『電車の窓』 (明治43年1月) 

  この作品は、ごく単純な主張を小説形式に粉飾しただけの鴎外らしい作品である。自分の非を肯定的な形式に言いくるめるという意味での自己弁護はこの作品にはない。自分の積極性を、あるいは自分が積極的と思っている精神を描いた作品である。
 まず小説形式にするための無意味な描写があって、美しくて、寂しい顔をしている、つまり何か含みを持った女性を描いている。「瞳が黒い星のやうに輝いた」という幼稚な表現は、この瞳に秘められた感情の単純さを示している。
 事に依ったら、わたくしの様子を御覧なすったばかりでも、わたくしの胸にせつない事のあるのもお分かりでございませう。でも、わたくしの胸にある事は、誰にでも慰めて貰はれるやうな事ではございません。誰にでもではございません。永遠に誰にも慰めて貰ふことの出来ない事なのかも知れません。ですから、わたしの顔なんか御覧なさることはお廃なさいまし。駄目でございますから。
 鴎外は、誰にも理解されない、それどころか永遠に慰めてもらう事のできない切ない思いを理解できる精神を描こうとしている。鴎外は自分がこうした深い苦悩を理解することができると信じているが、その具体的な苦悩を描く事はできない。だから、私は誰にも理解できないせつない事があります、と説明している。鴎外は、慰めることのできない苦悩を自分が感じ取ることができる、と書いているが、その感じ取ることのできない苦悩とは何かを考えることができず、ただ、それが何であるかを理解することができないほど深い、と思うことが深い苦悩を意味すると考えており、この自分の感性の意味を追求する必要を感じていない。だから、「瞳が黒い星のやうに輝い」ていて、「駄目でございますから」という抽象的で単純な内面の声によってそれを描いているものと信じ、しかも、自分がその内容を感じ取ることの出来る特別の人間である、と思っている。しかし、この理解することのできないほどの苦悩というのは、非常に軽薄な思考を停止した精神の特徴である。
 女の姿勢を見ると、鴎外にはその姿勢が次のような葛藤を物語っているように見える。
 
 「まあ、なんといふ詰まらない身の上だらう。こんなに大勢の人が此電車に乗ってゐても、わたしがこれから行って閥を跨がねばならない家のやうな家に行く人はあるまい。わたしがこれから行って詞を換はさなくてはならない人達のやうな人と話をする人はあるまい。それでも其家に行かないわけには行かない。その人達と話をしないわけには行かない。なんといふ詰まらない身の上だらう。それに内を出れば、道を歩いてゐても、電車に乗ってゐても、人がいやに顔を見る。それも只当り前に行き逢った人の様に、見るともなしに見るばかりなら好い。摩れ違ってから振り返って見る。連のある人は連に何かささやく。一頃はそれが嬉しかった事もある。それが嬉しいので、誰の為めといふこともなく、身じまひをした。著物や髪の物に気を附けた。あの頃の事を思へぱ、本当に気楽だつた。
 世の中が嫌である。人生がつまらない。しかし、鴎外らしく、自分が嫌われているのでも、つまらないと思われているのでもない美しい女の厭世観である。自分は人に気に入られているらしい。昔はそれがうれしかったが、今は煩わしくなった。自分を気に入ってくれる人がいても、自分が気に入る人間は見つからない。それが詰まらない。人品の立派な博士なんかに電車で乗り合わせなどすればいいけど、そんなことを思っても無駄なことはわかっている。博士なんぞと言っても、たいていはそこらの男と変わりばえはしない、と人生を憂えている。その電車に鴎外が乗ってくる、という話である。
 鴎外は、人に好かれることに飽きて、平凡な男の好奇心にうんざりしている、どうせあなたも「千万人の男の中のお一人でございますね」といった寂しい眼で世間を見ている女を想定して、そこに黙って姿を現す。鴎外は困っている美人の前を偶然通りかかるのが好みで、自分を肯定的に描く時に「舞姫」以来何度もこの方法を使っている。鴎外はこういった女に対して、冷淡で無機質な自分の性格が信頼される、と考えている。自分の冷淡さが、下心のない本当の理解である、と思われる関係を想定して自分の冷酷さを肯定している。こういう解釈のもとに、二人の無言のままの、奥深そうな雰囲気と、無意味で陰気な情景を並べている。
 「ほつれ毛がはらはらと」とか、「しなやかな体の運動」とか、「細い片手」という表現は、よくあるインテリ的な平凡でいやらしい色気である。しかし、それが深い苦悩であると説明しているから、鴎外にも鴎外を肯定するインテリにも、こうした態度や心理が深い苦悩に思われるのであろう。
 
 あなたはどんなお方だか好くは分かりません。併しどうもこれまで暗い横町で摩れ違つたとき手を握つたり、往来の少い処で声を掛けたりした、何百人かの男とは違つて入らつしやるやうでございます。あなたは手を借して置いてどうするといふお考はおありなさいますまい。あなたのなすつた事は報の為めになすつたのではございますまい。事によつたら、わたくしのどこかゞお気に召して、お慰になつた報だと仰やるかも知れませんが、それは報の為めになすつたといふものではございません。何事を致すにも、その位の機勢はなくてはなりますまい。それは報の為めとは申されますまい。若しそんな機勢もなくて何か致すのが宜しいのでございましたら、それは理屈があつて、思慮があつて致すので、その致す事が温みのないものになつてしまひませう。あなたが報の為でなく、わたくしにお手をお借しなすつたのが、わたくしは嬉しうございます。わたくしにはあれ丈の事も、世の中にまだ身勝手や慾心からでなく、何かしらする人のある兆のやうに思はれます。これから厭な内へ参つて、厭な人達に物を言はなくてはならないわたくしには、それ丈の信仰でも、余程力になるのでございます。」
 瞳がかう云つた迹で、不思議な事には、それまで俯向いてばかりゐた鏡花の女が頭を擡げてゐた。両袖は相変らず掻き合せてゐるが、頭を擡げてゐる。その視線は水平になつてゐる。
 鴎外は非常に色気の多い作家である。鴎外は性欲的には淡白であることを「ヰタ・セクスアリス」で描いているし、実際にそうであるが、しかも色気の多い眼で世間を見回している。自分自身に対する関心から来る色気である。窓を閉めてやっただけで何百人かの男と違った紳士であることを態度でしめしており、女もそれを見抜いている。この無口で色気の多い「僕」は「暗い横町で摩れ違つたとき手を握つたり、往来の少い処で声を掛けたりした、何百人かの男」と違っている。それは、窓を閉めて遣っても下心がないからだと女は説明している。この鴎外風の妙な女は、自分に手を貸す男は誰でもどうかしようと下心を持っていると信じている。世の中の男を下心を持つ男と持たない男に分けて、持たない男は、この「僕」しかいない、と思っている。「舞姫」と「うたかたの記」の青年が、精神が成長しないまま大人になったのであろう。鴎外は、若い時代からの自分の精神の全体の中で、女に対して下心を持たない男というのを見たことがないのであろう。だから、下心のない男は理想としての男として鴎外のなかに存在し続けているのであろう。鴎外の精神世界では、女が男を愛し信頼する場合に、下心がないという消極的な特徴だけで十分で、大方の男は下心をもった人間ばかりだと思っているのであろう。
 報いを求めない親切は「舞姫」以来の鴎外の人格性のあり方で、これだけが唯一人間関係の接点であり続けているが、この作品では多少の進歩が見られる。「舞姫」や「うたかたの記」では援助のあと下心のない純粋性を証明するために置き引きでもするようにすぐさま逃げ出していたが、ここでは、手を貸したことが私に対する個人的な興味を含んでいることを容認している。私に対する個人的な興味は、報いのためではないという本質を傷つけるものではなく、人間の温かみだと説明している。私に対する興味がなくて、純粋に力を貸すのは、義務によって義務のために力を貸すのであるから、人間の温かみに欠けるということである。鴎外が人間の温かみを説くとは驚くべき事であるが、それにしても無心の一点張りから、隠れていた色気を多少認めたのは一歩前進である。
 鴎外の精神世界では、報いを求めない親切が人生を救うほどの力を持っている。私はたくさん親切を受けてきましたが、その偽善に気がついて世の中に愛想を尽かしました、それが、思いがけず、「身勝手や欲心からではなく、」純粋な心から親切を行うひとがあることを電車の中で知ることができて、生きていく希望を持つことが出来ました、という美談である。無私の援助のありがたさ、というつまらない教訓は、多少金があって説教がすきで、援助ができる立場にいるたいていの人間が思いつく道徳である。彼等にとってそれが美しい人物像として頭の中に形造られている。鴎外としても、俗物根性の世界に住んでいると、下心のない色気が到達しがたい境地として理想化され、したがってそうした気質を他方に持つ自分が、美しい女に信頼され、自分が電車に乗るだけで、こうした高度の精神故に苦悩する女が「頭をもたげて、視線が水平になった」ほどに感動するものと思っているのであろう。実際はこれもよくある平凡な色気であるが、鴎外はそう思っていない。
 その後に再び念をおして、「僕」の下心のない親切が女に心の底まで到達し、運命を救ったにもかかわらず、淡白に別れたことを強調するために、二人の男が女を見て目配せをしたり、呟いたり、声高に笑ったりする様子と対比している。こうした対比による自己肯定を鴎外はどうしても超えることができない。
 鴎外は官僚的出世を追求することで精神を枯らしてきた。その結果として無私の親切が唯一の信頼関係として思想的な一般的な価値を持つにいたっている。無私の援助という、『舞姫』以来の病的な考え方は現実についての冷淡な認識と対をなしている。冷たい風が入ってくるから電車の窓を閉めることを鴎外は人類として希有のことだと考えている。窓を閉める親切が希有であるという前提のもとで、その親切を相手が嫌がっているのではないかとまで配慮することは、さらに人並み外れた優れた親切だと考える。鴎外の枯渇した精神は、こうした瑣末な枝葉に展開しつつ、しかも下心を持たない親切、という非常に狭い限界を超えることが出来ない。鴎外にとって、下心を持つのが自然であり、それを持たない事は奇跡的な人格性である。そして、鴎外にとっての精神の成長は、この下心のない親切をいかに自然に、洗練した形式で示すかである。
 親切の実践的な内容は可能な限り小さいが、そこにかかわる微妙な心理が無限的に大きく評価される。女は「僕」が窓を閉めたことに感謝している。「僕」が、これから嫌な連中と話をしにいく不幸な自分に、すがすがしい気分を与え、希望をもてるようにしてくれた。「僕」が電車の窓を閉めたことではなくて、「僕」の精神が、つまり、凡人には理解できない、電車の窓の微妙な閉め方が、人生を変える程の絶大な効果を及ぼした。「僕」は何らの報いを期待せずに窓を閉めた。他の男ならちょっと見かけのいい女と見ると、身勝手や欲得ずくで親切をするが、「僕」はそうでない。窓の閉めかた一つでそれが分かる。その微妙な閉め加減がたまらなく魅力的で、おかげで、嫌な話をしなければならない家に行くことができる、という話である。
 それにしても理屈っぽく下らない事に悩んだり感激したりする女である。実際にはこんな女はいないであろう。しかし、鴎外の空想の中には、この種の綺麗な女がたくさん住んでいる。鴎外の頭の中では、この種の女がエリートインテリを信頼している。こういう信頼関係は、信頼関係がない世界で想定される。信頼関係のない世界では、信頼関係の欠如が美しく感じられる。「僕」とこの女の甘い関係は、現実には、信頼関係の欠如であり、その一部分を言葉にするだけで現実には非常識でよけいな気遣いになる。孤立的で冷たい心を持った「僕」は、不幸な人間が自分に頼る事をのみ信頼関係と信じている。しかも、自分だけを信頼することを求めている。不幸な人間が、このように観察されれば、誰でも気味悪く思うであろう。人間関係を閉ざされると感じるであろう。窓の微妙な閉めかたによって自己を肯定するのは、信頼関係についての無知である。こんな瑣末な事象が人品の上下の決め手になることはない。強いて性格を問題にするなら、陰気に吊り革にぶら下がって、この女は無私の親切を喜んで私を信頼するに違いないなどと考えてのは、陰気で気味の悪い、インテリの色気である。鴎外がこの作品で告白している自己は、『舞姫』の内容を保守的官僚としてより陰気に発展させている。

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