第二巻の 4

 1.『中傷』 2.『安全マッチ』 3.『クリスマスの夜』 4.『自由主義者』 5.『勲章』
6.『七万五千』 7.『辻御者』 8.『家庭教師』 9.『狩場で』 10.『おお、女よ、女よ』


 1.『中傷』(1883.11.12)

 習字の先生が娘を嫁にやるめでたい席でおこった、滑稽な、しかし、自分の愚かさだけで引き起こした、恥さらしとしても、腹立たしいとしても我慢しやすい失敗の話である。

  「彼は真夜中に夜食の用意ができたかどうかを見に台所に行った。そこには期待通りの見事なちょうざめがとびきり大きな皿のうえに横たわっていた。
 彼は屈み込んで、唇で油の切れた車のような音をたてた。しばらく立っていてから、彼は満足そうに指をぱちんとやって、もう一度、唇を鳴らした。『うへえ!熱烈なるキスの音がするね。・・そこで誰とキスしてるんだい、マルフーシャ?」隣の部屋からこういう声が聞えて、戸口に生徒監助手ワーニキンのざんぎり頭が現れた。」
 チェーホフはあわただしい盛り上がった雰囲気をうまく描写している。習字の先生セルゲイ・カピトーヌィチ・アヒニェーエフが唇を鳴らすのも無理はない。しかし、あとの処理が悪かった。彼は「ちぇっ、とんだ災難だ!あの卑劣漢め、あっちへ行って、あることないこと喋り散らすだろう。町じゅうに言いふらすだろう、豚野郎め・・」と考えたので、客のだれそれが笑っていても、何やらささやいていても、自分のことを言っているように思えた。だから、「みんながあいつの言うことを真に受けないように、手を打つ必要がある。・・いっそこっちから皆に話し手やろう、そうすればあいつのほうが、とんまの嘘つきになるだろう」と考えた、だから、「ものの三十分たらずのうちに、客たちは誰もがちょうざめとワーニキンの一件を知ってしまった。」そして、「幾らでも話すがいい!あいつが話はじめるが早いか、『もう沢山だよ、馬鹿、つまらんことを言うのは!おれたちはもう皆知っている!』と言われるだろう」と考えた、しかし、明くる日職員室で校長に「・・それはあなたの自由です、ただ、どうかあまり公然となさらんように!お願いですから!ご自分が教育者であることをお忘れなく!」と注意された。それに家に帰ると、妻が「『何を考え込んでいますの?アムールのことでも考えておいでなの?マルフーシカのことを思っていらっしゃるの?あたし、何もかも知っています!善良な方たちが眼をあけてくれましたわ!ううう・・・野蛮人め!』」と怒鳴って彼の頬をぴしゃりとやった。

 習字の先生が蝶鮫の料理に夢中になったのは悪くない。それに彼は真面目で、世間体を恐ろしく気にしている。だから先回りして用心したのだが、うまくいかなかった。つまり彼は馬鹿なことをして、この場合は結果が悪い方に出た。しかし、小心が招き寄せた不運であるから誰にも文句はいえない。それに彼のような性格では、そして彼のような性格をつくり出しがちな社会では、彼の小心はこうした不幸をいくらでも招き寄せるであろうから、いちいち嘆いてもいられない。うまく生きていくためには小心でなくなるか、こうした結果に慣れる必要がある。妻も校長も慣れるように教育しているようである。

 2.「安全マッチ」(1884)

 探偵小説のパロディで、うまく書いている。殺されたはずのクリャウゾフは、実は女のところに隠れていたが、それには次のような事情があった。
 「僕はオリガのところへ来たくなかったんだ。気分が悪くてね、そう、酔っぱらっていた。・・そこへあの女が窓の下へ来て、悪たいをつき始めた。・・百姓女のようにね・・その辺の・・。僕は酔っぱらっていたので、いきなり彼女めがけて長靴を片足、投げつけた。・・は、は、・・つべこべ言うなってわけさ。あの女は窓から這いあがって来て、ランプをつけるなり、酔っ払っていた僕をなぐりはじめた。ぶちのめしておいて、ここへ引きずって来て、閉じ込めちまった。で、今じゃここで暮らしている。」
 なぜ片方の長靴が窓の外にあったかという警察の謎がこれで解けた。しかし、こんな謎解きは日本ではあり得ない。女が愛する男をぶちのめしておいて、夫に分からないように離れの部屋に引きずり込んで閉じ込めるなどということは日本的な愛の形ではないからである。日本では愛が通じないからといってぶちのめして引きずってきたりしない。丑の刻参りのほうが似合っている。ロシアらしいチェーホフらしい愛のかたちである。
 3.『クリスマスの夜』(1883.12)

 小説的な意外性のある展開で、情熱的な作品だと思う人も多いだろう。嵐の海を見つめる女の様子や心理がまず描かれているが、構成上女の心理は明確には描写されない。白髪の老人が、出産後の体で吹雪の海岸に出てくるのはいけません、と言っている。老婆は女の夫と一緒に漁に出た息子を思って泣いている。海が割れる音がして、漁師たちが陸へ帰らないことは、一点の疑いもなくなった。
  「老婆は悲鳴をあげて、へたへたと地べたへ座り込んだ。奥さんは、ずぶ濡れになって寒さのためにぶるぶるふるえながら、小舟のそばへ歩み寄って、耳を澄ましはじめた。彼女も不吉な唸り声を聞いた。」
 ここから予想外の展開が始まる。
 「岸辺に立っていた人びとは、低い笑声を、子供のような、仕合せそうな笑声を聞いた。・・青白い女が笑ったのである。デニースは喉を鳴らした。彼は泣きたくなると、いつも喉を鳴らした。「気が触れなすった!」と彼は、百姓の暗い姿に向ってささやいた。
  
 しかし、意外にも夫が姿を現したとき、女は絶望のために青ざめた。しかし、夫には妻の気持ちが分からなかった。若い女は号泣した。
  「その泣き声には、いやいやながらの結婚や、たまらない夫への嫌悪や、孤独への憧れや、がらがらと崩れ落ちた自由な独り暮らしへの希望など、あらゆる思いが聞かれた。悲しみと涙と苦痛に満ちたあらゆる彼女の生活が、ばりばりと割れる氷塊の音にも消されぬこの号泣に注ぎ込まれた。夫はこの号泣の意味を知った。いや、知らないではいられなかった。・・・」
 夫は「君の望む通りになるさ」と言って、荒れた海に出ていった。「帰ってきて」
と女は繰り返し叫んだ。しかし、夫は帰ってこなかった。
  「夜があけるまで、青白い女は海岸に立っていた。なかば凍え、道徳的な苦しみのためにぐったりとなった彼女を、家へ運んで寝床のなかへ寝かせた時も、彼女の唇はなおも『帰って来て!』とささやきつづけていた。
 クリスマスの前夜に、彼女は初めて夫を愛した。・・
 夫の叫びを聞いた夫が帰ろうとしたにもかかわらず帰れなかった事情は非常にうまく描かれている。それにかかわる「阿呆のペトルーシャ」の描き方はいかにもロシア文学的で深い感情に満ちている。海の割れる様子やそれを目の前にする漁師たちも厳しいロシアに生まれる厳しい精神のあり方が非常にうまく描かれている。しかし、青白い女と夫の関係は、あまりにも文学的でロマンチックで、非現実的である。この種の感情の変転は自然な感情として受入れ難い。
 夫が死ねばいいと思うほど現在の生活を嫌っている、これはごく自然で現実的な感情である。夫は妻がそう望むなら死んでもいいと思うほど妻を愛している。ここではすでに説明が必要な矛盾が生じている。それほどの愛情を持ちながら妻の絶望を理解していないことを自然にするだけの事情があるはずである。それほどの愛情をもつ夫を嫌悪する妻の感情が自然であるためにも事情がなくてはならない。そうした事情は描かれていないし、描くことはできない。愛が瞬間に回復するからである。現実的には妻が自分を死を望んでいるからといって死ぬ必要はない。ほかにも選択肢はあろうのに単純に妻の意志のままに荒れた海に漕ぎだすというのは短絡的で情熱の内容と矛盾している。死を望んだり実践したりすることで単純に愛が回復するのは何か甘ったるいだけでなく馬鹿くさい。彼女は夫の愛がないから夫の死を望んだのではなく、彼女自身が夫を愛さないままに結婚し、日々の生活の中で嫌悪感を強くしていった。それが夫の単純な行動で、たとえそれが死を覚悟したものであっても、回復するなどというのは日々苦悩を蓄積している彼女の感情を弄ぶか、それまでの彼女の感情が虚偽であるかである。現実には複雑で面倒でややこしくて、どうにもならない関係や感情が絡み合っており、それはどんな空想より意外で深刻で深い感情を含んでいる。この意味で常に事実は小説より奇なりである。現実自身に含まれる意外な展開は常に自然である。それを描写した場合は小説も深い感動を与える。ここに描かれた感情の変化は、効果を狙った単純な作り物である。

 4.『自由主義者』

  「新年の元旦には、人類はうるわしい感動的な光景を現すものである。誰も彼もが喜び、狂喜して、お互いに祝福しあう。空気がこのうえなく誠実な、心からなる願いで打ちふるえる。誰もが幸福で、満足している・・
 ただひとり、十二等官ポニマーエフだけは不満だった。」
 
 ポニマーエフが新春から不満であるのは、新春の挨拶に、長官の家に訪問し、署名しなければならないからである。彼はそう解釈している。彼にはそれが「奴隷になり下がる」ことに見える。妻は、署名しないと飢え死にすると訴えているが、彼にとっては署名は精神的な死である。だから、妻に引きずられて長官の家の前まで来た時には、「じゃ、畜生、署名してやろう!いつまでも忘れられんように署名してやろう!あの紙に何もかも書いてやろう!おれがどんな意見を持っているかを書いてやろう!」と、やけくそな気分になった。彼より先に署名に来ていた同僚に対してははっきり批判的な言葉を口にした。
  「一体これが無学じゃないだろうか、下男根性じゃないだろうか?」とポニマーエフがつづけた。「やめろ、署名なんかするな!それより抗議を書け!」
 彼ら自由主義者の不満は何に由来するのであろう。誰もが喜び合っているときに奴隷だとか破滅だとか抗議だとか言って妻を苦しめなければならないのはどういう運命の巡り合わせであろうか? ポニマーエフが新春から不満で満たされていることははっきりしている。しかし、原因は誰にも分からないし、不満の正体もなかなかわからない。
 長官は、ポニマーエフが機関車の真似が巧いことを思い出し、若い婦人にやってみせるように言った。しかし、彼は断った。そして、自分でもきっぱり拒絶したことに驚いた。「家へ帰ってからも、彼は食事もせず、お茶も飲まなかった。……夜には、悪夢にたたき起こされた」、「機関車の真似をするぐらい、何でもなかったのに!」とも思ったし自殺してやろうとも思った。ところが、結果は意外だった。長官は彼が酔っていたと思っており、もう少し分別を持たなければ体を壊すぞと注意しただけだった。
「 ポニマーエフは嬉しさのあまり思わず笑いだした。小鳥のようにさえずりさえしたそれほど嬉しかったのである!しかし彼の顔はすぐに変った。……彼は顔をしかめると、軽蔑しきったような笑いを浮かべた。『僕があのとき酔っぱらっていたのが、お前の仕合せさ!』と彼はヴェレレープトフの後姿に向って、声に出してつぶやいた。『お前の仕合せさ、でなけりゃ……なあ、覚えているだろう、ヴェズーブィエフ、どんなに僕があいつをやっつけてやったかを?』
 役所から家へ帰ると、ポニマーエフは猛烈な食欲を出して食事をした。」
 ポニマーエフの批判意識は、長官との現実的で対立的な批判意識ではない。彼は現実には哀れな妻と対立し、妻を苦しめている。あるいは心から卑屈な気分で署名している同僚を嫌悪し、彼らに気分を害されている。長官は卑屈さを求め、同僚は卑屈である。しかし、だからといって元旦から不満である理由にはならない。彼の不満は長官をも同僚をも苦しめることはなく、妻を苦しめるだけである。そうした不満はロシアの愚かしい社会の中で、例えば彼が怠け者であったり、無知であったり、仕事が嫌であったり、人間関係をうまく形成できなかったり、等々の彼自身に由来する不満であろう。彼の不満は結局は長官と対立しないような内容に限定されているからである。
 ラストの描写は、彼の苦悩が長官との対立に基づくものではないことをうまく描いている。苦悩は戦いや対立にともなうものではない。彼は対立や戦いを予想しても実際には対立を回避する臆病な精神の持ち主である。彼は結果として対立にならなかったことをこころから喜んでいる。彼の批判意識がこのとき再び芽生えることは、彼の批判意識が対立の無いところにだけ生じることを示している。

 卑屈な奴隷根性が広範に存在する社会では、このような批判意識の形態をとった臆病な精神も一般的である。自由主義とともに、自由主義に対する批判意識も高度に発展したロシアでは若いチェーホフもすでに、その弱点を巧く、滑稽に描いている。しかし、自由主義者の滑稽さをうまく描くとすぐに、では、どうすればよいのか、どのような意識が真の批判意識なのかという疑問が湧いてくる。自由主義に対する批判にのみ費やされる批判意識は自由主義にとらわれている。自由主義者の意識と行動が滑稽であるほど、それに対する批判にも限界が生ずる。「自由主義者」の滑稽さをすでに簡単に描くことができるチェーホフにはすでに、すでに滑稽になった自由主義者や地主の生活や精神を、より深刻に批判することが課題となっている。
 こうした課題は百年も前のロシアの話である。二十一世紀の日本では自由主義者も見当たらない。自由主義者を滑稽に描くなどというのは贅沢な話である。

 5.『勲章』(1884.1.14)

 幼年学校の十四等官であるレフ・プスチャコーフは、商人のスピーチキンのところで食事をするために、友人の中尉に勲章を借りた。スピーチキンは俗物で勲章をすきだからだとプチチャコーフは少尉に説明している。しかし、俗物だとか勲章など形式にすぎないとか言っても、自分でつけてみると話が変わってくる。実際に胸につけてみると、「自分に対してまで余計に尊敬を感じるから妙だ!」という気分になるし、「御者は、彼の肩章とボタンとスタニスラフを見るなり、一瞬化石したように彼には思えた。」というふうに世の中を見る眼も変わってくる。
 しかし、この喜びはすぐに水をさされた。食卓に、同僚のフランス人がいた。フランス人は勲章を軽蔑しているし、校長に密告するかもしれない。右手で勲章を隠さねばならなかったので、目の前の蝶鮫にも手を出さないほど苦悩し動揺していた。やはり勲章は形式だし、まして借りたものだとしてたらどんなに軽蔑されるかわからない。
 ところがこのフランス人も実は苦悩していた。フランス人もアンナ勲章を着けていて、プスチャコーフに見つかるのを恐れて画していたからである。フランス人はプスチャコーフの勲章を見つけて自分の勲章を隠すのをやめた。それまでの苦悩が深かっただけに二人は心からの満足に浸った。安心しきったプスチャーコフは「いや、多士済々の僕等のところで、勲章をもらったのがあなたと僕のふたりだけとは!お・ど・ろ・い・たことですね」とまで言った。
 「いっそブラジーミルでもつけて来るんだった。ええ、気がつかなかった!」この考えだけが彼を苦しめた。他のことでは、彼はすこぶる仕合わせだった。
 彼らの苦悩にも満足にも際限がない。俗物には俗物の苦悩と満足がある。彼らにつける薬はないし、俗物がその俗物根性の故に満足に到達しないとか、罰を受けるということもない。彼らは俗物らしい苦悩を十分味わったのであるから俗物らしい満足を得るくらいの権利はある。彼らの苦悩も満足も彼ら自身としては無限的な、心からのものであるが、それでも些細なことであるので、俗物故にこうした満足を奪われる必要はない。俗物であることだけで十分に下らないのであるから。

 6.「七万五千」

 ワシーリイ・イワーヌィチは洒落者で放蕩者である。妹の中学校の授業料を払うた
めに腕輪を質に入れてくれと妻に頼まれたが、それをトランプですってしまった。
 「ほんのちょっとした衝動で、実に沢山の愚劣ないやらしいことをやっちまう。そのくせどうしても止められない。……ああいやだ!遺産にでもありつくか、富くじにでもあたったら、僕は浮世の一切を投げ出して、新しく生まれ変わっただろうと思うんだが……。」
 反省も放蕩者にふさわしく、反省と言えるものではない。ところが、このようなろくでなしを、美しく誠実で労苦を厭わない女性が愛しているというようなことがある。彼が妻の腕輪をトランプですって帰ってきたとき、妻は意外な幸運で有頂天になっていた。彼女がかつての婚約者からもらった債券が七万五千ルーブリに当たったからである。
 「あたしたち今じゃもう大変なお金持ちなのよ!あなたも今度こそ心を入れ換えて、ふしだらな生活をやめて下さるわね。だってあなたが放蕩したりあたしをだましたりしたのは、お金が足りないため、貧しいためだったんですもの。あたしにはそれがよくわかるの。あなたは利口な、立派な方ですもの……」
 こうした展開になると、あとの流れは決まってくる。
 ワシーリー・イワーヌィチは、新聞に素早く眼を通した。……呆然として真青になった彼は、妻の言葉も聞かずに黙ったまましばらく突立って何か考え込んでいたが、やがてシルクハットをかぶると、家から出て行った。
 このやくざな遊び人は当然その債券を処分してしまっている。しかし、彼は、このことで自分の愚かさに気づいたのでも、放蕩者の欲から、自分の失った金を取り返そうと思ったのでもない。彼は自分を裏切った女のところに駆けつけてこう言った。
  「新しい崇拝者をくわえ込んで、おまけに暇がない、か!なかなかご盛況なこった!何だって君はクリスマスの晩に僕を追い出したんだ?君は僕と一緒に住むのが嫌になったんだ、なぜかと言や……なぜかと言や、僕が君に十分の生活費をやらなかったからだ。……しかし君は間違っていたんだぞ。……そうとも……君僕が名の日の祝いに君にあげたあの債券を覚えているかい?さあ、読んで見給え!七万五千ルーブリ当たったんだよ!」
 同じ頃、自分の債券が盗まれたことを知った妻の絶望が対比されて、彼の裏切りの徹底ぶりが描かれている。
 この作品もこの時期に特徴的でチェーホフが時間に追われて、軽いインスピレーションで書き飛ばしたものだろう。読書から思いついたようなフランス的な内容で、ロシア的でもチェーホフ的でもない。友人との関係も思いつきの組み合わせらしさが出ている。各々の国民には特有の解決すべき課題がある。ロシアの矛盾とフランスの矛盾は違う。放蕩者はどの国にもあるが、その微妙な違いが文学にとっては決定的に重要である。この作品もうまく書いているが、ロシアの読者にとっては深刻でもないし身近でもないだろう。われわれ日本人にとっても同じである。ロシアや日本にはこれほど徹底した放蕩者はいない、というのではなく、これほど端的ではありえず、より込み入って、非道徳が道徳の形式をとり、克服も面倒でややこしく困難である。ディドロやバルザックがこの種の放蕩者を描くとやはり手際が違っており、フランス社会について深く考えさせられる。ロシアのろくでなしの放蕩者はもっと別のスタイルを持っていると思われる。

 7.『辻御者』

 御者は普通の百姓として平穏無事に生活していたが、叔父が爺さんの金を盗んでから家が没落し、今は寒さに凍えながら客に愚痴を言っている。その客は、偶然にも彼を没落させて、今は羽振りよく暮らしている叔父であった。愚痴の中で自分の名前を聞かされた叔父の気持ちはどんなものだったろうか。
  コトローフはポケットから十五コペイカ玉を取り出して、御者に渡した。「割増しを下すってもよさそうなもんで!ちゃんとお送りしました!それに今日は初商売で……」「うるさい!」
  旦那はベルを鳴らして、一分後には彫刻のある樫の扉の奥に消えた。御者は御者台に飛び乗って、ゆっくりと引き返して行った。……冷たい風が吹いていた。……辻御者は顔をしかめて、凍えた両手を破れた袖へ突込んだ。
  彼は寒さに慣れていなかったのである。……あまやかされていたので……
 ロシアの寒さは格別であろうが、御者になった以上は慣れなければならない。御者の愚痴もコトローフには何の影響も与えなかった。愚痴で少しでも割増が貰えればよかったが、それもなかった。御者がコトローフを乗せたのは偶然である。しかし、多くの百姓が没落し、その中からコトローフのような男がのし上がっていくのがロシアの現実である。コトローフだけの幸運でもないし、御者だけの不幸でもない。ロシア全体がそうなっているのだから、それを現実として受入れ、認識し、対処するしかない。こうした現実の中では個人的な恨みや悔恨は本質的な意味を持たない。現実を受け入れる強い精神がロシアには伝統的に根づいている。
 「・・神様に、叔父がおれの苦しみのつぐないをするように、祈りてえ。・・まあ、あんな奴なんかどうでもいい!神様が許すんならそれでいい!我慢しよう!」
 厳しい人生の中でグチも言わずにはすまされない。しかし、他方ではこうした受容の力をつけていなければならない。チェーホフが描くこうした力強い精神を我々日本人はなかなか獲得できない。チェーホフの抒情を理解するにはチェーホフの初期作品から流れているこのような力強い精神を理解していなければならない。われわれ日本人は、チェーホフが書き飛ばした初期の作品の内容を理解するためにも、まだまだ多くの経験や考察を必要としている。初期作品を単純に楽しむことはわれわれにとっては今のところかなり先の課題である。

 8.『家庭教師』(1884.2.11)9

 これも貧しい生活が客観的に描かれている。家庭教師はつまらないことで不愉快になり苛立っている。それもこれもみな貧しい生活のためである。しかし、貧しい生活が日常であるから、それにも慣れ、耐えなければならない。貧しさが正しいとか、いいとか、金持ちが悪いとか羨ましいとかの妙な偏見をチェーホフは持たないし描かない。うまくいかない、欠点だらけで、不満だらけであってもやっていかねばならない。毎日二時間やって、もう六ヵ月間金を貰っていない。「一週間か・・二週間したら」といわれて、同意してそのまま次の課業にいかねばならない。チェーホフの生活の一側面が、自己肯定とか、哀感とかの思い入れなしに描かれている。厳しい生活に対するチェーホフな強靱な対応力が感じられ、親しみを感じる作品である。

 9.『狩場で』

 これも小説的にこしらえた偶然である。運の悪いことに、兎と思って猟犬を撃ち殺してしまって、当てにしていた財産も贔屓もなくしてしまった、という話。この偶然の背後には、犬を撃ち殺しただけの偶然ですべてを失う限りは、どんな偶然が彼の期待した幸福をぶち壊す分からないし、どうせぶち壊すであろうし、彼に限らず日々ぶち壊されているという事情がある。下らない理由で失ったことがいかにもロシアらしく、彼の個性的人生である。しかし、期待した幸運を失うことは彼の個性でもないし、ロシアだけに固有の運命でもない。だから、彼が財産を失ったこと自体には悲惨さはなく、その失い方が滑稽になる。こうした厳しい運命を滑稽に描いている作品を読むと精神が強くなる。不幸な運命には実際に滑稽な即面があるし、それを理解することは積極的に対処することでもある。そして、こうした滑稽な側面を理解できなくては、厳しい運命の苦悩や悲しみもまた理解できないものである。

 10.『おお、女よ、女よ』(1884.2.15)

 世の中にはむしゃくしゃすることで満ちている。だから、我慢もできるようになる。しかし、誰にもどうにも我慢のならないことがひとつや二つとか、運が悪いと十や二十はある。ここでは、新聞の編集者が、地位のある俗物に自作の詩を載せるようにづうづうしい圧力をかけられたことが、それである。詩を書くのが好きな上に、自分をネクラーソフと比較するほどの馬鹿者である公爵と、くだらない話をした上に、新聞の恥さらしになるその詩を載るか失脚するかの苦境に追い込まれた。こんな公的な、思想的な、価値観に係わるような苦境を癒しうるのは、やはり思想的な精神的な理解だけである。
  「ああありがたい!やっと家に帰った……心ゆくまで休もう……わが家で、女房のそばで……うちのマーシャは、おれを理解して心底から同情してくれるたったひとりの人だ……」
 思想的な価値観の対立は深刻な苦悩を引き起こす。しかし、思想の上での一致は対立の苦悩と同等の高度の幸福をもたらす。だから、無理に言えば公爵は編集者の幸福を準備したとも言える。
 しかし、編集者は幸福にならなかった。これは公爵の罪ではない。
  マリヤ・デニーソヴナははっしとばかり両手を打ち合わせた。「とっても可愛い詩だわ!どうして詩じゃないなんて仰しゃるの?あなたはただ言いがかりをつけたのね、セルゲイ!いいわねえ、<<夢見る葉巻の煙をくぐって……炎の笑いを口もとに……>>ですって!あなたには何もわからないんだわ!あなたはわからないのよ、セルゲイ」
  「わからないのはお前だ、僕じゃない!」「違うわよ、ご免なさい……散文はあたしわからないけれど、詩ならとてもわかるの!公爵はすばらしい詩をつくったのよ!すばらしいわ!あなたは公爵を憎んでいるものだから、それで載せようとしないのね!」
 理解と慰めを求めて帰ってきた夫がどんな愉快な気分になったかは解説する必要がないだろう。このような描写を読むと、他人ごとだと思うからか、あるいは自分もおなじでよく分かると思うからか、どちらかわからないが楽しくなってくる。
  「そしてシルクハットをとりあげると、つらそうに頭を振って、家から出て行った。……
  『侮辱された心が安んじられる場所を探しに行こう。……おお、女よ、女よ、
  もっとも、女というのは皆おなじだ!』と彼は、レストラン<<ロンドン>>へ向かって歩きながら考えた。
  彼は酒が飲みたかった。……
 酒が飲めなくても飲みたい気分は分かる。しかし、「女というのは皆同じだ!」というのは、彼個人がよくない選択をしたことを認めたくないゆえの詭弁であろう。実際には、すべての女がこういうのであるのではないし、大多数の女がそうであるということでもないし、女にありがちなわけでもなかろうし、女というものは多少そういう傾向を持つものであると断定することもできないであろう、と思われる。しかし、そうであろうとなかろうと、このような運命に見舞われた場合は、「女というのは皆同じだ!」と言いたくなり、女一般とか人類一般を呪って酒を信頼したくなる。この作品を深く感受する人は何かしら愉快になって、すぐにも酒を飲みたくなるであろう。

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