『虞美人草』ノート  (二) (三) (四) (五)

 (一)

 「野分」の道也は、現実社会の人間関係と意識のすべてを批判することで、孤立的で抽象的な批判意識を形成した。道也は世間との対立を、金と地位を失うことにまで徹底する覚悟をもつほどの、意識的で実践的な人格であった。この道徳的な意識を持つ人格が、批判的な意識を持って、再び現実世界に接触するのがこの『虞美人草』である。
 「野分」の道也は、孤立に満足し孤高を誇る人格者ではなかった。道也は、世間から孤立するとともに世間に対して働きかける義務を負う主体であった。その故にまた、道也は世間や妻に対して自分の高さを確信する主体であると同時に、その義務を実践できないことにおいて、その無力を指摘され、思い知らされており、それを自覚する主体でもあった。『虞美人草』では、道也の批判意識の内的矛盾が、考察し認識する甲野と、余計なことを考えずに実行する宗近の二つの主体に分解されている。こうした分解に、漱石の現実認識の論理的な資質と作家的センスが表れている。この両者は分裂し対立しながら、互いに信頼し合っている。この点が「野分」を継承した一つの主体であることの名残である。
 宗近は、実践的な主体である。余計なことを考えずに実践すれば物事は解決する、解決しなければやり直せばよい、と考えている。宗近からみると、甲野は実践せずに考えるばかりで、判然としない。甲野は、社会と自分の運命について、考察する能力を持っており、その能力は実践の無力を認識する能力である。道也の抽象性は複雑な矛盾を内包しており、その一つが、甲野と宗近の両方の能力を持っているという確信である。思想と実践はまだ分化しておらず単純に一致していた。
 こうした分裂と対立によってそれぞれがどのような内容を持つかを、漱石は、(一)で考察し始めている。漱石にもその内容はまだはっきりしていない。その第一は、次の会話にある。
 
 ■「いつの間に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近君が云う。宗近君は四角な男の名である。
 「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
 「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも疾くに心得ている」
 「ハハハハそれで君は幾歳だったかな」(p9)

 この「知らぬ間に」という認識は、道也にはなかった。道也自身は意識的な実践的な変革的主体であり、「知らぬ間に」という意識とは無縁である。では、知らぬ間に堕落したり、悟ったりしており、その内容や目的を意識していない世間に対して、意識的な主体はどう働きかければよいであろうか。知らぬ間に堕落し悟るのなら、善意や悪意や覚悟が、一般に目的や意志が問題ではなくなる。したがって、目的や意志といって個別的な意識は批判対照ではなくなる。宗近は、この決定的に重要な現実認識を特に問題にしていないが、否定もしていない。そして、どうなるかわからない現実であるからこそ、実践的に対処し、その結果に対してもまた実践的に対処すればよいと考えている。宗近は個別の実践的対象としての現実を知っているが、その実践を含めた現実の全体がどのようなものであるか、を知らないし知る必要を認めていない。
 世間から離れる事を課題にしていた道也は世間についても実践的な働きかけについても具体的に考えなかった。しかし、世間に具体的対処することが課題になれば、働きかける対象である世間が具体的にどのようなものであるのか、それに対して働きかけることがどういうことであるかが非常に難しい課題として登場してくる。甲野は、道也の意志を継承する立場から、現実に対する道徳的な働きかけの見地から、現実の具体的認識を課題にして苦闘している。
 
 ■「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、悌、だのってさまざまな奴があるから」
 「なるほど、蕎麦屋に藪がたくさん出来て、牛肉屋がみんないろはになるのもその格だね」
 「そうさ、御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ」

 道也の課題は、地位や金に依存しない人格を形成することであった。甲野にとっては、地位や金や雅号は人間の表皮にすぎないことは冷静な現実認識である。甲野は、道也の人格を継承することによって、世の中の表向きの意識や表徴は雅号にすぎず、その背後に何かがある、という現実の二重化を得ている。堕落した世間と人格的な道也が対立していた「野分」と違って、世間そのものが雅号と内的なあるものに分化している。しかし、それが何かはわからない。だから、話の途中で宗近がいつも混ぜ返して話を中断させ、その中断を甲野も受け入れている。雅号に対する甲野の批判は、直接的な否定ではなく、雅号を表徴と認め、その本体を認識することを課題にしている。だから、雅号に対しては寛大である。
 甲野はこうした二重性の理解に到達した段階にある。甲野の課題は、雅号の背後の実体が何であるかを認識することであるが、それが何であるか理解できないことを理解している。働きかけるべき対象の正体が掴めていないのであるから、実践を課題にすることはできない。それは無力であると同時に能力である。そのことを漱石は意識している。
 
 ■何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」
 「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう後足で石を転がしてはいかん。後から尾いて行くものが剣呑だ。
 
 世間は雅号のもとに、雅号を目的として雅号を掲げて日々実践している。それが雅号にすぎないことも、したがってその実践がどんな意味を持っているかも知らずに、雅号が内容を表し、内容と一致していると思い、それが意義であり目的であると思い込んで実践している。甲野はそれが雅号にすぎない事を知っているが、本体が何かを知らず、したがって、自分が何をすべきかを知らない。雅号を持つ事もないが、雅号に代わるものも鉈ないし、実践すべき内容も持たない。だから、意味もなくただ叡山に登る、という。話をそらすのは、宗近の問いに答える事が出来ないからであり、答える事が出来ない事を宗近に話しても意味の説明はできないからである。こうした問題意識は、非実践的な甲野の内面にのみ形成される、甲野に巣食う精神の病であり成果である。
 
 ■「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」
 「女は人を馬鹿にするもんだ」
と甲野さんは依然として天を眺めている。
 「そう泰然と尻を据えちゃ困るな。まだ反吐を吐きそうかい」
 「動けば吐く」
 「厄介だなあ」
 「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万斛の反吐皆動の一字より来る」
 「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君を担いで麓まで下りなけりゃならんかと思って、内心少々辟易していたんだ」
 「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」
 「君は愛嬌のない男だね」
 「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
 「何のかのと云って、一分でも余計動かずにいようと云う算段だな。怪しからん男だ」
 「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを斃す柔かい武器だよ」
 「それじゃ無愛想は自分より弱いものを、扱き使う鋭利なる武器だろう」
 「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
 「いやに詭弁を弄するね。そんなら僕は御先へ御免蒙るぜ。いいか」(p13)
 
 宗近は見たままの現象を問題にして、甲野はその背後だけを問題にしている、というすれ違いを描いている。女に馬鹿にされる、と宗近が言えば、甲野は、女とは、と一般化している。反吐を吐くことは宗近にとっては甲野を担いで降りる事であるが、甲野は、動くこと一般が、反吐を吐く事である。世間の人間関係はそうなっている、と甲野は考えており、そのことにのみ関心がある。宗近が愛嬌がない、と言えば、愛嬌を世間の人間関係についての一般的な解釈に変えている。世の中は、動けば反吐を吐くようにできている。愛嬌も武器である。何の問題もなく生きているように見えるがすべては反吐を吐くような醜い対立の中に生きている、と甲野は思っている。
 こうした甲野の言葉は、甲野を信頼している宗近にも詭弁に見える。実際甲野の認識は具体的ではない。女は人を馬鹿にするものだとか愛嬌はどうとかいうことは、それ自体としてはつまらない定義好みである。しかし、これは「野分」の道也の覚悟を敬称した現実認識である。すべての日常的な現象を普遍的に考察しようとしている。こうした現象を無視して学問的な抽象の世界に入るのではない。この現実において、現実の現象において一般性、普遍性を得ようとしている。道也は世間的な具体的な意識のすべてを取り去って、現実をまったく新しい価値観において認識するための人格を形成した。その普遍的人格的意識の視点から、甲野は、女や女の愛嬌についても、それをそのままに受け取るのではなく、すべてを普遍的な形式において考察しようとしている。これが本来の具体的認識である。
 現実を見下し、動くと反吐を吐くと考えながら、現実から離れることなく、現実と自己自身のなんたるかの認識を課題にしていることが、甲野の優れた能力であり感性であり、宗近との信頼関係が維持される所以である。宗近は、自分の言葉といちいちすれ違う甲野の言葉を詭弁と言いながら、それを放置し認めて信頼している。実際この二人はごく下らない会話をしているようで、むしろ理屈っぽい、考え抜かれた、非日常的な会話をしている。
 宗近が甲野の言葉を詭弁だと言った後、甲野は長々と考察し、漱石はそのことについて、「考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。」と書いている。甲野の考察は大げさな美文調で書かれている。漱石も甲野も、目の前の現象をどのように判断すべきかまだ分からない。分からずに考えているから、形式的で大げさである。現実のすべてを否定し、すべてに対する批判意識を持つ道也の立場から現実に一歩踏み込もうとするとき、こうした考察が出発点とすることはやむを得ない。甲野がもったいぶった考察をするのは、甲野が新たな現実認識の方法においての無知から出発しているからである。出発点で無知であるのは当然である。この無知こそ、雅号によって現実を知っていると思っている世間を捨てた道也の得た成果である。社会に対する一般的な批判意識をもち、その意識において社会と関わり、すべての現象を本質的に認識し直す事が課題であり、具体的な認識を新たな価値観において模索しはじめたのが甲野である。しかも、自分がこの段階にある事を認識出来る甲野は、自分が具体的な認識をも、したがって具体的な実践的課題をも見いだせない事を意識している。それが宗近との対立である。
 
 ■ 「まるで夢のようだ」
 「何が」
 「何がって、眼前の景色がさ」
 「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって懐手をしていちゃ、駄目だよ」
 「何を云ってるんだい」
 「おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に将門が気焔を吐いたのはどこいらだろう」
 「何でも向う側だ。京都を瞰下したんだから。こっちじゃない。あいつも馬鹿だなあ」
 「将門か。うん、気焔を吐くより、反吐でも吐く方が哲学者らしいね」
 「哲学者がそんなものを吐くものか」
 「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで達磨だね」
 「あの煙るような島は何だろう」
 「あの島か、いやに縹緲としているね。おおかた竹生島だろう」
 「本当かい」
 「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、質さえたしかなら構わない主義だ」
 「そんな慥かなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
 「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
 「ただ死と云う事だけが真だよ」
 「いやだぜ」
 「死に突き当らなくっちゃ、人間の浮気はなかなかやまないものだ」
 「やまなくって好いから、突き当るのは真っ平御免だ」
 「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
 「誰が」
 「小刀細工の好な人間がさ」

 漱石の作品は、いかにも作家らしい才能をしめしていて、考察より会話の方が遥かに多くを語っている。このはじめの方は、甲野と宗近の立場が逆転している。漱石自身の意識の分化として、甲野と宗近を道也の同等の後継者である。
 甲野はここで景色を夢のようだ、と言っており、宗近は、甲野の考察を夢のようだと指摘している。「夢のごとしだって懐手をしていちゃ、駄目だよ」という宗近の指摘に対して、甲野は、「何を云ってるんだい」と答えている。漱石は道也の覚悟を継承して、社会に対して実践的であることの必要を理解している。同時に社会について無知であり、どのような実践が具体的に可能かを理解できないことを意識している。この二つの意識が対立していることを理解しているが、この二つの意識がどのような関係にあるかはまだ分からない。甲野と宗近のそれぞれの長所も短所も理解できる。しかし、それ以上にはどのような関係にあるのかが分からない。だから、こうして対立させ、しかもすれ違いを描いている。
 社会の必然についての具体的な知識、認識はまだどこにもない。世の中に慥かな物がないことも解っている。しかし、それで諦観しているのではない。人間の浮気がやみ、「小刀細工の好な人間が」がああそうか、と思い当たる時が来るに違いないと希望し確信している。その根拠を現実の中に具体的に見いだすことはできない。だから、死に期待している。人間はこれまで例外なく死んできた。それにも関わらず人間の浮気はやまなかったし、「小刀細工の好な人間が」ああそうかと思い当たったわけでもない。宗近はそれを知っている。しかし、甲野はそれを知として認めず、そのような死があるに違いない、と考えている。甲野の得た現実認識の方法からは、例えそれがまだ明らかでないとしても、浮気な人間や「小刀細工の好な人間が」ああそうかと突き当たるような死がなければならない。しかし、それは具体的には見えない。だから、甲野はそれを遠くに眺めている。 (2005.1.18)(2005.7.3 改稿)


 (二)

 漱石は、藤尾を装飾的で凝った文章で描いており、その部分はイメージがつかみにくい。内容は単純であるにもかかわらず、漱石は端的に描くことができなかった。漱石は自分が知る藤尾の単純な特徴を批判的に深めることがなかなかできず、結果として、否定的に描写する努力が表に出ている。漱石が、藤尾の小さな特徴に苛立つようにこだわっているのははっきりした批判の視点を持てないからであろう。エリート的な道徳的意識を強く持っていた漱石が藤尾から自由になるのは非常に困難な課題であった。
 漱石は藤尾に対する批判意識を徹底しようとしている。非妥協的な徹底した批判とは何かが問われるところである。漱石にとっての非妥協的な批判とは、表面的な批判を超えて批判を本質化することである。藤尾の装飾的で凝った描写は、その本体を探るためのし試行錯誤である。藤尾は漱石にとって、批判の対象ではなく、現実認識の入り口になっている。そして、「野分」の場合と同じように、この試行錯誤の内に、漱石が意識化できる限界を超えて本体の描写が進行している。藤尾に対して批判的であることによてのみ得られる現実認識がこの作品には書き込まれている。
 漱石には、藤尾を批判しなければならない、という強い意志がある。同じ漱石は、漱石の批判意識を受け付けない藤尾の個性を描く能力を持っている。もともと、その強い個性に対立して批判意識が生まれているのだから当然である。批判対象を自分の批判の都合によって歪めることなく、その強さの儘に描く能力が、漱石の現実認識の能力である。漱石は藤尾の特徴を、贅沢や華美を求め、それ以外の価値を否定する強い個性として理解しており、その前提に基づいて、それに対立しうる批判意識を生み出そうとしている。そして、批判意識が高度になるほど、批判対象の自我もより強固になり、相互の対立が深刻になっていく過程が現実認識の発展過程である。藤尾が意志の明確な個性的な女になることが同時に「野分」の道也から甲野への、現実認識としての精神の発展である。
 
 ■ 女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の極まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは固より知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必ず女である。男は必ず負ける。具象の籠の中に飼われて、個体の粟を喙んでは嬉しげに羽搏するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音を競うものは必ず斃れる。小野は詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野はみごとに鳴き損ねた。(p25)

 小野は、藤尾と鳴く音を競っている。そして見事に負けている。小野が弱いから負けるのではない。小野が籠の中の小天地に半分首を突き込んだからである。この小天地では、男は藤尾に勝つことはできない。藤尾のような女と一人と一人で争えば男は必ず負ける。宗近でも甲野でも無き損ねるに違いないから京都で遊んでいる。女は、理も非も世の中も自己の地位も役割も天下も国家も知らない。しかし、口だけは巧者である。漱石は、口の巧者な女を描く事が出来る。この小天地で争って勝つことはできないし、たとえ形式的に勝つことができても、この小天地に塗れていることにおいてすでに負けである。この女に勝つには、理も非も世の中も自己の地位も役割も天下も国家も知らなければならない。それを知ることに関心を持っていなければならない。それを知る事ができれば、あるいは、それを知ることを自己の課題としていれば、例え一人と一人の争いで負けてもそれは負けたのではない。この女と争わない天地を得なければならない。しかし、甲野と宗近もまだ、理も非も世の中も自己の地位も役割も天下も国家も知っているわけではない。だから、藤尾を小野に任せて京都に遊んでいる。
 藤尾との争いは、現実認識のレベルの争いになっている。理と非と世の中と自己の地位と役割と天下と国家を知ることができるかどうかが、藤尾に勝ち、藤尾から自由になり、藤尾を批判せずに、藤尾にこだわらずに、一人対一人の煩わしい争いに巻き込まれないための唯一の方法である。一人対一人では、つまり、道徳的な対立では藤尾の精神に勝てないことが意識されている。藤尾の我の強さは、個別に対する執着であり、一人対一人の争いに執着することであり、その執着の点で決して我を折ることがない。それを知る甲野は、同じ我として藤尾と争うのではなく、自分と藤尾の対立が、普遍性を意識するかどうかの現実認識の対立であることを理解している。この意味で、基本的な原理としては、甲野はすでに藤尾との対立を克服している。
 漱石は一人を馬鹿にする藤尾を描く事が出来る。その藤尾に勝たねばならない、という強い意志を持っており、しかも、藤尾との対立にかつ唯一の方法が直接的な対立を抜け出して、藤尾についての一般的な現実認識を得る以外にない事も解っている。つまり、藤尾にとの直接的な対立に勝つこと不可能であり、課題ではなく、藤尾とは独立に普遍的な現実的認識を得ることが甲野だけの独自の課題になっており、そのために、それを理解しない藤尾や母親はその甲野を対立しながら対立から逃げているわけのわからない人物として馬鹿にされている。甲野に対する藤尾や母親の軽蔑は「野分」の道也に対する妻や兄の否定的評価より遥かに徹底しており、したがって、甲野の精神はその軽蔑に耐える力を持っており、両者は対立しながらも違った精神世界にいるものとされている。漱石は、甲野と宗近を京都に遊ばせて、彼らの普遍的な批判精神を独自に展開し、藤尾を小野に任せて、小野と藤尾の関係がどのように展開するか、をそれぞれを描写によって探っている。
 気の毒なのは小野であるがその気の毒な争いを小野は望んでいる。そこには地位と金と名誉があり、地位と金と名誉に対する欲望によって、一人と一人の争いでは容赦なく勝つ力を持ち、個性的で力強い藤尾に打ち負かされ弄ばれる役割を小野は引き受けている。藤尾が物をはっきり言う女であり、物おじしない女であり、十分な魅力を持つとしても、京都に逃げ出した甲野と宗近にはその威力は及ばない。この二人と藤尾の両者は分離においてお互いに自由である。
 
 ■ 金は色の純にして濃きものである。富貴を愛するものは必ずこの色を好む。栄誉を冀うものは必ずこの色を撰む。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。磁石の鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき護謨である。一個の人として世間に通用せぬ。小野はいい色だと思った。(p29)

 小野は、道也が嫌った、富貴、名誉、盛名を好む文学者である。富貴、名誉、盛名を好む文学者は藤尾と関わり、藤尾と争い、藤尾に負けねばならない。それがこの小天地に住むことの意味である。富貴、名誉、盛名は、藤尾の姿をとって小野を翻弄する。漱石の現実認識は「野分」から一歩進んでいる。金の色を美しいと思ってはいけない、と批判するのではない。争いに勝つ方法は、この関係から逃れる事だけである。金の色を美しいと思う文学者は、藤尾とこのように関わり、このような人生を送らねばならない、というのが、富貴、名誉、盛名についての具体化した現実認識である。小野は富貴、名誉、盛名を好む文学者であるから、京都に自由に遊ぶ事は出来ない。古い京都より金の色が美しいと思い、藤尾が美しいと思う。甲野や宗近とは違った価値観を持ち、違った人生を送ろうとしている。道也と甲野が出て行こうとした世界に、小野は自ら努力して「半分首を突き込んでいる。」
 漱石は小野を描き出す事によって藤尾に対する道徳的批判を超えている。藤尾と小野の関係は、富貴、名誉、盛名を求める人間関係の現実である。そこは煩雑な駆け引きの世界であり、一対一の対立の世界である。しかし、小野は金と藤尾を美しいと感じ、この堅固で消耗的な闘いの世界を、富貴、名誉、盛名の世界だと認識して、それを得ることが一個の人として世間に通用することだと思って憧れている。漱石は、富貴、名誉、盛名の支配する藤尾と小野の世界が、人間関係として煩わしい消耗的な世界であることを描く事において、この世界に対する道徳的な批判意識を超えている。それは批判して揺らぐ世界ではない。小野がその世界を求めるのは、その世界のなんたるかを知らず、富貴、名誉、盛名の後ろに、動けば反吐を吐くような人間関係が渦巻いている事を知らないからである。ここまで漱石の現実認識は深化している。だから、小野を批判するより地位と金と盛望を求める小野を気の毒と思う意識が登場している。
 批判的な意識の発展は、道徳的非難を超えて、批判的な客観認識に到達する事である。母や藤尾を、道徳的に非妥協的に徹底して批判することは、道徳的批判が彼女たちに通用せず、そうした批判意識が彼女たちの本体を捕らえていないことを知ることである。漱石は、藤尾と母が甲野の批判を問題にしていないことをうまく描いている。それどころか甲野と宗近は彼女達にとっては困りものの、呑気ものの、鉄砲玉の人間である。甲野・宗近の立場からいえば、彼らはこれほど厳しい批判を受け入れるだけの力を持っている。道徳的な批判の徹底の結果、漱石はこの作品で富貴、名誉、盛名の支配する世界の独立性を承認しようとしている。それは、道也の独立的人格を継承した甲野の独立性の発展である。甲野と宗近が京都に遊び、藤尾と母親と小野が別の世界で独自の人間関係を展開することは、両者の関係の分離の始まりであり、道徳的な批判意識の崩壊と分化の始まりである。 (05.1.20)(05.7.3改稿)


(三)

 ■ 春の旅は長閑である。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。その間に宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。(p44)
 
 漱石は、甲野と宗近の関係をこのように書いている。甲野と宗近は漱石のよく知る肯定的な人物である。虚偽と争いに満ちた藤尾や母親の世界と違って、相互に信頼のある精神が描かれている。藤尾・母親の世界と甲野・宗近の世界は、対比的に描かれており、漱石の精神は、この二つの世界にまで広がりを見せ、二つの世界が切り離される事によって、それぞれの世界に特有の矛盾が形成されている。
 
 ■「それは知らんがね。意味が分からないものが描いてあるんだから謎だろう」
 「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
 「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。気狂の発明した詰将棋の手を、青筋を立てて研究しているようなものだ」(p34)

 甲野にとっては、意味があるから謎である。だから、謎を解かねばならない。しかし、甲野が突き当たっている現実の問題は、まだそこに到達していない。それが意味のある謎である事が理解できていれば、つまり、謎と考えるものが背後に意味を持っていることがはっきりしていれば、謎は半ば解かれている。宗近は、哲学者は意味のある謎ではなく、意味のないものを謎と思い込んでいる、つまりいくら考えても解く事はできないものを解こうとしている、と答えている。その疑問は、あるいはその疑問の持ち方には答えが無いのではないか、というのが謎である。ここに二人の、そして、漱石のなかに生まれた本質的な疑問がある。現実の問題は、あらかじめ意味が解っているものを謎とするわけではなく、しかも、その謎が解かれたかどうかも、明確な解答として得られるわけではないからである。
 
 ■「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う了見がなくっちゃ駄目だと思うんだね」
 「それもよかろう」
 「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」
 「切れば解けるのかい」
 「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
 「都合か。世の中に都合ほど卑怯なものはない」
 「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
 「アレキサンダーなんか、そんなに豪いと思ってるのか」(p36)

 現実の問題は実践的に解決しなければならないしするべきだろう、と宗近は主張している。甲野はそれを否定しているわけではない。しかし、謎が解けるはずが無いとする宗近の主張には同意できない。謎は解けないかもしれない。しかし、実践的に解決する事も謎を解いた事にならない点では同じである。それは特定の都合によって問題を解決しただけであって、一般的な解決ではない。謎は謎として残る。だから、たとえ、それが解けない謎であっても、哲学者が謎を解こうとすることについては宗近も「それもよかろう」と言わねばならない。実践的にも、哲学的にもまだ解決の道は見えない。だから、実践と哲学が同等に対立している。都合による解決は、解決ではない。解決ではない事を解決とするのは卑怯である。しかし、都合による解決を解決ではないとして手をこまねいていることもまた卑怯である。漱石は、「野分」の道也が得た、現実と精神に対する徹底した批判的立場を出発点にすることによって、抽象論における非常に複雑な課題を得ている。
 
 ■ 「宇宙は謎である。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、白頭にせんかいし、中夜に煩悶するために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。解けぬ謎である、苦痛である。(p37)

 謎を知らず、あるいは勝手に謎を解いて落ち着くものは幸福である。甲野はこの幸福を失った。しかし、謎は押しつけられたのではなく、自ら得たものである。甲野にとってのみすべては謎である。すべてを謎とする自分も謎である。親の謎を解くためには、親と同心にならねばならない。道也は世間のすべてから分離し孤立した。その孤立と批判意識を受け継いだ甲野にとって、すべては自分と同心でない謎となり、自己自身にさえ分裂を持ち込んだ。そして、分離し、謎になったことは、すべてが新たな視点による認識の対象となり、その分離において、再構成としての一致を課題として得たことである。それは、分離を前提としたことによる、より高度の現実認識である。道也の覚悟が生み出した謎を解くことが甲野の人生にのしかかる重い課題である。
 漱石は、甲野の日記の最後を、
 
 ■「……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」
 
 という言葉で纏めている。これも道也の継承である。身を捨てる覚悟はできている。しかし、地位と金を捨てる事は身を捨てる事と同じではない。それは謎を解く前提であり、謎を生み出す事であるが、謎を解く事ではない。どのように身を捨てれば、この謎を、自分自身をも謎と思うこの精神の疑問を解く事が出来るのか。これが甲野の得た課題である。死は謎を解く事ではない。それは甲野の個人的な解決であり、道也も甲野も死を肯定する意志を持たない。身を捨てる覚悟の上で、どのように身を捨てる事が疑いを解決することか、という新しい疑問を生み出している。身を救う事だけを目的としながら、どのように身を救うかをついに発見できず、身を捨てる事になった鴎外と対照的である。鴎外の運命を考えれば、甲野のこの自問が日本史の必然をいかに深刻に意識化しているかがわかる。
 
 ■「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
 「耳に聴くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奥に捕えたる時、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本来空の不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」(p38)

 本体と形式の関係を漱石はうまく捕らえている。本体を証得しないもの、本体と形式を分離しないものには、形式という認識は生じないので、形式は無意義である。本体と形式を分離できるものだけに形式は意義を持つ。そして、本体を証得することができれば、この形式は、その本体との関係においてまったく新しい様相を持つことになる。このことを抽象的に甲野は理解している。しかし、その本体を未だ知らない。それは謎である。だからまた形式も謎である。甲野が日記に哲学を書き込んでいる時に、宗近は琴の音を聞いている。これが甲野に迫っているもっとも重要な謎である。というのは、藤尾や母親や自分は甲野にとってすでに謎であるが、小夜子は謎ではないからである。漱石にとって小夜子は謎として認識することのできないほどに遠い存在である。
 
 ■「いえ、単なる文学者と云うものは霞に酔ってぽうっとしているばかりで、霞を披いて本体を見つけようとしないから性根がないよ」
 「霞の酔っ払か。哲学者は余計な事を考え込んで苦い顔をするから、塩水の酔っ払だろう」
 「君見たように叡山へ登るのに、若狭まで突き貫ける男は白雨の酔っ払だよ」
 「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」(p42)
 
 小野は文学者としての社会的な成功を望んでいる。金と地位と博士の名誉を望んでいる小野は、社会の本体や人間の本体に関心を持たず、本体を見ることができない。つまり、「野分」の道也を継承して、甲野は、金と地位と博士の名誉は本体ではない、と考えている。しかし、哲学的な甲野も実践的な宗近も、まだ本体を見ているわけではなく、それぞれが違った方法で酔っぱらっている。妙ではあるが、こうした分解が漱石の現実認識の発展である。小野は批判的に描かれているものの、現実認識において、本体を見ることができない点においては同等と見られている。物の本体を見なければならない、という課題を持つ事によって、本体に関心を持たない小野と、本体に関心を持ちながら本体を知らない甲野は、本体を知らない点では同等になり、本体に関心を持つかどうかによって区別される。そのために、小野は本体を失った浮草になり、甲野もまた本体を求める自我でありながら本体を求める自我であり、つまり自己を失った自己であることを自覚した自己として区別されている。これが、甲野と宗近の批判意識の具体化であり真面目さである。
 
 ■ 「君は感心に愚を主張しないからえらい。愚にして賢と心得ているほど片腹痛い事はないものだ」
 「諫に従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」
 「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
 「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
 「まあ立ん坊だね」と甲野さんは淋し気に笑った。勢込んで喋舌って来た宗近君は急に真面目になる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。(p43)

 小野は地位と金を目的に生きている。その小野は本体を知らない浮草であるというのが、漱石の現実認識である。「野分」の道也は、目的意識的な主体であった。しかし、それは地位と金を失う事を内容としており、それ以上の内容を持たなかった。つまり、地位と金を求める小野も、地位と金を放棄する道也も、本体を知らない。しかし、道也は本体を求めて地位と金を放棄したのであり、その成果として、甲野は自分が主体性を、本体を、生きる目的を失っている事を自覚している。小野が本体を知らない事を知っていると同時に、より深刻に、自分が本体を知らない事を知っている。
 地位と金を求めることに対する抽象的な道徳的批判から、地位や金を求めることが人間や社会の本体を知らないこと、あるいは失うことである、とする批判的現実認識に移行すると同時に、その批判が自分に跳ね返り、その求める本体を自分が知らないことについての深刻な自己批判となる。というのは、小野は本体を知らないが、少なくとも当面の目的である金と地位を求める事において現実的な充実を得ているからである。甲野にはこの充実はなく、本体を知る充実もない。甲野には明確な目的がない。この自己喪失において孤立的である。宗近の信頼もこの孤立と寂しさをいやす事は出来ない。そして、それを知るのが宗近であり、甲野に対する信頼である。小野や藤尾の世界には無い深刻な信頼関係が形成されている。
 藤尾や母親の人生が虚偽と感じるなら、その世界での人間関係と精神を疑わねばならなくなる。その世界の中での積極的な関係を失い形成できなくなる。そして、藤尾や母親の世界が虚偽に満ちていることを知ることにどんな積極的な意義があるかは分からない。虚偽の世界を深刻に知るとは、その世界を変える事はできないこと、その点における自分の無力を認識することである。「野分」の変革的な働きかけの自信と覚悟は失われ、藤尾や母親に対する不信感と孤独感が残る。道也の覚悟だけでは世間を動かせないことは、覚悟の結果はじめて深刻に理解される。その覚悟の深さだけ甲野の無力感も深い。甲野の孤独と無力感は、変革的な積極的な意識を前提として、それを内的に維持ることによって、その手段や方法を見いだせないこと、具体的な実践目的を見いだせないことを知る寂しさであり孤立感である。変革を諦めて自己を肯定する寂しさではない。諦めた自己を高く評価する孤独ではない。藤尾や母親に対する批判意識はより深刻になっており、世間をも自己をも謎とする精神に深刻化されている。
 このことを宗近は知っている。だから、宗近は、「これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」と言っている。甲野が世間をも自分をも謎と思うまでに深刻な疑問を持ち、しかもそれを解く事かできないこと、解く事が出来ない事を自覚している事を知っているからこそ、具体的な実践を対置し、哲学の世界から浮世に引っ張りだして、余計な事を考えないように気をつかっている。しかし、甲野は、「首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。」そして、甲野の精神には、小野や藤尾の世界にはない、その世界に対する道徳的な批判意識が生み出す深刻な矛盾が生まれており、それは日本史における新しい精神世界であり、甲野の生命力である。
 
 甲野は、藤尾や母親が虚偽に満ちていることを知っているが、その虚偽と対立しているのではない。道也もこの虚偽を知っていた。知っていたからこの世界から離れ、しかも、その世間を改革する覚悟によって主体的であり孤立に耐えていた。藤尾や母親の虚偽を暴き、非難し、自己の潔白を信じる事が解決ではない。それを自覚し、不毛な対立から抜け出すこと、普遍的な認識の世界に入るためには、この飛躍が不可欠の契機となる。だから、甲野の無力感は高度の批判的認識能力である。
 母親の虚偽は平凡である。だから、これを単純に否定することは容易であり、したがってこれを普遍的な観点から批判し、それを謎として捕らえることは非常に困難である。母親の虚偽に対して高度の批判意識を持つ場合にのみ、母親がどうしてこれほど愚かな虚偽を重ねるのかが謎になる。こんな虚偽はなくてもいいか、ないほうがいいようにみえる。そうであるのに世間は虚偽に満ちている。虚偽を肯定する立場からみれば、それは自然な欲望である。自分の人格にのみ関心を持つ場合は非難と軽蔑の対象になる。道也のように、地位や金に執着しないことが正しい生き方だと確信し、なおかつ社会と変革的に関わろうとする精神にとってのみこの虚偽は謎になる。この虚偽は、自分自身にとってさえ意義もなく利益もなく、必要のない、理由の無い虚偽にみえるのに、自然で激しい欲望である。だから解明すべき、謎に満ちた精神にみえる。
 甲野にとっては、藤尾や母親の弱点を個別に批判し、自分の道徳的な優位によって自己を肯定する事は個別的解決にすぎず、藤尾や母親の小天地で一対一で争う事である。鴎外の「半日」のような勝利を甲野は求めていない。その争いの無意義を知り、その世界から離れることを課題にすることによって、藤尾も母親も自分自身も未だ認識できない謎となった。個別的な批判を超えて、藤尾や母親の虚偽の世界の本体を認識することが課題になると同時に、それを批判する自己とはいったい何か、そのような精神の存在意義はどこにあるか、が新たな課題になる。こうした事情のために甲野は、藤尾や母親の虚偽を知りながら、それと対決しようとせず、彼女たちの運命それ自身の自然の流れによる解決を待つ立場をとっている。個別的な働きかけの無力を知ることは、こうして、彼女たちが独自の運命にしたがうことが、最も自然であり、それを認識することが謎の解決であり、従って謎の解決は、それ自身の運命の展開である、という現実認識を得ることである。これは道徳的な意識による勧善懲悪を超えた、道也の覚悟を超えた、独自の確信に満ちた孤立感であり寂しさである。そして同時にそれは、この孤立感と寂しさは、甲野の自然的運命においてどのように解決されるのか、という切実な課題の獲得である。
 藤尾や母親の虚偽の世界との直接的対立を無意義と見る甲野にとって、この世界から出ることが唯一の実践的解決である。彼女たちの運命を地位や財産に執着した運命として自然に任せ、自分を、地位や財産を放棄した運命に任せるのが第一の解決である。それがどのような解決を生み出すかはわからないが、この世界にとどまる事が破滅である事ははっきりしている。それがどのような運命であるかはまだ漱石にははっきりわからないが、この段階では、小野と藤尾の関係で描写されている。甲野にとっては、動けば反吐を吐く世界に住むことが破滅であり、小野がその運命に翻弄されている。

 漱石は、甲野と母親の世界を分離して、それぞれの自然な運命に任せることによって、それぞれの世界に特有の、しかし同時に連関を持った矛盾を生み出している。「野分」の道也と同じで、甲野も自分の世界にある矛盾を生み出す力をもっており、それが甲野の主体性である。つぎつぎに限界を突破し、新しく作り出した矛盾を認識するのが彼らの力量である。ここで、漱石は、甲野と宗近の関係が生み出す矛盾に一歩踏み込んでいる。漱石は後にこの矛盾を独自に取り出し、「猫」以来の道徳的意識の矛盾の巣窟を明治の精神の終焉として描写した。
 
 ■ 甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
 疑がえば己にさえ欺むかれる。まして己以外の人間の、利害の衢に、損失の塵除と被る、面の厚さは、容易には度られぬ。親しき友の、わが母親を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、または外側でのみ云う了見か。己にさえ、己を欺く魔の、どこにか潜んでいるような気持は免かれぬものを、無二の友達とは云え、父方の縁続きとは云え、迂濶には天機を洩らしがたい。宗近の言は継母親に対するわが心の底を見んための鎌か。見た上でも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌を懸けるほどの男ならば、思う通りを引き出した後で、どう引っ繰り返らぬとも保証は出来ん。宗近の言は真率なる彼の、裏表の見界なく、母親の口占を一図にそれと信じたる反響か。平生のかれこれから推して見ると多分そうだろう。よもや、母親から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしき淵の底に、詮索の錘を投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、見損なった母親の意を承けて、御互に面白からぬ結果を、必然の期程以前に、家庭のなかに打ち開ける事がないとも限らん。いずれにしても入らぬ口は発くまい。
 二人はしばらく無言である。隣家ではまだ琴を弾いている。(p45)

 母親の虚偽を批判する甲野の精神は非常に複雑になっている。その批判は、宗近にも反響し、それがまた甲野にも反響し、層を重ねている。宗近は甲野の母親について、藤尾について無知であり無批判的である。宗近は、虚偽を持たず、虚偽を知らない。甲野は母親の虚偽を知っている。藤尾と母親の虚偽に対する道徳的批判だけが問題であれば、それは謎ではなく、甲野は宗近にその虚偽を教えることができる。しかし、藤尾と母親の虚偽を謎として知っている甲野は、宗近に自分の疑問を話す事が出来ない。藤尾と母親の虚偽さえ知らない宗近に自分の疑問を説明しても無駄である。また、それを、現在宗近が自分を信頼し、理解している以上に説明することはできない。話しても自分に対する信頼を増す事はなく、むしろ信頼を失い同情を増すだけであろう。人間関係に変化はないが、甲野の認識は複雑になっている。
 甲野にとって、虚偽にみちた生活と精神の全体が謎である。その虚偽の運命が分からない。甲野は、虚偽の本体を知りたいと思う。世間を虚偽に満ちていると考え、親も兄弟も妻も子供も疑い、その疑う自分をも疑う甲野の問題意識は、深刻な人間不審を含んでおり、しかもそれと個別に闘うことの無意義を理解している。それは、社会に対する道徳的な批判意識が生み出した特有の不信感である。人間は地位と金に依存し執着する事よって、虚偽に満ちた生活をしており、それを批判する甲野を理解する人間はいない。それは甲野無力であると同時に日本の社会の現状である。批判意識が孤立する必然が甲野の批判意識の形式を生み出しており、甲野の批判意識の中に不信感と孤独を生み出している。これは道也の覚悟に満ちた自己肯定的な孤独ではなく、逃れる事の出来ない、逃れたくても出口の見えない孤独である。しかし、批判意識の未発達な日本の社会において、この徹底した不信感を経由しない道徳的意識は偽善的であり、自己に対して無批判的である。
 藤尾も母親も自分も謎となった。その謎を宗近に打ち明けてもなんら解決されることなく、お互いの無理解を大きくするだけであろう。甲野の批判意識は、最後の信頼関係である宗近に対する不信感を生むほどに徹底している。しかも、宗近に対するこれまでの信頼は揺らぐ事はないから、その不信感はいずれにしても甲野自身に跳ね返ってくる。世間に対する、そして個別の虚偽に対する批判意識はこうしてすべてが甲野の自己批判に収束する傾向を持ち始めている。おそらく漱石は、こういう不信感が出てくる原因が甲野と母親の関係にあり、その関係を認識する甲野の批判意識の法則であることに、この作品の中で気づいていくであろう。藤尾と母親の虚偽ははっきりしており、その批判は課題になり得ないからである。しかも、自己不審への深化だけが、母親の虚偽の本質的な理解であり、甲野が本体と形式について指摘しているように、母親の虚偽は、その本体である甲野の精神の追究によってまったく別の形式をとるようになり、それによって漱石の現実認識は飛躍的な発展を遂げる。
 母親を謎として批判的にみる現実認識において、宗近との価値観の距離が生じており、このことに甲野の認識の深さがある。そして、ここには、道也とは違った、遥かに深刻な孤独の陰が表れている。最も信頼している、そして信頼に値する宗近に対する不信感、この亀裂による孤独の意識の誕生である。こうした不信感も甲野の認識の発展によって宗近との間に形成できた新しい矛盾であって、それが甲野や宗近の社会認識を前進させる。孤独は崇高である、と規定した道也の意識はここにはない。自然に、現実認識の発展に伴って、いやでも孤独になるからである。しかし、それは甲野と宗近の間に生まれた不信感であると同時に信頼の新たな内容である。 (05.7.05改稿)


(四)
 
  ■ 小野さんは色相世界に住する男である。
 小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。筒袖を着て学校へ通う時から友達に苛められていた。行く所で犬に吠えられた。父は死んだ。外で辛い目に遇った小野さんは帰る家が無くなった。やむなく人の世話になる。
 水底の藻は、暗い所に漂うて、白帆行く岸辺に日のあたる事を知らぬ。右に揺こうが、左りに靡こうが嬲るは波である。ただその時々に逆らわなければ済む。馴れては波も気にならぬ。波は何物ぞと考える暇もない。なぜ波がつらく己れにあたるかは無論問題には上らぬ。上ったところで改良は出来ぬ。ただ運命が暗い所に生えていろと云う。そこで生えている。ただ運命が朝な夕なに動けと云う。だから動いている。――小野さんは水底の藻であった。(p48)

 これは、明治の日本のほとんどのすべての人々の運命である。この中から、学問によって出世する小野が毎年引き抜かれていく。貧しい小野も孤堂の世話になって、学問によって出世した。小野は、銀時計をもらうほどに出世して、次は博士を望んでいる。しかし、漱石は博士になることを評価しない。「小野さんは色相世界に住する男である」と書く漱石は、この暗い世界の意義はまだ分からないものの、何か大事な得難い世界として描いている。漱石には、出世してこの暗い世界から抜け出した小野が、「土を離れて漸く浮かび出す」、「根のない事には気が付かぬ」人間に見える。漱石にとって、小野の暗い過去に結びつくことが根を持つことである。小野の精神、あるいは生活に根がない、という比喩的な表現は、現実にはどんな意味を持つのであろうか。
 甲野は意識していないが、外交官の父を持つ甲野は、この水底を経験しておらず、根である暗い過去を持たない。「野分」の道也と高柳の関係と同じで、経験的には小野は甲野より多くを知っている。甲野は小野の世界を色相世界だと批判している。しかし、本体はどこにあるのか。甲野にもそれは分からない。漱石は、色相世界に住む小野の暗い過去を描くことによって直感的にその本体を示唆している。しかし、小野がその世界を抜け出すためにどれほどの努力を必要としたか、その暗い世界がどれほどの苦しみに満ちているかを小野は知っているし、そのことを漱石も知っている。だから、漱石は小野を水底の世界に再び突き落とすことが根のある生活を得ることだとすることはできない。しかし、「野分」を経由した漱石は、その暗い世界が人生にとってどれほど重要な意味を持っているかに気づき始めている。しかし、その世界に、色相世界に勝る生活を見いだすことはできない。だから、小野も甲野も生活の本体を知らず、根のある生活を知らない。小野を色相世界から救い出す、というのは、甲野を色相世界から救い出すことでもある。そして、その本体は、水底の生活にあるのではないか、と疑い始めている。
 
 漱石は、出世を望み、出世することが自然の順序ではなく、逆である、としている。「暗い土から、根を振り切って、日の透る波の、明るい渚へ漂うて来た。」のは、現実社会の誰もが望む自然である。世の中がこのように展開しているにも関わらず、漱石には、その流れが不自然に見える。博士から水底に転落することが自然の順序だとは誰も思わない。だから、漱石は、その不自然の所以を説明し、自然の流れがどのようなものかを示さねばならない。漱石はそれを見つけようとしている。
 現実は暗い土から明るい渚へ漂う流を作り出すと同時に、それを不自然だと感じる漱石をも作り出している。明治の現実は、金と地位に依存した精神をはびこらせると同時に、それに反発しそれを変革しようとする道也の覚悟を生み出した。そして、この『虞美人草』では、道也の人生が崇高な覚悟による選択ではなく、現実において自然であることを、端緒として捕らえようとしている。漱石の意識の底に沈んだこの意識が、この作品で描かれる葛藤によって表に浮き出そうとしている。
 小野は、自然の経路を逆さまにして、明るいところを進んでいる。その人生の第一の特徴として、タンタラスの例によって、出世の欲望にきりがなく、欲望が満足させられないことが指摘されている。さらに、「時によると藤尾さんがつんと澄ましている事がある。」、「博士の二字がだんだん薄くなって剥げながら暗くなる事がある。」という小野の心理を描いている。明るいと見える未来にも不安がある。際限のない出世競争に勝ち抜いていくには多くの危険があり、立ち止まることもできず、藤尾との関係は、愛と言うより反吐を吐くほどの争いである。その視点からすれば、小野の世界は「根がない」世界に見える。華麗な色相世界は、水底より暗い不毛な世界である。しかし、漱石はまだ小野の世界を、裕福な絢爛たる生活として批判的に捕らえており、不毛な暗澹たる世界としては十分には捕らえていない。漱石の道也が零落した世界を覚悟によって選択したのは、それが暗い絶望的な世界に見えており、その世界に住むことの意義が理解できなかったからである。それは人格的な覚悟のできた人間の使命として選択された人生である。漱石には、それを歴史が生み出す普遍的で積極的な人生として認識することはできない。色相世界を深刻に否定するには、貧しい世界を肯定できなければならない。貧しい世界を肯定できなければ、色相世界の否定は当為にとどまる。漱石は、色相世界が否定されるべきであると確信しているが、小野の過去を肯定することもまだできない。その暗い過去を、暗く暗澹たる世界であることを確認しつつ肯定しようとする努力が小野と甲野と漱石の葛藤である。

 過去を振り切っていた小野に過去の生活が、過去の人間関係として迫ってくる。そのために、明るいと見られた未来にひびが入る。出世主義者にとってはこれは危機である。しかし、「野分」を経由した漱石の価値観では、過去が迫ってくることは、色相世界から精神を救うことであり、自然の順序を取り戻すことである。漱石は、エリートの社会が金と地位と引き換えに精神を喪失していることを知っている。小野は色相世界に入り、精神を失おうとしている。しかし、小野には水底で生活した貴重な過去がある。水底の世界で形成された人間関係と精神には、この精神の喪失を救う力がある。それが、道也の覚悟に代わる力である。小野の過去の信頼関係が、小野の未来を破壊する力を持ち、小野の精神を救う力を持っている、と漱石は考えている。小野の暗い過去に存在した人間関係と精神が真実であり、小野はそれを取り返すべきである、というのが漱石の道徳的当為である。
 色相世界に住むことになった小野が、過去の人間関係と信頼を取り戻すべきである、というのは道徳的当為である。現実にはこの一致は不可能であり、二つの世界が分離される過程を否定しているだけである。過去の人間関係が二つの世界に分離されていく時、出世した小野の世界は本体を失った色相世界になる。漱石はこの色相世界に信頼関係を創り出すべきだと考えているが、その方法は、現実の過程を逆行させることである。しかし、漱石の当為ではなく、現実が真理であり、解決はこの分離の発展の中中でのみ形成される。信頼関係を形成する方法としてのこの幻想を破壊するのが『虞美人草』の意義である。この幻想を、具体的に展開し、具体的に破壊することによって、道徳的な当為は積極的な現実認識へと移行することができる。
 
 ■ 「小野清三様」と子昂流にかいた名宛を見た時、小野さんは、急に両肱に力を入れて、机に持たした体を跳ねるように後へ引いた。未来を覗く椿の管が、同時に揺れて、唐紅の一片がロゼッチの詩集の上に音なしく落ちて来る。完き未来は、はや崩れかけた。(p51)

 貧しい時代に恩を受けた孤堂からの手紙によって、未来が崩れるであろうか。多くのエリートは貧しい世界から競争に勝ち抜いてのし上がってきた。古い、貧しい人間関係から分離される場合にさまざまの葛藤があるが、それをすべて振り払うのが出世の力である。その力こそ現実であることを誰もが認める。しかし、漱石は逆に、過去と結びつくことが自然の順序だという。古い関係が、未来を突き崩す力を持って迫ってくるというのは、漱石の希望が作り出した自然である。そうでなければならない、という漱石の希望に基づく想定である。「完き未来は、はや崩れかけた。」という言葉には、漱石の精神のすべてを掛けた期待が込められている。しかし、漱石は結論を急ぎすぎている。この二つの世界をつなぐ現実的な根拠が見えないために、漱石はそれをつなぐ力を道徳的な意識として想定している。しかし、道義によって色相世界を壊すことはできない。新しい人間関係はこの分離の中で現実的に生み出されてくる。それを発見することが歴史的な課題である。そして、新しい人間関係を道義的な意識によって想定し、現実の人間関係との接触によってこの想定が壊れる過程が、この新しい人間関係の発見の過程となる。この新しい人間関係は、それを求め、肯定する意識によってのみ発見されるからである。
 小野は、封書の中身が想像の通りであれば、「それこそ取り返しが付かぬ」と考えている。封書には、小野が想像した通り、世話になった孤堂が、小野を信頼し、小野に頼り、小野に小夜子の運命を託していると書いている。人間にとって、この信頼と金時計のいづれが大事か、というのが漱石の問いかけである。この問いかけは道義的な幻想が生み出したものである。この両者は自由な選択に任されているのではない。意識による選択が可能であると考えるているために、漱石はこれを道徳的な選択の問題と考え、『虞美人草』によって道徳的選択の実例を描こうとしている。しかし、このような選択肢はあり得ず、このような道義的問題も存在しない。
 
 漱石は、小野の過去を深い感慨を込めて描いている。食うや食わずの極貧の世界から、学問によって抜け出すことが出来た多くの人間がこうした感慨を持っている。しかし、過去の貧しい世界がいかに感慨深くても、抜け出した今の生活を否定する力を持つものではない。過去の貧しい生活は、色相世界を肯定する価値観によって再認識される。漱石は小野にそうした心理を書き込んでいる。小野にとって、過去は自分の明るい未来を脅かすものである。小野は過去の生活に引き返すことはできない。漱石もそれを前提として、その限界の中で小野の暗い過去が小野の精神を救うと考えている。小野の過去が小野の精神を救うことは漱石にとっても不自然である。漱石は過去の貧しい生活から信頼に満ちた人間関係だけを取り出して小野の世界に植えつけようとしている。
 小野は過去の貧しい生活から逃れる努力をして、博士と藤尾に手が届きそうになっている。小野の選択は決まっている。小野の希望は藤尾であり、博士である。しかし、過去の人間関係が今近づいている。過去が近づいているのであって、小野は過去を選択しようとしているのではない。漱石は小野がどちらを選択するか迷っているように描きながら、基本的には選択は終わったものとしている。選択を迫るのは現実を知らない過去の人間関係である。小野は、過去にも未来にも恵まれた男として、それぞれに価値のある二つの世界から選択を迫られていると想定されている。藤尾に信頼され、孤堂に信頼され、小夜子に愛されているために、どの信頼に報いるべきかに迷っている。漱石は小野の貧しい世界と色相世界の両方を知っている。しかし、漱石はこの両世界がどのような関係にあるかをまだ理解していない。そのために、小野に対しては過去の世界の信頼関係・精神の価値と、色相世界の豊かな生活の両方を与えることを道義と考えている。そして、漱石は同時に、これらのすべてを、信頼関係をも豊かな生活をも放棄しようとしている甲野を描いている。道義によって多くを得ようとしている小野と、すべてを失おうとしている孤独な甲野が対立している。現実には、小野の貧しい過去が、出世した小野を追いかけて来ることはない。追いかけることができないように切り裂くのが資本主義の力である。だから、この両世界の間で迷うことはできない。信頼関係と豊かな生活を社会に対して求める意志によってすべてを失う甲野がより現実的である。甲野孤立の現実性を支えているのは、小野や小夜子が、また日本の社会が、信頼関係と豊かな生活を得ることを求める意志である。

 漱石は、小野が、こうした恵まれた立場に想定されていること、そして小野に危機が迫っているわけではないことを、この後すぐに描きこんでいる。それを言葉にするのが浅井である。漱石は常にこうした視点を持っており、人物の描写による相対化が漱石の意識した説明より常に多くを語っている。
 
 ■ 「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。早く博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
 「なにそんな事はない。勉強がちっとも出来なくって困る」
 「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
 「そうか、どうも心持ちがわるい」
 「そうだろう。井上の御嬢さんが心配する、早く露西亜料理でも食うて、好うならんと」
 
 浅井の立場から見ると、小野の人生は単純明解である。勉強して、銀時計をもらって、さらに博士になって、美しい小夜子と結婚する。銀時計をもらうことの出来ない浅井には望むことのできないエリートの人生である。しかし、小野には、浅井の知らない事情がある。それは、浅井が考えている以上の未来を小野が望んでおり、手に入れることが出来る立場にいることである。「博士になって美しい嫁さんでも貰はうと思ふてけつかる」のは同じであるが、その美しい嫁さんは財産をもっている藤尾である。浅井は財産のことまでは考え及ばない。
 銀時計を貰った小野の立場は堅固である。暗澹たる世界から無数の媒介項によって隔てられており、過去と直接向き合っているのではない。暗澹たる過去から来た手紙は小野の立場を壊す力を持たない。小野は古い手紙によって古い世界に引き戻されるのではない。小野の葛藤は、暗澹たる過去と金時計の選択にあるのではない。藤尾を選ぶか小夜子を選ぶかは、藤尾の財産を諦めるかどうかの葛藤にすぎず、たとえ藤尾を諦めて小夜子選んで道義を貫いたとしても金時計を失うのではない。それはなお浅井にとってさえ羨むべき高級エリートの人生である。
 小野は、小夜子と結婚しても、暗澹たる、しかし信頼に満ちた関係を取り戻すことは出来ない。小夜子が過去を失うばかりである。銀時計を貰った小野にとって、暗澹たる世界がいかに感慨深く思い出されても、それは遠い過去であり、道義によって取り戻せる世界ではない。小野が銀時計を貰うには多くの努力と能力と機会を必要とした。しかし、小野が、この暗澹たる世界に再び近づき、その世界の精神を取り戻すには、金時計を貰うより遥かに多くの努力と才能と必然の力を必要とする。小野がこの暗澹たる世界から抜け出しても、暗澹たる世界は小野を脅かすことなく、小野に構うことなく、小野を置き去りにして独自に未来に進んでいく。それは生きた世界であり暗澹たる世界ではない。エリート世界を迂回してその世界にふたたび追いつくのは選択の自由に任された道義的な課題ではない。漱石は、「こころ」までの作品の系列によって、ようやく自分の根であるこの暗澹たる世界を取り戻すことができた。小野が考えるように、この過去の世界を切り離すことが難しいのではなく、この過去の世界と結びつくことが難しいのである。
 選択肢は、浅井が言うように、博士になって美しい小夜子と結婚するか、それとも博士になって美しくて財産のある藤尾と結婚するか、である。小野が小夜子の世界に引き戻されるのではなく、過去の小夜子は小野に近づき、エリートの世界に入る。小野だけでなく、孤堂も小夜子も暗澹たる過去を振り捨てることになる。したがって道義の現実的な意味は、多くの小野をつくりだすことである。小野の葛藤は、浅井が想像しているように、孤堂、小夜子、小野が博士らしい家庭を築くか、それ以上を望んで、孤堂と小夜子を暗澹たる過去に取り残すかどうかである。漱石の自然の順序から言えば、孤堂と小夜子を暗澹たる過去に追い返すことが孤堂と小夜子を自然の順序に従わせることである。浅井には望むことすら出来ない贅沢な悩みは、深刻な普遍的な苦悩ではあり得ない。小野と藤尾と小夜子とのこうした関係によっては、道也を継承する深刻な矛盾を描くことができない。漱石はこの作品の展開によって、道義的な葛藤が普遍的な価値を持たないことを認識せざるを得ない。それが浅井の言葉によって明らかになっている。

(五)

 小野の世界には深い感慨があり、現実的な葛藤がある。しかし、漱石はその感慨や葛藤に溺れることはない。小野の葛藤をよそに、再び甲野と宗近の世界を描いている。夢想国師や書物的で高踏的なおしゃべりは気楽に見えるが、この想世界の矛盾なしには、小野の感慨も葛藤も見えてこない。小野の世界と甲野の世界は、相互に対立し、関連し、相対化されている。小野の感慨に溺れるだけでも、甲野の想世界に遊ぶだけでも現実から遊離する。両者を対立において深く捕らえるのが漱石の才能である。
 甲野と宗近の気楽さは表面のもので、その背後に思想があり、その背後に小野の葛藤がある。道也の覚悟もなくてはならないが、覚悟だけでは想世界は深化しない。葛藤を深刻に経験するだけでも深化しない。想世界は想世界として独自に発展しなければならず、独自の困難がある。甲野には常に道也の真面目さと覚悟が内包されている。そして、想世界は、経験的な世界とはまったく違った深刻さを獲得していく。
 
 ■ 「こっちだってただ死ぬんじゃない、天下国家のために死ぬんだから、そのくらいな事はしてもよかろう」
 「こっちは自分一人を持て余しているくらいだ」
 「元来、君は我儘過ぎるよ。日本と云う考が君の頭のなかにあるかい」
 今までは真面目の上に冗談の雲がかかっていた。冗談の雲はこの時ようやく晴れて、下から真面目が浮き上がって来る。
 「君は日本の運命を考えた事があるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少し後ろへ開いた。
 「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
 「たまたま風邪が癒れば長命だと思ってる」
 「日本が短命だと云うのかね」と宗近君は詰め寄せた。(p62)

 真面目な話というのは、天下国家のためとは何か、を考えることである。「野分」の道也の当為が具体的に考察されはじめている。人格によって世間を導く道也の意志は、具体的実践としての宗近と、啓蒙の対象である天下国家とは何か、啓蒙とは何か、という甲野の疑問に分解している。実践的な宗近が考える天下国家のためというのは、外交官になって働くことである。目の前の具体的な実践的義務を果たすことが国家の発展に尽くすことである。すでに漱石は宗近の実践を容認する甲野の態度を描いていたが、ここでも宗近が天下国家のために働くことを否定していない。そして、甲野は自分ひとりを持て余している、という。
 自分一人を持て余すのは、実践的目的を持たないからである。甲野には、天下国家のために働くことがどのようなことがわからない。わからない、という意味で人生の目的を持たず、何をなすべきかを知らない自分を持て余している。天下国家のために死ぬことを否定するのではなく、天下国家を問題にしないのではなく、天下国家のためとは何かを考え始めてそれがわからない自分を持て余している。宗近はこれを理解せず、甲野が自分のことだけを考えて日本のことを考えていない、という。甲野は日本のことを深く考えているからこそ、その日本のために何をなすべきかが分からなくなった自分を意識している。それを宗近は理解しない。
 甲野は日本の運命を考えている。宗近は運命を考えない。与えられた目の前の義務を果たせば、日本は発展する。それが天下国家のために働くことである。運命のことは分からないが、目の前の義務を果たしていれば結果が出る。日露戦争に勝ったことが、その成果である。甲野が疑問を持っているのは、宗近の言う実践が天下国家のためになっているかどうかであり、日本の現実に則した本質的な疑問としては、日露戦争後の日本を、戦争に勝ったことの結果を批判的に見るということである。戦争に勝ったことの背後で日本の現実には何が起こっているのか、という批判的な問題意識によって、天下国家のためとは何かという疑問が生じている。
 色を見ずに本体を見る、小野は色相世界に生きる人間である、という甲野の現実認識は、日露戦争後の日本の社会に対する深い批判的認識である。漱石は、日露戦争が日本に何をもたらしたかを批判的に考察することを人生の課題にしている。それは日本の発展の証であるが、同時に破滅をも内包している。日本は戦争の結果破滅に向かっているのではないか、と甲野には見える。戦勝や華やかな生活が、全体として堕落に見えはじめている。しかし、その堕落、破滅の具体的な姿、その運命の姿は見えない。そのために、日本の現実に対して何をすべきかが分からない。だから、自分を持て余している。宗近は日本の運命について考えることは出来ない。しかし、素朴に天下国家のためを思っている宗近は、天下国家のためとは何かを考察しはじめている甲野を信頼している。たとえ甲野が答えを出さなくても、内面的な信頼のなかにあり、つまらないことをも、天下国家や運命についても、率直に、端的に話すことができる関係にある。天下国家や運命を考えない、財産と金時計だけを目的とする小天地には、警戒と臆病と反吐を吐くような争いが支配している。それが藤尾の世界である。だから、天下国家とはなにか、を考察しはじめることは、藤尾に対する直接的な批判、藤尾との直接的関係から離れ、自由になるための重要な、不可欠の契機である。
 
 ■ 「人間の分子も、第一義が活動すると善いが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するから厭になっちまう」
 「御互は第何義ぐらいだろう」
 「御互になると、これでも人間が上等だから、第二義、第三義以下には出ないね」
 「これでかい」
 「云う事はたわいがなくっても、そこに面白味がある」
 「ありがたいな。第一義となると、どんな活動だね」
 「第一義か。第一義は血を見ないと出て来ない」
 「それこそ危険だ」
 「血でもってふざけた了見を洗った時に、第一義が躍然とあらわれる。人間はそれほど軽薄なものなんだよ」
 「自分の血か、人の血か」
 甲野さんは返事をする代りに、売店に陳べてある、抹茶茶碗を見始めた。土を捏ねて手造りにしたものか、棚三段を尽くして、あるものはことごとくとぼけている。(p64)

 お互いが第何義であるかはわからない。第十義は反吐を吐く世界の人間である。甲野と宗近は第二義か第三義の人間だから、たわいない会話ができるほどの信頼関係はある。しかし、まだ第一義ではない、と甲野は考えている。第一義がどのようなものか、第一義の活動とはなにか、それにはどのようにして到達できるのか、それは甲野にも分からない。しかし、少なくとも、哲学者として考察し、自分を持て余し、苦悩するだけでは決して第一義に到達することはできないことは分かっている。思索の延長に第一義があるのではない。甲野がいかに真面目に、人生を捨てる気で考察しても、ふざけた了見は残る。ふざけた了見は、血で洗った時に躍然と表れる。それがどのようなものであるかは分からない。自分を打ち倒して血を見る事なのか、それとも敵と闘い、敵の血によって洗い流すものなのか。甲野は、自分を持て余しているが、ふざけた了見を血で洗う覚悟はできている。宗近もその覚悟はあるに違いない。しかし、それが現実にどのようにやってくるのかは分からない。小野が過去と現在の関係で葛藤している時に、甲野と宗近は京都でこんなことを思っている。甲野の天下国家に対する関心と、小野と小夜子を結びつける道義的な関心が分離しつつある。(05.07改稿)


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