第二巻の 3

 1. 『嫁入り支度』 2 『親切な酒場の主人』 3 『アルビヨンの娘』 4 『とりなし』
5.『照会』 6.『秋』 7.『でぶとやせた男』 8.『名誉商人の娘』 9.『郵便局で』
10.『海で』 11.『駅長』


1. 『嫁入り支度』(1883.8)

 この作品は『年に一度』と同じように没落しつつある階級の運命を、より深刻に描いている。作品の細部の描写が、チェーホフらしさを感じさせるすぐれた作品である。
 この作品の人物は浸るべき過去の栄光も持たず、うわついた空想に生きるわけでもなく、世間から引きこもった生活にふさわしい控えめな欲望のなかで生きている。彼らが世間を忘れているように、世間も彼らを忘れている。
 訪問者のないこの家庭では「私」の訪問で、警戒や意外な喜びでざわめいている。感情の浮き沈みのない沈滞した世界に長く生活している彼女たちは、瑣末な事件にも動揺する。善良でもの静かで、控えめな彼女たちの感動は奥深い。しかし、彼女達にとってどれほどの大事件であっても、平凡な日常生活の一事件であることに変わりはない。「私」の訪問がいかに感動的で彼女たちの心にいつまでも残るとしても、彼女たちの生活にも精神にも変化はおこらない。彼女達の生活が動かしがたい停滞のうちにあるからこそ、瑣末な事件が大きく見える。チェーホフは、この沈滞、不動性を、自然や家の様子などの細部に渡って、しみじみと感じられるように描いている。

 娘は、フランス語を話す機会を控えめに、それとなく、捕まえている。フランス語を話すことも、それを披露するための可愛い知恵も、本来は生活を彩る花である。しかし、人間関係が失われた今の彼女にとってそれにどんな意味があるだろう。偶然訪れた客に聞かせるためだけに費やされる努力や能力は、人生の侘しさ、虚しさを引き立たせる。彼女の恥じらいも同じである。どんな努力も恥じらいも、それが関係の発展の契機にはなることはない。まれな、しかもその場だけの効果で終わってしまう。
 彼女達の生き甲斐は着物を縫うことである。贅沢はできないから縫い物も自分でしなければならない、と夫人は説明している。もっと積極的には、娘の「嫁入り支度」という意味をみつけている。マーネチカは自分で刺繍した煙草入れに感服した様子を見せた「私」に、『嫁入り支度』の成果を見せている。納戸いっぱいの無意味な労力とそれを自慢するマーネチカの心はあまりにも哀れで身につまされる。これほどに善良で、労力を惜しまない人生が無意味に費やされていくことはあまりに悲劇的であり、喜劇的である。
 社会的に孤立したこの家庭の娘にも、ある年齢になれば何かの偶然が、この退屈な、沈滞した生活から引き出してくれるかもしれない。「嫁入り支度」が自分を欺く無理な幻想なのか、真面目に信じているのかは彼女達自身にもはっきりしないであろう。不可能であればこそ、それを現実的にはっきり理解することはできないし、それだけ一層真剣な、こころからの希望が生まれるからである。
 彼女達が人生を肯定的に解釈する無意識的な努力をしていても、またそれが生活が必要とする説得力のある努力であったとしても、それは自分の現実の姿を理解する能力を失うことであるから、対処する意志をも失うことであるから、現実はますます厳しい結果を押しつけて彼女達の自己認識を迫る。彼女達の悲喜劇はこの停滞した流れを断ち切る手段を持たないことである。

 七年後、「私」は忘れられていなかった。部屋の様子は変わっておらず、目立った変化はなかった。彼女たちは喪服を着ていた。彼女たちに起こった、起こりうる変化は、家の主人が無くなって、いっそう世間とのつながりを失うことくらいしかなかった。
 無変化のまま衰微、衰退していく生活はすでに確定しており、主人の死も劇的な変化をもたらさない。彼女たちにできることはあいかわらず着物を縫うことだけで、主人の死は彼女たちの熱心さを強くしただけであろう。彼女たちは絶望的になることもない。ずっと絶望的な生活に慣れ親しんだのであり、絶望的生活のなかで生まれる希望が失われることすらない。夫人の弟が、せっかく縫った嫁入り道具を巡礼にやってしまうことが、彼女たちの生活に多少の彩りを与えている。とはいえ、この世界で生まれる義務も矛盾も年々瑣末になってわびしさを深刻にしている。

 三度目の訪問のときも夫人は縫い物をしていた。彼女は縫った着物を神父に預けて
いた。弟が持ち出して寄進してしまうから、と夫人打ち明けた。縫い物はもう『嫁入り支度』ではなかった。あの恥じらいにみちた、嫁入りに希望をもっていた娘の姿は見えなかった。夫人は喪服をきていた。テーブルのうえに娘の肖像があった。「私」は娘がどうしたか尋ねる勇気がなかった。

 内気で、すでに現実には失われた希望を持って努力していた彼女の人生は哀れである。彼女の死は、彼女の人生が無意味であっただけ一層悲劇的で、人生についての感慨を引き起こす。虚しい希望や努力ではなく、何らかの積極的な意味のある矛盾が彼女にもあるべきだと思われる。しかも、これほどの絶望的な状態の中では、罪は彼女たち個人にはないこと、したがってこのような犠牲をなくすには、彼女たちを破滅させている状況自体が問題にされなくてはならないことがはっきりしている。
 チェーホフは彼女たちの置かれた厳しい現実を厳しさのままに描くことによって、彼女たちに対する個人的な非難を超えている。彼女たちの生活や精神を愛情深く、悲劇的に描くことができるのは、彼女たちの生活の現実にあるがままの深刻な否定性の描写によってのみ現れてくる。
 停滞的なロシア社会にあって、頭で構成した理想を対置することもなく、瑣末な冗談に逃避することもなく、肯定も否定もすべてを現実そのもののなかに発見し描写するのがチェーホフの天才である。
 チェーホフがロシアの沈滞と不動性をこれほどに深刻に描写することは、急速な発展を遂げる現実の変の認識による。劇的な変化に取り残された場合にのみ停滞は停滞としての内実を表してくる。このような状態で生じる人類史上の悲喜劇的な運命の(喜劇性と悲劇性の同一性がチェーホフの作品の特徴である。喜劇性と悲劇性の同一は現実その物の特徴であり、すぐれた作品はすべてこの特徴をもっているが、ロシア文学は全体としてこの特徴がわかりやすく出ているため、喜劇性と悲劇性の関係を具体的に考察する材料となるだろう)一つの記録としての意義をこの作品はもっている。
2. 『親切な酒場の主人』

 『桜の園』を思わせる作品である。地主が、自分のところで働いていた農奴に自分の家屋敷を取られてしまうことが、短くメモ的に描写されている。ロシアに広がっている、このような巨大で本質的な社会的変動を、チェーホフがとらえようとしていることがよく分かる。
 『嫁入り支度』に描かれている社会的孤立をもたらす社会的変動がここに隠されている。彼女たちの時代後れの善良な苦しみの他の側面にこうしたものがあり、チェーホフはこの必然の全体を捕らえようとしてすべての作品を全体的な観点の本に描写している。そのために『嫁入り支度』は感傷的な描写にならないし、地主の没落を冷静に滑稽に描くことが出来る。

3. 『アルビヨンの娘』(1883.8)

 地主がイギリス女と釣りをする、というだけの話であるが、芸術的無限性を感じさせる作品である。『嫁入り支度』は深い情緒につつまれているとはいえ、この作品と比較すれば、チェーホフの時代認識や思想の傾向性を強く押し出した作品であることがわかる。この作品は純粋な芸術的想像力に属するものであって、無意識的に自然に生み出されたとしか思えない形式をもっている。もちろんいづれが優れているというものではなく、チェーホフの思索的な現実観察や統括も直観的な観察と描写も一つの精神として同時的に発展するものであるが、形式上違いを感じることができる。
 この作品には『嫁入り支度』とは対照的な精神が描かれている。『嫁入り支度』には優しい、善良で穏やかな精神が描かれているが、この作品には憎々しい罵倒とか、心底からの軽蔑が描かれている。人間関係の崩壊もここまで徹底するとさばけた、さわやかな形式をもってくる。互いに心から軽蔑しながら、それを隠すこともなく、しかも、とくにそれが生活の妨げになるわけでもなく、それ自体が生活となってスムーズにながれている。朝から釣れもしない釣りをしているが、それは格別に無意味なわけではない。ほかに何をしても下らないことばかりであるので釣りは一つの個性にすぎない。。
 地主も家庭教師も相手を軽蔑している。それを露骨に現しているが、だからといって生活がそれによって破壊されたり傷ついたりすることもない。すでに崩壊しきっているからで、いまさら粉飾するまでもない、という境地に達している。だから、言葉が分からないという理由でいくらでも罵倒するし、目の前で裸になっても失礼だと思いもしないし、家庭教師の女にしてもただ軽蔑をあらわにすることで挨拶を返すだけである。礼儀も信頼もなにもない。ただ日々の生活の手段としてのみ人間関係がある。それも退屈きわまりない、ただ生きているだけの生活のためだからこそ耐えられるような関係である。

 生活とか関係とかがこれ以上崩壊しようもなく崩壊していることが安定性を生んでいることは、『嫁入り支度』と同じである。チェーホフがすでにこの時期に、これほどに対立的で多様な現象形態を、同一の本質のもとに捕らえていることは驚くべきことである。
 チェーホフは現実世界の現象的な多様性と、その多様性を統一する奥深い精神をもっている。一般に、このような多様性は奥深い統一性のもとにおいてでなければ具体的には認識されない。このような多様性の把握のもとでないと統一性は奥深いものにならない。多様性を統一のもとに、統一を多様な現象のうちに理解することが現実認識のレベルの高さ示しており、チェーホフはこの高度の関係を作品ごとに発展させていく。これほど瑣末で無意味な現象に深い内容を感じさせるのはそのためである。

4. 『とりなし』

 老人は青年を、ろくでなしとか、でくの棒とか、豚野郎とか、無頼漢とか、短い作品のなかで、もりだくさんの名前で呼んでいる。この罵倒は当たっている。なまけものでやくざでろくでなしの青年は役所を首になった。しかし、彼は厚顔に、恥知らずに弁解しており、反省しない。老人はそれが口からでまかせのおしゃべりというより、まったくの嘘であることはわかっている。しかし、彼が真実をしゃべるとか、役所で真面目につとめるとか、真摯に反省するとか、そんなことは期待できるものではないし、どうでもよいことである。それなものは役にたたないし必要ないからこそ青年は卑劣漢になってしまったのであるから。罵倒とか弁解といっても、老人が復職のために上官に「とりなし」に行く道すがらでの会話であるから、はじめから真面目な会話になるはずがない。

 「あの卑劣漢が失業してぶらぶらしておりますもので、母親が悲観して死にかけております。」「じゃ、まあ仕方ありませんな。ただ一つ条件があります。今度何か仕出かしたら、すぐに首にしますよ」「もし何かありましたら、あの卑劣漢を即刻、首にして下さい。」

 これもみな嘘である。それは分かっているので、涙もろさも、湿っぽい雰囲気も、哀れさもない。すべての会話がいい加減なでまかせで、仕事もしないしするきのない青年の復職が、上官へのとりなしで、上官と老人の関係とか、上官のその場の機嫌できまる。生産性とか、効率とか、効果とか実質とか内容とかが問題にならない寄生的な官僚の諸関係のなかでは、こうなる以外にない。能力や真摯さは必要ないから形成もされない。嘘やでまかせが真実らしくある必要すらない。
 これもまたロシア的な堅固な停滞性、不動性である。これほどの堅固な停滞性もいずれは崩れていくのが現実であり、それをチェーホフは発見しようとしており、我々もまた発見せねばならないし、発見できるでもあろうから、そのような観点からすれば、このような軽快な作品もより楽しく鑑賞できるだろう。


5. 『照会』(1883.9)

 これも同じで仕事が進まない。瑣末な手続きが多い上に、そのたために無駄な時間と賄賂が必要である。チェーホフは非効率このうえない社会の生活を滑稽に描く力量をもっている。単なる滑稽ではなく、非効率性、非生産性の表現としての滑稽であり、ばかばかしさであり、本質的な変革の必要に思い至らせる滑稽さである。

 「ウォルドイリョーフはなぜか気づまりになって、得体の知れぬ心の動きに誘われポケットから一ルーブリ札を取り出すと、役人に差し出した。こっちはのべつぺこぺこして愛想わらいをしながら、まるで手品師のようにその札をさっと受け取った。札は一瞬ちらりと空中をひらめいただけだった。」

 青年はまず愚鈍に見える。しかし、賄賂を取り込む際には熟練した見事な手際を見せる。人間の能力はどんな方向にも発達する。こうした描写はゴーゴリを思わせる。しかし、ゴーゴリの時代とちがって地主や官僚の没落の過程がはるかに進んでいる。そのためにこうした軽快な批判的描写はチェーホフの現実認識の出発点としての契機におとしめられる事になり、深刻さが勝ってくる。

6. 『秋』(1883.9)

 チェーホフの優しい感性がよくでている。高度で冷静で温かい。こうしたロシア的な劇的な運命をチェーホフの精神はたくさん吸い込んでいる。それが現実に対する寛容な、包容力のある、といういみでの優しさが滲む所以である。
 秋の嵐にずぶ濡れになった旅人かちが集まった酒場で、「安物という以上に汚らしい、しかし知識階級らしい服装をしたひとりの男」が一杯のウオッカをねだっている。飲むことが、生活の望みのすべてになって、それもめったにかなえられず、しかし働きもできず、努力といえば惨めな哀願くらいしかできない。自尊心を打ち捨てて、つけで売ってくれと頼み込んでもあからさまに軽蔑されるほどに彼は落ちぶれている。
 男は、外套までウォッカに変えようとした。それも断られて、最後に本当に大切な金の首飾りが残った。首飾りに肖像があった。「こんど帰りに寄った時、きっと返してくれ」という条件で覚悟を決め手手放した。酒場の主人は「盗んだ時計だな」と思ったが、ウオッカを注いだ。男は自尊心の最後の最後までを踏みにじっても、それでも満足した。哀れとは思うがろくでなしの生活である。

 しかし、ウオッカとの関係だけで人間を理解することは出来ない。このとき入ってきた威勢のいい百姓はこの男を知っていた。若い男の乱暴な説明によると、彼は県全体にまたがるほどの大地主だった。しかし、つまらない女にほれて、女に裏切られて、それから酒を飲みはじめて、その上妹の亭主に金を盗み取られて。今ではこんなざまになった。最後まで守っていた首飾りにはその女の肖像が入っていた。つまり彼はまだその女を愛していた。
 これについて、若い百姓はこういう、

  「うちの旦那は馬鹿みてえに酒場から酒場をうろつき廻って、おれたち百姓にこんな泣言を並べている。--『おれは、皆の衆、信じるということができなくなった!今じゃもう誰ひとり信じられないんだ!』とな。気の小せえ話だ!人間誰だって悲しみがあらあ、だから酒を飲むんじゃねえか?早え話が、ほらおれたちの村の村長だ。女房が真昼間、学校の先生を引き込んで、亭主の金を酒のために使ってやがるが、村長のほうはぶらぶら歩き廻って、にやにやしていやがる。・・ちょっと痩せただけさ。・・」

 彼は身近な人間の裏切りで破滅した。大金持ちの旦那であったのに、善良で信じやすかったために簡単に無一文になってしまった。人を信じられなくなるのも無理はない。しかし、破滅したのは彼自身で、彼がしっかりしていないではどうにもならない。人の裏切りにあったからといって、身を持ち崩すようでは、若い男のいう「小せえ話だ」というのも本当である。激しい没落もこうした評価もいかにもロシア的である。若い百姓は、現実に対して常に積極的に対処することを当然とし、絶望に値打ちを認めない。ところが、こうした積極的な気質こそはこの旦那の悲劇をもっともよく理解するもので、旦那に対する同情、心情の一致の点で非常に奥深い。だから、若い百姓の話を聞いた巡礼も、酒場の客も、みな「静かになった」。

「おいお前さん・・お前さまは何ていう人だ?・・不仕合せな人だなあ!ここへ来て、飲みなよ!」とチーホンが旦那の方を向いて言った。」
 旦那は売台に近づいて、さもうまそうにお情けの一杯を飲み干した。
 「ちょっとでいいからあの首飾りを貸してくれ!」と彼はチーホンにささやいた。「ちょっと見るだけだ・・返すよ・・」
 チーホンは顔をしかめて、黙って彼に首飾りを渡した。あばた面の若者は、ふっと溜息をついて頭をぐるぐるっと廻すと、ウオッカを注文した。
 『飲みなよ、旦那!ええ!ウオッカのないのもいいが、ウオッカのあるほうがもっといいや!ウオッカがありゃ、悲しみも悲しみにゃならねえ!さあやんなよ!』
 コップに五這いおると、旦那は隅へ行って首飾りをあけ、酔っ払ってとろんとした眼でいとしい顔をさがしはじめた。・・しかし顔はもうなかった。・・親切なチーホンの爪が、首飾りからかき取ってしまっていた。」
 旦那の善良さも、愛情も、堕落も徹底している。こうした運命も、それを受け入れる精神も日本では深く形成されていない。若者の言葉も、チーホンの爪も、旦那の徹底した、そして不幸な運命にたいする深い理解である。旦那の人生にも深い真実がある。ろくでもない人間の為に善良な人間が滅びた。ろくでもない人間はろくでもない欲望を満足させる。彼は酒の為にすべてを失うし、失っている。酒場でこうした感情に浸ることや、やさしい心情を経験することだけが彼がえた報いである。彼は善良である。しかし、旦那であった。旦那はこの時代にすべて没落していく。それが下らない女のせいであったり、義理の弟のせいであったりするのは偶然であるが、いずれにしても没落していく。こうした感情や関係はロシア的で広範で劇的で奥深い。不幸も巨大で、それを克服する精神も巨大に存在する国らしい精神のありかたである。
 「春よ、お前は今どこにいる?」とチェーホフは書いている。こうした悲劇的な運命はいつむくわれるのか、と思いたくなる。そうおもってもどうなるものではないにしても、人類の悲劇が引き起し、蓄積する重要なかけがえのない感情である。
 こうした没落のあることをも理解していなければ後期の戯曲の喜劇が、例えば「桜の園」がいかに稀なほどに恵まれた没落であるか、彼女達は自分の享楽を享受しながら、堕落しながら没落しているのであることがわかる。彼女たちは依然恵まれており、その悲しみは滑稽である。没落には多くの悲劇があり、彼女らはそれを免れており、安楽にともなう苦しみを得ている。それが喜劇性である。だからまたこの作品の若者が言っているように、この旦那がいかに皆の同情を引くほどに没落して、個人として言いがたい憂き目を見ているにしても、それが善良さ故であっても、やはり「気のちいせえ話」であることも真実であり、滑稽でもある。

7. 『でぶとやせた男』(1883.10.1)

 これも軽い社会批評で、『秋』と同様日本ではなじみが薄い精神である。やせた男は、八等官ではあるがスタニスラフ勲章ももらったし、結婚もした。給料は悪いが、妻は音楽のレッスンをして彼は内職をして、要するに下級の役人らしく実直に庶民的に真面目に努力して、まあそれなりに満足して生きている。そうした満ち足りた陽気さで幼なじみのでぶの男に話しかけている。ところがでぶの男が三等官だと知ると、とたんに心底卑屈になる。三等官のほうがやせた男のあまりの卑屈さに呆れている。つつましい生活をしていても卑屈になっては台無しである。出世した者の傲慢さや冷淡さはいいものではない。しかし、貧しいつつましい生活をしている者の卑屈さはもっとやりきれないものである。

8. 『名誉商人の娘』

 楽しい、軽妙な、思想的な作品である。徹底した恥知らずな堕落の世界をチェーホフはよく知っている。ロシア文学に描かれてきた、そうした世界に対する批判精神もよく知っている。そしてそんなでんとうのもとで、それらしい俗物的な批判的精神も生まれるし、幻想も生まれる。

 名誉商人の三人娘の一人が、「珍しい風変りな性質」の娘と言われている。ロシア文学を読んでいると、こうした描写だけですぐに、例の人並み優れた女性だな、思い込んでしまう。将軍が、この名誉商人をさげすんで、「下司からは貴族は生まれず!豚はやはり豚ですわい。」などと下品な言葉をはくと、ますますこれは特別な女性であろうと期待する。さらに
 
 われわれは音のしたほうを見て、メカニズモフに稲妻と火花を投げかけている二つの大きな黒い眼に気づいた。それは、全身黒づくめの、長身ですらりとしたブリュネットであるジーナの眼だった。彼女の青白い顔にはばら色の斑点が走り、その斑点の一つ一つに憎悪が宿っていた。「お願いだから、お父さん、止めて頂戴!」とジーナが言った。「あたし、冗談は大嫌い!」
  こうした場面は、いよいよ堕落した世界での、孤立した批判精神の登場だと思う。
 「実を言えば、私は以前からジーナに無関心ではなかった。彼女は美しい、月の神のような冴えた顔をして、いつも黙りこくっている。いつも黙っている娘には胸に覚えがおありだろうが、どんなに多くの秘密が宿っていることか!それは何かわからぬ液体の入った酒壜である。−飲みたいのは山々だが、万一、毒だったらという恐れがある。
 食後、私はジーナのそばへ近づいて、彼女の気持を理解する人がいることを示すために、人をむしばむ環境や、真実や、労働や、女の自由について話をはじめた。女の自由から私は、酒の勢いで旅券制度や相場や女子専門学校などの問題に話題を変えた。・・・彼女のほうは、聞きながら私の顔を眺めていた。その眼はますます大きく見開かれ、ますます丸くなった。・・・
 「今晩十時に大理石のあずまやにおいで下さい。……お願いですから!何もかもあなたにお話します!何もかも!」

 このような精神や関係はいかにもロシア文学らしい。といっても、ロシア文学を読んでいなければ理解できないほどの複雑な精神や関係ではない。少し風変わりな、黙っている女性になにか深い、自分だけが理解できるような特別の精神を期待することはよくある。
 「私」はエロチックな期待に胸を膨らませてあずまやに行ったが、結果は意外であった。彼女は「私」の予想とちがって、「市民」という反動的な新聞を読んでいる娘であった。彼女は彼に好意をもっていた。だから、若い男の思想的な間違いを、過ちをただしてやろうと考えて、呼出し、彼女が思想的な支柱としている反動的な新聞を読めと勧めたのであった。彼女は黙っていたために、誤解を生んでいた。ジーナはその誤解を解こうとしたのであった。なんとも馬鹿げた結末である。「私」のインテリ的な思想的な関心より、将軍の「下司からは貴族は生まれず!豚はやはり豚ですわい。」という言葉の方が、下品であるとはいえ現実的で冷静である。少なくとも「私」の観察は青臭く滑稽であった。
 黒い服を着て寡黙で美人であると、批判的な精神のために社会から孤立していて、理解者を求めている、と考えて、理解者になろうとする男がいる。第一巻にも似たような作品を書いていたので、チェーホフはこの種の冗談が好きなのであろう。この種の冗談は、自分で読んでいても楽しいし人にも読んでもらいたいと思う。というのは、今はやらないかもしれないが、60年代とか70年代とかにはこうした俗物根性が普通に見られたし、批判的意識の衰退とともに、特に克服されることもなく消えていったので、いずれまた登場するだろうからである。実際ジーナのような娘がいれば愚かな批判的精神にはいい薬になるだろう、と思わせる、軽妙で思想的な作品である。
 反動的な新聞を読んでいることが人間関係とか趣味とかにこれほど決定的な意味を持つのは厳しい矛盾に満ちていたロシアに特有で、日本では見られない現象である。個人の生活において一般性が大きな意義をもたないのは、この数十年に蓄積された日本特有の哀れむべき、世界にもまれな精神であるが、(一般性の肯定がそれと同等のレベルだったのであるが)それもそう遠くない将来に克服されることになるだろう、と期待を持ちはじめたところである。

9. 『郵便局で』(1883.10.29)

 老郵便局長の、まだ若い細君の葬式があった。生き残った老人は、細君が若く、美しく、気立てが良く、活発でやんちゃな性格であったにもかかわらず、自分に貞淑であったことを葬式の席で誇り、神に感謝した。こんなつまらない男の若く美しい妻が貞淑であったなどということは誰にも我慢できないことであったから、ある寺男が「雄弁な唸り声と咳で疑念を表明した」。すると老郵便局長は成功した自分の老獪なやり口を自慢した。
 私は会う人ごとにこう言った。--『うちの家内のアリョーナは、ここの警察所長のイワン・アレクセーイチ・ザリフワーツキイとねんごろにしています』と。これだけ言えばもう十分。ひとりとしてアリョーナの尻をおいかけようとするものはない。なぜって、署長の怒りが恐ろしいですから ね。あれの姿をみかけるが早いか、ザリフワーツキイに睨まれない先にさっさと逃げだしてしまう。へ、へ、へ。まかり間違ってあのひげのとんまとかかりあったら碌なことはない、衛生状態のことで五つも始末書を取られる。早い話が、猫一匹通りで見かけたと言っちゃ、まるで豚でも放っておいたように、始末書をとられますからな。』
  『そうすると、あなたの奥さんはイワン・アレクセーイチと別だん何でもなかったのですか?』 私たちは開いた口がふさがらなかった。『その通り、あれは私の戦術でね、…へ、へ…どうです、まんまと一ぱい食わせられましたな、諸君?それ、そこですよ。』
 三分ほど沈黙のうちに過ぎた。私たちは座って黙っていた。この太っちょの鼻の赤い老人にまんまと一杯食わせられたのが、腹立たしくもあり恥ずかしくもあった。
  『ようし、じゃ今度また女房をもらったら!』と寺男がつぶやいた。

 この引用で半分になるほどの短い作品である。太っちょの鼻の赤い老人に、ひげの
とんまをダシにして騙されたのは情けない話であるし、葬式でこんな自慢話をされたのでは死んだ若い妻も浮かばれない。老人も、妻の貞淑よりも、自分が町の男をうまく騙したことが自慢であり快楽である。道徳にもいろいろある。太っちょの鼻の赤い老人にとっては妻の貞淑は道徳にかなったことであろう。しかし、他方では妻の貞淑は警察署長に対する町の男たちの臆病の証明であるし、老郵便局長にいっぱい食わされたうかつさの証明である。貞淑でなければならなかった妻の人生を哀れと思い、警察署長の権威をつかってうまく騙されたことを不名誉だと思うのは、郵便局長や警察署長にひごろからひどい眼にあわされている者の道徳観である。若く、美しく、気立ての良い女性がこんな老人と結婚しなくてすめばよいのであるが、寺男の言葉からするとまだそのような情勢ではないのであろう。だから彼らの不満も正当な権利を持っているのである。

10. 『海で』(1883.10.29)

 非常に単純であるが印象にのこる話である。単純な事実が内容であるから、第二義的な文章でいろいろと飾ってある。たとえば「私の考えでは、人間は概していやらしいものだが、実をいうと水夫は、時によるとこの世の何物よりもいやらしい、最も醜い動物よりもいやらしいものである。」といったながながしい前置きがある。日本ではこんな文章に内容があると感じる読者がまだいるかもしれないが、こんなのはチェーホフがわざと書いた軽口である。
 この日水夫はくじ引きをした。汽船の「新婚船室」にその夜客があって、その船室の壁にのぞき穴が二つあったからである。くじは、「私」と父親にあたった。
  「聞いたか、小僧?仕合せが一時に、お前とわしのうえに落ちて来た。これも何かの因縁さ』」
 とか、
  「『お前の穴をのぞかせてくれ』とおやじが、じれったそうに私の横腹を小突いて言った。・・・『やい、お前の眼のほうがわしよりもよく利くんだ。お前なら遠かろうが近かろうが同じじゃないか!』」
 などと、覗き見をする心理がいろいろと描かれている。しかし、これはありふれた平凡な心理であって、特別な興味をひくものではない。ドラマは覗き穴の向こう側にある。期待に反して彼らが覗き見たものは、新婚の夫が、肥ったイギリス人の老銀行家に妻を売り渡したことであった。
 郵便局長の夫人の貞淑はどんな自由もなかった悲劇的な人生である。水夫の覗き穴
も、道徳家にとっては大問題であるが、これも論ずるに足る問題ではない。若い女性が愛情もなく老人と結婚していること、神父が金持ちに新妻を売り渡していること、このことは簡単には解決のできない、善悪の形式では論ずることのできない、社会的・歴史的問題である。このような関係においては貞淑という形式は不道徳的で人間を冒涜するものである。覗きはよくないいたずらである。しかし、こんなものを覗くのはもっとよくない。覗くのもいやになるほどの、父親が息子に見せてはならないと思うほどの堕落した現実である。結婚とか性とかが自由な人間の関係として現れているなら、俗なインテリの好みで言えば、根源的な性の欲望の関係において現れているならば、どのような形式であろうと自然的な関係として肯定される。しかし、ここにあるのは自由な人間関係ではない。権力や金の力で人間の自由が侵害されている。弱い立場にある女性が犠牲にされており、それが嫌悪感を引き起こす。ここには、道徳とは次元の違った、瑣末な道徳観念を否定する関係が描かれている。


11. 『駅長』

 この作品も上の二作に似ている。スキャンダルが非常に高くついた話である。駅長は、「特に若いとも特に美しいともいうわけではなかった」婦人との逢引きを楽しんでいた。ところが、彼が愛を囁いていたある晩に、婦人の夫に出会わせた。彼は棒を持っていた。駅長は逃げだし、夫は追いかけた。途中駅長は土手から転がり落ちたが、「なに、構うもんか。土手から転がり落ちたほうが、貴族が下司野郎に引っぱたかれるよりはましだ」と思った。しかし、ついに夫が彼に近づいたときは観念して、「復讐するなら、さっさと復讐し給え。・・僕は君につかまったんだ。・・打て・・片輪にしたけりゃそうし給え・・」と言った。彼としては最悪の結末であった。しかし、まだ先があった。

 観念した駅長を見て、夫はこう言った。
  「ふーむ。・・一体どうしたんです?私は用事があってあなたをお訪ねしたんですよ!用事をお話しするために、追いかけて来たんですよ。・・
  重要な用事です。・・うちのマーシャの言うには、あなたは慰みのためにあれといい仲になられた。それについちゃ私は何も申しません、と言いますのは、いくらマリヤ・イリイーニシナに言ったってだめなんで。・・・
   『ミハイラ・ドミートリチ公爵は、あれと係り合いをお持ちのあいだ、私に月二十五ルーブリ札二枚下さいました。あなたら幾ら下さいます?約束は金より大切と申します。まあお起きになっ  て・・』

 ひどい結果である。彼は土手から転がり落ちてもしかたないと悟ったし、捕まったからにはぶちのめされることも覚悟した。夫にはその権利があるし、自分のした悪さの責任は負わねばならない。しかし、妻を売りつけられるとまでは思わなかった。
 『郵便局長』が話した貞淑な妻は、誰にも理解されずに悲惨な人生を終えた。『海』神父の新婚生活の本当の姿も、覗き穴から見なければわからない。矛盾のない、平穏な、身動きのとれない生活が実際は不自由な呪われた生活である。駅長は平穏どころではなく、土手から転げ落ち、棒でなぐられそうになった。しかし、結果は平穏に終わった。駅長の結末についてチェーホフは「彼は今に至るまで、心中じくじくとしている」と書いている。彼は偶然であるにしても夫が平気で妻を売り飛ばす世界に巻き込まれてしまった。そんなことになるより、棒で殴られたほうがましである。

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