『虞美人草』ノート (十六) (十七)  (十八)  (十九)

(十六)

 「ハハハハ西洋へ行くと堕落するだろうと思ってね」
 「なぜ」
 「西洋へ行くと人間を二た通り拵えて持っていないと不都合ですからね」
 「二た通とは」
 「不作法な裏と、奇麗な表と。厄介でさあ」
 「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫が烈しいから上部を奇麗にしないと社会に住めなくなる」
 「その代り生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」
 「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。これからの人間は生きながら八つ裂の刑を受けるようなものだ。苦しいだろう」
 「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の睾丸をつけたような奴ばかり出来て、それで落つきが取れるかも知れない。いやだな、そんな修業に出掛けるのは」(p243)

 宗近親子は、文明が人間に裏と表の二重性を作り出す、と言っている。これから外交官になるという宗近らしい単純で平凡な文明談義である。社会についての具体的な認識は何もない。これを社会認識の出発点とするのではなく、この意識自体が批判的な認識だと思っている。それが軽薄である。
 その宗近は、「第一甲野が家を出るなんて、そんな訳がないがな」言っており、「甲野が神経衰弱だから、そんな馬鹿気た事を云うんですよ。間違ってる。」と言っている。世捨て人になる気だと思っている。漱石は、宗近が甲野をまるで理解していないと想定して、その上でこうした文明談義を与えている。こうした平凡な批判を漱石は相対化している。しかし、漱石もまだ宗近の批判精神を超える甲野の精神を具体的に発見しているわけではない。漱石も宗近と同じ文明批判的な意識を持っており、それが甲野のはっきりしない、煮え切らない精神となっている。
 漱石はこのあと、甲野に対する糸子の信頼を描いている。甲野は財産を必要としていないこと、金は邪魔になるばかりであること、財産を捨てるのはつまらないという宗近に対して、「だって厭なら仕方がないわ」と弁護している。甲野の覚悟は神経衰弱のせいではなく、病気ではないと確信し、信頼している。
 糸子は、甲野の意志と感情を直接に信頼している。財産を捨てることの意義を理解しているわけではない。しかし、こうした確信や信頼は重要な意味を持っている。甲野に対する糸子の信頼は、漱石の甲野に対する信頼であり、漱石の自分自身に対する信頼でもある。結果としての具体的な成果の後にではなく、具体的な成果に先行するこの信頼によってのみ、財産を放棄するという重大な決意ができる。エリートインテリの地位と名誉を肯定する小野の精神はすでに定着しており、そこにどんな意義があるかも分かっている。しかし、地位と財産を捨てて何があるかは分からない。歴史がこれから生み出すことであり、その成果をこれから自己認識として形成しなければならない。そして、その自己認識を得るためには、地位と財産を求めない自分を直感的に信頼しなければならない。こうした直感的で実践的な信頼をも社会は生み出すものである。甲野の性格は思索的であるとはいえ、運命の飛躍は直感的な実践に任されている。甲野は批判意識によって人間関係の矛盾を創り出し、相互の不信感を作り出している。しかし、それは、他方でその価値観において深い信頼関係を創り出すものである。
 漱石は『虞美人草』執筆中の明治40年八月六日に、小宮豊隆宛の手紙で、次のように書いている。
 
 僕が洋行して帰つたらみんなが博士になれなれと云つた。新聞屋になつてからそんな馬鹿を云ふものがなくなつて近来晴々した。世の中の奴は常識のない奴ばかり揃つてゐる。さうして人をつらまへて奇人だの変人だの常識がないのと申す。御難の至である。ちと手前共の事を考へたらよからうと思ふがね。あんな御目〔出〕度奴は夏の蛍同様尻が光つてすぐ死ぬ許だ。さうして分りもしないのに虞美人草の批評なんかしやがる。虞美人草はそんな凡人の為めに書いてるんぢやない。博士以上の人物即ち吾党の士の為めに書いてゐるんだ。なあ君。さうちやないか。
 
 博士になることは当時の社会にとって強大な意味を持っていた。そのなかで、「博士以上の人物」になることを覚悟することは想像しがたいほど困難である。日本においてそれがいかに困難であるかは、その後の『虞美人草』に対する、あるいは漱石に対する批評の歴史を見てもわかる。漱石は、財産を放棄する甲野が理解されず、神経衰弱と言われ、病気と言われることを切実な経験的事実として知っていた。しかし、甲野を信頼しており、自分自身を信頼している。


(十七)
 
 小野が小夜子との関係を切り捨てるのには勇気がいる。気が弱い小野が浅井に頼んで断りを言うのは姑息な手段である。しかし、漱石の場合それは大きな問題ではない。基本的な問題は、まず小野が藤尾の財産と立派な書斎を心から望んでいることを前提として、それを断念できるかどうかである。浅井を迂回することは一時逃れであり、姑息であるが、藤尾の財産をあきらめるかどうかに比べればそれは第二義的である。漱石は鴎外の『舞姫』のように、寝ていて問題を解決することができない。漱石は、エリスを切り捨てる方法を主な関心にしているのではないからである。小野や藤尾を批判し、小夜子を救うことを課題にするか漱石と、エリスを切り捨てることを課題にする鴎外では、細部に対する関心がまったく違ってくる。鴎外は豊太郎を弁護することだけに関心を持っており、漱石は甲野がいかに厳しく批判されるかに関心を持っている。
 
 ■ 「この間京都へ行ったそうじゃな。もう帰ったか。ちと麦の香でも嗅いで来たか知らんて。――つまらんのう、あんな人間は。何だか陰気くさい顔ばかりしているじゃないか」
 「そうさね」
 「ああ云う人間は早く死んでくれる方が好え。だいぶ財産があるか」
 「あるようだね」
 「あの親類の人はどうした。学校で時々顔を見たが」
 「宗近かい」
 「そうそう。あの男の所へ二三日中に行こうと思っとる」
 小野さんは突然留った。
 「何しに」
 「口を頼みにさ。できるだけ運動して置かんと駄目だからな」(p266)

 浅井は多くを語る。甲野は死んでくれたほうがいい、と言っている。甲野の価値観が理解される可能性はまったくない。こうした出世主義者が充満する中で道也も甲野も苦しんでいる。その世界で、貧しい世界からのし上がって、浅井より遥かに高い出世の可能性を得ている小野が、この力関係を逆に押していく力を持つ必然はどこにもない。小野と浅井からみると、甲野も宗近も財産を持つ高い地位にいる人物である。小野は甲野の財産をほしがっており、財産にまで到底届かない浅井は宗近の力に頼って職を得ようとしている。小野と浅井が望むものを甲野も宗近もすでに得ている。
 甲野と宗近の価値観は、すでに可能な上昇を得た、裕福な世界に生れる価値観である。小野や浅井が同じ価値観を持つためには、まず、可能な限りの十分な出世が与えられなければならない。出世の途上で甲野や宗近の道義によって出世の欲望を抑えるのは、彼らの地位にまで近づくべきではないという道徳である。小野や浅井が甲野や宗近と同等な地位に出世すれば、自然に甲野や宗近の道義的精神が程度の差はあっても生れてくる。そして、歴史は、浅井や小野を次々に甲野の世界に送り込むことによって、この世界の矛盾を形成し、この世界を耐えがたいと思う精神を作り出していく。「ああ云う人間は早く死んでくれる方が好え」という意識も、その力の一つである。甲野の道義は、こうした競争相手を阻止する手段になること、あるいは藤尾との財産をめぐる争いになることを回避しなければならない。それをこの作品では、対立を回避することと財産を放棄することで表現している。甲野の精神に内在するこの矛盾を、精神の内的矛盾として問題にするのは『彼岸過迄』からの課題である。
 浅井が宗近の所に口を頼みに行く、という設定は、小野が浅井に断りを頼んだことを宗近に言うことの伏線である。このとき、漱石はすでに、十八の展開を考えていたのであろう。甲野は自らは動かない。宗近は実践能力はあるが、現実の事態がどのようになっているかを認識することができず、実践の目的を認識できない。小野は、藤尾と小夜子の間で迷う性格である。したがって、この身動きのとれない状態を前に進めることができるのは浅井だけである。浅井の現実的な出世欲が人間関係を進展させる力を持っている、というのが現実の姿である。
 
 ■ 「宗近さん」と欽吾はまた首を向け直した。 「藤尾に嫌われたよ。黙ってる方がいい」
 「うん黙っている」
 「藤尾には君のような人格は解らない。浅墓な跳ね返りものだ。小野にやってしまえ」
 「この通り頭ができた」(p278)

 甲野にとっても藤尾にとっても藤尾と実践的に分離することはさほど困難ではない。しかし、精神として分離し、藤岡ら独立するのは非常に困難である。この世界の同じ利害関係の中に生きて、同じ価値観を持っている彼らには、藤尾に対する批判意識として最後の関係が残る。この批判意識をどう処理するかか、自分の内部にあるこの批判意識にどう対処するか、この批判意識とは何かを理解するのは非常に困難な課題である。「浅墓な跳ね返りもの」である藤尾を小野にやってしまうことが解決ならなんの困難もない。すでに四迷の『浮雲』は、時代が生み出す「浅墓な跳ね返りもの」であるお勢を、昇にやってしまえ、という愚かな解決など考える余地もなかった。藤尾から分離するだけではなく、藤尾と分離することに積極的な意義がなければならない。「浅墓な跳ね返りもの」は藤尾個人の問題ではなく、それが社会全体に作り出されており、それをどう克服するかがもともとの課題であり、藤尾との分離は、この課題の中に位置づけられなければならない。
 甲野が藤尾と対立し、藤尾を説得することは不可能である。しかも、甲野の立場から藤尾を批判することは、藤尾と同じ立場に立つことになり、さらには、藤尾や母親から自分の財産を守ることになる。鴎外が『半日』で描いたように、性格が悪いから財産を与えないのだ、という関係になる。これは自分の財産を守るための小理屈である。甲野の道義が抱える基本的な困難は、自分が財産を持つ立場にいながら、藤尾や母親との財産をめぐる対立を回避しなければならないことである。鴎外はこんな矛盾を思いつくこともできなかった。甲野は、道義から財産に対する執着を取り除くために財産の放棄を決意している。しかし、それだけでは、財産を放棄して自分の潔癖を守ることにすぎず、母親や藤尾を批判することの積極的な普遍的な意義は失われる。
 だから、藤尾を小野にやってしまうことは解決ではない。甲野と宗近の道義は、藤尾から分離した上で、自分のためにではなく、五人の小夜子を殺す藤尾の我を批判することを内容としている。甲野の道義が自己の精神的な救済に終わらずに社会的な意義を持つためには、財産の放棄と関連して小夜子との関係を必要としている。「野分」の道也は地位と収入の放棄を必要としていたが、甲野の道義は小夜子を扶けるという意義を必要としている。この側面から見ると、甲野は藤尾を批判するための手段として小夜子と小野を必要としており、小野と小夜子を結びつけることに道義の意義があるのではなく、小夜子を使って、藤尾から小野を引き離すことに、さらには藤尾から自分自身を本質的に分離することに道義の意義を求めていることがわかる。だから、小夜子自身は目的とされていない。甲野も宗近も、藤尾と母親の虚偽に満ちた自我を必要としていない、という事実を藤尾と母親に押しつけるために、甲野と宗近は、小野と小夜子を必要としている。甲野は自分の内的な矛盾を、そのものとしては解決できずに小夜子との関係を自分の世界に取り込んでいる。そして、小夜子との関係を取り込んだだけ矛盾を大きくしている。むろんその矛盾が現実認識の発展の一契機であり過程である。問題の解決とは、一般に、ある問題を、より高度の問題に転化することである。
 
 ■ 「頭ができれば、藤尾なんぞは要らないだろう」
 宗近君は軽くうふんと云ったのみである。
 「それでようやく安心した」と甲野さんは、くつろいだ片足を上げて、残る膝頭の上へ載せる。宗近君は巻煙草を燻らし始めた。吹く煙のなかから、
 「これからだ」と独語のように云う。
 「これからだ。僕もこれからだ」と甲野さんも独語のように答えた。
 「君もこれからか。どうこれからなんだ」と宗近君は煙草の煙を押し開いて、元気づいた顔を近寄た。
 「本来の無一物から出直すんだからこれからさ」(p274)
 
 宗近は外交官には藤尾のような派手な女が必要だと考えていた。甲野は、外交官として積極的に社会に出るとなれば、藤尾との関係から離れて自分独自の世界に入ればよい、と考えている。宗近はそれで納得している。甲野は、宗近が自分の使命を持つまでは、藤尾に惹かれても仕方がないと思っていたということであろう。頭ができれば、藤尾と関わっていてはいけない。甲野も宗近と藤尾の関係の結論を見届けることによって、母親や藤尾との信頼関係の回復の可能性がないことをはっきり認識して、彼女達との関係を離れ、無一物から出直すことが、新しい自己の出発点である、と考えている。しかし、この出発点がまだはっきりしない。甲野と宗近の出発点は、母親や藤尾に対する批判意識を克服することである。つまり、批判意識を藤尾や母親によって限定されないことである。しかし、それが藤尾や母親との妥協となり、藤尾や母親を無視することであってはならない。この批判的現実認識を得る過程が『三四郎』からはじまる。漱石はこの会話を描いた時点ですでに『三四郎』の視点を得ていただろう。これから後の描写は、藤尾や母を批判する義務による描写のようなもので、非常に軽く流れている。
 甲野が家を出ることの理由ははっきりしない。甲野にもそれはわからない。ただ、「本来の無一物から出直す」ことが必要であることだけがわかっている。漱石は『三四郎』から、「本来の無一物」の視点からエリート社会を冷静に観察し始め、藤尾や母親に対する道徳的な批判意識から自由になる。しかし、それは結果として徐々に獲得する精神であって、財産に縛られている段階でそれを知ることはできない。財産に執着する藤尾と母親に対する批判意識の実践として財産を放棄することは飛躍しており、その結びつきがわからない。だから、甲野の決意を聞いて、「貴様、気が狂ったか」と言う。漱石としても、甲野が家を出ることの必然を理解できないからである。
 
 ■ 「なぜ黙っていたんだ。向を出してしまえば好いのに……」
 「向を出したって、向の性格は堕落するばかりだ」
 「向を出さないまでも、こっちが出るには当るまい」
 「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
 「なぜ財産をみんなやったのか」
 「要らないもの」
 「ちょっと僕に相談してくれれば好かったのに」
 「要らないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
 宗近君はふうんと云った。(p277)

 母親と藤尾を追い出せば、彼女たちは甲野に対する憎しみによって堕落するし、甲野は憎しみの根拠を与える実践をしたことになる。甲野の意識はどうであるにしても、実践としては甲野が財産に執着したことになる。この世界でのあらそいは、結局財産をめぐる争いであることを免れない。たとえ甲野がどのように思っていても、客観的に財産に対する執着に見えるだけでなく、精神の内容としても財産に対する執着を超えることはできない。母親や藤尾を、鴎外のように、財産との関係においてではなく、単なる性格や部分的な弱点において批判する場合はこのような矛盾は生じない。地位と金への執着や隷属を批判する『野分』の道也の視点を受け継いで、藤尾や母親に対する批判意識が財産と関わっているために、この世界にとどまれば甲野も財産とかかわり続けるのであり、その高度の批判意識の観点から見れば堕落である。甲野の道義は、母親や藤尾より有利な立場で偽善的財産に執着することになる。それがどのようなものであるかは鴎外が『半日』に描いている通りである。
 この世界での対立は、本質的にはすべて財産の所有をめぐる対立が現象化したものである。そしてこの世界では、すべての人間の財産に対する執着故に妥協が成立し、お互いの虚偽の均衡が成立している。財産に対する執着の対立が人間関係と精神の内容である。しかし、財産に対する執着としては決して争われない。甲野はその偽善を嫌っており、それを問題にしているために、甲野の批判精神が直接財産に関わることになる。だから、甲野の批判意識において母親や藤尾との対立を回避するには、財産を放棄する以外にない。しかし、家を出ればどうなるのか。堕落せずにすむのか。積極的な精神を獲得出来るのか。それが分からない。財産に対する執着に満足することができない場合、財産の放棄に満足することもできない。それが何であるかははっきりしないにしても、すでに財産との関係で、財産との分離の新しい精神が生まれているのである。
 甲野はここで、これまでになく自分の善良さを主張し、道徳的正当性を主張している。甲野が、自分が母親より善良であると主張しているのはこの場面だけである。甲野の意識も行動も道徳的に見れば単純で俗である。しかし、通俗的に見える甲野と宗近の会話には、『こころ』で展開される深刻な矛盾が萌芽として見えている。甲野が煮え切らない態度をとっているのは、藤尾や母親に対する道徳的な批判に納得出来ないからである。甲野は、自分の行動の意義が理解できず、道徳的な正当性に疑問を持っている。その疑問が、道徳的正当性を主張している部分に出ている。それは、甲野が財産に対する執着を批判する場合、財産に対する自分の執着を論理としてどうしても超えることが出来ず、批判意識が財産に対する執着の視点において翻弄されることである。だから、甲野の一貫した消極性的で否定的な自己認識と、家を出る決意は、財産に執着する母親や藤尾の批判という形式をとりながら、すでに甲野の批判意識に対する批判を内包しており、それが甲野の危機としての力を発揮し始めていることである。それは批判意識が財産の運動に到達しており、甲野が財産を持つ立場にあることによって生じている。母親や藤尾に対する甲野の批判意識は、その根拠である財産にまで到達することによって、その財産を持っている自分自身に対する批判意識に到達している。甲野は、そして漱石は、この自己否定の力に脅え、且つ自己変革を期待しているのであって、しかも、ここに自己変革の本質的な契機があり、その否定において小夜子と一致する可能性を得ている。漱石にはまだその必然は発見出来ないが、その必然が漱石を衝き動かしており、その力によってあえて藤尾との対立を押し進めているのであろう。(05.07.14改稿)


(十八)

 ■ 浅井君はもっとも想像力の少ない男で、しかも想像力の少ないのをかつて不足だと思った事のない男である。想像力は理知の活動とは全然別作用で、理知の活動はかえって想像力のために常に阻害せらるるものと信じている。想像力を待って、始めて、全たき人性に戻らざる好処置が、知慧分別の純作用以外に活きてくる場合があろうなどとは法科の教室で、どの先生からも聞いた事がない。したがって浅井君はいっこう知らない。ただ断われば済むと思っている。淋しい小夜子の運命が、夫子の一言でどう変化するだろうかとは浅井君の夢にだも考え得ざる問題である。★(p278)

 漱石は、浅井を非常に狭い視点から形式的に批判している。浅井を批判することが難しいのは、「全たき人性に戻らざる好処置」とは何かを規定することが難しいからである。想像力を待つことが問題ではないことは漱石にとっても考えるまでもないことである。浅井や小野の想像力は、出世や藤尾との生活や立派な書斎での著述だとかの華やかな世界にむかって常に働いている。問われているのは想像力や理知の内容である。第一には、想像力と理知が、孤堂親子の運命に向かうかどうかであって、想像力を持つことが出来るかどうかではない。第二には、孤堂親子の世界をどのように想像するかである。それによって、「全たき人性に戻らざる好処置」の内容がかわってくる。
 孤堂親子の貧しい生活を、暗く絶望的な世界として想像する場合は、浅井や小野と同じように、出世した世界が美しく華やかに想像される。この点は漱石も甲野も小野も浅井も同じである。だから、「全たき人性に戻らざる好処置」とは小夜子を小野の世界に引き上げることになる。したがって、藤尾との関係では、漱石・甲野は小野・浅井と対立しているが、小夜子との関係では価値観が一致しており、小夜子の立場と対立している。甲野にとって耐えがたい世界であっも、小夜子にとっては幸福な世界であると想定されている。小夜子との関係では、甲野が貧しい小夜子と対立しており、藤尾と一致している側面が表に出てくる。貧しい小夜子にとっての幸福が小野との生活にあると考えるのが漱石の想像力の限界である。漱石の想像力は、孤堂親子の生活と精神を肯定的に描いた四迷や一葉の世界には届かない。
 小夜子の運命は「夫子の一言」で変化するのではない。小夜子の運命を変えたのは明治社会の五年の変化である。五年の間に小野が銀時計を貰うまでに出世した。孤堂と小夜子は京都で変化のない生活をしていたために、小野の変化の意味を知る機会がなかった。明治の社会が与える銀時計の力のすべてが小野と小夜子を切り離す力である。浅井は、その歴史的な変化の社会的な力を言葉として伝えるだけである。浅井が伝えなくても社会的な変化は変わらないし、小野と小夜子の関係も変わらない。漱石が浅井を非難するのは不当である上に忘恩的である。漱石は作品の内容と進展の多くを浅井に頼っているからである。
 
 ■ 「人の娘は玩具じゃないぜ。博士の称号と小夜と引き替にされてたまるものか。考えて見るがいい。いかな貧乏人の娘でも活物だよ。私から云えば大事な娘だ。人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。それから、そう云ってくれ。井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。 ――月々金を貢いでやる? 貢いでくれと誰が頼んだ。小野の世話をしたのは、泣きついて来て可愛想だから、好意ずくでした事だ。何だ物質的の補助をするなんて、失礼千万な。」★(p282)
 
 孤堂は、博士の称号より娘の方が大事であると考えている。博士に手の届かない貧乏人だからこそこうした感情が自然に生れる。しかし、「人一人殺しても博士になる気か」という言葉は、小野が博士になることが小夜子を殺すことだと結論している点で飛躍している。小野が博士になることと小夜子を殺すことは直接結びつかない。小野と小夜子を分離する過程は、小夜子を殺す過程ではない。新しい小夜子を生み出す過程である。したがって、孤堂としても、結果がいかに悲惨であるとしても、決して小野に義務の履行を求めているのではない。
 
 ■ 「いや、話してくれないでも好い。厭だと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。しかし本人が来て自家に訳を話すが好い」(p283)
 
 孤堂はこう言っている。孤堂は直接小野の意志を確かめたい。小野に小夜子と結婚する意志がないのであれば、義理や約束を楯にとって小夜子との結婚を迫ることは出来ない。それは小夜子の幸福ではないし、孤堂の望むところではない。孤堂は、小野の気持がこのように変化することを知る機会を持たなかった。漱石はそのように想定している。浅井の言葉を聞いて初めて小野の本心を知った、という想定になっている。この社会的な無知が小野との激しい衝突を作り出している。だから、浅井にとっては孤堂の感情のすべてが不可解である。小野の変化が当然で、孤堂がそれを受け入れるのもまた当然であることを漱石は浅井の感情として書き込んでいる。
 銀時計の小野と貧しい小夜子の劇的な関係を作り出すには、東京に出た小野と京都に残る孤堂親子の五年の空白が必要である。孤堂が小野の変化を突然知ることによってのみ激しい葛藤が起こる。同じ東京に住み、明治の社会が生み出す小野の出世の意味を経験することができれば、その変化が孤堂親子にも反映する。孤堂親子は、社会的な変化を経験することができなかったために、この変化を突然に経験しなければならない。こうした偶然がなければ、二人の分離の過程は具体的に積み重ねられ、小夜子も小野に劣らず変化したに違いない。その場合は、運命が分離されるにしても一致するにしても、甲野や宗近の道徳的な介入の余地はない。現実的な分離過程の空白に道義が介入している。したがって、漱石のこの道徳的な意識は、明治社会の現実的な具体的な認識にとって変わられなければならない。そうすれば『虞美人草』の悲劇は解消される。現実にはこのような悲劇は生じない。この悲劇は道徳的な意識の構成物である。
 漱石は、小野が小夜子を捨てれば、「寝覚がわるい。社会が後指を指す」と書いている。これも小説を終わらせるための無理な想定である。現実は逆である。世間は出世できないことや、出世を拒否することに対して後ろ指を指すのであって、そのために道也は覚悟を必要としたし、その覚悟を誰も理解しないと思っていた。しかも、こうした寝覚めが悪い、という道徳的な反省にもとづいて小夜子と結婚することは自由な主体性ではないし、小夜子にとっての幸福でもない。
 出世に伴う危機は、古い関係を切り捨てることにたいして、社会が後ろ指を指すことにあるではない。出世を押し止めようとする力が道徳的な意識として働くわけではない。出世には華やかな成果が伴なっており、誰もが望み誰もが肯定するものである。出世し、競争に勝つことは、それに対する否定的な感情を生まない。甲野の世界には、競争に勝つ過程とその成果の中に、その立場の必然としての危機が生ずる。小夜子を切り捨てることに何ら道徳的な葛藤が生ずるわけではないことを鴎外の『舞姫』は非常にうまく描いている。小夜子との一致が真面目に意識されるのは、この世界に独自の危機が生じた結果としてである。その危機の過程を経由することなく、出世の途上で出世を押し止めようとするのは、資本主義の発展の法則に抵抗することにすぎず、単なる道徳的な希望あるいは幻想にすぎない。それは泣き言であり、気休めである。この幻想を破ることが漱石にとっての『虞美人草』の意義である。
 
 小野に想定された道徳的葛藤に決着をつけるには、まず浅井の助力を必要とし、次に宗近の邪魔を必要とする。小野は藤尾と小夜子との間で道徳的に動揺する精神として想定されており、どちらに決断しても不自然になる。いづれを選択しても、両者の間での葛藤を無にすることになる。特に、財産を持つ藤尾を捨てることの現実的な根拠はどこにも見いだせない。しかし、財産を持ち、正直でもある宗近なら、小野に対して正義感から説教することができる。財産も地位もない人間の説教など小野も、まして藤尾も聞くはずがないし、聞かせる関係を描写することもできない。小野と藤尾に道義を示すには地位と財産の力が必要であり、したがって、その道義は地位と財産を内容としている。
 小野の道義の内容は、藤尾の財産をあきらめ、自分に不利な選択をすることである。小夜子と結婚するというのは、藤尾の財産を諦めることである。しかし、その根拠が見つからない。世間が出世に後ろ指を指すことはない。孤堂親子に対する義理で小野を縛ることもできない。五年の空白によって生じている突然の対立において小夜子を選択する必然はどこにもなく、外的な働きかけに頼るしかない。『それから』に描かれる大助と三千代の愛情は、社会的な必然として形成されている。そこには宗近の道義が活動する余地はない。『それから』では代助の生活の危機が愛情根拠になっているが、『虞美人草』では、小夜子に対する同情が小野の危機を生み出している。小野と小夜子を結びつける内的な衝動が発見されていないために、道徳的な当為が立てられ、宗近による外的な干渉を必要としている。現実には、宗近に小野や小夜子の運命を決定する力はない。漱石は小野に「宗近君はこの未来を司どる主人公のように見えた。」と書いているが、こうした非現実的な力関係の想定は、無理に小説を終わらせようとするための強引な設定である。
 泰然だとか、上皮だとかいった宗近の説教は通俗的である。宗近は、小野の運命の具体的内容に触れることなく、形式論議を並べている。明治の社会が作り出した新しい人間関係と精神の力と複雑さを前にして上皮を批判しても、人間や文明がどうかなるものではない。こうした主観の形式の背後にどれほどの関係や精神があるかを漱石は描いてきた。宗近がそれに決着をつけることができるのは、そうした内容をすべて無視することによってである。
 宗近の形式的な説教によって救われる危機であれば、もともと大した危機ではない。宗近は、複雑で強力な社会的な関係を問題にしておらず、気持ちの持ち方だけを問題にしており、危機を、真面目な気分になれるか、浮ついた軽薄な気分で生きていくか、という形式的な主観的葛藤に解消している。藤尾と小夜子の関係は、財産を持つ上流の世界に生活するか、貧しい下層の世界に生活するか、という社会的な巨大な対立である。その対立が、義理を重んずるかどうか、真面目か不真面目か、上面か本音か、という問題であれば、真面目や本音を選択する方が自然であろうが、その場合は、資本主義社会は成立しない。小野と小夜子の関係は社会的な必然によって分離されたものであり、分離に応じた精神が対立的に形成されており、説教でそれを変更することはできない。
 
 ■ 「君は真面目になるんだろう。――僕の前で奇麗に藤尾さんとの関係を絶って見せるがいい。その証拠に小夜子さんを連れて行くのさ」
 「連れて行っても好いですが、あんまり面当になるから――なるべくなら穏便にした方が……」
 「面当は僕も嫌だが、藤尾さんを助けるためだから仕方がない。あんな性格は尋常の手段じゃ直せっこない」
 「しかし……」
 「君が面目ないと云うのかね。こう云う羽目になって、面目ないの、きまりが悪いのと云ってぐずぐずしているようじゃやっぱり上皮の活動だ。君は今真面目になると云ったばかりじゃないか。真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君と云う一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。……」(p294)

 真面目を説教する宗近は真面目ではない。現実認識において深刻さ、真摯さを持たない。小野が小夜子と結婚することがすべての問題の解決になると考えることにおいて不真面目である。宗近は、小野にとって小夜子と結婚することが、「全たき人性に戻らざる好処置」であると考えており、さらに、道義を実践することを真面目さの証明だと考えている。宗近は、「全たき人性に戻らざる好処置」が分かっているのに、それを実行しないのは真面目ではない、と信じており、「全たき人性に戻らざる好処置」とは何かを問う真面目さを持たない。それこそ真剣な真面目な疑問であり、それを問題にすることが小野と小夜子の分離を普遍的な現象にしている明治社会についての真面目な認識である。
 宗近はこの問題を真面目に考えていない。ここには道徳的な意識特有の誤魔化しがある。宗近が実行しようとしている好処置は、小夜子と小野を藤尾から取り上げて藤尾を懲らしめることである。その上で、小野と小夜子と藤尾が、同じ上流社会に生活することが、宗近の言う解決である。宗近は、藤尾を当面の人間関係から追い出すだけの実践に意義があるかどうかについて、何ら疑問を持っていない。宗近の実践は、この世界での内部対立であり、反吐を吐くような対立を立場の優位にもとづいて闘うことである。しかし、漱石は、手順や必然性はともかく、道徳的な義務として藤尾に打撃を与える決意をしている。
 
 宗近の実践は、人間関係と意識の展開において大きな矛盾を抱えこむものである。小野は愛情を持たないのに、義理と同情で小夜子と結婚することになる。嫌っていないにしても、主な情熱は藤尾の財産である。漱石が問題にしているのは、地位と財産に対する執着に対する批判であるから、この執着を過少に、つまり小夜子に対する愛情を小野に想定することはできない。宗近の父親は、「忰を嫌うような婦人は、忰が貰いたいと申しても私が許しません」と言っており、孤堂は、「小夜や、宗近さんの阿父さんも、ああおっしゃる。同じ事だろう」と言っており、小夜子も、「私は――参らんでも――宜しゅうございます」と言っている。糸子は、甲野が家を出ることについて、「出たいものは世間が何と云ったって出たいんですもの」と言って擁護している。母親への義理や世間体より甲野の意志を尊重すべきだ、と言っている。こうしてそれぞれの自我が独自の方向に分解され社会的に発展しようとしている。それを容認できず、その意義を認識できないために、この分解を阻止しようとするのが漱石の道義である。藤尾の自我を矯める、という目的の基に、自分の狭い視野によってすべての自我を矯めようとしている。
 
 ■ 白い手は腕をあらわに、すらりと延びた。時計は赭黒い宗近君の掌に確と落ちた。宗近君は一歩を煖炉に近く大股に開いた。やっと云う掛声と共に赭黒い拳が空に躍る。時計は大理石の角で砕けた。
 「藤尾さん、僕は時計が欲しいために、こんな酔興な邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思をかけた女が欲しいから、こんな悪戯をしたんじゃない。こう壊してしまえば僕の精神は君らに分るだろう。これも第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」
 「そうだ」
 呆然として立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が硬くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、床の上に倒れた。(p309)
 
 宗近は外交官の試験にパスし、藤尾から小野を奪って小夜子と結びつけた上で、時計を打ち砕かねばならない。外交官の試験にパスすれば、自分が藤尾にふさわしい地位を手に入れても藤尾を望んでいないこと、藤尾が望む地位にいながら、それを拒否する立場に立つことができる。第一義の活動とは、宗近の嫉妬ではなく、宗近の都合でもなく、小野を藤尾から分離することそれ自体を肯定することである。ここに、宗近の第一義がなんらの現実的根拠を持たないことが現れている。宗近の行動が宗近自身の利害や欲望にもとづいているのなら、宗近自身の自我として正当性がある。しかし、小野と小夜子を結びつけるための根拠を宗近は持つことができない。小野と小夜子の結びつきの必然を想定することができなかった漱石は、やはり利害関係を持たない宗近の道徳的意識に頼らねばならない。問題を小野から宗近に移しかえても、小野と小夜子を結びつけることはできず、結びつける根拠がどこにもないことを明かにしているだけである。漱石はこの作品で、すべての人間関係と意識を非常に狭い世界のなかで把握しており、この世界内部で生じている矛盾をなくすことを道徳的当為として掲げつつ、この矛盾の展開と発展を描いている。漱石の道義的な意識で現実を統制することができないことはこの作品の展開ではっきりしてきている。現実は漱石が考えるようなこじんまりしたまとまりをもつものではなく、それを破壊しつつ発展して新しい秩序を創り出している。宗近の実践と、その結果としての藤尾の死は不自然である。しかし、藤尾を無理に殺さなければならなくなった必然を創り出しているのは漱石の道徳的批判意識である。現実を改革しなければならない、という当為のもとでのみ、『虞美人草』に描かれた現実認識が形成されている。この道義的な意識と現実の関係が、このあとの漱石の現実認識の内容になる。


(十九)
 
 漱石は、「我の女は虚栄の毒を仰いで斃れた。」と書いている。藤尾が虚栄の故に斃れることはない。藤尾を斃すためにどれほどの偶然が必要だったことか。偶然を積み重ねた上で藤尾は急死しなければならない。不自然で強引な偶然であるが、これ以外に結末の付けようはない。甲野と藤尾と小夜子の関係は、複雑な社会的関係によって構成されている。漱石はこの関係を片づけようとしたが、片付けることはできなかった。偶然的な結末は、漱石にとってこの問題が片づかない問題であることを明らかにしている。しかし、この関係が道徳的な関係を超えた遥かに複雑な問題であることは、この関係を道徳的に片付けようとする意志においてのみ発見出来る現実認識である。
 小野と藤尾を説得して道徳が勝利すれば、まったくの通俗小説になる。しかし、我の女をよく知っていた漱石がそうした通俗性に陥る可能性はなかった。通俗化できず、通俗化することに無理が生じるところがこの小説の特徴であり内容である。

 ■ 甲野さんは句を切った。母は下を向いて答えない。あるいは理解出来ないからかと思う。甲野さんは再び口を開いた。――
 「あなたは藤尾に家も財産もやりたかったのでしょう。だからやろうと私が云うのに、いつまでも私を疑って信用なさらないのが悪いんです。あなたは私が家にいるのを面白く思っておいででなかったでしょう。だから私が家を出ると云うのに、面当のためだとか、何とか悪く考えるのがいけないです。あなたは小野さんを藤尾の養子にしたかったんでしょう。私が不承知を云うだろうと思って、私を京都へ遊びにやって、その留守中に小野と藤尾の関係を一日一日と深くしてしまったのでしょう。そう云う策略がいけないです。私を京都へ遊びにやるんでも私の病気を癒すためにやったんだと、私にも人にもおっしゃるでしょう。そう云う嘘が悪いんです。――そう云うところさえ考え直して下されば別に家を出る必要はないのです。いつまでも御世話をしても好いのです」
 甲野さんはこれだけでやめる。母は俯向いたまま、しばらく考えていたが、ついに低い声で答えた。――
 「そう云われて見ると、全く私が悪かったよ。――これから御前さんがたの意見を聞いて、どうとも悪いところは直すつもりだから……」
 「それで結構です、ねえ甲野さん。君にも御母さんだ。家にいて面倒を見て上げるがいい。糸公にもよく話しておくから」
 「うん」と甲野さんは答えたぎりである。(p313)

 現実はこうなっていない。お互いに信頼する方がどれほどいいか分からないのに、不必要に信頼せず反省しないのが謎である。この文章は、そういう世界でなお漱石としては、信頼関係の必要を主張している、ということの確認であろう。
 甲野はなんでもないことに深刻にこだわっている。なんでもないことが、背後に深刻な問題を含んでいるために、なんでもないこととして見過ごすことが出来ない。しかし、それが何であるかが分からないために、自分がこだわっていること自体はつまらないことが分かっていても、やはり問題にし続けなければならない。母親や藤尾の二重性はなんでもないことではない。二重性をなくすべきである、上皮で生きるべきではない、と説教し、啓蒙することで解消できるような二重性ではない。二重性・虚偽は意識のごく部分的な分かりやすい特徴にすぎない。だからつまらないことでありながら、それを克服することができない。だからこそ、虚偽に苛立たされ、その背後に動く力によって滅ぼされもし、犠牲も生み出し、虚偽に対する怒りに翻弄されることになる。
 甲野は母親の虚偽、二重性を非難している。これが漱石の主張である。しかし、母親個人の虚偽を克服することは現実には不可能である。まして、甲野の世界から虚偽を取り除いて、真面目な人間で充たすことなどできることではない。それができない世界であることを知ることが、この世界を知ることである。説教に都合のいい偶然を拵えて小説に描くことは啓蒙ではない。個別的な妥協や個別的な勝利を描けばどれほど通俗的になるかを漱石はよく知っている。しかし、藤尾との妥協はあり得ない。藤尾との関係の認識は、その先の課題である。そのために漱石は不自然であっても、道義の勝利を結末に描いたのであろうし、小説自体が結末を必要とする構成になっている。

 このあと漱石は、甲野の日記として、自分の考え方を纏めている。
 
 ■ 「悲劇はついに来た。来るべき悲劇はとうから預想していた。預想した悲劇を、なすがままの発展に任せて、隻手をだに下さぬは、業深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが故である。悲劇の偉大なるを知るが故である。悲劇の偉大なる勢力を味わわしめて、三世に跨がる業を根柢から洗わんがためである。不親切なためではない。隻手を挙ぐれば隻手を失い、一目を揺かせば一目を眇す。手と目とを害うて、しかも第二者の業は依然として変らぬ。のみか時々に刻々に深くなる。手を袖に、眼を閉ずるは恐るるのではない。手と目より偉大なる自然の制裁を親切に感受して、石火の一拶に本来の面目に逢着せしむるの微意にほかならぬ。(p314)
 
 悲劇の到来は、漱石と甲野の希望である。悲劇はついに来ない。だから、発展に任せたのではなく、宗近が説教し、活動した。そして、藤尾の悲劇を導き出すために小野と小夜子の関係を手段にしなければならなかった。「三世に跨がる業を」懲らしめたのは甲野の財産の力である。この世界の内部で闘うのは、反吐を吐くことであるが、それが惨めな闘いにも泥仕合にもならなかったのは、甲野と宗近が地位と財産において優位にたっていたからである。そして、自然の制裁はついに発見されなかった。だから、漱石は必然の力を死に想定している。
 
 ■ 悲劇は喜劇より偉大である。これを説明して死は万障を封ずるが故に偉大だと云うものがある。取り返しがつかぬ運命の底に陥って、出て来ぬから偉大だと云うのは、流るる水が逝いて帰らぬ故に偉大だと云うと一般である。運命は単に最終結を告ぐるがためにのみ偉大にはならぬ。忽然として生を変じて死となすが故に偉大なのである。忘れたる死を不用意の際に点出するから偉大なのである。ふざけたるものが急に襟を正すから偉大なのである。襟を正して道義の必要を今更のごとく感ずるから偉大なのである。人生の第一義は道義にありとの命題を脳裏に樹立するが故に偉大なのである。道義の運行は悲劇に際会して始めて渋滞せざるが故に偉大なのである。道義の実践はこれを人に望む事切なるにもかかわらず、われのもっとも難しとするところである。悲劇は個人をしてこの実践をあえてせしむるがために偉大である。道義の実践は他人にもっとも便宜にして、自己にもっとも不利益である。人々力をここに致すとき、一般の幸福を促がして、社会を真正の文明に導くが故に、悲劇は偉大である。

 死は万人に訪れる。しかし、死は、道義の必要を感じさせる力を持たない。人生の第一義は道義にあるのではない。万人に訪れる死が人に道義をもたらすならば、実際、「なすがままの発展に任せて、隻手をだに下さ」ず、傍観し、待てばいいであろう。しかし、そうではないからこそ道也は決意を必要としたのであり、甲野は自己の無力を感じている。
 
 ■ 問題は無数にある。粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織か繻珍か、これも喜劇である。英語か独乙語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である。
 十年は三千六百日である。普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である。三千六百日を通して喜劇を演ずるものはついに悲劇を忘れる。いかにして生を解釈せんかの問題に煩悶して、死の一字を念頭に置かなくなる。この生とあの生との取捨に忙がしきが故に生と死との最大問題を閑却する。

 問題は無数にある。その無数の問題のすべてが悲劇をつくりだすのであって、生か死かは、そうした具体的な問題を捨象した抽象にすぎない。死を想起することではない。この無数の問題がどのような必然を構成しているか、その全体を認識し、働きかけることが課題である。死は何物も解決しない。
 
 ■ 死を忘るるものは贅沢になる。一浮も生中である。一沈も生中である。一挙手も一投足もことごとく生中にあるが故に、いかに踊るも、いかに狂うも、いかにふざけるも、大丈夫生中を出ずる気遣なしと思う。贅沢は高じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。

 これが現実である。この現実に対して、死を想起せよ、と呼びかけることが意味を持つであろうか。それが意味を持つと考えるのは気休めである。文章の浪費である。単なる文章の快楽である。
 
 ■ 万人はことごとく生死の大問題より出立する。この問題を解決して死を捨てると云う。生を好むと云う。ここにおいて万人は生に向って進んだ。ただ死を捨てると云うにおいて、万人は一致するが故に、死を捨てるべき必要の条件たる道義を、相互に守るべく黙契した。されども、万人は日に日に生に向って進むが故に、日に日に死に背いて遠ざかるが故に、大自在に跳梁して毫も生中を脱するの虞なしと自信するが故に、――道義は不必要となる。
 道義に重を置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。ふざける。騒ぐ。欺く。嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る。――ことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に――この快楽は道義を犠牲にして始めて享受し得るが故に――喜劇の進歩は底止するところを知らずして、道義の観念は日を追うて下る。
 道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここにおいて万人の眼はことごとく自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。妄りに踊り狂うとき、人をして生の境を踏み外して、死の圜内に入らしむる事を知る。人もわれももっとも忌み嫌える死は、ついに忘るべからざる永劫の陥穽なる事を知る。陥穽の周囲に朽ちかかる道義の縄は妄りに飛び超ゆべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なる事を知る。しかして始めて悲劇の偉大なるを悟る。……」

 世の中は、道義を第一義としていないこと、これが結論である。そして、これは出発点であった。世の中がこうした状態にあるからこそ、道也の覚悟が必要であり、甲野の思索が必要となった。こうした世の中とどのように変革的にかかわるかが、『野分』と『虞美人草』の課題であった。『虞美人草』の結論はここにある。甲野は現実と変革的に関わることができなかった。ただ、死に期待するのみである。そして、いかに死に期待しても、万人は死を忘れて生を楽しんで喜劇を演じている。では、再び、こうした現実にどのように関わるべきであろうか。それが分からないというのが『虞美人草』の結論である。そして、さらには、こうした現実認識自体が間違っている、ということがこの結論の必然的な帰結である。現実の全体が堕落し、間違っているという道也と甲野の認識は間違いである。現実は理性的である。現実を非難するのではなく、現実を肯定的に認識しなければならない。それが、『三四郎』以後の漱石の課題である。(05.0714改稿)


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