『文づかひ』 (明治24年1月) 


 この作品について、鴎外は「自作小説の材料」で次のように書いている。

 『うたかたの記』は独逸の南部、『舞姫』は北部ですが、『文づかひ』は独逸の中部「ドレスデン」を舞台にしてかいたものです。私が王宮に出入りしたのは殆どドレスデンばかりだが、極上流の社会に交際したのは此の時でした。其所で王宮をかいて見た。機動演習などは、実際私などもやったのです。人物には真実のは余りありません。王宮の祭の模様だの、拝謁の有様などは少しも拵へた所はない、皆目撃したことを書いたのです。


 『文つかひ』はここに書かれている通りの、鴎外の経験に空想を付け加えたロマン主義的な物語である。上流社会を舞台にして、「馬上の美人」、「イゝダ姫」、「大隊長」、「伯爵」、「国王」等々の童話のような材料をロマンチックに描写している。鴎外は上流社会がどのような世界であるかを深く経験することも認識することもなく、生涯の憧れであった上流社会と交際できたことだけで十分満足している。上流社会の華やかさや上品さが鴎外にとっていかに魅力的で、そこでの交流を描く事がいかに誇らしくても、その雰囲気を描くだけでは小説にならない。この上流社会を舞台にして、鴎外の初期作品に共通した純真な青年と「イゝダ姫」の秘密めいた関係を描こうとしているが、貧しい少女に援助するようには、鴎外の憧れの世界との関係を描く事はできなかった。美しい「イゝダ姫」については「これらも皆解きあへぬ謎なるべし」とか「この姫こゝろ狂ひたるにはあらずや」といった思わせぶりな書き方をしているが、それが具体的な個性として展開される事件は起こらない。純真な青年と「イゝダ姫」の関係は淡いすれ違いに終わる。関係がないままに終わるために、曖昧な物足りない印象しか与えず、感傷も残らない。しかし、鴎外としては、「自作小説の材料」でもうかがえるように、上流社会との交流を描くこと自体に満足があったのであろう。

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