『虞美人草』ノート (六)  (七)  (八)  (九)  (十)

(六)
 糸子は自己を主張しない。そういう形式において自己を主張し、藤尾と対立している。漱石はこれを戦争である、といい、糸子の自我通している。「野分」の道也は、覚悟と意志に満ちているが消極的に自己を主張している。自己の主張と貫徹の形式は、状況と精神の内容によってさまざまである。漱石は、「男の用を足すために生れたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない。」と書きながら、糸子との対立で藤尾が虚栄によって自ら墓穴を掘る様子をうまく描いている。
 藤尾は「猫」の鼻子に似ている。藤尾の虚栄的な、教養的な自我は赤シャツにも似ている。漱石の中には、赤シャツや藤尾に対する激しい嫌悪があった。漱石の知るエリート社会の弱点が漱石にはこのように見えていた。貧しい世界から真面目に金時計を目指している小野も、学問を虚栄とし虚飾とするエリート社会の人間像である。学問が学問としての内容を失うことは、学者としての成功に関心を奪われて、社会の改革に対する関心を失うことである。藤尾と小野の関係は、虚飾と財産を目的とし内容としているのであって、相手の人格に対する関心はなく、愛情はない。
 藤尾や赤シャツや小野に対する批判は、教養的な虚飾を振り回すエリートインテリの世界に対する批判意識としてのみ真剣な関心である。藤尾ではなく家庭的な糸子好ましい、といった女評定に関心を持っているのではない。深い教養を持つ漱石は、教養的な軽薄を持たない糸子や宗近を愛すべき精神だと思っている。しかし、糸子や宗近を、妻にしあるいは友にして平穏に暮らしたいと思うのではない。赤シャツや藤尾や小野の精神を批判し、それに対立する精神を社会的に形成するのが漱石の意志である。
 赤シャツや藤尾や小野を批判する漱石の社会認識はまだ表面的である。エリート世界の弱点はまだ個人の性格的な特徴をもっており、その特徴の社会性がはっきりしない。漱石の批判精神が深くなれば、エリート社会は赤シャツや藤尾の姿をとらなくなり、より独立した自由な個性として描写される。漱石が禁欲的な道也を描き、藤尾に批判的な甲野を描くとき、まだ藤尾から自由になっていない。漱石は小夜子をも藤尾ををも、まだ自分の狭い世界の窓から、自分の狭い精神によってゆがめて見ている。「虞美人草」には、「草枕」にみえた教養人的な趣味人的な精神が色濃く残っている。知識は未消化のままに吐き出されており、自分の独自の課題、独自の世界を持つに至らない。甲野はそれを自覚したところである。そして、次の一歩を踏み出すために、藤尾を厳しく批判し、批判を徹底して、自分の批判意識の崩壊を見届けなければならない。漱石は自分の批判意識において妥協せず、自己内の矛盾から逃避することなく、自己との闘いを回避することなく、批判を徹底することで藤尾に対する直接的な批判や嫌悪感を克服しようとしている。漱石は、すでに視界から消え始めている藤尾を追いかけ、徹底して排除することで藤尾から自由になり、社会を藤尾として見る自己から自由になる。漱石は覚悟によって自由になるのではなく、手順を追って、確実に自由になる。
 しかし、このことが予期せぬ、大きな犠牲を生み出すことになり、予期せぬ自己崩壊を含むことになった。
 
 
(七)
 
 ■ わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界と他の世界と喰い違うとき二つながら崩れる事がある。破けて飛ぶ事がある。あるいは発矢と熱を曳いて無極のうちに物別れとなる事がある。凄まじき喰い違い方が生涯に一度起るならば、われは幕引く舞台に立つ事なくして自からなる悲劇の主人公である。天より賜わる性格はこの時始めて第一義において躍動する。八時発の夜汽車で喰い違った世界はさほどに猛烈なものではない。しかしただ逢うてただ別れる袖だけの縁ならば、星深き春の夜を、名さえ寂びたる七条に、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を彫琢する。自然その物は小説にはならぬ。(p82)

 この汽車の場面は重要な意味を持っている。漱石は、『三四郎』の冒頭で、この汽車の場面にまったく逆の意味を描写した。汽車は、資本主義の発展を代表する交通機関である。これなしに資本主義は成立しない。この汽車が小野と小夜子を分離した。京都と東京に分離しただけでなく、明治の社会が生み出した二つの対立的な世界に分離した。小夜子は貧しい世界に残され、小野は、資本主義が生み出す学者的な出世を得た。これは、明治社会が生み出した、明治の人間のあり方を規定する本質的な分離である。
 漱石は、汽車が分離し形成した二つの世界を汽車によって結びつけようとしている。漱石は、分離された二つの世界に、すさまじき食い違いを起こさせることができると思っており、それが悲劇であると思っている。それが漱石の考える第一義の躍動である。この悲劇を描くのが小説である、と漱石は考えている。しかし、こうした悲劇は不自然であり非現実的である。これは第一義でもなく悲劇でもなく、漱石のエリートインテリらしい偏狭な現実認識である。
 『三四郎』の汽車は二つの世界を結びつけず、漱石の求める悲劇を作り出さない。『三四郎』のお光さんは、三四郎を追いかけて三四郎の未来を脅かすことはない。乗り合わせた貧しい女とは、「ただ逢うてただ別れる袖だけの縁」である。『三四郎』では、資本主義の発達を担う汽車は、『三四郎』とお光さんと、乗り合わせた女とを分離していく。そこで偶然の縁を触れ合うことすらできないのが三四郎の特徴である。そこでの偶然の縁を避けるのがこれから出世する人間の新しい意識である。その分離的な意識は、汽車に乗ったときにすでに生まれている。汽車で東京に出て、銀時計を貰うようになるまでに、小野は多くの経験をし、多くの新しい精神を形成しなければならない。その具体的内容は、すべて小夜子の世界と分離する精神である。藤尾の世界には藤尾の精神が生まれ、銀時計を貰う小野には銀時計らしい精神が生まれる。漱石は、それを批判するために、その世界に小夜子を連れて行き、凄まじい食い違いを演じさせようとしている。
 
 ■ 色白く、傾く月の影に生れて小夜と云う。母なきを、つづまやかに暮らす親一人子一人の京の住居に、盂蘭盆の灯籠を掛けてより五遍になる。今年の秋は久し振で、亡き母の精霊を、東京の苧殻で迎える事と、長袖の右左に開くなかから、白い手を尋常に重ねている。物の憐れは小さき人の肩にあつまる。乗し掛る怒は、撫で下す絹しなやかに情の裾に滑り込む。(p86)

 憐れな小夜子は奢る藤尾が対比されている。貧しい世界に住む小夜子は、その貧しい世界に住む人間としては肯定されていない。奢る藤尾と対立し、貧しい世界から救い出されるべき人間として同情されている。漱石の同情は、貧しい生活を否定し、その世界から小野の世界に引き上げることである。小夜子は貧しい世界を抜け出して、小野の世界に入ることを夢見る女として同情に値する。憐れな小夜子は、甲野の手に余る藤尾と対決しなければならない。
 漱石はつづまやかに暮らす親一人子一人の生活から小夜子を救い出そうとしている。しかし、このようにつづまやかに暮らす小夜子を、藤尾と対決させ、小野の世界に引き上げることが、小夜子を救うことであろうか。小夜子はつづまやかに暮らし、つづまやかに暮らす人間としての精神を形成してきた。藤尾は裕福な世界で精神を形成し、小野さんは多くの経験を経てその世界に近づいている。なんらの経験もなく、訓練もなく、競争にさらされたことのないままに、競争によって厳しく分離された世界と直接対立させるのは無理な想定である。つづまやかに暮らしてきた小夜子にとって藤尾との対立は苦痛であろうし、そんな欲望を持たないであろう。しかし、漱石は、甲野が反吐を吐くことである、という藤尾との対立の世界で藤尾と小夜子を対立させようとしている。小夜子を藤尾と対立させることは小夜子に反吐を吐かせることである。
 甲野は、藤尾や母親との対立に疲れて京都に遊び、自由になり、藤尾との直接的な対立を回避する哲学を得ている。しかし、漱石は、甲野の哲学をまだ具体化できず、小夜子を媒介にして、小夜子を救うという形式をとって、藤尾と対立するために四人を汽車に乗せている。
 甲野と藤尾の対立は反吐を吐くことであり、不毛な闘いである。だから漱石は、小夜子の助けを必要としている。漱石は、甲野にとって不毛になった藤尾との対立が、小夜子との関係では意義を持つことができると考えている。それは第一に、小夜子の貧しい生活には救いがない、と考えているからであり、第二に、そうした小夜子の絶望的な生活と、財産に執着する排他的な藤尾の我が、直接的な対立関係にあると考えるからである。漱石には、この二人を分離する資本主義的な多くの媒介項が見えない。明治の社会が小夜子と藤尾の性格的な対立に見えている。
 漱石も甲野も、藤尾の性格を変えることはできないと考えており、したがって藤尾の性格は対立するに値しないと考えており、藤尾との個的な対立の意義は否定されている。こうした批判意識の発展として、藤尾の性格は、小夜子を破滅させる、という社会的な関係において捕らえられ、藤尾に対する批判の社会的な意義が与えられている。甲野と藤尾の対立は直接的な対立を回避して小夜子を経由しており、藤尾との対立の視点が、下層の世界の肯定に広がっている。藤尾と小夜子はこの作品では、直接的で個別的な対立関係において、性格的に捕らえられており、小夜子の世界は藤尾と甲野の対立の世界から独立していない。しかし、小夜子の世界の肯定は漱石の批判的視点として重要な意義をもっている。『三四郎』で汽車に乗り合わせた女はそうした視点を表現するものとして意識して描かれており、甲野の世界から小夜子の世界が分離されると同時に甲野の世界から藤尾が美禰子として分離される。
 
 甲野は、藤尾との個別的な対立を解消し、自分の立場からの否定ではなく、小夜子の立場によって批判に認識ししようとしている。実際にここに母親と藤尾の謎を解く鍵があり、甲野が藤尾との不毛な闘いから自由になる契機がある。漱石は小夜子を救うことに関心を持ち、小夜子の運命に関心を持つことによって、藤尾に対する性格的な個別的な批判意識から自由になりつつある。小夜子を肯定する視点から小野や藤尾を認識する批判意識は、すでに甲野の立場の否定を含んでおり、漱石の批判的な現実認識が合法則的な発展を示している。
 漱石はこの時点では、小夜子を救うことが目的であり、小夜子を救うことができ、小夜子を救うために藤尾を批判していると思っており、藤尾に対する無意義な批判を超えるために、小夜子の立場を必要としており、甲野の立場が小夜子の立場の扶けを必要としているとは思っていない。しかし、この逆転は『虞美人草』の発展的な矛盾としてはっきり示されている。『三四郎』では、立場の力関係は逆転しており、エリートである三四郎は、乗り合わせた女に、度胸がなく臆病だと指摘されている。漱石の批判意識は、甲野の立場による藤尾に対する批判から、小夜子の立場による藤尾の批判へと深化し、さらに小夜子の立場による甲野の精神の批判に到達する。漱石の批判的認識は小夜子の世界の肯定的認識には届かないが甲野の世界を批判する基本的な視点になり、その視点が具体化することで小夜子の世界の肯定的な認識が得られる。『虞美人草』では、小夜子の運命に対する関心は漱石・甲野の転倒した意識である。甲野・宗近が小夜子の運命の鍵を握っていると思われているが、実際は、小夜子が甲野・宗近の運命を規定しており、甲野・宗近は小夜子の独立性に依存している。この作品でも、実際は甲野・宗近が藤尾と対立するには、小夜子を必要としている。しかし、小夜子の現実的な力がまだ形成されておらず、漱石は発見できないし予測もできないために、甲野・宗近は小夜子の利益を肩代わりする形式で、つまり自分の価値観を小夜子に押しつける形式で藤尾と対立せざるを得ななった。しかし、たとえ小夜子を媒介にしても、藤尾との直接的な対立は意義を持たない。だから、漱石は藤尾との対立と小夜子との一致の両方を自分の精神世界から切り離し、自分自身の世界を限定する。それが『三四郎』に描かれている自由である。

 小夜子は情が深い。小野は小夜子の愛情の深さも美しさも理解できない。漱石はこの小夜子と小野を結びつけることが二人を救うことだと考えている。しかし、それはこの世界で孤立している甲野の批判意識と対立している。それは、甲野の世界内部での解決だからである。漱石は甲野に母親や藤尾との対立の世界を抜け出す意志を描写しながら、この世界に、この世界の外で形成された小夜子の精神を取り込もうとしている。小夜子が持つ人間関係とそれを反映した精神は甲野の世界にはない。小夜子の精神は貧しい生活の中で生まれたのであるから、その精神は、小夜子の世界内部で発展しなければならない。
 貧しい生活を経験している漱石は、小夜子のような愛情深い性格を経験的に知っている。しかし、漱石の意識は、藤尾の世界に批判意識の形式で縛られている。この世界の精神から自由になり、小夜子の精神の社会的な意味を知ることはまだ遠い先の課題であり、この時の漱石には予想もできないほど多くの媒介項を知らなければならない。そして、それを知るためには、小夜子の精神を肯定し、その精神を救おうとする強い意志がなければならない。その方法を追求する成果として、小夜子は哀れではなく、小野の世界に引き上げることが小夜子を救うことではなく、小夜子の精神によって甲野が救われる関係にあることを理解できる。
 漱石は小夜子に同情しており小夜子を独立的な人格として描写していない。小夜子は小夜子の世界において肯定されているのではなく、小夜子の世界を否定し、小野の世界に入ることによって肯定されており、したがって小夜子の世界が否定されて小野の世界が肯定されている。小野の世界が肯定されているために、小夜子にとって小野の世界があこがれの世界であ。漱石はまだ甲野と宗近の世界が小夜子の世界に対して優位にあると考えている。それは藤尾の立場と個性を肯定し、小夜子の立場と個性を否定することであり、そのように描かれている。漱石は小夜子を肯定できないために小夜子に同情し、藤尾を否定できないために藤尾を嫌い、非難している。
 
 「野分」の道也は社会全体と対立し、社会全体を批判していた。『虞美人草』では、批判意識は藤尾と小夜子を対立的に捕らえており、その対立するふたつの世界が甲野・宗近の精神と分離し対立している。漱石の現実認識は、藤尾と小夜子の対立を生み出し、その対立と甲野の傍観的な精神が孤立的に対立することで道也の主体性を否定しており、そのことによって、自分の批判意識が小夜子にも藤尾にも届かないこと、対立する力を持たないことを認識する可能性を得ている。社会全体に対する抽象的な批判意識から、藤尾と小夜子の対立から分離したエリート世界の孤立を認識対象にしている。甲野の批判意識の限界は、小夜子と藤尾の対立の想定が含む矛盾によって明らかになる。漱石が自分のエリート世界に対する具体的な批判意識を得るために、地位と金を放棄する道也の運命の肯定がいかに重要な意義をもっていたかがわかる。道也の社会全体に対する変革的で実践的な意志が生み出す矛盾が現実の具体的認識を生み出している。この作品では、まだインテリ的な批判意識を肯定する立場から小夜子と藤尾が否定されているが、小夜子と藤尾の精神と分離された甲野の精神は、漱石のインテリ的な精神に対する批判的精神の具体化である。漱石は甲野の批判意識の実現として小夜子と藤尾の対立を描いているが、小夜子と藤尾の対立は甲野の精神から分離独立しており、甲野の批判意識が届かなくなっており、したがって、漱石は甲野の批判意識の限界を捕らえ、それを超えている。
 漱石の批判意識は、甲野と藤尾と小夜子の世界に分解している。これはまだ漱石のエリートインテリの世界内部での分解であると同時にその限界を超えることでもある。漱石にとって、貧しい小夜子の世界そのものを肯定的に描写する樋口一葉の世界は遠い世界である。漱石はそれを理解すると同時に藤尾の世界をも自分の世界から分離し、批判意識を具体化していく。小夜子の世界と藤尾の世界を甲野の世界から分離し、独自の世界として認めることが真の批判的社会認識である。漱石は、『虞美人草』では表面的には小夜子の世界をも藤尾の世界をも否定し、甲野の世界を肯定している。漱石の限界は甲野の精神を肯定していることであり、その限界が小夜子と藤尾の分離によって超えられている。甲野の精神によっては小夜子を肯定することも藤尾を否定することもできず、したがって、小夜子と藤尾との関係によって甲野を肯定できないことが小説の進行と共に明かになる。小夜子と小野と藤尾と甲野を同じ値観の基に統一することが漱石の道徳的な当為であるが、それぞれの精神は分解し、独立しており、そのことによってそれぞれの精神が自由に生き始めている。そして、この自由は、漱石の道徳的な批判意識の内部でのみ形成されており、漱石の道徳的な批判意識が創り出しているものである。
 
 ■ 「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、御笑いなすったじゃありませんか」
 「なるほどあの時分は小野がいたね。御母さんも丈夫だったがな。ああ早く亡くなろうとは思わなかったよ。人間ほど分らんものはない。小野もそれからだいぶ変ったろう。何しろ五年も逢わないんだから……」
 「でも御丈夫だから結構ですわ」
 「そうさ。京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分蒼い顔をしてね、そうして何だか始終おどおどしていたようだが、馴れるとだんだん平気になって……」
 「性質が柔和いんですよ」
 「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う性質の好い男でも、あのまま放って置けばそれぎり、どこへどう這入ってしまうか分らない」
 「本当にね」(p88)

 小野は優しい。しかし、小野は五年で変わった。例え優しい性格は変わらなくても、ただ五年がたったのではなく、五年のうちに銀時計を貰うように変わった。小野が小夜子と同じ貧しい生活をしているなら、五年の歳月は小野と小夜子の関係を本質的に変えることはなかった。しかし、小夜子と小野の間に銀時計が入った。小野が銀時計を持つのではなく、銀時計が小野を持つのである。銀時計のために新しい欲望が形成され、新しい精神が形成される。人間関係のこの分離が明治の現実でありこの現実の発展を押し止めることはできない。
 漱石は、実際はこの分離を前提として、この分離において小夜子を救おうとしており、小夜子を救う観点からこの分解過程を認識している。『虞美人草』では、小夜子を救うことは、この分離において小夜子をエリート世界に引き上げることである。漱石の視野はエリート世界の限界を超えておらず、漱石は小夜子の世界を知らない。この分離の過程で、小夜子の世界でも小野との分離によって歴史的に新しい精神が生まれてくることを漱石は理解できない。この分解が小夜子を新しく生まれ変わらせることを理解できないために、小夜子の過去の精神を肯定し、小野を過去の精神に引き戻そうとしている。しかし、同時に小夜子の精神を過去のものとし、同情の対照としている。しかし、両者の分解は発展し、ますます大量の小夜子を生み出すのであり、それを小野や甲野の世界に引き上げることはできない。小夜子の精神は孤堂との関係ですでに救われており、小夜子と孤堂の世界は独自の人間関係の広がりを持っている。その関係の発展が、したがって小野との分離が小夜子の独立の過程であり、藤尾の世界に引き上げることは小夜子の個性を殺すことである。
 小夜子には厳しい運命が待ち構えている。しかし、それは、藤尾や小野との対立によって犠牲者となるのではない。藤尾や小野との分離過程は資本主義社会における独立的な精神の形成過程である。そして甲野・宗近の精神にとっても、小夜子と藤尾の精神から分離されることが独立の過程であり、その独立において、対立する小夜子と藤尾のいずれと一致するかが問われることになり、また歴史的に相互の関係が形成され認識されるようになる。甲野と宗近は、小夜子と藤尾の対立を支配する力を持つのではなく、甲野と宗近の運命こそ、小夜子と藤尾の対立によって支配され、規定されている。その関係が現実に明かになることによって、『虞美人草』から『三四郎』への精神の飛躍が生じる。

 ■ 「これで何遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
 「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
 「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に懸想して……」
 「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
 「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
 「君とかい」
 「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」★(p92)

 『三四郎』では事件は発展しない。『虞美人草』を書いた漱石にとって、『三四郎』において事件が発展しないことは、非常に深い現実認識である。漱石は、三四郎がエリート世界に入っていく社会的規定によって事件を発展させる力を失うことを理解している。そして、『三四郎』は、度胸がない、と言われる。それは、『三四郎』と乗り合わせた女を分離する漱石の、社会認識上の度胸である。それは、『三四郎』が貧しい女を見捨てるのではなく、貧しい女が『三四郎』を見捨てることでもあり、見捨てられることを漱石が受け入れることだからである。(05.07.09改稿)

 (八)
 
  ■ 「なあに、口だけさ。それだから悪いんだよ。あんな事を云って私達に当付けるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから今日までもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。煮え切らないっちゃありゃしない。彼人の顔を見るたんびに阿母は疳癪が起ってね。……」
 「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
 「なに、通じても、不知を切ってるんだよ」
 「憎らしいわね」
 「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事ができない。……」(p95)

 甲野についての母親と藤尾の認識は明確である。そして、母親と藤尾にとってこそ甲野は謎である。この世界の常識からすると甲野の言動は馬鹿げておりまったく理解できない。この世界の精神を否定している段階にある甲野は、自分の精神と行動を積極的には説明できない。だから、母親と藤尾は対処に困っている。漱石は、甲野が自分の世界でこのように見えることをよく知っている。これは甲野が労苦の果てに到達した精神であり、甲野は藤尾や母親の目を通して自分を見ている。
 甲野は、財産に執着していないが、自分と財産との関係をまだはっきり認識できない。道也の場合は、地位を放棄すること自体が課題であったが、甲野は道也から一歩進んでいる。財産に執着する母親や藤尾と自己をどのように区別するか、一般的に言えば、財産に執着しない観点から現実とどのように関わり認識するか、自分が財産を放棄するだけでなく、困窮しているものをどのように救うべきかが、道也を引き継いだ新たな課題である。財産に執着しないこと自体によって自己を肯定することはできなくなっており、それが主体性と目的の喪失である。
 甲野は、自分が煮え切らない人間であることを最も深刻に認識している。深刻に、というのは、積極的な課題の観点から自分の無為の状態を認識していることである。財産に執着する母親や藤尾の立場は、はっきりしており、財産に執着しない甲野の立場は煮え切らない。財産を放棄する覚悟はできていてもその覚悟の意味がわからない。財産を放棄するというのは当て付けに見える。母親と藤尾の会話は甲野の自己認識を求める甲野自身の言葉でもある。

 ■ この作者は趣なき会話を嫌う。猜疑不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。閑花素琴の春を司どる人の歌めく天が下に住まずして、半滴の気韻だに帯びざる野卑の言語を臚列するとき、毫端に泥を含んで双手に筆を運らしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の急須と、佐倉の切り炭を描くは瞬時の閑を偸んで、一弾指頭に脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球は昔しより廻転する。明暗は昼夜を捨てぬ。嬉しからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者の切なき義務である。茶を品し、炭を写したる筆は再び二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。(p96)
 
 宇治の茶と薩摩の急須を描く風流より、一点の精彩を着せざる毒舌の方が遥かに価値があるし描くのも難しい。母親と藤尾の毒舌は高度の社会認識であり、「浮雲」のお政には及ばない迄も、甲野に対する厳しい批判的認識である。彼女たちの甲野についての認識との対立において甲野の精神は形成されている。この両者への分離が漱石の現実認識の発展である。甲野の精神がいかに高度になりうるかは彼女たちの批判の厳しさにかかっている。だから、宇治の茶より、薩摩の急須より、「鉄砲玉だよ」という母親の毒舌の方が趣がある。しかし、甲野が財産を放棄する意義がはっきりせず、したがって甲野の精神の意義の全体をはっきりさせることができない漱石は、甲野と藤尾の対立が行き詰まった時にこうした趣味的な文章に逃れている。描くべき深刻な課題がそれ自体として差し迫っているわけではなく、漱石は甲野によって、現実社会のあり方を認識する基本的な視点を探っているところである。だから漱石の精神にはこうした趣味的でもったいぶった文章の意義を認める隙間がある。
 
 財産に執着する藤尾の精神は明確である。藤尾は、宗近の所にいくのは「いやですわ」とはっきり言っており、母親も「あんな見込みのない人は、私も好かない」とはっきり言っている。母親・藤尾と甲野・宗近は相互に独立している。財産による全的な自己肯定が藤尾の傲慢の内容である。藤尾は、財産や地位以外の価値観や感情を一切認めない。財産を持たない小夜子は、自己主張の根拠を持たない女性として同情の対象になる。甲野は財産を持ち、その財産を放棄しようとする点で中間的である。
 藤尾は迷うことを知らず、甲野は反省し迷う精神である。漱石は、社会的関係をこうした主観の形式において認識している。しかし、こうした性格的な描写の背後に、その性格と精神が財産との関係における違いであること、さらに小夜子との違いは、エリート社会と下層社会の違いであることが書き込まれている。漱石は、この作品によって、性格と立場の関係を厳しく認識する必要に迫られ、『三四郎』からは、性格と精神を規定する本質としての財産や社会的な地位を二重化して描くようになる。それは道徳的形式による社会認識を克服したことによる現実認識の飛躍である。
 甲野と財産の関係はまだはっきりしない。人間関係が財産と地位に関わる、財産と地位に規定された対立であるという側面はまだ深く認識されておらず、財産に対する執着の違いの対立として認識されている。我の強い女と、反省し迷う我と、大人しい我の性格的な対立が表にあり、この現象の背後に謎の本体としての財産と地位がある。財産と地位と精神の関係は現実には非常に複雑であるが、この作品では、財産に対する執着が対立の本体になっている。「三四郎」ではこの直接的な関係が解きほぐされ、財産や地位と精神の関係は、その後多くの媒介によって分離され、具体的な関係を形成していく。美禰子は、地位と財産に執着する我を表に出さず、隠された精神は謎となって表に出てくる。そして、美禰子の精神の底に何かがあると思い、謎と思うのは、若い田舎者の三四郎だけである。しかし、三四郎にとっての謎も実践的に自然に解けていくことになる。こうした自然な関係の発見は、財産や地位に対する漱石の批判意識二よって初めて可能である。
 甲野は財産を放棄する以外に自分の精神を生かす道はないと思っているが、財産を放棄することにどのような意義があるかがわからない。それは、財産を放棄することの意義についての漱石の疑問である。財産の放棄は主観的な選択であり、財産家らの自由において、財産の喪失ほどに徹底することができない。この主観的な、価値観による選択の形式が解消されるのは『それから』においてである。
 
 宗近家での会話はたわいなく、内容がない。藤尾と母親の会話の緊張もなく、孤堂と小夜子の厳しく優しい精神もない。財産を持ち財産に安住して財産に対する執着を意識しない精神がここに描かれている。甲野の財産を必要とする藤尾と母親は財産に執着しており、宗近家は財産に守られた平穏な生活を楽しんでいる。漱石は、財産に対する執着が表にでていない、財産によって形成されている善良さからも甲野を分離しようとしている。
 
 ■ 甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは一人もない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは眇然として天地の間に懸っている。世界滅却の日をただ一人生き残った心持である。(p104)
 
 母親、藤尾、小野に対する甲野の批判意識は、財産を放棄し、財産を持たない小夜子を救うべきであるという社会認識にまで到達した。それは小夜子の立場の具体的肯定ではないが、小夜子の立場に立つことに甲野の精神を肯定する可能性を見いだしている。この視点を得ることによって、藤尾と同じ世界にすむ宗近親子の気楽で善良な精神に対する批判的認識を得ている。宗近親子は甲野を信頼しており、財産に対する執着もなく二重性もなく、これらすべてにおいて藤尾と対立している。しかし、母親や藤尾に対する甲野の批判意識は本質化することによって、藤尾と宗近の父親の同質性まで到達しており、こうして自分の住むすべての人間関係と精神から分離し、それに対して批判的な認識を得ている。
 母親の嘘を見抜くことは容易である。しかし、その虚偽に対する徹底した批判が、財産との関係の認識に到達することは財産を持つ甲野の世界では非常に困難である。地位と財産を放棄する道也と甲野の覚悟は、母親と藤尾と宗近親子を、財産との関係において批判的に認識している。母親と藤尾の謎を理解することは、彼女たちの個性の特徴を財産に対する執着として理解し、さらには財産に規定された精神として、宗近家の善良さとの同質性を捕らえることである。母親や藤尾の傲慢や虚偽に対する甲野の批判意識は、彼女たちの個性を離れて、その背後の現実の、特に財産の運動に到達し、その現象形態として個性を理解し始めている。甲野の批判意識は藤尾や母親を出発点として、次第に複雑化し、本体としての資本主義社会の運動の中に沈み込んでいる。宗近親子は善良である。しかし、甲野の母親の虚偽を知らず、したがって、母親の虚偽を知る甲野を知ることができない。それは、宗近親子が財産に対する批判意識を持たないからである。
 甲野の批判意識は財産の運動と精神の運動の関係を端緒として捕らえたところである。だから、自分の批判意識についての理解を誰にも求めることができない。そのために、批判意識は自己内の人間不審として蓄積される。これが、社会のすべてと対立し孤立する覚悟をした道也の精神の現実認識の発展形式である。母親や藤尾との分離は宗近親子との分離にまで進み、こうした批判意識の徹底によってのみ、この時点では分離している小夜子の立場の肯定に到達することができる。小夜子の立場は、甲野の世界と対立し、甲野の世界を規定しており、この世界に対する本質的な批判意識は、小夜子の立場の肯定によってのみ可能であり、したがって、甲野の立場に対する本質的な批判は小夜子の立場の肯定と一致している。漱石は多くの媒介項を経て、「明暗」でこの一致に到達した。
 「野分」では道也は社会全体と対立する人格であった。『虞美人草』では甲野と対立する社会は具体化している。甲野と対立する社会は、小夜子を基礎として、藤尾と対立し、この基本的な対立関係の分化として宗近親子と対立している。こうして漱石は個人と社会の一般的な対立関係から出発して、本来の自分の批判対象である甲野の世界を具体的な批判対象として分離抽出している。甲野の孤立は地位と収入を放棄する覚悟による実践的な成果ではなく、現実認識の発展の成果である。甲野の世界では誰も理解できない現実認識に到達しているために甲野は孤立している。財産のある世界で財産の否定を認識の基礎にしているからである。地位や財産や贅沢に対する道徳的な批判意識は、明治社会の誕生と同時に広く生まれており、いつの時代にも見ることができる。しかし、地位と財産に対する道徳的な批判意識は、甲野の批判意識と対立している。甲野の課題は、財産の運動に対する道徳的な批判意識、財産と贅沢に執着する藤尾の個性に対する道徳的な批判意識を超えることである。したがって、『虞美人草』を、財産に対する道徳的な批判を描いた小説であると理解し、あるいは、母親や藤尾を道徳的に懲罰する精神を描いている、と理解することは間違いであり、漱石の批判意識を歪め貶めることである。

 (九)
 
 漱石は、小夜子と藤尾を対立させ、小夜子を藤尾から守るべきだと考えている。しかし、小夜子を救うとは現実的にどんな意味を持つかが問われねばならない。漱石は、貧しい世界を絶望的であると考え、エリート社会に引き上げることが救うことであると考えている。それは小夜子の立場と精神をそれ自身として肯定することではない。しかし、漱石のこの現実認識の限界は、小夜子自身の精神によって認識され超えられている。
 小夜子と小野の関係を引き裂くのが資本主義の法則であり、この法則を押し止めることは出来ない。しかし、この分離が法則であり、現実である、とする場合でも、具体的な認識は立場によってまったく異なる。小夜子を捨てて出世する立場を肯定する鴎外と、出世を拒否し、小夜子を救う立場に立つ漱石では、この分離過程のとらえ方が対立的である。この対立によって漱石と鴎外の二大文豪の作品の系列が生み出されている。
 漱石はこの時点では、この分離過程の中で小夜子を救うべきだと考え、小夜子を救うことを、小野の義務だと考えている。この意味で分離的法則に抵抗している。この法則は現実として受け入れなければならない。しかし、小夜子を救うべきだという当為は、このこの分離過程を肯定的に認識するためになくてはならない契機である。漱石が小夜子に同情し小夜子の立場の肯定に到達できないのは、現実認識の限界であり、漱石は藤尾を否定し小夜子を肯定する目的を捨てることはない。その方法が非現実的であるのは、現実認識の限界のためであり、この限界はその方法が含む矛盾によって超えられる。鴎外に見られる下層の人間に対する同情は、下層に対するはっきりした否定的感情であり、自分の世界に対する批判的な意識を全く含んでいない。出世と地位と財産を肯定し、貧しい小夜子を否定することが同情の内容である。
 鴎外の豊太郎は冷酷であり愛情を持たない。良心の内容は出世に対する臆病で用心深い計算である。地位と財産に執着する豊太郎や藤尾に対して、エリスや小夜子に同情すべきである、という当為をたてることはできない。豊太郎や藤尾が同情心を持つことはないし、エリスや小夜子にとって同情はなんの訳にもたたないからである。エリスと一致する心情を何一つ持たない鴎外の「舞姫」には、エリスが同情を必要としていないことは描かれない。しかし、小夜子に対する同情を当為として真剣に、つまり小夜子を肯定するために掲げている『虞美人草』には、同時に小夜子が同情を必要としていないこと、小夜子には独自の人生があることが具体的に描かれている。こうした描写には、小夜子は救われる対照ではなく、独立した、藤尾や甲野と対立する精神の側面が現れている。
 
 ■ 新橋へは迎に来てくれた。車を傭って宿へ案内してくれた。のみならず、忙がしいうちを無理に算段して、蝸牛親子して寝る庵を借りてくれた。小野さんは昔の通り親切である。父も左様に云う。自分もそう思う。しかし寄りつけない。(p109)

 漱石はこの(九)で、小野と小夜子のそれぞれの分離的な精神を描いている。小夜子のこうした心理を漱石は『野分』の高柳に描いた。高柳は自分の零落を意識することによって、中野の世話になることが負担になっていた。その心理がここで小夜子にも十分描かれている。中野の親友であり、エリートでもあった高柳にとってさえ、零落を受け入れることの方が中野の世界で同情を受けるより耐えやすかった。まして、貧しく育ち、その貧しい世界で父親や小野との人間関係に慣れてきた小夜子にとって、銀時計の小野の世界に入ることは中野より遥かに苦痛であろう。そして、漱石はそれを苦痛と感じる小夜子だからこそ同情している。貧しい生活の中から結婚によって小野の世界に入ろうとする野心的な女性に同情することはあり得ない。だから、求めないからこそ与えようとする矛盾を含んでいる。
 
 ■ 「当てて見ろ。ハハハハ阿父には分らないよ。琴を聴くと京都の事を思い出すね。京都は静でいい。阿父のような時代後れの人間は東京のような烈しい所には向かない。東京はまあ小野だの、御前だののような若い人が住まう所だね」
 時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざわざ埃だらけの東京へ引き越したようなものである。
 「じゃ京都へ帰りましょうか」と心細い顔に笑を浮べて見せる。老人は世に疎いわれを憐れむ孝心と受取った。
 「アハハハハ本当に帰ろうかね」
 「本当に帰ってもようござんすわ」
 「なぜ」
 「なぜでも」
 「だって来たばかりじゃないか」
 「来たばかりでも構いませんわ」(p甲野5)
 
 漱石は、全体として小夜子のこうした意識をごく自然に描いている。これが現実的であり、この小夜子を藤尾と対立させるのは道義の無理な都合である。甲野は母親や藤尾との生活に救いはない、と思っており、宗近親子さえ自分を理解することはできないと思っている。財産を放棄しようと思っている甲野を理解する可能性が甲野の世界にはないからである。しかし、唯一小夜子はこの(九)に描かれた心情において、財産と地位を持たない生活と精神を理解することができる。したがって甲野の精神の救いは、孤堂や小夜子との一致にかかっているのであって、甲野の絶望的な精神は小夜子の精神に救いを求める以外にない。だから、甲野の批判精神の立場に立てば、小夜子を小野と結びつけることが小夜子と甲野の救うことになるのではない。甲野が財産を放棄し、小夜子の世界と精神に救いを求めることが、小野と小夜子を引き裂く法則のもとにおける現実的解決である。しかし、漱石がそうした関係として現実を認識するためには、ここから多くの媒介項を蓄積しなければならない。
 客観的に見れば、小野は上昇することで小夜子から遠ざかっており、甲野は財産を放棄する意志において小夜子に近づいている。だから、個別的実践的な解決としては、ゴーヂアン・ノットについて議論するまでもなく、甲野が小夜子を小野から奪えば済むことである。しかし、こうした関係にありながら甲野にはそうした意識は生まれないし、欲望も生まれず、現実認識も生まれない。そうした意識を生み出す基盤が日本の社会には形成されていない。これが『三四郎』で指摘される度胸のなさである。


(十)

 ■ 謎の女は宗近家へ乗り込んで来る。謎の女のいる所には波が山となり炭団が水晶と光る。禅家では柳は緑花は紅と云う。あるいは雀はちゅちゅで烏はかあかあとも云う。謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。謎の女が生れてから、世界が急にごたくさになった。謎の女は近づく人を鍋の中へ入れて、方寸の杉箸に交ぜ繰り返す。芋をもって自からおるものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。謎の女は金剛石のようなものである。いやに光る。そしてその光りの出所が分らぬ。右から見ると左に光る。左から見ると右に光る。雑多な光を雑多な面から反射して得意である。神楽の面には二十通りほどある。神楽の面を発明したものは謎の女である。――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。(p118)

 これは、『猫』の鼻子にそっくりである。漱石にとって謎の女のこうした側面はすでに認識済みであり解決済みである。だから、うまく書いており面白いが漱石としてはすでに古い歌である。
 『猫』との違いは、宗近の父親と甲野の母親が、同じ世界に住む同等の人間として描かれていることである。甲野はこの対立の外にいて、この対立の全体を批判的に眺めている。甲野は母親と藤尾が嘘つきであることを批判し、嘘つきでない宗近親子を肯定しているのではない。母親の虚偽に対する個別的な批判を超えるとき、宗近の父親の善良さに対する全的な肯定も超えられる。甲野はこの二人の対立の外にあり、この二人の対立は同等である。お互いにこの世界の全体に対して無批判的で常識的である。宗近の父親の方が善良であり、藤尾の母親は虚偽に満ちているが、現実認識に本質的な違いがあるわけではない。甲野の批判意識にとってはこうした会話のすべてに真実がなく、虚偽に満ちている。戦争でありながら太平の世の中であり、甲野はこの世界に住めなくなっている。(05.07.10改稿)


  HOME  漱石  (一〜五)  (十一〜十五)