『藤鞆絵』 (明治44年5月) 

 
 鴎外はこの作品で多少冗談めいた軽い文章を書こうとしている。几帳面で陰気で屈折した鴎外には苦手な文章である。鴎外が軽い気持ちで書く文章には軽薄さと不真面目さの中に鴎外の陰気な気分がにじみ出るので何か濁ったような印象を与える。
 鴎外は軽いアバンチュールを書こうとしているが、体面を重んじる鴎外にアバンチュールはなじまない。体面を失わない限りでという制限つきのアバンチュールは、何かありそうで結局何もないか、悲惨な結果になるかのどちらかで、この作品は何もなかった方の話である。
 ・・・懐に金があるときは、親が高利貸にでも苦められてゐる、美しい娘に出逢ひたいと思ふ。金なんぞはなくても、責めて身を投げようとする娘でもゐたらと、橋の袂や川岸を見て通る。
 これが、鴎外が軽い気持ちで考えるアバンチュールである。アバンチュールを求めて町に出ることは誰にでもあろうし、なくても、興味を持つことはある。しかし、美しい娘と出会う場合に、親が高利貸しに苦しめられていたり、身投げをしようとしていればいいと考えるのは特殊である。これを鴎外は「舞姫」に描いた。こんな関心をもつ男に関わるとエリスのように破滅しなければならない。高利貸しに苦しめられている美しい娘で、親思いの優しい娘とのアバンチュールなら出世の邪魔にならない。それは人助けであるし、気が進まないのに娘から愛情を持つのであるから、自分は善意をもつだけで責任を負うこはない。これが鴎外の望む人間関係であり、恋である。別れる時には自分とかかわりなく娘は破滅することを空想するのが保身的な官僚のロマンチックな空想である。美しく元気に楽しく生きている娘を相手にしないし、そんな娘は相手にしてくれない。だから楽しみ方が陰気になる。鴎外の強みは知恵や大胆さや愛情などの個性ではなく地位と金であるから、地位と金で助けることができる状況に追い込まれている娘とのアバンチュールと腐れなのない別れだけを空想する。非常に不真面目でだらけた文章の中にこうした小汚い心理を臆面もなく露呈している。
 凄みのある丈が瑕瑾だとでも云ひたいやうな際立つて美しい女である。銀杏返しに四分珠の釵を挿してゐる。着物は共縞のお召縮緬に、汐干狩の縫模様、対の着と云ふ拵へで、お納戸地に白の模様の金春式韓織の帯を締めてゐる。
・・
  佐藤は此女から目を放さない。視線は後れ毛のばら附いてゐる鬢の蔭に、白くほの見えてゐる頸筋から、中肉の肩や背を伝って、お太鼓に締めた帯の横に食み出した、緋縮緬の帯上げの下を、腰の廻りへさまよふのである。尤もこの汐干狩の女に向ける視線は、佐藤のばかりではないので、佐藤が目を放さないのも、別に人の注意を惹く程ではなかった。
 鴎外によくでてくる描写である。鴎外は女に対して好色的で冷たい関心を持っている。高利貸しに親が苦しめられている娘はいないかと物色している男の眼である。佐藤君は、自分を精神的な動物だと思っているが、女を動物を見るように観察する。こんな女で親が高利貸しに苦しめられているようなのはいないかと思って世間を見回している。鴎外の関心は金持ちの遊び人風でであるが、好色的であるだけでなく冷酷である点が単純な金持ちと違って保身的な官僚である。たとえ実害はなくてもこんな男にこんな眼で観察されるのは気持ちのいいものではないだろう。
 「あら。暫く。」
 佐藤は内心大いに驚いた。そしてその驚きを極力包み隠さうと努めた。佐藤の為めには、かう云ふ不慮な出来事は、丁度軍隊の指揮官が部下の大勢ゐる前で、予期してゐない情報を得た時のやうなものである。Surprise etonnement, こんな場合に、普通の人間が平気で顔にあらはす表情筋の運動は、闇から闇へ抑制してしまはなくてはならない。そして電光石火の如く、これに処する所以の道が講ぜられなくてはならない。佐藤の脳髄の中では、求心的機関と、遠心的機関とが、全速力を以て運転した。
「やあ。どうも。まあ、一つ献じよう。」佐藤は膳の隅にあった猪口を取り上げて、半分程あつた酒をぐいと呑み干して、女の前に差し附けた。部隊長なら、即時に決心を附けて、命令を発したやうなものである。そしてその命令は攻勢を取る命令である。
 このふざけた文章はなんだろう。無内容な宴会話を面白くするためにこうした軽薄でまだるっこい文章を書いているのだろうか。それともこの美人との関係が結局不首尾に終わるから、わざとらしい文章で面白さをだそうと思っているのだろうか。大げさに、わざわざ場面にふさわしくない文章を書いても女との関係は空虚であるから面白さはでてこない。几帳面で冷淡で体面を気にする鴎外が軽い気分を出そうとすると余計なことを書くことになって軽薄で厭味になる。見栄えは悪くてもやはり卑屈な心理や傲慢な心理を描くのが鴎外には似合っている。
 最初に「人違へかな」と云ふ問が、佐藤の心の中で発せられた。酷く肖た人と云ふものは随分ある。孔子は陽虎と見違へられて捕へられたさうだ。こなひだもロンドンのSidneystreet でロシアの無政府主義者の潜伏してゐる家を包囲攻撃して、とうとう焼討にした跡で、灰の中から死骸は出たが、目ざした一人のPeter と云ふ男は逃げ果せた。
 人違えから、孔子の話になるとは教養のある発想である。しかも、焼き討ちのあとから死骸が出たなどと陰険このうえない軽口を書いている。美しい娘が身投げをしようとしていることを好み、無政府主義者が焼け死んで愉快を覚えるのは、保守的な官僚としても趣味が陰険すぎる。軽い話をしようとすると陰険なところがつい出てしまうようでは高利貸しに苦しめられている娘を探す以外にアバンチュールの機会はないであろう。
 思いつくままに自由に、脈絡もなく文章を書こうとすると鴎外の陰険な性格が却って表に出る。保身的な性格にも油断はあるのであろう。ありもしない教養や余裕を見せようとしてつい自慢や悪趣味が最悪の形式で露出している。「舞姫」にすでに見られた非常に気持ちの悪い性格がこの作品では無防備に描かれている。
 お安くないは好いが、鼻尖りの藝者が、此詞と共に佐藤君の顔をちょいと見た目附が、ひどく佐藤君に不愉快を感ぜさせた。その目附は、面白がつてゐるやうな、可笑しがってゐるやうな、そればかりなら好いが、なんだか少し気の毒がってゐるやうな目附であつた。その憐憫の分子が、何やら分からずに、佐藤君の感情を害した。
 鴎外の気持ちの悪い関心の裏にはこういう屈折がある。美人と見れば不幸を探し出す男であるが、同時に自分が同じように見られていることを常に発見する。そのようにのみ自分に対する視線を感じ取る能力を持っている。そして、体面を汚されたと感じて、底意地の悪い復讐心を抱き、陰気な意地を生み出すことが鴎外らしい自我の育て方である。だから、単純に好色的もなく、単純に他を軽蔑するのでもない。そして、実践的な感情ではなく、相手に対する否定的な観察や感情は内面で沸き起こって、その後その同じ否定的な観察や感情が必ず自分に対しても向けられる。これが鴎外に特有の屈折した陰険さである。これでは軽い気分にはなれない。
 「藤靹絵。藤靹絵。」みんなはこれを聞いても、容易に分からない。Heralsiqueの専門家、紋帳に通暁してゐる先生なぞは、当世めったに無いのだから、登り藤に下がり藤位は知つてゐても、三房の藤が真中から、逆に縒れて靹絵になつて、藤鞆絵を形づくると云ふことは知らない人が多い。
 どうもこれが作品の眼目であろうか。女の服装を趣味人風に書いて、こうした細かな点にも西洋の書物に劣らず造詣が深いことを言いたかったのかも知れない。それとも、いわくあり気に書いて結局なんでもなかったという話だからこそ、大げさで無駄な文章を書く事で余裕を示すことができると感じたのであろうか。鴎外が真剣になるのは、体面を傷つけられた不満や怒りを抑えて無理に余裕を示そうとする時である。そのときは真剣な不真面目さがでる。この作品では、つまらない内容であるために、鴎外としては比較的余裕のある文章を書く事ができて、そのために内に秘めた陰険で冷酷な感情を写してしまったのであろうか。いづれにしても内容も面白みもない、後味が悪いだけの作品である。

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