『不思議な鏡』 (明治45年1月) 

 
 「おい。己の羽織はどこにある。」
 「今綻びを縫つてゐる所です。」
 「少しは穴が小さくなつたかい。」
 「もう半分位小さくなりました。」
 鴎外のこんな描写は、それ自体としては何の意味もない。こうした描写は弁解や不満を差し込むための小説的な手段である。弁解や不満を直接書けばいいようなものであるが、それはしない。小説に書いておけば、書きたい事を書いても対立を避ける事ができるし言い逃れもやりやすいからである。
 
 そのせいでもあるか、己の書くものは随分悪く言はれる。穴の半分あいてゐるのが人に見えるのかも知れない。書くものに「情」がないさうだ。情が半分の穴から抜けて出たのかと思へば、さうではないさうだ。元から無いのださうだ。
 羽織の綻びの話が、うまく皮肉につながっている。不平も不満も十分にたまっているが、あるいは十分にたまったから、余裕で受け流しているのだ、と主張している。俺は何にも気にしていない、といろんや方法を駆使して書いている。几帳面な鴎外は自分の余裕を示す努力を怠らなかった。官僚の仕事をこなしながら、夜中に起きてこんな文章を書いて余裕をしめした。そのことを「精力絶倫」とも「勤勉無比」とも言われていると書いているが、実際そのとおりで、自分の評判を持ち上げるためには労苦を厭わなかった。労苦のわりには報われなかったので不満がたまった。
 鴎外は「情」について、「元から無いのださうだ」と人ごとのように書いているが、鴎外の作品を読めば情が「元からない」し根っからないのがよくわかる。情がないから、情があることとの違いが分からないので、情がないと言われても何の事か鴎外には理解できない。情がないというのは他人の運命に関心を持てず、冷たいことである。他人の不幸によって自分の幸福だけを省みるということである。当時は常識的に正しく理解されていたが、鴎外と同じように情のないインテリが鴎外を高く評価するようになって、こうした端的な評価は消えてしまった。
  「さうかなあ。もつと旨く遣り繰つて行かれないかい。」
  「そんな事を仰やつたつて、わたくしのせいばかりぢやないわ。本の代も随分大変あつてよ。続蔵経なんぞ、あれはいつまで出るのでせう。もう置揚所にも困るのですが、際限がないのね。大日本史料に古文書に古事類苑、まああんなのは知れたものですの。矢つ張一番多いのは西洋の本よ。」
  「さうだらう。併しそれは為方がない。あれは己の智慧が足りないから、西洋から借りて来るのだ。どうせ借物をしてゐては、自分で考へ出す人にはかなはないが、どうもあれがなくては、己の頭の中の遣繰が旨く附かないからなあ。」
 「そんなに西洋から借りてゐて、いつか返せて。」
  「それは己の代にはむづかしい。子や孫の代にもどうだか。何代も何代も立つうちには、返す時もあるだらう。」
  「まあ、のん気な話ね。」襖の向うに笑ふ声がする。

 四迷や一葉にはこんな描写はないが、同じ高級インテリであった漱石は描いている。しかし、漱石は高級インテリの精神を超えようとしていた点で鴎外と違っており、こういう場面の与える印象も違う。鴎外は自分の読書量が多い事と、特に西洋の本が多い事を自慢している。西洋の本がなくては頭の中が遣り繰りができない、とか智慧が足りない、といっても、それは自慢話の効果を高めるための添え物であって、本当に遣り繰りができていないことも知恵が足りないことも理解していない。鴎外は西洋の知識に頼って、西洋の知識がないほうがよほどましなようなつまらないことを書いた。西洋の知識は深刻な弱点であった。いつか返せるかとか、子や孫の代の話ではなく、今生きて小説を書いている鴎外が知識のひけらかしというインテリの病に侵されていた。のん気な話をしている場合ではなかった。漱石のように、インテリの優位に深刻な疑問を持っている場合にのみ、こうした場面は漱石らしいさばけた、のんきなふうな、馬鹿らしさの出る描写になる。四迷はこうしたディレッタント風の描写を必要としなかったが、日本のインテリとしてはどうしても書きたくなる描写である事はよくわかる。これは、真剣さのない、洋書を読んでいる事だけに満足している呑気なインテリ生活の描写である。
 なぜかと思つたら、己の魂は「あそび」の心持で万事を扱ふと云ふので、何を見てもむやみに面白がるのださうだ。いつから世間でそれを知つたかと云ふと、或る時己がみじめな生活に安住してゐる腰辮当の身の上を書いて、その男に諦念の態度を自白させる時、あそぴと云ふ事を言つた。それを誰やらが親切に、己の自白だと認めてくれるや否や、善言でさへあれば、誰の口から出ても、それを容るるに吝ならざる一同が、あそびあそびと云つて己に指さしをして教へ合つた。隠れたるより顕るるはなしである。天に口なし、人をして言はしむである。此時から己の魂に立派な符牒が附いた。そのあそびのessence が抜け出したのだから、何を見ようが面白がる丈である。おや又「うん」と云やあがる。ざまあ見ろ。面白いなと云ふやうな心持である。だから蝉脱の殻の体が、どんなとんちんかんの返事をして、まごまごしてゐようと気の毒だと思ふ筈がない。同情はしない。情がないのだ。それも世問では疾つくに認めてくれてゐる。あそびが肯定的評価で、情なしが否定的評価である。あちらが積極的言明で、こちらが消極的言明である。これが札なら、和気清麿や、武内宿禰の顔の附いてゐる表と、横文字の書いてある裏とのやうなものである。裏表ちやんと分かつて見れば、面倒なしに世間で通用する。市に定価ありと云ふわけだ。それを又、己が何か書く度に何遍でも繰り返して、あそびだ、情なしだと、極まつてしまつてゐるものを、今更新発明らしく吹聴して、それを渡世にしてゐる人のあるのも、妙なものだ。己の贋物なんか出来ないから、鑑定に骨は折れない。まだ若いが、小山内君なんぞも、もう立派な符牒を附けられてゐる。「才の筆だ。只それ丈の事だ。ふうん」と云つたやうな調子で、鑑定は済んでしまふ。余り気楽らしいから、己も目利の方に商売換をしようかしら。
 形式論議であるが、鴎外の不満と憤懣が十分に描かれている。鴎外に対する当時の評価を、内容を理解していないにしてもうまくまとめている。気に障るところが自然にめについて、要領よく集めたことになったのであろう。こんな文章を読むと情がないとか、あそびだという評価は間違いに見える。熱を帯びているし、真剣である。自分の評判のことになるととたんに熱を帯びて熱くなる。これが情なしのあそびの真剣さである。真剣に、熱くなって下らない誤魔化しの形式論議を並べている。
 鴎外は冷たく情がない、と評価された。その評価が否定的な評価だっただけでなく、誰もが納得するほどにうまい評価であったからであろうが、鴎外はよほど気になったらしく「あそび」という作品で、情がなく冷たく見えるのは実は自分の精神にある「あそび」という特徴がそのように見えるのである、それは余裕であるし、ものごとを冷静に客観的に見ようとする態度である、という新解釈を与え、その上で自分はどんな評判も気にせず日常を平気で晴々と過ごしている、と強弁した。余裕を描写する事などもともとできないから、木村は晴々していて余裕があると小説の中で何度も説明した。その結果冷たいという評価がなくなりとしなかったが、「あそび」というもっともな評価が付け加わり、「あそび、あそび」と言われるようになった。せっかくの強弁と弁解が面白がられてしまったのでは、面白くなかった。
 鴎外が描く小説は、人物にも風景にも、説明にも情がない。鴎外は地位と自分の評判を気にしていたが情はなかった。鴎外の魂は他人を認めず、自分にだけとらわれていた。自分以外の人物にも動物にも草木にも何らの魂も感情も認めることができない。認めるとすれば、自分に対する敬意や自分に対する卑屈さである。あそびというのは、つねに自分の事ばかり考えて他人に接し、自分以外の者や物に対して無関心で、他人や物に対して真剣でなく不誠実だからである。対象を知らないし知る関心を持たないから、あそびは客観的ではないし冷静さでもなく、冷たくて情なしである。鴎外が自分の評判でいかに熱を帯びても、人や世の中に対する冷淡さは変わらない。自分の評判を取り返すために、あるいは、自分がどんな評判をされても平気であることを示すためにどれほど興奮し、努力してもやはり遊びであり不真面目である。鴎外は、あそびだ情なしだと言わているにもかかわらず、それを認めて自己を変革するのではなく、批判を一切受け入れず、その通りだ、言われる通りの遊びの情なしだ、と主張して実際にその通りであった。
 
  上段の間は静かだが、下段の間はさうざうしい。「ああ」と大きな欠をする人がある。「しつ」と云ふ。束髪が噂き合つて、くすくす笑ふ。
 「なる程真剣でなささうな顔をしてゐるなあ。」
 「なんだつてこんな魂を引つ張つて来たのだらう。」
 「あそびか。へん。」
 「情と云ふものがなくつて、感じと云ふものを丸で知らないのだとさ。」
 「妙だねえ。」
 「ここへ引つ張つて来られて、内心苦んでゐるだらうなあ。」
 「なに感じがないから、苦みはしないさ。」
 「あれで翻訳は旨いのだと云ふぢやありませんか。」
 「さうですつてねえ。だけれどわたし翻訳物は詰まらないから、読まないわ。」
 「なに。古株だと云ふ丈ですよ。脚本なんぞは下手長くて、間があくのです。」
 「一字も残さないやうに訳するので、長くなるのだと云ふことだ。」
 「では忠実なのね。」
 「ところが臆病なのです。誤訳だと云つて、指摘されないやうにするから、長くなります。」
 「夜寝ないさうですよ。」
 「まあ、変人ね」
 「細君の小説も書いて遣るのだと云ふぢやないか。」
 「あら、嘘よ。奥さんの方が余つ程旨いわ。」
 これも自分の評判をうまくまとめている。皮肉のつもりで偶然にまともなことを書いている。鴎外に対する客観的な評価が取り入れられており、心底気にしている鴎外の心情も滲み出ている。不真面目に書いているが真面目な話である。鴎外は、自分がこんなことを書かれている、と書いて、こんなことを書かれても平気である、と書いている。こんな指摘に平気であることは無能であり、深刻に受け止める事が才能である。しかし、鴎外は、深刻に受け止めているものの、無能になる努力しかできなかった。ここに描かれた会話が、正当な批判であるというニュアンスで描かれれば、面白い小説になるであろう。しかし、鴎外はこれを皮肉と自棄で書いており、真面目に書いているのではない。やはり鴎外はあそびで情なしの作家であった。


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