『半日』 (2) (明治42年3月) 


 鴎外はこの作品でつまらない家庭的経験を羅列的に描写している。この生活が「半日」ではなく、7年も半生も一生も続くのでは実際に耐えがたい。しかし、この小説の意義は、こうしたどこにでも見られる実例を描いていることにではなく、この現実についての保守的なエリートに特有の認識が描かれていることにある。鴎外は奥さんの弱点とそれに耐える博士を対比することで自分の道徳的な正しさを証明しようとしている。これは「舞姫」以来見られる鴎外の基本的な特徴であるが、この作品では、「舞姫」のような甘い偽善的な形式は消えている。。博士と奥さんの関係は出世を目指す豊太郎と違って、すでに出世した鴎外がつきあたった現実的問題を描写しており、鴎外の精神が現実的で実質的な内容において描かれている。
 博士は自分の収入と財産を奥さんから守ろうとしており、この本質的な点で非妥協的である。奥さんの基本的な不満と不安は会計が秘密にされていることである。「此内に財産がいくらあるか、あなたの月給がどうなるのだか、少しもわたしに知らせないで置いて、あなたが亡くなりでもしたら、わたしと玉ちやんとはどうなるのです。」というのは当然の不安である。インテリ的とも官僚的とも言えないほどの保守的な扱いを受けては、ヒステリーになるとしても不思議ではない。遺言について博士は、「おれは公証人を立てて、立派に遺言がしてあるから、お前や玉の困るやうな事はないのだ。」というだけで、遺言の内容は秘密のままである。家計や遺言の内容が秘密にされていることに対する不満が道徳的、性格的な弱点として非難されるというのは、お嬢さん育ちの奥さんでなくても耐えがたく、耐えるに値しない人間関係である。
 
 「お母様の処にはない。そりやあ遺言状の効力を失ふ場合もある。まあ出来る丈確実な方法を取って置くといふ訣なのだ。勿論公平に書いた積だが、あれもお前がお母様につらく当つて、お母様が、若しおれがどうかした時に、どうならうか知れないといふので、心配して入らつしやるから、拵へることにしたのだ。馬鹿らしい。財産といふ程のものはないのだから、遺言状なんぞは一体入らないのだ。お父様が生きて入らつしゃつて、おれの兄弟が内にゐた頃の事を考へて見ると、内ぢゆうで誰も死んだらどうの、金がどうのといふやうな事を考へてゐたものはないのだ。年寄は年の寄るのを忘れて、子供の事を思ってゐる。子供は勉強して、親を喜ばせるのを楽にしてゐる。命も何もありやあしない。心と腕とが財産なのだ。それで内ぢゆう揃って、奮闘的生活をしてゐたのだ。その時は希望の光が家に満ちてゐて、親子兄弟が顔を合せれば笑声が起つたものだ。」博士は玉ちゃんを抱き緊めた。「玉なんぞは親の笑ふ声を知らないのだ。」
 高山家では、博士にとっても母親にとっても奥さんにとっても、財産がもっとも重要な関心事であり、財産が彼らの人生の保証である。財産が彼らの人間関係をつなぎ止めていると同時に、財産が不信感の基礎になっている。高山博士は、財産だけが頼りである家庭で、会計を奥さんに秘密にし、この世界でのもっとも深刻な人間不信を実行している。財産をめぐる対立を引き起こしているのは会計を秘密にする高山博士であり、博士は財産を管理する力によって自分の強い立場を守っている。しかし、高山博士は財産に対する自分の執着を意識しておらず、財産ではなく、人格を問題にしている。奥さんの人格が信用できないから財産は渡さないし会計を秘密にしておく、と説明している。財産を確保した上で、財産に執着するなと説教している。博士のこの偽善的な屁理屈がいっそう奥さんを苛立たせ信頼関係を崩壊させている。高山博士は会計を知らせることで奥さんの不安を解消する意志をまったく持たず、奥さんとの対立関係を固定し深刻化しているだけである。
 財産や地位を求めている段階では、財産を得るための人間関係が形成される。地位と財産を求め、得られた地位と財産を人生のすべてだと思っている博士と母親の信頼関係である。高山博士は、地位と財産を守る立場になって、この古い関係を財産の管理によって保守的に守ろうとしている。
 財産に執着する精神は、平凡で経験的な精神の運動であるから、思想的な訓練なしに自然に発展する。地位と財産に対する執着から自由な精神を得ることがこの階級にとっての困難な思想的な課題で、漱石にとっては全生涯をかけた課題であった。漱石は鴎外と逆に財産を批判し、財産を拒否することを道徳的な精神としており、全作品の系列によってその道徳的な意識を具体化し発展させた。「猫」では、財産のない貧しい生活に満足した世界を描き、「虞美人草」では、地位や財産を持つ生活に対する批判意識を前面に押しだし、甲野さんは財産を放棄する決意をしている。しかし、財産の放棄が甲野さんにどのような精神をもたらすかはまだわからない。財産を放棄する決意はまだ財産に規定された精神である。財産の放棄というこの階級としては最大限の決断も新しい精神の出発点にすぎない。しかし、この漱石の精神の方向だけが豊かな精神の内容を生み出すことをその全作品系列が示している。鴎外は逆に、財産が生み出す人間関係の矛盾に直面して、財産を維持管理し抜くことを道徳的な意識として発展させている。高山博士は非妥協的に、几帳面に、断固として財産を守り抜き、それによって徹底して財産の運動に規定されて、不毛で不生産的で陰気な人間関係を作り上げている。しかも、それによる人間関係の崩壊を意に介さず、その崩壊によって自分を肯定するほどに徹底して地位と財産しがみつくことで精神を貧困化するのが鴎外の精神の運動である。
 博士は贅沢を好まず、質実で真面目な生活をしている。つまり多くもない財産を食いつぶさないように守って生きている。博士の道徳はこの一点に帰着する。そして奥さんの浪費壁はこの博士の道徳律と対立しており、それがすべての不信感の基礎にある。個性や習慣や趣味などのあらゆる個人的な対立がこれを基礎にして体系的に成長している。博士が人間的な品位や能力を重視する、というのは消費に走らずに自分の欲望を地位と財産相応に制限すべきだということである。博士にとって地位と財産の限度は明らかであるから、その地位と財産を傷つけない限りでの教養的な、精神的な価値に興味を向けることがこの階級の必然であり、精神的な価値の追求が財産に対する執着を覆い隠すにことなる。長年の努力によって得られた財産と地位とそれを守るための規律的な精神の体系が、奥さんによって脅かされている、というのが、高山家の「半日」の世界である。
 長年の努力によって財産や地位を得た博士や母君は財産と地位を守ることを最大の道徳と感じており、大きな財産の中で育った奥さんは、財産を消費することに喜びを感じている。この価値観の対立が、博士には、忍耐力や自制心や向上心を持つか持たないか、の形式的な対立に見える。博士の地位と財産は、これまでの家族の労苦の結晶であり、人生としての価値を持っている。お嬢さん育ちの奥さんが、同じ意識をもたないことが、博士にとっては、価値観の違いではなく道徳性や価値観の欠如だと感じられる。鴎外が奥さんの不満をはっきり描いているのは、奥さんの会計に対する不満にいかなる正当性もないと信じており、奥さんの不満によって博士の本質的な弱点が暴露されているとは思いも寄らないからである。

 博士の家庭的な対立は博士の努力の成果でもある。博士が努力の末に得た地位と財産によって、博士はお嬢さん育ちの奥さんと結婚することができた。これも上昇志向の強い博士の階級に特有の欲望である。下層の世界から競争によって抜け出し、上層の世界での矛盾を獲得している。
 奥さんのだらしなさというのは、博士の地位と財産に対する執着が足りないことであり、換言すれば博士の地位や財産や価値観に縛られないことである。財産との関係で言えば、博士は小さな財産に縛られており、奥さんはより多くの財産に縛られているということである。博士の自制心や道徳的な意識が長い人生のすべてを掛けて形成されたのと同様、奥さんの消費的な生活にも長い人生が含まれている。したがって、客観的には、小市民的な博士一家とブルジョア的な奥さんの対立にすぎないが、博士は小市民的な生活や価値観が絶対的であると考え、それに反することは非人格的であり、非道徳的であると考えている。小市民的に頑迷な世界に嫁さんとして入り込んだことは、奥さんにとってはまったくの災難であるが、それも日本的に貧相なブルジョアの必然でもある。奥さんとその家族にしても、そこそこの生活ながらも知的で教養的な生活を博士に期待したのであろうが、ブルジョア同様未熟なエリートの世界はけち臭い道徳に縛られており、不幸な奥さんは、博士の世界で生ずるすべての矛盾の捌け口にされている。貧しい生活から抜け出し、ブルジョアとの関係を持つまでに出世した鴎外は、出世主義者らしい矛盾を多く経験したが、ブルジョア的な社会と対立するほどの勇気をもたなかった。ただ、ブルジョア的な価値観を持つ、しかし立場の弱い奥さんに対しては非妥協的に、冷酷に対処することができたのである。
 鴎外は出世主義的な欲望が強く、しかも出世主義的な欲望を表に出さない用心深さを持っていた。高山博士が得た悲惨な家庭生活は、地位と財産に独特の形式で執着する博士の人生の必然的な帰結であり、それを維持しているのも博士である。しかし、出世と財産に対する執着がこの生活の本質であることを理解しない博士は、自分の家庭生活を、出世したにもかかわらず遭遇した偶然的な不幸だと考え、諸悪の根源が奥さんにあると考えている。客観的には、博士の地位と財産と価値観が、奥さんの価値観との対立によって客観的には相対化されているのであるが、博士はそれを認めようとせず、奥さんが間違っていると確信しており、その結果として価値観をさらに偏狭化している。ある程度の財産や地位を持つ小市民が、幸福になる物質的条件が揃っているにかかわらず、性格の悪いエゴイストのために幸福が損なわれると考えるのは、財産に執着した視野の狭い彼らの自然な現実認識である。小市民的な財産と地位は必然的にこのような矛盾を生み出し、その矛盾への対応として高山博士のような頑迷で個人に対する復讐的な批判意識を特徴とする保守的な道徳的精神を生み出す。そしてその頑迷さが彼らの財産と地位と価値観を崩壊させる要因となるのも社会的な必然である。
 
 何にしろ嫌ではない。若し夫を持ち更へて、その男が博士より嫌であつたら、どうしようと思ふ。二度目では大学教授位の位地の人を夫に持つことはむつかしいかも知れぬとも思ふ。一転して夫の母がゐさへしなければ好いのだと思ふ。どこぞへ往つてしまへば好い。夫の姉の内へでも往けば好い。いや、あそこにも姑があるから、所詮往かれぬ。いつそ死んでしまへば好いと思ふ。かう思つて、自分で怖ろしい事を思ふとも何とも感ぜぬのを、不思議に思ふのである。
 鴎外がこうした異常に冷酷な文章を書くのは、その冷酷さを理解できないほどに冷酷な精神を持っているからである。奥さんはお嬢さん的な自由を失って、すでに愛情や信頼関係をあきらめて、生活の安定と平安だけを求めている。博士は、寒々しい矛盾の中で奥さんを家庭につなぎ止めているのが博士の地位と財産であることを知っている。奥さんがそういう状況にあり、自分がそれを知っていることを、会計を奥さんに秘密にしたまま鴎外はこの作品で強調している。独立的に生きていく訓練をする機会のなかった奥さんにとって、いかに不満が多くても今の状況よりましにはならないことが身に沁みてわかっているだけでなく、こうして公に宣言されている。親の財産による保護を失って、わずかな財産と教養を後生大事にしている世界に落ち込んで、人格を管理される境遇に陥ったのは奥さんの不運であった。しかし、地位と財産による自分の優位を奥さんを非難することでかみしめることに自分の肯定を見いだしている博士の人生は、奥さんの人生よりはるかに悲惨であっても不運ではなく、博士自身の必然であり、奥さんがいてもいなくても、奥さんが誰であろうと、同じ必然の悲惨をなめる運命にある。
 お母様はかう云つてゐる。「あの嫁さんに会計を渡したら、わたしは其日から、ちよいと何かでお足が入ることがあつても、頭を下げて往つて頼まねばならない。娵さんは此内へ来て、婚礼の日に親類の杯をした時お辞儀をした切で、お辞儀といふものをした事のない人だ。余所へ往かうが、帰つて来ようが挨拶をした事はない。そこへ往つてわたしが頭を下げるのはいかにもつらい。あんな人でさへなければ、娵さんに会計を渡すのは、貰はない前からの覚悟なのだから、とうにこつちから進んで渡してしまふのだ。その上来た当分の娵さんは、会計などをしようといふ風ではなかつた。今でもわたしのした方が、物いりは半分で済む。」と斯う云つてゐる。お母様の云ふことは一々尤だ。お母様にお辞儀をしなければならんといふことは、初は優しく言ひ、後には叱つて直させようともして見たのだが、とうとうだめであつた。
 鴎外は、お母様に主張させ、その主張を認めている。奥さんに会計を任せないのは、性格が悪いからである、と説明している。礼儀作法、性格、口の聞き方、立ち居振る舞い等々の瑣末な対立形式が指摘され、その結果として会計が秘密にされていると認識されている。まず奥さんの性格、価値観を直さないかぎり会計を渡すことはできない、とされている。精神的な道徳的な形式で争われていても、本来の対立は財産をめぐる対立であるから、奥さんに会計を渡すことで解決するという方法は問題にならず、奥さんに会計を渡さない理由だけが問題になる。博士と母君にはとって、現在の状況を造り出しているのは財産への執着であるが、最悪の自体になっているときこそ、彼らの最後の砦となるのはなお財産であり、この点での妥協はどのような場合でも問題になり得ない。財産を守るために奥さんを非難する材料がいくらでも見つかるだろうし、それを見つけることが彼らの本能であり能力である。
 高山博士は奥さんとの対立を、会計を博士が担当することで解決した。しかし、会計は奥さんに秘密にされたままである。高山博士の陰険で老獪な、奥さんを苛立たせる性格がよく出ている。奥さんの不安は会計が秘密にされていることであり、博士に対する不信感もその点にある。しかし、奥さんの立場として博士との直接的な対立はできないために、会計を預かっている姑との対立が表に出る。高山博士はこの奥さんの立場の弱さを利用して、奥さんの不安が母親との対立だけにあったかのように扱い、母親と奥さんの対立の板挟みの中で、客観的で中立的な立場をとった風に装っている。奥さんの不満が姑に向けられていたことを利用して、会計を秘密にしたまま、それを妥協と言い、「先づ先づ現状維持だと、博士はかう思つた。」と鴎外は書いているが、実際は現状の悪化であり、博士の立場が強くなっただけである。奥さんの不満は姑にさえ向けられなくなり、ごまかされ、裏切られたという思いを持ちながら、それを博士に訴えることができないことをはっきり思い知らされている。こうした徹底した不誠実は意図したものではなく、鴎外の性格に根付いた本能的なやり方である。
 奥さんは迷信家で、夫の母君の干支を気にして、向うを剋殺せねば、自分が剋殺せられるといふやうな事を思つてゐる。これも antipathy の一つの原因である。これは幕府末造の江戸の町に生れて育つた、紀尾井町のお母様の系統を承けてゐるのである。
 博士は、奥さんを強引にごまかして奥さんの意志をくじいた上で、奥さんに対する批判を楽しんでいる。会計を秘密にしたまま、奥さんを迷信家として、それを antipathy などという英語で表現して、さらに奥さんの生まれ育った環境によって位置づけるという手の込んだ、意地の悪い、いかにも奥さんを苛立たせる批判をしている。鴎外の学問はこうした意地の悪さを発揮するための手段としてのみ意味を持っている。高山博士は家庭の崩壊に対して、穏やかに冷やかに学問的に自己を守っている。高山博士に生活を依存している奥さんを守る意志を博士は持たない。守る気はあるが、奥さんが悪いから守ることができない、と説明している。守らないことを正当化する冷静な説明が冷たい。自分が冷たいのではなく、奥さんが冷たくさせているというこの説明が冷たい。博士は自分と奥さんの言動や感情の描写の効果を配慮しながら、用心深く自己を表白し、その結果として用心深い自己を吐露している。いかに用心深くても、用心深さ自体を反省することはできず、用心深さ自体に対しては用心深くないために、この点については常に不用心で、露骨であり、読者に冷酷な印象を与えている。
 博士は会計の事を、奥さんの議論の理性的方面と名づけて、母君に対する嫉妬を意志的方面と名づけてゐる。奥さんの、博士と母君とに物を言はせまいとするのが、嫉妬だといふことは、不思議にも紀尾井町のお父様が最初に判断した。娵に来た当座に、どうも夫と姉君とが話をするのが見てゐられぬので、席を起つと云ふことを、里へ帰つて話すと、「それは嫉妬だな」とお父様が道破したと云ふことである。芸者といふ動物は見るのも気にくはぬといふ博士であるから、家の外には嫉妬をすべき因縁がない。小間使を置いても、様子の好い仲働を置いても、博士は焼餅を焼かせるやうな言語挙動をしたことがない。そこで母君が嫉妬の対象になつたのであらう。
 これも鴎外らしい考察である。これほどに陰気にねじれた精神も珍しい。奥さんの特徴を嫉妬だとして、しかも「不思議にも」それを発見したのが、「紀尾井町のお父様」だとするところが、鴎外らしい周到さである。母親の意見や「紀尾井町のお父様」の影に隠れて奥さんに対する批判の客観性を装っている。しかし、鴎外には理解できないことであるが、こうして奥さんに対する非難を徹底し、しかもその非難から自分の意志をも消し去ろうとする鴎外らしいやりかたを徹底するほど、鴎外自身や高山博士の精神が表に出てくる。奥さんに対する非難の手が込んでくるほど博士の屈折した精神が表に出る。その手のこみ方が鴎外の精神の姿である。奥さんに対する批判は、自分の地位と財産に対する博士の執着と、地位と財産以外にどのような信頼関係をも必要としておらず、人間関係の崩壊によってのみ、他人の否定によってのみ自己を肯定できる性格であることを明らかにしている。しかし鴎外は、奥さんについての否定だけを描写していると確信しており、奥さんについての否定を描写している自己をも描写していることにまったく気づいていない。
 奥さんの頭の中では、又考が前のとほりに、どうどうめぐりをしてゐる。夫に別れるのも嫌な事だから、それを思ひ切つてすることはできない。姑君に頭を下げるのも嫌な事だから、それも思ひ切つてすることは出来ない。折々どこかへ行くなぞと云ふ時も、又帰つて来れば同じ事だと知り抜いてゐて云ふのである。
 こんな文章を書く鴎外ないし高山博士の心理を理解するのは難しい。ここまで奥さんの弱い立場を冷静に観察して、しかもそれを理解するでも対処するでもない自分を吐露して平気であるというのは普通ではない。奥さんの立場の弱さを冷静に観察して確認するだけでなく、奥さんにも思い知らせることを楽しむ、冷たい血が流れている文章である。博士は陰気な家庭で冷たい楽しみを味わっている。信頼関係を形成することではなく、関係を破壊して、自分の優位を認識することが鴎外のいつもの自己肯定であり満足である。奥さんを非難し、説教するだけでなく、関係を改善する意志をもたず、持たないことを示し、奥さんの弱い立場の確認にまで至るのが、鴎外らしい精神の徹底である。育った環境とまったく違った価値観の世界に落ち込み、逃れることもできず、そのなかでこのように冷淡に扱われる奥さんの人生は哀れである。小市民的な人生に不幸はつきものであるが、これほど徹底した不幸は少ないであろう。
 「わたし又何かのお稽古に行くことにしたら好いかと思ふわ」と云ひ出す。博士は始てこれを聞いたとき、なる程何か芸術に身を入れるやうになつたなら好いかも知れぬと、半分程首肯して、さて奥さんの考を聞いて見て驚いた。奥さんは何も芸術などをしようとは思はぬのである。お嬢さんの時に稽古に行つたのもさうであつた。日本絵の先生にも通つた。琴の師匠にも通つた。絵を書かうとも、琴を引かうとも思ふのではなかつた。只ただお仕舞をして、車に乗つて、紀尾井町と其先生、其師匠のゐる町との間を、毎日往復するといふのが、所謂お稽古の概念なのであつた。今いふお稽古もそれである。博士は此事が分つたとき、そんな事なら、何も入費を掛けて、夫人の身となつては、多少の嫌もある芸人附合をしなくても、散歩をするが好からうと云つた。博士は又一歩を進めてかう云つた。「一体悪い癖なんぞがあるなら、それを土台から直しに掛かるが好いではないか。お前はどうかして、一寸それをぼかして過さうと云ふのだ。それは下らない事だ。病気で痛む処があれば、其病気を直さねばならない。モルヒネで痛を止めて置かうといふやうな、姑息な事には賛成が出来ない。」とかう云つて、一切の palliativ の手段を排斥したのであつた。奥さんは又此お稽古の事を思ひ出してゐる。夫が散歩を代用にしろと云つたのは、甚だ不服である。奥さんは自然に対して何等の興味をも持つてをらぬ。娵に来た当座、博士は花なぞを持つて帰つて遣つたことがあるが、奥さんは少しも喜ばなかつた。それから「お前は月なぞを見て何とか思つたことがあるかい」と問うて見た。奥さんは不審らしい顔をして、「いゝえ」と云ふのみであつた。さういふ訣だから、散歩をしたつて面白くないのも無理はない。町を歩いて窓の内に飾つてある物を見ても、只ただ見て面白いとは少しも思はぬ。「買はない位なら、見ない方が好いわ」と横を向くのである。なる程散歩は嫌な筈である。
 博士と奥さんの対立は日本らしい必然とはいえできすぎている。博士は小市民的な規律を徹底しているし、奥さんは金持ちのお嬢さんらしい習慣を見事に身につけている。折り合いの着きにくい対立が結婚で組み合わされている。趣味をも金によって計算しようとする博士の厳しい価値観に従うことは、お嬢さん育ちの奥さんには理解することも耐えることもできにくいであろう。奥さんにとっては入費を掛けて出かけることが目的であるが、博士にとってはそれは手段にすぎず、入費をかけるなら、なにか芸を身に付けなければ入費が無駄になると感じられる。苦労して得た地位と財産を無駄に使ってはならないと考えているが、何が無駄かを考えることができず、無駄の基準が地位と財産を守ることであることも理解していない。博士が努力を怠らず、入費を無駄にせず、時間を無駄にしないというのは、学問を得ることであった。学問によって地位と財産を得ることであった。しかし無駄のない努力は同時に、奥さんへの対応に見られるように頑迷で偏狭で冷たい、屈折した性格をも作り上げた。学問といってもたいした意味があるわけではなく、精神を歪める成果の方がはるかに多く、奥さんが浪費的な生活でえた自由な性格にはるかに劣ることを博士は理解できない。高山博士の真面目さや几帳面さは、一度それを限界と感じ、拘束と感じることができれば、とうてい我慢のできない精神の体系である。しかし、博士はそれを変更の余地のないほどに仕上げており、その頑迷な価値観が引き起こす他の人間との衝突によって、さらに頑迷さを募らせ、衝突の種を増やしている。しかも、それに対する入費を惜しまないという愚かな努力をしているのである。
 博士は、自分を自己を抑制した、道徳的にすぐれた人格だと確信している。それは間違いである。博士は独特の冷酷なやり方で自分の意志を押し通しており、この確信とやり方が人を苛立たせている。博士の几帳面で規律的で自制的な精神の内容は、小市民的な地位と財産に対する執着であり、地位と財産を人間関係より重視する、頑迷で偏狭で冷酷な価値観である。博士は奥さんとの対立によってこの価値観を徹底し発展させている。高山博士は奥さんを非難することで自分を肯定しているが、同時に、奥さんを否定することによって、博士自身が自分の暗く冷たい精神の中に押し込められているとも言える。すべては自己運動であり、奥さんは契機になっているにすぎないほど高山博士の個性は強くはっきりしている。もっとも大きな、耐えがたい、耐える価値のない矛盾を抱えているのは高山博士である。
 一体おれの妻のやうな女が又と一人あるだらうか。性欲の対象が妙な方角にそれるのを perverse だと云つて、病的にする以上は、嫉妬の方角になるのも病的ではあるまいか。人の声に対する異様な反応なぞも、病的であるといふ証拠になりはすまいか。こんな考は余程早くから博士の胸に往来してゐる。それで博士がある時「お前は精神が変になつてゐるのだ」と云つたことがある。奥さんはそれを紀尾井町のお父さんに話すと、「けしからん事を言ふ男だ、人を精神病者だと認めるといふのは容易ならぬ事だ、専門家に鑑定でもして貰つた上でなくては言はれない筈だ」と云つたのを、奥さんが帰つて話したこともある。無論精神病者とは認められまい。併し真の精神病者と健康人との間に、限界状態といふやうなものがありはすまいか。若し又精神の変調でないとすれば、心理上に此女をどう解釈が出来よう。孝といふやうな固まつた概念のある国に、夫に対して姑(p103)の事をあんな風に云つて何とも思はぬ女がどうして出来たのか。西洋の思想から見ても、母といふものは神聖なものになつてゐるから、夫に対して姑を侮辱しても好いと思ふ女は先づあるまい。東西の歴史は勿論、小説を見ても、脚本を見ても、おれの妻のやうな女はない。これもあらゆる値踏を踏み代へる今の時代の特有の産物か知らんと、博士はこんな風な事を思つてゐる。
 博士は奥さんを徹底的に批判している。精神病とまで言い、東西の歴史にも小説にも存在しない、とまで言っている。これは鴎外の正直な告白であろうし、鴎外らしい現実認識の限界である。鴎外にはこうした現実認識がいかに自分の精神の偏狭さと冷淡さを示ているかを理解できず、その無知故に保守的なエリートの心情を正直に吐露している。奥さんの性格や心理は理解できないものではない。奥さんの立場に視点を変えて、「一体私の夫のやうな男が又と一人あるだらうか」という疑問の方が自然であるし、この疑問に答えるのは非常に難しい思想的な課題である。これほどに冷たく、これほどに偏狭で頑迷で、自己を肯定することにのみ関心を持つ人物がどのようにして出来上がったかは日本史の秘密に属することであり、「今の時代の特有の産物」である。鴎外の冷たく歪んだ精神は実際に病的と思えるほど徹底している。妻が病気ではないかというほどの非難を小説に書いて発表するのは、それこそ病的な精神である。こんな小説の発表に奥さんが反対したのは当然である。しかし、この作品の公表によって品位を傷つけ、深刻な批判の眼にさらされるのは、こうした冷酷な批判を発表した鴎外の方である。

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