『虞美人草』ノート (十一) (十二) (十三) ( 十四) (十五)

(十一)

 博覧会を文明だとかイルミネーションの華やかさによって批判するのは表面的で平凡である。しかし、人物の描写は漱石の視野の広さを示している。甲野、宗近、藤尾、糸子はこの雑踏の中でゆうゆうとして楽しんでいる。しかし、小夜子と孤堂は、雑踏を恐ろしいと思い、心細くなっている。小野さんは、銀時計をもらった者としてはこの雑踏の中で得意を感じ、小夜子と孤堂を連れていることでは「肩身が狭い」と感じている。それが非常にうまく書けている。
 
 ■ 「驚ろくうちは楽がある。女は仕合せなものだ」と再び人込へ出た時、何を思ったか甲野さんは復前言を繰り返した。
 驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ! 家へ帰って寝床へ這入るまで藤尾の耳にこの二句が嘲の鈴のごとく鳴った。★(p148)
 
 甲野は藤尾と対立している。漱石は、『猫』でも鼻子との対立を馬鹿馬鹿しいものとしていた。だから、『野分』の道也の覚悟を経由して再び藤尾と対立するのは無理がある。漱石は小夜子を救う当為によって、すでに不毛と見ている藤尾との対立に意義を見いだそうとしている。しかし、藤尾との対立に小夜子との関係を持ち込むことは無意味な対立に不自然を持ち込むことである。藤尾との対立の具体的描写によって、この不自然さが表に出てくる。
 甲野の批判的現実認識は、宗近の父親に対する批判的認識によって頂点に達している。その後での『猫』に似た、謎の女と宗近の父親の対立や、文明に対する表面的な批判は、内容の停滞であり、藤尾との対立は内容の後退である。漱石の現実認識の発展の契機としては小夜子との関係が重要であるが、その意義をすでに漱石は理解したに違いない。あとはそれを具体的に展開し、徹底してその不自然な想定を味わうだけである。だから、漱石としてはこうした追究は面白くないであろう。
 漱石は六月の初めに『虞美人草』を書き始めて、七月十六日の高浜虚子宛の手紙で、「虞美人草はいやになつた。早く女を殺して仕舞たい。熱くてうるさくつて馬鹿気てゐる。是インスピレーシヨンの言なり。」と書いている。この手紙が作品のどの部分にあたるのか分からないが、いづれにしても漱石がこの作品を描くのが嫌になるのは避けられない。それは藤尾と無意味な対立しなければならない想定になっているからである。

 (十二)
 
 詩人である小野は余裕を必要とし、金と地位と名誉を求めている。だから、中以上の恒産があると聞く藤尾と結婚したい。しかし、それには藤尾の同意を得なければならないし、甲野が財産を放棄するのを待たねばならない。小野は努力によって銀時計を貰ったものの、財産を持たない点では、藤尾や甲野との関係では弱い立場にある。小野は自分の立場を強化するために、金時計と藤尾の財産を求めている。貧しい生活から抜け出すための努力のすべてをかけて金時計と藤尾の財産を求めている。この努力と欲望が小夜子に対する愛情を失わせた。小夜子は小野のこの欲望を破壊するほどの力を持たない。小野が小夜子を選ぶ必然はどこにもない。それを漱石は理解している。
 小夜子と小野の描写は、『それから』の代助と三千代を思わせるものがある。そして、『虞美人草』のこうした描写と『それから』に描かれた内容の逆転には、漱石らしい深い現実感覚があり、日露戦争がもたらした現実の歴史的発展がある。
 小夜子は美しい。しかし、小野にはその美しさは分からない。金時計と財産を必要とする小野には藤尾が美しく見える。金時計と藤尾の財産が小野の欲望を規定している。だから、小野を小夜子につなぎ止めるものは道徳的な意志だけである。しかし、小野の世界には、こうした道徳的な意志を生み出す根拠がどこにもない。小夜子を救うべきだという道徳的な意志は、小野の世界の内部矛盾によって生み出されるのであって、過去との関係によって生み出されるのではない。過去の人間関係を重視する価値観はこの世界で新しく生み出されるときにのみ力を持つのであって、過去の関係が維持されるのではない。この世界の内部矛盾を発見することができない場合、過去の人間関係がそのまま表に出てくる。しかし、それは不自然である。
 過去の人間関係は現在の小野の人間関係の優位に立つことはない。貧しい世界での人間関係を重視するのは、金時計を求める小野の世界での深刻な矛盾の展開としてのみ表に出ることができる。その条件が無い場合は、過去は小野の世界に対して無力であり見すぼらしい。漱石は、小野を批判しながら、また批判する観点から、小野が小夜子の美しさを理解することができず、小夜子に対して愛情を持つことができないことをはっきり意識して描いている。こうした現実認識にもとづいて、小夜子との関係を取り戻すことが道徳的当為として掲げられている。小夜子を救うという道徳的な意志は、小野の立場における必然として生まれなければならないが、漱石は小野の中に小夜子を選択すべきであるという道徳的な意志を生み出すことができない。漱石にとっても小野と小夜子の分離が現実的である。
 
 ■ 小夜子はまた口籠る。東京が好いか悪いかは、目の前に、西洋の臭のする煙草を燻らしている青年の心掛一つできまる問題である。船頭が客人に、あなたは船が好きですかと聞いた時、好きも嫌も御前の舵の取りよう一つさと答えなければならない場合がある。責任のある船頭にこんな質問を掛けられるほど腹の立つ事はないように、自分の好悪を支配する人間から、素知らぬ顔ですきかきらいかを尋ねられるのは恨めしい。小夜子はまた口籠る。小野さんはなぜこう豁達せぬのかと思う。(p154)

 漱石は、小夜子に対する小野の優位を描いている。小夜子の運命は小野の意志にかかっており、だから小野は小夜子を救うべきである、と考えている。小夜子は救われるべき立場に沈んでおり、小野は救うことのできる立場にいる、と考えている。つまり、小野は内部的な矛盾を持たないのであり、したがって小夜子を必要としていない。金時計と藤尾の財産を求める欲望が強くなるばかりの状況にある。漱石は、小夜子を救うことを道徳的な当為としているにしても、小野の内部に同じ道徳的な意志を生み出すことがどうしてもできない。それは立場の認識が逆転しているからである。
 『それから』になると、この力関係が変わってくる。漱石は余裕のある代助の立場こそが本質的な危機を孕んでいること、三千代が厳しい状況にあるからこそ覚悟を決めることができること、そうした関係において、代助が自分の危機の救いを三千代に見いだす必然を発見している。それが代助の三千代に対する愛情の客観的な内容である。『虞美人草』では小野の危機はまだ発見されず、小夜子の精神の独立性、自律性も発見されていない。だから、小野に道徳的な、良心における危機を想定している。しかし、漱石の現実的な感覚は、どうしても道徳的な意識による運命の規定を必然として描写することを許さない。
 漱石はこのあと、藤尾との関係に危機が潜んでいることを描こうとしている。藤尾が小野を支配し小野が従属する関係を描くことによって、藤尾との関係ではなく小夜子との関係を選ぶことの現実性を描こうとしている。しかし、我の強い藤尾と優しく情の深い小夜子の対比では、金時計と財産の支配力を覆すことはできない。金時計と財産を求める小野は、藤尾を美しいと思うのであって、金時計と財産を求め、あるいは得た小野の立場が客観的な状況が危機を含み、小夜子との関係に利益を見いだすことができるときにのみ、小夜子に対する愛情を生み出すことができる。漱石がどれほど藤尾の個性の弱点を描き出しても、それは小野が藤尾の財産の世界を拒否する力にはならない。道也も甲野も、藤尾の我の強さに対する嫌悪から地位と財産の放棄を決意するわけではない。藤尾の我のあり方は第二義的な現象であり、そのために甲野は闘うに値しないと思っているのであるから、小野もまた藤尾の我の強さをその財産との関係で第二義的と思うか、あるいは、その我を魅力的だと思うのが現実的である。
 
 ■ 愛の対象は玩具である。神聖なる玩具である。普通の玩具は弄ばるるだけが能である。愛の玩具は互に弄ぶをもって原則とする。藤尾は男を弄ぶ。一毫も男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成立つものは原則を外れた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風の吹き回しで、旨い潮の満干で、はたりと天地の前に行き逢った時、この変則の愛は成就する。(p156)

 藤尾の世界には愛はない。男を弄ぶことが愛である。しかし、もし愛のない、男を支配し弄ぶ藤尾を誰もが嫌うなら、弄ばれることを誰も望まないなら、弄ばれるなら財産もいらないと考えるなら、藤尾の個性は存在しないであろう。藤尾の世界はこのような人間関係と精神を生み出し、小野はそれに応じた欲望と精神を形成する。日本で形成された財産の歴史的な運動が、小野を支配しており、藤尾の財産が男を支配する力を与えている。藤尾の精神を批判的に見るのは漱石の眼であり、小野にはそのように見えないし、漱石は小野に自分の精神を押しつけることができない。小野は財産と地位に合わせて、したがって藤尾に合わせて自分の精神を形成する。そうした現実を漱石は知っており、そのように描いている。しかし、漱石は、そうであってはならない、と考えている。それは漱石の間違いである。漱石の当為ではなく、現実の方が正しい。そして、漱石がそうであってはならない、と考えるのは、現実をそであってはならないように認識しているからであって、現実は実際は漱石がそうであってはならないようにはできていない。だから、現実に対する道徳的な当為の崩壊は、その当為を生み出す現実認識の崩壊として捕らえられ、新しい現実認識を生み出すとき、生きた精神の運動となる。
 漱石は、地の文では、藤尾を露骨に非難がましく描いているが、描写としては、我の強い女としてのうまく描いている。小野が小夜子といるところを見たために生じた藤尾の自尊心は、自分の危機を切り抜けようとする強い自我として描かれており、そのため生きた個性になっている。
 
 ■ 小野はどうしても詫らせなければならぬ。つらく当って詫らせなければならぬ。同時に兄と宗近も詫らせなければならぬ。小野は全然わがもので、調戯面にあてつけた二人の悪戯は何の役にも立たなかった、見ろこの通りと親しいところを見せつけて、鼻をあかして詫らせなければならぬ。――藤尾は矛盾した両面を我の一字で貫こうと、洗髪の後に顔を埋めて考えている。(p159)

 漱石はこうした個性をうまく描いている。この個性と闘う意志において、その運命と個性を必然に従って描いている。この藤尾と闘うことはできない。甲野が藤尾との対立を反吐を吐くことだとして回避していたにも関わらず、漱石は小夜子との関係による偶然のために藤尾と対立している。しかし、こうした自我が勝つのが藤尾の世界の現実であり、藤尾の個性がこの世界を代表しているからこそ、それに対する批判が、対立を無意味とし、この世界からの逃避の意志を生み出している。藤尾が負ける条件をこの世界はまだ生み出していない。漱石は自分の住む世界を、藤尾の我が勝つ世界だと認識している。藤尾の自我と対立しうる自我を生み出すのは小夜子の世界だけであるが、漱石は藤尾と対立しうる小夜子の自我の現実的なありかたをまだ知らず、藤尾の自我の崩壊の現実的必然をも知らない。だから漱石は藤尾と道徳的に闘っている。しかも、漱石は、藤尾にかかわることの無意味を理解してながら、あえて闘っている。藤尾と闘うのは勝つ見込みがないだけでなく、面白くない闘いである。しかし、面白くない現実と批判的に冷静に向き合うためには、この面白くない闘いを一度は経験しなければならない。
 漱石は甲野と、苛立って小野を待っている藤尾を対立させている。これはできのいい工夫ではない。藤尾が偶然的な危機を迎えているとき甲野が余裕を示すのは余計である。それは甲野の精神の優位を示すものではない。だからこんな描き方は漱石としても面白くないであろう。こうした対立でたとえ甲野が、余裕のある投げやりな態度をとるにしても、やはり藤尾の偶然的な危機に対する甲野の偶然的な優位を示すだけであり、甲野の批判的な精神を価値を貶め、俗に流れるからである。この対立では藤尾の優位が明かになる。
 
 ■ 「兄さんのように学者になると驚きたくっても、驚ろけないから楽がないでしょう」
 「楽?」と聞いた。楽の意味が分ってるのかと云わぬばかりの挨拶と藤尾は思う。兄はやがて云う。
 「楽はそうないさ。その代り安心だ」
 「なぜ」
 「楽のないものは自殺する気遣がない」
 藤尾には兄の云う事がまるで分らない。蒼い顔は依然として見下している。なぜと聞くのは不見識だから黙っている。
 「御前のように楽の多いものは危ないよ」(p162)

 甲野は見識をもって藤尾に対処している。しかし、見識があるから余裕を持っているのではなく、藤尾が小野と小夜子を見たために不利な状況にいるからである。そういう状況の中でも、藤尾は甲野に楽しみがないでしょうと反論している。漱石らしいあまりにも深い見識が藤尾に与えられている。甲野には自分に楽しみがないことの深刻さはまだ分からない。甲野は、藤尾のほうが危ないと言っているが、この危ないという言葉の意味も甲野にも漱石にもまだ分からない。道徳的な危機が訪れると予測し期待しているだけである。道徳的な意識を持たない藤尾には道徳的な危機はあり得ず、道徳的意識の危機が訪れるのは甲野の方であることをまだ漱石は知らない。漱石は藤尾の欲望が何かによってくじかれるべきであると思っているのであり、その欲望の必然性の認識を課題にしていない。だから、甲野と藤尾は対立している。こうした対立はお互いを支えあうものであり、この対立が解けて、それぞれが独自の必然に従うとき、危機も解決も、その内部において生じる。この対立においてはそれぞれの運命が見えないし対立の真相も見えない。表面的に対立するだけである。
 甲野は藤尾を批判しながらも可能な限り藤尾との対立を回避しようとしている。藤尾の意識を自由に放任し、ただ忠告している。しかし、忠告には内容がない。必然の認識がないために、道義的な教訓になる。藤尾の必然を認識することは、忠告の無意味を認識することである。甲野は藤尾の必然を認識していないために、藤尾の個性と欲望を自分の主観によって否定する意志を払拭できない。藤尾の欲望の充足自身が精神の危機であるという側面をまだ認識していない。そしてより本質的には、それに対抗する別の積極性が歴史的に現実に生まれている事を認識できないことであり、さらにはそれが発見できるほどには歴史的に形成されていないことである。

 ■ 小野さんは申分のない聟である。ただ財産のないのが欠点である。しかし聟の財産で世話になるのは、いかに気に入った男でも幅が利かぬ。無一物の某を入れて、おとなしく嫁姑を大事にさせるのが、藤尾の都合にもなる、自分のためでもある。一つ困る事はその財産である。夫が外国で死んだ四ヵ月後の今日は当然欽吾の所有に帰してしまった。魂胆はここから始まる。(p166)

 漱石は、甲野の母親の置かれた状況を分かりやすく書いており、状況と心理の関係をうまく描いている。母親の心理は複雑ではないし、分かりにくくもない。置かれた状況に応じた自然な心理をもっている。甲野の財産が自分のものになるかどうかはっきりしないことが悩みの種である。甲野は財産を譲るといっているが、本当かどうかは分からない。「魂胆はここから始まる」といった批判的な注釈が余計なくらいに、藤尾と母親の魂胆はごく自然な心理として描かれている。
 甲野の財産の行方がはっきりしないことがすべてのうやむやの原因である。甲野と財産の関係がすべての人間関係と精神をややこしくしている。甲野が自分の意思をはっきりさせればこうしたごたごたは解消される。しかしはっきりしない。道義的な意識を持ちながらその道義的な意識が実践的な目的を失っており、道義自身が意義を失おうとしているからである。甲野が道義的な意識の内部にいるならば、財産の力を背景に、藤尾と母親の虚偽と二重性を批判することが解決である。しかし、甲野はそれが解決になると思っていない。必然は見えていないが道徳的な批判をしても無駄であることは分かっている。この世界で財産の力を背景に道義を実現することは無意味である。しかし、財産を放棄することにどんな意義があるかはわからない。甲野のこの苦悩が謎を作り出している。母親の謎を作り出しているのは甲野であり、さらに、甲野の財産である。
 道也の覚悟は非常に単純に見えるが、地位と収入を放棄する実践的な覚悟は、道也が予想することのできない複雑な現実的意味をもっており、その内的矛盾が徐々に展開してくる。漱石にとって、現実も現実に対する批判意識の意味もはっきりしなくなっている。小野ははっきりせず小夜子もはっきりせず甲野もはっきりしない。これは道也からの業法則的な一歩前進である。『野分』の道也は、人格的な自己肯定に確信を持っており、自分の不安定で中間的な立場を反映した具体的な意識をもつに至らなかった。『虞美人草』では、道徳的な意識と葛藤は、その不安定な、中間的な立場の反映として、その立場との関係によって正確に描かれており、道徳的意識の客観性が暴かれている。この点は鴎外の『舞姫』と対立的である。鴎外の『舞姫』には道徳的意識の葛藤はない。出世の妨げになるスキャンダルをいかに粉飾するかが課題である。漱石の場合は、漱石にも理解できない精神の必然がつぎつきに生まれてくる。しかし、『舞姫』はすべて鴎外の意識の中にあり、計算されて描写されている。そして、その計算し尽くした作品が何を表現しているかを自分で理解することはできない。漱石は、内的必然にもとづいて深刻な矛盾を生み出し、それを意識化する能力を持っている。道徳的な深刻な葛藤によって道徳的な意識を合法則的に超えていくのが漱石の現実認識の深化である。鴎外は道徳的な葛藤の中に入ることはなく、現実認識は道徳的葛藤以前の段階にあり、それを超えた現実性に到達することはなかった。
 
 ■ ただの女と云い切れば済まぬ事もない。その代り、人も嫌い自分も好かぬ嘘となる。嘘は河豚汁である。その場限りで祟がなければこれほど旨いものはない。しかし中毒たが最後苦しい血も吐かねばならぬ。その上嘘は実を手繰寄せる。黙っていれば悟られずに、行き抜ける便もあるに、隠そうとする身繕、名繕、さては素性繕に、疑の眸の征矢はてっきり的と集りやすい。繕は綻びるを持前とする。綻びた下から醜い正体が、それ見た事かと、現われた時こそ、身のさびは生涯洗われない。――小野さんはこれほどの分別を持った、利害の関係には暗からぬ利巧者である。(p174)
 
 これは小野さんの立場でよく生まれる、生活の知恵として必要な計算である。嘘をつかねばならないが、嘘がばれてはもっと悪い。実際に状況が掴めない。これは道徳の問題ではない。小野の計算が事情から出てきたものであることを漱石は十分に描いている。小野が小夜子を切り捨てる場合に陥る危機はこうしたものである。小野の危機は本質的ではない。都合が悪く体裁も悪いに違いないが、嘘によってでも、嘘がばれても切り抜けることはできる。実は小野と藤尾の世界は、こうした嘘が支配する世界であり、この嘘が危機を引き起こすのではなくこうした嘘で成り立っている世界である。残念ながら漱石はそれが現実であることをよく知っている。だからこそ、道也はすべてを捨ててこの世界から抜け出したのであるし、甲野も抜け出そうとしている。ただ、それが難しく、その法則性がまだ発見できない。

 ■ 春の影は傾く。永き日は、永くとも二人の専有ではない。床に飾ったマジョリカの置時計が絶えざる対話をこの一句にちんと切った。三十分ほどしてから小野さんは門外へ出る。その夜の夢に藤尾は、驚くうちは楽がある! 女は仕合なものだ! と云う嘲の鈴を聴かなかった。(p177)

 藤尾が博覧会で小野と小夜子を見たために、小野にも藤尾にも危機が訪れた。甲野はそこで藤尾に皮肉をいい、忠告をした。小野も藤尾に会ったときに冷や汗をかいた。しかし、それが解決であった。博覧会での偶然の危機は、藤尾が小野に冷や汗をかかせることで解決した。こうして小野も藤尾も危機を克服した。甲野の忠告も役に立たなかったし、効果もなかったことを漱石は書きこんでいる。これが漱石の現実感覚である。(05.07.11改稿)


 (十三)
 
  ■ 「藤尾のような女は今の世に有過ぎて困るんですよ。気をつけないと危ない」
 女は依然として、肉余る瞼を二重に、愛嬌の露を大きな眸の上に滴しているのみである。危ないという気色は影さえ見えぬ。
 「藤尾が一人出ると昨夕のような女を五人殺します」
 鮮かな眸に滴るものはぱっと散った。表情はとっさに変る。と云う言葉はさほどに怖しい。――その他の意味は無論分らぬ。
 「あなたはそれで結構だ。動くと変ります。動いてはいけない」(p184)

 甲野は平穏無事な生活をしている。藤尾からみれば楽しみがない。もっとも積極的な関心は藤尾であるが、それも真剣な関心ではない。小野から出世の野心を取り除くことが道義であり、藤尾の我を矯めることが道義である。小野から出世の野心を取り除けば甲野になる。そして、藤尾の我を矯めれば糸子になる。道義がそんな世界を作り出す力を持つわけではなく、そんな世界が肯定できるものでもない。『野分』の抽象性から分解されているものの、まだ現実認識が非常に狭く抽象的である。甲野と宗近と小野の距離は大きくない。道義は、甲野と宗近と小野と藤尾と母親と糸子と小夜子を一つの世界にまとめようとしている。それらの多様な人間関係と精神は、道義の視点から眺めて連関をつけられている。この道義による枠組が取り外され、人物は自由に解き放されねばならない。野心的な小野と我の藤尾はブルジョア世界に解き放たれ、孤堂と小夜子も下層世界に解き放たれ、道義的な小野と甲野は一体化して、狭い世界の中でさらに深刻な自己分解に身をゆだねなければならない。
 「動いてはいけない」というのは、動くことの出来ない甲野の自己肯定的な意識であり、その意味を甲野はまだ認識できない。野心的な小野や我の藤尾が自由に動きだすとき、動くことができないことの矛盾を深刻に感じとらなければならなくなる。しかし、動く小野や動く藤尾を批判しているかぎり、動くことができない甲野が肯定される。甲野は小野と藤尾に対する批判意識に縛られて、動くことができないことを危機として捕らえることができない。
 甲野は、危機は藤尾にあり、藤尾が社会を悪くしているかのように考えている。しかし、実際はそうではなく危機は甲野にあり、藤尾がこれからますます勢力を拡大していくのが、社会的必然である。甲野はこの世界に対する批判意識を持ち、藤尾や母親と対立することによって、この世界に生まれてくる自分の危機を先取りしている。この世界内部で形成される対立を意識的に生み出して、安定しているかに見える甲野の不安定で未確定な立場と意識を自ら創り出している。それが甲野の能力であり主体性である。藤尾の危機を想定するのは非現実的であることを理解することが、藤尾の危機を期待している自分の現実認識と自己認識を批判的に再認識する契機となる。すでに甲野は藤尾を批判することに積極的な意義を認めていないからこそ、楽しみのない人間である。そして楽しみのない人間であるという自己認識は、深刻な危機を孕んでいる。藤尾や小野に対象化されている危機は、本質的には甲野の危機である。


(十四)

 宗近と小野の会話は平凡で教訓的で退屈である。漱石は宗近を甲野と対比して、思索をすることのない素直な、坊ちゃんタイプの人物として描いている。そして、出世欲を持たない人物として小野より宗近を高く評価している。こうした素朴な精神が小野に対して優位にあるように描くのは漱石の偏見である。宗近の地位は安定しており、その地位に安住している。小野が小夜子と藤尾の関係で迷う時に宗近を羨ましく思い、気後れを感じるのは、小野の地位の一時期な不安定によるものであって、宗近が精神としてすぐれているからではない。宗近は率直で信頼すべき人物ではあっても、小野や藤尾と積極的に対立する能力を持つものではない。そのために甲野を理解できない人物として想定されている。
 小野が孤堂親子との関係で迷うのは漱石の迷いでもある。漱石は、小野の精神を探るために、孤堂親子の貧しい生活に対する同情と、自分の現在の立場についての認識を繰り返し対比している。小野はこの両者の間で迷っている。それが気が弱いところだとされている。つまり小野は学問によって金時計を貰うほどに出世しても、人間関係の矛盾の中で藤尾の財産を積極的に得ようとする意志や欲望を持つほどではない。小野の消極的な性格が、孤堂親子との関係をつなぎ止めている。小野の精神の中で、昔の約束や孤堂親子に対する同情を感じる人情と、金時計と藤尾の美しさとその財産の力に対する欲望が同等に対立している。しかし、こういう消極性は、小夜子を選択する力を持たない。孤堂親子との関係を断ち切るには勇気がいる。気が弱くてはそれはできにくい。しかし、藤尾との関係を断ち切るにはさらに飛躍的に高度の勇気と度胸と能力が必要である。気が弱いことは孤堂親子との関係を断ち切れない理由になる以上に、藤尾との関係を断ち切れない理由になる。
 藤尾の派手な美しさも財産の力もはっきりした社会的な力である。それに対立する力は、それ以上の社会的な力である。それは小夜子に対する愛情であろう。しかし、漱石は、小夜子に対する小野の愛情を描いていない。その必然、その根拠、その精神の力が見いだせないからである。小夜子に対する愛情は、社会的必然の全能力として発現するものであって、個の能力として自然に備わるものではない。藤尾の美しさと財産の社会的な力に対抗しうる愛情を発見するに天才を必要とするのであって、同情や善意によって発見できるものではない。小野の現在の立場にはそれを生み出す根拠がない。金時計も藤尾の財産も愛情を打ち消す力をもつのであって、それに対抗する愛情も社会的な必然において見いだされねばならない。愛情を打ち消す力を漱石はよく知っているが、生み出す力をまだ知らない。だから、小夜子に対する愛情を描けない。小野自身の必然としての愛情を描くことができないにもかかわらず、小夜子が不憫だから結婚する、となると小野と小夜子の個としての感情は失われ、非現実的な関係の描写になり、通俗的になる。

(十五)

 ■ こう云う書斎に這入って、好きな書物を、好きな時に読んで、厭きた時分に、好きな人と好きな話をしたら極楽だろうと思う。博士論文はすぐ書いて見せる。博士論文を書いたあとは後代を驚ろかすような大著述をして見せる。定めて愉快だろう。しかし今のような下宿住居で、隣り近所の乱調子に頭を攪き廻されるようではとうてい駄目である。今のように過去に追窮されて、義理や人情のごたごたに、日夜共心を使っていてはとうてい駄目である。自慢ではないが自分は立派な頭脳を持っている。立派な頭脳を持っているものは、この頭脳を使って世間に貢献するのが天職である。天職を尽すためには、尽し得るだけの条件がいる。こう云う書斎はその条件の一つである。――小野さんはこう云う書斎に這入りたくてたまらない。(p215)

 漱石は小野のこうした欲望をよく知っている。鴎外が「秀麿」シリーズに描いたこの種の優雅で退屈な書斎生活に対する批判意識を持つのは漱石の才能によるものであって、小野の欲望はごく自然である。この欲望を断ち切る力は自然に生まれるものではない。「隣り近所の乱調子」や「義理や人情のごたごた」から解放されて、「後代を驚ろかすような大著述を」するというインテリ的な野心を『野分』の高柳ももっていた。こうした希望を否定するには道也の覚悟が必要であった。金時計を求めている小野に道也の覚悟を求めるのは無理である。小夜子との関係はこうした野心を断ち切る力を持たない。
 小野は時計を貰っていない甲野が価値のある人間には見えない。それは甲野の母親と同じである。そして、甲野の精神が、母親や小野に対してまったく影響力を持たないことを漱石はよく知っている。甲野の精神は、彼らの価値観と対立し、分離することに意義がある。彼らに理解されることが甲野の精神の力ではない。小野が甲野を理解する可能性もない。甲野を理解するというのは、この書斎と財産を放棄する甲野の精神を理解することである。書斎と財産を放棄する甲野の決意は、この世界では変人である。漱石にも財産を放棄することの意義は理解できず、財産を放棄することは甲野の内的な覚悟にすぎない。書斎と財産を放棄する甲野の覚悟の必然が見えていないにも関わらず、小野に書斎と財産を放棄して小夜子を選ぶことを求めるのは無理である。
 甲野は小野を批判することはできる。しかし、小野と違って過去の人間関係である小夜子をも持たない甲野は、自分の成すべきこと、自分のあるべき精神、自分の現在が何であるかを見いだせない。だから、ここでは書物の引用に頼っている。現実に対して無力であり、傍観するしかないために、書物に頼って考えている。漱石も打開策を見いだせないために書物のなかで静かに動揺している。そして、父親の肖像をみて考察することは自己を否定することだけである。そして自己の否定も抽象的であり、なにをどのように否定すべきかもわからない。そのことはよくわかっている。
 甲野には道也の覚悟の形式はないが、覚悟はより徹底している。甲野は、地位や財産に執着すべきではないという覚悟による分離を超えて、自然的分離に近づいている。分離の必然が見えない場合に、選択の意志、覚悟が精神の形式になる。それは未分離における分離の意志である。覚悟は執着と対立する執着である。甲野には執着と覚悟がなく、分離を前提として、どのように離れるか、あるいはどのように離れるだろうかと考える形式をとっている。
 この場合自己否定が道也より徹底される。自分が否定的に見られていることは、自分の肯定を示す手段、内容を持たないことと同時に深刻に意識されている。他人より自分自身が自己を厳しく否定している。これは、母親や藤尾や小野を積極的に批判する立場ではない。甲野は母親や藤尾と分離し、宗近や父親とさえ分離する孤立的な意識を持っている。しかし、彼らとの関係のすべてから分離されていく自分自身の必然は分からない。なぜそうなるのかが甲野の謎である。世間のすべてに対する批判意識を持つ道也から、自己自身を批判する意識に回帰している。そして、その謎を生み出し、甲野を自己に回帰させるものは、引き続いて描かれている母親と藤尾の会話である。甲野はこの世界から抜け出したい。しかし、個人的に抜け出すことが解決ではない。だから、自分を持て余している。母親や藤尾に対する批判意識が強いほど、その批判意識をどう扱っていいか分からなくなる。

 ■ 「話はいつでも出来るよ。話すのが好ければ私が話して上げる。なに相談するがものはない。こう云う風にするつもりだからと云えば、それぎりの事だよ」
 「そりゃ私だって、自分の考がきまった以上は、兄さんがいくら何と云ったって承知しやしませんけれども……」
 「何にも云える人じゃないよ。相談相手に出来るくらいなら、初手からこうしないでもほかにいくらも遣口はあらあね」(p221)

 漱石は藤尾と母親の会話を非常にうまく描いている。藤尾と母親は甲野をまったく信頼しておらず、甲野を見くびっている。実際、こんな人間関係は、この関係を嫌悪し、ここから逃げ出したいと思う人間を作り出すに違いない。しかし、小野はこんな関係を知らないし、こんな関係から逃げ出したいと思うのではなく、この世界に入りたいと思っている。甲野がこのようにはっきりと見くびられ排除されるようになったのは、道也の精神を引き継いでいる甲野の精神の成果である。この世界にも人間関係のさまざまの矛盾がある。甲野はその矛盾を深刻に受け止め、批判的な意識を形成することによって、人間関係上の矛盾を深刻化し、こうしたまったくの相互不信を作り上げている。甲野は自分の批判精神の成果として対立を深刻化し、ついに、財産を放棄してこの世界から抜け出す以外に自分の生きる道はない、という立場に自分を追い込み、財産を放棄することを自然の成り行きであると確信するに至っている。だから、主体性、あるいは責任を問うならば、甲野が母親や藤尾との矛盾を作り出している、というのが正しい。そして、真の主体は、この世界を生み出した明治の歴史的必然であり、それをこの世界でもっとも主体的に、意識的に深刻に反映しているのが甲野である。
 母親も藤尾も小野が婿に入るなら、こんなややこしい関係にならずに済むと思って、甲野をやっかい払いしようと思っている。したがって、内奥では利害が一致しはじめている。母親と藤尾は甲野と妥協の余地なく対立しており、その結果として、甲野自身にこの世界を嫌悪する精神を生み出している。あとは、双方がその精神を発展させ対立を深刻化し、現実的に分離すること、甲野についていえば、財産を放棄することが実践的な解決である。しかし、その実践の現実的な意味の理解としての現実的精神の獲得はまだ遠い課題である。だから甲野は迷っている。
 
 漱石は、甲野と母親との会話で、信頼関係のない、虚偽に満ちた、甲野としては耐えがたい世界をうまく描いている。信頼関係を崩壊させるだけの会話である。相互に説得することはできず、説得する意志さえもたないほどの対立に到達している。すべての言葉がまともには理解されない。価値観がすべて食い違っている。母親と藤尾の間では、曖昧さのないはっきりした会話が成り立っている。しかし、そのはっきりした意志をもって甲野と話すとき、会話はすべて虚偽にみちている。母親には、甲野を騙そうとする意志があるのではない。甲野との関係で、甲野に気をつかい、甲野に合わせて自分の意志を通そうとするときに必然的にこうした、かみ合わない、率直でない、虚偽にみちた会話になる。意志による虚偽ではなく、人間関係における必然的な虚偽であるからこそ妥協できないのであり、変革することもできないのであり、そのために甲野はこの世界にいることができないと感じている。
 しかし、彼らに対する批判意識が残る限り、出て行くことを解決とすることはできない。それは単に敗北であり、対立の回避であり、個人的な逃避にすぎず、彼女たちの欲望を満足させるにすぎないからである。母親や藤尾を自分の世界から追い出すことも解決ではない。母親や藤尾をどうするかはもう問題ではなくなっている。この世界全体を批判的に見ており、したがってこの世界からでていくことが解決であることは分かっているが、この世界から出て行くことの積極的な意義が甲野にも漱石にも分からない。積極的な意義とは、母親や藤尾も含めた社会の全体を変革することである。あるいはその契機となる人間関係を形成することである。漱石はこの世界の外に積極性を見いだすことはできない。そのために、漱石は、甲野がこの世界を出て行くことを自分の自然だと考えていながら、小夜子をこの世界に引き入れようとしている。甲野はこの世界を離れて別の課題を持つことができない。甲野にとって、彼女たちとの関係がすべての人間関係である。それが歴史的な限界である。日露戦争後の日本は、エリートインテリの世界を決定的に堕落させたが、漱石には、それに代わる新しい世界はまだ見えなかった。
 
 ■ 「ああ、そうそう。そんな事が有ったようだね」と母は思い出したごとくに云う。
 「一はまだ当にしているようです」
 「そうかい」と云ったぎり母は澄ましている。
 「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」(p233)

 甲野は妥協を図っているか、あるいは自分の批判意識から宗近を見捨てていることになる。小野と小夜子との関係と同じである。宗近と藤尾の結婚を求めるのなら、宗近を藤尾の世界に追いやり、自分と分離することになる。宗近を受け入れるなら自分との対立も解消するというのなら妥協であり、批判意識の解消である。小野が小夜子と結婚することが問題の解決であれば、財産を放棄するという甲野の覚悟は無意味である。藤尾との関係をどうするか、小夜子との関係をどうするかは、自分の住む世界とどのような関係にあり、どのような関係をつくりだすべきか、という問題であり、甲野はこの問題に応えることができない。これはこの作品全体にたびたび出てくる矛盾である。しかし、それは甲野の意識に生じる矛盾であって゚母親も藤尾もそんな矛盾を単純に踏みにじることができる。それが必然の力であり、甲野に残る小さな矛盾を解決する力である。この力を前提しているからこそ、藤尾と母親のはっきりした否定の意志に頼ってこうした妥協作を提案することができる。
 
 ■ 「財産は――御前私の料簡を間違えて取っておくれだと困るが――母さんの腹の中には財産の事なんかまるでありゃしないよ。そりゃ割って見せたいくらいに奇麗なつもりだがね。そうは見えないか知ら」
 「見えます」と甲野さんが云った。極めて真面目な調子である。母にさえ嘲弄の意味には受取れなかった。
 「ただ年を取って心細いから……たった一人の藤尾をやってしまうと、後が困るんでね」
 「なるほど」
 「でなければ一が好いんだがね。御前とも仲が善し……」
 「母かさん、小野をよく知っていますか」
 「知ってるつもりです。叮嚀で、親切で、学問がよく出来て立派な人じゃないか。――なぜ」
 「そんなら好いです」
 「そう素気なく云わずと、何か考があるなら聞かしておくれな。せっかく相談に来たんだから」(p234)

 こういう会話は全体としてうまく描いている。こうした会話に甲野の必然の一端が現れており、漱石の精神の必然が表に出ている。母親との会話はすべての細目において真面目さがなく、はぐらかされ、虚偽に満ちている。しかし、それがどのように虚偽であるかを明らかにすることはまったく不可能である。また、それを非難しても嘲笑してもますますはぐらかしと虚偽を生みだすばかりである。母親の立場としてこうした対応が自然であることもわかる。そうした関係をよく知っているから甲野は対立を避けている。ここでは、宗近のために、と思って母親との接触を努力によって試みていることになっている。甲野は自分の義務として、再び藤尾に忠告している。それは拒否を前提した一応の試みである。しかし、拒否を前提しているという側面から見れば、甲野の不誠実を創り出すものでもある。藤尾との関係に踏み込むことがいかに危険な矛盾を孕んでいるかがわかる。
 
 ■ 「兄さんの考では、小野さんより一の方がよかろうと云う話なんだがね」
 「兄さんは兄さん。私は私です」
 「兄さんは小野さんよりも一の方が、母さんを大事にしてくれると御言いのだよ」
 「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向った。 「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」
 「知っている」と閑静に云う。
 「知ってるもんですか」と立ち上がる。 「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」
 「そうか」
 「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの価値は分りません。けっして分りません。一さんを賞める人に小野さんの価値が分る訳がありません。……」
 「じゃ小野にするさ」
 「無論します」
 云い棄てて紫の絹は戸口の方へ揺いた。繊い手に円鈕をぐるりと回すや否や藤尾の姿は深い背景のうちに隠れた。(p237)

 うまく書けている。これが現実の姿である。通俗的にならずに済むのは藤尾のはっきりした意志のおかげである。そして、甲野を救ってもいるこの厳しい人間関係と意識は、道也の覚悟が作り出した関係であり精神である。甲野の意志は母親にも藤尾に通じない。彼女たちは非妥協的であり、それとの関係で甲野も非妥協的でありうる。その非妥協的な関係の上で、ここでは宗近のためにお互いの意思を確認している。確認しなくても分かっていることであるが、藤尾との関係に期待している宗近のために、自分の責任の観点から確認しており、しかも、こうした積極的な確認は藤尾の厳しい反発を生み出すことによって甲野の精神を具体化するための重要な意味を持っている。こうした一つ一つの確認がこの世界から出て行こうとする甲野の意識を確定していくからである。こうした具体的な対立関係においてのみ、甲野は財産を譲る意志を持つことができる。その結果、母親や藤尾にとってはまったく訳の分からない、煮え切らない甲野になり、対立が深刻化する。対立は発展しており、妥協の余地は日々なくなっていく。この矛盾を作り出したのは道也の覚悟であり甲野の批判意識である。(05.07.12改稿)


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