしい行動にも理由を見つけだし、彼を聡明で誠実で理想的な男だと信じていた。すでに確実な没落の道を転がり落ちている公爵家の誰も現実の本当の姿は見たくなかったし、見えなくなっていた。すでに未来に希望のない状態では、没落を代表するこの愚かな男に幻想を持つ必要があり、彼女達の愛情は、この必要に駆られた、情熱と呼ぶにふさわしいものであった。エゴールシカが救いがたく堕落しており、侯爵夫人も令嬢も彼を愛し、彼をゆるし、その愛情によって自分の没落の道を確実に歩んでいる事が非常にうまく描かれている。彼女たちのエゴールシカに対する愛情は純粋であるが、その実体をまったく理解できず、没落の必然に規定されたこころからの、しかし意識することのない幻想であった。
 公爵家の没落は時代の必然であり、彼等の個人的努力ではどうにもならなくなっていた。すでにあたらしい時代が始まっており、朽ち果てつつある運命を越えて新しい人間が生まれていた。その一人であるトポルコフの父親はかつて公爵の農奴であり、侍僕であり、トポルコフ自身も幼いころには公爵家で雑用をしていた。しかし、今は医者になって邸宅に住み、尊敬され、二頭立ての馬車を乗り回すほどの金持ちになっている。
  「髪は絹のように柔かく、美しいが、惜しむらくは、短く刈りあげてある。もしトポルコフが自分の容貌に関心を持つのなら、この髪を刈りあげたりせずに、襟の辺まで巻きつかせていただろう。顔は美しくはあるが、好もしいと見るにはあまりにも表情がなさすぎる。少しの動きも見せぬ、無表情な、きまじめなその顔は、終日の辛い仕事による極度の疲労以外に、何一つあらわれていなかった。」

注によると、「ナマ原稿では、たとえばトポルコフが美しい髪を肩までのばしていたことになっているが、のち現在のテキストのように、『短く刈りあげた』髪に改められた」とある。この変更はトポルコフの真面目さ、後の精神の変化を自然にしている。

 トポルコフは彼の身分にもかかわらず、また彼の冷淡な対応にもかかわらず、公爵家で信頼され、尊敬された。特にマルーシャには特別の印象を与えた。トポルコフに会ったために、エゴールシカに幻滅するようになったほどであった。それは、エゴールシカの放蕩と破廉恥が一層ひどくなり、希望や幻想を残らず破壊しつつあるためでもあった。
  「彼女の想像の中に、兄の顔と並んで、兄の友人たちや、客たち、慰め役の老婆たち、求婚者たちの顔が、さらにはまた、公爵未亡人その人の、悲しみにぼんやりとした泣き顔などが、ちらついた−と、淋しさがマルーシャの哀れな心をしめつけるのだった。これらの身近な、愛する、しかし下らぬ人間たちのわきにいるのは、あまりにも俗悪で、平凡で、愚鈍であり、あまりにも愚かしく、わびしく、ものういことだった。!
  淋しさが心をしめつけはしたが、ある熱烈な、異端者的な欲求に、息のつまる思いを味わいもした……時には逃れ去りたくてたまらなくなることもあった。しかし、どこへ?もちろん、貧しさにおののきもせず、放蕩もせず、日がな一日愚かな老婆や飲んだくれのバカどもを相手にしゃべっていることもなくひたすら働いているような人々の住んでいるところへだ……そして、マリアの想像の中には、釘のように突き出ている、一つの端正な理知的な顔があった。その顔には彼女は、知性をも、おびただしい学識をも、倦怠をも読み取るのだった。…… 
 公爵夫人もエゴールシカもトポルコフを忘れたころ、トポルコフの花嫁を捜して仲人婆さんがやって来た。しかし、そこにはマルーシャが望んでいた愛とかロマンスはなかった。トポルコフは大きな家を買うために六万ルーブルの持参金が必要であっただけで相手は誰でもよかった。
 マルーシャは、ここでも現実のありのままを認める事はできなかった。彼女は自分の身分を忘れ「あの農奴のあとについて世界の涯までも行こう!」と決意した。仲人婆さんが六万ルーブルの持参金を求めていると聞いても、「彼のような人が、そんなことを言うはずないわ。」と考えた。三カ月たってもトポルコフが来ないと「お母さまがあの仲人婆さんに、あんな失礼な態度をとったからだわ。今頃あの人、あたしに愛されるはずがないと思っているんだわ……」と考えた。トポルコフが商家の娘と結婚したことを知っても、「あの人は面当てにそのバカ娘と結婚するんだわ。ああ、あたしたち、あの人の縁談にあんな失礼な態度をとったりして、よくなかったわ!彼みたいな人は、侮辱を忘れないのよ!」と考えた。
 マルーシャがいかに現実を正しく認識できず、つねに希望的にのみ現実を解釈していたにせよ、彼女は人を信頼し、愛することにおいて真摯であり、精神の全力を傾けている。それが非現実的であるが故に報われる事はないにしても、やはり愛情深く生きているのは魅力的であり、感動的である。しかし、そのマルーシャもトポルコフを失うと希望を失い、ふさぎの虫にとりつかれた。公爵家の邸は銀行によって売り払われ、彼らはつつましやかな新居に移った。公爵夫人は零落に耐えきれずに死んだ。エゴールシカは、この家に酒飲みの愚かな女を連れ込み、わがままを募らせ一層堕落していた。

 絶望的な生活でマルーシャの唯一の希望はトポルコフであった。彼女は「病気を癒しにいく」と自分を偽ってトポルコフの診療所に行った。しかし、粉薬を貰っただけで話もできなかったし、トポルコフは彼女を思い出しはしたが、覚えてはいなかった。エゴールシカの堕落と生活の破綻は一層ひどくなった。マルーシャは冬にまたトポルコフの診察を受けなければならなかった。この場面は印象的である。
 診察室に入って行った時、彼は相変らず美しい、威厳のある姿で肘掛椅子に腰かけていた……この時は顔がひどく疲れていた……眠らせてもらえぬ人間のように、しきりにまばたきをしていた。彼はマルーシャを見ようともせず、顎で真向いの椅子を示した。彼女は腰をおろした。
 「顔に悲しみをたたえているわ。」彼を見つめながら、マルーシャは思った。『きっと、商家の娘といっしょになったりして、とても不幸なんだわ!』
 まだ現実の姿に認識は届かない。しかし、多くの代価を払って現実に近づきつつある。今度は診察に三十分もかけてくれた。そしてサマラに転地療養する必要があると言った。彼女に転地する金などない。それにそこにはトポルコフもいない。
  「そんなサマラなど、まっぴらだ!彼女は歩きながら、苛立ち、同時に勝ち誇った気持ちになっていた。彼が病気と認めてくれた以上、これからは遠慮なしに、好きなだけ、たとい毎週でもたずねて行けるのだ!彼の診察室は実にすばらしく、実に居心地がよい!特に、診察室の奥にある長椅子は素敵だ。彼女はあの長椅子に彼とならんで腰かけ、よもやまの話をかわし、愚痴をこぼし、患者からあまり高くとらぬよう彼に忠告してやりたかった。もちろん、金持ちからは高くとってもかまわないし、とるべきでもあるが、貧しい患者には値引きをしてやらなければいけない。
 『あの人は生活を知らないから、金持ちと貧乏人との区別ができないんだわ。』マルーシャは思った。『あたしが教えてあげられればな!』」
 なに一つ事実をありのままに受け取ることのできなかったマルーシャが、ここでは、公爵家などを圧倒しつつあるあたらしい勢力であるトポルコフが「生活を知らない」といい、自分がおしえてあげられればな、と言っている。常に愛情深く、肯定的にのみ人をも状況をも理解しているマルーシャの精神がが厳しい生活の成果として現実的認識を獲得しつつある。
 「たとい毎週でも」といっても、マルーシャにはそんな金はなかった。春になってマルーシャの病状は重くなり、年老いた従僕に五ルーブル借りてトポルコフの診察をうけに行った。
 翌朝マルーシャは、いちばんいい服を着て、髪にバラ色のリボンを飾りトポルコフのところに行った。家を出る前に、彼女は十遍も鏡に姿を映してみた。
 エゴールシカの放蕩に苦しめられる代償として彼女はこうした肯定的精神を持ち続けている。しかし、彼女はすでに結核の末期であった。ドクトルは彼女を診察しても、ただ医者としてであって、マルーシャの気持ちには興味を持たなかった。
 「彼女の眼から大粒の涙がどっとこぼれ、手が力なく椅子の両側にたれた。
 「愛しています、先生!」彼女はささやいた。
 そして、心の中のはげしい火事の結果たる真赤な照り返しが、彼女の顔や頸にひろがった。

 「彼は彼女の前に立ち、その眼にこもる愛情と哀願とを読みとって、おそろしい窮地に立たされた自己を感じていた。胸の中では心臓が高鳴り、頭の中には、かつて知らぬ、馴染みのない何かがかたちづくられていた……」
 
 トポルコフは厳しい努力に満ちた自分の過去を振り返った。
  「遂に彼は勝利をおさめ、みずからの額で人生へのトンネルを穿ち、そのトンネルを通りぬけた……そして、どうだろう?現在の彼は自分の仕事に精通し、大いに本を読み、大いに働き、昼も夜も働く覚悟でいる……
 トポルコフは、デスクの上に放りだされている十ルーブルや五ルーブルの紙幣を横目で眺め、今しがたそれらの金を受けとった上流夫人たちを思い出して、赤くなった……はたして自分は、五ルーブル紙幣や上流夫人たちのためだけに、あの困難な道を歩きぬいてきたのだろうか?そう、そのためだけなのだ……
 これらの思い出に圧しつけられて、彼の堂々とした姿が急に痩せ細り、誇りに充ちた威厳は消え去り、艶のいい顔に皺が刻まれた。」
 トポルコフには、今の贅沢な生活がおそろしい泥濘に思われた。翌日トポルコフはマルーシャと南フランスに発った。マルーシャは、南フランスで三日と暮らさずに死んだ。

 知的で勤勉な、マルーシャの憧れであったトポルコフも、実は現実の自分の姿を、あるいは自分の運命の意味を理解していなかった。「あの人は生活を知らないから」という言葉も「あたしが教えてあげられればな!」という言葉も正しかった。トポルコフは、破滅のなかて愛情だけをささえに生きているマルーシャにうたれた。彼は愛情とか信頼関係とかの生じる余地のない上流婦人の支持を受ける事で金持ちになった。金持ちになる事が彼のすべての目的であり生き甲斐であった。しかし、彼も厳しい勤労の中で疲れて来た。すでに目的を実現し、年齢を重ねた結果、金をためるだけの際限のない努力に充実より疲労を感じる年齢になっていた。その時偶然マルーシャの愛情に出会い。これまでの生活を虚しいと感じる事になった。
 トポルコフとマルーシャの関係は「咲きおくれた花」として、もう少し早く彼らが理解しあえていれば、という感情を引き起こす。しかし、同時に彼らの運命を冷静に考察すれば、それは決して遅れていないこと、現実には無駄な時間はないことをも思い知らせてくれる。
 トポルコフとマーシャが深い反省と感情を獲得したのは厳しい人生の成果としてである。マルーシャのトポルコフに対する愛情は、彼女を支えるすべてであり、それは彼女に絶望や、惨めさ等々をも思い知らせるものであり、それだけ一層切実で深刻であった。彼女は破滅的な人生を代償にしてのみトポルコフの感情を動かすほどの愛情を得たのであり、トポルコフも労苦にみちた、平安のない生活のなかでその愛情を感じ取ることができた。こうした感情はもともと非常に獲得しがたい、貴重なものであり、人生全体を掛けた労苦によってしか得られない。彼らの得たものは彼らが失ったものと同等である。だから遅れるほど関係は深くなり、時間を惜しみたくなるが、時間を惜しみたくなるほどの関係が形成されるにはまたそれだけの時間が必要だったのである。
 現実にはこれほどの犠牲を払ったとしても、この二人のような関係は形成されるものではない。マルーシャとトポルコフの精神の一つの特質を拡大した観念的な人間関係と言える。貴族の没落も金を力とする新しい階級もその精神を強固な必然によって規定されており、この二人が共有する優れた精神が一致することを妨げる精神が彼等の内部に多く形成されるし、彼等の関係をさまたげる特有の人間関係が後半に形成されるために、このような純粋な感動的な感情が形成されにくい。だから、マルーシャとトポルコフのそれぞれの感情と二人の関係の結末が如何に感動的であろうと、やはり限定的であり、他方でそれを意識する冷静な感情を持たざるを得ない。

 トポルコフはこれまで彼の唯一の価値であった金に執着しなくなった。執着できなくなった。彼は稼いだ金をエゴールシカが堕落した生活を続けるのに任せている。それは彼がマーシャの面影を顎に残しているためであり、第一に彼が金に意義を見いださなくなったからである。エゴールシカはこれまでどうりの堕落した生活に大変満足している。

 トポルコフはエゴールシカの堕落に対して寛大である。彼の満足はあまりにも惨めである。トポルコフは金に対する執着を失った結果、ため込む事をやめ、エゴールシカの浪費に任せている。エゴールシカが反省する可能性はなく、その彼を無意味に苦しめる必要はない。トポルコフはエゴールシカではなく、自分自身を批判の対象にしはじめている。トポルコフのこれまでの生活は厳しい労働の連続であった。これまでは、公爵家の没落やその代表であるエゴールシカの堕落は、彼の勤勉な人生を肯定するための対立物でありえた。トポルコフの勤勉と真摯と知力はなまけ者ばかりに囲まれていたマルーシャの愛情を獲得するに十分であった。しかし、トポルコフは、この勤勉さが上流婦人やエゴールシカに対する優位ではあっても、マルーシャの苦悩に対しては無力であることを理解した。これまでの勤勉は金のためだけであった。彼は人生をすり減らしてきた代償として、地位と大きな家と信頼とを得たが、すべての目的は金であり、人間関係はその為の手段にすぎなかった。彼は成功した生活の中ではマルーシャとの間に生じた関係や感情を経験することはできなかった。

 トポルコフの得た「おそろしい窮地」は読者にも、またチェーホフ自身にも高度の課題を突きつけている。これまでに描かれてきた堕落した地主の共通した特徴は、労働をせずにただ消費的に生きることであった。彼らに対する明らかな優位は勤勉であった。かつて農奴であったトポルコフは邸や馬車や豪華な家具を彼の勤勉によって得たのでありり、彼の価値と力量を証明するものであった。労働を知らない地主たちが没落していることもトポルコフの正当性を証明しているように思えた。実際彼らは堕落しきっている。しかし、だからこそ彼らに対する優位の意味は失われる。労働を知らない無能な人間に対する優位にどんな意義があるだろうか。堕落した地主によって肯定されるような人生に大して価値があるものではない。彼らはすでに価値を失った、時代に取り残された階級である。トポルコフのこれまでの生活と精神は彼らとの関係で、彼らとの対立で意義を持っており、その生活も彼らに依存している。それは没落の苦悩を経験している若いマルーシャの前では誇るべき何物もない、無力で哀れむべき生活である。
 このような自己認識は、トポルコフの形象によって描写されたチェーホフの思想である。世俗的成功の虚しさを感じる瞬間はどのような成功にもつきものであろう。その虚しさを拡大し、本質的な問題とした場合、つまりトポルコフの勤勉による世俗的な成功に意義がないとしたら、人生の意味はどこにあるのか。地主の堕落もトポルコフの優位も分かりやすい事実である。しかし、この対立した両者のいずれにも満足できないとしたら、現実にはどんな価値ある人生がありうるのか。これがこれからチェーホフが取り組まねばならない課題である。それは理想とか人類愛とかの抽象的なお題目ではありえない。地主の生活やトポルコフの勤勉は具体的に理解されており、その対立物も現実の中で具体的な発見されねばならない。それは、没落しつつある階級のなかにではなく、したがって彼らに対する批判の中にではなく、彼らを越えて誕生しつつあるトポルコフの精神のなかに、その自己をさらに越えるものとして具体的に発見されねばならない。
 没落するマルーシャに苦悩と積極的な精神を認めていること、エゴールシカの堕落に対しても寛大であることは、トポルコフがエゴールシカやマルーシャの否定的特徴との関係においてではなく、彼らを肯定的に理解し、自己自身において反省していることを示している。公爵婦人やエゴールシカや上流婦人に対する批判を越えた、自己自身に対する批判的な精神が誕生している。チェーホフがここで非常に高度の課題を獲得していることがわかる。(第一巻 終わり)

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