正宗白鳥の漱石論--「野分」、「虞美人草」に関連して--
 (正宗白鳥全集第二十巻、福武書店刊、1983年より引用)

 「夏目漱石論」 (明治41年3月1日 中央公論に発表)
 
 ■ 漱石氏は流石に學殖があるだけ、鏡花ほど淺薄でもないが、その人生に対する考へは一種の道學先生である。『野分』や『二百十日』を見れば常識的道徳小説の臭ひが漲つてゐる。氏はイプセンなどに比ぶれば、「退き場所を持つてる丈えらい。」と悟つた風な口を利いてゐれど、吾人にはさう信じられぬ。氏の作を見ると、氏は與へられたる道徳に跼蹐してる人で、今の家庭小読家と多く異なる所がない。若しも氏がその自ら云ふ如く禅的態度で、眞に世上紛々の事、老病死苦に超越してるのなら、何で『野分』等の娑婆臭い者が書けよう。要するに氏は超越したつもりなのだ。吾人も現實に苦しんでるよりは、出來る事なら超越したいが、生きてる間は出來ぬ相談だ。超越してると思つてる時は、それは己れを欺いてるので、現實に接触すれば直ぐ壊れてしまふ。
 同じ俳人でも戸川残花氏の如きは多少現實を離れて「退き場所」を持つてゐる。少なくも超越的分子に於いては漱石氏と段違ひだ。「露とくとく試みに浮世すゝがばや」の滋味を多少解してゐる。「浮世三分五厘」の域に住んでゐる。夏目氏はここまで達してゐない。だから第二義道徳の境にうろうろして、『坊つちやん』をして、その所謂俗物を罵倒せしめ、『野分』や『二百十日』に於いて岩崎などを氣にしてゐる。しかしまだ悟れないから小説も書けるんだらう。終りに云ふ氏の從來の作中では、『幻の盾』「猫」等が佳作で、評到の『草枕』は部分々々に佳い所もあるが、全体として感心せぬ。(p27)
 
 漱石は学殖があり、浅薄でなく、道学者でもなかった。学殖があるだけ道学者になる、という考え方は浅薄である。漱石は「退き場所を持」っているとは思わなかったし持とうともしなかった。「常識的道徳小説の臭ひ」は漱石の小説の臭いではなく、白鳥自身の臭みである。
 漱石の掲げる道義の世界は白鳥には理解できず、白鳥の想像すらとどかない。道徳的に俗を超越して自らを高く置くことなど問題外である。現実世界を俗として批判し、俗界から離れ、孤立し、超越しようとするのは、すべてに対する徹底した批判意識を獲得し、その独自の立場に基づいて社会に働きかけ、具体的な新しい精神を形成するためである。漱石の立場は、日常生活のあれこれに不満を持ち不平を感じながら、無批判的に現実にまみれることを人生だとする自然主義とは違う。現実と精神のあれこれに物知り顔で適当に批判することで自己を高く保とうとするほど愚かでもない。漱石は、現実社会と対立しつつ、その現実にふさわしい新しい精神を創り出そうとしていた。
 白鳥には道也の超俗が社会と深く関わるための方便であり経路であることが理解できない。漱石のような批判意識を持たない白鳥に、漱石の批判的な立場の理解を求めることは無理な注文である。漱石と白鳥はそのようなレベルの対立関係にはない。白鳥は漱石の作品のごく表面的な特徴に引っ掛かって反発を感じている。
 白鳥は「坊ちゃん」は類型的人物だ、と書いている。白鳥は、自分が漱石の道徳臭さが気に入らないのだと思っている。それは、白鳥の理解力と感受性が、漱石の作品の表面的な道徳的形式にしか届かないからであり、そのみじめな理解力においても漱石に反発を感じるからである。漱石の表面的な道徳的意識の特徴は、白鳥が指摘しているとおり、俗物を罵倒し、岩崎を気にすることである。俗物を批判して、岩崎を批判してなんになるのか、と白鳥は思う。俗物を批判し岩崎を非妥協的に批判し、その批判意識を貫くことの意味は、「明暗」に至る漱石のすべての作品に示されている。俗物を批判し岩崎を気にすることを娑婆気だとして批判する白鳥には社会的な批判意識の発展の意味は理解できない。だから、「虞美人草」を超えると白鳥は漱石の作品にとっかかりさえつかめなくなる。
 白鳥の批評を読むと、漱石の作品には白鳥の求めるもの、認めるもの、理解しうるものがまったくないことがわかる。漱石の作品は白鳥の精神と接点を持たない。このことからも、漱石の俗物に対する批判がいかに徹底していたかがわかる。白鳥にこのように批判されていることは、漱石の作品の成果であり、社会的な批判意識の深さの証明である。
 
 
 夏目漱石論【「中央公論」昭和3年6月1日に発表】
 
 白鳥は「虞美人草」が気に入らないらしく、面白くなく退屈である、と書いている。「どのぺージにも頑張つてゐる理窟に、私はうんざりした」とも書いている。よほど気に入らないのであろう。白鳥が気に入らないのは漱石の道義的な社会的批判意識である。これが本能的に気に入らない。
 
 ■宗近の如きも、作者の道徳心から造り上げられた人物で、伏姫傳受の玉の一つを有つてゐる犬江犬川の徒と同一覗すべきものである。『虞美人草』を通して見られる作者漱石が、疑問のない頑強なる道徳心を保持してゐることは、八犬傳を通して見られる曲亭馬琴と同様である。知識階級の通俗読者が、漱石の作品を愛読する一半の理由は、この通常道徳が作品の基調となつてゐるのに本づくのではあるまいか。(p125)
 
 「虞美人草」は通常道徳が基調になっているわけではない。宗近が道義を持ち出すのは最後の場面だけである。それにもかかわらず、白鳥が八犬伝までもちだして、「虞美人草」を無理にも通常道徳の小説だと主張するのは、白鳥が作品の内容を理解できないにもかかわらず、作品の批判意識が白鳥の感性と対立し、刺激するからである。「虞美人草」が古くさい道義を基調にした通俗小説であるなら、白鳥もこれほど力んで批判する必要はないであろう。
 「虞美人草」は、「野分」を引き継いでいるものの、道義はすでに表に出ておらず、甲野の精神は道徳的批判意識の徹底として、道義を自分の意志から自然の意志へと移しかえており、道義の自然的勝利に期待している。白鳥は、道義の形式をとった批判意識であろうと、必然の傍観という形式をとった批判意識であろうと気に入らず、いずれにしても漱石の批判意識の傾向性と闘っている。しかし、白鳥が漱石をとらえることができるのは、古い道義の形式をもっている、という側面からだけである。白鳥は、漱石が道義的な意識を脱ぎ捨て始めている作品だからこそ、強いてその古い道徳性を強調し、自分の視野の中につなぎ止める努力をしている。
 白鳥は、通俗小説であることが美辞麗句に幻惑されてわからないのであろう、と書いているがそうではない。通俗的に見えるのは、美辞麗句を連ねている部分である。通俗的な美辞麗句を書き込んでいるにもかかわらず、その他の部分に描かれている深い内容が読ませる力をもち、白鳥にながながと罵倒する必要を感じさせている。しかし、白鳥にはその内容の部分は理解できない。漱石は白鳥の視界から消えつつある。
 白鳥は「三四郎」についてつぎのように書いている。
 
 ■ 『虞美人草』ほどに随筆的美文的でなかつたに關らず、一篇の筋立てさへ心に残つてゐない。読者を感激させる魅力のない長篇小設を讃み通すことのいかに困難なるかを、その時感じたことだけ、今思ひ出してゐる。(p126)
 
 白鳥は「虞美人草」の道義や美辞麗句を批判することができた。つまり白鳥は、「虞美人草」については、道義的であることと美辞麗句であることしか感じ取ることができなかった。道義も美辞麗句も消えた「三四郎」については何も感じ取ることも理解することもできず、作品が白鳥の精神世界から切り離されてしまった、ということである。もともと内容としては接点を持っておらず、漱石の道徳的な批判形式と美辞麗句だけが白鳥の精神を漱石の作品に結びつけていたにすぎない。
 
 ■しかし、四十以後に小説修業の途に上つた彼れは、根本に於いて変化を來すことはなかつた。時代の流行に附和雷同することもなかつたし、左顧右眄煩悶苦悩するところもなかつた。乙女小説から『蒲團』に転じた田山花袋のやうな自己革命など無論経験しなかつた。(p130)
 
 漱石ほど深刻な煩悶苦悩を描き、漱石ほど劇的な、分かりやすい、しかも自覚を伴った自己革命を経験した作家はいない。白鳥には、漱石の作品が一作品ごとに劇的に変化していることがさっぱり感じ取れない。白鳥が理解できる自己革命というのは、恋に恋する乙女小説から、性欲の告白の描写といった、ごく表面的で形式的な変化のことである。同じ自然主義の田山花袋の作品でさえこの程度の形式的な理解しかできないのであるから、まして漱石の作品を理解できるはずがない。ただ、直感的に、本能的に漱石を批判する必要を感じており、しかも理解が届かないために形式的な罵倒を書き並べるしかなかったのであろう。
 
 ■彼れの作品の殆んど全部を読み去り読み來つた私は、最後の『明暗』に於いて、こんな人間が、水に油を點したやうにぽつりと現出してゐるのに、甚だ興味を感じた。漱石としては、柄にない人物を創造した訳で、取り扱ひ方も上手ではない。しかし、社会主義か共産主義か、さういつた假色を使ふ人間を、ブルヂヨア仲間へ割り込ませたところに、時代に關心する作者の氣持が分るやうに思はれる。(p144)

 この、「明暗」についての批評は、白鳥が小林を批判する必要を本能的に感じた結果であろう。小林は、白鳥が通常道徳を基調としていると批判した「虞美人草」の内的矛盾が生み出す必然的な人物像である。それが白鳥には、「水に油を點したやうにぽつりと現出してゐる」ように見える。むろん白鳥が「明暗」も小林も理解できるはずがない。しかし、小林を、漱石の作品系列の中の、そして、「明暗」の中の異質な人物像であり、時代の関心から偶然書き添えているかのように解釈しているのは白鳥らしい感性である。小林を漱石にとって偶然的な人物として、さらに漱石を「社会主義か共産主義か」といったものから切り離す必要を感じているのは、白鳥の思想の立場が漱石と基本的に対立しているからであり、「虞美人草」や「野分」の批判意識を古い道義として否定する必要を感じているのと同じである。

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