哲学ノート/「小論理学」ノート
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001--聴講者にたいするへーゲルの挨拶
ヘーゲルは、「哲学がふたたび注意と愛を人々から受ける」時代がやってきた、と宣言している。それは、「民族生活および国家の政治的統一を再建し救うための関心と闘争」を経験したドイツが、民族の独立を回復して国家的な発展の時代を迎えたからである。ヘーゲルにとっては、この闘争も世界精神の活動であり、それこそが論理の内容を創り出す活動である。世界精神は、現実のうちで忙しく働き、外部へ引っ張りだされた後に、自己自身へと帰り、その豊かな内容をヘーゲルの頭脳を経由して論理化する。カントが哲学の大変革の基礎を作り、徹底的に分離されたその論理を統一し変革する課題をヘーゲルは受け継いでいた。
現在の日本にそのような現実は現れていないし、理性の時代の兆しもない。理性の崩壊過程が徹底している時代であり、崩壊の後には建設が始まる以外にない、ということだけを理性に対する期待の根拠としなければならない時代である。「平凡な生活とつまらぬ関心は亡び去り、浅薄な理解や意見はその仮面をはがれて逃げうせる」時代ではなく、理性が浅薄な理解や意見に埋もれ尽くしている時代である。
しかし、この金融危機の時代は、実体的な内容を求める真面目さを生み出すかも知れない。高度成長期には実体的な真面目さは必要でなく、真面目さはせいぜい道徳的な形式をとった偽善にすぎなかった。現実の瑣末な利害関係に身を任せて現実に追随し現実を追認する思考の形式を整えることだけが思想の課題であった。それは、現実への追随と追認を批判意識と思い誤るほどに徹底した追随と追認であった。その追随し追認してきた現実が腐敗と崩壊の危機をむかえたとき、実体的内容への関心という真面目さが生み出されるかも知れない。
ヘーゲルは実体的真面目さ、つまり理性的な現実認識を阻害する二つの要因を批判している。一つは、信仰、感情、感得に止まるべきだという主張である。今の日本はヘーゲルの課題にはほど遠い地点にいる。日本では信仰、感情、感得、と対立するほどの理性は生れていない。信仰、感情、感得、に対して理性の誕生が待たれる時代であり、当為があるとすれば理性的であるべきである、ということだけである。
もう一つは不可知論である。真理は存在しない、あるいは真理は認識できない、とする主張である。日本の国民精神は、時間的なもの、過ぎ去っていくもの、偶然的なものに支配されており、否定的なもの外面的なものにのみ関係している。「真理とは何か」と問うて、真理は存在しない、と答えるのではない。真理は存在すると確信しており、偶然的で否定的で外面的で部分的であるものを真理だと信じている。だから理性に対する絶望はないが、絶望的な状況ではある。
ただ、ニヒルな感情が蔓延し、狂気や混沌が好まれる時代は過ぎさって、今その名残はインテリ世界に残っているだけの様に思われる。といっても、それは、すべての精神が死滅した結果であって、理性がそれに取って代わったのではない。
軽薄な感情と空虚な精神が幅をきかせている時代にヘーゲルは特に有益である。ヘーゲルを理解し、実体的な精神を得るには、真理を追求する勇気と、自己と理性への信頼が必要である。それは、バラバラの個人の中には生れない。理性そのものは、真面目で有能な個人の頭脳の中で生れるのではなく、やはり国民精神としてのみ生れる。国民精神として生れた時、それは真理の証であり、そのときはじめて真理は具体化される。そういう精神が生れる事を期待して、ヘーゲルを読んでいきたいと思う。
002--「第一版への序文」
ヘーゲル哲学では、普通証明という言葉で理解されているものは、理念の体系的導出を意味する。それがヘーゲルの哲学であり、それを実現する事が哲学の改造である。
叙述すべき内容がすでに知られている場合には、綱要で問題になるのは排列とか組立とかの外的な合目的性である。この場合方法とは、既知の内容を、整理し秩序づけることである。方法と内容は分離している。その秩序が内容にとって合目的である場合でも、それは外的な目的である。内容が既知のものとして前提されている場合は、内容と叙述する方法は独立している。
ヘーゲルの哲学的革新は、内容と方法の同一性を確立する事である。ここにヘーゲル哲学の認識論的特徴が出ている。
ヘーゲルはさらに、「普通のやり方」について、「まず一つの図式を前提してこの図式でさまざまな材料を、諸科学でなされると同様に外面的に、そして一層勝手に切りもりし、そして偶然的で勝手な結合をもって概念の必然性を満足させたと主張するやり方である。」と批判している。
この場合は、既知の内容を秩序立てて叙述する方法とは逆である。図式が前提されて、内容である材料を図式に取り込んで秩序立てる方法である。これは材料の必然性の構成ではなく、恣意的な構成である。この方法で材料を取り込む奇抜な形式を競ったところで、気紛れや無理なこじつけにすぎず、結局は平凡な思いつきにすぎず、要するに猿智恵である。
内容と方法の同一性は、両者ともに既知のものではない、ということを意味している。内容と方法は同時に生み出され導出されるものであり、内容は方法であり方法は内容である。内容を組み立て秩序づけるのは内容自身であり、その秩序、形式自体が内容の規定性である。だから、内容と形式と方法は同じである。内容の導出とは、内容自身が自己を否定して、新たな内容を生み出す事である。その生み出される過程が、内容が展開される形式であり方法であり、内容そのものである。
内容と方法をこのように捕らえる事が哲学の改造である。カントまでの哲学では内容と方法が分離されており、カントが分離を徹底し確定することによって、その統一が明確な課題になった。したがって、内容と方法の関係は、現実と主観、自由と必然、本質と現象、等々の全てのカテゴリーの関係でもある。これらのカテゴリーの同一性が「証明」であり、概念にもとづく媒介による内容の展開であり叙述である。
形式的規定であるが、以上のようにヘーゲルは考えている。
(2011.06.219)
003--「第二版への序文」(1)
真理の学的認識においては、「方法のみが思想を制御し、真理へ導き、真理のうちに保ちうる」ものである。思想を真理へと導くのは方法である。この方法とは、ある内容を秩序づける形式ではない。方法とは、思想がある内容を超出していくことである。ある内容からの超出とは、その内容を否定することではなく、その内容の絶対的内容を復興することである。しかし、同じものの復活ではなく、自由な地盤での復活である。新たな内容の産出である。つまり、その内容の普遍性の地盤での復活である。
▲、方法は内容自身の自己産出を意味している。方法は内容が内容を生み出す形式である。内容が内容を生み出すとは、内容がその内容の普遍性を生み出すことである。
こうした規定は形式的には正しい。しかし、内容が何でありどのように生み出すかが問題である。ヘーゲルの場合は内容が認識であり、認識の発展形式が方法になる。これは論理の展開形式ではない。もともと論理の発展において方法が問題になること自体認識論が哲学の内容になっているからである。しかし、哲学は認識論ではないから、ヘーゲルのいう方法を論理として採用することはできない。
ヘーゲルは、哲学がすべての意識の内的普遍であるという観点から、哲学があらゆる経験的認識や経験科学、さらに芸術と対立するものではなく、その普遍の確証であり規定である、としている。
哲学は、聰明な経験的認識や法の合理的な現実や、自然や歴史や芸術の偉大な形象と、対立しているのではない。哲学はこれらの諸形態を承認し、それらの正しさを確証する。思惟はそれらの内容のうちに深く透入し、それらから学び、それらによって自己を力づける。これらの意識緒形態の真の内容を思惟するものが哲学であり、思惟されたものが思弁的な理念である。したがってまた、思弁的な理念がこうした意識緒形態の真の内容であるのだから、それらから独立して存在するのではない。それらとの関係において、それらの内容として生み出される。だから、思弁そのものが自己を生み出していく学的導出の前にこうした過程が存在する。
▲、経験的意識や経験諸科学あるいは芸術の、正しさ、深い内容、真の内容が思弁的な理念である。思弁的な理念は、経験的意識や経験諸科学や芸術を前提として、その真の内容に入り込むことによって自己を生み出す。
実際そうであるが、これでは深い内容だとか真の内容とは何かがわからないし、ヘーゲルも理解していない。経験諸科学の普遍としての哲学とは存在を運動として規定することである。ヘーゲルはそのことを理解していないので、経験諸科学と哲学の関係を理解していない。ただ、哲学が経験諸科学の普遍であると考えている。だから、より普遍的でより深い内容が哲学である。
正しくは、経験諸科学は存在の普遍であり、存在の普遍の普遍が運動である。
哲学が経験諸科学や芸術の普遍でありその真の内容であることが十分に考察されず、見失われている場合、意識緒形態と哲学の対立が生ずる。あるいは、内容から分離した方法が生ずる。
経験的な意識緒形態の内容を論理へと純化したものが思弁的理念である。しかし、その内容をカテゴリーによって理解しようとし、あるいはカテゴリー化しようとする場合、このカテゴリー自身が概念にまでもたらさず、理念にまで仕上げられていない場合は、哲学との衝突が起る。逆に言えば、他の学問・芸術等の意識緒形態と対立しているカテゴリーは未だ概念ではなく、理念ではない。
▲、存在を運動として普遍的に規定するとカテゴリーになる。カテゴリーが存在の普遍としての運動の規定に到達していない場合は、経験諸科学とカテゴリーの内容が対立する。したがって、経験諸科学や芸術と対立しているカテゴリーは概念ではなく理念ではない。
しかし、経験諸科学と論理学には存在の普遍と運動の規定という大きな違いがある。ヘーゲルが言うように経験諸科学や芸術と哲学の内容は同じであり、哲学は他の意識形態の普遍であるから対立していないと言えるが、その内容がどのように対立し一致しているかを理解するのは非常に難しい。多くの場合論理的意識は経験的意識とは内容も形式もまったく違った振る舞いをする。その上で一致している。
ヘーゲルは哲学と経験諸科学や芸術との一致を強調しており、ヘーゲルの哲学は対立を含まない。それはヘーゲルの論理が存在の普遍だからである。ヘーゲルの哲学は、経験諸科学とはより深い、という意味で対立するだけであり、経験諸科学から哲学への、つまり存在の普遍から運動の規定への質的な飛躍が見失われている。
悟性的カテゴリーは、経験的な意識を内奥化するのではなく、それを固定化し、究極化する。そのために多様で変化する経験的意識と対立する。だから、カテゴリー自身が多様化し運動しなければならない。カテゴリーにこの多様性と運動をもたらすのが哲学である。
カント哲学は、有限な概念によっては真理には到達できないという、重要な結論に到達した。カテゴリーの有限性が明かになった以上、真理に到達するにはカテゴリーを吟味し、批判し、カテゴリー自身を無限化しなければならない。だから、カントはカテゴリーの批判と無限化の課題に到達していたことになる。
ところが、カントはこの重要な否定的結論の肯定に止まり、逆の結論に導いた。カテゴリーによって真理を認識することはできない、という結果から、客観的な認識は不可能である、という結論を導いた。真理の認識は不可能である、という結論に保証を与えられて、安住して、主観的で偶然的な判断が幅をきかせるようになり、感情だとか感想が十分な判断だと思われ、「証明はしないで、断言したり、意識のうちに事実として見出されるものをそのままに物語ったりするに至っている。」
この場合真理の研究とは、「本質と現象、理由と帰結、原因と結果、等々のような普通の思惟規定を用い、あれこれの有限な関係をたどるありふれた推理」をすることになる。
▲、カテゴリーは存在のもっとも深い普遍の規定である。しかし、そのカテゴリーの内容を固定すると経験的意識や経験諸科学と対立する。経験的意識や経験諸科学は運動を規定しているわけではないが、多様な側面から存在を規定しているからカテゴリーが固定化すると経験的意識や経験諸科学のなんらかの規定と対立する。というのは経験的な意識は対立的な規定を多様に含んでいるからである。論理学は運動の規定であるから経験的な意識による多様な矛盾する規定すべての普遍であるから、すべての規定の内奥となる。しかし、そのためにはカテゴリー自身が固定化せず、流動化し無限化していなければならない。ヘーゲルはこのように考えている。
カテゴリーはもともと運動の規定にまで到達した普遍的規定である。歴史的に蓄積されたあらゆるカテゴリーは運動の規定の系列である。ただし、それが運動の規定であることは発見されていなかった。だから、カテゴリーを運動の規定に改変すべきである、というのがカテゴリーの正しい解釈である。ヘーゲルはそのことを形式的にカテゴリーを流動化し無限化する、と表現している。
ヘーゲルがカテゴリーを流動化する、という規定を導き出すことができたのはカント哲学の批判によってである。カントは論理を純化してカテゴリー表に到達した。そして、カテゴリーが相互に矛盾することに気がついた。それはカテゴリーが運動の規定だからである。ところがカントはカテゴリーは相互に矛盾しているから、カテゴリーによって真理の認識はできない、したがって真理の認識はできない、と結論した。ヘーゲルはこれを修正して、カテゴリーは矛盾において系統化され無限化される、と考えた。これがカテゴリーの内容の自己産出である。
カテゴリーの捉えかたがこうした経緯を辿るために、ヘーゲルはカテゴリーが自己運動していると考えたが、実際はカテゴリーは存在を運動として規定しているのであり、したがってカテゴリーは相互に矛盾する規定として形成されてきている。運動の基本原理は矛盾である。カテゴリーが自己運動する形式をとるのは、客観的な運動を反映した規定だからである。ヘーゲルはこのことを理解していない。そして、このことはヘーゲルの論理の内容に大きな影響を及ぼしている。
(以上27頁まで。この最後の行の文章の意味は次の段落から)
(2011.06.22)
004-12.15 第二版への序文(2)
■.生き生きとした自然や精神の事実を把握することは事実を知識にまで高めることである。この知識を追考によって認識に高める事が、第一の困難である。哲学にとってはこの困難は存在しない。哲学は第一の困難によって得られた認識を対象とするからである。哲学にとっての事実とは認識である。
無批判的な悟性は、硬化した緒前提を信じきっているために、生きた自然や精神の事実を把握することができず、この事実を歪めてしまう。また、事実だけでなく、明確に言い表された理念をそのままに把握する事もできない。
▲、どのような意識も客観的世界の反映である。客観的世界を一般的な運動において反映するところが哲学と他のあらゆる意識形態との違いである。しかし、哲学は一般的な運動法則が自己の内容であることを発見できておらず、絶対的な真理だとか普遍を規定していると考えていた。そうした探求の中で哲学史上にカテゴリーが蓄積されていった。カテゴリーは一般的運動法則の思惟規定である。
哲学は哲学史を研究してそこに哲学の対象を見る。そして哲学を深く探求するとカテゴリーに到達する。これが哲学の追思惟である。こうした特徴のために哲学の対象は哲学であり、あるいは認識である、と考えられる。その結果哲学の内容が認識論であるかのように見える。
カント哲学はカテゴリーに到達しているが、哲学史上に蓄積されたカテゴリーをそのまま前提として受け取り固定した。そのためにこのカテゴリーによって自然や精神の事実を把握しようとすると矛盾に突き当たって自然や精神を把握することができなくなり、当然カテゴリー自身をも把握することができなくなった。
■.悟性は、「哲学的理念が自分のカテゴリーの使用法と全く異り明白に矛盾さえしているのに驚きながらも」カテゴリーの使用法を変えなければならないのではないか、とカテゴリーそのものに疑問を持つことができない。それは、定義というものを真理の形式だと思い込み、その定義が確定的でなければならない、と思いこみ、その確定性の証として、前提された表象との一致を考えているからである。また、定義は他の定義と切り離されて、前提された表象を確定するものと考えられている。悟性にとっては、前提された表象の確定つまり、表象の一面化と固定化が真理である。
しかし、定義の意味、定義の必然性の証明は、表象との一致にではなく、定義の発展のうちにある。定義の学的導出、定義自身の自己展開が定義の内容であり必然性の証明である。定義の意味、定義の必然性とは、さらに詳しく言えば、理念は具体的な、精神的な統一である、ということである。理念は悟性の抽象性、一面性、有限性と対立している。
▲、カテゴリーが定義という形式に固定されると自然と精神の事実と一致しなくなる。定義が自然と精神の事実と一致しているかどうかを、自然と精神についての表象との一致とする場合でもやはり一致しなくなる。表象は自然と精神の様々の側面を反映するから、対立的な固定的意識が必ず生まれるからである。
カテゴリーは実は運動の一般的法則を規定している。そのために、カテゴリーが整理されてくると、対立し矛盾するカテゴリーの組み合わせが表れてくる。そしてカテゴリー表が生まれてカテゴリーは体系的な形式を整えてくる。その成果として、「定義の意味、定義の必然性の証明」が可能になる。カテゴリーの正しさの証明は、表象との一致ではありえない。表象はさまざまの無数の一面的な認識の集合であるからある表象と一致すると他の表象と一致しない。
カテゴリーの正しさはカテゴリー自身によって証明される、というのは正しくは、カテゴリーの具体的内容は対立的なカテゴリーとの相関によって規定される、という意味である。そしてカテゴリーの相関関係の全体がカテゴリーの必然性となりカテゴリーの内容となる。カテゴリーの全体の体系関連がカテゴリーの真理である。カテゴリーの意味はカテゴリー相互の関係である。
カテゴリー相互の関係とは、対立するカテゴリーの対立と同一の規定である。ヘーゲルはこれを具体性と呼んで一面性、抽象性、有限性と対立させている。有限性と対立するのはカテゴリーの全体的な展開が無限で、カテゴリーの一部分を取り出して固定すると有限だからである。
悟性はこの同一性を理解できない。
■.悟性が考える理念の統一は、抽象的な同一性である。抽象的な同一性とは、区別を含まない同一性である。具体的な統一、生きた統一、精神的な統一とは、対立を含む統一である。対立を含まない統一性は、一面的であり有限的である。
この具体的統一が理解されないために、思弁哲学は同一哲学といって批判される。彼等は、思弁哲学に対して、主観と客観は違うとか、有限なものは無限なものと違うとか、教えてくれる。しかし、思弁哲学でなくても、主観と客観が違うこと、有限なものと無限なものが違うことくらい分かっている。この違うものの同一性を明かにするのが思弁哲学であり、区別されたもの、対立するものの同一性が同一の具体的内容である。
▲、抽象的な同一性とは、二つのものが同じと言う意味である。具体的な統一、同一とは対立を含んだ同一である。同じものが同一であるとしても意味はない。このことを理解するのはそれほど難しくはない。しかし、同一性とは何かをカテゴリーにおいて理解することは非常に難しい。ヘーゲルは悟性的同一性を批判して、真の具体的は対立物の同一性であると正しく指摘している。しかし、抽象的同一性に対する批判を長々と続けていることからも分かるが、実際のところヘーゲルもカテゴリーにおける同一性を規定できているわけではない。このことはまず有の領域での有と無の同一性で問題になる。
■.例えばトルック氏は次の様な抽象的な対立を想定している。
一、すべてを制約する一つの根本原因があるとすれば、私自身の究極原因もまたそのうちにあり、私の存在とか私の自由な行為とかいうものは迷妄にすぎない
二、私が根本原因とは実際異った存在であって、私の行為が根本原因によって制約されないとすれば、根本原因はすべてを制約する絶対的な存在ではなく、したがって無限の神というものは存在せず、多くの神々、等々が存在することになる。
トルック氏は第一の立場が哲学的で深いと考えているが、第一の考え方も第二の考え方も一面的で、内容は同じである。
「悟性の一面性に深くとらわれて、個人の存在と自由とを単なる迷妄とするような根本原因と、個人の絶対的独立との二者択一しか知らず、トルック氏のいわゆる危険なディレンマのうちに含まれている二つの一面性のいずれも正しくないのだということは考えてもみないような人は、どんなに深い感情を持っているにせよ、哲学については何も言わない方がいいのである。」
すべてを規定する絶対的な根本原因と、それに規定される個人の自由は対立しない。それは、一致している、とするのが思弁哲学である。
▲、これも重要な指摘である。悟性的思惟に対するヘーゲルの批判は対立的カテゴリーの同一とそれによるカテゴリーの体系化を対置する点で画期的である。悟性規定の抽象性に対する批判、カテゴリーの具体性の指摘、さらにここに見られる自由と必然性の関係に対する批判も画期的である。ところがヘーゲル論理学の限界もここにある。ヘーゲルは悟性的規定に対する批判として常に対立的カテゴリーに到達して、対立物の同一を掲げる。その指摘は正しいが、対立的カテゴリーがどのように同一であるかを規定していない。ヘーゲルの論理はこの点でなお抽象的である。
(2011.06.23)
エンチクロペディーへの序論
第一節
■.哲学以外の学問は、対象と認識の方法を前提することができる。しかし、哲学は対象の存在も認識の方法も前提することができない。哲学は、対象と認識の方法を自ら創り出さねばならない。哲学にとっては、対象と対象の認識方法と認識の内容は同じである。
哲学は真理を対象とし、真理を認識する学問である。哲学の真理は、表象にとっての対象のように、そこに存在するものではなく、表象と対象のような直接的な一致の関係でもない。意識はまず対象についての表象を手に入れる。思惟はこの表象の内部に沈み込むことによって、概念による認識へと深化する。
▲、哲学以外のすべての学問は対象=存在の普遍を規定する。認識の方法は一般に対象の内容と同じである。対象の認識が発展すると方法も発展する。
すべての学問は真理を認識する。ところが哲学は対象=存在を持たないから、対象=存在との一致という形式の真理はない。
対象=存在を持たない哲学はどのようにして真理に到達するのか。あるいは、哲学的真理が対象との一致でないのならどのような内容になるのか。哲学は哲学以外の学問が到達した真理、つまり対象=存在の普遍性の規定を否定してその内部に沈み込むことによって概念による認識=哲学へと進化する。
存在の普遍の規定を否定することによって得られる真理とは何か。それは、存在を運動として規定することである。存在の規定は厳密に言えばすべて運動の規定である。すべての存在は運動として存在する。すべての経験的意識と経験科学は対象を存在するものとして、運動の形式で言えば静止しているものとして規定する。ところがすべての存在は運動として形成されており、すべての存在が運動と全体的な関連のうちにある。このために、あらゆる存在の普遍性の規定を全体として一つの真理として普遍化しようとすると、存在の普遍の規定は相互に矛盾する。同じ存在の規定でありながら、ある運動状態と他の運動状態として静止的に規定されているからである。こうしたすべての普遍的規定の全体を一つの真理として規定する場合必然的に運動の規定になる。この意味での絶対的真理を規定するのが哲学であり論理学である。
■.しかし、思惟的な考察をしてみればすぐわかるように、思惟的な考察というものは、その内容の必然性を示し、その対象の諸規定のみならずその対象の存在をも証明しようとする要求をそのうちに含んでいるものである。したがって単に対象を識っているだけでは不十分であり、また前提や断言を作ったり承認したりすることは許されないことである。しかしそれとともにはじめを作ることの困難が生じてくる。なぜなら、はじめは直接的なものであるから、それは前提を作るものであり、あるいはむしろそれ自身前提であるからである。
▲、「惟的な考察をしてみればすぐわかるように」とヘーゲルは書いているが思惟的考察、つまり哲学とはどのようなものであるかは、考察してすぐにはわかるものではなく、ヘーゲルもまだ理解していない。
ヘーゲルが哲学史の研究によって理解したことは、哲学は必然性を示さねばならない、ということである。しかし、すべての学問は対象の必然性を示すものである。ところが、哲学は対象を持たないから哲学の内容の必然性は対象の必然性ではない。だから、哲学の内容の必然性について語るヘーゲルはここで経験科学との違いを忘れている。ヘーゲルは哲学の内容の必然性を知らない。ヘーゲルは存在の必然性の規定が論理であると考えている。存在の必然性の規定は運動の必然性の規定ではなく、したがって論理の規定ではない。
哲学は対象を持たない。そのために哲学の始元とはなにかが問題になる。特定の存在を対象として持つ経験科学の出発点は対象である。対象の認識を深めていけば、その認識を記述する方法は、認識の進展と逆方向の抽象から具体への上向となる。だから、経験科学の始元は分かる。ところが、ヘーゲルは経験科学と哲学の違いを明確に規定できないから、哲学の始元の規定の困難を、始元一般の規定の難しさとして説明している。はじめは直接的なものであるから前提を作るものであるから、はじめを作ることは困難である、としている。
哲学の始元の規定は経験科学とは違った困難がある。それは運動の始元の規定、運動の基本原理の規定である。それが有論の内容になる。ヘーゲルは哲学が運動の一般的規定であることを理解していない。そのために、哲学の始元を運動の始元として規定していない。この文章に示されている通り、哲学の始元を始元一般の特徴として規定しており、最も抽象的な無規定なもの、としている。これは哲学の始元の規定としては間違いである。
(2011.06.24)
第二節
■、人間は思惟によって動物と区別される。だから、人間のあらゆる精神は思惟を含んでいる。人間の意識が感情や信仰や表象の形式をとっていても、そこには思惟の内容が含まれている。
人間の意識のすべてに思惟が働いているという意味では、すべての意識と思惟は同一である。しかし、思惟に規定され貫かれた感情や表象を持つことと、それらについての思想を持つことは違う。哲学は、思惟に規定され貫かれた感情や表象を、思惟の対象とし追思惟することで、純粋な思惟規定を生み出す。追思惟の結果として、反省とか理由付けといったものが生れ、哲学が生れる。
感情や直観や表象といった直接的な意識と、それを追思惟し、加工することによって得られる概念は分離されるものではなく、まして敵対的な関係ではない。
また、追思惟が無限的なものや真なるものを表象する唯一の方法ではない。意識は直接的な表象的な方法で真理を認識することができる。哲学はそれと同じ内容を、それを追思惟することで、媒介的な意識である普遍性を生み出す。
▲、ヘーゲルは人間の様々の精神形態のなかに哲学の位置を規定しようとしている。
哲学はすべての意識形態の内部にある、その意識の真理である。哲学はあらゆる意識の内容である。この意味ですべての意識と哲学は同一性である、というのがヘーゲルの哲学の位置づけである。
ヘーゲルは観念論者であるから意識形態の違いを意識の内部で規定しようとしている。この場合は形式規定になる。様々の意識の違いは内容によって規定すべきである。
第三節
■.我々の意識は、感情、直観、表象、目的、義務等々および思想や概念といった形式を持っている。意識の形式が違っても内容は同じであるが、意識の特定の諸形式が内容と結びついているために、意識の諸形式に対して特定の内容があるように見え、本来同じである内容が様々の内容であるように見える。
哲学は、感情、直観、欲求、意志、等々の表象的意識を概念に変える。哲学の中では、すべての意識の形式は内容となって生きており、そこから失われるものはない。しかし、内容が同じであっても、表象を持つことと、表象の概念を知ることは別である。概念を持つことと、概念にどんな表象が対応しているかを知ることも、別である。哲学がわかりにくいと言われる理由の一つはこの区別が難しいことにある。普通の意識においては、思惟規定は表象的な意識と混在している。例えば、「この葉は緑である」といった感覚的な命題にも、有、個別性というカテゴリーが含まれている。
▲、精神の諸形態は精神の内容によって区別し相関関係を規定することができる。しかし、ヘーゲルの観念論哲学では精神の内容を規定することはできない。精神の内容は客観的世界である。人間の精神は客観的世界を様々の形式で反映する。客観的世界は一つの世界であるという意味では、精神の内容は同じである。しかし、客観的世界は無限的な内容を持つから、客観的世界のどの側面を反映しているかという意味では内容は違っている。
すべての意識、すべての学問は、客観的世界の個別存在を対象として意識化し規定する。哲学はすべての意識、すべての学問の普遍である。すべての意識の普遍はすべての存在の普遍であり、すべての存在の普遍性の規定とは、すべての存在を一般的運動形態として規定することを意味している。
すべての存在の一般的運動形態の規定はカテゴリーである。すべての規定は対象の普遍化であり、すべての規定はカテゴリーを含んでいる。個別存在の普遍の規定をさらに普遍化してカテゴリーの規定に到達することが精神の普遍化の第一の困難であり、カテゴリーに到達した後、蓄積されたカテゴリーを体系化することが第二の困難である。
カテゴリーの体系はカテゴリーの発展として規定される。カテゴリーの体系は、経験的な意識と経験科学の普遍から飛躍的に分離されている。哲学の困難はここにある。ヘーゲルが言う思惟規定を純粋に対象とすることとは、カテゴリーだけの体系を規定することである。カテゴリーの体系としての概念を理解するために、表象の内容を思い浮べることは、経験的意識に引き返すことであるから、概念の意味を失うことを意味している。
哲学はすべての存在を一般的な運動形式において規定する。この点で、個別存在の内容を規定する経験的意識と異なる。哲学を理解することの難しさは、一般的運動形式という内容を理解し規定することの難しさである。一般的運動形式を規定できていない場合は、哲学の内容の現実性は表象的な形式に移しかえる以外にない。哲学の現実的な内容はなにかを経験的な意識において理解しようとする傾向は、現実を一般的運動形式として規定することによってのみ克服できる。
概念を表象的意識に変えれば概念を理解することにならない、概念が問題となっている場合には、概念以外の何ものも考えるべきではない、対象を表象として知る事と、概念として知ることの違いを理解することそれ自体が哲学の内容でもある、とヘーゲル正しく指摘している。しかし、概念とはなにかというと、経験的認識において混在している表象と概念から、真理としての概念を純粋に取り出すことだと指摘するだけで、概念とはなにかを規定していない。実際にはヘーゲルはカテゴリーにまで到達しているが、カテゴリーとはなにかを客観的に規定できないために、結局哲学の内容をカテゴリーの体系に純化することはできていない。そのためにヘーゲルが哲学とはなにか、つまり経験的意識と哲学=論理学の違いはなにかをくり返し説明しているにわもかかわらず、哲学とはなにかは規定されておらず、分かりにくい説明になっている。
哲学と経験的な意識の同一性と区別を理解するためには、まず哲学の内容あるいは対象とはなにかを規定し、さらにその内容を具体的に規定しなければならない。哲学の内容が具体的に規定されれば、哲学の内容を経験的な意識に移しかえて理解する必要はないし、哲学と経験的な意識の区別ができないという困難もなくなるだろう。
第五節
▲.ヘーゲルは感情や表象などの本来の姿、つまり真理は思惟であると考えている。哲学の対象は真理であり、真理を捉えることが哲学である、とヘーゲルは考えている。しかし、経験科学の対象も真理であり、真理を追求し、対象との一致が真理である。しかし、それは部分的な真理である。哲学の対象は存在の全てである。その場合対象の規定は対象を運動の一般法則として規定することになる。
ヘーゲル哲学では様々の意識が普遍化することによってカテゴリーに到達すること自体が真理である。ヘーゲルの真理とはカテゴリーの体系である。しかし、ヘーゲルはカテゴリーとはなにかを規定することができず、主観内部の意識形態においてカテゴリーと経験的意識の関係を規定している。
ヘーゲルの観念論では様々の意識形態を客観的内容によって区別することができない。そのために、様々の意識の相互関係、つまり同一性と区別の規定は曖昧で混乱している。
(2011.06.27)
第六節
■.哲学の内容は現実的である。現実の内容を最初に意識するのは経験である。思慮深い経験的意識は、現象的な内容を排除した現実的な意識である。哲学は現実および経験と一致しなければならない。経験との一致は、哲学が真であるかどうかの外的な試金石であり(内的な試金石は概念自身である)、また、哲学は経験的な意識との一致を意識することによって、内容の現実性を創り出すのであり、哲学の究極目的は現実との一致である。
▲、哲学でも経験的な意識でも現実との一致が正しさである。非現実的な、現実と一致しない、現実的な意味のない経験的意識や哲学は間違いである。
ヘーゲルは経験的意識と哲学の一致を現実との一致によって規定している。この規定は無意味である。すべての意識は現実と一致することにおいて正しい。だから、問題は現実との一致とはなにか、である。経験的な意識と哲学は現実とどのように一致しており、その一致の内容と形式において哲学と経験的な意識はどのように違うのかが問題である。現実との一致は哲学と経験的意識との関係の規定にならない。
哲学と経験的意識は現実の一致の仕方が違う。経験的な意識は現実の様々の側面を固定して、全体との関係を切り離して普遍化する。現実との一致という意味で一面的な真理である。すべての経験的な意識、経験科学は一面的であり、部分的な普遍と必然性を規定している。だから、経験科学の普遍の規定を発展させると相互に矛盾するようになる。
哲学は、経験科学が規定する部分的普遍性によって排除されている全体的な普遍性だけを規定する学問である。しかし、経験科学あるいは経験的な意識と哲学の違い、つまり両者がそれぞれ何を対象としているかは規定されていなかった。客観的には哲学は全体的な運動と関係を規定することを課題にしていた。哲学は全体的な運動と関係の一般的原理だけを規定するのだから、つまり経験科学が規定する普遍性と違った普遍性を規定するのだから、哲学もやはり、現実との一致という意味では一面的な真理である。哲学とすべての経験科学によって現実の全体を認識することができる。
ヘーゲルは経験的意識も哲学も現実と一致する、としているだけで、両者がどのように現実と一致しているかを規定していない。ヘーゲルの論理では経験的意識と哲学の関係を規定することはできない。
■.ヘーゲルの「法律哲学」の序文には、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という命題がある。理性的なものが現実を支配している、というのがヘーゲルの確信である。この命題を理解するためには、現実存在のすべてが現実なのではなく、存在は一部は現象であり、現実的であるのは一部にすぎない、ということを知っていなければならない。偶然的な存在は真の現実性を持たない。偶然的なものは可能的な存在にすぎず、有るかもしれず無いかもしれず、それがないとしても現実はそのままに存在する、といったものである。
▲、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という有名な命題は、現実を理性的なものと非理性的なもの、必然的な現実と偶然的な現実、現実的なものと非現実的なもの、に分けることを意味している。また、この命題は、現実の変化において、現実的で理性的なものが非現実的で非理性的なものになることの必然を示している。この命題によって、現実世界は、現実的なものと非現実的なものとが相互に闘い、交代し、移行している世界として認識される。
現実を必然的な変化において捉えるヘーゲルの命題は弁証法的な社会観として高く評価されている。現実弁護論として批判する理論は論外である。しかし、ヘーゲルのこの命題は現実の必然的な変化を規定していない。この命題は現実を変化一般として規定している。論理学で言えば有の領域の運動形式を現実世界に適用している。これは有の領域と本質の領域を区別できないヘーゲル論理学の基本的な弱点である。
現実の変化・発展は有の領域ではなく本質の領域の運動形式であり、この領域で必然性と偶然性というカテゴリーが形成される。この必然性と偶然性のカテゴリーの関係をヘーゲルは規定できていない。この命題によってもそのことはわかる。ヘーゲルの論理は必然性と偶然性を分離している。必然性と偶然性は実際はこのような関係にあるのではない。
ヘーゲルの有名な命題は必然性と偶然性のカテゴリーの誤った規定にもとづくものである。現実のなかには現実的でないものはない。すべてが現実的であり、すべてが必然的であり偶然的である。
このあとヘーゲルは、理念や理想は現実性を持つには立派すぎるとか、現実性を手に入れるには無力である、といった考え方を批判している。非現実的な意識に対する批判は軽快で雄弁であるが、哲学的にはそれほど有益ではない。哲学は非現実的ではならないという批判は、哲学的な現実性の規定がないかぎり無意味だからである。哲学的な現実性の規定ができることによってのみ非現実的な哲学は批判される。
(2011.06.28改稿)
第七節
■.近代になって・・思惟はギリシャにおける抽象的な思惟から飛躍的に発展し、現象界の無限の素材へ向うことになった。思惟の前には、近代社会が生み出した広大な経験的世界が広がり、その一見無秩序ともみえる無数の偶然事のうちにある、確かな基準および普遍的なものを認識する知、必然的なものや法則を認識する知が生れ、それらはすべて「哲学」と言われるようになった。
このような知は未だ哲学ではないが、経験の原理は哲学にとって限りなく重要な規定をふくんでいる。それは、人が或る内容を受け入れ真とみなすには、外的な感覚の内容であっても、内的精神の内容であっても、自分自身がそれに接して自分の経験によって確かめなければならない、という原理である。
▲、ギリシャ時代は哲学に限らずすべての学問は抽象的であった。近代社会は現実認識を飛躍的に高めた。ギリシャ時代にも哲学と経験科学は区別されていなかった。近代になって経験科学が発展して、あらゆる分野で法則や普遍的な命題が形成されて、それは哲学と呼ばれた。そうなると哲学は独自の学問ではなくなる。そのために哲学とはなにかが改めて問われることになり、ヘーゲルはその問題に取り組んでいる。しかし、観念論者であるヘーゲルは、哲学は思惟の思惟であると規定している。現実のなかに哲学の対象あるいは内容を発見することができなかった。
経験の原理はその正さを自分の経験によって確かめることができる。だから、経験科学の普遍性は実証的に現実性が証明されている。哲学はその普遍の普遍である。哲学は経験科学と違って経験によってその正しさを実証することはできない。哲学の正さを自分の経験によって確かめることはできない。その経験とはなにかを普遍性において規定する。哲学の正さは論理の展開によってのみ証明することができる。
(2011.06.28改稿)
第八節
▲、この節の説明はわかりにくい。ヘーゲルは哲学の内容を捉えていない。
経験科学の普遍性は個別対象の普遍性である。経験科学は経験的に実証しつつ個別対象の普遍性の規定を蓄積する。哲学は経験科学の普遍の普遍として、経験科学のすべての対象を一般的な運動形態として規定する。現実の全体が哲学の対象である。
ヘーゲルがここで一群の対象としてあげている、自由、精神、神のうち哲学に属するのは自由だけである。その場合でも個別的な自由の規定は哲学に属さない。自由一般の規定が哲学の内容である。
ヘーゲルが思惟についてくり返している説明は同語反覆であり無意味である。
(2011.06.28改稿)
第九節
■.経験的科学の方法は次の二つの点で不十分である。その一つは、経験的科学が含んでいる普遍、類、等々は、それだけ取ってみると無規定で、特殊との連関を持たず、普遍的なものと特殊なものとは互に外的であり偶然的であること、また結合されている諸特殊もそれ自身としては互に外的で偶然的であるということである。もう一つは、経験的科学は常に直接的なもの、与えられたもの、前提されたものからはじめることである。
▲、経験科学の二つの方法は、第一の点によって第二の点が生まれるから、与えられたものからはじめることを第一にあげるべきである。
経験科学は個別の対象を特殊性としてその普遍を規定する。この場合、個別対象の特殊性と普遍性の規定は直接関係づけられ分離されて同一とされる。経験科学の方法ではこの関係がくり返されて特殊と普遍の規定を蓄積する過程が無限に続く。このとき、特殊と普遍は分離されており、対象の分析を無限に続けても特殊と普遍の関係は規定されないままである。
ヘーゲルは経験科学と哲学の関係について、「思弁的な学問は経験的な諸科学のうちに見出される普遍的なもの、法則、類、等々を承認して、それらを自己の内容のために役立てる。」と書いている。経験科学は与えられた対象の法則、普遍を規定する。経験科学はバラは植物である、と規定する。しかし、哲学はバラも植物も規定しない。バラと植物の関係を示している特殊と普遍というカテゴリーの関係だけを規定する。経験科学は与えられた個別対象を規定するが、哲学はその規定に含まれるカテゴリーの関係だけを規定する。
哲学は経験科学が規定する諸法則、普遍の中から、カテゴリーだけを取り出し、経験科学が分離して並列しているカテゴリーを関係付け、体系化し、存在一般の運動法則として規定する。哲学が無限を捉えるというのは、対象を運動として捉えるという意味である。個別対象の特徴を規定する経験科学の規定も無限に展開される。哲学は無限性自体を規定する。対象がどのような特殊性と普遍性を持つかは経験科学の内容である。哲学は対象から離れて、特殊や普遍といったカテゴリーだけを内容として規定する学問である。
(2011.06.29改稿)
第一○節
■.哲学的な認識方法であるこのような思惟は、それ自身、その必然性にしたがって把握されなければならないし、またそれが絶対的な対象を認識する能力を持っているということも立証されなければならない。
▲、絶対的な対象とはなにかがわからなければそれを認識できるかどうか、つまり必然性を規定することができるかどうかわからない。ヘーゲルは哲学の対象が何であるかを規定できていないために説明が曖昧である。ヘーゲルまでの哲学は絶対的な対象の内容を断片的に規定していた。ヘーゲルは絶対的な対象の内容の規定を体系化した。しかし、絶対的な対象が何であるかは知らなかった。哲学の対象が何であるかは、こうして対象の内容を規定したのちに理解される。
■.批判哲学の主眼点は、神や事物の本質やの認識にとりかかる前にまず認識能力そのものを吟味して、それが果してそうした能力を持っているかどうかを吟味しなければならない、ということにある。つまり、仕事にとりかかる前に、仕事に使う道具をまず知っておかねばならない、もしそれが不十分だったら、あらゆる骨折が無駄になってしまうだろう、と言うのである。--この思想はきわめてもっともらしく見えたので、非常に大きな讃歎と同意をひきおこし、対象に関心を持ち対象の認識に従事していた人々は、その認識を認識そのものへ、形式の問題へ向けるようになった。しかし、言葉に欺かれなければ容易に次のことがわかる。認識以外の道具の場合には、その道具に特有の仕事をあらかじめしてみないでも、他の方法でそれを吟味したり評価したりすることができないことはない。しかし、認識作用の吟味ということは、認識しながらでなければ不可能である。このいわゆる道具においては、道具を吟味するとは、それを認識することにほかならない。ところで、認識する以前に認識しようとするのは、水にはいる前に泳ぎをならおうというスコラ学者の賢明な企てと同じように馬鹿げたことである。
▲、対象を認識できるかどうかは認識してみなければわからない。対象が無限性であっても同じである。哲学が無限性を認識できるかどうかは無限性の規定によってのみ証明することができる。カントが無限性を規定することができていれば認識作用の吟味を課題にすることはなかった。無限性の規定ができないからこそ、カントは認識作用を吟味して無限性を認識できないことを証明しようとした。無限性の認識が矛盾に陥る必然性を発見したために、無限性を認識できないのは哲学者個人の限界ではなく認識一般の特性であることを証明しようとした。
したがって、カントに対する唯一の批判は無限性を規定することである。
近代哲学が主観に対する関心に引き戻され、主観を認識の原理に据えた結果として認識論が哲学の内容になった。そして、無限性を対象とする場合、認識は論理的矛盾に陥ることが発見された。カントはそのために認識主観と対象を切り離し、無限性の認識はできない、と結論した。
無限性の認識が論理的矛盾に到達したことが近代哲学の成果である。無限性は論理的矛盾として規定される。カントは絶対者=無限性に到達していながら、その到達の成果において無限性を認識することはできないと結論したことになる。したがって、絶対者=無限者は矛盾である、と結論して矛盾を展開すればカントの成果を継承することになる。矛盾の展開として規定される無限者とは存在の全体であり、存在を一般的な運動法則として規定することである。
カントの混乱を回避するために、ラインホルトは仮定的な哲学的思惟から出発して、根源的な真理に到達するまで進んでいく方法を主張した。個別的存在としての対象が何であるかを認識するには、対象の何らかの特徴を手掛かりに「出発して」、「暫時的に」対象を認識していくことができる。対象認識の内容が多く蓄積されれば内容相互の関係も明かになり、対象認識は発展するだろうし、仮定が間違っていれば修正されるだろう。
ところが、ここで問題になっているのは、個別対象を認識することではなくて、無限者を認識することである。この課題の特殊性をラインホルトは理解していない。仮定から出発するのであろうと何であろうと、現実の個別存在の普遍性の認識を如何に蓄積しても深化させても、暫定性と個別性の無限的な並列を超えることはできない。カントが問題にしているのはこのことである。分析の蓄積という認識では無限性に到達できないことをカントは明かにした。この限界をいかに超えるかが課題であるのに、ラインホルトは仮定的な哲学的思惟から出発する、としている。仮定から出発しても個別対象のなんらかの規定から出発しても、それは経験科学の対象認識である。哲学は個別存在を対象あるいは内容にしていないことをラインホルトはまったく理解していない。
(2011.06.29改稿)
第一一節
■.哲学は思惟を対象としている。哲学が思惟を対象にすると矛盾にまきこまれる。歴史的につくり上げられた諸思想の区別を固定化した場合、その背後の思惟自体に到達することができない場合は、思想に、思惟の喪失にいたる。しかし、哲学的思惟は、こうした悟性的思惟の限界に止まることなく、矛盾を克服し、解決することによって思惟を発展させる。したがって、思惟が矛盾に突き当たり、矛盾の中で自己を喪失している時でさえ、実際は思惟は自己の元にある。矛盾こそが、思惟の無限性の内容だからである。
思惟の本性が弁証法であり、悟性的な思惟が自己否定、矛盾に陥ることは思惟の本性である、という洞察が論理学の内容の主な側面の一つである。思惟は、この矛盾を解決出来ないものとする場合、精神の他の緒形式に、たとえば直接知の立場引き返して、思惟自体を否定することになる。しかし、矛盾は思惟の本性であり、矛盾が思惟の内容であり、また方法である。カントは思考を吟味した結果矛盾を発見したが、それが思惟の限界であると考え矛盾を除去する必要があると考えた。しかし、矛盾は思惟に特有の形式であり内容であり、矛盾こそが無限性である。カントが理解していないのはこの点である。
▲、この節の内容は形式規定であるが、カントの到達を肯定的に超える画期的な規定である。形式規定になるのは、観念論では思惟規定の矛盾の現実的な内容を規定することができないからである。
(2011.06.29改稿)
第一二節
■.精神の出発点は経験である。経験科学は経験的意識を普遍化する。哲学は経験科学の普遍性を受け入れて、その上で思惟の自己発展という自由な事柄そのものの必然性を規定する。
哲学は経験を起源に持ち、経験的意識を否定して、つまり経験的意識を媒介にして普遍を形成する。哲学が経験的意識を否定する普遍性に止まっていれば公式主義になる。哲学は特殊化しなければならない。
▲、哲学と経験的意識の関係についてのヘーゲルの規定は形式的に正しい。しかし、内容は規定されていない。哲学の普遍は経験科学の普遍の普遍である。経験科学の普遍は存在の規定の普遍である。哲学は存在の普遍の普遍としての運動の規定である。ヘーゲルにはこの規定がない。
哲学は抽象的普遍に止まってはならず、自ら具体化し展開しなければならない。哲学の発展とはカテゴリーの発展であり、それは存在を一般的運動として規定することである。ヘーゲルの論理的展開では存在の規定と運動の規定が区別されておらず両者が混在している。
ヘーゲルの論理では経験科学の普遍のより深い普遍が哲学の普遍である。二つの普遍に質的な違いはない。そのために、より深く抽象的な普遍である哲学は、具体へと上向する場合は経験科学の普遍へと自己を展開する。精神は経験的意識から抽象化し普遍化して哲学に到達し、そして抽象的な哲学は自己運動によって現実的な経験的意識へと引き返す。こうして哲学的意識と経験的意識の対立は解消され、哲学は経験的精神の規定のすべてを支配することになる。これがヘーゲルの絶対精神である。
ヘーゲルはこのあと媒介について説明している。媒介されていることが独立性と対立しない、というのはその通りである。問題は媒介の内容である。ヘーゲルの言う媒介は認識の運動を意味している。
悟性は個別と普遍を分離し、普遍と普遍を分離する。悟性は諸現象の普遍=本質を探求して、現象世界から分離されていく。この分離が発展すると、この分離を繋ごうとする意識が生れてくる。ヘーゲルはここに弁証法を投入した。これは認識の媒介性であり、発展形式であり、精神は全体として往復運動をする。認識が具体から抽象へと下向し、再び抽象から具体へと上向することがヘーゲルの考える媒介的な発展形式である。ヘーゲルの弁証法的論理は認識の運動過程であり、客観的な存在の媒介的な運動過程ではない。これがヘーゲルの転倒であるが、それは近代哲学史の転倒である。
(2011.06.30改稿)
第一三節
■.哲学史に表れるさまざまの哲学体系は、一つの生きた精神の異なる発展段階の一つである。それぞれの哲学体系の原理は、一つの全体の枝にすぎない。したがって、歴史的に最後の哲学は、それに先行するあらゆる哲学の原理を含んでいおり、それは、最も発展した、最も豊富な、最も具体的な哲学である。
▲、それぞれの哲学体系の原理は、一つの全体の枝にすぎない、というのは正しい。しかし、哲学史上の哲学の内容は抽象から具体へと発展しているわけではない。哲学の歴史的発展と論理の発展を同一化するのは、ヘーゲルが哲学を認識論だと考えているからであり、近代哲学は認識論として発展してきたからである。しかし、哲学は認識論ではない。哲学が何を対象として何を規定しているかは歴史的には発見されておらず、その発見を最終的な課題としていたのだから、哲学史は抽象的な哲学的規定に基づいてそれを具体化して仕上げる過程にならない。哲学の歴史的内容は社会法則に規定されて様々の側面を特有に具体化していく。決して抽象から具体へと体系的に発展するのではない。
哲学の対象と内容が何であるかは発見されておらず、ヘーゲルにも見られるように、哲学と経験科学の違いが規定されることはなかった。哲学の歴史的発展は、哲学的内容が抽象から具体へと発展するのではなく、哲学の中から経験科学の内容を排除して哲学独自の内容を純化していく過程であった。そのために哲学史は非常に複雑で雑多で偶然的な内容に満ちている。
(2011.06.30改稿)
第一四節
■.体系を持たぬ哲学的思惟はなんら学問的なものではありえない。非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、むしろ主観的な考え方にすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である。いかなる内容にせよ、全体のモメントとしてのみ価値を持つのであって、全体をはなれては根拠のない前提か、でなければ主観的な確信にすぎない。多くの哲学的著作は、このようにただ著者の個人的な考え方や意見を語っているにすぎない。--体系と言うと、他の哲学とはちがった一つの限られた原理を持つ哲学という意味に誤解されているが、実際はその反対であって、あらゆる特殊な諸原理を自分のうちに含むということが真の哲学の原理である。
▲、哲学史上の思惟のそれぞれの段階は、一つの哲学の中で、歴史上の外面的、偶然的特徴を解消されて、純粋な論理の展開として再生される、とヘーゲルは書いているがそんなことはない。
体系を持たぬ哲学的思惟は学問ではない、というのは形式的には正しい。ヘーゲルはこの形式の内容を捉えていない。哲学が体系でなければならないのは、存在の全体を運動として規定するからである。存在の展開の全体をカテゴリーの展開として規定することによってのみ運動を規定できる。だから哲学の規定は単純な命題ではないし、存在の部分的な規定でもない。哲学は存在の全体を発展形式で規定するのだから体系以外の形式はありえない。
(2011.06.30改稿)
第一五節
■.哲学の諸部分の各々はいずれも一つの哲学的全体であり、それ自身のうちで完結した円であって、そこでは哲学的理念は特殊の規定性あるいは領域のうちにある。しかし個々の円は本来集って体系的な全体をなすべきものであるから、それは自己の領域の制限をつき破って、より広い世界をうち立てる。したがって全体は、各々が必然的なモメントをなしているところの多くの円からなる一つの円としてあらわれ、諸円に特有な諸領域の体系が完全な理念を構成し、またこの理念はあらゆる領域のうちに姿をあらわしているのである。
▲、一つの哲学はそれ自身では完結した円である。これも形式的に正しいように見えるが、一つの哲学の内容はそれほど纏まっているわけではない。個々の哲学が集まって体系的な全体をなすべきものであるが、個々の哲学と哲学全体との関係は、ヘーゲルが考えるような歴史的発展と抽象から具体への上向が一致した形態として形成されているわけではない。
哲学の全体は、個々の哲学が必然的なモメントをなしている多くの円からなる、というのは分かりやすい形式規定であるが、哲学の発展の形式をうまく規定している形式とは言えない。
(2011.06.30改稿)
第一六節
■.普通のエンチクロペディは、偶然的・経験的に拾い上げられた知識の単なる寄せ集めである。この場合の統一性は内的関連ではなく、外面的な排列にすぎない。哲学的エンチクロペディは、外的な統一性を特徴とする次の三つの形式を排除する。
(1) 知識の単なる寄せ集め (例えば--言語学) はそのようになっている。
(2) 恣意を根拠とするもの (例えば--紋章学)、これは徹頭徹尾実証的である。
(3) 実証的な学問であるが、その始まりと基礎は合理的である学問。
▲、これは経験科学の実証性に対する批判である。哲学とは直接関係がないが参考になる。
現実認識は、内容も形式も偶然的で個別的な実証的認識からはじまる。実証的な素材の認識が具体化され、対象が量的に拡大すると、認識内容に関連が生まれてくる。素材の内的関連である普遍性が発見されるまでは偶然的な根拠が想定される。それは、主観的な思い込みであったり、外的な権威であったり、歴史的に形成された偏見であったりする。そうした偶然的・個別的根拠を普遍性に変えていくのが科学の発展である。
普遍性が発見された後は、実証的に発見され集められる新しい素材は、既成の普遍性に組み込まれる。実証的な素材と既成の普遍性が対立するようになると、普遍性はすべての素材を包摂するように変更され、普遍性の規定が発展する。したがって、実証的・偶然的な素材が無限に拡大すると同時に、普遍性の規定も拡大する。それが現実認識の一般的な発展形式である。
経験科学が対象領域の普遍性を明らかにしていくと、他の経験科学との関連の認識が課題になる。客観的世界のすべてが関連のうちにあるからで、この客観的関連が明らかになるまでは、哲学が関連推理することになる。そのために哲学が経験科学の総体を規定するように見える。
諸科学の関連が個別科学の発展によって客観的に明らかになるにつれて、哲学のこうした役割は否定されて、哲学の推理の部分の役割は終る。ヘーゲルの時代にはまだ哲学がすべての領域を規定していたが、経験科学の発展によって哲学のこの役割が終わりつつある時代でもあった。ヘーゲルはこの形式での哲学の総体性を実現すると同時に、哲学の本来の領域である論理学を形成していた。
(2011.07.01改稿)
第一七節
▲、哲学は思惟を思惟する学問で自己へ帰る円である、という規定は、ヘーゲルの観念論的認識論の構図である。論理の運動が認識の運動である場合は、論理の運動は経験科学の形成過程を論理化することになる。この構図は論理学の全体から排除しなければならない。
(2011.07.01改稿)
第一八節
■.哲学は三つの部分にわかれる。
一 即自かつ対自的な理念の学としての論理学
二 本来の姿を失った姿における理念の学としての自然哲学
三 自己喪失から自己のうちへ帰る理念の学としての精神哲学
▲、ヘーゲル哲学では経験科学は哲学の一部分になっており、哲学と経験科学は区別されていない。しかし、本来は哲学の領域は論理学だけである。だから、論理学と自然哲学と精神哲学の関係を規定している即自、対自といったカテゴリーは論理学には必要ない。
(2011.07.01改稿)
予備概念
第一九節
▲、論理学は思惟の諸規定と諸法則の学である、論理学は純粋な抽象物を取り扱う、論理学の対象は真理である、論理学は思惟の諸規定と諸法則の全体を自ら作り出す、等の説明はヘーゲルの観念論的な図式の特徴を示しているだけで論理的な意味はない。こうした説明は、論理学の内容が、有、無、量、一、多、等々の、カテゴリーである、という意味においてのみ正しい。
論理学は客観的世界に対象を持つのではなく、思惟を対象として思惟法則を規定する学問であると考えられる場合、論理学は認識論となり、認識の道具とされると論理学の効用が問題になる。この種の議論は、論理学が存在の全体を運動法則として規定する学問であることを理解すれば必要なくなる。論理学が個別の対象を持たないのはすべての存在を一つの対象として捉えるからである。論理学は、対象認識の手段ではなく、形式でもなく、方法でもなく、独自の対象と内容を持つ学問である。
存在全体を運動法則として規定するためには、個別存在の普遍性の規定が蓄積されていなければならない。蓄積された普遍をさらに普遍化してカテゴリーに到達した後に、蓄積されたカテゴリーを体系化すると一般的運動法則の体系が形成される。そのために論理学は思惟の思惟であり思惟の加工あるいは追思惟であると考えられ、客観的対象を持たないと思われてきた。
近代になって自然の研究が蓄積されただけでなく、自然と違った法則を持つ社会的普遍の規定が蓄積され、さらに、運動す対象を認識する自我も哲学の対象となり、自然と社会と主観の全体が哲学の内容となった。こうして初めて哲学の対象である存在の全体の普遍が形成され、カテゴリーの体系化と流動化の条件が整い、ヘーゲルの弁証法的論理学が誕生した。
哲学はカントによって主観的思惟に於ける客観性とされることで個別対象から分離され、ヘーゲルによって論理学の内容がカテゴリーにまで純化されて個別対象から完全に分離され、その成果として存在のすべてを一つの運動法則として規定する学問に到達した。
ヘーゲルは論理学の体系を客観的体系としているが、なお絶対的観念論の限界内にあって精神の体系となっている。論理の客観化ができないのは観念論哲学の限界である。
(2011.07.03 改稿)
第二〇節
▲、ヘーゲルは哲学とはなにかを規定するために、ここでは表象と思惟を区別している。これでは哲学の内容を規定することはできない。哲学とはなにかを規定するには、思惟において哲学と経験科学の違いを問題にしなければならない。ヘーゲルは観念論の立場から、意識形態を対象の内容によってではなく、意識形態の形式自身において区別しようとしている。これでは意識形態の内容を規定することはできず意識形態を区別することもできない。
思惟は対象を普遍において認識する。我々の意識には対象の個別性と同時に普遍性が含まれている。存在自体がすべて個別性と普遍性の同一として存在するからである。個別性と普遍性は意識形態を意味するのではなく対象の存在形式を意味しており、その存在形態の主観への反映である。したがって、重要なことは普遍性と個別性がどのような関係において存在するかであり、それこそが論理学の内容である。
表象は感覚的素材を内容としている。この感覚的素材である存在は、ある同一性から分化して形成されたものである。この同一性が感覚的素材の普遍である。この個別と普遍、さらにこの普遍の普遍がその背後にあり、この関係は並列して「もまた」によって結合される。悟性はこの関係を、普遍と特殊、原因と結果、等々のような関係として定立するが、この規定はなお外的関係であり、並列に属する。対立関係を規定しているが、それが運動形態であることを規定していない。
哲学は、普遍と特殊、原因と結果、等々のカテゴリーの必然的な関連を体系として定立する。これは客観的存在の運動形式であり、これを思惟的に規定するのが論理学の特別の役割である。
ヘーゲルは法や道徳や宗教に関する意識をも表象と思惟の関係によって説明している。表象と思惟という意識形態によって内容を区別することはできない。法や道徳や宗教は社会的普遍である。哲学は存在の全体を運動として規定する。意識形態の違いは、その意識が反映する客観的世界の内容によってのみ区別することができる。観念論者ヘーゲルの規定は客観的世界の内容に届かない。
言語がなにかを言いあらわす場合は普遍の規定になる。ある主語についてなにかを言いあらわすのはその対象と他の存在との関係を規定することである。だから言語は個別を言いあらわすことはできない。それは存在は個別としては存在しないからである。個別としてではなくどのように存在するかを規定するのが論理学である。
カントが、「私」があらゆる私の表象、感覚、欲望、行為、等々に伴う、と言うのは、私の意識は私に属すると言っているにすぎず、これは私は私であるという同語反覆である。「私」は客観的に普遍的存在である。それは、私も私の意識も、同一性から分化して形成された存在である、という意味である。「私」であることは他のすべての人々にとっても共通である、とヘーゲルは言っているが、これはまずい言い方である。
論理学の創始者はアリストテレスである。アリストテレスは、思惟活動の内容ではなく、思惟活動の抽象的形式に属する物を取り出し、精神的活動を結合している紐帯、形式そのものを取り出して詳細に記述した。これは後に思惟の認識形式とされ、その後の哲学が認識論を内容とすることになったが、実際は思惟活動の抽象的形式は、具体的存在の規定から分離された、全体的な運動の規定である。アリストテレスはそれを形而上学として取り出していたことにおいて論理学の創始者である。
(2011.07.03 改稿)
第二一節
■.普遍的なものをこのように規定するとき、このような普遍的なものは、或る他のものに対立しており、そしてこの他のものは、媒介されたもの、内面的なもの、普遍的なものに対峙しているところの、単に直接的なもの、外面的なもの、個別的なものである。このような普遍的なものは、普遍的なものとして現存在してはいない。われわれは類そのものを知覚することはできず、天体運行の諸法則は天に書かれているのではない。したがって普遍的なものはみたり聞いたりすることのできないものであり、ただ精神にたいしてのみ存在する。
▲、この節の内容はこの文章に尽きている。普遍的なものとは、直接的なもの、外的なもの、個別的なものを否定して、つまり媒介して認識される内面的なものである。それがどのようなものであるかが規定されていない場合、神髄、本質、真の姿、規則、法則、といった形式で表現される。直接的なものの本質としての普遍は、さらにその普遍の普遍として無限な層を形成していく。この普遍の層が全体としてどのような関係にあるかを規定するのが論理学である。
存在するのは個別で、普遍は現存在しているのではなく精神に対してのみ存在する、というのはすべての観念論の特徴である。観念論が成立するのは普遍を客観的世界において規定することができないからである。実際は普遍は精神の中にのみ存在するのではなく、客観的世界に存在しており、それが精神に反映している。普遍は個別の中に物質として存在する。関係として存在するのもまた物質として存在する。精神的なものの普遍は物質的なものの反映であり、したがって、物質的に存在の反映として個別精神の中に普遍的精神が存在する。普遍が客観的に存在するのではなく精神に存在するというのは、客観的世界に普遍を発見することができない場合であり、ヘーゲルも普遍の客観性を発見していない。
ヘーゲルも客観的を普遍を発見していないために、普遍を論理的に規定できていない。普遍の客観的運動形態を規定できないために、感性的なものは一時的で普遍的なものは永続的なものであると考えている。ヘーゲルは存在が運動すると考えているが普遍が運動すると考えていない。
論理学の主な内容は普遍の運動である。普遍は永続的ではない。普遍は変化するものであり、その運動を法則として規定するのが論理学である。個別は普遍の運動形式であり、普遍はその上位の普遍の運動形式である。内面的なものとは普遍の普遍であり、普遍が分化する運動の同一性=不変がその普遍の普遍である。
(2011.07.03 改稿)
第二二節
■.思惟は、感覚的、直観的、表象的認識を加工することによって対象の普遍を認識する。最初の内容を変化させ、媒介を通して対象を認識する思惟の特徴からすると、普遍性は主観の産物であるように見える。しかし、それは事柄の一面にすぎない。
普遍的なものとは、事物における本質的なもの、真なるもの、客観的なものを意味しており、主観的なものとは正反対のものである。
対象の真なるものは、対象を注意深く観察し、ありのままを受け入れるだけで知ることはできない。対象の真、実体は、思惟による直接的なものの加工によってのみ認識できる、というのはあらゆる時代の確信であった。近代になって、この確信に疑問が生まれて、思惟の産物と対象の実体が分離されるようになった。対象と思惟の一致と対立の問題は近代哲学の主要な関心である。
▲、思惟と事物の一致は証明しなければならない。思惟が対象の実体を認識するという素朴な確信を否定したのは近代哲学の成果である。カントは、それまでの哲学と経験科学の思惟が事物の普遍と一致しないことを証明した。近代哲学はこの一致を証明するために、弁証法的な論理の発見を課題とすることになった。
しかし、ヘーゲルの弁証法はまだ客観と一致しているとは言えない。ヘーゲルは思惟と事物の一致が真理である、としているが、事物の本質が思惟であり、論理自体が客観だとしている。ヘーゲルは哲学と客観的世界の対応関係を問題にしていない。ヘーゲルは論理が客観的世界と一致する、と主張するのではなく、論理が客観的世界の本質である、と主張する。したがって、思惟が論理学に到達すると思惟と客観が一致することになる。
(2011.07.04改稿)
第二三節
■.思惟は対象の個別性を否定して対象の普遍=本性を認識する。思惟は対象の普遍=本質と一致する。対象の個別性に支配されていない思惟は自由であり、思惟する自我は自由な普遍的な自我である。
私の精神の自由とは、私の個人的な諸性質、状態、等々の個別性を否定して自我自体が普遍になることである。それを対象認識の側面から言えば、対象認識の内容に主観の特殊な性質や行為を加えることなく、対象の実在とその諸規定の内に沈潜することである。自我の側面から言えば、個人的な意見から解放されて、すべての個人と同一である普遍的な内容を作り出し、自己を普遍化することである。それが思惟の客観的な態度である。
▲、本来問題になっているのは普遍とはなにかであるから、これは特に重要なことを言っているわけではない。
ヘーゲルの場合は前もって概念が存在するから、主観が概念に到達すると客観である自己と一致することになる。自己と一致すること、円環をなすことが無限性であり自由である、というのは分かりやすいが間違いである。自由や無限を、自己と他の単純な関係において規定することはできない。ヘーゲルの論理学では全体において普遍が単純で無規定である。普遍を運動体として規定しないとカテゴリーの具体的な規定はできない。
(2011.07.04改稿)
第二四節
▲、思惟が客観の普遍=実体と一致するとき、客観的思想である。この規定を見るとヘーゲルは主観と客観の一致を問題にしているように見えるが、ヘーゲルの言う客観は客観的思想である。事物の本質的規定を客観というのだから、思惟は思惟と一致し、思惟は自己と一致する。ヘーゲルはこうした自己との一致を自由だとか無限だと言う。
思惟が客観と一致する場合の客観が思惟であれば、思惟と思惟の一致は同語反覆である。この関係から多くの無駄な記述が生まれる。
■.補遺一
思想が客観的思想として世界の内面をなしている。思惟規定の体系としての論理では、普通の意味での主観と客観との対立は存在しない。理性が世界の魂であり、世界に内在するものであり、世界の最も内面的な本性であり、普遍である。
手近な例を挙げれば、われわれは特定の動物をさして、これは動物であると言う。しかし動物そのものは示すことのできないものであって、示すことができるのは、常に特定の動物にすぎない。動物なるものは現存しない。それは個々の動物の普遍的な性質であって、現実に存在するすべての動物は、はるかに具体的な規定を持ったものであり、特殊なものである。しかし動物であるということ、すなわち普遍的なものとしての類は、特定の動物に属し、その特定の本質をなしている。犬から動物であるということを取去ったら、われわれはそれが何であるかを言うことができないであろう。すべての事物は、不変の内的本性と、そして外的な定有とを持っている。すべては、生きそして死に、発生しそして消滅する、しかしそれらの本質、普遍は類である。そしてこれは単に共通なものと解されてはならない。
▲、世界の実体=普遍をなすのは思想である、という観念論哲学は、主観的観念論も客観的観念論も、実体=普遍を客観のうちに見出せないことから生まれた。個別の動物は存在する、しかし、動物なるもの、動物そのものは、存在しない。しかし、個別の動物の本質は動物であることであり、動物であることにおいて個別の動物である。個別の動物は発生し消滅する。しかし、類としての動物は存在する。このように考えると個別存在の実体=普遍は思惟のうちにあり、客観的であるとしても、客観的な観念としてのみ存在しているように見える。少なくとも動物なるものという普遍が現存することを証明し指し示すことはできないことは明かである。
ヘーゲルが実体=普遍を客観的世界のうちに発見できず、客観的思想のうちに見出すのは、実体=普遍を存在の形式において規定しているからである。ヘーゲルの普遍は存在の規定である。しかし、実際は普遍は存在として規定することはできない。
存在は個別存在として存在する。個別存在は生成し消滅する。この生成と消滅が存在の普遍であり実体であり無限者である。存在の実体は運動である。個別と普遍は運動態としてのみ存在する。普遍は個別を運動体として規定したものである。このことをヘーゲルを含めたすべての哲学者は理解していない。個別の動物は動物という普遍=一者において生じる、この一者の運動形式である。だから、動物という一者は多様な動物の進化の変遷として存在する。普遍はこの進化の運動形態を規定するための一契機としてのカテゴリーである。この一者は客観的に形成されたものであり、実際に一者として存在し、それが分化することに於いて多様性を持つ一者になる。この一者と多様な存在の対立が普遍の運動形式である。
客観的精神は、ヘーゲルの想定物であり、実際には存在しない。ヘーゲルの普遍は存在の普遍としての存在の規定に止まるからである。ヘーゲルの普遍は、存在の普遍の真の意味である運動の規定に到達しない。存在の普遍を客観的世界に見出せないために、存在の普遍の形式のまま、その普遍を思惟の中に求めている。この場合は普遍は普遍的規定である、という同語反覆になる。
ヘーゲルは個別の事象ではなく世界の全体を問題にしており、世界の全体を一元的に規定するために、世界を支配するもの、世界の原因、として客観的精神を想定している。実際、世界の実体は物質的存在ではない。しかし、思惟でもない。運動である。実体は存在が変化するからこそ求められる規定であり、したがってその変化が実体である。
■.思惟は外的な事物の実体をなすとともに、また精神的なものの普遍的実体でもある。人間のあらゆる直観のうちには思惟があり、また思惟は、あらゆる表象、記憶、意志、願望、等々、一般に、あらゆる精神的活動のうちにある普遍的なものであって、これらはすべて思惟の特殊化にすぎない。思惟をこのように解するとき、それは、われわれが、われわれは直観、表象、意志、等等の諸能力とならんで、思惟能力をも持っていると言う場合とは異ったものである。あらゆる自然的なものおよび精神的なものの真の普遍者と解された思惟は、これらすべてを包括するものであり、一切の根抵である。
▲、ヘーゲルにとっては自然の実体が思惟であり、精神の実体も思惟である。自然も精神もこのような関係にあるのではない。すべての意識は客観的世界を認識する。すべての存在は運動体であり、普遍と個別の同一である。すべての意識は存在を普遍と個別の同一として捉える。存在が普遍と個別の同一であるから、どのような意識も対象を完全に個別として捉えることはできず、また普遍としてのみ捉えることもできない。客観的存在においても意識においても普遍と個別は非常に複雑な関係を形成している。その複雑に絡み合った関係を、体系的に法則的に整理して規定するのが論理学である。
表象も思惟も、対象を存在=静止において認識するし、運動形態においても認識する。静止もまた運動の一形態である。したがって、表象と思惟は対象の捉えかたが違うだけで、表象が個別で思惟が普遍という捉えかたの違いがあるわけではなく、したがっていづれが高度であるかといった問題も存在しない。意識と客観の関係も表象と思惟の関係も、哲学が存在の前提を運動として規定すること、したがって思惟の規定の特徴である普遍は運動を規定するカテゴリーの契機であることを理解すれば単純に規定することができる。
意識の全体をも思惟を基礎にして抽象から具体への上向として体系化するのはヘーゲルの余計な図式化である。こんなヒエラルキーはなくして、それぞれの意識形態と客観的世界の関係を規定すべきである。それがそれぞれの意識形態の研究である。
このあと「私」について長々と書いているが、特に意味のない通俗的な記述である。
(2011.07.04改稿)
補遺二
▲、ヘーゲルによれば、論理学が扱うのは、純粋な思想、純粋な思惟規定、自由な思想、純粋な霊の群、もっとも内面的なもの、等々である。どう言い換えても名前が変わるだけで内容ははっきりしない。経験的な内容ではない、という否定の意味は分かるが、積極的にそれが何であるかは分からない。それぞれについての長い説明は、自由の説明を含めて論旨を外れた形式論議である。
形式論議を重ねながら、ヘーゲルは論理学の対象=内容は何か、という古代からの難問に取り組んでいる。普通人々は、論理学は単に形式を取扱うにすぎず、内容はほかから取って来なければならない、と言う。これに対してヘーゲルは次の様に反論している。
■.論理的諸思想は、あらゆるものの絶対的な根拠である。・・論理的諸思想の研究は、それらを思惟そのものから導き出し、それらが真理であるかどうかを、それら自身から吟味することを意味する。言葉をかえて言えば、われわれがそれらを外から受入れてそれらを定義したり、あるいは、それらが意識のうちにあらわれる姿とそれらとを比較しながらそれらの価値および妥当性を示したりしないことを意味する。・・・そしてわれわれは、定義が、われわれの普通の意識のうちに見出される定義の対象と一致すれば、それを正しいと言うであろう。しかし、このような仕方では、概念はそれ自身として規定されず、或る前提にしたがって規定され、この前提が正しさの標識および基準となっている。われわれはこのような基準を用いるべきではなく、それ自身生動的な思惟諸規定を、それ自身で展開させねばならない。思惟諸規定の真理を問題にするということは、普通の意識には奇妙に思われるにちがいない。なぜなら、思惟規定というものは、与えられた対象に適用されてのみ、真理となるのであって、こうした適用をはなれて、その真理を問題とするということは、意味がないようにみえるからである。しかしこの問題にこそ、すべてがかかっているのである。その場合、われわれはもちろん、真理とはどういうものかを知っていなければならない。普通われわれは、対象と表象との一致を真理と呼んでいる。この場合、われわれは、一つの対象を前提し、そしてわれわれの表象はこの対象に適応しなければならないのである。しかし哲学的な意味では、真理とは、これに反して、抽象的に言えば、或る内容のそれ自身との一致を意味する。したがってこれは、先に述べたような真理の意味とは、全くちがった意味である。
▲、これは内容的には間違っているが、形式的な規定としては正しく重要な意味を持っている。
ヘーゲルは哲学が経験的な意識と違うことを様々の側面から規定している。ただ、どのように違うかを積極的に規定することができない。経験的な意識ではないということをくり返し規定しているために形式規定になる。
論理学は内容を外から取ってくるのではない。論理的諸思想はあらゆるものの絶対的根拠だから、他のものを必要としない。自己を根拠として自己自身から自己を展開する。その意味で純粋である。
経験的な意識の正さは、定義と経験的な意識に見出される定義の対象との一致である。つまり、ある対象が前提とされ、その対象と一致することが正しさの基準となる。経験的意識においては対象と表象との一致が真理である。
哲学の真理は対象との一致ではなく、ある内容のそれ自身との一致を意味する。論理学は対象を持たないから、自己自身を内容として作り出す。したがって、真理は対象との一致ではなくて自己との一致、思惟の論理との一致である。ヘーゲルはこう考えている。
純粋とは実在的な対象を持たないこと、経験的意識の内容を含まない、という意味である。だから、論理学の真理は実在的な対象との一致ではなく、経験的意識との一致ではない、ということになる。ここまでは正しい。しかし、対象がない、したがって対象との一致が真理ではない、というのは間違いである。
経験的な意識、経験科学は個別の対象を認識する。だから、個別対象と認識との一致が真理である。個別対象と認識が一致しているかどうかは、経験的に実証することができる。しかし、完全に一致することはない。それは対象が無限の内容を持っているから認識し尽くすことはできない、という問題ではない。それは相対的真理と絶対的真理の関係によって解決することができる。そうではなく、経験科学を含めた経験的な意識は対象を存在として規定するために、運動体である対象と一致しなくなる、という意味である。
この問題があるために哲学という独特の学問が生まれる。哲学は運動し変転する個別を対象にするのではなく、変化する存在の全体だけを一者として直接認識対象とする。存在の全体を一者として規定する場合、全体である、一者である、というだけでは具体的規定にならない。全体がどのように形成され関係して一者をなしているかを具体的に規定しなければならない。哲学=論理学は全体を一般的運動形態として規定する。全体とは運動だからである。哲学と経験科学の違いはここにある。したがって、全体を認識する哲学と個別対象を認識する経験科学には当然同一性もある。
ヘーゲルの論理学は対象を持たないから、現実との一致を意味しない。
ヘーゲル哲学の真理は事物と意識の一致を意味するのではなく、自己自身との一致を意味する。それは例えば、真の友とは、その人の行いが友情の概念に適合している人である。真の芸術品とは、芸術の概念に適合している芸術である。つまり、真の友、あるいは真の芸術という概念が客観的に存在して、それに適合している場合が真実の友であり芸術である。ヘーゲルは概念と一致していない事物があると想定して、その事物と意識が一致しても真理ではないと考えている。真理とは、対象と意識の一致ではなく、対象の概念と主観が一致することを意味している。
この実例を見るとヘーゲルが存在の全体を対象として捉えていないことが分かる。真の友とは友という個別対象の真理であり概念である。ヘーゲルの概念は友である。ヘーゲルは哲学は対象を持たないと言っていたが、それは現実の友を対象とするのではなくて、友の背後にある真の友という概念を対象にする、という意味である。ヘーゲルの哲学は個別の真理を対象にしている。しかし、論理学は真の友を対象にしないし内容としない。
依然存在の規定に止まるヘーゲルの論理学は、結局真の友という個別対象に引き返している。個別対象の背後の個別概念、個別真理がヘーゲル哲学の認識対象である。ヘーゲルにとっての無限性は、様々の友の中から真の友を規定することである。これは経験科学の課題である。
哲学に到達するには、友という現象からさらに抽象化しなければならない。真の友という規定あるいは偽の友という規定は変化する。明確に区別する悟性的規定は必ず矛盾に突き当たる。そして、友の規定をさらに普遍化していくと、社会法則の規定にたどり着く。その場合に初めて自由と必然のカテゴリーにたどり着き、論理学にたどり着く。真の友の規定は哲学的真理ではない。一般的運動の規定だけが論理学である。
世界とは何かという認識論上の問いは、世界を一者として認識することであり、世界の第一の原因は何か、という問いである。或る個別存在の原因ではなくて、存在全体の原因である。哲学の始祖と言われるギリシャの哲学者タレスは、世界の原因は水である、とした。多様に変化する世界の実体は水であり、水のさまざまな様態変化が世界を形作っている。
水が世界の原理であり原因であるとする場合は観念論を必要としない。観念論が生まれるのは、この水という実体の背後にさらに別の実体、別の原理、別の原因を認めなければならないからである。
世界の原因を水として、この実体の変化によって世界を一元的に認識するとしても、水は最後の原因ではない。ここまでたどりつくと、次に、この水を様々な様態に変化させるのは何か、という質的に違った原因が求められる。この水が諸現象に変化するのは、何によってであるか、という問題は、変化する運動の原因、原理の認識を課題としている。それは水という実在の形式を離れた原理である。存在を変化させる原理がなければ存在全体は認識されない。全体は存在の羅列によってではなく、全体を一つの運動としてのみ認識することができる。
アナクサゴラスが「ヌースが世界を支配している」と規定したことは、物質とは違ったものを実体としたことに意義があった。アナクサゴラスの規定は、思想の発展の必然性として、実在と実在の運動法則の分離を含んでいる。そして、ここに観念論への道が開けている。
実体が水という物質を離れて、理性という名前をもっていてもなお客観的な存在である。水という実体に内在する運動法則である。同じことであるが、水=物質が様々に変化する過程で作り出す関係であり構造である。論理学はこの運動を物質の存在形式を抽象して、その普遍として規定する。この運動の原理を精神だと考えるのが、ヘーゲルの逆立ちである。
意識と対象の一致が真理である。しかし、認識論上の困難は一致の形式を明らかにすることであり、対象が違うと一致の形式も違ってくる。表象と対象が一致するのは直接的な真理である。表象には運動も直接的に反映している。思惟による認識は、対象を分離し二重化する。そのために、分離と二重化という認識形式において運動はどのように反映されるのかが研究対象となる。思惟は対象を分離し二重化して認識するが、対象は統一体として、運動体としてのみ存在している。そのためにこの分離と二重性を一致へと回復しなければならない。そのために論理学は、対象の運動を媒介形式においてはどのように認識するのかを研究する学問として成立している。
経験科学は、物質的世界と精神世界のすべてを対象としている。それぞれの科学は有限であるが、経験科学の総体は無限であり、個別経験科学の発展によって全体が関連してくる。しかし、個別経験科学の無限の集積によっては、存在の全体を規定することはできない。規定相互の関連そのものは規定されないからである。すべての存在の規定の全体がどのような運動形態として形成され関係を持っているかを取り出して規定するのが論理学である。この意味で、物質的世界と精神世界の全体像だけを必然性において明らかにするための学問が論理学である。
物質世界と精神世界は一つの運動法則として全体となる。哲学=論理学は、物質世界と精神世界に内在する運動法則を思惟規定として明らかにする学問である。哲学史は、論理規定を確定し、さらにその関連の規定性を求める過程であったということができる。
ヘーゲルは、論理学が世界のすべての基礎であり原理であり、すべてを作り出すものと考えた。しかし、実際にヘーゲルが表面的な現象から普遍的精神へと深まっていく過程で追求しているのは、運動法則としての弁証法の規定性である。ただそれを意識することはできなかった。
(2011.07.06改稿)
補遺三
■.補遺 三・・偉大な精神は偉大な経験をし、さまざまな現象のうちに真に重要なものを洞察する。理念は現実的であり、目前にあるものであって、現象の彼方および背後にあるものではない。例えば、ゲーテのような偉大な精神が、自然や歴史をながめるとき、それは偉大な経験をし、そのうちに理性的なものを洞察して、それをはっきりと言いあらわす。認識のもっと進んだ形式は、真なるものを更に反省のうちに認識し、思想の諸関係によって規定するということである。しかし絶対の真理は、以上二つの形式のうちでは、まだその真の形式のうちに存在していない。認識の最も完全な方法は、思惟という純粋な形式のうちでなされる方法である。この場合その人の行為は全く自由である。思惟という形式は絶対的な形式であって、この形式のうちに、真理はその真の姿をもってあらわれるということ、これがあらゆる哲学の主張である。この主張を証明するということはまず、認識の他の諸形式が有限な形式であることを指摘することを意味する。
▲、ヘーゲルはここでも認識の諸形式を比較することで哲学を位置づけようとしている。ヘーゲル哲学では主観と客観の一致が認識の真理ではなく、現象の背後に存在している真理が主観の認識対象である。このために、認識形式は現実の何を認識するかではなくて、真理にどれほど近づくかの量によって区別されており、この形式規定が様々の混乱を引き起こしている。
経験も真なるものを認識することができる。偉大な精神は偉大な経験をし、現象のうちに真に重要なものを、つまり理性的なものを洞察する。これはヘーゲルの経験的な知識であって、これでは哲学との違いを規定できない。
経験は個別対象を認識するから、経験のうちに真に重要なもの、理性的なものが個別において認識される。偉大な個性は偉大な経験をする。しかし、どれほど偉大な個性でも運動法則を規定することはできない。偉大な経験的意識は無限に偉大に発展するが、それでも運動法則に届くことはない。それはすべての経験科学の無限の発展が一般的な運動法則に届かないのと同じである。
ヘーゲルは、絶対的認識=哲学だけが無限的で他の認識形式は有限であると考えており、そのうえで、経験的認識、反省的認識、絶対的認識を認識の深さによって区別している。
思惟による反省的対象認識は経験諸科学も論理学も同じである。経験諸科学と論理学は認識の深さによってではなく、対象の違いによって区別しなければならない。経験諸科学は個別存在を認識対象としており、論理学は存在全体の運動法則を認識対象にしている。論理学はもっとも普遍的な学問である。それは存在の普遍は運動だからである。ヘーゲルは論理学と経験科学を対象=内容において区別できないために、論理学をもっとも高度の精神だとして量的に形式的に区別している。
認識形式を現実の内容によってではなく、抽象から具体への上向という単純な形式によって区別した上で、ヘーゲルはこの単純な形式を歴史的な精神の具体的な内容に適用している。抽象から具体への上向という形式の中に偶然的に任意に内容が放り込むのは論理学の悪しき適用でありこじつけである。一般に個別現象に論理的規定を適用するのはこじつけである。論理はどのような場合でも、一般的な運動法則としてのみ認識の内容になる。個別対象の認識においても運動法則が問題になる場合が出てくる。その時にだけ論理学は有効である。
ヘーゲルは「論理学は認識を取り扱うものであり」という立場から、認識の諸形式をまず、統一と分裂、直接的と媒介的という単純な形式によって規定し、この形式を原理として社会的精神の具体的な内容を説明している。
ヘーゲルの哲学では、精神の変化は認識の形式の変化によって起こる。客観的観念論では認識の進化が精神の変化の基礎になる。ヘーゲル哲学では人間の認識の歴史的発展と論理の発展は同じ形式を持っている。認識の諸形式を抽象から具体の形式によって比較すると、人間の最初の状態は認識の直接態における精神的生活であり、無垢と調和の状態であった。子供も無邪気な無垢の状態にある。しかし、精神生活はこの無自覚の状態に止まることはできず、認識によって破られる。人間には自覚が生じて自然的生活=動物的生活から区別されるようになる。
直接知は対象と直接的な一致の状態にあり、無邪気、率直、愛、誠実、自然的等々と肯定的に評価される。それに対して思惟は分離の立場であり、自然的な統一の放棄の立場であり、高慢と害悪の起源と見られる。自然においては内的分裂は見られないし、自然の諸事物は決して悪を行わない。
人間は生来原悪である。人間が生来悪であることは精神の概念のうちに含まれていて、人間はそれ以外にありようがない。人間は自然的存在であることを否定して、自由な精神的存在になるべき運命をもっている。人間は自意識を持つものとして外界から自己を区別する。人間が自然的であることは、個別的であることを意味しており、欲望や傾向性に支配されることを意味している。例え人間の実践が法則や普遍性の規定を持つとしても欲望や傾向性に支配されている場合は、法則に隷属している。さらに感情や傾向性のうちに利己的な個別性を超えた社会的傾向を持っているとしても、普遍性は主観性の形式を持っており、自覚的な普遍性ではない。(この最後の展開はカントの説である。)
こうした認識論は人間論になるので、興味を持たれる。しかし、哲学ではない。論理学を一般的な運動の学とすることによってのみ通俗的な道徳論や心理学と哲学を分離することができる。
人間の歴史的な精神が分裂を生み出す要因として、ヘーゲルは労働を挙げているが、労働が社会法則を作り出し、社会が階級的分裂を作り出すことを精神形成の要因にしていない。
歴史的精神は認識の発展によってではなく、社会的な対立において形成される。つまり、歴史によって新しい認識対象が形成される。社会的な利害関係の形成が社会的精神の具体的な内容である。ヘーゲルはその歴史性をまったく無視して、抽象から具体への上向によって、風が吹けば桶屋が儲かる式に因果関係を連ねている。歴史的精神を、統一と分裂、抽象と具体の対立に単純化して説明すれば分かりやすくて面白いが歴史的事実とは関係なくなる。
社会的精神の具体的な内容は社会矛盾の反映である。だから、経験科学=歴史学の内容である。論理学ではない。無邪気と一体性が合ったのは共同体の世界で、階級分裂とともにそれは失われた。ルソーの自然状態には復帰できない。この関係は、無自覚から自覚へ、ではなくて、社会的利害関係の変化を反映した社会的精神の変化であり、認識の発展ではなく社会的構造の変化発展である。社会構造の変化が認識の変化の基礎であり内容である。社会的精神の形成は、認識の進化によるのではなくて、認識の対象の進化、新しい認識対象の形成による認識の発展である。ヘーゲルの認識論には対象がない。
善と悪の対立という社会的意識を生み出すのは人間の労働が生み出す社会である。動物は社会を生み出さず、善と悪の現実的な対立もその意識も生み出さない。人間は社会を形成することによって、主観と自然を分離し、さらに社会が階級に分離されることによって、精神の社会的対立を生み出して発展する。精神の発展は、蛇が教えるのではないし、精神の自己運動が分裂を生み出すのでもない。
ヘーゲルが性悪説を肯定するのは、発展の観点からである。人間の精神は発展する。精神の発展とは古い精神の否定である。古い精神は現状の肯定であり、現状の肯定は善であり、それを否定することは悪である。否定が精神の本性であるから、精神は本来悪である。
精神は本来悪である、というのは発展の見地から言えることである。また、感情や傾向性と普遍的意識の関係も、社会的発展法則の具体的規定において内容を規定することができる。カントもヘーゲルも社会法則を規定していない。だから、社会的精神をごく単純に抽象的に扱っており、形式規定になっている。こうした問題は論理学に関係する限りでは本質の領域と概念の領域で扱われる問題であるが、論理的にカントもヘーゲルも抽象的形式規定に止まっている。
(2011.07.06改稿)
第二五節
▲、ヘーゲルの時代が直面していた哲学の課題は、認識は客観的世界と一致できるか、無限者は認識できるか、という問題である。つまり、有限性につきまとわれる思惟諸規定の限界はいかに克服されるか、という問題である。
ヘーゲルは思惟諸規定の有限性を的確に把握している。一つは、内容が主観的で客観的なものと対立していること、もう一つは思惟諸規定が相互に対立していること、である。思惟規定の外に思惟と一致しない客観的な世界がある場合も、思惟規定の外に他の思惟規定がある場合も、思惟規定はすべてを含んでいないから有限であり、真理ではない。
したがって、ヘーゲルの課題は、思惟規定と客観の一致と、思惟規定の流動化、体系化である。
ヘーゲルは「精神の現象学」において、直接的意識からはじめて、その内部の運動法則である哲学知にたどり着いた。だから、哲学知には、道徳、人倫、芸術、宗教等の、人類が蓄積した高度の意識形態のすべてが含まれている。
こうしてヘーゲルの場合、思惟の形式にすぎないように見える論理学の諸規定は、人類の現実的で経験的な意識とそれを普遍化した意識の全体の内容を総括していることになり、人類の意識の全体を具体的な内容として含んでいることになる。ヘーゲルはもっとも抽象的な思惟規定であるカテゴリーが哲学的真理であると考えたが、そこから引き返して、カテゴリーの外化という形式で世界を再現できる、と考えた。それが絶対精神の認識論的な循環である。
つまり、ヘーゲルの論理学は「精神の現象学」の内容から分離できない。正しくは現象学の内容から分離して運動の思惟規定に移行しなければならない。その場合にのみ思惟規定はすべての存在、すべての現象の絶対的な普遍となる。ヘーゲルはこの移行ができなかったために、観念が観念を総括する客観的観念論に止まっている。
第二六節
客観に対する思想の第一の態度は、感覚や直観の内容を思惟の形式に変えることによって思惟が客観と一致し、真理を得ることができると信じている素朴な態度である。ギリシャ哲学や経験諸科学、日常的な意識は、主観と客観の一致に対する素朴な信念のうちに生きている。客観を研究することで主観と客観が一致できるという信念は、客観と主観が一致するために主観自身を研究しなければならないことを知らない点で素朴である。
近代哲学は思惟と客観の対立を徹底して意識した。そして、両者の一致を真理とした上で、一致のための研究対象を客観から主観に移した。近代哲学の発展は、思惟と客観の対立を徹底した抽象性において規定し、その抽象性における両者の一致の論理を発見する過程であるといってよい。デカルトとスピノザは、思惟と客観の徹底した抽象性における対立にたどり着いた成果として、その一致のために第三者である神を想定している。ヘーゲル哲学では絶対精神がその役目を果たしている。思惟と客観は直接的な関係において一致するのではない。思惟と客観の対立の背後に絶対精神あるいは神があって、思惟と客観はそれぞれが絶対精神と一致することによって、つまり絶対精神の媒介を経由して一致する。絶対精神という純粋抽象の世界での思惟と客観の一致が哲学的な真理である。
したがって、ヘーゲルがいう自己との対立は、絶対精神と主観的思惟の対立であり、客観的世界と絶対精神の対立である。この三つの対立を克服すること、つまり、主観と客観的現実が絶対精神と一つになることが真理である。
絶対的精神の想定はヘーゲルの逆立ちであるが、思惟と客観の一致のために、第三の契機を想定していることは重要な意義を持っている。第三の契機とは、思惟と客観的世界の背後にある実体であり、この第三の契機における一致の具体的内容が弁証法的な論理である。
経験論や素朴唯物論は、客観と主観の直接的な対立と一致だけを認めて、両者を絶対的な抽象性において一致させる第三者を認めない。つまり思惟規定が絶対的な抽象に到達できない。デカルト、スピノザの神やヘーゲルの絶対精神の実体は存在の具体的規定を抽象した絶対的抽象である。ここに論理学がある。だから唯物論の立場から絶対的抽象である神や絶対精神を否定すると弁証法を理解できなくなる。それは、ヘーゲルがここで説明しているように、追思惟による客観と意識の一致を素朴に信じていて認識の限界に気づかないからである。
ヘーゲルのいう哲学的な一致は、現象の背後にある実体との一致である。主観と現象と実体のすべてが一つに統一されることが真の無限性である。
(2011.07.07改稿)
第二八節
▲、古い形而上学者の課題は、神、世界、魂といった絶対者を捉えることである。絶対者を捉えるのは個別対象を捉える場合と違って、単一だとか全体的なもの、一者、等々の思惟規定=カテゴリーが適用される。古い形而上学は、思惟規定を事物の根本規定とみとめて、思惟規定が絶対者を捕らえることができると信じていた。思惟規定が真実なものかを検討することはなかったし、絶対者に述語として思惟規定を与える判断という形式が真実なものであるかを検討することもなかった。
現実の個別存在は生成消滅するから、それは対象の真実在ではなく、変化し消滅する存在の背後に真実在があり、それは無限者である。思惟はこの無限者を規定しなければならない。
歴史的に蓄積されてきた思惟規定はすべて有限な思惟規定である。絶対者=無限者には、有限な思惟規定はふさわしくない。無限者を有限な規定によって表現しようとすれば、有限な規定を無限に付加し続けることになる。しかし、どれほど有限的規定を積み重ねても無限者の規定にならない。
■.形式的に言えば、有限とは終りを持つもの、存在しはするが、他のものと連関するところで無くなり、したがって他のものによって制限されているものである。だから有限なものとは、自己の否定であり自己の限界をなしているところの他のものに関係していることを意味する。ところが思惟は自分自身のもとにあり、自分自身に関係し、自分自身を対象としている。私が或る思想を対象として持つとき、私は私自身のもとにいるのである。私すなわち思惟が無限であるのは、それが思惟において、自己自身であるところの対象と関係するからである。対象一般は私にとって他のものであり、否定的なものである。しかし思惟が自分自身を思惟するとすれば、その対象は、対象であって同時に対象でない。それは揚棄された対象、観念的な対象である。だから純粋な思惟そのものは、自己のうちに制限を持たない。思惟が有限であるのは、それが制限された諸規定のもとに立ちどまって、それらを最後のものと考えるかぎりにおいてのみである。無限な思惟あるいは思弁的な思惟は、これに反して、同じく規定しはするけれども、規定し制限しながら、この欠陥を再び除去するものである。無限は、普通人々が考えているように、限りなく限界を越えて行くことと解さるべきものではなく、右に述べたような単純な仕方で解されねばならない。
▲、現実の個別存在は生成消滅する。有限とは変化と関係を意味しており、終わりをもつものとは、他者と関連するところで他者に制限されているものである。
ヘーゲルは有限のこうした特徴を克服するために、思惟の対象である絶対者を思惟とした。そうすると、思惟が自己を思惟することになり、思惟が自己である絶対者と同一化することになる。思惟と対象である絶対者と同一化して無限者となり自由となる。この同一化を前提として、そのために思惟規定は変化しなければならない。
ヘーゲルは絶対者を思惟とすることで特有の無限者を生み出した。これは間違いである。存在は変化しているからすべて有限である。有限とは変化することである。変化することにおいて相互に関係している。だから有限とは関係を持つことである。したがって、存在の無限とは変化と関係である。存在の無限者は存在の運動である。弁証法は存在の運動を規定することにおいて無限的な思惟である。有限的な悟性とは、存在の規定である。
弁証法的論理は矛盾の展開であり、一つの思惟規定ではなく、思惟規定の体系的展開である。だから、判断の形式は絶対者を規定する形式ではない。絶対者を規定するのは体系である。
古い形而上学は、絶対者に思惟規定の一つを付け加えることで絶対者の規定とした。しかし、すべての思惟規定は有限と無限、有と無、単一と合成、と対立的規定として形成されている。対立する規定の一つを絶対者の規定とすると、他方の規定を含まないことになり、絶対者は無限者ではなくなる。対立する規定に制限されているからである。
思惟規定自身を研究すると必ず矛盾に突き当たる。そのためにカントは絶対者を認識することはできないと考えたが、この矛盾が絶対者の正体であった。絶対者は運動である。運動は矛盾の展開としてのみ規定できる。したがって、カントは二律背反において絶対者に到達していたが、それが絶対者であることに気がつかなかった。ヘーゲルはこれを絶対者とした。しかし、それを思惟だと考えた。
しかし、絶対者に思惟規定を外から付加することによっては絶対者を規定することはできない。絶対者自身が思惟であり、絶対者自身が思惟規定を生み出すのであれば、絶対者と思惟規定は同一である。ヘーゲルはこう考えて絶対者はカテゴリーの体系であることを発見したが、それが客観的現実において何を意味するかを理解できず、絶対者を思惟と考えた。これが客観的観念論である。
絶対者を規定するためにカテゴリーにまで到達できない場合は、存在の規定を無限に並べることになる。これは運動の規定とはまったく関係のない経験的な意識による量的な無限の規定である。
この量的規定とはことなるが、ヘーゲルの体系は存在を運動として規定しているのではないために規定の無限的な体系的蓄積という形式になる。
ヘーゲルは絶対者に経験的な規定を無限に付加することを批判している。規定を無限に付加しても絶対者に届かないのは、規定の付加は運動の規定にならないからで、運動の規定と存在の規定は違うからである。ところが、ヘーゲルの哲学体系は存在の規定の全体を認識し尽くすことを課題にしており、できると考えている。ヘーゲルの無限者は思惟の形式をとった存在の規定の全体である。存在の無限の併存ではないが、存在の無限的な体系である。そのために弁証法的論理が純化していない。
無限者を認識することは無限的な存在を認識しつくすことではない。運動の原理を認識することと運動する存在を認識することは別である。
(2011.07.07)
第三一節
■.経験科学は個別法則を対象にしている。形而上学は、物質世界と精神世界の全体を総体として認識することを課題にしている。世界の総体はさしあたって、魂、世界、神といった表象によって捕らえられているが、その表象は、個人的な偶然的な内容を含んでおり、内容はまだ知られていない。古い形而上学は、この表象を主語として想定し、それに思惟規定を述語として付け加えることで、その内容を規定しようとした。
神という表象の内容は述語によってはじめて言い表される。神という表象の内容は述語である思惟規定に含まれているのだから、内容を持たない主語は余計なものである。哲学=論理学の世界では思惟規定が内容であるから、述語となっている思惟規定だけを内容とし、研究の対象にする。したがって、魂、世界、神といった主語は思惟規定の展開にとって余計なものであり、命題の形式は論理の展開を表現するにはふさわしくない形式である。
▲、無限者を主語とする命題形式では無限者を規定することはできない。この場合述語だけが内容であるから、述語を研究しなければならない、というのは重要な指摘である。その上で、無限者は運動であるから、ひとつの規定、述語で表現する事はできない。無限者は体系である。無限者は、無限者を主語とする述語だけを流動化し体系する。
そのあと、客観的な思考とは、対象が自己自身から自由に自己を規定することである、客観の表象を前提し、あるいは、蓄積された思惟規定を前提とすると自由な思考はできない、外的権威や既存の思惟規定を乗り越えるのが課題である、と書いている。何者にも捕らわれない、というのはこういう意味である。これは運動法則を意味していないので、論理ではなく認識方法の教訓である。
(2011.07.08)
第三二節
■.悟性的形而上学がドグマティズムであるゆえんは、それが一面的な、悟性的諸規定を、個々別々に切りはなされたままで、固執するところにあるが、これに反して、思弁的哲学のイデアリズムは統体性の原理を持ち、抽象的な悟性規定の一面性を包括している。かくしてイデアリズムは次のように言うであろう。魂は単に有限でもなければ単に無限でもなく、魂は本質的に両者のいずれでもあり、したがってまた両者のいずれでもない。言いかえれば、このような規定は、一つ一つ切りはなされては無価値であって、それらはただ揚棄されたものとしてのみ価値を持つのである。
▲、これは悟性的形而上学を超えるヘーゲルの画期的な発見である。次の課題は、対立物の同一、揚棄を具体的に規定することである。
このあと三六節までは、この同じ内容を違う実例で説明している。三五節の、偶然と必然、本質と現象、幸福と苦痛、善と悪、等の対立的規定の関係は興味深いが、対立物の同一を指摘しているだけである。こうした複雑な概念についてこの段階で抽象的に説明しても大した意義はないだろう。
(2011.07.08)
第三七節
■.悟性の抽象的な思惟は、自分自身で普遍から特殊化と限定へ進むことができなかった。哲学は具体的な内容と確かな拠り所を持たなければならない。
内容の具体性とは、意識の諸対象を、それ自身の持つさまざまの規定の統一として知ることである。悟性的な思惟は、抽象的な普遍の形式にとどまって、この普遍の特殊化まで進むことができない。例えば魂の本質は何かといった問題を取り上げて、魂は単一である、という規定を与える。
経験論はこうした弱点を克服するために直接に現実に向かい、内的、外的な経験的事実をそのままに哲学の内容とした。目の前の有限な世界が哲学の確固とした基礎である、と考えた。魂の問題では、経験的心理学に内容を求めた。自然学では、空間は無限であるとか、自然は飛躍しないとかいった抽象的な規定が生命にみちた自然の内容を把握できないことは明らかであり、経験論は、現実の有限な規定を内容として把握した。
▲、ヘーゲルは形而上学の規定と経験論の規定を、普遍とその特殊化として結びつけている。ヘーゲルの論理の規定が存在の規定であることがわかる。ヘーゲルはカントの物自体の抽象性を克服するために、物自体と現象を結びつけ、結果として物自体を現象の総体に解消した。このとき抽象から具体への上向という論理の発展形式が展開の基礎となる。抽象から具体への上向は形式規定であるから、哲学でも経験科学でも同じ形式が使われる。この形式では哲学と経験科学を区別できない。
経験論は普遍に向かって進化する。経験論の普遍はカテゴリーに到達すると矛盾に突き当たって行き詰まる。ここから哲学がはじまるから、経験論は哲学の前提ではあるが、経験論自身は哲学の世界に入り込めない。
経験的認識である経験的意識と経験科学が生み出す普遍性の系列は存在の規定の系列である。存在の規定は運動を規定できないので、カテゴリーに到達するとカテゴリーとカテゴリーの対立に突き当たる。カテゴリーとカテゴリーの関係は、存在の普遍を超えた運動の規定である。
存在の普遍の規定とその普遍である運動の規定には飛躍がある。ヘーゲルはこの飛躍を意識していない。そのために哲学的普遍の特殊化が経験的普遍の規定になる。カントは経験的な現象認識と無限者の認識を、現象と物自体として分離しし、ヘーゲルはこの分離を解消した。正しくは、この分離を発展させなければならなかった。
経験論の普遍性と現実の結びつきは、経験論と存在の規定、つまり個別存在の規定の結びつきである。この普遍性は無限者と、つまり運動という現実と結びつかない。経験論では現実の全体の認識はできない。経験論は、経験科学の普遍性までしか届かないから、経験科学に取って代わられる。経験科学ないし経験論を超えるところから哲学は始まる。
(2011.07.09)
第三八節
■.形而上学と経験論は、経験を起源とする表象を認識の前提とする点で同じである。この共通する限界内で、経験論には二つの積極的な側面がある。
経験論は、真実なものは現実のうちにあり、かつ知覚されていなければならないという偉大な原理を持っている。真実なものは現実のうちにあるという原理は、当為や理想や彼岸や空虚な抽象を真理とする思想と対立している。経験論も哲学は存在しているものを認識するものであって、存在しない空想物を内容とするものではない。
経験論は哲学の内容を現実に引き戻した。経験論は無限の形式の真の現存在ではないが、現実自身は潜在的には無限の形式をもっている。理性が求めている真実=無限者は、感覚的表象のうちにその本当の姿を示さないとしても、目の前の現実のうちにある。
経験論は知覚による個別的かつ一時的認識のうちに普遍的かつ恒久的なものを見出す。その方法は分析である。対象が含んでいる諸規定を分離することが普遍性の規定である。これは対象を分割し区別を確定することである。もっとも重要なことは分割されたものを合一することであるが、区別を確定することは合一の前提として重要である。
▲、ヘーゲルは古い形而上学と経験論と哲学の違いを明かにしようとしているが、明確な区別ができず、区別にならない様々の思いつきの特徴を並べている。
古い形而上学は無限者を対象としているが、抽象的で単純な規定しか知らず、その規定の相互の関係も知らなかった。この硬化した身動きのとれない規定は現実の発展によって無力が明かになった。
経験論は近代の自然科学と社会の発展によって個別的な普遍とそのもっとも抽象的な普遍であるカテゴリーを蓄積した。これによって古い形而上学を超えることができる。古い形而上学を超えるには、カテゴリー相互の関係を規定できるほどにカテゴリーを蓄積しなければならない。そして、神や魂を対象とするのではなく、現実を対象としなければならない。この点で経験論の果たした役割は大きい。
しかし、経験論は存在の普遍の規定に止まる。経験論をいくら積み重ねても古い形而上学が問題にしていた無限者の規定はできない。その場合は、経験論と並んで古い形而上学が残る。
ヘーゲルは経験論が蓄積した存在の普遍の規定を、そのもっとも抽象的な規定であるカテゴリーを基礎としてすべて体系化することによって存在の全体を規定することができると考えている。このために、古い形而上学と経験論と哲学を抽象と具体という形式によって区別しており、内容によって区別することができない。
経験論は現実の個別存在を認識の対象としており、個別存在の普遍を蓄積する。古い形而上学は存在の全体を直接対象としているが、全体の規定として一者だとか全体だとか神だとか言った、具体的内容を含まない抽象的な規定を持つだけである。ヘーゲルはこの両者を抽象から具体への上向の形式で繋ごうとしている。しかし、正しくは、存在の普遍の到達点であるカテゴリーだけを取り出して、それを存在の普遍である運動の法則として規定することが哲学の課題である。
経験論も対象の認識のために、物質とか力とか、一、多、普遍、無限、等々というようなカテゴリーを使っている。対象は運動しているから、対象認識のためにはカテゴリーが必要になる。ところが、経験論者は自分では感覚的な対象をそのままに扱っていると思っており、カテゴリーを使っていること、カテゴリーの対象である運動をも認識していることに気がつかない。ヘーゲルはこのことを、経験論者はカテゴリーを全く無批判的無意識的な仕方で用いており、自分が対象をどのように認識しているかを理解していない、と考えている。しかし、これは、自分が対象の存在の普遍である運動をも認識していることを理解しておらず、存在の普遍とその普遍である運動の普遍の関係を理解していない、というべきである。ヘーゲルは無限者をカテゴリーだと考えているが、カテゴリーを認識あるいは概念の運動だと思っていたためにこのような指摘になる。
古い形而上学は、神、魂、世界一般といった無限者の表象を思惟の形式に還元することを課題にしていた。経験論は、それとは対照的に、目の前にある自然と精神の感性的で有限な内容を対象にしている。哲学は有限な存在の内的無限である運動を認識の対象とする。神、魂、世界一般というのは、存在の全体を存在の形式で規定したものであり、運動を持たない。古い形而上学の規定の限界は存在の規定に止まることである。
真理は現実の中にある。真理とは客観的な現実と意識の一致である。客観的に存在するものが認識の対象である。問題は存在するものとは何かである。現実の中にある何と認識が一致するのか、である。哲学は運動の一般的法則である。このことを経験論も古い形而上学も思弁哲学も知らない。
(2011.07.09)
第三九節
■.経験論は、経験的な認識には二つの要素があることを明らかにし、これを明確に分離した。二つの要素というは、一つは、個々ばらばらの無限に多様な素材であり、もう一つは、形式、すなわち普遍性および必然性という思惟規定である。感覚・知覚は、多様な対象を個別に認識する。この個別的な認識と、無限に多様で変化する個別を、統一し、単純化して、普遍性あるいは必然性という形式で認識することは非常に異なった認識である。
この分離された二つの認識はどんな関係にあるのか。経験論によれば、知覚が真理の基礎である。そうなると、普遍性および必然性といった意識は不当なもの、主観的な偶然、単なる習慣ということになる。普遍的や必然性は感覚の対象ではないからである。
こうした反省の主な源泉となっているのはヒュームの懐疑論である。ヒュームは、知覚、感覚、感情、直観が真理であると考え、それを基礎に、普遍的な規定や法則が感覚的知覚によって証明されないという理由によって、その客観性を否定した。この懐疑論は、感情や直観を懐疑の対象とした古代の懐疑論と対照的である。
▲、ヘーゲルはヒュームの懐疑論を否定的に評価しているが、ヒュームの懐疑論は近代哲学の必然的な成果である。変化する現象を懐疑して、その背後にある不変の普遍性を想定して素朴に信じていた古代と違って、普遍性や必然性を懐疑の対象にしたことは、近代哲学の自然な流れであった。
「普遍的な決まりや法則は感覚的知覚によって証明されない」ことを根拠に、つまり普遍性や必然的の現実性が否定されたために、普遍性や必然性の客観性を証明しなければならなくなり、さらには、普遍性や必然性とは何かが明らかにされねばならなくなった。それが、古代にはなかった近代哲学の新しい課題であり、この課題によって近代の論理の体系である弁証法が作り出されることになる。
「普遍的な決まりや法則は感覚的知覚によって証明されない」というのは感覚的知覚が存在を認識するだけである、という前提においてまず認めるべきであろう。この批判を認めることは、普遍性とはなにか必然性とは何か、を現実存在として証明しなければならないことである。
この場合非常に難しいのは、普遍性あるいは必然性に二種類あることを理解しなければヒュームの克服にならないことである。ヒュームが否定しているのは経験的な意味での存在の普遍性である。だから、存在の普遍性を対置すれば、ヒュームとの対立の内部である存在の規定に閉じ込められることになる。ヒュームの懐疑の限界を真に超えるにはカントを超えなければならない。カントはヒュームの懐疑を徹底することによって真の普遍性に到達している。存在の規定を現象の規定として物自体と分離したからである。この物自体とはなにかが近代哲学の、そして哲学全体の、哲学とはなにかの難問を解く鍵である。
経験の素材は無限に多様な存在である。それは関係し運動している。知覚が個別だけを認識するというのは間違いである。知覚は運動と関係を表象的に認識する。思惟は対象を分解するから対象の運動を合一として規定しなければならない。知覚が運動を認識することになると、知覚が普遍や必然性を認識しない、というのも間違いになる。普遍や必然は思惟の形式の規定であって内容の規定ではない。思惟の普遍や必然性が運動を認識していることになると、知覚は運動を認識しており、思惟でいうところの普遍や必然を違った形式で認識していることになる。
知覚が普遍や必然性を認識しない、と考えるのは普遍や必然性がなにであるかを理解していないことからくる二次的な無理解である。悟性的普遍とは存在の規定である。運動する対象を有限的に分離して静止状態として規定することである。悟性的普遍の普遍は運動である。運動の一般的法則としてのカテゴリーが規定されないと、普遍性とは何か普遍性と個別存在、経験科学の普遍性との関係を理解することはできない。普遍の内容が分からないために、普遍は主観的であるとか習慣であるとか、思惟規定であるとか、さまざまに解釈され、さらに知覚は普遍を認識しない、とされてきた。知覚は普遍を認識する。しかし、知覚的にである。知覚したものを規定するのは思惟である。規定とは思惟の形式である。
(2011.07.09)
第四〇節
■.経験の基礎は知覚である。知覚のうちには、個別的な現象しか含まれていないという前提のもとで、ヒュームもカントも個別性と対立する普遍性および必然性の規定が主観内にあることを認める。
古い形而上学は、普遍性、必然性、神といった無限者を、感覚や知覚によって認識されることのない現象の背後の実体として想定していた。経験論は、経験にもとづかない、経験を超えた力を否定して、経験の内部だけですべてを説明しようとしている。そして、普遍性や必然性を事実として認めた上で、それを彼岸の世界から人間の主観へと移しかえた。
ヒュームは普遍性や必然性を主観の習慣だとした。カントは、主観内の規定であるが、すべての人間に共通のア・プリオリな綜合判断であるとして、普遍性に客観性を与えた。
▲、基本的な問題は、感覚的素材とはなにか、普遍とはなにか、である。客観性観念論者であるヘーゲルは、普遍を主観内に認めるカントとヒュームの違いの意義を認めていない。両者とも思惟規定の内容を問うことなく、思惟規定の存在を事実として前提した上で、普遍性や必然性の規定がどこから来るかを問題にしているからである。
普遍の規定がどこから来るかを問題にするのは、すでに論理の筋道が外れている。どこからではなくて、普遍とはなにかが問題である。ヘーゲルはカントを批判してここまで進んだ。しかし、これも普遍とはなにかの答えとして十分ではない。普遍とはなにかは客観において指摘しなければならない。普遍とは運動である。普遍が運動であることを理解しないと、経験を理解できなくなる。
経験的なもの自身から普遍性はでてこない、というのは間違いである。経験的なものから普遍性は出てくる。個別存在である或るものと他のものは関係している。関係の内実は或るものと他のもののを形成した運動である。個別存在の相互の関係と運動は知覚によって認識される。リンゴが赤く、太陽が赤く、として、違うものから赤が普遍性として取り出される場合、知覚は赤を取り出して認識している。それを普遍性として規定するのは思惟である。普遍性を知覚しているからこそ思惟はそれを普遍として規定することができる。
知覚から生れた普遍と他の普遍の関係によっても普遍性は生れる。こうして普遍は蓄積される。そしてもっとも深い、動かない普遍性がカテゴリーである。それが運動の基本原理である。だから、その固定的なカテゴリーを運動させねばならない。ヘーゲルが思惟規定の吟味と言っているのはこのことである。
カントが経験の個別的認識と必然性・普遍性を分離し固定化したのは、両者の関係を規定する前段階である。普遍の思惟規定の具体化とは他の普遍との関係である。もっとも深い普遍性としてカテゴリーを分離しカテゴリーの相関を無限者の規定として体系関係することが普遍とはなにかの答えである。カントはカテゴリー表を形成しカテゴリーの矛盾にまで到達した。そしてヘーゲルがカテゴリー表を体系化した。しかし、なお主観の内部においてである。
(2011.07.11)
第四一節
■.補遺一 古い形而上学は前提された思惟規定に無批判的であった。批判哲学は、古い形而上学の思惟規定を検討の対象としたが、思惟規定の内容を吟味をするには至らず、思惟規定が主観性であるか客観性であるか、という一般的で外的な問題を主な関心にしていた。
カントの哲学における第一の点は、どの程度まで認識しうるかという能力を、思惟自身が吟味せねばならないということである。
▲、経験論にとっての難問は、普遍の意識がどこから生まれるか、である。それは、経験の基礎である感覚には普遍が含まれないと考えるからである。この難問は実は普遍とは何かが明かになっていないために生まれる難問である。普遍とは何かを問題にすることができず、普遍の既成の規定を前提とする場合に、普遍の意識はどこから来るのか、といった外的な問題が追求され、それは主観的か客観的か、という二次的な問題が生まれる。
批判哲学は、思惟の諸規定がどの程度真理の認識へ導き得るか、という問題を提起した。カントは真理と思惟の諸規定を分離している。これに対してヘーゲルは、「思惟の諸形式は即自かつ対自的に考察しなければならない」と批判している。これは、思惟規定を吟味する方法に関する批判であると同時に思惟諸規定の内容の理解に対する批判である。
ヘーゲルは、思惟規定の吟味は、それを前提してその限界を外から問題にするのではなくて、あるいは思惟規定がいかに真理に接近できるかという真理に対して外的な関係を問題にするのではなくて、思惟規定自身が思惟規定に即して自己の限界を明かにすべきである、あるいは思惟規定自身が自己の真理性を自己に即して自己運動として証明すべきであると考えており、それを即自的という言葉で表現している。思惟規定とはなにかは、思惟規定は真理であるかどうかは、思惟規定を外から考察するのではなくて、思惟規定はどのように自己を展開するか、という一つの問題である。思惟規定が自己を展開する有り様が思惟規定の考察であるから、思惟規定は思惟が思惟規定を展開することによってのみ考察することができる。
しかし、思惟規定はヘーゲルにとっても、カントが言う意味での客観的な主観的規定である。思惟規定は思惟の中にあり、その思惟が客観的である、客観性とは先験性である、としてカントが主観の中に閉じ込めた思惟規定を、ヘーゲルは客観的精神として形式的に主観の外に追い出したにすぎない。そのために、やはり思惟規定の吟味は、思惟規定の内的な吟味に止まり、思惟規定が客観的世界の何を反映しているかを明かにすることはできなかった。カント哲学もヘーゲル哲学も、思惟規定の内容を客観的世界に認めることができないことにおいて観念論哲学である。
この未解決の問題を抱えているために、カント哲学でもヘーゲル哲学でも、客観性とはなにかが常に問題になる。
■.補遺二 カントはヒュームと共に、普遍性・必然性を主観の外部にあるものという意味での客観性を認めなかった。カントの客観性とは、普遍的で必然性的なものを意味しており、感覚的なものが主観的なものである。客観的な思惟とは、先験的な思惟の自発性に属する、誰もが持つ普遍的な意識である。
「普通の意識は、その対象であるところの感覚的に知覚されるもの(例えば個々の動物、個々の星、等々)をそれ自身存在しているもの、独立的なものと考え、それに反して思想を他のものに依存しているもの、非独立的なものと考えている。しかし実際においては、感覚的に知覚されるものは、本来非独立的で二次的なものであり、思想はこれに反して本当に独立的で一次的なものである。カントはこの意味で思想的なもの(普遍的かつ必然的なもの〉を客観的と呼んでいるのであって、これは全く正しいのである。」
▲、観念論者であるヘーゲルはカントの客観性の意味を高く評価している。しかし、客観性とは主観の外に主観から独立する存在だけを意味しており、思惟規定の内容にとってもこの規定が決定的な意味を持っている。カントやヘーゲルが、先験性や思惟によって把握された事物の本質に客観性という意味を持たせるのは、主観の外にある客観的世界のうちに普遍性あるいは必然性を見出すことができないからである。普遍性あるいは必然性といった思惟規定の内容が客観的世界の運動の規定であることがはっきりすれば、客観性という言葉は、主観の外にある主観から独立した存在という単純な規定を取り戻すことができる。
■.しかしカントの言う思惟の客観性は、結局また主観的なものにすぎない。というのは、カントによれば、思想は普遍的かつ必然的な規定ではあるけれども、やはりわれわれの思想にすぎず、物目体とは越えることのできない深淵によって区別されているからである。思想の真の客観性とは、思想が単にわれわれの思想であるだけでなく、同時に物および対象的なもの一般の自体であることを意味する。
▲、カントは経験から生み出される意識を三つに分けた。まず経験の第一の意識である感覚に固有な偶然性、特殊性、個別性。これが主観性である。第二はこの主観性を思惟によって規定した普遍性や必然性、これがカントの客観性である。カントにおいては普遍性や必然性は主観内部の思惟規定であるが、先験的な意識として普遍性をもっており、この点でバークレーやヒュームの主観的観念論と区別されている。
カントのもう一つの内容は物自体である。カントの物自体は主観の外にある。それは主観の認識が届かないからである。思惟が規定できるものなら主観の内部にある。物自体は規定できないという意味で主観の外にある。
ヘーゲルはこの故をもって、カントが主張する思惟の客観性はなお主観的である、と批判している。カントは物自体と普遍性や必然性の規定を分離しているために、普遍性や必然性の思惟規定は、物自体の客観性と対立した主観の意識であり、客観的世界の物自体を認識できないという二つの意味で主観的である。
ヘーゲルはカントの限界を超えるために、思惟規定は主観内部にあるのではなく、思惟規定自身が主観から独立した客観的な存在である、とした。この客観的な思惟規定はすべての存在と意識の実体であり、存在の意識の全体はこの実体が自己を外化することによって形成されたものである。ヘーゲルはこの論理構造によってカントの物自体を空虚な想定物として否定し、絶対精神を実体とする存在と精神の全体を網羅する体系を生み出した。
この絶対精神の体系は経験的な意識における全体象である。この体系はカントの分離に引き返す必要がある。カントが客観的とした普遍性あるいは必然性は経験的意識の普遍であり、経験科学が生み出す普遍、存在の普遍の規定である。この存在の普遍の形式では存在の全体を規定することはできない。全体とは運動であるから、存在の規定とは対立するからである。経験科学の普遍性と物自体を分離することは、存在の普遍と運動の規定を分離することである。物自体の規定が無限者の規定であり、カテゴリーの体系であり、存在を運動として規定することである。カントの物自体の部分が哲学であり論理学であり弁証法である。
カントが物自体と経験的認識における普遍を分離したことは近代哲学哲学における画期的な業績であった。しかし、カントの二律背反を弁証法の原理として発展させてカテゴリーの体系を作り上げたヘーゲルがこの分離を解消してしまった。そのために弁証法は非常に複雑な混乱を取り込むことになった。
(2011.07.11)
第四二節
■.批判哲学によれば、感覚および直観によって与えられる多様な諸表象は、時間・空間という先天的な直観のうちにばらばらに、相互に外的に存在する。感覚および直観のこれら多様なものは、自我がこれを自己へ関係させ、一つの意識としての自己のうちで結合することによって(カントはこれを純粋統覚と呼んでいる)、同一性、本源的な結合へもたらされる。この関係づけの特定の様式が純粋悟性概念、すなわちカテゴリーである。カントは論理学の中に挙げられている判断の諸種類をカテゴリーとしてそのまま受け入れた。
思惟諸規定はその必然性において示されなければならないということ、すなわちそれらは本質的に導出されなければならないということ、このことを注意したのは、フィヒテの哲学の没することのできない高い功績である。
▲、感覚および直観の多様なものを自我が統一する、したがって自我が同一性である、というのはいうまでもないことである。認識自体はどのような内容であっても主観的以外ではありえないし、その主観は一つの自我として統一されている。こんなことは問題ではない。
ヘーゲルはこの点について、「しかし同時に注意しなければならないことは、多様のうちへ絶対的な統一を導入するものは、自己意識というような主観的作用ではないということである。この同一はむしろ絶対者そのもの、真実在そのものである。」と批判している。しかし、この批判はカントからそう遠く離れるわけではない。同一性は思惟にあり、その思惟が客観的である、として思惟規定を主観の外に移すだけだからである。思惟規定を必然性において示すことは、思惟規定を主観の内部においても内部においても可能である。ヘーゲルが思惟規定を主観の外部に置いたのは、思惟規定を主観も含めた存在の全体の実体として想定するためである。この構造も認識の構造としての独自の構造をもっており、客観的世界の反映としての構造を持つに至っていない。
■.例えば砂糖の一片を見れば、それは硬かったり、白かったり、甘かったり、その他色々である。われわれはこれらすべての性質が一つの対象のうちに結合されていると言う。しかしこの統一は感覚のうちにはない。われわれが二つの出来事を互に原因と結果の関係に立っているものとみる場合でもそうである。ここで知覚されるものは、時間的に継起する二つの個々の出来事である。一方が原因であり他方が結果であるということ(両者の因果関係)は、知覚されるものではなく、われわれの思惟にたいしてのみ存在するにすぎない。
▲、対象がひとつにまとまっていることは、感覚の中にある。思惟は砂糖を、硬さと白さと甘さ、その他いろいろの普遍に分解する。だから思惟が砂糖を認識するには分解したものを統一しなければならない。この思惟的な統一は感覚にはない。しかし、砂糖の一片を一つのものとして認識している。これを普遍に分解して統一するのは思惟の形式であるが、感覚が統一を認識していない、ということにはならない。
原因と結果の結びつきも感覚は認識している。思惟的に規定することと知覚的に認識することは違う認識形式である。知覚も全体性や関係や運動を認識することができる。ただ、思惟の形式とは違うだけである。
■.しかもカントによれば、自我(認識主観)は思惟によって認識の形式を与えるとともに、感覚によって素材をも与えるのであるから、かれの哲学は主観的観念論である。--しかしこの主観的観念論の内容については、実際軽率に判断をくだすことはできない。対象の統一を主観のうちにおけば、対象は実在性を失ってしまうであろうと、人々はまず考えるかもしれない。しかし、単に対象が存在を持つということによっては、対象もわれわれも何らうるところはないであろう。重要なのは内容である。内容が真実であるかどうかということである。物が単にあるということだけでは、まだ十分とは言えない。存在するものは、ときがくればやがて存在しなくなるからである。
▲、ヘーゲルはカントと同じ観念論者である。ヘーゲルもカントも客観的存在を否定している。それは、客観的存在が運動しており、生成消滅するからである。存在するものはときがくればやがて存在しなくなるから、対象が存在していることは真実ではない、哲学の対象は真実であり真理であり、生成消滅する個別存在ではない、というのが観念論の主張である。だから、唯物論にとって重要なことは、生成消滅する個別存在ではなく、無限性をもつ絶対者が客観的に存在することを明かにしなければならない。それを発見できないから観念論哲学が発展した。
絶対者は運動である。存在するものはときがくればやがて存在しなくなる、だから運動だけが絶対的である。物は単にあるということだけではなく、運動として存在している。それが重要で、それが哲学の対象である。それが哲学の内容である。
観念論や不可知論に対する批判において、カテゴリーの内容の展開が決定的に重要な意味を持っている。実践による批判が意味を持つのは個別存在の確証の分野である。
カテゴリーの内容の展開のためには、客観的世界の存在が前提である。ヘーゲル自身、カテゴリーの内容は現実から経験を通じて取り込まれることをこれまで強調してきた。人類は現実世界の認識のもっとも深い普遍として運動の規定を蓄積してきた。それと同じように、カテゴリーの主観性と抽象性を克服して自己運動という形式で内容を獲得するために、ヘーゲルは「精神の現象学」を経由しなければならなかった。存在の普遍と運動の普遍を区別することはできなかったが、運動の普遍であるカテゴリーの内容を哲学史上画期的に高度に規定することができた。フィヒテはカテゴリーの必然性による導出を要請することはできても、カテゴリーだけを吟味してもカテゴリーの具体化はできない。必然性の展開の要請は「精神の現象学」を経由する必要を理解していないのだから、要請自体が必然性の展開ができないことを示している。
ヘーゲルは、カテゴリーの内容の展開のために常に現実を問題にしている。それにもかかわらず、こうして主観から独立した客観的世界、つまり唯物論が直接問題になるところでは、唯物論を否定している。
カントは、カテゴリーは主観に属するとした。ヘーゲルはカテゴリーが絶対者であり真実在である、とした。唯物論的には、カテゴリーは客観的世界の反映である。つまり、諸表象の統一性は客観的世界にある。生成消滅する存在の統一性は運動である。この客観的な統一性をカテゴリーがどのように反映するのかは、カテゴリーの具体的展開によって明らかになる。
(2011.07.11)
第四三節
▲、カテゴリーは感覚・知覚が生み出す表象を素材として客観的認識を構成する。このカテゴリーは主観のア・プリオリな意識であり、素材を表象から取り入れる空虚な形式である。
ヘーゲルはカントのこの主張に対して、思惟規定は空虚な形式ではない、カテゴリーは規定されている点で内容を持っている、と批判している。ヘーゲルは古い形而上学の抽象的な思惟規定に対しても同じ批判をしている。ヘーゲルの主な主張は思惟規定は自己を展開して具体化しなければならない、という点である。カテゴリー自身が、有、無、量、質、等々と具体的に分化していくことで具体的内容を作り出していく、これがカテゴリーの内容である。つまり、カテゴリーの内容は具体的なカテゴリーになる。
これではカントの批判にならない。カテゴリーが具体化しても、その具体的なカテゴリーの内容は感覚・知覚が生み出す表象を素材とする以外にないからである。思惟の内容はどんな場合でも客観的世界の内容である。カテゴリーの内容とは客観的世界全体の運動である。この規定がなければカテゴリーがどれほど具体化しても内容になることはなく、経験的素材を入れる空虚な形式になる。
カントはカテゴリーが感覚・知覚が生み出す素材と分離していることを意識している。しかし、関係していることも分かる。だから、カテゴリーを形式とした。単に認識論的な意味で対象を受け入れる箱として空虚なのではなく、カテゴリーは素材から分離しており、素材と直接一致するものではない、というのがカントの主張である。
ヘーゲルはこの点に関しては客観的観念論の立場から間違った解釈を与えている。本や演説が事件や場面を沢山含んでいることは内容ではなくて、思想や普遍的な結論などを多く含んでいる場合は内容が豊富であると考えると指摘している。これは思惟規定が意識の内容であると考えるヘーゲル特有の評価であり、単純な間違いである。
問題なのは、
「われわれは個々のカテゴリーにも、更にカテゴリー全体(すなわち論理的理念)にも立ちどまってはならず、自然および精神という実在的な領域へまで進んでゆかなければならないからである。しかしわれわれはこの進展を、論理的理念に外から無関係な内容が加わるという風に理解してはいけないのであって、論理的理念そのものの活動が更に自己を規定し展開して自然および精神となるという意味に理解しなければならない。」
という指摘である。ヘーゲルの論理の基本構造は抽象から具体への上向である。この構造では存在の普遍の規定と運動の規定の区別ができなくなる。
カテゴリーはすべての存在を運動形式として規定する思惟規定である。自然、社会、精神という実在的な領域のすべてを一般的な運動形態として規定している。カテゴリーの内容は存在の全体の運動である。ヘーゲルのカテゴリーの展開は存在の全体を規定するが、その規定が運動の規定であることは明確ではない。存在の普遍とその普遍である運動の規定の違いがはっきりしておらず、運動の規定は有の領域に表れるだけである。だから、「論理的理念の活動が自己を規定し展開して自然および精神となるという意味に理解しなければならない。」とする場合に、具体的存在の領域である本質の領域におけるカテゴリーは運動の規定として展開されていない。
カテゴリーの具体的な規定がカテゴリーの内容である、という同語反覆では客観的世界の内容に届かない。カントはそのために物自体を想定したが、ヘーゲルはこれを存在の普遍と運動の規定を無理に繋ぐことで解消している。
ヘーゲルの場合は哲学の抽象的規定と経験科学の普遍性が抽象から具体への外化という関係にある。しかし、存在の普遍の規定はカテゴリーに到達すると運動の規定として改変しなければならないが、ヘーゲルのろんりがくでは存在の普遍の規定のままカテゴリーが体系化されている。カテゴリーの体系化においてカテゴリーの内容を改変し、流動化しなければならない、とヘーゲルは指摘しているが、それが運動の一般的な規定に改変することを意味しておらず、客観的弁証法の規定になっていない。
(2011.07.12)
第四四節
■.だからカントによれば、カテゴリーは、知覚のうちには与えられていないような絶対的なものの規定であることはできず、したがって悟性すなわちカテゴリーによる認識は、物自体を認識する能力を持たない。
▲、カントの哲学的前提は経験論である。経験論は知覚・感覚を認識の基礎としている。知覚・感覚は個別対象を与える。これは生成消滅する偶然的な存在である。ところが思惟の中には普遍や必然という規定がある。普遍や必然は、現実の中に知覚・感覚の対象として存在するわけではない。だから、普遍や必然は思惟自身のうちにある。こうして感覚・知覚による素材と、それを統合する思惟規定は経験的に存在することになる。
もうひとつ、形而上学から引き継いできた、個別存在の実体がある。この実体は無論感覚・知覚の対象として存在するわけではない。また、実体=無限者を規定することのできる思惟規定があるわけではない。だから、物自体は認識の彼岸に残る。
こうしてカントは認識の内容を三つに分けた。個別と普遍と、そして物自体である。実際は認識の内容は個別と普遍と、その普遍である運動の規定の三つに分かれるから、カントの分離は正しい。カントとヘーゲルの論理が混乱するのは、すべての認識形式の対象、内容を現実の中に見い出すことができないからである。カントはこのために、内容の具体的規定ができず、物自体は無規定な同一性として残されることになった。
ヘーゲルは物自体を空虚な抽象として否定し、物自体と現象を結びつけることでこの分離を解消した。ヘーゲルは認識の形式である抽象から具体への上向によって物自体と現象を結びつけている。ヘーゲルは抽象から具体への上向の形式によって現象をすべて認識すれば物自体を含めて対象の全体を認識したことになる、と考えている。しかし、現象をすべて認識すれば対象の全体の認識になるわけではない。存在の規定の背後に運動が存在するからである。
認識対象となる物と精神から、知覚・感覚の認識対象である素材の規定と、その普遍である思惟規定を捨象すると、物自体が残る。素材の規定と普遍の規定以外に規定は存在しないから、物自体は規定を持たない。物自体は規定の及ばない対象であるから認識の彼岸である。
存在の規定の彼岸には運動の規定がある。知覚・感覚の規定と思惟規定を抽象した結果として出てくるのは、抽象的な純粋有である。だから、カントの論理は客観的には存在の規定から運動の規定へと移行しつつある。カントは物自体=有をカテゴリーの体系の中に位置づけることができなかったために、単純な同一性としての純粋有の措定に止まっているが、現象と物自体の分離が、経験諸科学と形而上学とを分離する原理であることをはっきりと指摘している。ヘーゲルはこの有を論理学の出発点にしたが、それにも関わらずカントの物自体を空虚な抽象、主観の構成物として完全に否定している。
物自体を存在の背後に想定して、物自体の現象形態として対象を認識することは、個別対象が独立的な存在ではないこと、物自体との関係において構造的に存在する部分であることを意味している。現象の無限的な寄せ集めの系列によって対象を認識することはできない。対象認識において重要な意味を持っている物自体をヘーゲルが単純に否定するのは、観念論者であるヘーゲルが、物自体にこびりついている唯物論的な客観性を否定する必要を感じているからである。
(2011.07.12)
第四五節
■.カントによってはじめて悟性と理性とがはっきり区別された。カントによれば、悟性の対象は有限で制約されたものであり、理性のそれは無限で制約されぬものである。ところで、単に経験にのみ依存する悟性の認識の有限性を主張し、その内容を現象と呼んだということは、カント哲学の非常に重要な成果ではあるけれども、しかしわれわれはこのような消極的な成果に立ちどまっていてはならないし、また理性の無制約性を、区別を排除する抽象的な同一にのみ還元するというようなことをしてはならない。このように理性を単に悟性の有限性および制約性を越えるものとのみ考えると、そのために理性そのものも実際は有限で制約されたものにひきさげられてしまう。というのは、真に無限なものは有限なものの単なる彼岸ではなくて、有限なものを揚棄されたものとして自己のうちに含むものであるからである。
▲、悟性と理性は対象によって区別される。悟性は有限な存在を対象しており、理性は無限を対象にしている。有限とは具体的な存在であり、無限とは存在の全体である。全体をその部分であるものの規定によって規定することはできない。具体的存在の規定は全体の規定としては一切使うことはできない。そのために、全体は無規定の一者となる。この一者は神、実体、絶対者、等々の名前を付けられてきた。
無限者が抽象的な一者に止まってはならない、というのがヘーゲルの主張である。無限者である全体が具体的な存在と対立する一者であれば、具体的存在者の外に存在することになり、具体的な存在によって制限されていることになる。だから、無限者は具体的存在を含んでいなければならない。「有限なものを揚棄されたものとして自己のうちに含むものである」。
ヘーゲルはこの無限者を理性あるいは理念と呼ぶ。では、無限者が有限なものを揚棄されたものとして自己のうちに含むとは、どのように含むのか。有限者の規定を全て寄せ集めると無限者の規定である、というのは、無限者は無規定な一者である、というのと変わらない。無限者が独自の規定を持たないからである。
(2011.07.12)
第四六節
■.対象の認識とは、対象を特定の規定された内容によって知ることである。特定の内容とは、対象自身が含む内的な区別と関係である。無限者である物自体は特定の内容を含まない。対象を認識する手段はカテゴリーである。
理性が、特定の内容を持たない無限者にカテゴリーを適用すると、超越的となる。そして、アンチノミー(二律背反)に陥る。カントはカテゴリーは主観的なものとしたために、カテゴリーが作り出す経験的意識の客観性も主観的なものにすぎない。この点でヘーゲルはカントは主観的観念論であると否定的に評価している。カントはカテゴリーの主観性だけを問題にしてカテゴリーの内容を問題にすることができなかった、という批判である。
しかし、カントがカテゴリーを無制約者に適用する場合、カントはカテゴリーを吟味している、とヘーゲルは指摘している。
▲、カントの物自体は、経験的認識つまり現象から分離している。悟性と理性の区別は、経験的な認識と理性的認識の区別であり、形而上学の中に経験的な意識を混在させてはならない、ということである。カントはこの区別の後に、無制約者にカテゴリーを適用する理性的認識を問題にしている。カントの第一の主観性は、第二の客観性を位置づけるための前提である。この第一の前提によって、現象から分離されたカテゴリーが無制約者の認識に適用されること、すなわちカテゴリー論としての形而上学の分野が経験的意識とは別の分野として一歩を踏み出すことができる。
ヘーゲルは客観性観念論の立場からカントの主観性を批判している。ヘーゲルは、思惟規定を物自体の中に押し込める。そして、カントが分離した経験的意識と無限者を対象とする理性的認識を結びつける。物自体に押し込めた抽象的思惟規定が外化し具体化することで経験的意識を形成し、意識は一つの体系として存在のすべてを覆うことになる。カントの物自体を経験的意識と結びつけたことがヘーゲルの哲学の弱点である。
(2011.07.13)
第四七節
▲、カントの「私」についての説明は無意味である。また、
魂は実体である、単一である、数的に一である、空間的なものと関係する、といった判断は批判済みである。魂という主語は無意味である。判断の形式では魂についての述語である思惟規定だけに意味がある。この思惟規定が哲学の内容である。
■.しかし右に述べたことからもわかるように、カントにあっても、あらゆる認識、否経験でさえ、知覚を思惟すること、言いかえれば、最初知覚に属している諸規定を思惟の諸規定に変えることにあるのである。--精神について哲学的思索をする者が、霊物とか、カテゴリーとか、したがってまた魂の単純性、複合性、物質性、等々の問題から解放されたということは、確かにカントの批判の一つのいい成果である。--しかしこうした諸形式が許しがたい真の理由は、常識にとってさえ、それらが思想であるからではなくて、こうした思想がそれ自身真理を含んでいないからなのである。--思想と現象とがぴったり一致しない場合、どちらに欠陥があるとみるかは、一応人々の勝手である。カントの観念論においては、理性的なものにかんするかぎりでは、欠陥は思想にあるとされ、思想は、それが知覚されたものに、および知覚の範囲に限られた意識にぴったり一致せず、そうしたもののうちに見出されないという理由によって、欠陥あるものとされている。それは思想の内容そのものは問題にしていないのである。
▲、カテゴリーは二つの関係を含んでいる。経験的意識との関係と無限者との関係である。カテゴリーは経験的意識を改変することによって、あるいは経験的意識を深め普遍化することでのみ得られる。カントは先験的と言っているがカントにとっても結局カテゴリーは経験的意識から形成される以外にない。
ヘーゲルは古い形而上学が、単純性、複合性、物質性等々のカテゴリーを無限者に適用していたことの間違いは、カテゴリー自身が真理を含んでいないことにあると批判している。つまり、カテゴリーが具体化し、体系化し、流動化すれば無限者に適用することができる。あるいはカテゴリー自身が無限者となる。しかし、古い形而上学のカテゴリーは無限者に適用する内容を持っていない。カントはこの点を批判していない、というのがヘーゲルの批判である。
また、思惟規定を現象に適用してぴったり一致しないこと、つまり、知覚の範囲に限られた意識にぴったり一致せず、そうしたもののうちに思惟規定が見出されないことが思惟規定の欠陥の証明になっていることをヘーゲルは批判している。ヘーゲルは、思惟規定の正さは現象によって証明されるのであって、この点でも思想自身の内容が問題にされていない、と考えるからである。
ヘーゲルにとっては、思想の内容は思惟規定の具体化である。思惟の内容は思惟の外にあるのではないから、思惟の外との関係は内容ではなく内容の証明でもない。だから、思惟規定と無限者の表象との関係だとか、思惟規定と現象との関係、あるいは知覚の範囲の意識との関係によって、それとの一致によって思惟規定の内容の正さを証明することはできない。ヘーゲルは思惟の内容をすべてカテゴリーの具体的規定とすることによって、経験的意識とカテゴリーの関係も、客観的世界とカテゴリーの関係も否定してしまう。ヘーゲルの論理はこの抽象性から出ることができない。
ヘーゲルはこの思惟規定を無限者に適用することが間違いであるのは、こうした思想が真理を含んでいないからである、と指摘している。しかし、カテゴリーは認識の手段ではなく、抽象的であっても具体的であっても、カテゴリーは適用すべきものではない。ヘーゲルはカテゴリーが認識の手段ではないことについても、カテゴリーの具体化が内容だからだと説明しているだけだから、結局カテゴリーは認識の手段になっている。
実体だとか単一だとか一だとかいう思惟規定は、抽象的であれば間違いで無内容で、具体的であれば正しくて内容である、ということではなく、抽象的であっても具体的であっても、それぞれの規定において運動の規定として意味を持っている。存在の全体を運動として認識することがカテゴリーの具体的規定であり、カテゴリーの内容である。対象を経験的に捕らえる場合には悟性的な存在の規定が生まれる。対象を捕らえる場合に運動の側面が出てくるとカテゴリーがそこに表れてくる。
カテゴリーと経験的意識の違いは対象の違いである。経験的意識は対象を存在として、運動の形式で言えば静止として認識する。カテゴリーは存在の全体を運動として認識する。そして、個別存在の普遍は運動である。カントもヘーゲルも思惟規定が何を反映しているかを理解していないために、カテゴリーを認識論的な意味に理解しており、カテゴリーによって対象を規定できると考えている。カテゴリーの内容はカテゴリーの具体的な規定ではない。意識の内容は一般に客観的世界であり、カテゴリーの内容は客観的世界の運動である。カテゴリーは現実の感覚的・知覚的素材を取り入れる形式ではない。存在の全体を運動として反映する形式である。
ヘーゲルの具体化したカテゴリーは、運動を反映しているのではなくて、現実の素材の普遍を反映しており、素材に適用される。あるいは現実の素材を支配する。カントとヘーゲルのカテゴリーは対象認識の手段ないし方法を意味しており、その哲学は認識論である。しかし、哲学は認識論ではない。
カントは経験的規定とカテゴリーを分離している。カントのカテゴリーによる理性推理は理性自身から生れるために経験的な前提を一切含んでいない。だから、経験的規定と理性の規定を混同してはならない、経験的諸規定から理性の規定を推論してはならない、とカントは考える。カントにとっては、理性が生み出すカテゴリーと経験的な意識は、それぞれ別の意味と役割を持っており、両者がぴったりと一致することはない。
この分離は、存在の規定と運動の規定の分離に向かう面では正しいが、存在の普遍と運動の規定の関係を断絶する点では正しくない。存在の普遍の普遍が運動の規定である。したがって、存在の普遍を進化していくと運動の規定に到達する。カテゴリーは経験的な意識のうちに見出される規定から移行するものである。思惟規定は運動に到達した時に矛盾に陥る。
(2011.07.14)
第四八節
■.理性は世界という無制約者を認識しようとするとアンチノミーにおちいる。すなわち、理性は、同じ対象について二つの反対の命題を同じ必然性をもって主張しなければならなくなる。カントは、世界という無制約者、絶対者自身は矛盾を含まないと考えているために、矛盾は現象において起こるに過ぎない、つまり、その矛盾は認識する理性のうちにある、としている。
古い形而上学の立場では、対象の認識とは対立的な規定を含まない抽象的で一面的な悟性規定を対象に適用することであり、対象とこの悟性規定の一致を意味している。したがって、認識が矛盾におちいるのは偶然の過ちにすぎず、それは推理や論証における主観的誤謬にもとづくと考えられていた。
カントはこれに対して、無限なものをカテゴリーによって認識しようとする場合に矛盾(アンチノミー)におちいるのは、思惟の欠陥ではなく思惟の本性であるとした。このことによって、カントは悟性的形而上学の硬直したドグマティズム(一面観)を除き、思惟の弁証法的運動に注意を向けさせた。悟性の諸規定によって理性的なもののうちに措定される矛盾が本質的であり必然的であるという思想は、近代の哲学の最も重要な、最も根本的な進歩の一つである。
カントは、理性が無制約者を認識しようとするときアンチノミーにおちいることは、理性の必然であることを発見した。しかし、ここからもう一歩を進めて、世界という無制約者・絶対者は矛盾を含むものではないという古い形而上学の前提を否定するには至らなかった。矛盾(アンチノミー)を理性だけの本質として、無制約者を矛盾を持たない物自体としたために、物自体は認識できないという消極的な結論に止まった。アンチノミーの真実で積極的な意味の理解のためにはアンチノミーをさらに徹底し拡大しなければならない。アンチノミーの真実で積極的な意味とは、あらゆる現実的なものは対立した規定を自分のうちに含んでおり、したがって、或る対象を概念的に把握するとは、対象を対立した規定の具体的統一として認識する、ということである。
カントがアンチノミーが物質と精神の普遍的な本性であることを理解するに至らなかったことは、カントが無制約者に理性を適用する場合の四つのアンチノミーだけを考察していることからもわかる。アンチノミーについて注意すべき最も重要なことは、アンチノミーは、宇宙論からとられた四つの特殊な対象のうちに見出されるだけでなく、あらゆる種類のあらゆる対象のうちに、あらゆる表象、概念、および理念のうちに見出されるということである。対象と精神をこうした特性において認識することは、哲学的考察の本質に属するものであって、この特性こそ論理的なものの弁証法的モメントである。
カントのアンチノミーの提示は、悟性が分離している二つの対立的規定が、事実上統一のうちにあることを言いあらわしている点で非常に重要な成果である。例えば、第一の宇宙論的アンチノミーは、空間と時間とは単に連続的とのみみるべきではなく、また非連続的ともみられねばならない。あるいは、自由と必然の二つの規定は、真の自由および真の必然の観念的なモメントにすぎず、両者が分離される場合、それらは真理を持たない、というふうに理解しなければならない。
▲、この節の指摘はヘーゲルの画期的な成果である。
付け加えるべきは、概念の本性が矛盾である、ということの意味は、すべての存在は一つの運動体として存在していること、そして、概念は対象を運動として認識することである。ヘーゲルはこれを逆立ちして、概念が矛盾を含んでおり、この矛盾が外化して現実を作り出すと考えている。
また、カントの二律背反もヘーゲルの矛盾も、二つの対立項があってそれが矛盾を引き起こすことになっており、カテゴリーが構造をもった対立になっておらず、弁証法的な矛盾を構成していない。そのために、運動の原理は有の領域だけに見られることになる。これは本質の領域の問題である。
(2011.07.14)
第四九節
■.神を認識するとは神を規定することである。規定は否定である。神は絶対的な、無制約的な、全体的な実在であるから、それは規定、否定を持たない。神は抽象的な同一性である。
こうして、抽象的な同一性と、具体的な存在が分離される。理性の課題は、分離された抽象的同一性と具体的存在の合一である。
▲、こうしてヘーゲルはカントが分離した物自体と現象を統一しようとする。これが抽象から具体への上向である。ヘーゲルの弁証法は物自体と現象の統一という特殊な体系を構成している。この体系から運動の規定であるカテゴリーの体系だけを抽出すると、唯物論的な弁証法になる。
(2011.07.14)
第五〇節
■.多様な個別存在と抽象的な思惟の合一には二つの形式がある。存在から出発して思惟の抽象体へ移行するか、思惟の抽象体から存在へ移行するかの二つである。
▲、存在から出発して思惟の抽象体へ移行するとは、多様な個別存在を一つのまとまりとして全体の認識に到達することである。客観的世界は、多様な具体的存在と存在の全体性・統一性つまり、内的関連という二つの側面をもっている。精神は対象の具体的規定性と同時にその統一性・全体性をも認識して、両方の認識を同時に蓄積してきた。この二つの規定の統一が対象の真理である。
世界の全体性を内的に規定することができない場合に、規定を持たない抽象物として神、絶対者、一者等々と名づけられてきた。カントが、多様な個別存在とその全体が相互に移行することはできない、というのは、蓄積されてきたこの二つの認識を繋ぐことができない、という意味である。カントの根拠は、知覚の対象として普遍が存在しないことである。そのために、この問題は主観である思惟規定と客観的存在との関係という側面を持つことになる。
ヘーゲルもカントと同じ観念論者であるから、客観的世界に普遍が存在するとは考えていない。思惟が客観的に存在すると想定しているがそれでは普遍の客観性にならない。そうした前提の上で、ヘーゲルはカントの限界を克服するために、客観的世界に普遍が存在するのではなく思惟が普遍を作り出す、と考えている。その形式が抽象から具体への上向である。
カントまでの哲学は普遍を無規定の一者と考えている。この場合は規定を持つ多様な存在者と無限者を繋ぐ方法はない。ヘーゲルは思惟規定は先験的に存在する普遍ではなく、思惟によって形成されるものであり、それは経験的意識を否定し改変することである、と考えている。これによってヘーゲルは多様な具体者から絶対者へと移行する道筋を作り出した。具体的存在と抽象的な無限者を繋ぐための重要な意義を持つのが思惟あるいは理性が持つ否定の作用でり、否定の過程としての抽象から具体への上向である。ここに弁証法が持ち込まれる。
カント、ヤコービは、経験的な意識である存在をすべて肯定的なものと見て、その存在から他の肯定的存在へと移行しようとする。移行に否定作用が働いていない。この場合は、多様な存在は肯定的なものとして残る。多様な存在から推論によって絶対者に移行した場合、多様な存在と絶対者は共に肯定的なものとして残ることになり、多様な存在が絶対者の対立者になるために、絶対者は絶対者ではなくなる。この弱点を克服するために、ヘーゲルは、経験的意識ないし存在を思惟が否定し媒介し揚棄することによって絶対者に移行する、と考える。ヘーゲルの場合は多様な存在は否定されるが、絶対者の内的な契機となっている。多様な存在はまったく否定されるのではなく絶対者に移行するのであり、したがって絶対者と対立する独立的な存在ではなくなる。
スピノザの場合は、実体と多様な現実存在が直接的に対立している。スピノザの場合は直接的・抽象的同一性である。この同一性において、多様な現実存在自身が実体の存在形式である、と考える場合は神は否定され、現実存在そのものが神であり絶対者となる。しかし、現実存在そのものが神であり絶対者であることになれば、神あるいは絶対者だけが存在するのであって、個別的現実存在は存在しないから、スピノザは無世界論であると考えることができる。ヘーゲルがスピノザを無世界論であると考えることができるのは、実体と多様な現実存在が直接的に移行しており、内的な関連が規定されていないからである。だから、論理的関係としてはスピノザを汎神論であると言っても無世界論であると言っても同じことである。
次の「第二に注意すべきこと」は特に内容はない。
(2011.07.16)
第五一節
▲、合一のもう一つの道は、思惟の抽象体から出発して存在に到達する方法である。この神の存在論的証明は、神が存在するかどうかを問題にしており、この場合の存在は、客観的に存在することを意味している。多様な存在という規定性を意味するのではない。この問題自体は哲学的に何の価値もないが、この問題は、普遍は現実に存在するか、という経験論がどうしても解決できない問題と結びついており、普遍とは何か普遍は客観的世界の何を意味するかを明かにしないと解決できない。
カントは普遍的なもののうちに存在は含まれない、と主張する。それは、存在を概念から分析によって導き出すことはできないこと、思惟から存在を生み出すことはできないこと、思惟と存在の対立、という意味であり、神の存在論的証明に対する批判である。この批判は存在論的証明に対する批判として有効で、しかも有名であるが哲学的価値はない。神の存在論的証明がもともと無意味だからである。
普遍の存在あるいは現実性を、思惟の抽象体から導き出すことはできないことは、思惟と存在の関係だけで言えば簡単である。しかし、普遍とは何かがはっきりしていないために、この問題は何が問題になっているのかわからないような混乱に陥る。
カントは思惟の抽象体と存在の区別を説明するために、百ターレルという個別存在を例にあげた。概念としての百ターレルと現実に存在する百ターレルは違うという意味である。
この実例でカントは、百ターレルという観念を概念と考えていることがわかる。百ターレルは個別の存在であり、百ターレルの観念はそれを反映した個別の経験的意識である。百ターレルが存在することは明らかである。百ターレルという思惟規定と現実の百ターレルは一致している。ところが、これに対するヘーゲルの批判を見ると、やはりややこしい問題と絡んでいることがわかる。
神は存在している、神の概念と存在は統一されている、神は無限者であるから神の概念は存在を含んでいる、という立場からヘーゲルはカントを批判している。ヘーゲルは神あるいは概念こそは、媒介の揚棄によって生じるところの、存在を含んだ自己関係であり、この自己関係こそが真の存在である、と考える。この論理の場合、多様な個別存在は概念とことなっており、生成消滅する有限なものに過ぎないから、存在するとは言えないものである、ということになる。
そして、さらにここにヘーゲルの抽象から具体への上向の問題が入ってくる。これは実際は別の問題であるが存在の普遍と運動の規定を分離できないヘーゲルにとっては同じ問題である。
概念は存在を含んでいる。しかし、存在という思惟規定は、最も貧しい抽象的な規定である。このもっとも貧しい抽象的な規定は外的な感覚的存在である、として、ここにヘーゲルの認識論的な体系と抽象から具体への上向の図式が持ち込まれる。もっとも貧しい抽象的な規定である存在=有は、哲学的には運動の原理である。しかし、ヘーゲルの認識論的な論理では、感覚的存在を意味している。この場合すでに、カントが問題にしている客観的存在、あるいは実在性はすでに問題になっていない。認識における存在を問題にしているだけである。
神や絶対者といった普遍的な概念は、世界の全体を意味している。百ターレルは存在の全体ではなくて、個別存在である。百ターレルと百ターレルの個別意識は一致している。百ターレルの運動によって百ターレルについての個別意識との違いが生まれるが、その場合は個別意識もまた変化する。
個別存在は有限であり、したがって、全体を意味する概念と一致しない。有限な概念と一致している。しかし、個別対象とその認識は、個別対象の運動によってずれてくるものであり完全に一致することはありえない。そのために運動そのものの認識が別に必要になる。
思惟と存在は違う。思惟は存在の反映である。思惟は個別の有限者を認識すると同時に全体である無限者を認識する。思惟と存在の一致が真理である。思惟と存在の一致は、思惟と全体の一致と思惟と個別対象の一致では内容が違う。思惟と存在一般の関係ではなく、思惟と個別存在の関係、思惟と存在全体の関係を別に問題にすべきである。
存在の全体は個別存在の集合ではない。全体の構造を具体的に規定しなければならないから、その構造を作り出している運動の体系が全体の規定である。これが哲学の課題である。経験科学は個別対象の普遍を規定する。哲学は、個別対象を問題にすることはなく、形成された普遍の規定であるカテゴリーだけを問題にする。経験科学はある個別対象とその普遍を規定する。ある個別対象の普遍とは、その個別対象が形成される基となる運動体である。哲学は対象の個別性や普遍の規定に関心を持たない。個別と普遍は、あるいは普遍と普遍は一般にどんな関係にあるかだけを規定する。
したがって、思惟規定を経験諸科学の普遍と論理学の規定に分離しなければならない。思惟規定一般と存在の関係を問題にすると、問題の立てかたが間違っているから、答えが混乱してくる。カントもヘーゲルも普遍性はそこにない、という。普遍性はそこにある。しかし、個別対象としてではなく、したがって経験的規定と同じ形式で存在するのではない。個別、現象の運動が普遍である。個別は運動しているから個別は普遍と合一して存在する。普遍は実際は対象の運動の規定である。論理学はその運動だけを取り出して規定する。カントが思惟と存在の間に移行がない、と考えているのは、この運動を論理の対象にできないからである。
この前後の節の内容を理解するためには、こういった注意が必要であるが、羅列的に説明しても理解しにくいだろう。論理学の全体によって理解するより他に方法はない。
(2011.07.16)
第五二節
■.カントのもっとも高い段階にある思惟=理性は具体的規定を持たない抽象体である。理性は、諸経験が含む規定を単純化し組織するための形式的統一を与えるにすぎない。
▲、カントは具体的存在の規定と理性を分離した。理性=概念=哲学=論理は、具体的規定を単純化し組織化し、統一する。理性は存在の具体的規定を持たないことを確定して、この抽象的な同一性にたどり着いて、しかも具体的存在の全体を統一する原理となっている。無限者とは何かをそれ自体において規定することはできない。無限者の作用は、具体的存在の全体を統一することである。無限者という抽象的同一体のもとに統一する。だから、理性はそれ自身は規定を持たない抽象体であり、具体的規定の集合体を纏める空虚な箱である。カントの無限者は規定を含まない。それは無限者とは矛盾を含まない存在であると考えているからである。矛盾は内的対立であるから、内的規定を含む。規定を含むと有限者になる。有限者と対立する、有限者の外にある絶対者あるいは全体は、規定を含まない空虚な箱になる。規定を持つのは具体的存在者である。
カントの無限者あるいは理性はこうして具体的存在者の外にあることになる。したがって無限者は有限者の全体の統一という形式になる。ヘーゲルは、無限者は無限者として独自の規定を持たねばならない、と考える。カントを継承し、カントを超えるために、ヘーゲルは理性の独自の規定の体系を作り出した。ヘーゲルの理性はもっとも抽象的なカテゴリーである存在=有から出発して、自己運動によってカテゴリーの具体的規定を作り出す体系を形成する。この体系は運動の体系の直前にあるが、観念論者であるヘーゲルは、客観的な運動法則には到達できない。
(2011.07.16)
第五三節
■.カントの純粋理性は抽象的同一性にとどまる。ヘーゲルは思惟が抽象から具体への上向の形式で自ら規定を生み出す力をもっている、として思惟の具体的規定の体系を作り上げた。
カントの純粋理性、即ち対象認識の理性は抽象的同一性に止まる。それに対して、実践理性は自己自身を思惟によって普遍的な仕方で規定する意志である。実践理性は、主観に対して命令的であるところの、客観的に妥当すべき普遍的規定を自らつくり出す。客観的で普遍的な意志の内容を、実践理性が自ら作り出すことが自由の法則である。自ら作り出す法則に自ら従うからである。
カントは、実践理性が普遍的で客観的な内容を自ら作り出す能力を持つことを実践理性において証明することはできない。カントは実践上の自由は経験によって証明されうると考え、経験的な意識の中に、対象に規定されない、利害に規定されない、傾向性に基づかない意志が見いだされる、と主張した。
実践上の自由に対する経験的証明に対しては、同じく経験を拠り所にする決定論が対立している。人間の意志はすべて現実の関係の中にあり、原因を持っており、決定されている、と経験的に指摘することができる。
もう一つの有力な反論は、人々の間に権利および義務として通用しているもの、すなわち客観的であるべき自由の法則が種々様々であるという事実による反論である。ヒュームは、カントの客観性と対立して、自由の掟は無限であり、客観的ではなく主観的である、とした。
▲、ここでも基本的な問題は、抽象的思惟規定と存在の合一の問題である。意志が思惟の抽象体から出発する場合に、意志は存在とどのように合一されるのか、という問題をカントはやはり解決できなかった。
近代哲学において特に重要な意義をもってくる実践、自由、主体性といった問題は、哲学においては概念の領域のカテゴリーの内容である。この問題は抽象的には、存在と抽象的思惟の合一という哲学の基本課題の形式を取るが、具体的にはさらに多くの契機によって規定される。自由というカテゴリーの具体的な内容がまだ発見されていないために、自由は存在と普遍的思惟の二つの関係として考察され、カントはこの合一を否定するところに自由を見出している。カントの自由論も、それに対する決定論による批判も、まだ必然性のカテゴリーを導入していない点で同じ内容を持つ形式規定になっている。
(2011.07.17)
第五四節
▲.人間の意識の中には普遍の思惟規定が存在する。対象認識の場合は、素材としての対象が前提として存在するから、理性はそれを統一するだけである。実践の場合は、意志が出発点になるから対象を前提にせずに、思惟の普遍の規定が出発点になる。実践的な意志の対象はあるが、それは普遍の思惟規定と対立するものであり、普遍の思惟規定を規定したりその内容となるものではない。
主観が意志の内容である普遍を規定するから、ここに自由が生まれる。普遍の思惟規定は自己を出発点にしており、経験的な個別から普遍性を引き出すことも普遍性から具体的な現実に到達できるかどうかを問題にすることもない。カントは規定と被規定の単純な関係によって自由を規定している。規定されない意志が自由である。自由を規定と被規定の関係で規定することはできない。
■.実践的思惟が自己の法則とするものは、理論理性と同じく規定作用のうちに矛盾があってはならないという抽象的な同一性である。したがって実践理性も形式主義を一歩も出ることができず、理性の具体的規定を生み出すことはできない。
しかし、カントの実践理性は、善の規定を思惟による普遍的な規定であるとしたことと、その善が単に主観のうちに定立されるのではなく、世界のうちに存在し客観性を持つことを要求したことによって真に実践的である。
カントの道徳の原理は理性の普遍的な意志である。カントは、人間の意志は普遍性を自ら規定してそれを実践し得るとした。この主張は、当時支配的であった道徳哲学と対立している。当時の道徳哲学は幸福主義の学説である。当時の道徳哲学は、人間の使命は何かという問題に対して、人間はその幸福を目標とすべきであるとしていた。幸福主義の学説は、幸福の内容を人間の特殊な傾向、願望、欲求、等々の満足と解していた。したがって、偶然的で特殊的なものが意志の原理とされて、普遍的な内容もこの特殊的なものの原理に解消されていた。
幸福主義とカント哲学の対立点は、人間の意志が個別の利害や傾向性に規定されるのか、それとも、それと対立してあるいは独立して、普遍性を内容とする意志を持つことができかどうかである。ここにも個別と普遍の対立が表れている。
偶然的で特殊的な意志は、自己のうちに確かな拠りどころを持たず、外的な事情に規定されている。この点で自由な意志とは言えない。カントの実践理性は、内容の普遍性においてすべての人に拘束力を持ち、個人に対してそれを自らの意志とすることを要求している。個別の傾向性や利害に規定されるのではなく、自己を自己の理性によって規定する能力を持つことが真の自由である。
▲、カントは実践理性に積極的な無限性を認め、思惟が自己自身を規定する能力を認めた。そしてこの自己規定の能力を人間の自由だと考えた。しかし、カントはここでも、人間の意識の中に自由という規定があることの確認に止まっており、自由とは何か、実践理性の内容が何であるかを具体的に規定することはできなかった。カントは、意志の単なる自己一致の原理や、義務は義務のためになされなければならないという形式的な要求を提出するだけである。
実践理性は社会法則の問題である。普遍の内容として社会法則が入ってくると論理学では概念の領域になる。この領域では、カントとヘーゲルが問題にしている普遍と個別、思惟の普遍と現実存在の関係といった抽象的な関係はなくなる。実践理性が論理の中に入ってくること自体がカテゴリーの複雑化であり高度化である。しかし、カントは実践理性をそれまでに形成されたカテゴリーによって規定しようとしており、カントもヘーゲルもこの領域では無力である。自由とは何かを本質の領域までの単純なカテゴリーによって規定することはできない。自由は本質の領域を超えた新しいカテゴリーである。
(2011.07.17)
第五五節
■.カントは第一批判と第二批判では、普遍と特殊を分離しており、普遍から特殊を導き出すことはできないとしていた。第三批判では、普遍によって特殊が規定される場合が、芸術および有機的自然のうちにみられる、としている。カントは有限な諸現象のうちに、普遍性のもとに特殊を包摂する関係を見いだしている。この一致が理念である。
カントは表象においては、普遍と特殊の一致を認めている。他の人々は自然的生命や精神的生命にこの一致を認めている。また、カントは自然あるいは必然性と自由の目的との調和が実現される究極目的も認めている。これが包括的理念であるが、カントはそれをゾレンにおいてのみ認めており、現実に実現されていることを認めなかった。しかし、カントのこの考察は、具体的な理念の把握および、思索に導き入れるには有効である。
▲、カントが認めた個別と普遍の統一、その観点による芸術の評価、あるいは自然的生命や精神的生命において普遍と特殊の一致、さらには、社会において必然性と自由の調和が実現されている究極目的、といったものは、哲学的な意義はない。
実践理性批判も判断力批判も純粋理性批判より遥かに抽象的になっている。それはカントの前に社会法則が提出する課題が表れており、それを取り入れたものの、古いカテゴリーしか持っていなかったために内容を規定しようがなかったためである。ヘーゲルについても同じことがいえる。芸術において普遍と特殊は一致している、生命においても一致している、社会においても一致している、としても、あるいはそれは一致していないとするにしても、普遍が規定されていない場合は、一致も対立も具体的な意味を持たない。自然における普遍と社会に於ける普遍の区別ができておらず、さらに普遍とは何かがまだ規定されていないために、芸術や自由にカテゴリーを適用するとまったく抽象的な形式規定になる。
芸術も自然も社会も個別性の形式を持っており、同時に普遍的でもある。カントもヘーゲルも芸術の内容は普遍性だといっている。しかし、普遍とは何かをカントもヘーゲルも理解していない。哲学においても芸術においても、個別が普遍と一致できるかどうかは問題にならない。普遍とは何かが客観的世界において規定されない段階ではこんな形式規定が生まれる。
哲学の対象、つまり内容は存在全体を運動として規定することである。芸術の内容は社会的精神である。哲学と芸術の内容がなんであるかを規定できない段階では、個別と普遍といった形式規定の試行錯誤が生まれる。個別と普遍の関係は論理学では運動の規定である。運動の一部分は個別と普遍の対立と同一という形式で展開される。
普遍と個別が統一された具体的普遍が理念である。それは存在を運動として具体的に規定することを意味している。感性的表象と普遍性の統一が芸術や生命に現実に見られる。あるいは、内的合目的性に真の理念がある。悟性的な固定的で分離的な普遍は間違いで、普遍と個別は統一されなければならない。こうした議論は、すべて認識形式の問題である。認識の対象として個別と普遍があって、その統一をどのように実現するか、という課題では答えは形式規定になる。個別と普遍の関係は存在一般の運動の原理である。芸術の普遍とは芸術の内容であり、それは社会的精神である。だから、普遍の内容は社会的精神の規定である。
(2011.07.19)
第五六節
▲、カントもヘーゲルも、芸術の中で普遍が示されている、表象のうちにどのように普遍が表現されるかを問題にしている。ところが普遍性とは何かを理解していない。思惟規定を芸術に適用することは間違いである。芸術は普遍を描写するわけではない。それは論理が普遍を規定するわけではないのと同じである。普遍は運動の一契機である。カントもヘーゲルも形式規定をしているだけで、こんな規定は無意味である
(2011.07.19)
第五七節
■.生命あるものは、内的目的を持っている。生命のあらゆる手段、材料は、生命活動のための手段であると同時に目的である。存在の概念がその特殊な部分を統合している。
▲、内的目的とは、生命として特定の発展形式を持っていることを言っているに過ぎない。これは経験科学の研究対象である。運動形式としての個別と普遍とは別問題である。こうした議論は全体としてカテゴリーの内容が何であるかを理解していないためにおこる形式論議である。内容が何かがわからない場合に、そこにカテゴリーを適用することはどんな場合でも形式論議になる。
(2011.07.19)
五八節
▲、芸術作品や生命体が思惟の抽象体と存在の合一の表象的な実例とされると、経験的な意識にとっては分かりやすい。理念が思惟の抽象体が自ら具体的な規定を作り出し、したがって存在をも作り出すことで存在との一致を実現しているように見える。
ヘーゲルは抽象から具体への上向によって存在のすべての規定を作り出すとする一元論を作り出した。ヘーゲルの論理では、抽象的な絶対的精神が自己を外化して自然と精神の具体的内容を作り出す。ヘーゲルは、生命や芸術はこの図式を個別内容のうちに表わしているから理念的存在であると考えている。
内的目的は、ある個別運動法則の結果を目的として立てることであり、論理的な意味はない。この意味での内的目的を存在のすべてが持っている。存在の全体もそれをもっており、それを規定するのが論理学である。それは、普遍と個別の一致という形式で規定できるものではなく、カテゴリーの全体によって規定される。ヘーゲルが内的目的を高く評価するのは、運動の原理として有と無の同一としての変化だけを考えているからである。
普遍と特殊の同一性が現実に具体的にどのように展開しているかを明らかにするのは経験科学である。自然と社会と芸術における普遍と特殊の関係は、それぞれ自然科学と社会科学と美学が明かにする。それぞれの対象において内容が違うから普遍と特殊のあり方は違う。特に芸術の内容を理解するためには、社会法則という新しい要因が必要である。
ヘーゲルが、普遍と個別の一般的関係を自然と社会的精神と芸術のすべてに適用するのは、カテゴリーの対象がなにかを理解していないからである。ヘーゲルはカテゴリーをすべての存在に適用する。哲学は普遍と個別の関係だけを内容とするのであって、自然や社会や芸術の普遍と個別をカテゴリーによって扱うのではないし、扱ってはならない。個別の対象はそれに特有の内容を問題にすべきである。
哲学は、自然と社会と精神のすべての分野を運動として規定するから、普遍と特殊というカテゴリーの関係だけを規定する。哲学における普遍と特殊の関係は、カテゴリー内部の関係であるから、存在するすべての実例、自然科学、社会科学といった経験科学のすべてから分離した純粋論理において、カテゴリーの体系を展開しなければならない。ヘーゲルは常に哲学が純粋概念の自己運動を規定すると主張しているが、純粋概念の内容が運動の一般法則であることを理解しておらず、存在するものすべての存在の規定の真理であると考えている。そのために、自然も社会的精神も芸術をもカテゴリーによってその内容を規定しようとしている。カテゴリーによって芸術作品や生命といった特殊な対象の内容を規定することは間違いである。カテゴリーによってなんでもかんでも認識するのではない。カテゴリーの内容は一般的運動法則である。
(2011.07.19)
第五九節
▲.ヘーゲルの無限者、絶対者は、すべての対立の統一である。弁証法の単純な規定を使って無限者を表現している。無限者は自己目的、自己展開、自己との同一として単純に規定されている。ヘーゲルの無限者は単純な存在の形式を持っており、古い形而上学を引きずっている。存在としての無限者を想定しているために、有限と無限の統一だとか、自由だとか自己自身との一致だとかいった規定が沢山でてくる。こうしたものはカテゴリーの単純化された個別規定にすぎない。無限者とは運動である。存在は有限であり、運動は無限である。無限者としての存在はない。
(2011.07.19)
第六〇節
■.カントの善は、
1、世界自身の究極的な善の実現ではなく、世界の状態および出来事とわれわれの道徳との一致にすぎない。
2、善も義務も、規定つまり具体的内容を持たない抽象物である。
3、実践理性と現実の調和は、主観的なもの、あるべきもの、であって、実在性をもたないものとされている。統一は当為にすぎず、未来に一致する希望にすぎない。
▲、ヘーゲルは単純な一元論の立場からこのように批判している。世界自身の究極的な善の実現はありえないし、一般的な善の規定もありえないし、善の理念と世界が一致することもありえない。善は階級的で相対的な価値観であって、しかも変化するものであり、確定的な内容を持つことはない。善は思想上の対立的内容を持っており、善の対立は社会的精神の発展における部分的な一契機にすぎない。社会全体が一つの善を目指しているわけではない。
善と悪、善と善の対立も精神の運動形態であるから、一致して閉じることはない。また個別と普遍の対立も運動形態であるから、一致することで無限に到達するのではない。世界の究極目的は存在しない。思惟と現実との最終的な一致もない。善の実現もない。ヘーゲルの図式ではこうした対立がすべて一致に到達して無限を実現する。こうした構造になるのはヘーゲル哲学が認識論を主な内容にしているからである。ヘーゲルの無限者は究極目的や円環を持っており、自己が自己に到達することが無限である。実際は、無限者とは運動である。この場合は分離対立は無限に発展する。そして、分離・対立は一致の形式である。
■.同じように、認識の制限、欠陥が、制限、欠陥として規定されるのは、普遍的なもの、全体的なもの、完全なものの理念が現にそこにあって、それと比較されるからである。したがって、或るものを有限であるとか制限されているとか呼ぶということがまさに、無限なもの、制限されていないものの現存を証明しているということ、限界にかんする知識は、限界のないものが現に意識のうちにあるからこそ存在しうるのだということ、このことをみないのは、自分が現にしていることに気がつかない者と言わなければならない。
▲、制限を意識することは制限を超えることである、というのは間違いではないが屁理屈である。
存在の限界、制限、欠陥、有限性を認識することができるのは、普遍的なもの、全体的なもの、完全なものの理念がそこにあるからではない。われわれは、存在が変化しており、生成消滅するものであることを経験的に知っている。限界、制限、欠陥、有限性とは生成消滅を様々に認識したものである。われわれが存在の限界、制限、有限性を認識できるのは、存在が運動しているからである。存在が運動として存在することを我々は認識しており、したがって様々の形式で運動を認識している。限界を超える、有限性を超えるとは、対象を運動として認識していることであり、運動は経験的に認識することができる。
運動を思惟的に規定することが哲学の課題である。カントは、運動を規定する様々のカテゴリーの一つ一つを分離してそれぞれを真理と考えた。ヘーゲルはこれをカントの悟性、二元論として批判している。運動は、対立的カテゴリーの関係の展開として規定される。そのために運動の規定はカテゴリーの自己運動の体系になる。
ヘーゲルは、カントの認識論が諸科学の方法になんらの影響をも与ええなかった、と批判している。哲学は運動の一般法則を規定する。この意味においてのみ、つまり対象の運動が問題になる場合にのみ影響を持たねばならない。対象の認識においてカテゴリーが適用されるという意味で役に立つことになるのは、哲学を認識と考え、カテゴリーを認識方法と考える場合である。この場合は悪影響を及ぼすだけである。こうした方法は形式規定をもたらすだけである。
■.カント哲学と形而上学的経験論の比較。
素朴な形而上学的経験論は感覚に信頼を置くと同時に感覚を超えた精神的世界を認めている。こうした二元論を批判する一元論的な経験論は、思惟的な原理と内容の独立性を否定する。唯物論、自然主義こそ経験論の首尾一貫した整合的な体系である。
カント哲学は、唯物論的な原理と思惟および自由の原理を対立させる哲学であり、素朴な二元論的経験論の原理を超えるものではない。カント哲学の二元論の一方の側面は、知覚と知覚を反省する悟性の世界である。この世界をカントは現象の世界と言っているが、悟性の内容は経験論の内容と全く同じである。他方の対立的側面は、自己を把握する思惟の独立性、自由の原理である。この原理はカント以前の普通の形而上学と同じであるが、カントはここから古い内容はまったく排除している。ただ、それにかわる新しい内容を獲得していない。この思惟は理性と呼ばれているが、あらゆる規定、あらゆる拠り所を失った抽象的な同一性である。
カント哲学は、理性から古い形而上学的内容と、経験的な意識の内容の両者を排除した。中でも、古い形而上学を否定する歴史的な役割を果たした経験論の内容を排除したことが重要である。カントは経験的な内容と分離した理性の内容を具体的に展開することはできなかったが、経験的な内容を排除することによって理性の独立、理性のそれ自身のうちにおける絶対の自主性という原理を打ち立てたことに意義があり、それがそれ以来哲学の普遍的原理となった。
▲、ここに、思惟の抽象体と存在の関係についての三つの考え方が揃っている。
一元論的な経験論=唯物論は、感覚と抽象的思惟の両方を認めるが、すべては感覚から導き出されるとして、抽象的思惟の独立性を認めない。しかし、経験論の方法では説明できない抽象的思惟規定が存在する。経験論では、普遍の思惟規定がどこから出てくるのか、それは何かが分からない。経験科学における普遍は経験論の内部の普遍であり、それを超えた思惟規定の由来と内容を説明することはできない。
観念論は形而上学的な思惟を客観的世界から切り離して、精神を独立化する。この場合、客観的世界を否定することによって主観的観念論となるか、あるいはヘーゲルのように思惟を実体として客観的世界を仮象とする客観的観念論を作り出す。この場合客観的世界は否定され精神に解消されることで思惟と存在が統一される。
カントはこの両者の間にある二元論である。経験論の内容をそのまま肯定していると同時に普遍を認めている。しかし、自立的な思惟は、現象から切り離された、規定を失った空虚な抽象物である。この無規定性において経験的世界から独立した絶対者として意識されている。
ヘーゲルは抽象的な思惟を基礎として、その具体化によってすべての存在の規定を作り出す一元論を作り出すことでカントの二元論を超える。ヘーゲルの一元化は混乱しており、カントの二元論の方が論理の構造としては優れている。現象世界は経験的に規定することができる。それは存在の規定である。対象を存在するものとして、静止しているものとして規定する。しかし、存在は運動しており生成消滅するものであることをも我々は認識している。対象の存在を深く規定していくと、存在の運動に突き当たる。それがカテゴリーである。カテゴリーは経験的な意識が認識する現象とは違った存在の実体であり物自体である。
現象の素材も物自体も客観的存在である。現象的素材の認識が経験的認識である。哲学は物自体を認識する。物自体とは存在の運動形式である。だから、思惟と客観的存在は分離されており、現象と物自体も分離されている。その上で両者ともに運動において一致する。運動としての一致は存在としての一致とは違う。ヘーゲルが想定している究極目的は存在の形式をもった無限性である。この無限者はありえない。カントが規定しているような様々の分離が現実に存在しており、その分離が相関関係を形成している。その相関関係が同一性である。ヘーゲルはこの分離を解消している。そうなると、論理の具体的内容が失われる。
■.補遺一
カントは悟性規定の有限性を指摘したが、その根拠を思惟規定の主観性に求め、物自体が彼岸にあるとした。しかし、悟性規定の限界性は、規定それ自身にある。だから、思惟規定の有限性は規定自身において証明しなければならない。
カントは悟性規定の有限性をそれ自身に即して示すことはできなかった。つまり、カントは意識の諸契機を経験的に取り上げて数えあげただけで、規定の必然的な関連を示していない。悟性規定がばらばらな規定である限り、有限な思惟に止まる。
世界をばらばらな規定によって認識しているのだから、われわれの知識の内容は現象にすぎないという結論は正しい。しかし思惟は現象の段階で終るのではなく、一層高い領域がある。しかし、カント哲学にとってはそれは到達しがたい彼岸である。
▲、ヘーゲルはここで、カントから後退している側面がある。思惟の有限性は物自体に届かないことを意味するとしたことはカント哲学の成果である。現象的思惟、経験的意識は物自体に届かない。それは運動の認識に届かないことであるから有限である。物自体は存在の規定の背後にある、客観的な運動の規定である。
思惟が無限性を獲得するには、現象の規定と分離した物自体を規定しなければならない。無限性とは物自体の認識であり、物自体と現象を分離することがアリストテレス以来の哲学の基本原理である。
ヘーゲルが物自体を否定して物自体と現象を同一化し、そのことによってカテゴリーの自己運動を規定するのは観念論的な後退である。哲学史上で問題になっている思惟の抽象体と存在の統一とは、思惟と物自体の合一のことである。だからこそ、経験科学における思惟と存在との同一は哲学上の課題の解決にならない。
悟性規定が主観的であることは、物自体に届かないという意味である。思惟が物自体に届かずに主観的であるのは、その規定が有限だからである。思惟規定が無限であることは存在を運動として規定することである。そのとき思惟は物自体に到達する。物自体は運動である。
以上の内容によれば、フィヒテをここで問題にする必要はないだろう。
(2011.07.20)
予備概念 C 客観に対する思想の第三の態度
第六二節
■.カテゴリーにのみかぎられた思惟は、無限なもの、真実なものではなく、またそれは無限なものに移って行くこともできない、だから、神は直接知によってのみ知られる、というのが直接知の立場である。
ヤコービによれば、認識とは有限なものの認識、すなわち、制約されたものから制約されたものへと系列をなして進む思惟の進行にすぎない。したがって、この意味での概念的把握とは、或るものを他のものによって媒介されたものとして示すことを意味し、そこではあらゆる内容が特殊的であり、依存的であり、有限である。無限なもの、真実在は、機械的連関の外にある。だから、思惟によって認識することはできない。
▲、ヘーゲルは直接知の主張に対して、「思惟は絶対者の表象から有限性を除去するものと考えられていた。これは上述の、人は思惟によってはじめて真理に到達するという、あらゆる時代を通じての確信によるものであった。」と批判している。
無限者に到達できるのは思惟だけである。ところが思惟は媒介的認識であるので、無限者を認識できないように見える。思惟による媒介的認識とは対象を規定することである。規定を持つとは限界を持つことであり、無限者ではなくなるから、思惟は有限者を認識する方法である、ということになる。
思惟によってのみ無限者に到達できるというのは、思惟のこの特徴による。無限者が存在として想定されている場合は、無限者は規定を持つことはできない。規定を持つ存在は有限であるから無限者ではない。そのために、無限者は無規定な抽象的存在になる。この矛盾によって思惟は無限者とは何かを規定しなければならなくなる。
無限者を存在として想定しているかぎり、直接知によっても認識することはできない。直接知によって存在するものとして認識されたものは有限である。
媒介的認識によっても直接的認識によっても無限者を認識することはできないし、またできる。思惟だけが無限者を認識できるというのはヘーゲルの間違いである。無限者は、思惟によって認識できるのかそれとも直接知によって認識できるのか、という問題が生じるのは無限者とは何かを理解していないからである。無限者は思惟によっても直接知によっても認識できる。無限者とは運動である。存在は運動の存在形式であり無限の存在形式としての有限である。したがって、無限者を存在として想定している場合は、思惟によっても直接知によっても認識することはできない。存在はすべて有限だからである。思惟が無限者を認識する場合は矛盾の展開という形式を取る。したがって、無限者は規定できるものであり、無限者を規定する学問が論理学である。直接知の場合は、存在の変化の現象の認識が無限者の認識である。
ラランドは、自分はくまなく空をさがしたが、神を見出さなかったと言っている。しかし、神という無限者は探してそこに見つかるものではない。すべての哲学者はラランドと同じように無限者を探してきたがどこにも見つからなかった。それは探すものを間違っていたからである。自然科学の発展によって世界をくまなく認識しても無限者は見つからない。それは有限な認識の無限の蓄積である。有限な認識の無限の蓄積とは別に、無限者は常にそこにある。それは有限者の運動である。有限者が有限であるのは、存在が運動として存在しているからである。
(2011.07.20)
第六三節
論理学はカテゴリーの内容を研究する学問である。直接知の立場は、カテゴリーの形成や、カテゴリーの内容と関わりを持たないので、考察する内容を持たない。哲学が信仰だとか神だとかの問題を研究する必要はない。
直接知の立場が繁盛しててもそれを批判する意義はない。カテゴリーの内容を明かにすることだけが有効な批判である。
(2011.07.20)
第六四節
▲、直接知の立場は、無限なもの、永遠なもの、神が存在していることを確信している。ヘーゲルはこのことを当然として認めている。しかし、無限なもの、永遠なもの、神が存在していることを肯定するか否定するかは問題ではない。無限なもの、永遠なものとは何かが問題である。神が存在している、という場合は神の存在を証明することはできない。無限とはなにかを理解していないからである。無限は運動のみである。無限を存在の形式で証明することはできない。ヘーゲルはこのことを理解していなので、無限についての説明は無意味に長くなる。
無限なものの存在を確信していることにおいて直接知と哲学の違いはない、とヘーゲルは考えており、違いは直接知が哲学を排除すること、直接性と媒介性を対立させることにあり、そのために直接知は無限的なものの存在を証明できなくなる点にあるとしている。ヘーゲルとっては直接知と哲学の関係で重要なことは直接性と媒介性という認識形式の違いである。ヘーゲル哲学は認識論でもあるために、認識形式が重要になる。
この観点からヘーゲルは、デカルトの命題「私は思考する、ゆえに私は存在する」(Cogito,ergo sum)に言及している。
デカルトの命題は近代哲学の出発点であり、「いかなる推理からも帰結されない或る根本的な観念」である。デカルトはすべてを疑う結果として、その疑う思惟自身の存在を疑うことができない、として、思惟を確実で根本的な存在とした。思惟は私の思惟として存在する。思惟の主観性を宇宙のすべての存在の基礎とするのが近代哲学の原理である。
思惟する私と存在との不可分性の命題は、この一致が絶対に最初のもの、原理であり、最も確実なかつ最も明白なことがらである、ということを意味している。推理であれば、ある前提を必要とする。この命題は、媒介を持たない始元、すべての思惟の基礎となる根本概念である。思惟を具体的に展開するために、どのような懐疑論も疑い得ない思惟の絶対的始元を据える必要があった。デカルトは、この命題が思惟の始元としての思惟の原理であることを力強く明確に表明している。デカルトの直接性は、思惟の規定の具体的展開の基礎としての位置づけを持つことにおいてヤコービその他の直接知と対立している。
ヤコービその他の主張する直接の結合は、思惟と存在の一致を抽象的で一般的な原理として規定しているだけである。デカルトの直接的一致は、思惟の展開の始元として規定されている。デカルトが近代哲学の出発点となるのは、デカルトの命題を思惟の始元として、思惟の具体的内容が展開されることになるからである。
ヘーゲルは、直接知の哲学が思惟と存在の一致を主張する場合、神の観念に存在が結びついているとするだけでなく、私の身体の表象や外的事物の表象にもそれらの存在規定が不可分に結びついている、とまで主張していることを指摘し、この一致の形式が興味深いと書いている。しかし、どのように興味深いかを書いていない。
経験的な意識は、思惟と存在の一致を、主観的な思惟と客観的な存在との一致と考える。だから、直接知において、私の身体や外界の客観的事物と表象とが一致する場合に、客観的存在と意識とが一致することになり、その一致が真理である、と考えることになる。神も主観の外に存在するものであり、主観的な意識と神が一致することが真理である。
ところが、ヘーゲルにとっては神が真理であり、神とは絶対精神である。観念論者であるヘーゲルにとっては、主観的意識と客観的事物との一致はもともと問題にならない。真理は絶対的精神として存在するものであり、真理が認識の対象である。経験論における意識と存在の一致と、このヘーゲルの真理における客観と主観の一致は両者共に一面的であり、ちょうど対立的な関係にある。
直接知の立場は、意識と存在の一致を抽象的に主張している。直接知は普遍とは何かという問題意識を持たないから、普遍が客観的に存在するか、という哲学的課題を持つことができない。意識とその対象の対応関係だけが問題であれば、感覚や表象と個別存在とが一致していることを経験的、実践的に確認することができる。しかし、主観的な意識と客観的存在の一致が、意識とコップの存在の一致を意味する場合、それを真理とは言わない。ヘーゲルが直接知について興味深いとして指摘しているのは、直接知は意識と個別存在の一致をも真理とするからである。真理の存在をこれほど素朴に信じていることをヘーゲルは寛大に高く評価している。
デカルトの命題は、このような一致のすべてを疑う懐疑である。デカルトの命題は、感覚、表象、その対象であるすべての個別存在と、さらには自分の身体の存在をも疑った結果として、何ものも疑うことのできない、どのような懐疑論をも排除できる絶対的な原理として、すべてを疑う思惟の存在を置いた。
直接知の立場は、感覚や表象を含めた意識一般と対象的存在の一致を主張しているために、一致とは何かという課題を持つことができず一致が具体的にならない。ところが、直接知の立場は、その立場こそが具体的な一致だと思い込んでいる。ここでは、具体的というカテゴリーの意味が問われる。近代哲学においては、意識と客観的存在の直接的な対応関係としての一致とは別の一致の原理が求められている。ヘーゲルは、こうした観点において、直接知が、経験的な意識と具体的存在物との一致を主張することに興味を示している。この一致の形式を超えることが哲学の課題である。
(2011.07.20)
第六五節
■.直接知の立場は、直接知と媒介知を対立させる。直接知の立場は、媒介知が媒介を持つが故に有限であり、直接知は媒介を持たないが故に無限性の立場だと考えている。
直接知と媒介知の統一が真理であり、媒介知を排除すると一面性に陥る。
直接性と媒介性の対立というカテゴリーの対立関係こそが概念である。直接知の立場はこの概念を考察することができない。
だから、直接知の立場は論理的に無内容である。
(2011.07.21)
第六六節
■.最も複雑な、この上なく多くの媒介を経た考察の結果である真理でも、それをよく知っている人にはそれが直接的に意識のうちにあらわれる。教養ある人々はみな、多くの思索とながい人生経験から生じた沢山の普遍的見地や原則を直接その知識のうちに持っている。あらゆる知識や芸術や技術において達する熟達とは、知識や活動を直接に意識のうちに持つこと、否、外的な活動や手足のうちにさえ持つことである。知識の直接性はその媒介を排除しないばかりか、直接知は媒介知の所産であり結果である。経験的な意識においても両者が結合されている。
直接的な存在も実は媒介と結合されている。種子や両親は、生み出される子供、等々にたいしては直接的な、始源的な存在である。しかし種子や両親は現存するものとしては直接的にあるが、同時にそれらも生み出されたものである。
▲、目の前にあるすべての存在は、ビッグバン以来の宇宙の形成によって、さらには人類の歴史的発展の成果として目の前に直接的に存在する。すべての存在は直接的であると同時に媒介的なものとして存在する。直接性とは運動から分離された存在としての規定であり、媒介性とは運動としての規定である。すべての対象は存在と運動の二つの形式で認識される。
(2011.07.21)
第六七、六八節・・特になし。
第六九節
▲、ヘーゲルは、直接知の立場に現れる主観的理念から存在への移行が、外的なものによっての媒介ではなく、自己そのもののうちで自己を完結する真の媒介である、と高く評価している。
ヘーゲルが直接知の立場を主観的理念から客観的理念への精神内部の移行として高く評価するのは、客観的観念論の図式と一致するからである。実際にはこのような移行は存在しない。
理念内部の媒介、つまりカテゴリーの自己運動の問題は近代哲学の成果であるが、直接知の立場はこの意義を反映していない。だから、直接知の立場をこの点で評価する必要はないヘーゲルは観念論の立場から直接知を過大評価し、カントを過小評価している。
(2011.07.21)
第七〇節
▲、ヘーゲルが直接知の立場を高く評価するのは、直接的の立場が理念と存在の同一を主張するからである。ヘーゲルは直接知の立場を、同一とは何かを直接知が理解していない側面からのみ批判している。ヘーゲルは、単に主観的な理念も単なる存在も真実なものではない、理念的な存在が真実である、理念と切り離された存在は、感覚的で有限な存在にすぎない、と考えている。
この規定を見ると、ヘーゲルが無限者をも存在の形式で捕らえていることがわかる。ヘーゲルは存在を二つに分ける。存在を有限的な存在と無限的な存在に分けて、無限的な存在とは概念と一致した存在と考える。概念と存在の対立を想定して、概念の外化として概念と存在の統一を定立して、その統一が無限者となる。このために存在は必然的な存在と偶然的な存在に分離され、必然的な存在だけが真の存在とされ、この図式のもとで理性的なものは現実的である、という命題が生まれる。
これはヘーゲルの論理構造の基本的な間違いである。存在のすべてと一致することが哲学的真理である。存在のすべて、存在の全体とは運動としての存在である。ヘーゲルはこのことを理解しておらず、無限者を存在の形式で追求している。
このあと再び直接性と媒介性の関係の無理解について直接知を批判している。ヘーゲルは無限者を対立物の同一と考えている。対立物の同一は運動の展開を規定する一契機として重要な意味を持っている。しかし、ヘーゲルは対立物の同一が何を規定しているかを理解していないために、対立物の同一自体が真理である、と考えており、そのために直接性と媒介性の関係を重視している。直生性と媒介性の関係が有限と無限の関係を意味しているのではないし、この関係はそれほど複雑な関係ではない。
(2011.07.21)
第七一節
直接知の立場の立場の一面性にともなういくつかの特徴。
■.第一に、この立場はこの知自身の運動を問題にするのではなく、直接知という意識形式が、主観的な知識や意識のうちに存在する、という事実を真理の基礎としている。この場合、その意識がすべての人の意識のうちに見出される場合に普遍的な真理とされる。
或る意識の内容がすべての人の意識のうちに見出されるという事実から導き出される普遍は「一般の一致」である。少数の意識は特殊的で偶然的であることになる。個人の意識の特殊的なもの、偶然的なものをこうした量的な方法で除去することができるなら哲学は楽な仕事である。哲学は真実を証明しなければならない。意識の事実を数え上げることは哲学的証明ではない。
(2011.07.21)
第七二節、第七三節、・・・特になし。
第七四節
▲、ここも直接性と媒介性の関係である。
無限者、絶対者、あるいは真実は、自己自身のうちで自己を自己に媒介するものである。それは、具体的で生動的であることを意味する。直接性は抽象的な自己関係であり、不動で固定的である。
要するに、ヘーゲルは無限者あるいは真実とは、自己自身において自己を展開するものであり、それは自己自身において自己と自己が媒介されることである、と主張している。直接知の立場がごく単純で抽象的であるために、ヘーゲルの批判も抽象的になる。自己関係、自己展開、自己内媒介は抽象性に対して有効で重要な規定であるが、この規定を基礎にして論理を展開すると形式主義になる。ヘーゲルは対立物の同一が何を意味しているかを理解しておらず、論理を認識論として展開するために、常に抽象と具体の関係が論理の基礎になる。
(2011.07.21)
第七五節
■.他のものとも、また自己自身のうちで自己とも、媒介されていない知=直接知は存在しない。すべての知は媒介された諸規定を含んでいる。
思惟は単に他のものによって媒介された諸規定、すなわち有限で制約された諸規定に即してのみ進んで行くのではない。
単なる直接性のうちを進んで行くのでもなければ、単なる媒介のうちを進んで行くのでもないような認識とは、自己内で自己を媒介する思惟である。
▲、これはヘーゲル的で分かりやすくて内容があるように見えるが、重要な規定ではない。
(2011.07.21)
第七六節
▲、思惟と存在の一致が哲学の最大の難問となるのは、哲学の対象である絶対者、無限者とは何かという問題だからである。絶対者とは何かは、絶対者は存在するか、という問題になる。絶対者が存在しないのなら絶対者は否定される。しかし、存在は一般に規定を持つから、絶対者は存在するものではない。絶対者を規定すると絶対者ではなく有限者になり、絶対者が存在すると絶対者ではなく有限者になる。そのために、絶対者と存在を結びつけなければならない。この問題を解決するのがヘーゲルの抽象から具体への上向である。ヘーゲルは絶対者の存在の観点から常に抽象と具体の関係を問題にしている。
(1)デカルトは思惟と存在の直接的一致を真理とした。この場合の存在は自我である。
(2)ヤコービは神の存在を問題にしているが、神は哲学の領域にはいない。無限者の規定の問題に信仰という余計な問題を導入すべきではない。
(3)外的な事物の存在と感性的意識は一致している。しかし、ヘーゲルは感性的意識はもっともつまらない認識である、としている。感性的なものにはなんらの真理もなく、「外的事物の存在は、偶然的で一時的な存在、一口に言えば仮象にすぎず、それらは本質的にそれらの概念、本質から分離した現存在しか持たない」からである。
デカルトとスピノザは、存在と絶対者を分離しておらず、個別存在の全体と絶対者との直接的同一を原理としており、経験論の限界内にいる。ヘーゲルは経験論の有限性を否定して絶対者を取り出そうとしている。実は、(3)の有限的存在の否定の中に無限者が含まれている。しかし、ヘーゲルはまだそれを分離できない。
外的事物としての存在は存在の全てであり、これ以外の存在はない。この存在は偶然的で一時的で生成消滅する。こうした生成消滅にも関わらず存在自体は消滅しないために個別存在の背後に概念や本質や神が想定され、個別存在は仮象とされる。だから、概念や本質とは生成消滅自体である。存在はすべて有限で生成消滅するのだから、生成消滅は永遠である。絶対者を運動とすることによって、絶対者を規定することができるし、絶対者と存在の同一を定立することもできる。
(2011.07.22)
第七七節
▲、思惟と自我の直接的な一致からより進んだ認識に行く方法と、有限な媒介にそって進む認識の方法は、有限な認識を蓄積する経験論である。このことはカントによって最終的に確認された。有限的な認識の永遠の積み重ねによっては絶対者に到達できないと結論されたことによって,無限者の知については一切の方法を退けて、勝手な空想や断言、道徳的自惚や尊大な感傷や、あるいは途方もない意見や理屈に陥ることになった。
だから、今や哲学は、無限者、絶対者を思惟によって規定しなければならない。
というのがヘーゲルの立場である。
(2011.07.22)
第七八節
■.哲学に入ろうとするにあたっては、あらゆる前提及び先入見を棄てなければならない。哲学のうちで初めて、あらゆる規定が吟味される。まず、直接知と媒介知の対立という前提を取り除き、直接性と媒介性といった二つの規定の対立の意味が認識されなければならない。
否定を事とする懐疑論によってこのような前提の空しさを示すことはできるが、それは面白くないうえに、余計な手続である。なぜなら、弁証法的な論理学は、懐疑論の否定を本質的なモメントとして含んでいるからである。
徹底した懐疑論は、すべてに対する疑い、すなわちすべてにおける全くの無前提を学問に先行させようという要求と同じである。このような要求は、すべてを捨象した純粋な抽象、思惟の単純性、つまり純粋な有を把握することにおいて遂行されている。
(2011.07.22)
第七九節
■.論理的なものは形式上三つの側面を持っている。
(イ)抽象的側面あるいは悟性的側面、
(ロ)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面、
(ハ)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面、
▲、これはヘーゲル論理学の図式である。(イ)は、経験的な意識による存在の認識である。(ロ)これらの認識は対象認識において次々に否定されていく。これは弁証法ではなく、経験的な意識における法則化、普遍化である。
(ハ)はヘーゲルによれば、否定の否定としての肯定である。対立物が同一化される。ヘーゲルの無限性は対立物、即ち思惟と存在の統一である。思惟と存在は存在するものの全てであり、両者が統一されると、思惟も存在も相互に限界を持たなくなる。
この同一は客観的観念論に特有の図式である。この肯定的理性の側面は論理学には必要ない。(ハ)は本来は弁証法的論理学であり、カテゴリーの体系である。ヘーゲルは経験的認識による存在の規定と運動の規定を分離していない。そのために、絶対者は存在のすべてを網羅する全体的精神である。肯定的理性とは絶対精神とすべての存在の同一という意味になる。この否定の否定による肯定の図式が論理構造の全体を混乱させている。
(2011.07.22)
第八○節
▲、悟性的な思惟とは対象を存在として規定すること、つまり対象の運動と関連を断ち切って対象を規定することである。対象と対象の関連とは対象の運動であるから、悟性的認識とは一般に運動を否定して存在を規定することである。
ヘーゲルはこのことを、固定した規定性、この規定性の他の規定性にたいする区別、制限された抽象的なもの、としている。
悟性は個別存在に普遍性の形式を与える。悟性が作り出す普遍は存在の個別性に対立した抽象的な普遍である。悟性が作り出す普遍は、個別存在と分離しており、他の普遍と分離している。悟性は具体的な存在に分離的、抽象的に振舞うから、個別存在と直接的に一致している知覚や感情とは、正反対の振る舞いをする。
これは、悟性的規定についての一面的な規定である。悟性は区別を規定するが、区別は関係の規定であり同一性の定立である。
知覚や感情は存在と運動を分離しない。対象を存在と運動の同一性として認識する。思惟的認識は対象を他との関係から区別する。思惟はあらゆる関係を分離する。無限の多様性から同一性を分離して規定するのは、分離の形式において関連を規定することである。個別存在は同一的存在から分化したものだからである。個別存在の普遍の認識とは、個別存在の運動形式を分離的に認識することである。個別存在の普遍は、個別存在が形成される以前の存在形式である。したがって、個別存在の普遍を規定し、その普遍の普遍を規定していくことは、個別存在の全体的関連の規定を進めていくことになる。そして、存在の普遍の規定を深化させていくと、存在と存在の形成的な関連の規定に到達する。それがカテゴリーである。そして、カテゴリーとカテゴリーの関係は、存在の運動としての関係の規定である。
ヘーゲルは存在の規定と運動の規定の関係を理解していない。そのために、悟性的規定の特徴を区別の規定とした上で様々の教訓を並べている。悟性的規定の実例は分かりやすい。悟性的思惟は対象を分解し単純化するから、つまり、関連を否定するからであるが、この分離の分かりやすさは悟性的思惟の限界でもある。この教訓に対して対立的な悟性的規定が同等の教訓として存在している。さらに、思惟は流動的でなければならない、というこの対立物教訓も生まれる。
この教訓は個別的には有効で面白いが、哲学ではない。区別の重要性を説くのではなく、区別とは何か、限定とは何かを明かにすべきである。そして、区別は同一の一契機であり、区別の発展が同一に導くことを明かにすべきである。
(2011.07.22)
第八一節
■.弁証法的モメントは、有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である。
(1)弁証法的なものの否定だけを取り出して学問として述べたものが懐疑論である。
(2)弁証法は普通、恣意によって混乱と外見上の矛盾をひきおこす技術と考えられている。しかし、弁証法は主観的なものではなく、あらゆる悟性的規定、事物、および有限なもの自身の本性である。
悟性的反省も、孤立的な規定を相互に関係づけるが、孤立した規定はそのままで妥当するものとされる。弁証法においては悟性的規定自身が否定として示される。
弁証法は、主観が外的な反省によって規定を関係づけるのではなく、規定自身の内在的な超出による移行である。この自己否定において、悟性的規定の有限性と一面性が明らかになる。
■.補遺一
弁証法は現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。普通の意識においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないことは、せいぜい、あるものと他のものを同等に認める公平な見方だと考えられている。
しかし、有限なものは対立的な他者によって制限されているのではなく、自分自身の本性によって他者へと移行するものである。例えば我々は、人間は死すべきものであると言い、死を外部の事情に基づくものと考える場合は、人間には生きるという性質と可死的であるという対立的な二つの性質があることになる。しかし本当は、生命はそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するものである。
弁証法と詭弁の違い・・。詭弁の本質は、個人のそのときどきの利益および特殊の状態に都合のいいように、一面的で抽象的な規定をそれだけ切りはなして主張することにある。しかし、弁証法は事物をそれ自身の具体的に考察によって、悟性規定の有限性を明らかにする。主観の作用によって対象を否定するのではなく、事物それ自身の運動を明らかにするのが弁証法である。
古代の哲学者のうちでは、プラトンが弁証法の創始者と呼ばれている。プラトン哲学においてはじめて弁証法が自由な学問的な形をとって、したがって客観的な形をとってあらわれた。ソクラテスにおいては弁証法は、かれの哲学的思索の一般的な性格と一致して、なお主観的な形態、すなわちエイロネイア(皮肉)の形態を持っている。
プラトンは厳密に学問的な対話において、弁証法を用いてあらゆる固定した悟性規定の有限性を示している。例えば「パルメニデス」において、かれは一から多を導き出しながら、しかも多が一として自己を規定せざるをえないことを示している。プラトンはこのように偉大な仕方で弁証法を取扱った。
近世では弁証法を復活し、それにふさわしい地位を与えたのはカントであった。かれは理性のアンチノミーと呼んでいるものの考究によってそれをなした。カントは理性のアンチノミーにおいて、どんな悟性規定でも、それをその真の姿において考察しさえすれば、直接にその反対物に転化することを示した。
弁証法は哲学的意識にのみ存在するのではなく、人間のあらゆる意識および経験のうちに見出される。我々の周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。我々は、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これが有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって直接の存在を超出し、その反対のものへ転化する。すべての有限なものは、どんなに自分を安全で鞏固と思っているものでも、普遍的な抵抗しがたい弁証法の力を免れることはできない。
更に弁証法は、自然および精神の世界のあらゆる特殊の領域および形態のうちにも見出される。例えばそれは天体の運動、気象学的過程、その他同じ原理がその他すべての自然的過程の基礎をなしている。精神の世界、特に法律や道徳の領域に弁証法が存在することを知るには、ある状態あるいは行為が極端になると常にその反対物に転化するという経験的な事実に注意するだけで沢山であろう。この弁証法は、最も厳格な法は最も甚しい不法である、といった沢山の格言によって示されている。
感覚や感情にも弁証法はある。苦しみのきわみと喜びのきわみとが移行しあうことは周知の事実である。喜びにあふれる心は涙にそのはけ口を見出し、最も深い悲しみはときに微笑によって示される。
▲、以上ヘーゲルの弁証法についての規定の簡単な纏めである。ヘーゲルの弁証法の概観は単純である。それは、ヘーゲルが弁証法を生成消滅の過程と考えているからである。ここで説明している論理は論理学の有の領域の内容である。弁証法は生成消滅の過程だけを規定しているのではなくて、存在の一般的運動形式を、つまりを存在の形成過程、変転の過程を規定している。有と無の対立と同一は生成消滅を意味しており、したがって反対物に転化することだ、と考えると弁証法は単純化される。弁証法は存在の形成過程を規定するから、対立は反対物へ転化するのではなくて別の質へと転化し新しいより高度で複雑な対立形式を生み出していく。こうした過程についてはここでは触れていない。これは弁証法の一般的特徴ではなくて、有の領域の特徴である。
補遺二は、懐疑論と直接対立しているのは悟性的思惟であって、弁証法は自己内の契機として懐疑論を含んでいる、という理解しやすい内容である。弁証法についての踏み込んだ説明ではない。
(2011.07.23)
第八二節
■.(ハ) 思弁的なものあるいは肯定的に理性的なものは、対立した二つの規定の統一を、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する。
(1) 弁証法は肯定的な成果、つまり特定の内容を持っている。弁証法の真の成果は空虚な、抽象的な無ではなくて、規定の特定の否定としての特定の規定を生み出す。
(2) 理性的なものは、思想であり抽象的ではあるけれども、単純な、形式的な統一ではなくて、異なった規定の統一としての具体的な思想である。
補遺・・理性的なものとは無制約でありしたがって自己の規定性を自分自身のうちに含んでいる精神である。
▲、これが弁証法についてのヘーゲルの基本的な考え方である。ヘーゲルは弁証法が運動の思惟規定であることを理解していない。そのために、弁証法の概観が非常に抽象的になる。抽象的であるから、あらゆる個別的実例の中に同じ形式の弁証法の法則を見つけ出している。それぞれの指摘は有益であるが、弁証法の規定としてふさわしいとは言えない。
ヘーゲル弁証法の実例が通俗化になるのは、弁証法が客観的世界を運動として規定することであることがはっきりしていないからである。ヘーゲルの弁証法はすべての存在を網羅的に規定する法則であるから、実例化しやすい。こうした実例によって弁証法を説明することができるのは、ヘーゲル弁証法の弱点であり抽象性である。ヘーゲルの弁証法は、カントが規定した悟性的普遍性と理性的普遍性の区別、あるいは物自体と現象の区別を解消している。このために弁証法の通俗化が生じる。
(2011.07.23)
第八三節
■.論理学は三つの部門にわかれる。
一、有論
二、本質論
三、概念および理念論
概念の形式としてみれば
一、直接性における思想、あるいは即自的概念
二、反省と媒介とにおける思想、あるいは概念の対自有と仮象
三、自己を展開して自己へ復帰し自己のもとにある思想、あるいは即自かつ対自的概念
▲、この構成を見るとヘーゲルの論理学が認識論の構造を持っていることが分かる。
論理学は認識論ではなく、存在のすべてを一般的運動法則として規定する学問である。その場合は、
一、有論
運動の基本原理の規定
質の形成と質の内的運動である量の運動の規定。
二、本質論
質の他の質への運動の規定
三、概念論
社会法則の運動の規定
という構成になる。
(2011.07.23)