『花子』 (明治43年7月) 

 この作品は、鴎外が内的な衝動によって書いたのではなく、ロダンについての新聞記事を小説的に器用に装飾した作品である。内容が俗物的で下らないものであっても、日本の保守的なエリートの精神を描いた、日本社会に巣くっている根深い俗物根性を対象化した作品のほうがやはり内容豊富であるし、理解する価値はある。とはいえ、ロダンの言葉に刺激された鴎外の好奇心にも、保守的官僚らしい低俗な美観があらわれている。

 「広い間一ぱいに朝日が差し込んでゐる。この Hotel Biron といふのは、もと或る富豪の作った、贅沢な建物であるが、つひ此間まで聖心派の尼寺になつてゐた。Faubourg Saint-Germain の娘子供を集めてSacre-C ur の尼達が、此間で讃美歌を歌はせてるたのであらう。
 巣の内の雛が親鳥の来るのを見附けたやうに、一列に並んだ娘達が桃色の唇を開いて歌ったことであらう。
 その賑やかな声は今は聞えない。」

 ロダンの仕事場についての文章は知識の伝達である。Faubourg 以下の文章は、鴎外の感性による創作である。ロダンの仕事場に甘ったるい文章を付け加えている。さらに 「いくつかの台の上にいくつかの粘土の塊がある」などといった無意味な文章が続いて、また事実についての知識が挿入されて、「ロダンは晴やかな顔をして」とか「別に顔色も動かさなかった」といった、鴎外が肯定的人物を描く場合の紋切り型の描写が割り込んでいる。書き方は不平や不満を書くときとよく似ている。
 「もう長くゐますか。」
 「三箇月になります。」
 「Aves-vous bien travaille ?」
 学生ははっと思った。ロダンといふ人が口癖のやうに云ふ詞だと、兼て噂に聞いてゐた、その簡単な詞が今自分に対して発せられたのである。
 「Oui,beaucoup,Monsieur!」と答へると同時に、久保田はこれから生涯勉強しようと、神明に誓ったやうな心持がしたのである。
 鴎外の知識は鴎外らしく生かされている。「Aves-vous bien travaille ?」が、ロダンのよく使う言葉であることを本で読んで、それを直接使って「その簡単な詞が今自分に対して発せられたのである。」と書く事だけで小説的な効果を狙っている。そして、「学生ははつと思つた。」と書く事で、学生がロダンの言葉を真剣に受け止めた印象を与えようとしている。それで終わりである。ロダンの言葉がどれほど深刻な意味を持っているかを理解することはできないし、理解できていない事を予感する事すらできない。ロダンの言葉から、「久保田はこれから生涯勉強しようと、神明に誓つたやうな心持がしたのである。」という程度の教訓を受けることが鴎外のロダンについての理解の到達点である。鴎外は社会的に高度の内容を描くための芸術家の苦悩など知らなかったから、芸術の創造と「よく仕事をする」ことの内容的な関係には考え及ばない。鴎外はもともとディレッタントであるから、「よく仕事をする」という言葉を深刻に受け取る事ができないのである。
 久保田の心は一種の差恥を覚えることを禁じ得なかった。日本の女としてロダンに紹介するには、も少し立派な女が欲しかったと思ったのである。
 さう思つたのも無理は無い。
 鴎外の主な好奇心は、ここにある。「そう思つたのも無理は無い」は鴎外の素直な感想で、それに続いて、花子がいかに別品でなく上品でなく「子守あがり位にしか、値踏出来兼ねるのである」かを詳しく書いている。女性を別品であるかどうかという観点から褒めたりけなしたりするのは、鴎外のすべての作品に出てくる女性観である。だから、巨匠であるロダンが、意外にも別品でない花子を高く評価している、というところを鴎外は面白いと思っている。
 「意外にもロダンの顔には満足の色が見えている」というのは、ロダンの言葉から受けた鴎外の印象であって、ロダンの描写としては馬鹿げている。まさかロダンが、別品でも上品でもない花子に魅力を見つけた事に満足することはないであろう。ロダンの偉大さをこんなところに見いだすのは鴎外くらいのものである。花子は当時の日本人女性としてはめずらしいほどに教養もあり、力量もあってヨーロッパに通用する女性であった。自分より地位が下の女と見ればすぐに見下すのは鴎外の悪い癖である。また、ロダンには別品だとか上品だとかいう鴎外的なこだわりなどあるかずがなかった。ロダンにとっては花子の特徴が、直接美として反映するのであって、見かけは別品でないがという下らない折り返しはない。別品かどうか、を少し超えた美意識を持つことがロダンの偉大さではない。ロダンの言葉にこんな意味を見いだして感心するのは遅れに遅れた日本の、その中でも更に遅れた保守的文士的な官僚くらいのものである。
 「そこで相談があるのだ。一寸裸になって見せては貰はれまいかと云つてゐのだ。どうだらう。お前も見る通り、先生はこんなお爺いさんだ。もう今に七十に間もないお方だ。それにお前の見る通りの真面自なお方だ。どうだらう。」
 こんな描写は下心の充満している鴎外らしくて滑稽である。別品かどうかだけでなく、どうしてもここまで描写しないと気が済まないのが鴎外の俗物根性の根強さもあり、女性についてこれより他に関心を持てなかった官僚作家の悲しさである。素人がモデルとして裸になるのに抵抗があるのは当然である。しかし、それを説得するのに、芸術家がおじいさんで真面目であるということが問題になるとは思われない。モデルが裸になる時に心配なのは、芸術家が何をしでかすか分からないといった、あるいは下心が有るかもしれない、といったことではないであろう。鴎外は美しい女を好奇心の対象としてのみ描いているから、芸術家の前であっても、こんな関心を持たれるかどうかがモデルの心配の種だと思うのであろう。ばかばかしいことこのうえない。
 このあと、文士らしい描写をしてロダンの言葉を引用している。ただ、引用するだけで、ロダンの言葉に内容上の感銘を受けたとは考えられない。鴎外がロダンの言葉を新聞で読んで作品を書こうと思ったのは、巨匠であるロダンが別品でも上流でもない花子に興味を示し、筋肉や関節のことに触れており、それが地中海やヨーロッパのタイプと違う、という鴎外としては意外な、しかし、意味の分からない言葉だったからである。

 

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