芥川龍之介 1947年 大正05年    『鼻』 『芋粥』


 『鼻』

 禅知内供の鼻は長かった。内供は長い鼻の不便を気にするのではなく、世間の噂を気にしている。内供も世間も芥川も長い鼻を気にしているが、内供は気にしていないふりをしており、世間も露骨に笑わない。これは芥川がよく知る精神世界であり、この心理の奥には深い秘密が隠されている。芥川はそう思っており、秘密を発見したと書いている。しかし、芥川は秘密を発見したのではなく、覆い隠した。
 芥川にとって長い鼻の不便を悩むのは瑣事であり、自尊心の苦悩がより重要な現実であり真理である。芥川は、長い鼻にこだわる心理にこだわって、内供の同じ心理を繰り返し描写している。鼻を短く見せようと努力し、鏡を見る、他に長い鼻の持ち主はいないか、内典外典にまでも長い鼻を探すといったふうに、同じ内容を別の現象で描いている。芥川は鼻を気にする精神を経験的に並べているのであって、この精神を普遍的に克服しようとする意識を持っていない。現状を観察し、その裏を覗いて現状に回復する事で解決するのが初期の作品の特徴である。
 内供は鼻が短くなったことに満足した。この満足は、鼻を気に病むことと同等に浅薄である。芥川は長い鼻を気に病むことに批判意識を持っていないから、この満足には関心を持たない。この満足には内供の精神の全体的限界が、あるいは社会的法則性が現れているだろうのに芥川はそれに気がつかない。芥川はこの満足を否定して、再びもとにもどることを作品の内容と考えて描いている。
 鼻が短くなった結果、世間は露骨に笑うようになった。芥川は、この「意外な事実」は自分の顔が変わったというだけでは、「十分に説明がつかないやうである」、「まだ何かあるらしい」、と書き、「内供には、遺憾ながらこの問に答を与える明が欠けていた。」と書いている。この問いの答を知るには理性が必要である。しかし、芥川にはまだ理性は生まれておらず、芥川が用意した答は平凡な常識である。
 
 ■人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
 
 長い鼻を気にしていた世間が短い鼻を笑うのは意外ではない。内供も世間も鼻を気にしており、それを露骨に示すか示さないかだけの違いである。関心の持ちかた自体が貧相であって、それをどのように表現するかは第二義的である。
 内供が「何となく不快に思った」傍観者の利己主義は、日本で日常的に見られる精神である。芥川は同情する立場にいるから身近な精神であろう。相対的に不幸を免れた者は不幸に対して同情するが、不幸から抜け出すことは望まない。芥川は、同情のこの性質に気がついているが、これに批判的でなく、これを発見された現実であり真理であると考えている。この経験的な事実を意外な事実として受け入れている。これは誰でも経験する事実であり、だからこそ批判も克服も難しいが、芥川はその困難な課題を引き受けることなく、この事実を確認し、それに理屈っぽい大げさな解釈を加えるだけである。
 内供の鼻に関わる露骨な対立も露骨でない対立も同等に下らない対立である。今昔物語にはとっさの怒りに現れた内供の心理と中小童の智恵を描いているが、この下らない対立の中では中小童は単なる悪ガキになっている。
 内供は、この変化の内実を理解しないまま、結果を恨めしく思い、露骨な嘲笑のなかった過去に帰ろうとしている。露骨な嘲笑を経験する事で、露骨でなかった過去を肯定している。結果から過去を含めた全体を批判的に眺めるのではなく、結果によって現実と和解しようとしている。漱石はこの精神に対する批判意識から全体的な現実認識へと深化した。そのために、芥川に現実認識の発展を期待したのであろう。しかし、芥川はこの限界を超えることができなかった。
 
 ■内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。
 
 経験的な現実世界の矛盾が偶然的に展開を見せたが、芥川はそれを発展させるのではなく、事件は現状を回復するための契機になっている。芥川にとって、「誰も哂うもの」がなくなったことが重要である。長い鼻を哂い、哂われること全体に対する批判意識はなく、これが日本の社会の奥深い法則の現象形態である事に気がつかない。内供の満足に満足している。芥川はインテリ世界に特に強く、日本の社会全体に広がっているこの精神を経験的に知り、それをありのままに描写した後にその現象を肯定している。芥川のひっくり返しは、平凡な事実の肯定に終わるためにあっけなく物足りない印象を与える。



『芋粥』

 『芋粥』は形式的にゴーゴリと今昔物語に似ているが内容は異質で対立的である。ゴーゴリと今昔は平凡な人物を肯定的に描いており、芥川はインテリ的な視点から否定的に描いている。芥川は五位を、風采が上がらない、冷遇されている、意気地がなく、臆病で、無感覚である、等々と惨めさを楽しむかのように描いている。漱石が「塗り潰してベタ塗りに蒔絵を施しました」と指摘しているのは、同じ内容の惨めさを繰り返し、しつこく描いているからである。しかし、芥川はこの同じ内容しか書けないたために「ベタ塗り」になるのだから、技術的な問題ではないだろう。
 五位は、同僚の嘲笑や翻弄に無感覚であった。ゴーゴリのアカーキーは、無感覚ではなく、充実した感性のなかに没頭していたために同僚の悪ふざけに関心をもたなかった。ゴーゴリの天才は、アカーキーは無論の事、どんな俗物をもそれ自身の自己肯定において描く事である。ゴーゴリには社会や人間を愛し、肯定する能力がある。芥川にはそれがない。芥川は肯定的な精神を描く事が出来ず、惨めさの描写にのめり込んでいる。五位の「無感覚」は芥川の無感覚である。
 この社会的無感覚によって次のような反省が生まれてくる。
 
 ■唯、同僚の悪戯が、嵩じすぎて、髷に紙切れをつけたり、太刀の鞘に草履を結びつけたりすると、彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、「いけぬのう、お身たちは。」と云ふ。その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或いぢらしさに打たれてしまふ。(彼等にいぢめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが――多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めてゐる。)――さう云ふ気が、朧げながら、彼等の心に、一瞬の間、しみこんで来るからである。
 
 五位は惨めでいじらしい。ゴーゴリのアカーキーは、仕事の邪魔をされたときだけ、「わたしに構わないで下さい!なんだってそう人を蔑辱するんです?」と抗議した。アカーキーの抗議を理解したのは一人の若者だけである。アカーキーの精神を理解するのはそれほどに難しい。しかし、芥川が書いているのは、惨めな人間をさげすんではいけない、という単純な道徳的当為である。五位は惨めな立場から相手の無情を非難し、同情を求めている。相手の生活を惨めと認識した上でそれを軽蔑し、同時に軽蔑してはいけないという当為を生み出すのが、芥川が『鼻』に書いた「傍観者の利己主義」である。芥川は「傍観者の利己主義」の観点から社会を認識し、作品を描いている。五位に対する同情は軽蔑に対する批判意識ではない。同じ現実認識の二つの側面である。芥川は、インテリ的な立場と精神を肯定して五位の立場と精神を否定している。芥川は自分がインテリの精神世界を描いているという限界を意識しておらず、それを普遍的な精神だと思っており、括弧のなかに平凡な教訓を書き添えている。肯定すべきものを発見出来ず、描写できず、否定的に描写した上でそれを否定してはいけない、というのは虚偽であり偽善である。
 
 ■それ以来、この男の眼にだけは、五位が全く別人として、映るやうになつた。栄養の不足した、血色の悪い、間のぬけた五位の顔にも、世間の迫害にべそを掻いた、「人間」が覗いてゐるからである。この無位の侍には、五位の事を考へる度に、世の中のすべてが急に本来の下等さを露すやうに思はれた。さうしてそれと同時に霜げた赤鼻と数へる程の口髭とが何となく一味の慰安を自分の心に伝へてくれるやうに思はれた。……
 
 アカーキーは同僚の無情を責めているのではなく、具体的に仕事の邪魔をすることを責めている。誰もが自分の人生をもっている点で人間は平等である、だから、私に干渉せずに、あなたがたも自分の満足を求めておればよい、という意味である。アカーキーは「世間の迫害に『べそをかいた』、人間」ではない。世の中の本来の下等さは、五位を軽蔑する事ではなく、軽蔑の前提となっている、五位の生活と精神の無理解にある。五位の人格性を否定して同情することが本来の下等さである。実質的に否定して形式的に肯定するのは芥川の良心の肯定であり、五位の肯定ではない。「人間」が覗いている、というのは、惨めな人間もやはり人間だという意味であり、人間は惨めなものだという認識であり、五位は惨めであってそれでよいという断定である。それが「人間」であるというのは芥川の偏見である。芥川はこうした総括の後、安心して再び惨めさを強調している。芥川は同情において惨めさを好む悪趣味と、冷淡で陰気な感性を持っている。
 芥川は、五位の希望によってさらに惨めさを強調している。五位は「軽蔑される為にのみ生まれて来た人間」ではなくて、希望をもっている。それは芋粥に対する「異常な執着」である。芥川の現実認識が生み出す惨めな生活から生まれた惨めな希望である。鴎外の「高瀬舟」も異常な執着によって惨めさを強調している。
 五位の希望は芋粥を食う事だけである。生活の全体や精神の肯定、充実とは無関係な一つの食欲が五位の希望である。生活全体の肯定となる希望ではなく、他に何もない、と言う意味を持つ惨めな希望である。他の生活全体を否定するための惨めな希望である。
 
 ■人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。その愚を哂ふ者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。
 
 芥川のわざとらしい説明には無理がある。人間が芋粥に執着し、芋粥だけが唯一の欲望になるほど卑小になることはないだろう。こんな人生を哂ふ者は人生に対する路傍の人に過ぎない、と考える人が人生に対する路傍の人である。
 芥川は基本的に五位を軽蔑しており、それ以上の感情を知らず、この一点で作品を描いている。五位に芋粥を振る舞う利仁も五位を軽蔑している。この軽蔑が人間関係の展開の基軸になっているから積極的な関係が不自然になる。五位を軽蔑している利仁には、五位にわざわざ芋粥を振る舞う動機が生まれようがない。これは筋の展開として今昔から借りただけのものである。悪ふざけだけでこれほどの手間をかける事が自然に見えるのは、芥川の陰気な悪趣味のせいである。
 五位は、芋粥を喰えそうになると、それがそう早く来てはならないような気がする。芥川はこの「矛盾する二つの感情」を実質的な内容として膨らませている。この瑣末な矛盾が大きな意義を持つのは、惨めな希望を実現によって否定するという芥川らしい図式のためである。こんな図式には精神として何の価値もない。
 五位は同僚に軽蔑され嘲笑され、芋粥を食うことだけが希望で、利仁に嘲笑されながらいやながらついて来て、芋粥を食えるとなると一層嫌な目に会う。大量の芋粥をみて食う気をなくしたが、利仁の舅に勧められていやいやながら飲み干し、利仁は「意地悪く笑いながら」なお無理強いする。何の楽しみもなく満足もない。ゴーゴリの「外套」には情熱ともいうべき自己満足があり、今昔物語には全体におおらかな満足が溢れている。芥川はそれを全て消し去って、インテリ世界に充満している軽蔑や嘲笑や不満や遠慮や気遣いに変えてしまった。芥川の創造はこの不自然な部分だけである。原典の方がはるかに優れている。
 芥川は『鼻』と同じように、希望をかなえた後に過去を肯定している。
 
 ■「色のさめた水干に、指貫をつけて、飼主のない尨犬のやうに、朱雀大路をうろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ慾望を、唯一人大事に守つてゐた、幸福な彼である。
 
 芥川の同情は冷たい。芥川は五位を惨めさの中に押し込めようとしている。芥川は同情を徹底して同情を克服するのではなく、希薄な同情からエゴイズムに復帰する事を智恵としている。憐れむべき孤独な人生であっても、芋粥に飽きたいという欲望をもっていれば幸福である、と考え、それでは飽き足らず、その幸福を実現することにひどい罰を与えている。芥川は惨めな欲望を持つ事で惨めな生活に満足することを真理として押しつけている。これは鴎外の『高瀬舟』と同じで、下層の人間に対する極端な蔑視である。 
 芥川に悪意はない。芥川が天才を描こうと平凡な人物を描こうと、また善意であろうと悪意であろうと、その精神世界が非常に狭いために、描かれた人物はその精神世界に拘束され閉じ込められる事になる。その結果として対象否定になる。だから、芥川自身が自我をより広く展開するためにはこの限界を意識しなければならない。五位の現在を超えて肯定する事が芥川の自己の限界を超える事でもある。
    (2007.05.20)


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