幸田露伴 「五重塔」 (明治24年11月) その


   其七

 十兵衛の作った雛型をみてその伎倆に感心した上人は、次のように十兵衛を高く評価している。
 「假令ば木匠の道は小なるにせよ其に一心の誠を委ね生命を懸けて、欲も大概は忘れ卑劣き念も起さず、唯只鑿を持つては好く削らんことを思ふ心の尊さは金にも銀にも比へ難きを、僅に残す便宜も無くて徒らに北ボウの土に没め、冥途の苞と齎し去らしめんこと思へば憫然至極なり、良馬主を得ざるの悲み、高士世に容れられざるき恨みも詮ずるところは異ることなし」
 真面目で仕事熱心で、無欲で腕があっても日の目を見ない人物に機会を与えるのはいいことに違いない。しかし、そうなると、他のだれかを日陰に追いやらねばならない。この場合は、「設計予算まで既做し出して我眼に入れし」源太が犠牲になる。しかし、源太もすぐれた人物であるから簡単に退けることはできない。そこで上人らしい方法が考えつかれる。

   其八

 上人の口上を伝えに来た円珍に、源太の妻はいくらか金を包み「思へば怪しからぬ布施の仕様なり」と否定的に書かれている。これも競争の一つの要素で、仕事を得ようとする欲が見えて、源太に不利に働くイメージである。しかし、お吉を非難するなら、袖の下をとるような僧がいることが他方で上人の管理、感化が行き届いていないことをも示していることも指摘せずにいられない。
 十兵衛は、「唯願はくは上人の我がおろかしきを憐みてわれに命令たまわらんことを」として、自分の憐れな状態に期待を懸けている。上人が現れた時の態度も、「力なげ首悄然と己れが膝に気勢のなきたさうなる眼を注ぎ居るに引き替へ、源太郎は小狗を瞰下す猛鷲の風に臨んで千尺の巌の上に立つ風情」と対比されている。
 といっても、「表面の美醜に露泥まれざる上人」にとってはこれは選択の根拠にならない。より深い内容において決められるとしている。
 そして結論は意外にも、「誰に定めて命けんといふ標準のあるではなし、役僧用人等の分別にも及ばねば老僧が分別にも及ばぬほどに、此分別は汝達の相談に任す」であった。標準はないといわれ、相談しろといわれては二人とも困るであろう。そこで、上人は判断の材料を与えている。

   其九

 上人はお経から取った譬え話で自分の考えを示唆している。譬え話は余計な内容を含むために主旨が分かりにくくなるものであるが、幸いこの譬え話は非常に単純で分かりやすい。それは要するに、仕事を欲しいと欲を張るのでなく、譲る心を持てば報われるというものである。決定権を持つ上人がそう言っているのだから、上人は面白い軽い話と言っているが仕事をしたいと思っている両人としては軽々しく聞き飛ばせる話ではない。上人は自分の判断を押しつけずに、自主的な判断を求める形式をとっているが、上人の考え方を受け入れるかどうかを求めていることに変わりはない。上人の徳の傾向との一致で競争しなければならない。それも長期の生活上で形成される内容を見るのではなくて、この譬え話の解釈によってであるからまったく抜き打ちテストのようなものである。二人に明らかな客観的な基準によって採点されるのではなく判定はすべて上人の心の中でだけ決まるから対処が非常に難しい。
 話は分かりやすいようで分かりにくい。仕事を欲しがっては仕事を得られない。仕事がいらないというならやろうと言っている。だから、問題はどのように辞退するか、どのように欲を示さないかという妙な競争になる。競争を避けることを目的として実は競争の内容が非常に瑣末になる。山で修行した上人の思想には社会的内容が含まれておらず、こころを抽象的に単純にしか理解できないために、社会的な競争の中で訓練されていない者にとっては、こうした上人が絶対的権力を持つことことに活路を見いだすことができる。世にいれられないことに対する同情が強いから、徹底して社会に拒否され、孤立し、さげすまれていることは十兵衛にとって非常に有利になり、その点が繰り返し描写されている。

   其十

 仕事をやりたくてたまらない十兵衛は、譲れといわれて苦しんでいる。仕事をやりたい、しかし譲らねばならない、なまじこのような事思いたたずに、ああけれども、とかのワンパターンの葛藤を繰り返している。もともと上人の謎が建てたければ譲れだから、譲らねばならない、しかし建てたい、という単純な葛藤しかありえない。単純な繰り返しだからくどくなり愚痴っぽくなる。こうした単純な葛藤をどのように工夫しても深刻な葛藤として描写することはできない。
 上人に直訴する、命に変えても塔を建てたいと考える、難しいとなると、もうすっぱり諦めて、といったふうで、十兵衛は何事にもすっぱりしているようであるが、この単純なすっぱりは、単純な故に繰り返される運命にあって、その場合には、ぐずついた、愚痴っぽい、はっきりしない性格になる。同じことで何度もすっぱりするなどとは妙なものである。
 「言はず語らず諭された上人様の彼言葉の真実のところを味はへば、飽まで御慈悲の深いのが五臓六腑に浸み透つて未練な愚痴の出端も無い訳、争ふ二人を何方にも傷つかぬやう捌き玉ひ、末の末まで共に好かれと兄弟の子に事寄せて尚い御経を解きほぐして、噛んで含めて下さつた彼御話」
 上人の言葉は慈悲の心から出たものである。しかし現実的には慈悲深くならない。「愚痴の出端もない」のではなくて愚痴になりやすい提案をしている。「あらそう二人を何方にも傷つかぬように」というがもっとも傷つきやすい競争である。
 競争のある世界で双方を傷つかぬようにするには、仕事に必要な客観的な条件を明確に示し、実力を比較する機会を与えることで双方を納得させること、つまり正当に平等に競争させること以外にない。競争を抑えること、正確にいえば競争を競争らしくない形式にすることは、競争の内容と形式を歪め、双方が傷つくことになる。

   其十一

 源太は、十兵衛と違ってあれこれと思い悩むことなく、仕事を半分づつ請けようと考えている。それに対して、妻のお吉は上人の話など理解できない俗衆の意見を代表して、のっそりに遠慮などせずにとればいいのだと言っている。実際十兵衛も源太も上人の価値観を絶対的と考えている。それは上人が権力をもっているから仕方なく思うのではなく、言っている内容が高度だと考え、内容上でまったく屈服しており、上人の価値観の限界内にあるからである。だからその狭い価値観内部での対立であって、お吉は単純とは言え、むしろその外の客観的・常識的世界を反映しており、より現実的である。上人、源太、十兵衛は浮き世離れした価値観のうちに生きており、露伴は、この特殊な価値観を肯定している。

   其十三

 源太は、「五重塔は二人で建てう、我を主にして汝不足でもあらうが副になって力を假してはくれまいか」と常識的な方策を出し、十兵衛の妻もそれをありがたい申し出として感激している。
 二人の情熱からすれば半分というのはすっきりしない。しかし、上人の提案からすれば、源太の申し出は妥協的であるが当然の方策である。上人は心構えを問題にし、直接単純な人間関係を問題にしているために、競争を単純な対立として、相手に対する否定としてのみとらえている。したがって、競い合うか妥協し譲り合うという単純な選択肢しかなく、身動きが取れない。仕事の内容で競えば、人間関係が具体的に展開し発展するための内容となる。それがないために対立は一貫して陰気で不毛で発展性に欠けている。正当な競争においては対立は発展の形態をとるが、この場合には対立は不動で同じ地点でのせめぎあいである。お互いに同等の恨みの残る陰気な対立となる。それを避けるには半分という妥協的な方法しかなくなる。
 十兵衛はこの申し出をずっと黙って聞いている。そして「再度三度かきくどけど黙々として猶言はざりしが、やがて垂れたる首を擡げ、何うも十兵衛それは厭でござりまする、と無愛想に放つ一言」と、妻と源太を驚かせている。
 陰気で卑屈な性格とこうしたずうずうしさは同一的でありうる。具体的に孤立を解消しようとしておらず、孤立にただただ耐えており、そう意識しているから、その反発として極端な要求がでる。「平素薄命を口へこそ打出さね、腹の底では何位泣て居る」という状態では、何かの時に一気に噴出せずにはいない。それは不満に満ちた心の爆発であって蓄積された準備とか能力の実現ではない。不遇が突然チャンスを得てそれを実現しようとしても、手順を追うための手段を蓄積していないから、要求がどうしても極端になる。こういう極端は現実と衝突するとすぐにポシャッてしまうが、ここでは幸い上人がそれをとりあげてくれるので、極端を主張しやすい。

   其十四

 「人情の花も失さず義理の幹もしっかり立てて」、このような文章はすでに芸術の名に値しないことをはっきりしめしている。義理人情という表面的な関係を直接肯定していては深い社会把握はできない。
 しかし、ここでは十兵衛は義理人情に反しているように見える。
 「恩知らずめ義理知らずめ、人情解せぬ畜生め、彼奴は犬ぢや鳥ぢやと万人の指甲に弾かれものとなるは必定」と妻は言っている。妻がながながと演説しているあいだに、黙って聞いた上でようやく「喧しいはお浪、黙つて居よ」と制するのは、これが本当の説教、つまりは言うまでもないことばかり言っているからである。この説教は重兵衛が仕事をやりたいという当然の意地を前提にしているから、妻の気遣いも十兵衛の意地もよくわかるという単純な葛藤である。
 恩・義理・人情と比較すれば、それを犠牲にしても後世に残る大きな仕事をしたいという欲望は、結果として仕事が実現されれば天晴れとして肯定される。恩知らず、義理知らずだと言ってもいい仕事をすれば、義理人情の矛盾に苦しみながらとなれば一層よくやったという話になる。大仕事をして自分にふさわしい評価を証明するのであれば、それに先立って身の分際を忘れることは、悪いことではなく、仕事をやるための当然の情熱と見なされる。
 この十四でのように恩義の具体的ありかたについて雄弁に描くほど平凡さが目立つことになる。作者は、平凡な義理人情を並び立てて、それを破ることに十兵衛の情熱を描こうとしている。礼を失しても恩を欠いてもという意志に、礼や恩に対する強い意識とそれをも越えようとする仕事の情熱があると言いたい。しかし、情熱を強調するための対立物、情熱の対象である困難の内容が義理とか人情とか恩では情熱のレベルが非常に低くなる。其れは結局、義理人情に厚いというくらいの意味しか持たない。

   其十五

 十兵衛は源太の申し出をきっぱり断っている。きっぱりといっても、半分という妥協的提案よりすっきりしているわけではなく問題をこじらせるだけである。これがわがままになるのは重兵衛が全部をあきらめたばあいに源太が仕事をひきうけるわけにいかないからであくる。辞退したほうにやらせると上人が言っている。
 しかもきっぱりしないことに、どうせこのままで、とかの愚痴を並べている。諦めた場合の悲惨な人生をならべてそれを受け入れる積もりだなどといえば、そういう人生に対して、源太にも責任がある形になる。深くあやまるほど源太がいじめている形式になる。そういうことに気がつかないのはさっぱりした気質と言えない。それは源太が指摘している通りである。
 どうも腑に落ちないが、実際に腕だけが独立してそのように発展するものだろうか。芸術ではありえないが、伝統の上に立つ建築の技術の場合はこう情けない精神と腕が両立するものだろうか。そうは思えない。大事なときにただただ黙っていて、何かというと泣いて、自分はダメだとか愚痴って、こんな性格で職人を指揮して事業として塔を立てることができるとは思えない。

   其十六

 清吉がけんか早いこと、源太に恩があること。こうしたことが事態を進展させる契機として描かれている。清吉は個性として描かれているというより非常に単純な類型で、物語を進展させるための道具に見える。この作品での類型性とは、源太や十兵衛と違って義理人情にまったく無批判的な、ごく単純で低レベルの義理人情の世界を生きている個性となる。

   其十七

 清吉の話を通して十兵衛の独自性が描かれている。十兵衛が職人仲間にも信用がないとされているが、それは清吉の話では、十兵衛が彼等と遊ばないからだと、清吉レベルの義理人情にはしたがわずに独自に生きているという意味で肯定的に描かれている。重用なのは結果として十兵衛が職人仲間にも信用されていない事実である。遊ばない事と信頼を失うことは直接つながらない。遊ばなくても愛され信頼される人間はいる。遊ぶ事が信頼の根拠になるわけではない。こうした義理人情ずくの付き合いが人間関係をつくり、あるいは人間関係そのものだと考えるところに、人間関係の希薄さが反映している。
 同時に清吉は、源太の仕事をとろうとする十兵衛が憎いと繰り返し、源太がそれを見て、自分が十兵衛を怒っていては清吉同然だと反省する契機になっている。上人と源太と十兵衛は清吉とは違った高い人間関係の中で葛藤していると想定されている。こうした対比は単純すぎて現実的でない。

   其十八

 其十七で清吉が源太を肯定する契機として描かれているのと同じで、ここでは十兵衛の妻が十兵衛を肯定する形式で十兵衛を説教している。源太の申し出を断ったことを「正直律儀にも程のあるもの」とか「偏僻張つて何の詰らぬ意気地立て」と評価している。「正直律義」とか、意気地なら程度をまもるより徹底する方がきっぱりしているであろう。「正直律儀」は恩とか義理人情とかと同じ精神世界に有る。この場合恩を破るのは正直律儀の徹底であるから道義に反するものではない。義理人情とかの道徳的範疇の中には必然的にこうした関係がある。恩は恩によって義理は義理によって人情は人情によって、恩は人情に、人情は義理に、義理は恩に、といった具合にそれぞれの範疇が内部で矛盾し、範疇どうしも矛盾する。
 自分の掲げる徳目がこうした矛盾の中にあることを理解せずに、十兵衛は、「寄生木になるのはイヤ」とかなんとかの瑣末な理屈をならべて、要するに塔の仕事全部を自分でやらねば気に入らないと主張している。この理由付けを露伴は「道理の述懐」と言っているが批判するまでもない単純な屁理屈である。またまた自棄になって寝ている。ぎりぎりの時期に寝ている場合でもなかろうに。

   其十九
 「あゝ解つたと独り言するかと思へば、愍然なと溜息つき、ゑゝ抛やうかと云ふかとおもへば、何うして呉れうと腹立つ様子を傍にてお吉き見る辛さ、問ひ慰めんと口を出せば黙つて居よとやりこめられ、詮方なさに胸の中にて空しく心をいたむるばかり。」
 十兵衛と同じ悩み方である。こうしたぐずぐずした性格は、精神のレベルによるもので、選択肢が単純だからである。こうした繰り返しを深い苦悩のように思うのは俗な精神である。一葉の劇などでいこかもどろかをなよなよと繰り返すことか深い苦悩だとして描かれるのと同じである。このような単純で非生産的な悩みは退屈であり、あっさり投げ捨てても惜しくない苦悩である。
 選択肢が単純であるから、悩みも単純で選択の結果も単純である。源太は苦悩の末に五重塔の仕事を辞退する覚悟をし、これまでの流れからすると当然のもっともらしい理由を並べ、上人の判断に任すと言った。十兵衛もすでに辞退を申し出ていた。二人とも辞退し、上人に判断を任せるのは、振り出しにもどっただけにみえるが、この単純で面倒くさい回り道には、それなしには塔がたたないような深い意味があることになっている。
 「十兵衛も先刻に来て同じ事を云ふて帰つたは、彼も可愛い男ではないか、のう源太、可愛がつて遣れ、と心あり気に云はるゝ言葉を源太早くも合点し、ゑゝ可愛がつて遣りますとも、といと清しげに答れば、上人満面皺にして悦び玉ひつ、好いは、好いは、嗚呼気味のよい男児ぢやな、と真から底から褒美られて、勿体なさはありながら源太おもはず頭をあげ、お陰で男児になれましたか、と一語に無限の感慨を含めて喜ぶ男泣き、既此時に十兵衛が仕事に助力せん心の、世にも美しくも湧たるなるべし。」
 これがこの作品のもっとも重要な結節点であり、転回点となる。そしてここに無理が生ずる。十兵衛の意地は上人を介して源太の援助を取り付けることになっている。

   其二十

 十兵衛の、辞退した後の虚脱感とか家族の落胆とか寂しさとかを、子供の夢まで使って描写している。これは例の、後の褒美を甘くするための塩加減である。落胆しきっているところにいい知らせが来る。
 「方丈思しめし寄らるゝことあり格別の御詮議例外の御慈悲をもつて、十兵衛其方に確と御任せ相成る、辞退の義は決して無用なり、早早ありがたく御受申せ、と云ひ渡さるゝそれさへあるに、上人皺枯れたる御声にて、これ十兵衛よ、思ふ存分仕遂げて見い、好う仕上らば嬉しいぞよ、と荷担に余る冥加の御言葉。のっそりハッと俯伏せしまゝ五体を濤と動がして、十兵衛めが生命はさ、さ、さし出しまする、と云ひし限り咽塞がりて言語絶え、岑閑とせし広座敷に何をか語る呼吸の響き幽にしてまた人の耳に徹しぬ。」
 是は作品としてもっとも盛り上がった場所で、もっとも非文学的な箇所である。水戸黄門かなんかの場面のようで、まったく通俗小説のレベルである。

   其二十一

 其十九の感動的な場面の結果、源太は十兵衛に職人の世話をすることになった。それも無理にではない。それなりの道理がある。
 「いよいよ十兵衛に普請一切申しつけたが陰になつて助けてやれ、皆汝の善根福種になるのぢや、十兵衛が手には職人もあるまい、彼がいよいよ取掛る日には何人も傭ふ其中に汝が手下の者も交らう、必ず猜忌邪曲など起さぬやうに其等には汝から能く云ひ含めて遣るがよいとの細い御諭し」
 この職人の手配がなければ塔は建たない。しかし、のっそりと言われ軽蔑されており、日陰者である十兵衛には職人の手配ができるほどの社会的信頼はない、だからその部分を上人が源太の助力によって補うことになっている。
 「忿怒の裏の温和さも飽まで強き源太が言葉に、身動ぎさへせで聞き居し十兵衛、何も云はず畳に食ひつき、親方、堪忍して下され口がきけませぬ、十兵衛には口がきけませぬ、こ、こ、此通、あゝ有り難うござりまする、と愚魯しくもまた真実に唯平伏して泣き居たり。」
 本人達は感動しているが、客観的にみると感動的とも思えない。源太が大喜びで、自分の男をあげるために棟梁としての基本的な仕事で十兵衛を援助することもおかしな話であるが、なんと言っても、このような援助は、上人の諭しによって十兵衛が塔を建てることになった後に生じたことであって、十兵衛が塔を建てる決意をし、直談判したときには、このような手配について何も考えていなかった。それどころか、恩ある源太と対立する覚悟をしていた。棟梁として必要なこのような配慮しないこと、配慮する立場にないことが十兵衛の特徴である。肝心のことを上人と源太にやってもらうという前提なら、彼の決意や意地の質は変わってくる。それを期待できないし、自分でもできないことを考慮した上での決意や意地であっても具体的内容が入ってくる。塔を建てるための具体的段取りをまったく考えずに、ただただ腕があるから建てたいと考え、それを泣きながら訴えるだけで、このような人間関係が自然に出来上がるようになっており、彼はそれについてまた泣いてありがたがって受け入れるだけの他力本願の棟梁である。心からありがたいと思うのは当然であろう。思ってもないことで、しかもこれがなければ塔を立てようにも立つことがないのであるから。十兵衛の自慢する腕があっても源太のこの援助がなければ、いくら塔をたてる権利を得ても、今回はどうにもなりませなんだと、諦めねばならない。無責任な男というべきである。とにかく熱意さえ示せば、だれかが肝心なことはやってくれるだろうなどというのは余りにいい加減な楽天主義で、それにしては、というより実績を積んでいないないからこそ世を恨んだり、身の不運を嘆いたりの暗い反省が多過ぎる。
 人間関係を動かすには力量を認められるほどの実践を積んでいなければならない。瑣末な心意気で世の中をうごかせるものではない。こんな正直者を立てて、みんなが我慢して、それがいい世の中とは言えない。このように胸先三寸、口先三寸でことが決まってしまうのは、十兵衛には幸運であったとしても多くを準備をした者にとっては不運な不公平な取り扱いとなる。ごくまれな偶然的事件としてはこの種の幸運があるかもしれない。しかし大仕事ではこうした偶然性は多くの具体的条件によって打ち消される。孤立した意地だけで五重塔は立たないのが現実であり、十兵衛の意地は、塔を建てることのできないものに特有の意地である。

   其二十二

 現実との対立において十兵衛はもう一踏ん張りする。なかなか一筋縄でいかない。源太は十兵衛を感動させた後、勢い余って再び十兵衛の意地の世界に踏み込んでしまった。彼が職人の手配だけでなく、自分が準備したすべてを図面まで含めて十兵衛にさし出したのが悪かった。「のっそりもまた一ト気性、他の巾着で我が口濡らすやうな事は好まず、親方まことに有り難うはござりまするが、御親切は頂戴たも同然、これは其方に御納めを、と心は左程に無けれども言葉に膠の無さ過ぎる返辞をすれば、源太大きに悦ばず」とある。源太が悦ばないのも当然である。職人の手配などは長い仕事のなかで培った社会的信用である。その決定的な援助を受けていながら、「他の巾着で我が口濡らすやうな事は好まず」などといい、自分一人の力で仕事をやってみせるなどと考える無知蒙昧はなかなか扱いにくいというかつきあいにくい。勝手が過ぎる職人である。ごく瑣末な意地を張り通すことを、自分の価値観を全体的に貫いていると思い込んでいる。偏屈というのはこういうのを言うのであろう。こんな連中がいい仕事をさらっていくような世の中ではたまらない。
 さて次からはこういう意地をもった職人がどのように塔を建てるかが描かれている。本来建てる能力の無い棟梁が建てるにはそれなりの工夫がいる。


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