幸田露伴 「五重塔」  (明治24年11月) その


 この文章は、2000年6月に、NIFTY文学フォーラム13番会議室に発言したものに多少の修正を加えたものです。

 露伴の作品は20年か30年か分からないくらい昔に「五重塔」を読んだきりで、暴風雨の中で男が五重塔の回りを歩いているイメージだけが残っている。その時の読書のイメージによるのか、批評による無意識的な影響によるものかわからないが、五重の塔は古い職人気質を描いた作品で、内容として古く、社会の片隅の世界を描いた作品であるというイメージを持ってきた。
 最近一葉を読むついでに読み直してみたところ、むろん五重の塔を作る職人の話に違いないが、やはり文学史上に残るだけあって、社会的な矛盾を描写しようとしている作品であった。職人の世界、精神を介して社会的矛盾を描いている。あるいは職人の生活とか精神上の葛藤を社会矛盾の表れとして描いていることにおいて読者の興味を引いてきたのであろう。それは特に職人の気質を通して見やすい、職人の気質の葛藤として表現しやすい社会的矛盾である。

 ここに描かれた精神の特徴を作品中の言葉でいえば、「高士世に容れられざるの恨み」であり、それがいかに報われるかである。正直で純粋な職人が、意欲と伎倆を持ちながら世に認められる機会を持たない社会を批判的に描こうとしている。名誉欲とか出世欲とか金銭欲を持った人間の手練手管との競争で、仕事に打ち込むことだけを考えているがゆえに、まじめで真摯で無欲であるが故に憂き目にあう人間のいる社会が恨まれている。
 この作品は社会をこのように批判的に観察して、なおその世の中で純粋で真摯な自我が正当な評価を受け、その実力を示す機会を得た一つの実例的状況を描いている。この意味で社会的なテーマを描いた作品といえる。実際このようなことを多くの人々が感じているであろう。しかし、このように感じると同時に、このような社会矛盾の観察や想定には直感的な疑問も生じる。例えば、現実は実際にそのようなものであろうか。さらに、現実がそのようなものであるなら、そうでない状態はつまりは非現実的であろうし、そのような状態を描いても空想的慰め以上の意義があるだろうか。さらに、その空想上で肯定された精神とか世界は、実際に肯定的な意義を持つであろうか、等々。

 実は、このような現実観察とか思想的想定とか、それに対する疑問は全体としてごく単純な思想で、実際はそれほど意味のあるものではない。

 十兵衛は大工の伎倆はあるものの、仕事は「年が年中長屋の羽目板の繕ひやら馬小屋箱溝の数仕事」しかなく、「のっそり」と軽んじて呼ばれており、貧乏暮らしのどん底にいる。しかし、彼は自分の伎倆に絶対の自信をもっており、偶然降って湧いた五重塔の事業に奮い立ち、命に代えてもこの仕事をやりとげて後世に名を残したいと思う。
 腕がありながら不遇な職人が、50年に一度、100年に一度のチャンスに遭遇して、命を懸けてもと奮い立つという想定は、普通には不自然である。というのは、現実的で実践的な欲望の形成自体が非常に大きな社会的結果であるから、この欲望を持つこと自体に五重塔を建てる全体的な力量が前提されるからである。これはしかし、また後の問題としよう。さて、では、「のっそり」といわれ羽目板の繕いやら馬小屋箱溝の数仕事をしている、貧しい重兵衛に100年に一度の大事業ができるであろうか。棟梁として五重塔を立てるとなると大仕事である。大量の材料を吟味して集めなければならない。基礎工事にも材料の切り込みにもその組み立てにも大量の職人を指揮して当たらねばならない。棟梁が棟梁といわれる所以は、職人としての仕事の能力が抜きんでていることを当然のこととして、さらに全体を統括する社会的能力をもっていることである。十兵衛はこの棟梁としての困難をどのように克服するのであろうか。仕事に恵まれず、のっそりといわれて生活をしている十兵衛にとって、試される伎倆とは主としてこの社会的能力である。作品の中では五重塔はできているから、作者の腕も、それがどのように建てられたかを描くことに有る。腕はありながら正直で真面目な者に必要な力量がこの社会的側面であることは明らかである。露伴は塔ができた過程を描いており、十兵衛がこの困難をいかに克服するか、つまりはここに想定された社会矛盾の解決の過程を描いている。

 其一

 まず、源太の妻の葛藤によって物語の前提となる状況が語られている。
 「多分は良人の手に入るであらうが憎いのつそりめが対ふへ廻り、去年使ふてやつた恩も忘れ上人様に胡麻摺り込んで、強て此度の仕事を為うと身の分も知らずに願ひを上げたとやら、清吉の話では上人様に依怙贔屓の御情はあつても、名さへ響かぬのつそりに大切の仕事を任せらるゝ事は檀家方の手前寄進者方の手前も難しからうなれば、大丈夫此方に命けらるゝに極つたこと、よしまたのつそりに命けらるればとて彼奴に出来る仕事でもなく、彼奴の下に立つて働く者もあるまいなれば見事出来し損ずるは眼に見えたこととのよしなれど……」
 源太の妻の主な心配は前半の部分であるが実際はたいした意味を持たない。去年使ってやった恩と五重塔を建てることを比較すれば、五重塔を建てたいという欲望を取る方が誰に対しても説得力を持っている。このような不義理は立派な塔を建てることで弁明できる。檀家に対しても寄進者に対しても同じである。こうした義理人情は気にはされるものの、重要な問題では常に裏切られるのであって、その問題が解決した後にまた同じような義理人情が生まれる。次の重要な問題までそれが現状を拘束しているように思われるが、やはり決定的な力ではなく、簡単に破られてしまう。だから、この義理人情で悩むことはそれほど深刻ではない。それを破るほど重要な問題がない場合にのみ頭を悩ませるものであるから。
 後半の、彼には出来る仕事ではないし、彼の下に立って働くものもあるまいという予想は、塔を建てる能力の問題であり、決定的な意義を持っている。しかし、源太の妻はそれを重視しておらず、このように考えつつも源太と十兵衛が同等の関係にあると思って心配している。この作品では、精神とか心の関係が重視されており、その点で源太と十兵衛は同等か、あるいは十兵衛が優位にあるように描かれている。

 其二

 源太の妻と清吉の会話で、彼等は十兵衛を「のっそり奴」と呼び、十兵衛を馬鹿にしていることを書いている。これは主には彼等が同情の対象ではないことを描き、逆に十兵衛は、さげすまれ、軽んじられて、逆境に居るという印象を与えている。十兵衛の逆境は、彼が同情に値する境遇にあるだけでなく、その心情も同情に値するという観点から繰り返し描かれている。

 其三

 ここには露伴の社会に対する基本的視点が描かれている。「世に栄え富める人々」と対比して、職人の厳しい運命に同情している。
 「其庇廂の大和がき結ひに吹きさらされて疝癪も起すことある職人風情は、何ほどの悪い業を前の世に為し置きて、同じ時候に他とは違ひ悩め困ませらるゝものぞや、取り分け職人仲間の中でも世才に疎く心好き吾夫、腕は源太親方さへ去年いろいろ世話して下されし節に、立派なものぢやと賞められし程確実なれど、寛闊の気質故に仕事も取り脱り勝で、好い事は毎々他に奪られ年中嬉しからぬ生活かたに日を送り月を迎ふる味気無さ、……」
 露伴は貧しい者の生活にも心情にも深く同情する立場をはっきり示している。しかし、それは貧しい者の立場に立つとか、それを一般的に肯定することとは違う。露伴の表明する貧しい生活に対する同情は、その立場に立ち肯定することではない。それがこの時期の四迷や一葉との決定的な違いであり、社会に対する視野の狭さになっている。
 職人の厳しい生活が前世の悪い業のためかと嘆くことは、この生活そのものを否定的に評価していることを示している。それは、この作品が、貧しい、虐げられた生活から抜け出す個人を描いていることにもはっきり示されている。その状態を個別に抜け出すことは、その一般的な状態を否定的に評価することであり、抜け出す対象を一般的に肯定することである。金や地位を獲得することで貧しい生活を抜け出すことがその解決であれば、貧しい生活が否定され豊かな生活が肯定されていることになる。目的とされる状態が一般的に肯定されており、それは金や地位を得ることである。だから一般に同情とか個別的な解決は貧しい立場の肯定ではなく、「世に栄え富める人々」の立場の肯定である。
 ついでながら、貧しい者の立場に立つことは、徹底した場合には、社会の客観的法則を認識することを意味する。富める者と貧しい者の客観的な関係を認識することであり、社会に対してもっとも広く深い認識を持つことである。出世し成功する者を描く場合でも客観的に描くことのみが貧しい者の立場に立つことである。同情する立場から、同情すべき精神の成功を想定するなどということは偏見によって現実の諸関係を歪めて反映することである。
 この作品では、貧しい生活や、それにともなう惨めな人間関係が繰り返し描かれる。それは、その状態に対して同情の観点から個人的な報いが予定されているからである。個人的な成功が結果として想定され、それに至るまでの貧しさや惨めさを存分に楽しむのが通俗的な小説や芝居の常套手段である。「世に栄え富める人々」の世界は端的に肯定されており、それにたどり着くための過程として貧しい生活は耐えるべきまた耐えうる生活となる。貧しい生活で流される涙は成功を内包した甘い涙である。

 十兵衛は貧しい職人仲間の中でも、「世才に疎く心好き吾夫」であるために特に貧しいと妻は考えている。その十兵衛が自分の埋もれた力量を示して冷たい社会を見返す機会となるのが五重塔の建立である。
 「何日其手腕の顕れて万人の眼に止まると云ふことの目的もない、たゝき大工穴鑿大工、のっそりといふ忌々しい諢名さへ負はされて同業中にも軽しめらるゝ歯痒さ恨めしさ、陰でやきもきと妾が思ふには似ず平気なが憎らしい程なりしが、今度はまた何した事か感応寺に五重塔の建つといふ事聞くや否や、急にむらむらと其仕事を是非する気になって、恩のある親方様が望まるゝをも関はず胴欲に、此様な身代の身に引き受けうとは、些えらすぎると連添ふ妾でさへ思ふものを、他人は何と噂さするであらう、ましてや親方様は定めし憎いのつそりめと怒つてでざらう、お吉様は猶ほ更ら義理知らずの奴めと恨んでござらう、……」
 たとえむらむらとであっても、大きな仕事のための意欲が生まれるには、それまでの人生全体を懸けた準備が必要である。その準備の上に実践的な具体的な意欲、欲望が湧いてくる。万人の眼にとまることもなく、同業中にも軽しめられてきた十兵衛が、100年に一度の大仕事に対して「急にむらむらと」意欲を持ちえたのは不思議である。無論、彼の意欲がどのように形成されたかを描く必要があるというのではない。どこから書き始めても問題はない。しかし、欲望が生まれる根拠が問題にされていないことは、その欲望とか意欲の内容や、仕事を得ようとする十兵衛の感情や行動の内容のすべてに現れている。
 その一つは、十兵衛の妻の葛藤のこの後半の部分である。ここでも、源太の妻と同様義理人情が主な困難であるように考えて葛藤している。他人がどう思うか、源太やお吉が恩知らずと思うであろうと心配しており、すでに恩知らずであると考えていることは描かれている。塔を建てる事自体ではなく、建てた後の人間関係が心配されている。仕事をとるための実質的準備における葛藤はなく、仕事が同等にできることを前提として、仕事を取ることに対する人間関係についての葛藤が描かれている。
 また、「恩のある十兵衛の奴が」という源太の妻の気質と「恩のある源太様に」という十兵衛の妻の気質が対比されている。この場合源太の妻の方が否定的な形式で描かれており、すでに十兵衛が仕事を取ることが予定されている。塔の仕事を請けるための競争は、いかに同情を獲得するかにかかっている。
 仕事を請けることが、塔を建てる力量によって競われるならば、競争の過程で独自の精神が形成される。100年に一度の大事業をなしうる能力が形成されるには、それまでに複雑な人間関係の過程の蓄積がが必要であり、それを反映した複雑で高度な精神が形成される。しかし、ここではそれは問題にされていない。塔を建てる力量と、それに基づく欲望の質が現実過程に於ける形成物としては問題にされていない。それは描き忘れているのではなく、意識して否定されている。仕事を獲得するために厳しく競争すること自体が人間関係として否定されるところにこの作品の独自の人間関係が成り立っている。ここにこの作品の社会的視点がある。

   其四

 ここには、五重塔を建てるに至った事情があり、それが十兵衛の意地と深く関係している。
 ともかく大変な修行をして、有名で、人々に慕われている朗円上人という僧がふと洩らした言葉から因縁が始まった。
 「固より壊空の理を諦して意欲の火炎を胸に掲げらるゝこともなく、涅槃の真を会して執着の彩色に心を染まさるゝことも無ければ、堂塔を興し伽藍を立てんと望まれしにもあらざれど、徳を慕ひ風を仰いで寄り来る学徒のいと多くて、其等のものが雨露凌がん便宜も旧のまゝにては無くなりしまゝ、猶少し堂の広くもあ れかしなんど独語かれしが根となりて、道徳高き上人の新に規模を大うして寺を建てんと云ひ玉ふぞと、此事八方に伝播れば、中には徒弟の怜悧なるが自ら奮つて四方に馳せ感応寺建立に寄付を勧めて行くもあり、働き顔に上人の高徳を演べ 説き聞かし富豪を慫慂めて喜捨せしむる信徒もあり、……百川海に入るごとく瞬 く間に金銭の驚かるゝほど集りけるが、それより世才に長けたるものの世話人となり用人となり、万事万端執り行ふて頓て立派に成就しけるとは、聞いてさへ小気味きよき話なり。」
 上人は修行によって俗世的な欲とか執着をぬぐい去った。昔の人が建てた伽藍で高い入館料をとったり利権をむさぼったり、夜になったら祇園に行って舞妓と遊ぶのが修行だと考えている様な普通の坊主とはできが違う。朗円上人の方が偉い。しかし、徳を慕う学徒のためにふと洩れた言葉だけ、つまり最初のきっかけを与えただけで、それ以上の欲とか名誉とかつまり寺を大きくしようとかの欲望を持たないとは言えないし、持たないことがいいとも言えない。上人はつぶやいただけで、後は学徒とか信者が寄付を集め寺ができた。しかし、大金をかけて大工事が目前で進んでいるし、すべての権限は上人にあるのだから、大きな伽藍を建てるのは上人の意志と言える。この場合、別にできてもいいというくらいの意志と、是非とも立派な伽藍をつくって頂きたいという意志の間には、その事業の大きさからして、欲望の大きさの違いはない。むしろ精神の特徴として重要なのは、大事業に対してはっきり自分の判断を持ち、公表し、事態の進行に対する責任を明らかにすることを避けている上人の態度である。客観的に進行している事態に対して、自分の欲とか執着の刻印を押さないことを無欲と考えるのは偽善的である。事態の進行に無知でいることはできないのは明らかだからである。

 五重塔は、この伽藍を建設してもなお大金が余ったから、ついでのように造ったもので、欲や執着とは一層遠ざかっている、という形式を取っている。田畑を買うとかはどうせダメだろうと考えて、聞いたところ、上人は、
 「塔を建てよと唯一言云はれし限り振り向きも為たまはず、鼈甲縁の大きなる眼鏡の中より微なる眼の光りを放たれて、何の経やらを黙々と読み続けられけるが、いよいよ塔の建つに定つて例の源太に、積り書出せと円道が命令けしを、知つて か知らずに歟上人様に御目通り願ひたしと、のつそりが来しは今より二月程前なりし。」
 短くしゃべれば淡白で、欲望や執着らしくないと言えるが、それは形式の違いに過ぎなくて内容とは別である。大金の使い道として五重塔が最善であるなら、それをはっきりと、理由も示して指示するのが啓蒙であろうし、誠実で親切な対応というものであろう。

   其五

 ここには十兵衛の見すぼらしく、「品格なき風采の猶更品格なき」様子が詳しく描かれ、さらに彼が世間的なつきあいに疎い様子が描かれている。見すぼらしいために、寺の門番や用人に軽く冷たくあしらわれ、上人に会うことはなかなかできない。こういう小競り合いをいろいろに工夫するのはよくあるパターンでそれほど難しいことではない。さんざん冷たくあしらわれて、大勢でよってたかって放り出されようとしているところに上人が登場するなどというのは田舎芝居の筋立てで、描かれた精神のレベルも非常に低い。
 ここでも十兵衛が立ち向かっている困難は見すぼらしい様子の自分に対する不当で露骨な軽蔑である。この軽蔑に耐えること自体が困難であるかのように描かれているが、不当で露骨な軽蔑ほど相手の不当性がはっきりするから耐えやすいものであるし、もともと貧しいものにとってこんな困難はとるに足らぬものである。門番や用人がごく普通のことをわざわざ口汚く言っているだけである。これを丁寧に物腰やわらかくいさえすれば普通の対応になる。そうすると十兵衛の葛藤や正当性はなくなり、彼の世間的な無知だけが浮かびあがる。
 不当な軽蔑に耐えることは、十兵衛の偉大さをしめすものではない。また、十兵衛が特にひどい扱いを受けているところに上人が登場するのは上人の偉大さを際立たせるためであるが、こんな遣りかたで偉大さを描写することもやはりできない。

   其六

 「上人が下したまふ鶴の一声の御言葉に郡雀の輩鳴りを歇めて、振り上げし拳を蔵すに地なく」というのは、上人の威力の自慢にならない。上人の言葉の威力が強いほど、寺の門人に徳が行き届いていないことが上人の無力ともなる。彼は自分一人が偉いことに満足していることになる。上人自身の徳がいかに高くても、いかに尊敬されていても、寺内部の人間にさえ感化が及ばないようでは世間一般に対して効用は少ないであろうし、そうなれば徳が高いとも言いがたいだろう。
 「万人に尊敬ひ慕はるゝ人は又格別の心の行き方、未学を軽んぜず下司をも侮らす、親切に温和して先に立て静に導きたまふ後について……」
 上人がどんな貧しい人間が来ても取り次ぐようにと命令し教育していさえすれば十兵衛がひどい扱いを受けることはなかった。簡単に回避できることをしていないだけの、単なる不注意から起こるごくレベルの低い葛藤である。
 この対応で描こうとしているのは、上人の、貧しい虐げられた人間に対する暖かい同情心である。その側面から言えば、寺の用人らの冷たい対応は上人に近づける役目を果たしている。十兵衛が寺の用人に、一般的には世間に冷たくあしらわれているほど同情の厚い上人に近くなる。このように非常にレベルの低い人間関係を基準にしているのだから、それを越えた存在である上人のレベルも当然低くなる。しかし、十兵衛もこの点に期待し、その点を確認していちいち感激している。ここに十兵衛の精神の特徴が現れる。
 「鼻突合はすまで上人に近づき坐りて黙々と一礼する態は、礼儀に嫻はねど充分に偽飾なき情の真実をあらはし、幾度か直にも云ひ出んとして尚開きかぬる口を漸く開きて、舌の動きもたどたどしく、五重塔の、御願に出ましたは五重の塔のためでござります、と藪から棒を突き出したやうに尻もつたてゝ声の調子も不揃に、辛くも胸にあることを額やら腋の下の汗と共に絞り出せば、上人おもはず笑を催され……」
 十兵衛が心から塔を造りたいと思っていることは、座り方や額や腋の下の汗から分かる。これが十兵衛らしい誠意の示し方である。いい歳をして、このように純真にまじりけない形式で全精神を塔に打ち込むことは普通はできない。というのは、人は年齢と共に複雑な人間関係に揉まれ、仕事の内容についても高度の知識を蓄積していくことで精神全体が具体化しており、感情も同等に具体化するからである。大きな仕事をするための誠意は、脇の下の汗によってではなく、それまでの実績とか、見積もりとか、塔を建設する上での最高の伎倆とか、具体的な計画を実践的によって示すのが具体的精神のやり方である。訴えるべき具体的内容によって塔を建てる権利を得ようとする場合には、こうどぎまぎしたりもたついていることはできない。十兵衛の場合は、建てる許可を、日頃の悔しい思いの全力をかけて願っているだけで、彼の蓄積とは主には世間の自分に対する不当な扱いとか軽蔑に対する口惜しさである。それが上人の趣味にあっている。

 塔を建てたいという意欲を、ともかくも建てたいという意欲だけを抽象的に示すことをもって誠意とするこの子ども染みた態度が意義を持つのは、上人が絶対的権威をもっており、彼の心さえ掴めばなんとかなるような特殊な世界だからである。複雑な人間関係の中で信頼を獲得しようとすれば、十兵衛は多くの人間に対して、この単純な態度を繰り返さねばならない。何度も腋の下に汗をかいているようでは、却って信用を失うであろうし、汗も涸れてしまうであろう。上人一人に一回きり直談判することで塔を建てる仕事を得られることが、十兵衛が成功するための特殊な条件である。上人の個人的意思が決定権をもち、その上人の社会認識、人間評価の基準が「徳」で、虐げられた人間に日の目を見させようとする同情心である。このような特殊な権威のもとでしか十兵衛が五重塔を作る機会は得られない。

 貧しい様子をしているとか形式的な儀礼に気が回らないことは単にできないという消極的意味しか持たない。だから、それをもってその人間の全体を否定することはできないが積極的に評価することもできない。それが仕事だけに集中している純粋性の証明であるとされるなら、彼は自分の熱意や誠意をこの消極的な意味しか持たないものによってしか表せないことになる。その純粋さは彼の経験の浅さや未熟を示している。それは彼が純真でこころから願っているとしても同じことである。
 十兵衛が汗を流したり涙を流して訴えるのは、五重塔の建設を抽象的なこころの問題にして、根拠なしにまるごとの信頼を求めているからであり、具体的に訴える材料を持たないからである。五重の塔の建設に必要な準備をしているなら、このような軽々しい「まこと」はなくなる。心の真実はどれほど周密に能力を傾けて準備するかであろう。源太は見積もりを出した。十兵衛はそれをせずにただただ仕事をくれと涙ながらに訴えている。うそはできない、という。うそつきとか不真面目な人間に塔を任せることはできない。しかし、それでは塔を建てるのに充分ではない。そんなレベルで訴えるのはまじめといえるだろうか。このような熱意が世間に通用してこなかったことが不運だろうか。経験を経て来た者が大きなチャンスを前にして、「なきながら寝ました」などという態度をとるだろうか。
 「五重塔を汝作れ今直つくれと怖ろしい人にいひつけられ」それが夢と分かって、
 「行灯の前につくねんと坐つて嗚呼情無い、詰らないと思ひました時の其心持、御上人様、解りまするか、ゑゝ、解りまするか、これだけが誰にでも分つて呉れゝば塔も建てなくてもよいのです、どうせ馬鹿なのつそり十兵衛は死んでもよいのでござりまする、腰抜鋸のやうに生て居たくもないのですは……」
 よく泣く男である。これは嘘でも本当でも真面目な言葉ではない。気持ちの真実とか、理解の真実は塔を建てることによって、それによって獲得できる人間関係によって実証される。こころが理解されているかどうかは、困難な実践的現実的過程を通じてのみ検証できるし確信できる。誠意を示すとか互いに理解するとかは、このような短時間の瞬間的な熱情によってではなく、現実的で実践的で持続的な関係においてのみ獲得されるものである。それが無い場合には汗とか涙とか愚痴とか惨めな生活状態とか、世間知に疎いことなどが真実の証とされる。

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