第二巻の 2

 1. 「ぬすびと」 2.「言葉、言葉、また言葉」 3. 「おっかさん弁護士」 4. 「古典科中学生の災難」 5. 「代表、あるいは…」 6. 「会計係助手の日記から」  7. 「おじいさんそっくり」 8. 「年に一度」 9. 「小役人の死」


 1. 「ぬすびと」(1883.4)

 これまでの作品に見られた単純なテーマや機知などが消え去った、非常にすぐれた作品である。天才と言う言葉の意味を思い知らされる作品で、我々にはこのような描写能力がどのようにして生まれるのか不思議に思われる。この作品に描かれている内容を、普遍の形式によって説明しようとすれば、この作品より長い文章を必要とすると思われる。それほど沢山のことが書かれている。
 解題によると、週刊誌の発行者は「あなたの『ねこやなぎ』と『ぬすびと』は素晴らしい短篇ですが、『断片』には幾ぶん真面目すぎる。わたし自身は楽しく拝読しましたが」とチェーホフに手紙を書いたそうである。作品を読むと当然であろうと思う。
 「十二時が鳴った。フョードル・ステパーヌィチは毛皮外套を羽おって外へ出た。夜の湿気が彼を捕えた。」
 この冒頭の文章には小説の真面目さや深刻さを感じさせる力がある。このような簡潔な文章は、描写される内容の格段の豊富さによって生み出されるのであろう。
 まず流刑地の生活がヨーロッパ・ロシアとの対立を意識して描かれている。夜の湿気や哀れむべき通り、「郡ぜんたいでただ一人の<<教育のある人>>である土地のドクトル」の田舎紳士らしい特徴などである。ドクトルは教育のある人らしく流刑人であるフョードル・ステパーヌィチとの交際を嫌うことなく、いつも親切であった。しかし、彼を家庭に招待するほどではない。
 ドクトルは流刑人に対して誰にでも一定の距離をおいていたのではない。フョードル・ステパーヌィチと一緒に追放された流刑人であるバラバーエフはドクトルの家庭に招待されていた。それは、彼がフョードル・ステパーヌィチより多くを盗んだからである。田舎町の人情はシベリアの自然ほど過酷な姿をとらない。しかし、都会とは比較にならない貧しい生活をしている彼らの人情は、おだやかな表面の背後で一層深く金の力に支配されている。
 フョードル・ステパーヌィチはかつて都会の生活を楽しんでいた。彼がぬすびとになったのは「猫のような、涙もろい、美しい顔をした」オーリャのためだった。
 「『もし僕がシベリア送りになったらどうする?」と彼は彼女に聞いた。『僕と一緒に来てくれるかい?」『もちろんよ!世界の果てまでも!」
 彼は、盗みを働いて、捕まって、このシベリアへ来たが、オーリャは臆病風を吹かせて、もちろん来なかった。今ごろ彼女の馬鹿な頭は、柔らかいレースの枕にうずもれ、足はこの泥雪を知らないでいるのだ。」
 おしゃれのために金を必要とし、そのために恋人が盗人になることに何のためらいももたないオーリャがシベリアについて行くはずがない。彼はオーリャを「ぶち殺しても足りない奴だ」と言っているがそれは言葉の上でのことだけである。彼の言葉はすでに愚痴を通り越し、オーリャに対する恨みをも通り越している。オーリャとの関係もかつての生活も今の厳しい生活が遠い世界に追いやっている。ただ、厳しい生活は時には過去を思い出させ、フョードル・ステパーヌィチを疲れさせた。彼は寝台の上に吊るしてあった鳥の悪臭や鳴き声に苛立って、鳥籠を放り投げた。
 『なんだってお前はこの生き物を殺したんだ、悪党め?』朝になった時、彼はこんな言葉を聞いた。
 フョードル・ステパーヌィチは眼を開けて、自分の前に狂信的な老人である分離派信者のこの家の主人が立っているのを見た。主人の顔は怒りにふるえ、涙におおわれていた。」
 フョードル・ステパーヌィチは家を追い出された。瑣末な事件がすべて彼に厳しい運命を強いている。それもこれも、彼がわずかしか盗まなかったためである。もっと盗んだバラバーエフは、シルクハットをかぶり、こうもり傘をさして、復活祭の訪問のために二人乗りの馬車を走らせている。
 フョードル・ステパーヌィチが「おれももっと盗めばよかった!」と遅すぎた反省をしているとき、それに念押しするかのように、今度は駅逓馬車から女が現れた。
 「『どこかしら。…まあ、フョードル・ステパーヌィチ!あなたなの?』とその頭が叫びはじめた。」
 これは、チェーホフが格段の力量を得ていることをはっきりしめす非常に印象的な描写である。無論このレベルの描写が作品全体に連続している。これに続くラストの描写も素晴らしいので引用しておこう。
 「『夢を見ているんじゃなかろうか?!どうしたんだ?僕のところへ来たの?!よく来る気になったなあ、オーリャ?』
 『バラバーエフはどこに住んでいますの?』
 『バラバーエフに何の用があるんだい?』
 『あの人があたしを呼んだのよ。…二千ルーブリ送ってくれたのよ。…その他に、毎月三百ルーブリくれるはずなの。この町にはお芝居があって?…』
 夕方まで、流刑人は町をあてどなく歩いて、下宿を探した。一日じゅう雨が降りつづいて、太陽は顔を出さなかった。『ああいう野獣どもは太陽なしでも生きて生けるのだろうか?』と彼は、溶けかけた雪を両足でこね廻しながら考えた。『太陽がなくても、陽気で、満足してるんだ!奴らは奴らの趣味があるからな。』」
 フョードル・ステパーヌィチの運命は多くを盗んだバラバーエフの運命とまったく違ってしまったし、彼を盗みに走らせたオーリャの運命とも違ってしまった。
 金のないフョードル・ステパーヌィチにとってシベリアの気候は厳しい。しかし、シベリアの気候に不満を言うわけには行かない。それはどうにもならないものであるから。ではドクトルは、バラバーエフは、オーリャはどうか。フョードル・ステパーヌィチにとって彼らの運命、彼らとの関係がシベリアの自然よりも変革しやすいものかと言えば決してそうではない。彼らの運命を隔て、さらに隔てていく力が何であるかがフョードル・ステパーヌィチにはわからない。しかし、結果から、生活から、それが到底彼個人の手に負えない力であることは理解できる。野獣がいかに満足して陽気に暮らしていても、かつてそれが自分の運命であったとしても、金を失った今となっては、すでに彼の運命とは別の話である。
 猫のように可愛いオーリャはフョードル・ステパーヌィチを手玉にとって盗みをさせ、嘘を言い、今はフョードル・ステパーヌィチなど問題にしていない。しかし、彼女はおしゃれ女であり、どうしても金がいるのだから、金のないフョードル・ステパーヌィチにどんな言い分があろう。バラバーエフは盗んだ金のおかげで優雅に暮らしている。ドクトルも彼を客として迎えている。オーリャに嘘をつくなとか、ドクトルに、教育のある人らしく、フョードル・ステパーヌィチとバラバーエフを分け隔てなく扱えとか、バラバーエフに多く盗んだことを反省すべきだなどと説教することは、現実の生活の流れの中ではまったく無意味であるし不可能である。
 このような作品はゴーゴリ時代の終焉を明らかにしている。土地にへばりついて、商品経済によって切り崩されている地主ではなく、金だけを欲望の対象とも力ともしてシベリアまでやってくる、全く新しい人生が支配的になろうとしている。彼らの人生がいかに野獣のようであろうと地主のように没落の運命を刻印されてはいない。彼らに対する道徳的批判の無力は明らかである。彼らは社会においてどのような意義を持つのかが、ドクトルやオーリャやフョードル・ステパーヌィチとの関係において明らかにされねばならない。それは彼らの金に関わる不道徳を批判することとはまったく違った非常に困難な課題である。
 フョードル・ステパーヌィチはドクトルやオーリャやバルバーエフを道徳的に批判することによって困難な生活に満足を得ることはできない。彼は野獣ではない。だから野獣ではないような別の満足を得なければならない。しかし、それが何であるかはまだまったくわからない。わかっているのは、野獣たちが満足していること、彼らを批判しても彼らの満足が減るわけでも彼の満足が増えるわけでもないことである。
 そして、このことの理解が、フョードル・ステパーヌィチの精神に力強さを与え、作品は時代の力、流動性、新しい時代の誕生を予感させている。このように冷静に現実を受け入れていくことで--これが高度の精神の出発点であることは現実的精神の一般的特徴である--チェーホフは巨大な精神を形成していく。
 この作品は、チェーホフが才能の飛躍的発展を獲得したことを示している。ここには金銭の支配に対する非難ではなく、金銭の社会的な支配がどのように発展しているかが非常に説得力をもった現象として描かれている。チェーホフは金銭的に非常に厳しい生活を続けている。しかし、そのような経験が金の支配力の深刻な認識に自然に結びつくわけではない。チェーホフは厳しい生活の中で、その生活を肯定的に受入れて精神的な力量として蓄積する才能を持っている。

2. 「言葉、言葉、また言葉」
 「カーチャ、なぜ君は立ち直ろうとしないんだね?君はよく恥かしくないね?どこから見たって、君はまだ完全に破滅していやしない、まだまだ立ち直れるのさ。…どうして君は正しい道へ帰ろうと努力しないんだね?そうできるのに、カーチャ!君はその通り綺麗な顔をしているし、眼だって善良で、憂いがちだ。…笑う時なんか特に気持ちがいい…」

 「あたしはもうましな女にはなれないの!でもあなたには感謝しますわ。…生まれてはじめてこんな優しい言葉を聞いたんですもの。あたしに対して人間らしい態度をとって下さったのはあなただけなの、こんないけない、けがらわしい女に…」
 この二つの引用だけで作品の内容は想像できるだろう。二人の会話や態度がどう展開しても( 展開の多様性にも大きな限界がある) 結末が単に甘ったるい「言葉」に終ることははっきりしている。そのような内容の言葉が描写されている。すでに『ぬすびと』を書いているチェーホフにとって、このような作品は金を稼ぐための単なる書き飛ばしであって特に論ずるにあたらない。しかし、日本にはまだこの種の内容をなにかロマンチックで人間的なものとして空想しているような人がいないとも限らないので紹介した。
 このような現象も実際は無限的な社会的関係の一部分である。むろん元気をだせとかきっと立ち直れるとかの言葉が無力であることは、特に当事者にははっきりしている。彼女は何度も努力したが、どうにもならなかった。置かれた状況によっては、「その気になりさえすれば、きっと立ち直れるさ」という言葉で力を与えられ解決の希望を持てるほどに単純ではない。実質的な支えになることはできないしなる気もなく、何の負担にもならない言葉だけで、自分の親切を、自分が相手に対して善意をもっていることを、さらに自分がそうした境遇にないことを含めて説教交じりで慰められても実際は侮辱になるだけである。しかし、厳しい境遇にいると、つい希望を抱いて、この男が本当に親切な気持ちを持っているのではないか、と淡い期待を持つこともある。しかし、言葉は言葉に過ぎないことをすぐに思い知らされる。よくある経験である。
 とはいえ言葉だけの男を批判しても、こんな男がよくいることを知っても、大して意味がない。それもまた言葉である。これが言葉だけであること、言葉だけでは無意味であることを理解するにはそれほど深い観察力を必要としない。この「言葉だけ」の無力さではなく、「言葉だけ」の精神の社会全体における位置や運命を明らかにすることが「言葉だけ」の批判的な認識である。『謎の性格』についても同じことが言える。これらは現実観察の端緒としての現象であり、現実への入口にすぎない。それを批判することに満足すればより深い社会認識の入口は閉ざされてしまう。

3. 「おっかさん弁護士」
 「一度も舞踏会へ行かないのは、あれが自分で行きたがらないからですよ。あれとよく話してごらんなさい。…あなたがたのその舞踏会やダンスについてあれがどう思っているか、おわかりになるでしょうよ。いや、おっかさん!あさはあなたがたの暇つぶしがやりきれないんですよ。!あれが毎日毎日、本や仕事に向っているとしたって、それは誰からも強いられたことではないのです。…そういうあれが、僕は好きなのです。…この際よくお願いしておきたいのですが、どうか今後、僕らの間のことについて口を出さないで下さい。」
 こういう考え方で彼等は結婚した。しかし母親は、「あなたはあの娘をじりじり殺していらっしゃる」というし、「…これが女のやる仕事でしょうか。あなたはあの娘を外に連れてお行きにならない、生活を味わわせておやりにならない!」という。おっかさんは、自信をもって主張している。それはこれまでの長い人生経験によって、娘時代には遊ぶ機会を逃すべきではないし、まして娘時代がおわってしまった自分としても、残りの人生を考えると娘異常に遊ぶ機会を逃すべきではないと思っているのであろう。母親の主張はもっともである。しかし、楽しみにもいろいろある。社交界やダンスだけが楽しみではない、そういう価値観をもっていたので、二人は結婚した、つもりであった。しかし、そうではなく、母親の方が正しかった。娘は「あたしこんな生活、我慢できないの」といった。
 「ああ、きさまは馬鹿だ!」とミシェーリがうめいた。
 「誰が馬鹿なの?」とリーザがきいた。
 「間違いをした奴がさ!…」
 判断が甘かった。母親の方が娘をよく知っていた。こういう間違いはよくある。母親や娘の価値観の方が普通であるが、若い時代に娘が批判的な意識を持つ場合もある。彼女の場合は「あの時分はあたし、あなたがあたしと結婚して下さるかどうか心配していましたの。…」という事情があった。それを本気と思ったのが間違いだった。娘の考え方がそれでいいとは言えないが、こうした考え方がごくふつうで、そうした考え方を非難とか説得によって変えることができないことははっきりしている。だからこれを出発点として受け入れなければならない。とは言え、結婚してしまったのだから、その厳しい現実を知ってまずは、嘆きや自分に対する怒りに満たされるのは仕方がない。運命としてはこの先大変ないざこざが待ち構えていることがはっきりしたのであるから。よくあることでもあり、嘆いても仕方がないことであるからいっそう嘆かわしくなるとも言える。手ごわいおっかさんまでついているのだから。

4. 「古典科中学生の災難」(1883.5.7)

 この作品は単純であるが非常に感情の深い作品である。全員が真面目に生きているからであろうか。中学生は、時分に出来るあらゆる努力をしたが、試験に落第してしまった。
 「彼は中学校からとても遅く帰って来た。四時過ぎだった。帰って来ると、音もさせずに寝てしまった。疲れ切った顔は青白かった。赤くなった眼のまわりには、眼ぐまが黒くできていた。」
 これほど成績を気にしているのに、不得意なものはどうにもならない。この後母親の嘆きとか罵倒が続いている。内容はむしろ野蛮なくらいで、母親は息子の不始末をこころから怒っている。ぶちのめしてやりたいが力がないからといって、下宿人にせっかんするように頼んでいる。下宿人は、教育を受けており進むべき道を与えられているのにしっかりしていないのはけしからんと言ってベルトうちのめしている。
 「ワーニャはおとなしく身を屈めて、頭を膝のあいだへ押し込んだ。彼のばら色のとんがり耳が、褐色の側線の入った新調の小倉ズボンにそって動いた。
 ワーニャはうんともすんとも言わなかった。その晩、家族会議の席で、彼を奉公に出すことが決められた。」
 無意味なギリシャ語の勉強とか、ベルトで打ちのめすとか、雄弁に罵倒するとかはロシアの現状であり、彼等個人の責任ではない。だからそれだけでは彼等の個性に否定的な刻印を押すことはできない。そうした環境の中でも、真面目に真摯に生きようとしているワーニャが魅力的に描かれている。これもチェーホフの独特の現実に対する奥深いやさしさのでている作品である。

5. 「代表、あるいはどうしてデズデモーノフが二十五ルーブリを失ったかという話」(1883.5.28)

 仲間うちでは署長に対して大いに不満をもらして盛り上がるが、実際に署長の前に出ると、何も言えずに、それどころか、奥様の富籤の切符を買う羽目になるという話。「名誉を踏みつけにされるよりは、失業して暮らすほうがいい!今は十九世紀なんだ。誰もが自尊心を持っているんだ!僕はちっぽけな人間じゃあるけれど、それでもそんじょそこらの馬の骨じゃないし、時分なりのジャンルを胸のなかに持っている!許しゃしないぞ!」といった抽象的な憤りをみると彼等が現実に反抗する力を持たないことがわかる。署長の前に立つと「勇気が胸から胃へ下り、そこでごろごろ鳴ってから、大腿部をつたわって踵へ逃げ出し、それから靴の中へ落ちてしまった。…ところが、靴はやぶれていた。…さあ大変だ」ということになる。
 こういう心理はわれわれ日本人には得意の分野であるからよくわかる。われわれにとっては、こうした仲間うちだけの勇気を批判するところまで届いていない。署長のような立場にたいして批判的な意識がもともとない。だから勇気など必要としていないし、あるはずもない。せいぜい時分の内部で不満を持つことが課題で、それから、それをせめて仲間うち抱けても口に出すくらいの勇気が必要で、それから、それをなんとかしようと言うほどの勇気がいる。そのあとようやくこの勇気が靴の穴から逃げ出すことができる。批判的な勇気が胃か胆に止まるなどというのはまだまだ遠い先の話である。

6. 「会計係助手の日記から」 (1883.6.18)

 これは、心理を社会的に徹底して追求するチェーホフらしい作品で非常に面白い。会計係助手として、会計係の死を真底待ち望んでいる。そのほか一般に人の不幸に関心を持ち、事件を喜んでいる。どこかでペストが流行すると「ペストが来れば、必ず私は会計係になれるだろう。」と考えるほどである。自分のことでは、細かに健康に気をつかっている。しかし、薬ばっかり飲んでいる所を見ると、精神と同様体もだいぶ不健康である。彼は希望をもっているが、会計係はなかなか死なない。ついに埋葬されたが、彼は会計係にならなかった。しかし、新しい会計係の細君が出奔したために会計係がふさぎ込んでいるために、また希望を持った。努力はしないが希望を棄てない。他人の不幸をいくらでも見つけて自分の運命を慰める。実際には非常に不幸で不運な人生であるが、それには気がつかずに日々希望を持ち、他人の不幸に満足を感じ続けて生きている。他人の不幸を日記に記しているものの、実際は自分の不幸の記録である。世界に彼を満足させるための不幸の種は尽きないが、他人の不幸は彼の人生を実質的に幸福にしてくれるものではない。彼の満足は満足の質を低くすることで得られている。満足していても不幸のなぐさめにはならない人生の実例である。

7. 「おじいさんそっくり」

 おじいさんと私のお互いの罵倒で彼らが如何に堕落した生活をしているかが描かれている。彼らの生活は徹底して堕落している。現実に堕落しており、それを意識していても同じ生活を続けるほどに徹底して堕落している。これほど堕落した彼らの生活を徹底した批判的観点から描くためには彼らの堕落した生活から自由でなければならない。しかし、そのためにはチェーホフのような巨大な才能が必要である。
 彼らに対する憎悪や非難や嫉妬や自分の生活に対する不満や僻み等々がある場合は彼らの生活から自由な精神は獲得できない。堕落した生活に満足している彼らに対して気持ちの上だけで、道徳的に寛大に、つまり自由になることはできない。彼らの生活から自由になる唯一の方法は、彼らの生活の真の姿を認識することである。チェーホフはすでに彼らの生活を自分の精神と分離したものとして、堕落した、積極的な意義のない、哀れむべき生活として描いており、非難や攻撃の必要性を感じておらず、笑うべき対象として描いている。このような客観的な態度はさらに発展して、彼らの運命の悲劇性の描写にまで発展していく。この時期の作品にそれが現れてくる。彼らが過去の遺物として悲劇的を運命に見舞われていることを認識できるとき、彼らに対してもっとも客観的な視点に到達したと言える。チェーホフは彼らの生活をこのような観点から観察し、記録している。

8. 「年に一度」  (1883.6)

 公爵令嬢、といっても「猫背でしわだらけの老婆」、の名の日の祝いの一日の話である。
 「公爵令嬢はお祝いを述べに来る訪問客を待っている。トラムプ男爵父子、ハラハゼ公爵、侍従ブルラストフ、従兄のビトコフ将軍、その他大勢…二十人ばかりの人びとが、彼女を訪ねて来るはずである!彼らは訪ねて来て、彼女の客間をよもやま話で満たすだろう。ハラハゼ男爵は何か歌い、ビトコフ将軍は二時間も彼女のばらを欲しがるだろう。…一方、彼女は自分がこうした紳士相手にどんなふうに振舞うべきかを知っている!難攻不落、威厳、教養の深さなどが、彼女の一挙手一投足にありありと透けて見えるだろう。…そうこうするうちに商人のふとうるきんやペレウルコフがやって来るだろう。こうした連中のためには、玄関の控えの間に記帳簿とペンが置かれている。「人それぞれ分に従う」のである。彼らは署名をして、帰っていくがいい。…」
 しかし、これは公爵夫人の空想である。馬車の音がしても彼女の家にくるのではない。
 「そうだ、あなたのところではないのです、公爵夫人!過ぎ去った年々の歴史が繰り返される。情け容赦のない歴史である!二時に公爵令嬢は、去年と同様に寝室へ言って、アンモニア水を嗅いで、さめざめと泣く。」
 公爵令嬢は厳しい現実を受け入れていない。受け入れても悲惨でなくなるわけではない。彼女には過去の思い出しかないから思い出に縋っている。過去の幻想に代わる新しいものが得られない事情のもとでは、幻想を持つことにも幻想の内容にも厳しい現実性が現れている。
 彼女がかつて多くの恩恵を施したにも関わらず誰も祝いに来てくれない。彼女は甥のジャンのために身代を潰した、と言っている。しかし、そのジャン公爵が来ないのは恩知らずなためだけではない。彼も没落し、酒びたりの日々を送っている。しかしそれを夫人は理解できない。彼女も彼の堕落と同じ過程を辿って来たし、彼の堕落のために大きな役目を果たしているだろうからである。
 去年、門番のマルクはジャン公爵に訪問代として二百ルーブリを払った。今年はその金もない。だからマルクは値切った。同じように没落の道を辿っているジャン公爵も強く出るわけにいかず、五十ルーブリで話がついた。その五十ルーブリのために幾つものトランクをかき廻さねばならない。これが、この一年に起きた公爵令嬢とジャン公爵の運命の変化である。
 公爵夫人の欲望はすでにやせ細っている。彼女はジャン公爵一人が来るだけで満足
している。十年一日のごとき下らない作り話に胸をときめかしている。彼女はこれ以上望むことはできない。満足は強制されている。それもなくなりつつあるのに、不満をいうことはできない。それをも失うことになるだろうから。
 ここにはロシアの歴史が恐ろしいスピードで変化していることが単純に描かれている。これこそチェーホフの前に、あらゆる作家のまえに、深刻で複雑な諸関係とその反映である心理を生み出し、芸術家に描写を理論家に解明を迫っている現実である。この現実は公爵令嬢の生活を激しい速度で破壊し、彼らの生活の細部に渡って悲喜劇的にしている。彼らの社会的人生はすでに終わっている。批判の対象ではなく、人類史の一場面として記録されるべき運命である。彼女らの運命は悲惨である、だから悲しむべきであるが、しかし同時に滑稽な、非難されるべき内容を持っている。強制されたのではなく、彼等自身が堕落し、その堕落を楽しんできたからである。

 9. 「小役人の死」 (1883.7.2)

 小役人のイワン・ドミートリチ・チェルヴャーコフは、劇場で突然くしゃみをした。それで運悪く前に座っていた直任官に唾を引っかけてしまった。小心な役人はしつこく直任官に謝罪して、結果としてどなりつけられ、死んでしまった、という簡単な話である。
 役人の小心に天罰が下るとか、あるいは作家が罰を与えるのではない。現実に存在する運命として発見され、描写され、眼前につきつけられる。実際このような運命はどこにでも見られるものであるが、彼ら自身に認識されることは少ないものである。このような描写が次第に深刻になり、よりリアルに現実的に、すべての人に迫ってくる必然性として描かれるようになる。すると再びこのような内容も滑稽ではすまされなくなる。
 解説に「これは代表的なチェーホフ初期短編の一つとしてあまりにも有名である」と紹介されている。それは小心な小役人の運命が、単純なエピソードの形式で、典型的な特徴として描かれており、特徴として指摘しやすいからであろう。じっさいに厳しく、特徴的に、滑稽に描かれている。しかし、このような特徴は、作品の芸術的内容の高度さとはまた別である。それも作品の社会的影響力の一形態であるし、なくてはならぬ重要で楽しむべき意義であるが、また棄てがたい魅力がアルガ、やはり本来の芸術の意義ではないと思われる。
 本来の、などという言葉は内容を表現しないものであるが、ここでは、作品が単純な指摘の材料として利用されて、そのもの自体としての感動(これがない場合には材料としても利用されにくいが)を与える作品とは違うといった程度の意味である。このような作品自体が、そのものとして感動を与えるような素晴らしい作品を次回に紹介しよう。

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