『沈黙の塔』 (明治43年11月) 

 
 『沈黙の塔』は、鴎外が当時厳しくなった当局の言論弾圧に関連して、自分の官僚的立場を明らかにした作品である。鴎外はこの作品の三カ月前にも保守的な官僚の立場を表明した「フアスチエス」という作品を書いている。当時厳しさを増していた言論弾圧に対して文壇側の反発があり、それに当局側が応える文書が発表された機会をとらえて、鴎外は当局と文壇の対立に割って入り、保守的な、しかし、教養のある官僚として、当局の説明の不十分を対話形式で補強し解説した。鴎外が問題にしているのは取り締まりの方法についての細目である。取り締まりに反対しているのではない。山県のような露骨で単純な弾圧だけが当局のやりかたではない。鴎外は官僚であるとともに作家であり、文化方面でも当局者として常に重要な位置にいたから、無教養でむやみな言論弾圧とは違った、より効果的な取り締まりに関心を持っている。鴎外の小説による宣伝は、当局の多様な反動的思想政策の一つであり、しかもなくてはならない重要な方法である。鴎外の文章が発表されても当局は何らの痛痒を感じないし、それを補強と感じたであろうし、文壇も弾圧に反対する一つの力とは受けとらなかっただろう。ただ、鴎外の場合は、前年に「ヰタ・セクスアリス」を書いて風俗を壊乱する作品として発禁処分を受けていた上に、官僚内部でも上司と対立関係にあり、保守的な思想と保身的な弁護が混在しているために多少ややこしくなっている。
 この作品で重要な意味を持ち、鴎外の保身的都合にとっても重要であったのは、処罰の標準の問題ある。
 記者。近頃風俗を壊乱する著作物を出したといふので、處罰せられるものが大分ございまするが、あの處罰になりまする標準といふやうなものが承りたいので。
 これが「フアスチエス」の記者の第一の質問であある。この質問に対して、鴎外は官吏の長々しい説明を書いている。処罰すべき作品とそうでない作品の標準を、すぐれた作品とそうでない作品、あるいは作者の意図の道徳性の問題として論じることは、言論弾圧の粉飾であり、自己弁護以外の意味を持たない。それは、優れた芸術作品とそうでないものとを区別する標準も、作者の意図の質を決める標準もあらかじめ設定することは決してできないからである。言論取り締まりの問題をこの確定できない、紛らわしい問題に引きずり込むことは鴎外にとって二重の意味があった。
 鴎外は記者の質問に対して官僚の大雑把な分かりやすい説明を与え、次に文士を登場させて標準についての無意味で細かな詮索を書きつらねている。芸術作品の価値の標準をどうきめるか、という問題は矛盾に満ちた、鴎外好みの無意味な詮索に迷いこませる官僚的なごまかしである。言論弾圧そのものに、あるいは具体的な作品の発禁を問題にして反対するのではなく、すぐれた作品とそうでない作品の標準が曖昧である点を問題にすることは、言論弾圧から無意味な芸術論に問題をすりかえることである。言論弾圧から離れた純粋な芸術論としても、芸術の価値の標準を決めることなどできるものではない。標準はなにかの問題に頭を突っ込んでいる間に、当局は具体的に取り締まりを進めて行けばいいというわけである。
 言論弾圧を解答のない芸術論の問題を歪めてしまうことは、鴎外にとっては言論弾圧を側面から補足するだけでなく、第二に自己弁護としての意味を持っていた。鴎外は山県派の官僚としての立場においても、自分自身の思想としても言論弾圧を肯定している。しかし、自分の作品や訳書が取り締まりの対象になるのは不当であることを訴える必要があった。官僚としての立場に影響してくるからである。
 併し違ふのが當り前だから、違ひ放題に違はせて置く、判決例なんぞを研究するには及ばないと仰やるわけではございますまい。こんな事で生じて來る相違の範囲は、なる丈狭くなるやうにとお努めに丈はなることでございませうと存じます。只あんな風に仰やるのを承りますると、我々文芸に從事してをりまするものは、多少の不安を感ぜずにはみられませんのでございます。
 作品がすぐれているかどうかの標準は、社会一般の思想である。それが何であるかは当局が決める。その標準をあらかじめ決めて示すことは、あらゆる国によって、また人によって価値観が違うのだからできるものではない、と言われれば、それに反論することはできない。だから、当局にできることは、当局の言う一般思想ができるだけ客観的で公平であるようにあらゆる努力をすること以外にない。当局はその努力をしていると、鴎外はわざわざ書き込んでいる。このようにして、鴎外はまず当局が「我々文芸に從事してをりまするもの」の「多少の不安」を取り除く努力をした上で、ふたたび、同じことの繰り返しになるが、そのような努力の中でも、当局の言論弾圧の標準がはっきりしていないこと、つまり、時には間違うこともあり得ることを念入りに指摘している。それは鴎外の「ヰタ・セクスアリス」が発禁になったことを臆病に遠回しに弁護するためである。
 鴎外の「ヰタ・セクスアリス」は、性欲的な好奇心を陳列した上で、なお自分は出世の道を外れなかったと弁解しただけの、ごくくだらない作品である。鴎外と同じ立場にある保守的な官僚にはこの作品は風俗壊乱に見える。しかし、この作品の価値をはっきり決めることができるわけではないし、その標準を決めることができるわけでもなく、また下らない作品だからといって発禁にしていいものではない。当局が発禁処分にしたからといって当局の意識を超えた優れた作品であることにもならない。鴎外の作品は先進的だったから発禁になったのではなく、それまでにも私生活の暴露というスキャンダラスな作品をし描いていたために、官僚の道徳的な意識に触れただけである。だから、作品の芸術的な価値と言論弾圧は関係がないし、関係を確定することもできない。そして鴎外は、この確定できないことを利用して、曖昧な自己弁護を繰り返し、一層臆病になり、自分の正当性を説明するために、言論弾圧の側面援護に努力するのである。
 鴎外は二重に間違っている。言論弾圧はそのものが無条件に批判されるべき政治的な政策である。標準が間違っていることや標準が曖昧だからという点で批判されるべきものではない。また標準がはっきりしないとしても、また当局が発禁処分にしたとしても、鴎外の作品が優れた先覚的な作品であったわけでもない。だから、鴎外は当局の言論弾圧を肯定している点においても、また自分の作品を先覚的な作品だと考えて擁護している点でも間違っている。
 言論を弾圧する場合に、弾圧の正当性としての標準を一般論として問題にすることが当局の政策の補強になるのは、当局としてもすべての芸術を弾圧する訳ではなく、当局にとって都合の悪い芸術を弾圧するのであり、芸術が選択されるからである。しかし、その処分の基準を求めることは不可能であり、言論弾圧という政治的な政策全体にあるいは具体的な政治的政策に個別に反対することだけが具体的な反論である。鴎外は当局の反対になる内容を一行も書き込んでいない。
 ただ、この「フアスチエス」の最後の付け足しが問題になるように見える。
 やい。へろへろ文士。己は貴様を見損つてこれ迄付いてゐたのだが、もうこれでお別れだぞ。見下げ果てた奴め。さつきからの物の言ひざまはなんだ。物識り振つて高慢な事を言ふかと思へば、自分で自分を打ち消して、遁げ腰になつてゐる。先覚者や革命家はあるまいと云はれて、へえ、ございませんと引き下がる。己が付いてゐて遣るのに、なぜ己が先覚者だと名告らないのだ。貴様の文芸生活と俗生活とは到底矛盾を免れないと、三宅雪嶺が云つたのは、けふ己が別れるのを預言したやうなものだ。やい。役人。國家は貴様にオオソリチイを與へてゐる。威力を與へてゐる。それはなんの爲めに與へてゐるのだと思ふんだ。己は執法者だから、己の頭脳で己が判決する。歴史にも構はない。世界の文化にも構はない。己の判決と違った判決をすれば、それはそのした奴の間違ひだといふやうなことを言ってゐる。丸でロオマ法皇の infallibilitas のやうな話だ。Godiamoci il Papato,che Dip ce l'ha dato と、日本の芸術界がそれで恐れ入ってゐると思ふかい。威力は正義の行はれるために與へてあるのだぞ。ちと學問や芸術を尊敬しろ。 (堀端を大股に歩み去る。二人腰の抜けたるままにて見逸る。)
 どうにも不真面目な、ふざけた弁明でありごまかしである。「物識り振つて高慢な事を言ふかと思へば、自分で自分を打ち消して、遁げ腰になつてゐる。」という文士の態度とは、鴎外の態度のことである。鴎外にはこれ以外の態度をとりようがなかったし知らなかった。鴎外はこれまで常に物知りぶった、高慢でしかも卑屈な態度だと非難されてきた。だからこれまでも、そうした非難を自分はすでに承知しているという形式で反論してきた。この作品でも、自分の代弁者である文士を、あたかも鴎外が自分に対する批判を先取りするかの様に極端に卑屈な形式で描いている。しかし、鴎外は非難を先取りする形式をとっても、他のどんな形式をとっても、つねに傲慢であり卑屈である他はなかった。鴎外が露骨に高慢で卑屈な形式をとっても、つまり高慢によって高慢を、卑屈によって卑屈を覆い隠そうとしてもやはり本来の高慢と卑屈が表れているのである。
 臆病で用心深い鴎外は、「なぜ己が先覚者だと名告らないのだ」と指摘せずにはいられなかった。鴎外が言いたいのはこのことである。しかし、自分の作品が先覚者の作品であり、それは言論弾圧から外すべきだと主張することは、世間に対しても文壇に対しても官僚に対してもとうていできることではない。鴎外は自分の立場や主張がはっきりするような具体的な、自分の責任が問われる様な主張を決してしない、という敏感な嗅覚をもっていた。しかも、自分が先覚者であるという主張をこのような形ででも表明しておかねば気が済まないのが鴎外の性格である。先覚者だとはっきり言わないのがよくないのだ、という形式ではっきり言うのが鴎外の小知恵である。実際に先覚的な作品を描いていればこんなことを書く必要は無かったし、またこんな知恵が生まれる余地もなかっただろう。
 では、「威力は正義の行はれるために與へてあるのだぞ。ちと學問や芸術を尊敬しろ。 」というのは、どういうことであろう。これが、腰の抜けるほどびっくりするような主張であろうか。無論これは卑屈にふざけているだけである。国家に威力があり権威があり、その権威は正義のためにあり、学問や芸術を尊敬すべきだ、ということには山県有朋でも反対しない。「学問や芸術を尊敬しろ」と言う言葉は実質的にはすでに否定されている。学問や芸術が優れているかどうかの標準を問題にする場合は、発禁処分も取締一般も学問や芸術を尊敬することと矛盾しない。学問や芸術を尊敬する、しかし、あるいはだからこそといっても同じことであるが、だからこそ、学問や芸術の名を汚すようなくだらない学問や芸術を処罰するのだということができる。したがって、山県派の官僚として、処罰する場合の標準を問題にして、学問や芸術を尊敬すべきことを同時に主張することは、すべて言論弾圧を肯定する官僚の立場の表明である。それに、自分に対する三宅雪嶺の批判に対して、いかにも当局の文壇弾圧を背景にした官僚的な威力を示すような形式で反論しているところが、不真面目でふざけていて、批判をまともに問題にしない極めて横柄な対応である。
 芸術を大事にするということと、言論弾圧をすべきでない、ということは同じようで、関連している様で、まったく違った、別の主張である。それが連関しているかの様に主張しているのは、自分の作品が発禁処分になったために、処罰の肯定と否定が微妙に混在することになるからである。言論弾圧に反対するのではない、言論弾圧にはそれなりの正当性がある、それは重々承知であるが、自分の作品が発禁処分を受けたのは間違いである、ということだけを、明確ではなく、遠回しに、何を言っているのか分からない様に、しかし、当局と自分自身を擁護する明確な印象を作りだす、という官僚的な努力をしており、そのための知恵を鴎外は自分の保身的な人生の中で蓄えていたということである。鴎外の立場は常に概念の具体化を粉飾し、内容を曖昧にし抽象化することを自分の利益としていた。そのために、鴎外の思想は常に、具体的内容を抽象化し糊塗し、無内容化する傾向を持っている。


 明治43年9月に「フアスチエス」が発表された後も、大逆事件の陰謀の進展に伴って、いよいよ当局の出版物に対する規制が強化され、それに呼応して、「朝日新聞」に「危険なる洋書」という評論が9月16日から10月4日まで掲載された。この中で、鴎外の作品や翻訳も道徳を壊乱する危険な書物の一つとして攻撃されていた。山県に近い立場にあった鴎外としては、こうした批評に迅速に機敏に、そして注意深く反応しないわけにいかなかった。「フアスチエス」と同様「沈黙の塔」においても、鴎外は自分が当局にとって決して危険ではないことを説明しようとしている。鴎外自身は危険などころではなく、山県派の官僚として活動していたが、官僚内部の対立において、すこしでも傷が生ずることに非常に用心深く対処しなければならなかった。
 鴎外はこの作品で、 「危険なる洋書」という評論が自分に関わるものではなく、それが文壇の内部闘争であり、自分は距離をおいた高い立場からそれを眺めているという立場をとっている。それは、実際に鴎外が文壇に対してとりはじめている立場であった。こうした立場から「危険な書物」について解説しているこの作品は、保守的で卑屈で保身的な官僚の自我を対象化した愚劣で陰険な作品である。
 高い塔が夕の空に聳えている。
 塔の上に集まっている鴉が、立ちそうにしてはまた止まる。そして啼き騒いでいる。
 鴉の群れを離れて、鴉の振舞を憎んでいるのかと思われるように、鴎が二三羽、きれぎれの啼声をして、塔に近くなったり遠くなったりして飛んでいる。
 疲れたような馬が車を重げに挽いて、塔の下に来る。何物かが車から卸されて、塔の内に運び入れられる。
 鴎外らしい風景である。鴎外には、非常に気味の悪い、悲惨や不幸を好む傾向がある。文壇から離れはじめている鴎外は文壇の悲惨な状況を傍観している。「鴉の群れを離れて、鴉の振舞を憎んでいるのかと思われるように」という文章は、すでに文壇から孤立した鴎外が、文壇に対する弾圧を、自分の高い立場を理解し得ない、芸術を理解しえない者の、哀れな運命として眺めている印象を与える。しかし、塔に死体が運び込まれるとか、殺すといった表現をするのは鴎外の異常な感覚である。言論弾圧が吹き荒れ、大逆事件の陰謀が進行している時に、こうした陰険な作品を書くのは、保守的な官僚としても非常に特殊な、自己保身的に冷酷な精神である。鴎外は、文壇的な孤立と、思想的な統制を強化する山県派の政策の同時的な進行の中で、保守的で保身的で陰険な性格をいっそう強めている。
 電灯の明るく照っている、ホテルの広間に這入ったとき、己は粗い格子の縞羅紗のジャケツとずぼんとを着た男の、長い脚を交叉させて、安楽椅子に仰向けに寝たように腰を掛けて新聞を読んでいるのを見た。この、柳敬助という人の画がtoileを抜け出たかと思うように脚の長い男には、きのうも同じ広間で出合ったことがあるのである。
  「何か面白い事がありますか」と、己は声を掛けた。
 「己」の世界は、「沈黙の塔」と違って、明るい、高級な世界である。鴎外はこうした世界を自分の世界として、パーシイ族の世界と区別している。こういう立場が、陰険で凶暴な思想弾圧が進行するなかで表明されている。
 「車で塔の中へ運ぶのはなんですか。」
 「死骸です。」
 「なんの死骸ですか。」
 「Parsi 族の死骸です。」
 「なんであんなに沢山死ぬのでしょう。コレラでも流行っているのですか。」
 「殺すのです。また二三十人殺したと、新聞に出ていましたよ。」
 「誰が殺しますか。」
 「仲間同志で殺すのです。」
 「なぜ。」
 「危険な書物を読む奴を殺すのです。」
 鴎外は、パアシイ族が仲間同士で殺しあっている、と説明している。これはまったくの嘘である。文壇の内部ではいつでも相互の批判がある。鴎外自身質の悪い陰険な批判をやってきた。批判を根に持って復讐的な感情を抱き、体面を保つために執念深く反論し自己を弁護するのは鴎外だけの、官僚らしい特殊なやり方であるが、それでも内部的な相互批判である。「危険な洋書」は文壇内部の批判=殺し合いとして危険な文書なのではない。それは言論弾圧を断行している当局の動きと呼応しているから危険なのであって、決して内部で殺し合っているのではない。自分に対する批判に対して常に執念深く復讐しようとする鴎外が、この批判に限って、自分とかかわりのない、内部の醜い争いであるように描いている。鴎外は文壇との関係では当局者として活動する立場をはっきりさけなければならないことを表明する必要を感じている。鴎外はこの官僚的に自己保身的な立場から「危険な洋書」を文壇の内部対立として描き、文壇に対する弾圧を意地悪く容認するとともに、同時に自分をその内部での醜い争いから浄化しようとしている。大逆事件をでっちあげて思想弾圧としての死刑の準備が背後で進行しているときに、死骸だとか殺すなどということばを文壇に対して発するとは、官僚としての地位しか鴎外に残されていないことを如実に物語るものである。鴎外は、この作品で、この殺し合いという悲惨な状況を、文壇自らがもたらした災いとして説明しようとしている。
 直ぐに己の目に附いた「パアシイ族の血腥き争闘」という標題の記事は、かなり客観的に書いたものであった。
 鴎外のいう文壇内部の闘争についての客観的な説明といしのは、文芸界の状況についてのごく上滑りな、全体として取り締まりが激しくなったことを、政治的な状況や国内の利害の対立においてではなく、文壇内部の事情によるかのように説明した、ごく馬鹿らしい粉飾であり、鴎外が文芸界全体について、遙かな高見から見下した立場にいるということを示すために書いたに過ぎない。鴎外にとって「危険なる洋書」という記事について注意しておきたいことは、それが文芸界の内部闘争であること、その闘争のために悲惨な状況が生まれているし、生まれるであろうこと、そして自分がその運命から免れていることである。官僚的な立場を明確にした非常に汚い身の処しかたである。官僚的な体面と出世を第一とする鴎外は、思想弾圧のための目前に迫った大逆事件の結末に対して、自分の立場を弁明する必要が生じ、中間的な芸術的な高所にあるような装いを脱ぎ捨てねばならなくなっている。
 己はそれを読んで見て驚いた。
 Saint-Simon のような人の書いた物を耽読しているとか、Marx の資本論を訳したとかいうので社会主義者にせられたり、Bakunin ,Kropotkin を紹介したというので、無政府主義者にせられたとしても、読むもの訳するものが、必ずしもその主義を遵奉 するわけではないから、直ぐになるほどとは頷かれないが、嫌疑を受ける理由だけはないとも云われまい。
 「己はそれを読んで見て驚いた」というのは、自分の訳書や著作が危険な著作の一つに挙げられているのは、心外であり、思いも寄らないことである、という意味である。そして、「フアスチエス」の主張の継続として、ここでも標準の問題を取り上げている。つまり、サン・シモンや、マルクスや、バクーニン、クロポトキンを訳したり、読んだりしているのなら嫌疑を受けてもしかたがないが、自分のはそうではない、として、当局に弁明している。
 まず自分の主張として、また当局の機嫌を取るためにも、無政府主義関係の本に対する批判を前置きとして並べている。次は風俗壊乱である。
 Casanova やLouvet de Couvray の本を訳して、風俗を壊乱すると云われたのなら、よしやそう云う本に文明史上の価値はあるとしても、遠慮が足りなかったというだけの事はあるだろう。
 しかし所謂 危険なる洋書とはそんな物を斥して言っているのではない。
 社会主義や無政府主義の書物は反政府的であるから仕方がない。次に風俗壊乱であるが、「Casanova やLouvet de Couvray 」なら理解できるが、として取締自体を非難するのではなく、自分の作品や訳書だけを危険な著書からより分けようとしている。「フアチエス」と、同じで趣旨である。「危険なる洋書」という批評は、無学のために危険な書物と危険でない書物の境界を知らない。だから、「驚いた」と言う。つまり、危険な書物と危険でない書物を区別しなければならない、つまり、自分の書物は危険でないことを理解しなければならない、ということである。
 このあと、トルストイやドストエフスキーやゴーリキーを否定することがいかに不合理で、そんなことをしていると、すべて危険な書物になる、と書いてある。こんな側面から「危険な洋書」という批評を批判するのは、単に自分の博識をひけらかす手段として利用するだけである。常識外れの批判について安心して反批判を並べている。しかし「危険なる洋書」が危険で反動的で反芸術的・思想的であるのは、すぐれた著書とそうでない著書の区別がはっきりしていないことではなく、自分の気に入らないものを危険な著書として幸徳秋水と結び付けて批判し、弾圧を促している点である。弾圧を肯定する立場にある鴎外の主張は、弾圧する対象の基準を明確にしていないことであり、要するに自分の著作を取り上げているのは無知によるのだ、ということに尽きる。鴎外にとっては「危険な洋書」は他の文学者と同じく、無教養な批評である点で非難すべき対象である。鴎外は「危険な洋書」という批評が当局の取り締まりと呼応している点を肯定し、無知故に自分の著書を取り上げていることだけを批判している。自分の著書が危険でないこととと、自分が危険な著書の取り締まりに反対しているのではないことを明らかにするのがこの作品の目的である。
 パアシイ族の目で見られると、今日の世界中の文芸は、少し価値を認められている限は、平凡極まるものでない限は、一つとして危険でないものはない。
 それはそのはずである。
 芸術の認める価値は、因襲を破る処にある。因襲の圏内にうろついている作は凡作である。因襲の目で芸術を見れば、あらゆる芸術が危険に見える。
 芸術は上辺の思量から底に潜む衝動に這入って行く。絵画で移り行きのない色を塗ったり、音楽がchromatique の方嚮に変化を求めるように、文芸は印象を文章で現そうとする。衝動生活に這入って行くのが当り前である。衝動生活に這入って行けば性欲の衝動も現れずにはいない。
 こうしてようやく自分の作品の弁護にたどり着いた。鴎外が自分の作品を弁護するために使う芸術論は貧弱である。「芸術の認める価値は、因襲を破る処にある。」などというのは芸術論としてなりたたない。因習を破るなどという一つの目的を持つことは、芸術が因習に従属することである。鴎外にとって因習を破るところに芸術の価値があるという規定は、この規定から、「上辺の思量から底に潜む衝動に這入って行く」ことに芸術の価値を見いだし、さらに、「衝動生活に這入って行けば性欲の衝動も現れずにはいない。」として、低俗な性的衝動を描いている点を批判されている自分の作品を弁護するために必要だから取り上げているにすぎない。鴎外の目的は芸術の擁護でもないし、文壇の擁護でもなく、ただ性欲衝動を描いて風俗を壊乱したという、なんとも情けないレベルで危険思想とされたことの恥を濯ぎ、自分を平凡でない、因襲にとらわれない、芸術として高度の、しかも、取り締まりに反対しない作家として弁明することである。
  ゲーテやディスレイリの名前を挙げて、これを因襲を破る点から評価して自分をも掬いあげようとするのは無知でも有り強引すぎる。
 この作品は、「フアスチエス」と同様当局者の見解を述べたものである。一般論として批判的な形式をとるのは、自分の作品が危険思想とされているからである。どんな政府でも芸術一般を否定し弾圧するわけではない。弾圧の仕方や対象を問題にするのは、弾圧の効果の問題であって弾圧に反対することではない。弾圧を肯定する批評の無知無能を弾圧と切り離して非難するのは、自分の作品が危険でないことを示すためである。鴎外には弾圧に反対する意志はなく、反対する意志がないことを明らかにする明らかな意志がある。芸術や思想に対する弾圧を、すべての芸術や思想を窒息させることと理解し、それ以外の弾圧を弾圧の否定や緩和であるとするなら、芸術に対する弾圧など一般にありえないことになるだろう。鴎外の主張は現実的な具体的な、実践的な弾圧になんら抵触するものではなく、思想弾圧の中で生み出される、思想弾圧を肯定する思想である。それが鴎外の場合は、弾圧を受ける芸術や思想に対して高い位置から傲慢に傍観すると同時に、自分も官僚内部で道徳壊乱として批判されていることに対する非常に臆病で小心な用心深さがまじりあって、どうにも煮え切らない、傲慢で卑屈で曖昧で誤魔化しの混在した作品になっているのである。
 「学問」についても鴎外らしい形式的な一般論を述べている。名前が多いだけである。一人の哲学者について一行で説明している。説明より名前の方が長いぐらいである。説明の間に名前が入っているのかは、名前の間に説明が入っているのかわからない。官僚の地位に支えられているためとはいえ、愚かさを徹底して表明する点では類まれな能力である。

 

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