『牛鍋』 (明治43年1月) 

 この作品は鴎外の精神が、明治43年に到達する新しい精神を象徴する作品である。趣味の悪い、酷薄な、底意地の悪い精神が描かれており、読んで寒けがするほどの歪んだ精神が顔をのぞかせている。三十前後の男と、その男の「死んだ友達の一人娘」が「永遠に渇してゐる眼」をした女の見ている前で、「悲しい競争」をして牛肉を食べる話と、檻の中の猿の親子が芋を取ろうと「悲しい争奪」をする話である。
 鴎外はこの悪趣味な描写から、「一の本能は他の本能を犠牲にする。こんな事は獣にもあらう。併し、獣よりは人に多いやうである。」と結論している。世の中に醜悪な事実はいくらでもある。しかし、社会全体の在り方を、「一の本能が他の本能を犠牲にする」と結論することはできない。鴎外には世の中はこんなものだとうそぶく酷薄な感情がある。鴎外は社会をこのように見て、このような関係において勝ち残っている。鴎外は、勝ち残っていることを肯定する価値観によって、小猿や友人の娘が競争に負ける事を悲しい事実だと認識している。しかも、そのことを敢えて強調している。悲しい事実に同情するのは勝ち残ったことの成果である。この「悲しい」という感情は勝者の酷薄な感情である。エリスを破滅させて、あるいはエリスが破滅した事実を、悲しい、と感じるのは薄情である。そこには現状の冷淡な追認がある。この悲しさは事実を追認し確認し、味わう感情である。鴎外のような薄情な人間はこの悲しさを好むものである。ただ、初期作品と違って、この酷薄な現実を甘くロマンチックに味わうのではなく、強者である自分の力を敢えて強調するところに、鴎外の危機意識がある。鴎外はこうした現実認識に落ち着いていられず、こうした現実認識を維持し、しがみつくことで自己を肯定する努力をしなければならない状況になっている。酷薄さを表に出す必要を感じている。
 現実はこのような競争社会ではない。これは鴎外が見た、鴎外が理解した、鴎外の立場を肯定できる、鴎外が肯定したいと思う社会の姿である。現実をこのように認識することに鴎外の酷薄な精神と現実の緊張関係が現れている。このように認識する鴎外の「悲しい」という感情は鴎外の同情と同じく競争に負ける人間と一致する感情ではなく、彼らと分離し彼らと対立する感情である。破滅を肯定する感情であり、破滅を肯定することが難しくなっていることを反映した感情である。
 このような現実認識を敢えて書くほどに鴎外の精神に大きな歪みが生じている。初期作品から内在していた、残酷さ、冷酷さを直接肯定する傾向が表にでており、それを押し出す事を自分の力と感じる精神が生まれている。この作品に描かれているのは、この時期に特有の鴎外の現実認識であり、鴎外の心象風景であり、現実の残酷さではなく鴎外の酷薄さ、残酷さである。


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