『雁』 (明治44年9月--大正2年5月) 

 
  この作品は、鴎外の作品のもっとも重要なテーマ、つまり「舞姫」に代表される高級インテリと下層の不幸な人間との関係、「半日」に代表される家庭的ないざこざ、の二つを融合して描いている。同時に、鴎外がこれまでの人生を過去のものとして振り返り、このテーマに最終的な決着をつけた作品でもある。冒頭の「古い話である」という文章の通り、精神的にも過ぎ去った過去の話で、鴎外につきものの弁解や厭味な色気に代わって露骨な悪意と喪失感が表に出ている。「舞姫」では、エリスを失うことは、華やかな世界に入ることであった。この時代には、洋行は、孤立的な孤高の境地を意味している。そして、出世を夢見る豊太郎と違って、孤立を覚悟し、他人に支持されることを諦めているこの作品では、人間関係に対する冷酷さが露骨に出ており、「舞姫」以上に吐き気を催させる気持ちの悪い作品である。
 鴎外は過去を総括的に振り返りながら、過去を清算したかのような、自分自身を理想化したかのような模範的な青年を描いている。エリートで、端正で、成績がよくても軟弱ではなく、まじめで几帳面で文学趣味がある、といった鴎外の想像の及ぶ限りの理想的な青年像である。形式的に模範的な青年がいかに没精神的であるかは、人間関係の中に表れる。「雁」の岡田も「舞姫」の豊太郎も、不幸な寂しい女との関係に依存して、それに対する優位によって肯定されている。地位と金の優位を描写するための特殊な人間関係である。貧しく不幸な人間との比較によって地位を誇る貧弱な精神は、歴史の発展によって一般的な力を持たなくなる。そうした時代の流を感じ取っている鴎外は、この時期には下層の人間との比較の最後の形式として、下層の人間とは一切の関係を持たないほど自分が高い、という形式で自己を肯定している。この作品では岡田はお玉にとって憧れるだけの遠い存在である。洋行と語学によって自分の優位を見せつけ、人間関係を破壊してきた鴎外の人物は、その威力を十分に発揮した結果として人間関係を失い、自分を支えるものとして洋行と語学だけを見いだしている。鴎外は洋行によって人間関係を失ったのではなく、人間関係を犠牲にして洋行を得る覚悟をしたかのように順序を逆転して描いている。しかし、この作品の喪失感を粉飾することはできない。人生の結果が孤立であり寂しさであるとしても、鴎外にとってはそれは勝利の結果であり、それ以外に選択肢はなかった。「普請中」以来、孤立を肯定し受け入れる努力をしており、この作品もその苦しい努力の一つとしての作品である。

 岡田はお玉に近づかないし、積極的な関心も持たない。岡田も鴎外の人物の常として、女が近づくのを待ち、待ち伏せる性格を持っているが、それは女の憧れを引き出し、自分を失った後の不幸を想定するためであって、関係を結ぶためではない。標札を見ることさえしない無関心さが、この時期の鴎外らしい自尊心である。しかしこの無関心を装った空虚な自尊心は相手の強い関心を必要としている。極端に依存的な性格であることが人間関係のなかに表れている。鴎外が描く孤独な主人公は、囲い者であるお玉や、身を売るか身投げするかの瀬戸際にいる不幸な女を必要としている。岡田も豊太郎も不幸な女性を必要としている点では同じであるが、岡田はそうした女性に頼らず洋行だけで一人立ちできる人物であるかのように想定されている。標札の名前を見ずにいた、という細かな描写には、鴎外が不幸な女との関係から独立的であろうとする意識がうかがえる。しかし、独立性を示すためにもやはり不幸な女と洋行を必要としているのは同じである。鴎外の描く青年の能力は、出世と洋行であり、それを不幸な女に誇示して、そのあとで自分に値しない人間として切り捨てる事である。
 鴎外はお玉が囲い者であることを岡田が不快に思わなかったと書いている。しかし、それはお玉の人格性を認めているからではない。鴎外の描く青年は、不幸な貧しい女を心底軽蔑しているからこそ、エリートに憧れる不幸な女との関係によって自己を肯定している。エリートの青年を愛し憧れを持つほどに不幸な女を空想するのが鴎外のロマンチズムである。模範的な好青年に関心を示さない独立的な女は鴎外の精神には存在せず、自分に対して卑屈な女には軽蔑を伴った同情を持ち、自分を尊敬するなら哀れんでやってもいい、という関係を描写している。これは、鴎外が自分を肯定するために空想の中で創り出した人間関係である。鴎外の現実の人間関係の貧しさが生み出す特殊な空想世界である。
 鴎外は岡田との関係を分離した上で、分離の腹いせでもあるかのように、お玉の不幸な運命を、冷たく、いやらしく、獲物を見るような眼でねちねちと描いている。岡田の援助がなければどれほど不幸な目に会うか、という視点から、貧しい娘が不幸に見舞われることを楽しんで描いている。しかも、それを、「評判のお上さん」の話とか、「頤なし」といわれていた娘の話とか、「親爺」の話として間接的な方法で描いている。どこまでも小汚い、本能にまでしみこんだ用心深い精神が描き方にも表れている。鴎外は、小金をためた高利貸が不幸な娘を狙っていることに何ら批判的な感情をもっておらず、お玉にふりかかる不幸をしつこく自分の好みとして、またその不幸な運命が岡田や鴎外自身を肯定するものと感じて描いている。
 鴎外は、「藤鞆絵」で、高利貸が不幸な女を探すことを青年の普通の心理であるかのようにに書いて、この作品では「藤鞆絵」で想定した心理を具体的に描いている。実際は高利貸的な精神を描いているのではなく、高利貸の名を借りて冷たい保守的官僚の心理を描いている。鴎外は不幸な女の運命を、自分の地位の優位を味わうための手段として認識し、想定し、描写している。鴎外は、妾になることが不幸な運命であることを知っている。しかし、鴎外の関心は、女が不幸によって、いかに高利貸やエリート青年に依存的になるかにある。女の不幸は高利貸や青年の幸福や優位を際立たせ、社会的な威力を知らしめる対象としてのみ描写されている。一葉が妾になる女の心情を描くとき、妾になる女の立場で個性を描いている。鴎外は、妾にする男の立場から、それを当然の運命として、自分の優位を証明する材料としてのみ描いている。一葉は天才であり、鴎外は保守的な俗物文士であった。
 鴎外はこうした価値観のもとで、お玉親子の愛情を、妾になって初めて余裕のある生活ができるようになったという幸福感として描いている。鴎外にとっては地位がなく貧しいことが最大の不幸であり、どんな形式であっても地位や金を得ることが幸福である。高利貸の妾になることも、「舞姫」のように遊び人の留学生に運命を弄ばれることも幸運として描かれている。地位がなく貧しい人間にとって、高利貸の妾になることは幸福である。まして、後に破滅させられるとはいえ、高利貸と違って上品なエリート青年と関わりをもつことは、願ってもないほどの幸福である。だから、お玉も老人も妾になることを何ら問題にしていない。妾になれてようやく幸福になれたのに、男が高利貸であることは知らなかった、というのがこの親子の悩みである。この不平、不満が、上品なエリート学生に対する憧れを生み出すもととなる。精一杯理想的に描いた岡田も結局お玉の憧れによって肯定されており、好色な高利貸との比較で肯定されているにすぎない。つまり、岡田は、高利貸でなくエリートで、好色的でない、というだけのことで、それ以外になんの取り柄もない。
 鴎外が惨めな不幸を好んで描くのは、自分の地位の優位を示すためであろうし、苦労して得たにしては不満の多い官僚的運命に対する復讐的な気分でもあろう。自分を肯定するために不幸な運命が必要であり、その必要においてのみ不幸な運命を描いた。そして、貧しく不幸な女に対する同情によって人格性を主張する事ができなくなると、鴎外はお玉の不幸を楽しんだ上で、お玉を不幸で悲惨な運命に置き去りにして洋行する岡田を描いている。お玉を無残に描く事が貧しい女と関わる鴎外の最後の楽しみである。しかし、自分を支えてきた不幸な女さえも不幸の淵に突き落とすことしかできない孤立的で空虚な精神は、この後何によって自己を肯定するであろうか。お玉の描き方には、すでにその手段が失われていることを感じ取っている鴎外の絶望的な冷酷さが表れている。
 この作品では、岡田とお玉の関係は淡い関係が生じて淡い関係として終わる。お玉が岡田に憧れ、岡田はお玉に寂しさを残してエリートの世界に消える。この感情は「普請中」に初めて表れた。岡田は豊太郎のような軽薄で冷酷な感情を持つ罪を免れるているが、それは軽薄さや冷酷さを持たないのではなく、軽薄さや冷酷さを発揮する人間関係を失っただけであって、お玉との希薄な関係にも、そして特にお玉の描き方に、豊太郎からはるかに発展した軽薄で冷酷な精神が表れている。そして、人間関係によって自己を肯定する方法が失われ、洋行だけにたよって自己を肯定する虚しさと寂しさが冷酷さを緩和しているかに見えるが、実際は希望を失った人間に特有の徹底した冷酷さに姿を変えて表に出ている。
 この作品は人間関係の大きな矛盾を含んでおらず、岡田とお玉と末造の関係はこじんまりした内部的関係にある。妾にする事と同情する事は、鴎外の中にある貧しい女性に対する二つの感情である。妾にする対象として同情している。「雁」では同じ性質を持つこの二つの感情の対比はなくなり、両者の同一性が表にでている。同情の偽善的な仮面は失われ、金と地位のある者が、金と地位によって、貧しい女を食い物にしようとする感情を素直に露骨に描いており、お玉は食い物にされることが利益であり幸福であるという側面から描かれている。次のような描写は、ロマンチックな豊太郎の中にもあった、鴎外の率直な女性観である。

 まあ、なんと云う美しい子だろう。不断から自慢に思って、貧しい中にも荒い事をさせずに、身綺麗にさせて置いた積ではあったが、十日ばかり見ずにいるうちに、まるで生れ替って来たようである。どんな忙しい暮らしをしていても、本能のように、肌に垢の附くような事はしていなかった娘ではあるが、意識して体を磨くようになっているきのうきょうに比べて見れば、爺いさんの記憶にあるお玉の姿は、まだ璞のままであった。親が子を見ても、老人が若いものを見ても、美しいものは美しい。そして美しいものが人の心を和げる威力の下には、親だって、老人だって屈せずにはいられない。(p242)
 鴎外の頭は無味乾燥な思想と冷たい色気で満たされている。娘に対する父親の愛情も、好色的好奇心そのままに描かれている。お玉は妾になること、高い地位や金に依存する事に不満を持たない。鴎外はそういう感情を知らない。ただ、お玉は末造が高利貸であることが不満である。男が高級官僚であれば親も娘も幸福であろうと鴎外は思う。鴎外は几帳面な末造を成功者として好意的に見ているが高級官僚とは区別している。妾になる事を不幸な悲劇的な運命であると感じることはないが、高利貸の妾であることに多少の不満をもっており、その不満の観点からエリートの岡田に憧れる、というのが鴎外の社会的な価値観である。鴎外は、まず妾にする末造の視点からお玉を描き、不幸な女から愛され憧れの眼でみられるエリートの視点からお玉を描いている。この二つを統一して持っているのが保守的官僚の鴎外である。

 鴎外のこうした下司な楽しみの背後には、ロマンチックな空想とは様相の違う、鴎外にとって年々重荷になっていく家庭問題がある。貧しい人間との関係は鴎外の社会的関心である。岡田とお玉の関係は分離され、これまでの作品の終末を迎えている。そして、この時代にもなお重要で解決のできない問題であった、末造とお常の関係にも強引に結末をつけようとしている。この問題については、洋行に逃げ込む事はできない。洋行して高級官僚になったことで得られた家庭生活に関わる不満である。鴎外は末造とお常との関係を、「半日」に描かれた不誠実をさらに徹底して描くことで自分の悪質で強固な意志を表明し、孤立無縁の孤高の境地に隠遁する準備をしているかのようである。
 お常は末造が妾を囲っている上に、不誠実に弁解することに苛立っている。この作品は鴎外が、奥さんへの面当てのために書いているように見える。末造はお常を基本的に裏切っていながら、表面的には臆面もなく優しい態度をとる。それは妥協ではなく、お常の気持ちをはぐらかして自分の意地を押し通す方法である。そして、もともと自分の勝手を通しているから、お常がどれほど不信を持ち、不快を示しても平気でごまかし続け、不誠実を徹底している。ごまかすことになんらの不都合を感じることはなく、ごまかし通す自分の手際だけに関心があるからごまかすことは堂に入っている。自分が優位にあるからごまかしで相手が苛立ってもそれを楽しむ余裕があり、その余裕が相手を苛立たせる事を楽しんでいる。ごまかしが知れたとしても自分が不利になるのでなければあえてごまかしを隠さないほどに厚顔無恥である。自分に有利であればどれほど露骨にでも偽善的に高圧的に自己を押し通すのが鴎外のやり方であるし、自分の力を見せつけ、そのことを相手のいらだちで確認するのが鴎外の趣味である。これが鴎外の不真面目であり不誠実であり、「あそび」である。
 鴎外は他に対して自己を偽る意志を持ち、それを恥とも悪いとも思わず、その手際だけに関心を持ち、その手際によって自分を肯定できると思い、またそれ以外に肯定の手段持たず、こうしたやり方に表れる虚偽、二重性を意に介さず、意地で自己を主張し続けた。だから偽りに満ちた二重性は、鴎外自身のいわばまっすぐな自己主張の形式であった。鴎外はこの偽善を好み偽善を誇っている。妾を囲った末造が奥さんを騙すやり方を長々と描くのは鴎外の趣味であり、書かずにおれないのが鴎外らしい冷たい底意地の悪さである。自分の不満を解消することさえ望まず、その不満を根拠に相手を傷つけることをあえて選ぶのが鴎外の冷たさである。自分の幸福を諦めた人間の冷酷さである。
 鴎外の関心は、内容のいかんを問わず相手を圧伏させることであり、鴎外の内容に正当性はなかったから、常に高圧的な偽善的な方法をとる以外になく、それが個性となっていた。自分の正しさを内容によって、正当な対立によって押し通す能力を鴎外は持たなかった。間違っているがゆえに自分の主張に固執し、自分に有利と思えば意地を張り、不利と見れば卑屈に臆病に衝突を回避しながら自分を貫く技術を発達させた。それが引き起こす人間関係の崩壊に対しても同じ方法で対処するのが鴎外であるし、それしかなかったし、鴎外の高い地位にはそれが可能だった。悪い結果にはいっそう悪い意地で対処した。自己を貫こうとして瑣末で恥知らずな計算をするが、それが結局は自分の利益にならないために、自己を犠牲にしても自己を貫くという利害抜きの意地の形式をとる。しかしそれは自分の愚かな計算のために追い込まれた結果であって、強い自己主張の形式ではない。追い込まれた弱い人間の、やむを得ない自己の主張である。
 鴎外は自分のごまかしが、奥さんにも誰にも直感的にわかっていることを理解した上で作品に書く厚かましさと冷たい不誠実を持っている。極端に貧弱な精神を持つ鴎外にとって、個人的な不満が小説を書くためのもっとも重要な情熱であった。こうした嫌がらせを平気で、勝ち誇ったように公にするのは、異常と言っていいほどの傲慢さであり冷淡さであるが、それが異常に見えるのは、用心深い鴎外が自分の貧弱さを遠慮なく暴露するからである。そのために再び自己を弁護する必要が生ずる悪循環のなかで鴎外の精神は発展した。鴎外は、自分の妻への面当てにわざわざ末造のごまかしの場面を、お常を嘲笑するような、からかうような調子で、偽善的な楽しみによって描いているように見える。お常を騙し裏切ること自体を嘘臭い真面目な様子で好きそうに描いている。こういう誤魔化しが鴎外には快いのであるし、こうした歪んだ喜び以外の喜びや幸福を鴎外は知らなかった。
 末造は黙って女房を観察し出した。そして意外な事を発見した。それはお常の変な素振が、亭主の内にいる時殊に甚しくて、留守になると、却って醒覚したようになって働いていることが多いと云う事である。子供や下女の話を聞いて、この関係を知った時、末造は最初は驚いたが、怜悧な頭で色々に考えて見た。これはする事の気に食わぬ己の顔を見ている間、この頃の病気を出すのだ。己は女房にどうかして夫が冷澹だと思わせまい、疎まれるように感ぜさせまいとしているのに、却って己が内にいる時の方が不機嫌だとすると、丁度薬を飲ませて病気を悪くするようなものである。こんなつまらぬ事はない。これからは一つ反対にして見ようと末造は思った。(p267)
 末造は自分の不誠実な態度の結果を一層不誠実な対応をする根拠にしている。鴎外にはこれほどに不誠実な末造が怜悧に見える。血の気のない官僚の観察であり徹底した不誠実である。誤魔化しの手段を冷静に計算する事が能力であり怜悧だと思っている。こんな不誠実で人を馬鹿にした観察や対処がどれほど不愉快であるかを鴎外は理解できないが、少なくとも不愉快にさせていること事を理解して、それを思い知らせるほどの意地の悪さを持っている。鴎外にとって、末造がお常を小馬鹿にしてごまかし、お常がいらだつ様子を描くのは楽しいことであったに違いない。高利貸であるという設定で自分の感情をそのままに描いても、末造の愚劣な心理や思考が鴎外自身のものだとは思われないし、思われたとしても作家と作品は違うと主張すれば済むくらいの気持ちで描いているのであろうか。末造は、几帳面で怜悧で、不誠実で意地の悪い官僚である。岡田とお玉を分離せざるを得なくなった鴎外は、冷酷な攻撃の矛先を家庭生活に向けている。しかし、面白い事に、客観的な世界を描く事のできなかった鴎外の作品は常に攻撃の矛先を鴎外自身にも向けている。鴎外は「半日」以上に冷酷に突き放した描き方をすることで、家庭的な矛盾からも解き放たれ、信頼関係を失おうとしているかのようである。
 鴎外は自分の立場の優位を疑う必要のない相手に対してこのような態度をとった。鴎外はこのようにして自分の立場の優位を実感し、立場の優位に頼ることを自分の能力だと思っていたし、それ以上の能力をもたなかった。鴎外はそれほど信頼関係というものに無知であり、信頼関係の破壊においてのみ自己を主張した。信頼関係を一般にしらず、信頼というほどの感情をどんな作品にも描かなかった。末造の、あるいは鴎外の不誠実は「黒い影」となって、生活をぶち壊している。しかし、鴎外はそれが不誠実、虚偽のためではなく、お常のわがままのせいだと考えている。生活の安定を至上と考える保守的な官僚には自分の不誠実、偽善の人間関係における意味が理解できない。鴎外はこの不誠実に伴う人間関係の崩壊を我慢し、あるいは高圧的に嘲笑的に対処しつつ、このくだらない矛盾を生み出す地位や金を守ることを人生の最も重要な目的としていたし、こうしたいざこざいを生み出す典型的な人間であった。末造の具体的な内容は鴎外自身である。高利貸しであっても他のどんな職業であってもこれほど不誠実な人間になることは少ないであろう。

 鴎外は、末造とお常の関係で、お常に誠実に対応する意志がないことをはっきりさせ、お玉を妾にすることに満足する末造を描くことで、家庭問題から逃げ出している。そして、家庭問題から逃げ出してきた末造をうるさく思うようになったお玉を描き、お玉の憧れによって洋行する岡田を描き、お玉との関係からも逃れて、憧れの対象となるだけの自分の世界を創り出そうとしている。鴎外の抱えている問題がこれほど単純に解決されていくのは、鴎外の頭が図式的に単純にできているからである。精神の内容はこのように図式的に処理することはできない。
 エリートである岡田も高利貸しである末造も鴎外自身の精神である。鴎外はこの作品でこの両者を分離し、貧しく不幸な女に対する「舞姫」以来の関心である、官僚的な冷たい好色的関心と意地の悪い不誠実を末造に押しつけ、エリートである岡田に洋行と品性を与えようとしている。お玉と関わるのは高利貸で、岡田はお玉が憧れることができるだけの上品なエリートである。岡田はお玉の心情を知らず、知ろうとも思わず、お玉を不幸な運命の中に残して洋行する事で豊太郎の不誠実を免れるという分離である。こんな都合のいい分離が果たして可能であろうか。鴎外は不幸な女との関係で表れる末造的な俗物根性を自分の中から洗い流す事ができるであろうか。不幸な女との関係を鴎外はこれ以後描かなくなる。そして、上品な、高級な自分を描こうとする。しかし、鴎外は「舞姫」以来末造であったし、今後も末造でありつづける。俗物根性のすべてを末造に押しつけて、上品な岡田として再出発することなどできるものではない。
 岡田がお玉を捨て去ることは、お玉が岡田を捨て去ることでもあり、貧しく不幸な人間は、自分で生活を切り開く以外になく、岡田に依存せず、岡田とは関わりなく生活し独自の精神を形成することが、歴史的にはっきりしてきたということでもある。岡田とお玉の分離は、社会的には、貧しい人間のエリートへの依存を同情という形式で描く事が社会的に通用しなくなったことを意味している。貧しく不幸な人間が鴎外の視野から消えていくことは、鴎外が自己肯定のもっとも重要な支柱を失うことであり、もともと主観的な確信にすぎなかった鴎外の自己肯定が社会的な意義を失うことである。この意味で、お玉が岡田との関係を期待できないことは寂しくつらい運命であろう、という「僕」の想定は、鴎外自身の孤独で空虚な感慨である。
 お玉との具体的な関係を末造に手渡した岡田は、豊太郎と違って自己を弁護する必要がなく、「あんなお立派な方でいて、大層品行が好くてお出なさるのですってね」と手放しで高く評価されている。品行がよい、というのは具体的にはどういう意味であろうか。鴎外の考える品行とは、エリートの評判をおとすようなことをしない、すくなくとも、人にわかるようには決してしない、ということである。これまで鴎外が作品に描いてきた人物は、不誠実で、冷酷で、底意地の悪い、大層品行が悪い人物であった。エリスを破滅させても自分の責任ではない、というのが鴎外の品性であって、末造の行動と精神を品性として説明する事がこれまでの作品の内容である。それがはなはだ評判が悪い事になった結果として、鴎外は不品行を品行として弁護し強弁することをやめるために、これまで描いてきた不品行を末造に押しつけて、品行の好い青年に生まれ変わろうとしているが、これまでの作品ではこの不品行と不誠実が鴎外的精神の具体的内容であった。鴎外はその具体的内容を放棄し、失うことに自分の品性の活路を見いだそうとしている。しかし、これは精神が一層空虚になることであり、一層品性を失う過程である。

 岡田は、お玉との出会いを「妙なこと」と言っている。蛇退治をやって偶然美人を助けるのは妙な話である。妙なというほどもないたわいない話であるにもかかわらず、妙な話である。こうした妙なことが人間関係にとってどうしても必要になるのが岡田の妙なところである。どれほど稀な偶然であっても、それが岡田の特別な能力や個性を発揮する偶然であれば、それは岡田の必然である。しかし、誰にでもできるような人助けが、豊太郎や岡田だけに都合よく降って沸いてくるので「妙なこと」である。自分の意志を表に出すことなく、しかも、特別な能力もないにも関わらず、自分がぜひとも必要になる状況をこしらえているので「妙なこと」になる。しかも、この作品では、この「妙なこと」が何もひきおこさずに「妙なこと」に終わる、という、無理な偶然をこしらえたにしては「妙なこと」になる。つまり、蛇を出刃包丁で切ってお玉を助けて、それで終わりである。蛇を殺すことが、人間を悲惨な運命に追い込むきっかけになるのではなく、蛇を犠牲にするだけでで終わっている。鴎外は蛇退治の様子を気持ちの悪いほど詳しく描いている。この気味の悪い冒険の効果は、お玉の憧れる気持ちを引き出すことである。「舞姫」ではエリスを助けて、まず逃げ去ることで誠実さを示し、後に関係を生じて、理由をつけて破滅させるのが鴎外的人格であった。この作品では岡田は、蛇を殺し、自分がお玉には届かない存在である、という印象を残すことに満足している。
 岡田はお玉との関係を回避することで自分の品性を守る事ができるであろうか。これは、実は「舞姫」の豊太郎と同じ方法である。自分がエリスやお玉の運命と関わりを持っていない、ということを示すために関わりを持つのが鴎外の描く人物の特徴である。本質的には、豊太郎はエリスと深い関係をもたないのであり、その点では岡田も豊太郎と同じであり、ここに鴎外的人物の不品行の本質がある。だから、お玉と関わりをもたずに洋行に逃げる事は、これまでの不品行の徹底であり完成であって、不品行の回避ではない。この作品では不品行の必然的結果としての破滅の運命が岡田に忍び寄っている。
 鴎外は高利貸しの末造とエリートの岡田の精神の両者によってお玉の運命を弄んできた。しかし、地位の優位によって不幸な人間の運命を弄ぶ精神は、社会に受け入れられなくなっている。地位の優位に固執する精神は社会的に孤立し始め、社会の表舞台から姿を消さねばならなくなってきた。地位の優位を人間関係の破壊という形式で味わってきた鴎外の精神の必然的な結末である。貧しく不幸な人間がエリートに依存することを唯一の救いと考えることを想定できる時代には、貧しく不幸な人間を不幸な運命に突き落とすことはエリートへの依存を強め、エリートの地位を強くする事でもある。しかし、エリートと貧しい人間の分離が発展すると、こうした依存的な関係を想定する事はできなくなり、両者の分離独立を現実として受け入れなければならなくなる。エリートの地位の優位に固執し、それ以外に能力をもたない鴎外にとっては、お玉の岡田に対する憧れを想定しつつ、エリートの世界に引きこもらなければならなくなる。岡田がお玉の憧れを引きずってエリート世界に隠遁することには、岡田が自分自身において肯定する精神を持たないことを示している。すべての人間関係を失っても、自分には洋行がある、というのは寂しい自己肯定であろう。洋行は積極的な人間関係の形成や、社会的な活動の可能性を意味するのではなく、お常との関係からも、お玉との関係からも切り離された鴎外の人生の支えである。洋行から帰って多くの年月が流れたのに洋行の成果は生まれず、洋行は洋行としていよいよ重要な意味を持つようになっている。鴎外にとって、洋行それ自体が意義を持っているかに見えた若い時代が懐かしく思い出されるのは当然である。

 鴎外は、お玉と岡田の関係を偶然によって終わらせている。偶然を弄ぶのは作家としての無能であり不誠実さであり、ごまかしの技術である。こういう描写方法はこの作品に限った事ではなく、内容を描く事のできない鴎外が必要とする、したがって鴎外の得意な描写である。
 「おい。岡田君いるか」
 「いる。何か用かい」
 「用ではないがね、散歩に出て、帰りに豊国屋へでも往こうかと思うのだ。一しょに来ないか」
 「行こう。丁度君に話したい事もあるのだ」(p299)
 こういう描写は日常的な情景をそのままに、状況のつなぎのために書いているかのようである。小説の展開としては挫折であるこうした描写を、鴎外は自然な流れのように描いている。末造が家を空けた機会に、お梅を里に返すお玉をわざわざ描いていながら、臆面もなくその日の岡田の散歩に「私」が同行する偶然を描いている。さらにここで石原という人物をも偶然的に登場させている。お玉と岡田のそれまでの描写がまったく意味を持たないかのように、あるいは無意味であった事を証明するかのように、外的な偶然によって関係が解消される。鴎外はこれ以上の内容を描く能力を持たない。しかし、偶然を使って岡田とお玉のかかわりを描かずに済むように工夫する不誠実さを持っている。無意味な描写やしらばっくれた会話によって読者の関心をはぐらかす意志と能力を持っている。能力の限界によるとはいえ、これほどのごまかしを平気で描くのは、鴎外が自分自身に対してさえ不誠実で不真面目であったことを物語っている。
 「私」と一緒に散歩することになる妙な偶然の他に決定的には洋行という「思いも掛けぬ事」によって岡田とお玉は分離される。鴎外は、お玉との関係を回避するために偶然を必要としており、自分とお玉を必然性において分離し、独立することができいない。洋行が突然決まった事情がそれらしく描かれているが、お玉との関係では外的な偶然であり、こんな事情はいくらでも考えつく事ができる。洋行によって岡田はお玉との関係から逃げ出し、鴎外は小説の展開から逃げた。「舞姫」では帰国で逃げた。帰国も洋行も、エリスやお玉と関わりのない事情から生じる。そして、その事情がやむを得ない事情であることが無意味に説明されている。うまくごまかす事がうまくいった事になると鴎外は考えているらしいが、この誤魔化しが鴎外の人物の本質的な特徴である。うまくごまかすことが本質であり、それが不愉快な印象を与え、孤立化に伴う精神の展開である事が鴎外にはわからなかったし、またわかったとしてもそれ以外に方法はなく、こうする以外に描く内容を持たなかったから、わかる必要もなかった。それが保守的で保身的な官僚の精神の運動である。
 鴎外にとって、出世や洋行は自己に閉じこもり、自己を守る最良の手段であった。岡田とお玉の関係が洋行によって断ち切られることは、この時期の鴎外にとって、社会的孤立の最後の砦が洋行の思い出だけになったことを意味している。人間関係と精神の喪失の結果として地位と地位に固執する精神が残った。鴎外は自分が孤高の境地にいると解釈しているが、その高さの現実的な支えとなるのは洋行と出世だけである。わずかの金を援助するとか蛇を殺すといったエリートらしくもない業績によって自分の品性を証明したあと、結局は、洋行によって自分を肯定している。洋行するほどの高い能力が関係を引き裂いたと理解していたのは「舞姫」の時代である。洋行の内容はすでに失われ、洋行それ自体に自己肯定を依存するようになったのは、人間関係の崩壊が現実化し、鴎外の自己認識を促しているからである。愛情や憧れがあって、地位の諸事情によって分離されていく葛藤が描かれているのではない。地位にしがみついている官僚が人間関係を失っていく過程を、愛情と憧れによって粉飾しようとする葛藤が描かれているのである。
 「なんだって円錐の立方積なんぞを計算し出したのだ」と、僕は石原に言ったが、それと同時に僕の目は坂の中程に立って、こっちを見ている女の姿を認めて、僕の心は一種異様な激動を感じた。僕は池の北の端から引き返す途すがら、交番の巡査の事を思うよりは、この女の事を思っていた。なぜだか知らぬが、僕にはこの女が岡田を待ち受けていそうに思われたのである。果して僕の想像は僕を欺かなかった。女は自分の家よりは二三軒先へ出迎えていた。
 僕は石原の目を掠めるように、女の顔と岡田の顔とを見較べた。いつも薄紅に匂っている岡田の顔は、確に一入赤く染まった。そして彼は偶然帽を動かすらしく粧って、帽の庇に手を掛けた。女の顔は石のように凝っていた。そして美しくみはった目の底には、無限の残惜しさが含まれているようであった。
 これは、「僕」の説明であって、岡田の心情は明らかでない。明かにすべき心情を岡田は持っていない。「僕」もただ「無限の残惜しさ」という鴎外好みの自己肯定を想定するだけである。お玉の無限の残惜しさは、エリートの地位が自分の価値のすべてである岡田が必要とする、甘味であるにしても空虚な空想である。鴎外は晩年になってもなお洋行を自分の支えにしようとしている。
 エリート世界を、エリスやお玉の手の届かない、晴れがましい遠い世界として肯定する価値観は鴎外の生涯を通じて変わらなかった。鴎外はここにしか自分の価値を見いだせなかった。しかし、この作品では、エリート世界はお玉にとって現実的な意味を失っている。エリートの地位がお玉から無限に遠いほど高いものなら、お玉が岡田との関係を失うと同時に岡田はお玉との関係を失う。不幸なお玉がエリートに対する憧れを持つ事は寂しいことであろう。しかし、エリートである岡田が、貧しいお玉は自分が遠い世界に離れていくために無限の残惜しさを感じているに違いないという未練を引きずっていくとすれば、それはいっそう深刻な残惜しさであろう。
 鴎外は、個人的で偶然的な事情から、不幸なエリスとの関係でエリートの不誠実と冷酷さを描写する事になって文学史上に大きな位置を占めたが、この時代にはそれは描けなくなっている。冷酷な同情という形式をとっていた貧しい人間への関心は、大逆事件によって最終的に失われた。自己弁護の必要を感じていないこの作品でもすでに、官僚的に冷たい好色的心理と、エリートに憧れる美人の通俗小説風な描写が表れている。貧しく不幸な人間の運命を弄ぶことができなくなれば、洋行と語学を弄ぶのみである。無用な知識と自信で頭が一杯になったインテリの頭の中には、平凡で無内容な教訓がボウフラのように沸いてくる。精神が内容を失うと教訓を生み出す。この作品以前にも俗な一般化が書き込まれていたが、この作品以後その比重が大きくなり、ついには教訓を作品の主題にするほどになる。鴎外はそれをより高度のより普遍的な思想であると考えるであろうし、ブルジョアやエリートの教養の種になるであろう。精神が空虚になるにしたがって、こうした一般化の無意味さを鴎外が理解する事も感じ取る事もできなくなっていくことをこの後の作品が示している。この小説が、岡田とお玉の関係を描くべく出発しながら、結局具体的に描かれたのは「半日」に近い家庭的な不満の表明に落ち着いている事も鴎外の精神の枯渇を物語っている。さらに、岡田とお玉の関係を描こうとして描けなかった事をうまくごまかして小説の形式に整えている事も、作家としての力量と良心の喪失を意味している。この小説を描くのに長い年月を掛けている事も鴎外の能力の限界をしてしていると言えるだろう。豊太郎とエリスの関係や岡田とお玉の関係は、日本史上に表れる必然的な関係であるが、結局鴎外はその意味を理解することなく、ただ官僚的な冷酷な精神をその関係の中に記しただけであった。
 

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