第二巻の 1

 1. 「首になった」 2.「二つのスキャンダル」 3. 「牧歌的な、いや、どうして!」 4. 「こらえきれずにペテン師に」  5. 「ゆがんだ鏡」  6. 「告白」 7.「唯一の手段」 8. 「催眠術の会」、「妻は出ていった」 9. 「釘の上に」 10. 「ぐず」 11. 「勝利者の凱歌」 12.「『謎の性格」


 第一巻の作品はチェーホフの古典文学に対する素養を感じさせるものであった。軽いユーモア作家が流行した80年代において、チェーホフは伝統的な高度の芸術性を受け継いだ独自のユーモア作家として登場してきた。チェーホフのユーモアの独特の鋭さと独創性は現実の高度の反映能力にある。
 しかし古典的な教養が出発点となることは、他の作家にたいする優位ではあってもチェーホフ自身においては克服されねばならない弱点である。
 ロシアで「たそがれの時代」と呼ばれる1980年代は、われわれがいままさに経験している思想的に無風の時代であったが、積極的に言えば従来の批判意識が現実と一致できなくなり、新しい内容によって蘇らねばならない時代であった。チェーホフの古典的素養は一度現実との接触によって溶解されねばならない。第一巻の作品は、それ自体興味深く、豊かな才能を証明しているが、天才としての尺度からいえばいまだ抽象的であり、現実の内奥に迫っているとは言いがたい。第一巻で描写された教養的紋切り型としての一般性は、読者にとっては知識の範囲内にあり、とらえやすいものである。しかし、第二巻は違っている。チェーホフのような才能ある作家は、紋切り型の形式的作品を多くは書かないようである。
 第二巻では、現象的にはチェーホフは金のために書きなぐっている。このような事情の基に、古典的な芸術的形式から外れないようにという用心深さや思想的臆病に捕らわれない大胆さが現れている。第一巻に見られたチェーホフの古典的な素養は、内的な力としてのみ維持され、新たな現実との接触によって、自己の古い姿を解体した後に、形成された新たな現実と一致するより高度の一般性を獲得する。80年代という新しい現実的素材のなかで古典的精神は現実から生まれた活きた思想として自己を再生発展させ、チェーホフ的一般性として蘇る。これが精神の発展過程である。精神という不死鳥が我が身を焼き、灰にする時代である「たそがれの時代」こそは新たな精神の誕生の時代でもある。
 新しい精神の内容とは、基本的には商品経済の発展の反映である。ゴーゴリやプーシキンが描いた、地主と農奴が基本的な対立を構成する社会は61年の農奴解放を契機に崩壊の速度を早め、この時代には、それがいかに広範に残存していても、その崩壊は明らかであり、問題は崩壊しつつある眼前の過程をどのように認識するかであった。この課題の前では、現実社会に自己の位置を見いだせないオブローモフ的精神を存在価値を持つことができなくなっている。
 商品経済の発展にともなって新たに形成されつつある社会的な人間関係とそれを反映した精神は非常に多様で複雑になり、個々の諸現象が社会全体においてどのような意義をもっているのかを理解することは非常に困難になる。特に難しいのは商品経済の発展にともなう諸現象を肯定的に評価することである。商品経済の発展が古い諸関係を破壊することにともなう諸現象のなかに発展の契機を見いだすことである。チェーホフが、現実の諸現象を嘆いたり悲しんだり絶望したりすることに満足するほど軟弱でなく、常に現実を肯定的に捕らえるリアリストであることは第一巻の作品からも明らかである。チェーホフは彼のおかれた独自の立場においてこの課題を果たしていくであろう。

 第二巻はまだ新しい現実を表面的に捕らえているだけである。チェーホフの作品の発展過程では、第一巻に見られた古い一般性の破壊という意義をもっており、チェーホフがロシアにおける資本主義の発展をいかに捕らえるか、あるいは一般に作家が芸術的な活動によって複雑な現実にどのように接近していくかを理解する契機ともなるであろうが、作品自体としては高度に仕上げられてはおらず、つまり新たな一般性はまだ獲得されておらず、個々の作品について、それほど深く論ずべき内容はない。気の効いた文章とかひらめきとか機知とかは第一巻に引き続いて見られるが、それは特別に論ずるまでもないであろう。

 『首になった』(1882.11)

 仕事を終えて、夕飯をすませて、幸福な眠りに就こうとしたときに、隣の部屋からどんちゃん騒ぎが聞こえてきた。何度も怒鳴ったが騒ぎがやまないので、怒鳴り込んだら、そこに彼の勤務先の銀行の支配人がいた。で、彼は破滅した。
 こうした単純な事件で破滅するところがいかにもロシア的である。しかし、チェーホフはそれを現実として単純に描いているのであって、破滅に対する感傷や非難の言葉はない。描写はいまだ断片的、表面的であるが、このことが、現実に対する端的な対処が芸術家的精神の力強さを示している。こうした現実に対して、感傷的な感想や非難を与えることが現実に精神的内容を与えて描写することだとする感覚を持たない所がチェーホフらしい簡潔さであり、それは現実にたいする厳しい観察を意味している。

 『二つのスキャンダル

 『男爵』もそうであるが、瑣末な心理がストーリーの転回点になっている。偶然的な心理が運命を決定する非現実性が滑稽なデフォルメである。実際の情熱には、このような不自然さとか作意性はない。
 普段はおとなしく礼儀正しい指揮者が、一度舞台に立つと、芸術家らしい情熱で少女を怒鳴り散らしたり、自分の長い髪を引っ掴んだり、あるいは幸福に輝いたり微笑んだり、等々の激しい感情が戯画化して描かれている。才能のある少女が、指揮者に恋をしたばっかりに、指揮者に見とれていて歌えないとか、それを契機に二人の運命が引き裂かれたり、劇的な再開を果たすなどというのは、甘い空想である。こうした滑稽な描き方やロマン的な特徴が厭味を持たないのは、やはりチェーホフな真面目さとか真剣さが反映しているからであろう。チェーホフの真剣さとか情熱は非常に深いから、それを正面から直接的にとりあげるのではなく、まだこのような滑稽な形式でのみ自分の精神を捕らえている段階にあるとも言える。

 『牧歌的な、いや、どうして!』

 年老いた伯父さんに対する態度が、財産によって単純に変わる、つまり優しかった甥とその許嫁が、伯父さんが破産したとたんに冷たく無関心になるという、よく知られた話である。チェーホフはこの種の社会的な諸関係を反映した心理の描写を好んでいる。しかし、個別的な個人の心理をこのような社会的事件との関係において描写することは非常に難しい。社会的な事件と、その反映としての心理はこの作品では直接的で単純に結び付けられている。伯父の破産との関係がより個性的に具体的に観察され、ロシアに特徴的であり、さらにこの個別の人物に特徴的であると同時に一般的であるようなな媒介項が発見され描写されねば真のリアリティは獲得されない。こんなこと自体はどこの世界でも知られていることであり、現実の表面的な観察にすぎないからである。
 しかし、誰でも知っている知識を作品の形式で単純に楽しませてくれる作品である。甥と許嫁の伯父さんに対する愛情も嘘ではなく、心の奥底に到達した感情である。つまり、本当の奥深い嘘、偽善である。伯父さん自身に対する愛情ではないが、金を持っている伯父さんにたいしては彼等の精神としては真底からの愛情である。それに単純である。日本のように、財産が銀行にではなく、マイホームの形で残っている場合にはもっと複雑で陰険な形をとる。それに比べれば彼等の心変わりは滑稽でほほえましいくらいである。

 『こらえきれずにペテン師に』

 料理と酒が早く欲しくて時計を進めてしまうペテンと、料理が間に合いそうもないので時計を遅らせてしまう、というペテン話。単純であるが、現象は活き活きと描かれている。このような手並みは第一巻にも見られた。こうしたなんでもない日常的な生活における情熱とか力とかを感じ取る力量がチェーホフ深く力強い観察力や表現力を示している。

 『ゆがんだ鏡』(1883.1)

 解題には、「これはポオを思わせる好短編で、人生の表面の調和の底に不調和の要素を見るチェーホフの鋭い眼を象徴している。」と書いている。小説を象徴的に読む場合にはこのような意義が生じるのであろう。鏡が歪んでいたために、自分を美人だと思い込むという単純な話である。次の、『仮装した人々』という作品も象徴的に読めば面白くなるのであろうが、内容は大したものではなく、常識的で誰もが知っている程度のものである。小説を象徴的に読むなどというのは、鶴や亀を描いた掛け軸を有り難がるのと同じで、外的な意味付けである。チェーホフは書くことを単純に楽しんでいるだけだから、それに深い意味を見いだすのは、チェーホフが深い現実観察を描写している場合にそれを見逃すのと同等の間違いである。

 『告白』

 会計係になった途端に誰もが金を目当てに近づいてくること、会計検査で彼が破滅するとともに去っていくこと、それに伴う心理が細かに描かれている。会社の金を使い込むことができる地位についた途端に自分の状態にも、まわりの人間にも、好意を感じるようになるが、それは会社の金を使い込むことだから当然破滅がまっている。離れているときも近づいているときも人間関係には最悪である。そうした状況が滑稽にうまく描かれているものの心理の内容は平凡である。金による人間の精神の規定の奥深さはこの程度のものではない。チェーホフの描写のうまさは、金と関わる人間の心理を細かに活き活きと描くことであるが、金の持つ社会的な力そのものを深く観察することにおいて具体的で活き活きした描写を到達しているのではない。
 心理が財産に規定されることは誰もが知っている。そう思わないのは、僅かの財産のために人生を費やしてきて、誰にとってもそれが唯一の価値、支えだと思って活きている場合だけである。このような理解はあまりにレベルの低い特殊な誤解であり、チェーホフが描いた内容は周知の事実と言ってもよい。それを芸術的に活き活きと描くことに面白さはあるが、それはむしろ技術的であって芸術の内容的レベルの高さを意味するのではない。むろん、こんなことは後のチェーホフと比較してのみいえることである。

 『唯一の手段』(1883.1)

 会社の会計係が横領をして困る。どんなにおとなしそうな正直そうな人物に頼んでも会計係になったとたんに人格が変わってしまう。会計係に品性と道徳を求めることは出来ない。それで、最後の手段として、俸給を三倍にあげ、彼のやりたいことを会社の会計でやらせることにした。その結果、横領はごく少なくなった。会社のかかりは大きいが泥棒をされるよりはまだましである。
 これもまだ芸術的ではなく、単純な理屈が勝っている。単純な理屈を現象的に説明
したもので、技術的な訓練の意味しか持たない。こうしたちょっとしたひねりがこの時期には多い。

 『催眠術の会』、 『妻は出ていった』

 結末に軽い逆転がある。しかし、そこに主な価値がありそれだけのことであるから紹介しないほうがいいだろう。ネタをあかすと面白さがなくなってしまう。単純な謎解きの中に、賄賂とか、横領の描写があるがそれは描写の対象ではない。このような逆転の構成や描写にも才能がいるし、作者がそれを面白がっているにしても、小さな思いつきに属する。

 『釘の上に』(1883.2)

 ロシア的な出世に伴う人間関係の堕落の描写である。これはまだ古い形式に属する作品であるが、ここにもチェーホフの冷静な現実感覚が見られる。感傷とか非難ではなく、現実の観察と描写が彼の課題である。
 小役人が名の日を祝うために仲間を連れて帰ると、釘の上に高官の帽子が掛かっている。時間をつぶして帰ってくると、また別の帽子が掛かっている。この帽子の意義は次のようなものである。
 「なんなひどい男にこんな美しい奥さんがおいでとは!」と嗄れた声が客間から聞こえた。
 「馬鹿者には福があると申しますわ、閣下!」と女の声がそれに和した。
 「出よう!」とストルチコーフが呻くように言った。
 ふたたび居酒屋へ行った。今度はビールを頼んだ。
 「プロカチーロフは勢力家だぜ!」と言って、一行はストルチコーフを慰めはじめた。「あの人が君の細君のところに一時間いれば、その代りに君には・・十年間の幸福が約束されるのさ。幸運の女神だよ、君!何を悲しむことがあるのさ?悲しむ必要なんかあるものか。」
 「それぐらいのことは、君たちに言われなくたって知っているさ。そんなことじゃないんだ!僕は腹が空いているのが癪なんだ!」
 料理は台無しになってしまった。チェーホフは最後に次のように書いている。
  「ストルチコーフの出世が何もかも台無しにしてしまったのである!それでもみんなは、うまそうに食べた。」
 この種の現実は度々描かれている。ここではこの時期の特徴として端的な事実として描かれている。この事実に対する非難も感傷もない。このような現実に対して非難や感傷を持ち込むのは、客観的な現実のリアルな描写を回避して偏狭な主観の世界に描写の対象を移すことである。作家の主体性は、このような端的な事実の描写をさらに発展させ、このような事実の背後にさらにどのような諸関係や心理が潜んでいるかを観察し描写することである。この種の作品が物足りなさを感じさせるのは、それが事実として、だからどうだというのだ、という感想が生じるからである。その回答は、だから、人間は堕落しがちなものだとかしてはならない等々のこの現象そのものに付着した感想や教訓ではなく、この現象が現実には真実にはどのようなものであるかを明らかにすることである。そういう課題を持ちこたえるには精神力が必要で、こうした現実にはどうしても嘆きとか非難とかを書き加えたくなる。それが自分の精神であり現実に対する評価であると考えたくなる。しかし、チェーホフはそれをしない。

 『床屋で』

 この作品にはゴーゴリ的な伝統を受け継いだ、いかにもロシア的な、ロシアの厳しい生活が生み出した味わい深いユーモアが描かれている。「ちっぽけな、狭い、きたならしい理髪店」があって、そこに店主の名付け親がやって来て、床屋らしい、といってもロシアだけの床屋の会話がかわされている。
  「で、おれは腹のなかでこう思ったものさ。ーマカールのところへ行こう。他の奴のところへ行くよりは、身内のところへ行ったほうがいい。丁寧にやってくれるだろうし、金も取るまい。少し遠いには遠いが、それぐらい何だ?散歩だと思やいい。」
 これが話の要点である。その他の無駄話も彼らの個性や状況にふさわしい落ちついた描写である。店主はついでのように「アンナ・エラストーブナもお変りありませんか?」と聞いた。すると名付け親は、嫁にやることに話が決まったと、これも世間話のついでのように答えた。ところがマカールにとって事態は深刻であった。
  「そいつは駄目です、エラスト・イワーヌイチ!…わたしは…私は恋をしてて、心で申込みをしていたのです。…おばさんも約束してくれたのです。わたしはいつもあなたを尊敬して来ました、生みの親父と同じように。…いつだってあなたの頭をただで刈っています。あなたはいつもわたしに借金があるんです。それにわたしの親父が死んだ時、あなたは長椅子と十ルーブリを持っていったきり、今だに返してくれないじゃありませんか。覚えているでしょう?」
 マカールは泣いたが、名付け親は問題にしない。マカールには金も身分もないのだからしかたがない。
  「やめろよ!百姓女のようにおいおい泣きやがって!まずおれの頭を仕上げて、それから泣いてくれ。さあ、鋏を取れ!」
 しかし、絶望したマカールは、鋏をテーブルのうえに落として、「…帰って下さい、もうあなたを見るのもいやだ。」と言った。
  「それじゃ、あしたまた出直して来るよ、マカールシカ。あしたなら、残りを刈ってくれるだろうな。」、「ええ」「まあ気を静めるがいい。あしたは、朝もう少し早く来るよ」
 エラスト・イヤーヌイチは、頭半分をきれいに刈られたので、まるで懲役人にそっくりだった。こんな頭をそのままにしておくのは都合が悪いが、今さらどうしようもない。彼は頭と首をショールで包んで、理髪店を出て行く。ひとりになると、マカール・クージミチは腰をおろして、ひっそりと泣きつづける。
 あくる朝はやく、ふたたびエラスト・イワーヌイチがやって来る。
  「何のご用です?」マカール・クージミチが冷やかにたずねる。「残りを刈ってくれ、マカールシカ。半分まだ残っているんだ。」「どうか代金先払いにねがいます。ただでは刈りません。」
 エラスト・イワーヌイチは、一言も言わないで出ていく。そして今日までずっと、頭半分の髪は長いのに、残り半分は短いままである。金を払う散髪を、彼は贅沢と考えて、刈った方の半分の髪が、ひとりでに伸びるのを待っている。そのままで、婚礼の席にもつらなった。
 貧しいマカールの希望は打ち砕かれた。それが絶望的というより滑稽であるのは、頭を刈り残したまま婚礼の席に出るような名付け親に対しては、貧しいマカールのどんな努力も無力だからである。頭を半分刈り残すのがせめてもの抵抗であるが、それさえも大して効果がないほど現実の壁は厚い。
 ロシアの現実は、また現実一般は、特に粉飾するまでもなく滑稽で悲劇的な事件に溢れている。効果を狙ったり、感情を込めて描く必要はない。現実自身が豊かな内容を持っているのであるから、それを発見し、端的に描くことが読者に感動を与えるためのもっとも効果的な方法である。しかし、それがまたもっとも難しいからこそ感動を与えるために思いつきの手段に頼ることになり、結果としては効果を薄めることになる。客観的な現実に没入することと、自己の主観的世界に没入することは違う。前者には情熱とともに常に冷静な理性的能力が必要である。
 この作品は、単純な落ちや機知で笑わせるものではない。だから、話の流れを知っていても味わいが減ることはない。ここに引用した以外のすべての文章も味わい深く楽しめる作品である。

 『ぐず』

 この作品は、気の弱い家庭教師から、給料をいくら削り取ることが出来るかを試した上で、削り取った残りの額と、本来の給料を支払う、という話である。あまりに悪趣味であり、こんな作品を書くべきではないと思う。人の心を試し、一時的にせよ、不必要な絶望を味わわせるような悪趣味な男を無批判的に描くなどというのは、チェーホフらしくない。譲歩する家庭教師に批判的であっても同じことである。よくない読後感を残してしまう。

『勝利者の凱歌』(1883.2)

 もと十四等官が、かつての上司を追い越して出世し、勝ち誇る話である。その俗な自慢と部下に対する罵倒がゴーゴリ風で非常に面白い。チェーホフはただそれだけのことを雄弁に語ることに才能を見せつけている。勝ち誇ることへの非難がテーマではない。チェーホフは勝ち誇る精神だけでなく、それに対応した卑屈な追従的精神もうまく描いている。現実がこのようなものであれば、真面目な精神にとっては耐えがたいものであるが、現実であるからには仕方がない。だから、その滑稽さを楽しむ精神が生れてくるのであろう。

 この他、官僚が 賄賂を取っているとか(『忠告』)、パンの中に何が入っている
やらわからないとか(『コレクション』1883.2)、社長の愚かしい物書き趣味( 『熱
中家』) だとか、旦那が貧しいお嬢さんの苦境を自分の時間潰しの材料に使ったとか
( 『雄羊とお嬢さん』) 、愛し合っていてもやはり現金のことは別だとか( 『この現
実的な時代に』) 、この手のちょっとした知恵を簡単に描写した作品が並んでいる。
これらの作品は面白くないこともないが、くすぐられる程度で、深く考えさせられた
り、笑わされたりするほどではない。

 次に、このレベルの作品であるが、日本では考える必要のある作品について、他の作
品にも係わる一般論として紹介しておこう。

『謎の性格』(1883.3)

 この作品は、この時期に多く見られる、芸術的描写というより理屈っぽい作品である。社会的な知識を形象化した作品である。しかし、それは有益で、社会的に高度な認識に発展しうる知識であり、特に日本のインテリなどにはまだ周知どころか承認されてもいない知識である。

 ある単純なテーマに現象的な味付けや脚色をしたものは、その単純なテーマだけが内容であって、芸術的な面白さに欠ける。というのは本来小説の価値は、このようなテーマにあるのではなく、その味付けや脚色の部分にあるのであって、単純なテーマなどはもともと必要のないものであり、もしあるとすれば、(この時期のチェーホフに見られるように)これがほんの飾りや付けたりになって、ついには消え去り、現象の脚色部分だけが小説の本質的内容にならねば、小説と言えないからである。チェーホフの作品はまだそうなっているとは言えない。チェーホフは、思いついたテーマを現象的に描写する、その部分によって現実を観察し、認識する訓練をしている。単純なテーマを喪失する過程が現実の芸術的認識が発展する過程である。

 例えば、木を切ると洪水がおこるとか、弱者の味方をすべきだとか、親切をすると自分にも利益がある、程度の無意味な知識に、その知識のレベルにあった現象形態を付け加えて気を引こうとする場合には、どれほど自然らしく描いても本来のリアリティは生まれない。しかし、この種のテーマを社会性だと誤解し、さらにそれに平凡で日常的な現象形態を付け加えることが分かりやすさだとか、親しみやすさだと誤解している場合が多い。これは芸術を特定の単純なテーマの宣伝の手段に貶めているものであって、絵画でも音楽でも同じで、芸術性の破壊である。社会派といわれる芸術家が往々にして単純で幼稚であるのは、このような芸術性の理解の誤解に基づいている。読者や観客はこのような芸術には感動しない。それは社会的関心が低いのではなく、生活で形成された現実的意識がその作品より高度だからである。

 この種の弱点を持ちながらも、チェーホフの作品はロシア文学のレベルの高さを継承している。テーマ自体もレベルが高いし、したがってそのテーマをそれらしい現象で脚色するための、高いレベルの形象化の手腕をもっている。それでもなお、それはチェーホフが高度の芸術的描写を獲得する入口にすぎない。

 この作品には、不幸な上流社会の婦人とその不幸に興味を持つ若い著述家が描かれている。このように紹介しただけで、興味を持つ人と馬鹿馬鹿しいと感じる人に別れるだろう。
 「まっかなビロードを張ったソファのうえに、美しいひとりの婦人が、なかば身を横たえている。高価な房つきの扇が、引きつったように握り締められた手のなかでぱちぱち音を立て、鼻眼鏡がたえず形のよい鼻からずり落ち、胸のブローチが、波間に浮かぶ小舟のように、あがったり下がったりしている。彼女は興奮しているのだ。」
 このような婦人に興味を持ち交際する青年作家は、次のような言葉を吐くように運命付けられている。婦人の側から言えば、婦人を肯定する方法は極めて限られており、平凡で型通りの意識を求めている。青年作家の能力とは、それを見抜くことであるが、無論それには能力などまったく要らない。婦人に対する関心があるだけで十分である。あえて言えば積極的な無能が必要である。
 「あなたの感じやすい、敏感な魂は、迷路からの出口を求めておられる。…そうです!恐ろしい、凄惨な闘争です、しかし…悲観なさることはない!あなたはきっと勝利をおさめられましょう!そうですとも!」
 婦人は青年作家が自分のこころを見抜いていることを認めて身の上を告白する。まず自分が貧しく育って、教育環境が悪くて、等々の現代の不幸を生み出した過去の不幸が告白されている。これは周知のパターンであるから、(作品がではなく、この種の婦人の意識としてである)割愛する。
 「ああ!あなたは作家でいらっしゃるから、あたしたち女性のことをご存じですわね。おわかりになりますわね。…不幸なことにあたしは生まれつき奔放な性質ですの。…あたしは仕合せを待ちこがれていました、それもどんな仕合せだったでしょう!あたしは人間になりたかったのです!そうなんです!人間になること−そのなかにあたしは自分の仕合せを見ていました!」
 「すばらしい方だ!」と作家は、腕輪のそばに接吻しながらつぶやいた。「僕はあなたに接吻するんじゃない、人間の苦悩に接吻するのです!ラスコーリニコフを覚えておいでですか?彼はこんなふうに接吻しました。」
 彼らは「人間の苦悩」を問題にしている。『床屋で』の世界の関心や苦悩や生活とは大変違っている。彼らの苦悩は現実の生活から大きくかけ離れている。彼らの意識のこの非現実性は彼らの無力と空虚さを証明しているが、彼らにはそれが高尚な意識とか豊かな教養に見える。
 ここまでに告白された不幸はまだ不幸ではない。この後に本当の不幸、悲劇が告白される。単純な内容である上に十分に圧縮されているからまとめることができないし、有益でもあるので、長い引用で紹介しておこう。
 「ああ、ヴォルデマール!あたしには栄光が必要だったのです、…あらゆる非凡な性格にとってそれが必要なように。あたしは異常なことを、…女らしくないことを求めていました!するとそこへ…するとそこへ、…あたしの行く手にお金持ちの老将軍が現れたのです。…わかって頂戴ヴォルデマール!だってそれは自己犠牲だったんですもの、没我だったのです!それ以外にはどうしようもなかったのです。あたしは家の者たちを豊かにし、旅行をしたり慈善をしたりしました。…でもどんなにあたし苦しんだでしょう、あたしにとってはこの将軍の抱擁が、どんなに堪えがたい、卑しい、汚らわしいものだったでしょう。…でもそんな時、あたしを元気づけてくれたのは、老人が今日あすにも死んで、そうすればあたしは好き放題の暮らしができる、今度は愛する人に身を委せて仕合わせになれるという考えでしたの。・・あたしにはそういう人がいますのよヴォルデマール!ほんとにいますの」
 老人は死んだ。しかし、婦人は仕合わせにならなかった。それどころか、自分が不幸な運命を逃れられないことを今度こそ思い知らされた。
 「…幸福があたしの窓を叩いていますの。ただそれを入れさえすればいいのです。ところが、…だめなのです!ヴォルデマール、聞いて頂戴、お願いです!今こそ愛する人に身を委せて、その人の友達に、助手に、その人の理想の担い手になって、幸福になって…ほっと一息つくべきなのです。…ところが、ああ、この世のことはどうして何もかも俗悪で、いやらしくて、愚劣なのでしょう!どうしてこう何もかも卑劣なのでしょう、ヴォルデマール!あたしは不仕合せなのです、…あたしの行く手に、また邪魔が立ちふさがっているのです!またまたあたしは、自分の幸福が遠くに遠くにはなれてしまったのを感じているのです!ああ、どんなに苦しいか、わかって下さったら!どんなに苦しいか」
 「でもどうなさったとおっしゃるのです?何があなたの行く手に起こったのです?お願いです、おっしゃって下さい!どうなさったのです?」
 「また別の金持ちの老人が…」こわれた扇が美しい顔をおおい隠す。作家は、思いあまった頭を拳で支え、溜息をつきながら、物知り顔に、心理学者を気取って考え込む。機関車が汽笛を慣らして、シュシュポッポと言っている。窓のカーテンが、入り日を浴びて赤らんでいる…
 人間の苦悩とか悲劇を語りながら、彼らが実際に何にひかれているのかは彼ら自身にもはっきりしない。打算とか、孤立から来る単純な色好みとか、その他この階級に特有の諸事情があるのだろうが、いずれにしても悲劇とか人間とかいう大げさなものではない。「また別の金持ちの老人が」と言われれば、彼女の関心が金であることは誰にでも分かる。実践が彼女の言葉の意味を証明している。しかし、実践がなお一層彼女の悲劇性を証明しているように見る必要のある人間もいる。ここまで黙って話を聞いている若い著述家にはそう見えるし、実践がなにを証明しているかなどは本来どうでもよい。彼らを結び付けているのは言葉ではない。まず彼らの関係があって、それを言葉が飾っているにすぎない。嘘もこの世界では相互理解や魅力の一つである。
 裕福な婦人と若い著述家が、このような意識を持つのはよく分かる。死にそうな金持ちの老人に興味をもつ婦人と、その婦人に興味を持つ若い著述家の組み合わせも言葉も精神の全体もリアルである。彼らの態度や言葉は、彼らの階級に本質的な精神の表出としてリアルである。
 愛のない結婚をしたけれども、本当の愛を求めている。一般的に言えば、自分の現実は本来の自分に相応しくないし、自分の欲望とも対立している。若い婦人とか未亡人とか孤立して世をすねた文学少女とか(非現実的で気楽な空想を好む立場の実例である)の不満を、哀れんだり気の毒に思ったり、高度の精神性の現れだと思うのは、彼女に惚れているからである。漱石は『三四郎』で、このような心理を「かわいそうだた惚れたてことよ」と表現している。
 彼女が実践的に獲得したものが、彼女の本当の欲望や希望の内容を示しており、実践的に繰り返されることで必然性は証明されている。彼女の欲望は打算である。彼女の苦悩はすべて虚偽であり滑稽である。彼女の実践的生活が彼女の本来の欲望や希望を明らかにしており、それに対立した欲望や希望はその生活につきものの、その生活を肯定する精神形態である。彼らの貧しい精神生活が、愛とか理想とか理解とか悲劇とか、助けるとか気の毒とかいう感情を必要としている。その具体的内容はその生活を反映しており、気の毒なくらい軽薄で滑稽である。苦しみではなく暇つぶしである。表面的で偶然的な感情であり、実践が選択を迫った場合には、こんな空想によって判断を曇らされることはない。その意味では彼らもまったく真剣ではない。

 このような精神も現実には遙に複雑であり、このような精神の現実的な運命はさらに無限の形式で展開されているし、その展開の背後には社会的な諸関係が広がっている。チェーホフはこの精神をそのような深みにおいて観察しているわけではなく、単純に滑稽に描いている。単純化、といってもこれまでに述べたような現象上の必然性は描かれている。そこに描かれた必然性の深さが、チェーホフのこの精神に対する理解の深さである。
 チェーホフにとって単純で滑稽な事実にすぎないものが、日本ではまだ単純な社会的事実と認識されていないと思われる。この種の精神に批判的であるには階級的な認識能力が必要である。彼らを滑稽に描くチェーホフと、感動している二人の登場人物の意識には大きな断絶がある。しかし、この登場人物の精神を実践したり、本気でロマンとして描いたり、それを感激して自己と重ね合わせて読んだりする場合もある。すでに批判的に描かれているこの作品の人物に対しては批判的でありえても、多少の複雑な要素をとりこむことによって、この種の精神を肯定することになる。チェーホフのこのレベルの批判精神を獲得するにも歴史的な精神の蓄積が必要である。

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