『普請中』 (明治43年6月) 

  鴎外はこの作品で、『舞姫』に描いた内容を清算している。エリスとの関係で豊太郎を肯定的に描こうとしていた精神はここでは失われ、高級官僚らしく切り捨てることを、冷淡さとして肯定している。豊太郎が内に持っていた冷淡な精神がこの作品では表に出ている。甘ったるい虚飾は時代と年齢にそぐわなくなったのであろう。
 参事官は、女に会いに来た。しかし、女に何の関心もないことを示すためである。女との会話は非常に単純で、ごく僅かで、女の再会とかかわりのない無意味でわざとらしい描写が多い。
 「不思議な事には、渡辺は人を待つてゐるといふ心持が少しもしない。その待つてゐる人が誰であらうと、殆ど構はない位である。あの花籠の向うにどんな顔が現れて来ようとも、殆ど構はない位である。渡辺はなぜこんな冷澹な心持になつてゐられるかと、自ら疑ふのである。」(p240)
 鴎外の冷淡な心持ちは隠すことができないほどに成長している。参事官が女に会いに来たのは、女に関心を持っていないことを読者と女に思い知らせるためである。鴎外は本来の性質である冷淡さが大きく育ったことを不思議に思うと同時に喜んでいるかのようである。自分の冷淡さを発見し、強調し、女に会いに来たことの無感情を徹底して描いている。参事官は、やむを得ず来たのでもなく、反撥もなく、嫌な気分もなく、動揺もなく、ただ気まぐれに来ただけである。鴎外は、参事官の運命と感情が、女の運命と感情と接点も持たないことを描くことに関心を持っている。こういう意志を持ち、しつこく描くこと自体が、鴎外の意図以上に冷酷で陰気な印象を与える。
 鴎外は「舞姫」以来、自分の中にある冷淡さを楽しむ風はあったが、表向きはこれを否定し、まったく逆の感情に粉飾することで自己を弁護していた。この弁護のしかたにも冷淡さがあったが、この作品以後、すべての粉飾を廃棄し、この冷淡さを自分の本質的な特徴として認め、それを精神の高さや強さや独立性として表現するようになる。この感情を不思議な感情としているのは、鴎外の意図としては、理解しにくいほど深く、どうにもならないほど内的に出てくる、確定した感情であるという意味である。しかし、客観的には、鴎外が自分の内面として成長してきた冷淡さが、自分の運命にとってどんな意義を持つか、その深刻さをまだ理解していないことを示している。
 「梅に鴬やら、浦島が子やら、鷹やら、どれもどれも小さい丈の短い幅なので、天井の高い壁に掛けられたのが、尻を端折つたやうに見える。食卓の拵えてある室の入口を挾んで、聯のやうな物の掛けてあるのを見れば、某大教正の書いた神代文字といふものである。日本は芸術の国ではない。
 渡辺は暫く何を思ふともなく、何を見聞くともなく、唯烟草を呑んで、体の快感を覚えてゐた。」(p240)
 参事官は、これから会う女よりホテルの壁の方に関心がある。参事官は、女に無関心であるが、日本の社会についても、芸術についても無関心である。社会一般から分離した精神を持っている。「日本は芸術の国ではない」というのは、日本の芸術に期待できない、期待しない、自分は日本にない高度の精神を持っている、ということであろう。日本がヨーロッパに比べて文化的に遅れている事は誰でも知っている。それを切り捨てて満足できるのは、参事官が日本の社会から切り捨てられているからである。これ歴史認識ではなくて、自己認識である。自分は日本の芸術の発展と縁がない、という意識である。鴎外は洋行の実績によって遅れた日本を発展させるのではなく、遅れた日本で、洋行の実績を誇っている。日本の芸術の発展に寄与できないから、「日本は芸術の国ではない」と無責任に趣味的に断定している。遅れた日本で自分だけが異質で特別あることを作品に描いている。
 社会に対して、文壇に対して、これから会う女に対して、突き放した冷めた眼で観察し、それらを自分より低いと見ることに満足している。あるいは満足を得ようと努力している。鴎外が、社会と文壇と女を切り捨てることは、同時に鴎外がそのすべてから切り捨てられることである。だから、すべてを否定することを自分の高さだと解釈できるにしても、それは誰にも認められない高さであり、結果としては多様な解釈の余地のない単純な孤立である。
 渡辺参事官は外界のすべてに対して否定的で無関心で、ただ自己自身においてのみ満足し、充足しているかのように振る舞っている。しかし、高慢で冷淡な言葉だけでは、満足と充足は表現できない。冷たい、落ち着きのない男に見える。古い虚飾を脱ぎ捨てた鴎外としては、自己に対して忠実で、自己自身において自由になったと、言えるであろう。しかし、冷淡で空虚な自己を表白するだけでなく、それを高度の精神として描くことは、虚飾以上に難しい。あらゆる人間関係の喪失を、充実として、自分の高さとして描くことは、鴎外の孤立と無知が導く運命的な課題である。しかし、それが無理な課題であることを誰よりも深刻に思い知るのも鴎外の運命である。
 「アメリカへ行くの。日本は駄目だつて、ウラヂオで聞いて来たのだから、当にはしなくつてよ。」 「それが好い。ロシアの次はアメリカが好からう。日本はまだそんなに進んでゐないからなあ。日本はまだ普請中だ。」
 「あら。そんな事を仰やると、日本の紳士がかう云つたと、アメリカで話してよ。日本の官吏がと云いませうか。あなた官吏でせう。」
 「うむ。官吏だ。」
 「お行儀が好くつて。」
 「恐ろしく好い。本当のフイリステルになり済ましてゐる。けふの晩飯丈が破格なのだ。」(p242)
 日本が西洋に比べて遅れているいることを、日本が今「普請中だ」と表現することが、批判的な現実認識だと考えるのは「日本の紳士」の無知無能である。鴎外はこの作品では、高級官僚の地位を前面に出している。地位と傲慢さと冷淡さは、遅れた日本の官僚の特徴である。参事官は遅れた日本で、高級官僚として、自分が偉いと思って満足して生活している。鴎外は、なりすましているのではなく、若い時代から本当に行儀がよかった。それだけでうまくいくはずはなかったが、遅れた日本で出世するには重要だし、得意でもあったので、ともかく行儀はよかった。そして、遅れた日本を進めるための努力もせずに、ただそれを軽蔑して、自分だけが特別だと称している。鴎外は、こうしたことをわざわざ宣言しなくてはならない立場に追い込まれている。参事官は、日本の社会と芸術が西洋に遅れていることに苦しんでいるのではなく、日本が遅れたと感じる能力を持つ自分に満足している。しかし、事実はそうではない。参事官が、日本の現実から遅れ、分離されたために、その分離されたものを否定し、見下して、高い地位と冷淡さにすがる以外になくなっている、というのが事実である。日本が遅れているから参事官の精神と合わない、のではなく、参事官の精神が、日本の現実に合わせることができなくなったために、今頃になって気がついたかのように、日本は遅れている、日本は芸術の国ではない、として、自分と日本の社会や日本の芸術との分離を肯定的に確認しているのである。
 参事官は、遅れた日本を発展させる努力をするのではなく、それを軽蔑して自分一人が偉いと思っている官僚の一人である。遅れた日本には、参事官のような愚かで自惚れた役立たずの高級官僚がたくさん育っていた。しかし、参事官が自分の力量を、遅れた社会に対する軽蔑で示す努力をしていることは、日本の社会がようやくこうした無能な高官を排除できるくらいの量の官僚を養成できてきたことの証でもあろう。
 参事官は、遅れた日本に対する軽蔑と、女に対する冷淡さだけを、自分の力量を示す手段にしているほど貧弱な官僚である。具体的には、女を無視することに関心を持っており、女のことをいろいろと尋ね、自分のことを話をしても、女の関心と関係のない無駄口を叩くだけである。自分と女の関係のこと、女に対する自分の気持ち、今日会っていることにはまったく触れない。わざとでありながら、わざとらしくないところが冷たさである。久しぶりに会ったという二人の会話は、天気の話以下の退屈で無意味な、しないほうがましなほどの会話である。会わないほうがよほど誠実であるほどの会話をしている。
 
 「キスをして上げても好くつて。」
 渡辺はわざとらしく顔を蹙めた。「ここは日本だ。」
 叩かずに戸を開けて、給仕が出て来た。
 「お食事が宜しうございます。」
 「ここは日本だ」と繰り返しながら渡辺は起つて、女を食卓のある室へ案内した。丁度電燈がぱつと附いた。(p243)
 「ここは日本だ」という言葉は鴎外の冷血動物らしい智恵が詰まっている。参事官はこの女に無関心であるであることを示そうとしている。日本でなければキスをしてもいい、という感情を持つのではない。また、「キスしてはよくない」という自分の感情も示さない。参事官の「ここは日本だ」は、女とまとめな会話をしないという意志の具体的描写である。女に対して何らかの関心を持っているが、ここは日本であるからその感情を現すことはできない、という意味ではない。ここは日本であるから、そんな感情は持たない、という意味である。「ここは日本だ」と言うことで、女との具体的な関係に言及せず、関心を持たない、ということを表現するために、「日本だから」とも言わずに、「ここは日本だ」と言うのが、鴎外のセンスである。自分に愛情も関心もないことを示すという消極的な理由の外に「日本だから」に意味があるとすれば、ここは日本だ、自分はその日本の官僚だ、この遅れた日本で冷たく居すわって生きていくのだ、という宣言であろう。こうした宣言を、女を突き放すという情けない手段で示すのは、洋行帰りの自分の価値をエリスの破滅によって示そうとした豊太郎のその後の姿にふさわしい。この作品では、豊太郎が捨てられるからである。
 女が突然「あなた少しも妬んでは下さらないのね。」と云つた。チエントラアルテアアテルがはねて、ブリユウル石階の上の料理屋の卓に、丁度こんな風に向き合つて据わつてゐて、おこつたり、中直りをしたりした昔の事を、意味のない話をしてゐながらも、女は想ひ浮べずにはゐられなかつたのである。女は笑談のやうに言はうと心に思つたのが、図らずも真面目に声に出たので、悔やしいやうな心持がした。
 渡辺は据わつた儘に、シヤンパニエの杯を盛花より高く上げて、はつきりした声で云つた。
  "Kosinski soll leben! "
 凝り固まつたやうな微笑を顔に見せて、黙つてシヤンパニエの杯を上げた女の手は、人には知れぬ程顫つていた。 (p244)
 鴎外らしい、小さな虫をいじめるような底意地の悪い冷酷さである。渡辺参事官は冷たく卑小で惨めある。参事官の冷淡な無関心と傲慢さは、弱い立場の女の愛情と未練だけを支えにしている。この冷たい生き物に対して女はわざわざ「あなたは少しも妬んでは下さらないのね」と突然言う。突然というのは、女が昔のことを思い出し、笑談のように言はうと思ったにも関わらず、心の底にあった愛情や、懐旧の情のためについ、真面目な心の表白として言ってしまったこと強調するためで、その上「悔しいやうな心持ちがした」とまで念をおしている。参事官が女に無関心であることが意義を持つためには、女が参事官に愛情を持たねばならない。鴎外はこれほど一方的な、矛盾の少ない作り話を平気で描いている。女がどれほど関心をひこうとしても参事官は関心を示さない、という関係は鴎外の得意の関係である。参事官は女の愛情を肴にして自分の冷淡さを味わっている。しかも、しつこく味わっている。女を冷笑する官僚を自画像として描くというのは、なんとも哀れな作家である。
 愛情にも怒りにも値しない冷淡な男に愛情を感じない女に対しては、参事官の意地や自尊心や冷酷さは意味を持たない。参事官は、自分に頼る弱い女を否定する無意味な冷酷さによって自己を肯定している。鴎外の意地は想定上の、自分より弱い立場の対象をひきずっているために独立的な余裕の印象を与える事ができない。女の未練を頼りにしており、しかもその未練は、参事官が意地を示すために無理に拵えた、参事官のためにのみ作られた空想上の未練である。「舞姫」もそうであるが、豊太郎や参事官を肯定するために、鴎外は平気でエリスやこの女の人生や感情を空想的に弄ぶ。それが鴎外の冷たさである。
 まだ八時半頃であつた。燈火の海のやうな銀座通を横切つて、エエルに深く面を包んだ女を載せた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行つた。(p244)
 『舞姫』の豊太郎は、遅れた日本のための課題に取り組むでもなく、貧しい少女を僅かの金で助けたことを自己肯定の内容とし、渡辺参事官は、女を冷淡にあしらうことで行儀のよい官僚らしさに満足している。鴎外が描く女性は、鴎外を肯定する手段として登場し、鴎外に対する愛情の証として破滅し、僅かの愛情も得られずに寂しさの中で消えていく運命にある。これは、積極的な愛情を持ち得ない鴎外自身の寂しい人生の対象化である。鴎外から女や男が離れていく時、鴎外は相手に寂しさを与え、自分を寂しさを感じない冷淡な人間として描いた。人生に別れはつきものであるが、鴎外のように悲しみも寂しさも苦しみもなく、相手の寂しさだけを感じるというのは、例え鴎外自身が満足しているとしても、これ以上ない寂しい人生である。鴎外は失うことの苦しみが、得たものの大きさと同じであることを理解しない。女に未練や寂しさを与え、自分に何も残らないことを誇るとは何という精神の貧困であろう。
 女が消え去ることで、参事官は女の寂しさを得た。無関心を装いながら、実はこのために女に会いに来た。しかし、女が自分を必要とし、自分は必要としなかったことは、冷淡な別れによって過去のものとなった。冷たくて孤独な魂は、女の自分に対する関心や愛情を自分の冷淡さを示す手段として利用することで女との関係を失い、後は冷たくて孤独な魂だけが残る。女の寂しさの余韻は、冷たい参事官が一人取り残された寂しさの余韻である。参事官には、遅れた日本と日本の芸術に対する軽蔑があり、女に対する冷淡さがある。女が去った今、残されたのは軽蔑と冷淡さであるが、この後誰を軽蔑し、誰を冷淡に扱って自分の高さを味わうのであろうか。第二の女を待つことは繰り返しに過ぎない。すべての女、すべての人間関係が切れれば、軽蔑する対象は自分だけである。自分の中に、不思議なほどの冷淡さを発見した鴎外は、この冷淡さを、他の人間に向けるのではなく、自分自身における冷淡さとして肯定する努力を始める。破滅的な運命を持つのはエリスではなく豊太郎であった。
 
 

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