「硝子窓」(明治43年6月1日)


  啄木はここでも、文学あるいは文学者を特別視して、世間離れした人生を送り世間離れした文章を書くことを批判している。啄木は日記でも書簡でも評論でもこのことを繰り返し主張している。啄木の心構えとしては重要であっただろうが、この事自体は第二義的な意味しか持たない。この問題は文学と現実の生活の関係としてのみ一般的な意義を持っており、それは、文学を特別視する心構えを問題にしなくなることで初めて重要な意味を持ってくる。この評論はその過渡期にある。啄木は、「私はもう、益の無い自己の解剖と批評にはつくづくと飽きて了つた。」と書いており、実行の問題に関心が移ってしまったと書いている。啄木は文学と実行を一致させる当為を、実行の優位のもとに廃棄しようとしている。
 啄木は自然主義の運動によって文学は「単なる遊戯や詠嘆や忘我の国」から生活に接近した、と評価している。自己の忠実なる記録や、自己の思想と要求を託すことや、自己に対する反省を、文学と生活の接近と評価する場合、啄木のいう人生や生活という言葉の意味ははっきりしない。啄木は自然主義文学での私生活の描写を空想から人生への接近と考え、さらに国家に対する批判をも実人生への接近と考えている。啄木には生活、あるいは現実の普遍性という意識がまだ生まれていない。普遍性の意識を持つためには、文学と生活の一致という当為を廃棄し、分離を明かにしなければならない。
 
 ■ 観照と実行の問題も商量された。それは自然主義其物が単純な文芸上の問題でなかつた為には、当然足を踏み入れねばならぬ路の一つであつた。--然し其の商量は、遂に何の満足すべき結論をも我等の前に齋さなかつた。嘗て私は、それを自然主義者の堕落と観た。が、更に振返つて考へた時に、問題其物のそれが当然の約束でなければならなかつた。と言ふよりは、寧ろ自然主義的精神が文芸上に占め得る領土の範囲--更に適切に言へば、文芸其物の本質から来るところの必然の運命でなければならなかつた。
 自然主義が自然主義のみで完了するものでないといふ議論は、其処からも確実に認められなければならない。随つて、今日及び今日以後の文壇の主潮を、自然主義の連続であると見、ないと見るのは、要するに、実に唯一種の名義争ひでなければならない。自然主義者は明確なる反省を以て、今、其の最初の主張と文芸の本性とを顧慮すべきである。そして其の主張が文芸上に働き得るところの正当なる範囲を承認すると共に、今日までの運動の経過と、それが今日以後に及ぼすところの効果に就いて満足すべきである。
 それは何れにしても、文学の境地と実人生との間に存する間隔は、如何に巧妙なる外科医の手術を以てしても、遂に縫合する事の出来ぬものであつた。仮令我々が国と国との間の境界を地図の上から消して了ふ時はあつても、此の間隔だけは何うする事も出来ない。
 それあるが為に、蓋し文学といふものは永久に其の領土を保ち得るのであらう。それは私も認めない訳には行かない。が又、それあるが為に、特に文学者のみの経験せねばならぬ深い悲しみといふものがあるのではなからうか。そして其の悲みこそ、実に彼の多くの文学者の生命を滅すところの最大の敵ではなからうか。
 
 ここで重要なことは、啄木が文学と実生活の分離が文学の必然であること、この文学の本性について考察しなければならない、として文学の本性論から目的論へ移行すべきだとしていた主張を否定していることである。
 啄木はこのあと、「すでに文学其物が実人生に対して間接的なものであるとする。譬へば手淫の如きものであるとする。」として、文学の意義を否定する通俗的な文章を書いている。文学が生活に対して間接的な意義しか持たないならば、四迷や泡鳴や独歩や魯庵が実生活での実行に関心を移したのは当然である、自分としても「其他数限りなき希望はあるけれども、然しそれ等も、この何にまれ一つの為事の中に没頭してあらゆる慾得を忘れた楽みには代へ難い」と書いている。これはこれまでの主張の繰り返しである。
 文学と生活の分離を前提とし、目的論から本性論へと回帰した啄木がこれまでの主張を簡単にくり返しているのは、次のことを確認し、その意義を問うためである。
 
 ■然し、然し、時あつて私の胸には、それとは全く違つた心持が卒然として起つて来る。恰度忘れてゐた傷の痛みが俄かに疼き出して来る様だ。抑へようとしても抑へきれない、紛らさうとしても紛らしきれない。
 今迄明かつた世界が見る間に暗くなつて行く様だ。楽しかつた事が楽しくなくなり、安んじてゐた事が安んじられなくなり、怒らなくても可い事にまで怒りたくなる。目に見、耳に入る物一つとして此の不愉快を募らせぬものはない。山に行きたい、海に行きたい、知る人の一人もゐない国に行きたい、自分の少しも知らぬ国語を話す人達の都に紛れ込んでゐたい……自分といふ一生物の、限りなぎ醜さと限りなき醜さを心ゆく許り嘲つてみるのは其の時だ。
 
 これは、啄木の新たな文学的な思想的な内的欲求の誕生である。啄木の現実認識が進展するための障害となっていたのは、文学を特別視することを批判し、文学と実生活の一致を当為として掲げることであった。その限界をここで突破している。


home