幸田露伴 「五重塔」 (明治24年11月)その5(まとめと余談)


   幸田露伴 「五重塔」おわりに

 「五重塔」を読むとやはり、古いと狭いとかの印象を受ける。それは職人の世界を描いているからではなくて、貧しい職人に同情し、貧しい職人が道徳的な意志によって社会的に勝利するからである。社会関係を抽象的な心の問題に矮小化した結果として、現実をリアルに描写していない。
 現実をありのままに、見たままを描写しては文学にならない。作品となるには現象の批判的な加工が必要である。露伴も現実の観察の上でそれを批判し、より普遍的な真実を描こうとしている。その場合に現象を否定して現実の本質に迫るのではなく、現実から離れて主観的構成の世界に入ってしまった。

 露伴はこの作品で、貧しい者が報われる機会を与えようとしている。その場合貧しいければいいというのではなく道徳的な資質が求められる。排外的な我を持たないこと、譲る心、他を思う心を持つことである。これは眼前に進行し始めている競争の世界、エゴとエゴのぶつかり合い(これはすでに現実の単に否定的な表面的な観察を意味しているが)という現象に対する批判的意識である。
 特に明治の20年代はまだ露伴が競争という言葉で代表している商品経済の発展はまだその威力を発揮していなかった。古い諸関係が解体されて、新しい人間関係の再構成は始まったばかりであった。その中で露伴は競争の社会を批判し、競争のない状態を描写しようとしている。したがって、競争が発展すれば、誰の眼にも古いと感じられるようになる。実際に競争の世界が発展することによって、露伴の描いた世界を古いものにしていった。
 明治のこの時期の人間関係の再編成をどのように反映するかが、近代文学の歴史的課題であった。歴史に残るほどの作品はこれを問題にしている。露伴はこの分解を、貧しい人間を同情する立場から観察したが、その分解を肯定することができず、それに対立する主観的に理想的な関係を描写した。現実をリアルに描写し、近代文学として登場するにはこの分解過程を肯定的に描写しなければならない。四迷や一葉や漱石がそうであったように。

 圧倒的な多数を占める貧しい者が不幸のどん底であえいでいることに同情しそれを救済しようと考えるのは自然の感情である。しかしそれは自然的な、無批判的な感情として形成されるのであって、その感情に流されれば、貧しい者との利害の一致において現実を観察することはできない。貧しい者との利害の一致、貧しい者一般との利害の立場から現実を観察することは、彼らに対する同情からさらに進んで彼らの置かれた状況を社会的に具体的に科学的に認識することである。露伴の作品に欠けている精神はこの部分である。同情を越える精神が描写されていない。
 貧しい者が現実にどのような状態にあり、現実的にどのような方法で彼らの利害を守りうるかを現実的に認識できない場合には、弱いものを助ける方法が非現実的になり、その方法に、露伴の現実認識の特徴と限界が現れている。
 競争が支配的である社会においては競争の発展が競争で生ずる矛盾の解決である。露伴は競争で生ずる矛盾を肯定的に評価することができず専ら悪と考え、競争をなくすことをその解決とした。その場合現実にはない特殊な人間関係が想定される。十兵衛と源太と上人という狭い人間関係の中で五重塔を建てるという大きな事業が遂行される。彼等の精神も非常に狭い限界内にあり、源太に排他的な欲望を想定するだけで、彼等がそれに対抗できないほど無力であることがわかる。競争の社会が本来の力を発揮して人間関係を分解し始めるのは日清戦争以後であるから、露伴はまだその力に対抗する幻想を持ちえたと言える。それが露伴をすぐに時代後れにしてしまう。
 資本主義が遥かに高度に発展した場合でも、経済発展が極度に停滞している現在は、力量の有る者が力量を発揮する機会が与えられない状況にある。このような状況では、競争を回避することではなく、競争を合理的に組織することが解決である事はわかりやすくなっている。
 能力のある者から力量を発揮する機会を奪っているのは社会的な要因である。如何に能力があっても、あるいは能力があるほど排除されて無能な人間が指導的立場にある状況が誰にでもわかるほど、社会的に大規模に広がっている。だから真面目に力量を高めていれば、上人のような救済者が現れて解決してくれると期待する事などできないことははっきりしている。あらゆる人間が自己の可能性を実現する機会をつくり出すためには社会的な状況を変革するための特別の力量と努力を必要とする。それは個人的な仕事の能力を形成することとはまったく別次元の力量である。その変革的意識なしに、正直ものが馬鹿を見ることに不満をもっても仕方がない。こうした不満はそうした状況に対するもっとも初歩的な表面的な無批判的な意識である。その不満が社会変革的な情熱となりそのための力量を形成しないことにはどうにもならない。それこそ社会的発展のための決定的な行動の能力であって、自分の力量が恵まれないことに不満を持つことはすでに解決の方法を見失っていることである。しかしこの力量の必要性、この分野での社会的力量の発展に向かわずすべてが個別的な不満の形態で蓄積されるのが日本人の特徴であり精神レベルの低さである。そういう意味では資本主義のごく初期段階での現実観察と批判意識であるとはいえ、露伴の作品もその出発点から日本精神のこうした弱点を反映しており、その後の批評もこうした点の克服することはできなかったといえよう。

 競争のない人間関係を肯定する観点から描かれた十兵衛には競争を生き抜くための社会的能力が欠けている。十兵衛の社会的認識能力の欠如、あるいは社会的な人間関係を形成できないことを、純粋とか正直とか肯定的に評価する露伴の精神は、露伴の善意に対立して社会的関係を発展させるための足かせとなっている。誠実とか正直とかは年齢とともにまた時代とともにより複雑に高度になっていくものであって、単純さや純粋さを評価するのはこの複雑さとか高度さを獲得できず、肯定的に評価できないことを意味する。それは社会的な矛盾を端的に受け入れ、それによって訓練されることを恐れる孤立的な生活の反映であろう。
 露伴の努力は主観から競争を反映した意識を解消することに向けられている。主観から形式的に自我とか欲望を消し去って、無欲の形式を整えることが上人を経由することの意味である。源太も十兵衛も断念し、辞退を上人に申し出る事で競争=排除の形式が解消されると考えている。それは同時に道徳的精神の高度化を追求する過程でもあるが、実際は道徳的な資質を貶める過程になっている。塔を建てることは社会的実践であるから、意識形態とかかわりなく人間関係の葛藤、矛盾を引き起こす。他人を傷つけたくないとか、排除したくないと意識しても矛盾を排除することは出来ない。実践的に矛盾を引き起こしていながら、それを意識しないことは純真とか欲がないとか世事に疎いとかではなく、無知とか無視とか、知らぬふりとかである。
 実践的に源太を排除しながら、競争の事実さらに源太を排除する意志を解消する過程は偽善の高度化であり徹底である。誠実さの喪失過程である。このように実践的に自分の利害を追求しながらそれが主観に反映しない場合にもさまざまの形態がある。他を排除し、対立する意志を持たないこと、実践過程の意義に気がつかないこと、あるいは相手のためという形式で自分の利害を実現すること等である。
 漱石はこれを「明暗」でお秀という女性に分かりやすい形式で描いたが、漱石がそれを描くようになるためには、虞美人草までの作品にあった、同情という形式を克服するための長い過程が必要であった。現代でもこのお秀や十兵衛の精神は克服されておらず、このレベル、この形式において自己を、あるいは他人も肯定的に評価し、さらに一般的思想的にも肯定されている。
 実践から意識が離れ、つまり実践において自己の責任を持とうとしない場合、偽善は徹底され、良心の呵責という二重化すらなくなる。だから反省とか、現実の新しい事態を受け入れることができなくなる。しかしそのことによって現実には信頼は完全に失われるであろう。まちがいを認める人間よりももっと不信を抱かれる。彼には反省の余地がないからである。十兵衛が源太に対して寄生木にはなりたくない、と意地を張る場合、彼は自分が決定的なことにおいて源太の力に頼っていることに気がつかない。途方もない意地であるが、これを押し通す事ができるのは、十兵衛も源太もそれに気がついていないと想定されているからであるし、上人が源太に、援助する事を利益だと説得しているからである。実際にはこのような不当な意地は押し通せるものではない。現実生活においては源太や上人にまもられていないから、このような意地を押し通すわけにはいかず、他人の利害との対立によって、自分の意地の現実的な意味を思い知らされる事になる。
 「五重塔」に含まれるこうした矛盾は、人間関係を含まず、ただひとりで部屋の中でできる仕事なら回避できるように見える。例えば自分の部屋だけでできる小さな物を作る場合など。その材料とか道具を得るためとか販売とか広く見てもらうための人間関係を必要としないとかの非現実的な想定がやはり必要であるし、決定的にはどんな小さな物でも、立派なものをつくるには精神の創造物であるから精神の社会的訓練によるセンスがどうしても必要であるとかの条件が必要であるが、それも別の過程として、ただ制作するだけにおいて人間関係の葛藤がない職人の世界とかを描けばこんな問題は起こらない。
 しかし、その場合は、作品はおもしろくないし文学史上に残ることもない。人間関係を回避した世界を肯定的に描くことは「五重塔」の世界の限界を狭めることにすぎず、社会的矛盾を描写する可能性がなくなるからである。社会的な葛藤を描かなければ読者の関心をひきつけることはできない。この作品も、社会的人間関係をどのように切り抜けるかを問題にし、それに解答を与えようとしている点で思想的であり文学的である。そのように描き、そのように読まれている。非現実であっても十兵衛と源太を中心とする社会的な葛藤があってこそ社会的な関心を曳くことが出来る。また、孤立した、人間関係を持たない世界での精神のありかたを描写する場合には、その孤立性の本質を描写する場合にのみ文学的な意義を持つことができる。

  幸田露伴「五重塔」 余談

 今回、少しづつ順に評価しているうちに、作品を最初に読んだ印象よりはるかに批判的な内容を書くことになってしまった。しかし、私としてはもともと、仕事に一途に打ち込む職人気質は社会的な精神に大いなる欠如が会ったとしても大いに魅力を感じる方である。金とか地位とかではなく、仕事そのものに生き甲斐を見いだすのは、たとえマニアックで、狭い世界に生きていても何か実質的な魅力がある。とはいえ、冷静に考えるとそれはやはり表面的な見方であって、職人として狭い世界で、あるいは常識とは外れた意識を持つとか生活をしているとしても、それが魅力的である場合は社会性が欠如しているわけではない。
 江戸時代から続く代々の宮大工が、毎晩のように田舎の家に話しに来ていた。職人らしく器用に頭に巻いたタオルをとりながら「おいちゃん、お宮の大工が来ました」といって入って来た。そしてビールを飲んで話をして帰る。ビールは箱ごともってきていて、なくなるころにはまた買ってきた。うちの父親も大工だった。
 この宮大工が一部分は十兵衛に似た所がある。まず外見はこのうえなく見すぼらしく汚い。金がないのも尋常ではない。金を借りたり今日食う米を借りたり、仕事の現場の電気を切られるといった具合で、その上現場に犬や猫を何十匹もかっている。自分の家も持たずに現場を転々としている。木屑だらけで、家に入ってくるときにシャツやズボンをはたくものの背中や頭は木屑がいっぱいついている。
 それだけではない。十兵衛と同じように仕事が非常に遅い。いったいいつできることやらと気を揉ませるどころか、一体できるのだろうかと思わせるほど予定より何年も遅れてしまう。それは一部は金がないためで、当座の金を稼ぐための仕事を合間にやったりする。それだけではなくて、現場に行って一人でこつこつやっている所を見ると、そう早くもできないだろうと思う。飾りの彫刻も見事にやって、その腕を自慢にしている。どうしてあれほど金がないのか、どうして仕事がおそくなるのかは実際のところは解らない。しかし、要するに仕事が遅く、金がなく、立派とは言えない格好をしている。
 だから、お宮の仕事を頼んだ村の人々には十兵衛と同じで、ひどく悪く言われる。あるいは軽んじられる。あんな大工はおらん、とか人間の生活じゃないとか、そういう噂をしている。
 自分の腕に絶対の自信をもっていることも十兵衛と似ている。

 十兵衛との共通点はここまでで、これは一面にすぎない。村の人々はあんなわけのわからん大工はいないとか、仕事が遅いとか、普通じゃないとかの愚痴をいったり罵倒したりするし、それはそれで本気であるが、気持ちの全体ではない。正月に集まって、火を囲んで酒を飲みながら、今年もできんかったな、とか、来年までできるんじゃろか、といいながら、他方では、その途中の仕事をみて、これが出来れば見事なものになるとだれも思うし、これができたら皆見に来るだろうとも言う。だから仕事に対する信頼はある。その立派な仕事が遅れていることについてまた不満がでる。そして結論は、「まあまたにやどうにもならん、いつかできるじゃろう」ということである。
 宮大工に対する表面的な評価は仕事が進むにつれてなくなるし、完成し、大工がどこかにいけば仕事が遅れたことは単なる思い出話で、やはり仕事の内容が残る。それは宮大工自身はこれまでの経験ではっきり解っているだろう。仕事が遅れたり金がなかったりする事情は複雑であろうから、こうした評判を避けるためだけに仕事を急ぐわけには行かないだろう。そんなことなら評判に関係なく仕事はさっさとやってしまうだろうから。こうした表面的な否定的評価はあるにしても、だからといってお互い意地を張って、心の奥底までいがみ合うことはない。対立は表面的で一時的であるし、それが仕事の進行上でなにかの意義を持つこともない。
 十兵衛が腕に自信がありながら、塔を建てるのに源太と二人だけで争うほど腕がありながら仕事がないというのは不思議である。今は宮大工の仕事は非常に少なく、彼の多くの弟子も、普通の家の建築の仕事をしているらしい。今は機械があるので、彼は息子と二人だけで細々と仕事をしている。しかしその仕事は何年分もたまっていてひとつの仕事の途中で次々に次の仕事が入ってくるし、手付金という形で金も貰っている。それでも金がないのは材料を買うからだろうかとか、思ったりする。
 彼はお宮を建てるのに使える良質の材料をたくさんもっている。いい材料をあちこちの山に切っておいてある。名木巨木を彼が使うのならといって売ってくれる。うちにも、彼にもらった、信じがたい広さの、立木として公園とかお寺とかでも見たことのないほどの楠木の分厚い板がある。これは彼に腕があるからで、彼の腕なら名木を無駄にしないと信頼されているからである。こうした木をもってるとか手に入れることが出来るとかでないと、宮大工の仕事などできない。

 だから彼は腕によってのみ獲得できる広範な人間関係、信頼関係を持っている。金がなく身ぎれいでもなく、仕事が遅くても、それはそれとして非難され罵倒されているにしても、しかし、仕事をするために絶対的に必要な信頼関係は得ている。それなしには技術上の腕があってもどうにもならない。こうした信頼は長い実績によって獲得したもので、そうそう突然の丸ごとの信頼ができるものではない。丸ごとの信頼だけが信頼だと考えるのは具体的信頼関係を知らないというべきである。丸ごとの信頼関係でないと気に入らないとかいっていては現実に生きていくことはできないし、信頼関係を形成することはできない。表だっては罵倒とか軽蔑であったとしても、本質的な信頼関係がありさえすれば、罵倒や不信や軽蔑は結局は全体として偶然的な第二義的なものとして否定されていく。否定的な評価をも折り込みつつ獲得されていくのが真の、具体的内容をもった、現実の検証に耐えた信頼関係である。不信とか疑いとかの信頼の具体的対立物を含まないような、それを越えて取り込んでいないような純粋な信頼は十兵衛に見られるように単純に純粋の不信感に転化する。信頼を失う過程もまた、信頼を何度も裏切ることによって強固になっていくのと同じである。
 ある大きな仕事あるいは立派な仕事をする機会は、それまでに多くの不信とか疑いとかを乗り越えた成果として与えられる。さらに、その仕事の過程で生じるさまざまの困難を克服することでさらに具体的信頼を獲得するのであって、誠心誠意を涙や汗でしめすことによって獲得される丸ごとの信頼とは質が違う。それは具体的で複雑で発展的である。信頼は不信を乗り越えて、それを取り込んではじめて獲得される、疑いを持つなら何もいらないと全否定するのは、具体的信頼を獲得する過程を拒否することであり、信頼関係は形成されない。
 全面的な肯定だけを信頼と認めて、それでなければ真の信頼ではないとして関係を拒否するのは、信頼を労苦をもって獲得しようとしないことである。現実には、複雑で多様な関係のなかで複雑で多様な評価を受け、全体を複雑な儘に受け入れて、それを自己の精神として積極的にとりこんでいくことが実力の形成であり信頼関係の形成である。現実をそのようなものとして認識できていないことが、十兵衛あるいは作者のの現実認識の未熟さである。露伴はそれを職人気質という形で描写している。職人がこうした狭さを持つことが多いにしても、それを職人の本質と考えるのは不当であろうし、それを好意的で肯定的形式で描写されても、描写の客観的内容は否定的であり、職人気質の不当な理解である。高度の職人気質が魅力を持つのはこの作品に描かれている内容によってではなく、それと対立した高度の社会的内容を職人に特有の形態で持っているからである。ところが、職人の特徴として表面的に他の職業と違った部分を取り上げて職人の特徴とするのは職人の本当の特徴とは言えない。まして、インテリ的なあるいは作家的な生活の意識を対象して職人として描写されたうえで、それを本質的で肯定的な特質であるとされるのは不本意であろう。
 塔を建てるにも、お宮を建てるにも、その他何をするにも、時間が経過するのであるからその間にいろいろなことがある。今年の二月お宮は見事に出来上がった。しかし、この間にも十兵衛が経験した以上の事がたくさんあった。病気がちであった宮大工の母親はこの現場で亡くなった。弟子でもある息子は機械で大怪我をして何カ月か入院した。田舎の過疎の土地だから、老人がたくさんいるし、病気や事故もある。お宮を建てるために寄進し、完成を楽しみにしていた村の人々のうち、うちの父親も含めて六人が亡くなって、竣工式には、その人たちの名前が読み上げられ、黙祷が捧げられた。昨年ほぼ完成したときに、父親がお宮を見に行くといっていたのを、体に障るからと止めたのを母親は今も悔やんでいる。そう早く死のうとは思っていなかった。しかし、そういう事情をも含めてお宮は立派に立っており、それもまた思い出である。人生はそうしたものだとつくづく思う。
 困難な生活を続けているあの宮大工にも意地はあるだろう。しかし、非常に穏やかなやさしい顔をしている。お宮ができあがったとき、立派なのができましたねというと、「○○(流派)の棟梁だけの事はありますか」と嬉しそうに笑っていた。人生も気質も十兵衛とは非常に違う。私にとってはこうした職人が愛すべき、尊敬すべき人物である。
 いつか、塔も建てますかと聞いた時、塔は簡単ですと言っていた。簡単と言ってもどう簡単なのか解らないが、素人には複雑に見えるあの木組みも、他の建築に比べて特別に難しいというものではないのかも知れない。

  千葉すず選手の記者会見について

 先日千葉すず選手の記者会見があり、五輪代表の選考基準の明確化を求めた。日本ではスポーツに限らず、あらゆる世界に自由裁量の余地が残されて、それが権力乱用の基礎となっている。
 競争の世界では、選考の基準が客観化される必要があり、それが発展の基礎となる。絶対的な基準ははないがトラブルが生じた場合、そのトラブルを公正に判断してそれを新たに標準の契機とすれば、トラブルは発展の契機となる。もともとそうしたトラブルは基準の限界を越えるほどにすぐれた人たちによって破られていくからである。結果として現状に応じきれなくなった規則の限界が明らかになり、標準はより合理的により高度になって、発展の基礎となっていく。その場合にはこのトラブルによって被害を被った選手やコーチ、監督なども自分の行動がより高度の標準を作る契機となったことに大きな慰めを得ることであろう。
 日本の現状ではこの標準化が行われず密室化され、さらに特定の個人の胸先三寸とかいった、その世界での力量とは別の世界に標準を持つことになり、例えばスポーツのレベルの発展とともに、現場の状況と衝突することになる。とくに、その中に心構えとかの道徳的な基準が入り込むと、その評価自体が非常に難しく、問題をややこしく曖昧にし、自由裁量や恣意の介入の余地を大きくする。
 「五重塔」の場合は、権力欲とか、禁欲とかのまったくない上人がこの標準を判定することになっているが、それでもなお現実的競争に対立しており、標準は主観的になり歪まざるをえない。
 水練は「五輪標準記録Aを切った中から世界でたたかえる選手を選ぶ」と言うだけで基準を明らかにしていない。問題は「世界でたたかえる選手」の選考基準であるから自由裁量の余地を残している。自由裁量の余地があれば、監督やコーチや選手に対して縦の支配力を維持できる。これが基準と言えるものではなく、基準のないことによるごり押しであることも、自体の重大さも自覚しているのであろう、陸連の幹部はおどおどしながら声明を発表していた。
 千葉すず選手のようなしっかりした人物が相手であるから、水練も苦労するであろう。無論、よほどしっかした相手でないとこのような対立は起こらない。水連に従順に従っていればこうした問題はおこらないのであるから。この提訴が、いずれ大きな波紋を呼び今の水連の体制に大きな動揺を与えるであろうと予想もし期待もされる。千葉すず選手が日本のこの保守的な、権力者に楯突くことをわがままだとか生意気だとか自分勝手だとかの個人的性格の弱点として評価する保守的でレベルの低い日本的精神の中でやったことは、アメリカで生活しているとはいえ、それも日本の水泳選手としての日本の水泳選手の利益のための行動であり、感嘆せずにはいられない。ただ、残念ながら千葉鈴選手の行動に対して、スポーツ選手の同調が表立って現れない(実際はあるのかもしれないが)のも日本的である。
 水連の幹部は古い栄光に自分で泥を塗りつつあるが、やはり老人になるほど権力を手放すのが惜しかったり怖かったりするのであろう。無理な権力を行使していると人間関係が権力を媒介にしたものだけになり、権力がなくなれば一切の人間関係が崩壊し孤独な老人になる可能性が大きくなる。若い世代の発展を押さえつけるのをやめて早く辞任すべきであろう。

 ついでに、
 前の文章で千葉すず選手に同調する選手の表立った動きがないと書きましたが、聞いたところによると、水連の側に立って千葉すず選手を批判している選手は選考された選手中にもいることが新聞に出ていたそうです。私も、水連の側から千葉すず選手に批判的な意見を書いていたスポーツ評論家の文章を新聞で読んだことがあります。
 個人的な感情としてはなんという俗物だろうと、思います。そんなことで世界の選手に通用するのだろうかと。精神の力はトータルなのでスポーツのレベルが上がってくると、そうしたせこい根性では勝てなくなります。俗物根性と根性主義で真剣に頑張っても、その精神のレベルが低いためにその真剣さや集中力のレベルが低くなります。したがってスポーツであろうと何であろうと全体のレベルが上がってくるとこうしたせこい根性自体も能力の限界として表立っててくるものです。
 しかし、客観的に見れば、これも日本の現状としては当然であり、だからこそ水連もごり押しが出来たのだし、これも発展的な解決の過程であると考えられます。
 千葉すず選手のやり方は日本では非常に珍しい勇気ある方法です。一般に水連の様な管理的立場にいるものがいかに堕落して恣意的な裁決を下すにしても、それに対して個人的に対抗する方法もあります。例えば徹底的に練習して世界記録を出したとすればいかな水連であってもそれを代表選手から外すことはできないでしょう。このようなやり方は、非常に自己に厳しい方法に見えます。他を批判するのではなく、つまり他に責任を負わせるのではなく、どのような悪条件であろうとも自分の努力によって、自己の責任において克服することがもっとも自己に厳しい、責任感の強いやり方に見えます。一般的な権利を主張してそれを客観的な権利として確定していくのではなく、個人の努力によって、自分自身のために解決しようとするのが日本的な道徳的精神の特徴でしょう。このような方法で困難を克服するのもむろん厳しい訓練が必要であるし自分に対する厳しさも必要でしょう。しかしこのような方法は社会的な諸矛盾、諸悪に対して無批判的で、それとの対立を避け、自分の利害のみを追及する点で非常に狭く安易な方法といえます。主な困難は、「五重塔」にも見られるように、社会的な人間関係における矛盾を克服し我が物とすることです。自分に厳しいという視点は、自分だけに集中しながらも水連との関係では、対立を避け、それに迎合し、妥協し、取り入り、大樹の陰に入ろうとすることを意味するからです。それと逆に今回の千葉すず選手の行動は明らかに社会的な人間関係における対立を克服しようとする直接的な努力であって、それには社会的諸関係の中の矛盾を生き抜こうとする高度の強い意識を必要とします。それは個人的にただ努力することにおいて解決しようとする意志の力とは全く質をことにするものです。
 五重塔でも特にこの社会的資質の面が無視されており、その能力に対して露伴自身が無批判的であることがはっきりしてます。それがこの作品の基本的な弱点です。複雑な社会関係を無視する結果、水連の幹部のような上人が設定される必要があり、それが社会関係における競争、矛盾の克服を回避させる力となり、結果として、現実的な公平な競争ではなく、上人に気に入られるかどうかが決め手になるという歪んだ人間関係になっています。上人に頼るのではなく、複雑な社会関係を前提として、その中で生き抜く生き方を追求すべきだろうと思います。千葉すず選手はそれをはっきり意識し、勇気をもって闘っている点で、しかもその点に勇気をもたずそのような行動に批判的な精神が支配的である日本で、また力関係においても当然水連が圧倒的優位にあるもとで、こうした改革を目指した所がすぐれた精神であると思います。
 インターネットのおかげで、千葉すず選手の勇気ある行動が孤立することなく、それに対してただ心の中で応援するのでなく、外に表明する機会が生じていることは、スポーツに限らず、社会一般の発展のために非常に有効だと思います。むろん、すぐに署名しました。


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