哲学ノート/「小論理学」ノート  有論


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第一〇六節  第一〇七節  第一〇八節  第一〇九節   第一一一節


 
第八四節
 
 ■.有(Sein)は即自的にすぎぬ概念である。その諸規定は有的であって、それらが区別されている場合には互に他のものであり、それらの本性のより進んだあらわれ(弁証的形式)は他のものへの移行である。この進展は、即自的に存在する概念の不断の開示したがってその不断の展開であり、と同時に、有が自己のうちへはいって行くこと、すなわち有が自分自身のうちへ深まって行くことである。有の領域における概念の開示は、一方では有の全体を展開するとともに、他方ではこれによって有の直接性言いかえれば有そのものの形式を揚棄する。
 
 ▲、有は存在の現象的な規定を抽象した結果として生まれた概念である。この有は概念の規定を内に含んでいる。この内的に含まれている規定を外化していくのがヘーゲルの論理の発展過程である。
 ところが、
 「それらが区別されている場合は互いに他の物であり」、とあることから、有は個別存在の諸規定を抽象した抽象的な個別有であることがわかる。抽象的な個別の有は規定を持たないから、特有の規定によって他の有と区別することはできない、つまり、互いに他のものとしてしか規定できない。そして、この無規定な有は、他のものとの関係、他のものへの移行、において規定を生み出していく。「その諸規定は有的である」というのは、個別存在の相互関係による諸規定という意味である。
 
 ヘーゲルは、有を個別存在の規定を否定した抽象的な個別有と考えている。ヘーゲルの論理における有は抽象的であるが経験的な有である。
 本来の論理においては、現実の多様な個別存在の併存は本質の領域において形成されるのであって、論理の始元に、つまり有の領域に存在するのではない。多様な、つまり質的に違った個別存在が形成される過程を規定することが論理学の本来の課題である。ヘーゲルは論理の展開によって形成しなければならない多様な存在を前提して、その規定を抽象したものを有と考えている。このような論理では質の形成過程を規定することができない。
 
 有は即自的に概念の規定を含んでいるから、それを開示することは、自己内にある規定のうちに入っていくことでもある。ヘーゲル論理学で展開される概念の規定は、有のうちに即自的に含まれている規定を、有の自己運動によって生み出していく過程である。しかし、ヘーゲルの論理学では、有は規定を失った個別存在であり、個別存在は他の存在との関係によって規定を生み出していく。そのために、ヘーゲルの有に即自的に含まれる規定は、或る個別存在と他の個別存在の関係という経験的な規定である。ヘーゲルは経験的な規定を即自という形式で論理に取り込んでいる。このことがヘーゲルの即自というカテゴリーの弱点である。
 
 ヘーゲルの有は現象的な規定を抽象した無規定的な有という意味を持つに過ぎないから、即自的に含まれる規定はこの抽象された規定を意味することになり、この抽象された規定が体系的に再構成される過程が論理の発展形式となる。しかし、論理学の出発点としての有は、同じ抽象体であっても、個別存在という意味の有=存在とはまったく違う内容を持つカテゴリーである。ヘーゲルの体系では存在の規定と論理の規定の違いが明確になっていない。
 
 松村氏はSeinを有と訳していて、他の訳者は存在と訳している。論理学の有が感性的対象としての具体的存在とは違うことを示すには「有」という訳語が適切であるし、無との関係においても有のほうが適切である。しかし、存在と訳した方が意味が分かりやすい場合もある。
 といっても、始元のカテゴリーを有とするか存在とするかは、第二義的である。始元の理解は、有ならわかりやすく存在ならわかりにくい、といった程度の難しさではない。論理自体を理解すれば有でも存在でも問題はない。まずは、言葉にこだわらないで論理を追うことが重要である。
 


  
第八五節
 
 ■.1、「有そのもの、および以下に述べられる有の諸規定、のみならず一般に論理的諸規定全般は、絶対者の諸定義、神の形而上学的諸定義とみることができる。」
 
 ▲、論理的諸規定は絶対者の定義、神の形而上学的諸定義である、と規定しても、名前が変わっただけで、論理的諸規定、絶対者、神の内容は不明である。ヘーゲルの論理学では論理的に規定できない場合に絶対者や神が登場する。
 
 論理学の諸規定は、すべての経験諸科学の諸規定と区別される点で絶対者の諸規定と言うことができる。経験諸科学は個別的存在を普遍性において規定する。論理学は経験科学の普遍の普遍である。論理学は存在のすべてを一般的運動法則において規定する。存在のもっとも深い普遍は運動の規定であり、カテゴリーの規定である。ここに、哲学と他のすべての学問との違いがある。例えば、経験諸科学はある対象の本質を規定する。しかし、哲学=論理学は、本質とは何かを規定する。
 ヘーゲルの言う絶対者や神の内容はカテゴリーである。ヘーゲル哲学にとって絶対者や神といった主語は意味を持っておらず、その規定である述語だけが論理の規定である。有の規定に見られるように、論理の内容を規定できないために絶対者や神の内容を借りてくる場合は、絶対者や神は無視してもよい。
 
 ■.2、「ここに述べた有の三つの形態は、まさにそれが最初の形態であるという理由から、同時に最も貧しい、すなわち最も抽象的な形態である。直接的な、感覚的な意識は、それが同時に思惟的な態度をとるかぎり、主として質および量という抽象的な規定にかぎられている。感覚的な意識は、普通最も具体的な、したがってまた最も豊かな意識と考えられているが、それは素材から言ってのみそうであるにすぎず、思想内容から言えば、実際最も貧しく抽象的な意識である。」
 
 ▲、ヘーゲルは有の領域を、質、量、限度の三つの段階に分けている。正しくは、運動の一般規定、質、量の三つの段階に分けるべきである。ヘーゲルの有の領域の論理の段階の区別は論理的ではなく経験的である。
 ヘーゲルは、論理学の体系の発展を、抽象から具体への上向として規定している。論理の発展は抽象から具体への上向という形式をとるものの、抽象から具体への上向を基本法則として論理を捉えると形式主義になる。特に哲学の始元である有についてのヘーゲルの規定は形式規定である。
 抽象から具体への形式規定を発展の梃子とすることと、認識論として論理を区分することがヘーゲル論理学の基本的な弱点である。
 抽象から具体への形式規定において最初とは、最も抽象的な形態という意味を持つことになり、認識論的な規定としては、最初の意識形態という意味を持つことになる。有の認識論的な意味は、感覚的な意識による対象認識を意味しており、ヘーゲルの認識論的な論理においては、感覚的な意識の内容を思惟規定に改変すると、質と量の規定になる。
 
 感覚的意識の内容は思惟規定にとっては素材である。この素材の規定を思惟規定に抽象すると、論理としてもっとも貧しく抽象的な内容である質、量のカテゴリーに対応する、とヘーゲルは考えている。感覚的な個別認識を思惟規定に還元すると、論理的にもっとも抽象的な内容となるという経験的な意識による規定である。例えば「大きな家」という対象認識を論理化すると、大きさは量という抽象に還元され、家は質という抽象に還元される。
 存在をカテゴリーに還元することは、存在を一般的運動にまで抽象して捉えることである。このとき論理学は弁証法的論理学となる。しかし、ヘーゲルの論理学はカテゴリーの規定に純化していない。まだ経験科学である認識論の内容をもっており、そして形式的な抽象化である抽象から具体への上向を論理展開の梃子にしている。
 
 
  
第八六節
 
 ■.1、「純粋な有がはじめをなす。なぜなら、それは純粋な思想であるとともに、無規定で単純な直接態であるからであり、第一のはじめというものは媒介されたものでも、それ以上規定されたものでもありえないからである。」
 
 ▲、一般に始元は無媒介であり、直接態であり、もっとも抽象的でもっとも単純である。始元をどのような言葉で表現しても、始元である限り無媒介で直接態で、もっとも抽象的でもっとも単純なもので、ヘーゲルの言う純粋有と同じである。抽象から具体への上向という論理的発展の形式的特徴によって始元を規定する場合、始元は無媒介=抽象的=直接体等々である以外にない。
 この発展形式における始元の規定は、始元一般としての形式規定であり、何の始元かを規定するものではない。始元一般の規定は論理学の始元としての有の規定ではない。ヘーゲルは論理学の対象=内容を理解できないために、哲学の始元の問題を始元一般の問題にすり替えている。
 
 哲学史は絶対的な始元とは何かを探求してきた。それは絶対的な内容とは何かであり、絶対的な学問とは何かである。ヘーゲルは哲学の始元を無規定の抽象物と考えている。ヘーゲルの有が存在の規定を失った直接態=抽象体となっているのは、ヘーゲルの論理学の規定が存在の規定に止まっており、運動の規定に移行していないからである。
 論理学の始元としての有は、運動の原理としての有であり、特有の規定を持っている。すべての存在の普遍は運動であり、絶対者とは絶対的存在ではなく運動である。哲学の始元の規定は運動の始元の規定である。それは抽象的な無規定な有ではない。
 
 ■.2 有が絶対者の述語として言いあらわされると、絶対者は有であるという絶対者の最初の定義が得られる。この定義は思想による絶対に最初の定義であり、最も抽象的で、最も貧しい定義である。それはエレア学派の定義であり、同時にまた、神はあらゆる実在の総括であるという周知の定義でもある。詳しく言えば、われわれはこれによってあらゆる実在物のうちにある制限を捨象し、神を単にすべての実在物のうちにある実在的なもの、すなわち最も実在的なものとするのである。実在はすでに反省を含んでいるから、右の思想はヤコービがスピノザの神について言っている言葉、すなわち、それはあらゆる定有のうちにある有の原理であるという言葉のうちに、一層直接に言いあらわされている。
 
 ▲、ヘーゲル哲学を含めたこれまでの哲学の最初の定義である有は、あらゆる実在の総括である。あらゆる実在の総括とは、あらゆる実在の制限を捨象した絶対者、無限者である。この規定から、絶対的な最初は、無媒介、単純、無規定、直接態等々となる。
 絶対の最初の定義が最も抽象的で最も貧しい定義であることは理解しやすい。また、すべての存在のすべての規定を抽象した普遍が存在の総括としての絶対的存在そのもの=神である、という規定も理解しやすい。存在の規定を抽象すると存在そのものになり存在の出発点になる、と規定される有は論理的な有の規定ではない。存在の規定を存在の属性と考えた上で、存在の規定をタマネギの皮を一枚一枚剥いでいくと、規定を持たない存在自体になる、と考えるのは経験的な意識である。存在が規定を持っていると考えて、その規定を取り去ると規定を持たない存在自体が残る、と言う往復運動をしているにすぎない。桃の実を食べると種が残るという意識と同程度の意識である。存在のすべての規定を抽象して生まれる絶対的な有は、思惟の中にのみ生まれる空虚な抽象物である。
 存在のすべての規定を抽象した有が実在の総括、実在の全体、真の実在となるためには、有は運動の原理として規定されなければならない。始元としての絶対的な抽象である有を哲学的に解釈すれば、運動の規定ではなく、存在の規定、つまり静止あるいは不動の規定である。
 
 補遺一では、絶対的な最初を「思惟しはじめるとき、われわれは全く無規定の思想しか持っていない。」として、場所を主観に移して「最初」の規定をくり返している。始元の規定は形式規定であり、何の始元であるかを任意に想定できることがこのことからもわかる。
 存在の諸規定を抽象すると、存在の普遍性の規定へと、つまり存在の状態の規定へ、運動の規定へと移行する。存在の全体、存在の絶対者を規定するためには存在の規定から離れなければならないことは古代から意識されていた。ヘーゲルの論理では、存在の規定の普遍が運動の原理に移行するのではなく、思惟の原理に移行する。こうして客観的観念論が生まれる。
 
 ヘーゲルは、「本質もまた無規定的なものであるが、しかしそれはすでに媒介をへ、規定を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる無規定的なものである。」として、無規定性において本質を特徴づけている。ヘーゲルの論理では有も本質も無規定である点で同じであり、即自的に含まれる規定によってのみ区別される。ここでも、即自体であることと、抽象体であることがカテゴリーの基本的な規定になっている。このことが、有の領域と本質の領域のカテゴリーの違いを規定するための基本的な障害になっている。有は有の領域の運動の規定のカテゴリーであり、本質は質が他の質に変化していく場合の原理としての同一性である。しかし、ヘーゲルの規定においては、同一性はすべて無規定性、抽象性として規定されており、特有の規定を持たない。
 
 ■.3 補遺二 論理的理念の諸段階は、継起的にあらわれてくる諸哲学体系という形で哲学の歴史のうちに見出され、そしてこれらの体系はそれぞれ絶対者にかんする一つの特殊な定義をその根抵に持っている。ところで、論理的理念の展開が抽象的なものから具体的なものへの進展をなしているように、哲学の歴史においても、最も初期の体系が最も抽象的であり、したがってまた最も貧しい。そして一般に、より先の体系とより後の体系との関係は、論理的理念のより先の段階とより後の段階との関係と同じであって、より後のものがより先のものを揚棄されたものとして自己のうちに含むという関係をなしている。
 
 ▲、哲学史も論理学も、抽象から具体への上向という形式的な側面から見ると同じ発展の形式を取る。しかし、論理学の内容の発展と哲学史の内容の発展は同じではない。哲学とは何か、論理学とは何かは哲学史の端緒で発見されることはなく、哲学史の成果として初めて理解される。そして、論理のどのような側面が発見されるかは歴史的な条件によって規定されており、歴史的な条件は各社会構成体の社会的必然性によって独自に規定されている。そのために、論理学の内容がまず抽象的に理解されて、それが段階を踏んで法則的に具体化する発展過程を辿るわけではない。
 哲学史の発展は、論理の内容の発見過程としては非常に乱雑で複雑で偶然的である。哲学史上の個別の論理が論理学のどの領域のカテゴリーの内容になるかは理解されないまま、個別カテゴリーの内容が独自に探求されて乱雑に積み重ねられている。過去に形成されたカテゴリーの検討という形式をとるためにより複雑で多様な規定を獲得することが発展形式になるが、論理の発展が歴史的に順に積み上げられる形式をとることはない。
 
 ■.4、真の哲学史のはじめはエレア哲学、もっと厳密に言えばパルメニデスに見出される。かれは、有のみが有り無は存在しないと言うことによって、絶対者を有として把握している。これが哲学の真のはじめである。というのは、哲学は常に思惟による認識であるが、ここではじめて純粋な思想がとらえられ、それ自身にたいして対象となっているからである。
 ・・エレア学派は有にのみ真理を認め、そのほかになおわれわれの意識の対象をなしているすべてのものの真理を否定することによって、あまりにいきすぎていると言うのである。ところで、単なる有に立ちどまっていてはならないと言うのは全く正しいが、しかし、われわれの意識のその他の内容を言わば有と並んでまた有の外に存在するもの、すなわちそうしたものもまたあるというにすぎぬものとみるのは、無思想と言わなければならない。本当の関係はこれに反して次のようでなければならない。すなわち、有は不変で究極のものではなく、弁証法的にその対立物に転化するのであり、そしてこの対立物は、同様に直接的にとれば、無である。
 
 ▲、ヘーゲルは哲学史の真のはじめはパルメニデスであると考えている。それは、論理学の始元と哲学史の始元が同じであるとした上で、パルメニデスがもっとも抽象的な純粋な思想を捉えたと考えるからである。観念論者ヘーゲルの論理では、哲学の原理が物質から離れて思惟に移行したことが哲学の始まりになる。
 哲学の始祖はタレス、と言われる。タレスは万物の根源を水と考えた。すべての存在を一つの原理によって説明したことが哲学の初めである。しかし、タレスは一つの物質を原理として存在の全てを説明している。原理が物質であるから純粋な思想がとらえられていない、と観念論者ヘーゲルは考えている。
 万物の根源は水である、という規定では根源を想定することができるだけで、水という根源から万物への展開を規定することはできない。変化し運動する存在の全体を規定するには存在の規定から離れて変化の原理を規定しなければならない。
 万物の展開を捉えるための原理が存在の規定から分離する場合二つの方法がある。一つは客観的な運動の規定に移行することで、もう一つは思惟の規定に移行することである。前者は唯物論で後者は観念論である。存在の全体の規定の原理を物質から思惟に移行する観念論を批判して存在の規定に引き返す場合は素朴唯物論あるいは経験論となり、弁証法的論理の内容を規定することはできなくなる。
 
 存在の規定を否定して純粋有に到達すると、存在の規定は消えて運動の規定が生まれる。パルメニデスはこの飛躍を果たした。経験的な意識から見ると、この移行は存在の規定のすべてを否定しているように見える。しかし、哲学に、あるいは一般に学問に到達するためには、意識の対象をなしているすべてのものの真理を否定しなければならない。経験的な意識の対象の真理性を否定した上でその普遍性を規定するのが学問である。
 経験科学の場合は、意識の対象をなしているすべてのものの真理性を否定してもすぐに経験的な意識の対象に引き返してその対象の普遍性を規定することができる。ところが、哲学の場合は、有のみがあり無は存在しない、という規定によって初めて哲学的な規定に到達するが、この規定から意識の対象をなしているすべての現象的規定に引き返するわけではない。そのために、多くの哲学は経験的な意識に引き返すことを拒否して絶対者に止まり現象を否定する。
 だから、ヘーゲルは哲学は純粋有に止まってはならない、この純粋有の外に経験的な意識の対象が併存すると考えるのは無思想である、という。純粋有はその対立物である無に転化する。純粋有は対立物である無に転化することを展開の端緒として、思惟の具体的規定を展開していく、存在の規定を自己の外化として取り戻していく、というのがヘーゲルの体系である。(2011.05.16改稿)
 


 
第八七節
 

 ■.1、ところでこの純粋な有は純粋な抽象、したがって絶対に否定的なものであり、これは同様に直接的にとれば無である。
 (1) ここから、絶対者は無であるという第二の定義が生じた。事実、物自体は無規定なものであり、全く無形式でしたがって全く無内容なものであると言う場合、それはそのうちに右の定義を含んでいる。
 
 ▲、抽象から具体への上向を基礎にするヘーゲルの有は始元である。始元はすべての規定の否定であり無規定で無媒介である。純粋の抽象という絶対者の規定からすると、絶対者は無であるという第二の規定が生じる。物自体とは存在そのものであり、そのものとは一般に規定を持たない存在、規定を持つ以前の存在という意味である。ヘーゲルは無規定、無形式を無だと考えている。
 ヘーゲルにとっては純粋有が絶対者であり、第二に無が絶対者である。ヘーゲルにとって純粋抽象=無規定性の共通性が有と無の同一性である。ヘーゲルの絶対者の規定では有と無の対立が消えている。
 
 存在のあらゆる規定を抽象していくと純粋有が生まれる。ヘーゲルの絶対者の規定から言えば、規定を抽象していくと有は無になる。有は無と同一になる。経験的な意識における有と無の関係では、規定の抽象はこのような過程を辿る。
 規定を抽象していくと無になる、という論理的結論は、有と無を分離している経験的な理解の結果であり、前提のくり返しである。実際には規定を抽象していくと単純化し普遍化するだけで、存在そのものや無になるのではない。具体的存在から抽象されていく規定が無である。有の規定が無である。規定の抽象とは有からの無の排除であり、有と無の分離である。具体的な規定=無を抽象していくと、最後に純粋有と純粋無が残る。純粋有の対立物が純粋無である。有と無が対立しているから、有も無も無規定ではない。有は有として無によって規定されており、無は無として有に規定されている。存在の規定のレベルで言えば、有は存在であり無は存在の規定である。
 
 純粋有とは具体的規定=無との対立関係を持たない有である。つまり、純粋有とは、具体的な規定ではない抽象的な無、つまり純粋無と対立関係にある有である。純粋有は純粋無との対立関係において特有の規定を持っている。純粋有は無との対立関係を失って無と同一となった有ではなくて、具体的な規定ではなくなった純粋無と対立関係にある有である。だから、存在の規定を抽象していくと、最後に有と無の直接的な対立に到達する。これが絶対者である。
 
 ■.2、対立がこのような直接態のうちにあって、有および無として言いあらわされている場合には、このような対立が空無なものだということは余りにも奇異に思われるので、人々は有を固定して、それが無へ移っていくのを防こうと試みるであろう。そしてそのために人々は、反省によって有を無からは区別するような確固とした規定を有のためにさがし出すことを思いつくにちがいない。例えば人々は有を、あらゆる変化のうちで恒存するもの、どんなにでも規定されうる質料、等々と考えたり、あるいはまた無反省に、手あたり次第の個別的存在--それが感覚的なものであろうと精神的なものであろうと--と考えたりする。しかしこのようなより進んだ、一層具体的な規定を有に与えれば、有はもはや論理学のはじめにおいて、全く媒介なしに存在しているような純粋な有ではなくなってしまう。有がこうした全くの無規定性のうちにあり、全く無規定であるからこそ、それは無なのであり、言いあらわしえないものなのであり、それと無との区別は単なる意向にすぎないのである。
 
 ▲、ヘーゲルは経験的な意識における有と無の分離を批判している。ヘーゲルにとっても、有と無を分離する意識を克服して有と無の同一性を理解することが、論理を理解するための第一の困難である。しかし、有と無の分離を批判するヘーゲルも有と無を分離している。
 純粋抽象としての同一性によって有と無の分離を批判するのは、有と無の分離の立場から分離を批判することを意味している。有と無の対立関係を否定するヘーゲルは、絶対的な抽象の無規定性の共通性が有と無が同一だと考えている。だから、抽象的な有と規定を持つ有の区別を知らない場合は有と無の同一性を理解できない、と考えている。つまり、有と無の同一性はヘーゲルの論理では絶対的抽象の始元においてのみ生まれる。実際には、有のすべての段階において有と無は同一性において対立している。抽象的な有と具体的な有の違いは、抽象的な無と具体的な無の違いと同じである。有の具体性は無の具体性だからである。
 
 有と無の対立は論理の基本原理である。一般に有と無は同一性において対立している。絶対的な抽象においても、具体的な規定を持つ段階においても有と無は同一であると同時に対立している。具体的な規定は有と無の同一性と対立によって形成される。有の具体的な規定とは無との具体的な対立である。有と無という絶対的抽象は、有と無の具体的な対立の基礎としての対立である。
 有と無は同一であり、有は無であり無は有である。有と無の同一性は有と無の共通性を意味するのではない。有は無との同一性において規定された有として存在する、という意味である。有の無は有の規定であり、無は有との同一性において規定として存在する。有と無は単独で存在することはない。有と無の分離は思惟による空虚な抽象である。有と無の分離は、有は有である、無は無である、という無意味な同語反覆である。絶対的抽象においては有と無が生じる。そして、有は無である、という対立物の統一を意味する規定が生まれる。これが運動の基本原理である。
 
 有と無の分離とは、無は有でないもの、有の外に有と別に非存在として存在するもの、有を取り去ると無が残り、有がなくなると無になる、有のないところが無である、と考えることである。これは存在に固執する経験的な意識である。存在だけがあると考え、無は存在しないと考え、無なしに存在があると考える意識である。しかし、実際は存在は無によってのみ存在する。
 有は無として、無は有としてのみ存在する。有は無の内的属性であり、無は有の内的属性である。有は無の、無は有の存在形式である。だから、有と無は分離できない。存在は有と無の対立において存在する。有と無は存在の内的構造であり存在の原理である。
 有と無を分離すれば、有も無もなくなる。有も無も単独では存在しない。有は無との同一において存在し、無は有との同一性において存在する。有は無との同一性において無になるのではなく、規定された有になる。有は規定されてのみ有であり、無は有の規定としてのみ無である。したがって、無規定性=絶対的抽象において同一となる有と無は存在しない。規定を持たない有、規定ではない無は無意味である点で同一である。論理的な哲学的な意味を持たない空虚な言葉に過ぎない。
 
 ■.3--大切なことはただ、これら二つの始原が右に述べたような空虚な抽象物以外の何ものでもないということ、そして両者のいずれも同じように空虚であるということを意識することである。有あるいは有無の両者のうちに確かな意味を見出そうとする衝動こそ、有と無とを進展させて、それらに真の、すなわち具体的な意味を与える必然性にほかならない。この進展が論理の展開であり、以下に述べられる思想の進行である。有および無にたいしてより深い諸規定を見出すところの追思惟は論理的思惟であり、この思惟によって諸規定は偶然的でなく、必然的な仕方で生み出されるのである。したがって有および無がこれから先に持つようになるさまざまの意味は、いずれも、絶対者のより立ち入った規定、より真実な定義にほかならない。それはもはや有や無のような空虚な抽象態ではなく、そのうちに有と無の両者をモメントとして持つ具体的なものである。
 
 ▲、ヘーゲルは哲学の始元を追求して、有と無の対立に到達した。しかし、この対立の意味を規定できないために、この両者が区別できなくなる無規定な抽象物にまで抽象を押し進めている。抽象から具体への上向を発展の原理としており、運動の原理へと移行できないヘーゲルの論理では、絶対的な出発点は絶対的な抽象であり、一者である。ヘーゲルにとって絶対者は無限者であり、内部に対立を持たない一者である。運動という絶対者ではなく、存在としての無限的な絶対的の規定はこのようになる。
 哲学の始元を有と無の抽象的同一性だと考える場合は、有と無は同じになり、有と無の対立、有と無の規定、一切の規定が消える。だから、ヘーゲルは有を規定できない。ヘーゲルは有の抽象性が真理であると主張して、この抽象にたどり着けないことが間違いだと言っている。しかし、この抽象にたどり着くのは経験的な意識に特有の間違いである。
 
 有と無の規定によって運動の規定に移行することができない場合は、単純な抽象によって絶対的な抽象に到達する。この場合は、絶対的な抽象から規定をもった具体的有に移行するために飛躍を必要とする。無規定から規定に踏み出す論理は存在しない。だから、絶対的抽象から具体への上向を論理の発展形式とする場合、抽象から具体への、無規定から規定への飛躍の原動力として、衝動や主体性や意志、といった非論理的な外的原因が必要となる。純粋抽象から一歩踏み出せば、あとは歴史的に蓄積された規定を即自的な論理の外化として体系化することができる。しかし、この論理の端緒において論理は破綻している。非論理的な第一撃を必要としている。絶対的な抽象ではなく、論理が展開できるための規定された始元を発見すべきである。
 哲学の始元である絶対的に抽象的な有と無の規定は経験諸科学との分岐点となる。ヘーゲル論理学の体系が自己運動によって生み出していく規定の体系は、存在の規定と運動の規定を区別しておらず、規定一般を含んでいる。換言すれば、論理は存在の規定の普遍である運動の規定にまで抽象化されていない。絶対的な学問としてのヘーゲルの哲学は、すべての存在のすべての普遍性を手当たり次第に体系化する学問である。すべての規定を生み出す始元はすべての規定を抽象した無規定の絶対抽象である。絶対抽象が始元になり、抽象と具体の対立が基本矛盾になると衝動が必要になる。衝動を必要とするのは、存在の規定と運動の規定の区別ができていない論理の一般的な特徴である。
 哲学の始元は哲学に特有の始元であり、規定を持った、論理を展開することができる特有の始元である。有と無の同一性と対立による必然的な論理の体系はカテゴリーの展開に限定される。カテゴリーの展開を可能にする特有の始元が哲学の始元である。それは有と無の対立である。
 
 ■.4、補遺 有と無との区別は、区別があるはずだという区別にすぎない。言いかえれば、両者の区別は即自的にすぎず、まだ定立されていない。区別と言うからには、そこには二つのものがあって、各々は他方にはない一つの規定を持たなければならない。ところが有は全く無規定のものにすぎず、無も同じである。したがって両者の区別は、あるはずだと考えられているにすぎないもの、全く抽象的な区別であって、同時になんら区別でないものである。その他すべての区別の場合には常に、区別されたものを自己の下に包括する一つの共通のものがある。例えば二つの異った類と言う場合には、類が両者に共通のものである。同様に、自然的存在と精神的存在があると言う場合には、存在が両者に共通のものである。これに反して有と無の場合には、これら二つの規定はいずれも同じように土台を持たないのであるから、その区別には土台がなく、したがってそれはなんら区別ではない。もし、有と無とはしかしどちらも思想であるから、思想が両者に共通なものではないか、と言う人があるとすれば、その人は、有は特殊な、規定された思想ではなく、全く無規定な、それゆえに無から区別することのできないような思想であることをみのがしているのである。
 
 ▲、ヘーゲルは哲学史の展開によって、有と無の同一性が真理であることを理解している。だから有と無の分離を論理的に克服しなければならないと考えている。ヘーゲルは有と無の同一性を強く主張しているが、有と無の同一性が何を意味するかを理解しておらず、規定していない。始元であり、絶対抽象である点で共通しており同じだと指摘しているにすぎない。それは有と無の共通の土台を見出せないからである。
 
 自然的存在と精神的存在という、存在のもっとも普遍的な規定では、存在が両者に共通している。すべての存在は存在としての共通の基盤を持っている。この共通の基盤である存在の規定をすべて否定しているのが純粋有と無である。
 純粋有と無には存在という共通する基盤がない。存在の基盤を失うことが両者の共通の基盤である。存在の基盤を失うことは運動の基盤への移行を意味している。存在の規定のすべてを否定した有と無は、運動という絶対者を共通の基盤として持つのであって、この共通の基盤において新たな規定を生み出す始元となる。それは、否定した存在の規定を再び生み出すのではない。存在の規定を否定した有と無の対立が即自的に含んでいるのは存在の否定であり存在の普遍である運動の規定である。
 抽象的な有は絶対的ではない。無を排除し、無を含まないからである。絶対者はすべてを含まなければならない。絶対抽象の世界では有と無しかない。だから、絶対者は有を含むだけでは有限であり、有と無を含むことにおいてのみ絶対的で全体的で無限的である。だから、絶対者は有と無の両者を含んでいる。絶対者は有と無の対立を含んだ同一性である。絶対者は運動である。(2011.05.22改稿)



 第八八節
 
 ■.1、無はこのように直接的なもの、自分自身に等しいものであるから、逆にまた有と同じものである。したがって有ならびに無の真理は両者の統一であり、この統一が成である。
 
 ▲、有と無とは直接的なものである、というのは、有と無が無規定である、という意味である。この点で有と無は同じであるから、有と無の真理は両者の統一であり、それが成、つまり運動である、とヘーゲルは成の段階でも同じ内容をくり返している。
 
 有と無の直接的対立とは、有と無の同一性が具体的な規定を作り出しておらず、有と無という規定以外に持たないことを意味している。だから、有と無は無規定において共通しているのではない。したがって、有と無の真理は両者の統一ではなく、両者の統一と対立である。
 有と無の具体的な対立とは、有と無が同一されて無が有の規定として有と対立することである。有と無の直接的対立とは、無がまだ有の規定という具体的な意味を持たずに有と対立しており、有は有としてのみ規定されている、という意味である。この段階では、有は対立物である無によって有として規定されており、無は対立物である有によって無として規定されている。これが絶対抽象であって両者が無規定になるのではない。
 
 ■.2、・・例えば人々は、右の命題にしたがえば、私の家、私の財産、呼吸する空気、この町、太陽、法律、神、精神などというものも、あるもないも同じことになってしまうと言う。これらの実例の前半においては、当面の問題が特殊な目的、すなわち或るものが私にたいして持っている効用とすりかえられ、そして有用な物があってもなくても、私にはどうでもいいのかという質問がなされている。・・・。つまり、内容を持った区別が、有および無という空虚な区別とすりかえられるのである。・・・一般に無思想な人が具体的なものを有および無とすりかえる場合には、無思想の人の常として、問題になっている事柄とは全く別のことを思い浮べ、そしてそれについて語るものであるが、ここで問題になっているのは単に抽象的な有および無にすぎないのである。
 
 ▲、ヘーゲルの論理学では、有と無は純粋有と無の関係においてのみ同一である。ヘーゲルにとっても、具体的な有になった段階では、有と無は違うことになる。そのためにここでも、抽象と具体の違いを強調している。
 
 有と無の同一性は、家が有っても無くても同じだ、という意味ではない。また、有と無は純粋有と無の関係においてだけ同一である、という意味でもない。純粋有においても具体的な有においても有と無は同一である。有は存在一般を意味しており、無は有の規定一般を意味している。
 
 存在の規定を抽象して純粋有と無の対立に到達すると、有と無の対立が表に出て同一性は運動の規定である土台へと後退する。具体的な存在では有と無の同一性ははっきりしている。
 家は、家という規定された状態における有である。有と無の同一性とは、有が規定される、という意味である。規定とは有と同一化する段階における無の形態である。具体的存在の具体とは規定された有という意味である。
 有と無の対立関係が変化することが規定の変化である。家は、有と無の具体的な同一形式として家ある。存在の規定は一般に存在の形態、存在の状態を意味しており、厳密に言えば存在の規定は存在の運動の規定である。存在の具体的な規定を有と無の対立にまで抽象すると、存在の状態即ち運動の一般的規定に到達する。これが成である。
 
 有と無の同一は、有が否定されて無になる、あるいは無くなる=消滅する、ことを意味するのではない。有は有であり無は無であり、有と無は同一化において家になる。有が無と同一化されると規定された有、具体的な有になる。これが有と無の同一性である。
 
 ■.3、・・誰でも成の表象を持っており、また成が単一の表象であることを認めるであろう。更に、その表象を分析してみれば、それが有という規定のみならず、その正反対の無という規定をも含んでいることを認めるであろう。そして更に、この二つの規定が成という単一の表象のうちにあって不可分であること、したがって成は有と無との統一であることを認めるであろう。--同様に手近な例ははじめである。はじめにおいては事柄はまだ存在していない。しかし、はじめは単に事柄の無にすぎないものではなく、そのうちには有もまた存在している。はじめもそれ自身また成であるが、ただ、はじめと言えば、すでに一層の進展が顧慮されている。--もしわれわれが、諸科学が採用しているようなもっと普通の方法に従ってもよいのなら、純粋に思惟されたはじめの表象、すなわちはじめそのものの表象をもって論理学をはじめ、そしてこの表象を分析することもできよう。すれば人々はもっと容易に、有および無が一つのもののうちに不可分のものとしてあらわれていることを、この分析の結果として認めるであろう。
 
 ▲、経験的な意識は、すべての存在が生成し消滅することを知っている。この現象を論理的に規定すると、有と無の同一であり、成である。ヘーゲルは、成をこの生成消滅の一般的規定とした上で、有と無の同一性をここでも「はじめ」という実例において示している。有と無の同一性を始元においてのみ認めるのは経験的な意識である。ヘーゲルは存在一般を運動として、つまり有と無の同一として規定することができない。
 
 ヘーゲルは、家は有である、そして、家が無い状態が無である、と考えている。これは存在に固執する経験的な意識である。論理学は存在を運動として規定する。論理学にとって家は運動状態であり、運動の一形態である。家は成の具体である。家でない状態の存在が家になり、家でなくなる。このとき、存在はそれぞれの段階での無と同一である。存在のすべては成であり、したがって、存在のすべてにおいて有と無は同一である。
 
 ■.4、・・成は有および無の成果の真の表現であり、両者の統一である。しかしそれは有および無の単なる統一ではなく、自己のうちにおける動揺である。言いかえれば、単なる自己関係として運動を持たぬ統一ではなく、自己のうちにある有および無という差別によって、自己のうちで自分自身に対立しているような統一である。--定有はこれに反して自己のうちに動揺を持たぬ統一、あるいはそうした統一形式のうちにある成である。定有はそれゆえに一面的であり有限である。対立は消滅したように見え、それは統一のうちに即自的にのみ含まれていて、統一のうちに定立されていない。
 
 ▲、ヘーゲルは現実の個別存在を定有だと考えており、定有と成を対立的に捉えている。ここにはヘーゲルの複雑な混乱がある。
 ヘーゲルが定有において有と無の対立が消滅していると考えるのは、定有を無と分離した有と考えており、定有を運動において規定できないからである。定有は本来は本質の領域に属する規定であり、有の領域と違った複雑な運動形式を持っている。本質との対立や他の定有との対立である。定有は単純な有として存在するのではなく、本質の領域の複雑な運動において形成されるから、それ自体複雑な運動形式の規定である。ヘーゲルは経験的な意識によって論理体系を構成しているために、定有が本質の領域ではなく、有の領域に出てくる。ヘーゲルの定有の規定も運動の規定も混乱している。
 ヘーゲルの混乱のもう一つの理由は、有と無の対立の独特の形式の無理解による。成は有と無の同一であり、運動の一般的原理である。運動の一般原理と具体的な運動形式の違いは本質の領域に現れる。具体的な運動形式においては、有と無の対立は、有は静止を無は変化・運動を意味する対立となる。具体的運動は一般に静止と運動の対立関係という形式をとる。ヘーゲルは具体的な存在のこの対立形式を対立の消滅と考えている。だから始元だけに成を認めることになる。
 
 ■.5、有は無への移行であり、無は有への移行であるという命題、すなわち成の命題には、無からは何も生ぜず、或るものは或るものからのみ生ずるという命題、すなわち質料の永遠性の命題、汎神論の命題が対立している。古代人は簡単に、或るものは或るものから生じ、無から生じるものは無であるという命題は、事実成を不可能にしている、と考えた。というのは、この命題によれば、或るものがそこから生じてくるものと、生じてくる或るものとは全く同じものだからである。ここに見出されるものは抽象的な悟性的同一の命題にすぎない。
 
 ▲、有一般を、もともとあったものが表に出てきたものである、とするのは運動の否定である。また、有が消滅して無になること、あるいは無から有が生ずること、という意味で有と無が相互に移行するというのも運動の否定である。運動においては有も無も消滅することはない。有と無の同一性は、変化、運動を意味している。変化、運動は生成ではないし消滅でもない。
 
 ヘーゲルは、個別存在の永遠性の命題を克服するために即自というカテゴリーを作り出した。即自は存在を含んでいるのではなく、存在の概念を契機として含んでいて、それが外化したものが存在である、と考えた。これが存在の永遠性を運動の体系に変えるヘーゲルの体系であり、ここにヘーゲルの独自の運動の規定が現れる。存在は概念の外化であるから、概念の契機と存在が対立関係にある。そのために、有と無の対立を基本原理として規定することができなかった。
 有と無の同一とは、存在の運動の基本原理である。或るものは或るものから生ずる。或るものが変化して他の或る物になる、それが成である。概念が存在になるのではない。
 
 存在の運動とは一般的に言えば有が無と同一化することであるが、具体的な運動を論理的に言えば、有ではなく無がなくなることである。有の無がなくなって別の無になることが運動であり成である。有が無になるのではなく、無が新しい無になることによって有は新しい有になり、新しい或るものが形成される。無が別の無になることが運動であり、したがって無が運動である。この無の運動において有は静止しており、その上で無の変化において有は変化する。この有の変化もまた無の変化である。具体的な運動においては、有は無との対立においては静止を意味している。
 
 ■.6、補遺 ・・・成は最初の具体的な思惟規定であるから、同時に最初の真実な思惟規定である。哲学の歴史において論理的理念のこの段階に対応するものは、ヘラクレイトスの体系である。ヘラクレイトスが「すべては流れる」と言うとき、これによって成があらゆる存在の根本規定であることが言いあらわされている。これに反して、上述のごとく、エレア学派は、有、過程のない不動の有を唯一の真実なものと考えた。エレア学派の原理に連関してヘラクレイトスはさらに「有は非有以上に存在しない」と言っているが、この言葉は抽象的な有の否定性を言いあらわしているとともに、抽象的な有と、抽象的であるために有と同様に不安定な無との同一を言いあらわしている。
 
 ▲、ヘーゲルは有と無を分離したパルメニデスを哲学史の始まりとしている。それは絶対抽象である純粋有を思惟規定として取り出したからである。「有だけが存在する。非有は存在しない。」としたパルメニデスは有と無の分離によって運動を否定した。有と無を分離して、無を否定して有だけを絶対者とすると、運動の原理が失われる。存在を絶対的に肯定する原理を徹底することによって、有と無の同一性と、有と無の同一性が意味する運動を否定したことがパルメニデスの偉大な成果である。運動を思惟規定において明確に否定することが運動の規定の出発点である。
 
 具体的な思惟規定はヘラクレイトスの規定からはじまる。具体的な規定とは有と無の同一である。哲学史で言えば、純粋有の段階がパルメニデスであり、成の段階がヘラクレイトスである。成は運動の規定であり、成の規定は有と無の同一である。ヘラクレイトスは、生成=運動を存在の根本規定とした。そして、エレア派が明確に区別し分離した有と無を同一とした。
 しかし、厳密に言えば、運動の一般的な原理である成がギリシャ時代に理解される可能性はなかった。ヘーゲルもヘラクレイトスも運動を、存在の運動と考えている。
 論理学における運動は存在の運動を意味するのではない。論理学は存在の運動を規定するのではなくて、存在を運動として規定する。ヘラクレイトスがいう、万物は流転する、同じ流れに入ることはできない、という規定は万物という存在の運動を意味している。万物は運動している、静止しているものはない、という意味で運動を理解した上で、存在の運動の原理は成であり、有と無の同一である、とする場合は、厳密には運動の規定ではない。
 論理は、存在の運動を規定するのではなく、存在を運動として規定する。或る質が他の質へと変化する過程が運動である。万物は変化している、という意味の運動も存在の運動として規定されるが、ヘラクレイトスもヘーゲルもそれを規定しているのではない。或る存在=或る物の運動は、まず或る物は或る質として規定され、或る質の内的変化は量の運動として規定される。例えば、物質の場所移動は、移動という運動を意味するのではない。場所移動の規定とは、空間という存在を量的な運動として規定することである。
 これまでに量のカテゴリーは明確に規定されたことがない。そのために質の運動と量の運動の区別ができておらず、したがってまた運動の一般的規定と質の規定と量の規定の区別ができていない。つまり、運動の規定は厳密に規定されていない。この混乱が有と無の同一性の規定の混乱である。



 第八九節
 
 ■.1、成のうちにある、無と同一のものとしての有、および有と同一のものとしての無は、消滅するものにすぎない。成は自己内の矛盾によってくずれ、有と無が揚棄されている統一となる。かくしてその成果は定有である。
 ・・一般に、矛盾、すなわち対立する二つの規定が指摘されえないような、また指摘されずにすませるようなものは一つもないのであって、悟性の抽象的態度は、一つの規定だけを無理に固執し、その規定のうちに含まれているもう一つの規定の意識を曇らせ遠ざけようとする努力であるが、人々は普通、対象や概念のうちにこのような矛盾を発見し認識すると、そこから、「ゆえにこの対象は無である」という結論をくだす。かくして運動が矛盾であることを最初に指摘したゼノンは、「ゆえに運動は存在しない」と言っており、また、成の二種類である発生と消滅とが真実の規定でないことを認識した古代の人々は、そのことを、一者すなわち絶対者は発生もせず消滅もしないという言葉で言いあらわしている。このようにこの弁証法は成果の否定的な側面にのみ立ちどまって、同時にその現存しているもの、特定の成果を見落すのである。ここで言えば、それは、無そのものではあるが、有を自己のうちに含んでいる無であり、同様に無を自己のうちに含んでいる有である。
 
 ▲、ヘーゲルは「一般に、矛盾、すなわち対立する二つの規定が指摘されえないような、また指摘されずにすませるようなものは一つもない」としている。しかし、このことをすべての存在において指摘することはヘーゲルにもできていない。この指摘からすると、成も定有も、一般に存在するものはすべて有と無の同一である。ところが、ヘーゲルは定有において無が消滅するとしている。実際は定有において無が消滅することはないし、一般に有も無も消滅することはない。すべての存在は有と無の対立と同一である。
 
 すべての存在は矛盾を内包している。対象の矛盾が対象の真理である。対象を矛盾において捉えるとは対象を運動において捉えることである。存在の基本矛盾は有と無の対立である。有と無の対立と同一は運動の基本原理である。
 
 悟性は矛盾する二つの規定のうちの一つの規定に固執する。悟性的な認識を徹底すると、対立する他の規定を否定することになる。あるいは、対象に矛盾を発見した場合、対象を否定して対象を無であるとすることになる。
 運動が矛盾であることを発見したゼノンは運動を否定した。すべての存在が生成と消滅のうちにあることは表象にとっては明らかである。生成と消滅を思惟によって規定すると有と無の矛盾になる。矛盾を真理として認めない論理を徹底すると、経験的な意識と対立して運動を否定することになる。運動を否定すると、運動の対立物として生成も消滅も変化もしない絶対者=一者が思惟規定として生まれる。
 絶対者は、一者=無矛盾者であるか、運動=矛盾であるかのどちらかである。ヘーゲルは絶対者を運動として規定することによって近代哲学に弁証法を復活させた。しかし、有と無の対立と同一性を成において一般的原理として認めているだけである。下位のカテゴリーにおいては無が消滅している。
 
 ■.2、かくして(1) 定有はそのうちで有および無の直接性が消滅し、関係によって両者の矛盾が消滅しているような、有と無の統一、そのうちで両者がモメントであるにすぎないような統一である。(2) この成果は揚棄された矛盾であるから、それは自己との単純な統一という形式のうちにあり、言いかえれば、それ自身一つの有、と言っても否定性あるいは限定性を持つ有である。それは、成のモメントの一つである有の形式のうちに定立されている成である。
 
 ▲、ヘーゲルは定有において無が消滅しており、したがって運動が消滅していると考えている。ヘーゲルの定有は悟性的な規定である。有と無の対立はモメントとして即自存在になり、矛盾は揚棄されて結局自己との単純な統一という形式になっている。自己との単純な統一とは、矛盾を排除した一者である。ヘーゲルはここでゼノンの規定に逆戻りしている。
 ヘーゲルの定有は限界、つまり無を持っている。その無は有の外にあり有と外的関係を形成している。ヘーゲルの定有は現実の個別存在を経験的な意識において規定したものである。つまり、定有を運動としてではなく、存在として規定している。
 
 ■.3、補遺 ・・したがって成は全く休止を知らぬものである。しかしそれはこのような抽象的な無休止のうちに自己を維持することはできない。なぜなら、有と無とは成のうちで消失し、そしてこのことがまさに成の概念なのであるから、成は、材料を焼きつくすことによってそれ自身も消える火のように、それ自身消失するものであるからである。しかしこの過程の結果は空虚な無ではなく、否定と同一の有である。このような有をわれわれは定有と呼ぶ。そしてそのまず明かにされた意味は、それが成ったものだということである。
 
 ▲、成は運動である。ヘーゲルは運動=成が消失して存在=定有になると考えている。ヘーゲルの論理では運動と存在が対立しており、カテゴリーは運動から存在へと移行している。成ったもの、というのは運動が存在に移行したもの、という意味である。
 正しくは、成は運動の一般原理であり、存在の具体的な規定は運動の具体的規定である。定有もまた運動形態である。


 
第九〇節
 
 ■.1、(イ) 定有とは、直接的な、あるいは有的な規定性--すなわち質--としてあるような規定性を持つ有である。このような自己の規定性のうちで自己のうちへ反省したものとしての定有が、「定有するもの」、「あるもの」である。
 
 ▲、成は運動の一般原理である。成によって形成される有と無の具体的な同一の最初の形態が質である。ヘーゲルは現実の個別存在を定有と考え、質の存在形式であると考えている。有の領域で個別存在は形成されていない。現実の個別存在は、カテゴリーとしては本質の領域の現象に相等する。
 
 現実の個別存在の並列を意味するヘーゲルの定有は「或るもの」と「他のもの」に分離する。「或るもの」と「他のもの」は、経験的な意識をカテゴリー形式に仕立てているだけである。定有はカテゴリーとしては必要ない。
 
 ■.2、補遺 質は有と同一な、直接的な規定性であって、この点で、質の次に考察される量とはちがう。量も同じく有の規定性であるが、しかしそれはもはや有と直接に同一な規定性ではなく、有にたいして無関心な、有に外的な規定性である。--或るものが現にあるところのものであるのは、その質によってであり、或るものがその質を失うとき、それは現にあるものでなくなる。更に質は本質的にただ有限なもののカテゴリーであり、それゆえにまた精神の世界ではなくて自然のうちにのみ、その本来の場所を持っている。かくして例えば自然において、酸素、窒素、等々、いわゆる単純物質は現存する質と考えられる。
 
 ▲、ヘーゲルは質を複雑な構造や変化を持たない単純態と考えている。質はカテゴリーとして規定されていない。
 実際は、酸素も窒素も、すべての存在は内的に複雑な構造を持っている。どんな複雑な構造物でも質である。現実的存在の単純態はカテゴリーとしての質を意味するものではない。
 カテゴリーとしての質は量との対立においてのみ規定される。論理学的な質は、ある存在の質を意味するのではなく、存在を質として規定することであり、それは有と無の最初の同一という以上の意味を持たない。
 質は、有と無の同一としての具体的運動の第一の形態である。質は規定を持つ最も単純な有である。質の内的運動が量である。量は、有と対立する最も単純な最初の無=規定である。質と量の内的な対立関係は、質が有であり量が無である。
 
 ヘーゲルは質をカテゴリーとして規定しておらず、実例によって説明している。ヘーゲルの経験的な意識による叙述は分かりやすいが論理的ではない。ヘーゲルに限らないが論理を説明できない場合に実例に頼ることは多い。だから、こうした実例を分かりやすいと感じることは、論理を理解できていないことであることを知っておくことも、論理を理解するためには必要なことである。
 (2011.05.30改稿)


 
第九一節
 
 ■.1、質は、有るところの規定性としては--これは、質のうちに含まれてはいるが質から区別されている否定性に対峙するものであるが--実在性である。否定性はもはや抽象的な無ではなく、一つの定有および或るものとして、或るものの形式にすぎない。すなわち、それは他在としてある。この他在は質そのものの規定であるけれども、最初は質から区別されているから、質は向他有であり、これが定有、或るものの幅をなしている。このような他者への関係に対して、質の有そのものは即自有である。
 
 ▲、この文章は複雑に見えるが、経験的な単純な内容を複雑な形式にしているだけである。簡単にすれば次のような内容である。
 質は実在する定有である。定有と定有が併存する実在世界では、ある定有と他の定有が否定的な対立関係にある。有が定有の形式をとる場合、無は他の定有となる。
 向他有とは定有が他の定有と関係する側面である。定有の中で他の定有と関係しない側面は即自有となり、定有の内部で向他有と即自有の対立が生れる。
 単純な定有は、まず他のものとの対立を含むと或るものとなり、或るものが他のものとの関係を内化すると、向他有と即自有の対立を生み出す。
 ヘーゲルは経験的な意識をカテゴリー形式で記述しているだけで、カテゴリーの内容を規定しているわけではない。そのためにカテゴリーの展開として読むと分かりにくいが、経験的な意識の叙述として読むと分かりやすくなる。分かりやすくても論理的な意味は持たない。
 
 ■.2、補遺 あらゆる規定性の基礎は否定である(スピノザが言っているように、あらゆる規定は否定である。無思想な観察者は、規定された事物を単に肯定的なものとのみ見、そしてそれを有の形式のもとに固持する。しかし単なる有で万事が終るのではない。というのは、有は、先に述べたように、全く空虚であると同時に不安定なものだからである。なお、右に述べたような、規定された有としての定有と抽象的な有との混同には正しい点もある。すなわち、定有のうちには否定のモメントが含まれているにはちがいないが、それは最初は言わばおおわれたものとして含まれているにすぎず、それが自由にあらわれ出て正当な権利に達するのは向自有においてである。
 
 ▲、ヘーゲルはスピノザの命題を悪用ないし誤用している。ヘーゲルは、定有の段階での有と無の対立を或るものと他のものの対立としており、無は定有の外にある。しかし、質の段階では他の質は存在しない。有と無は質の内部にあるものとして規定しなければならない。規定された第一の有は質である。この質を否定し規定するのは量である。
 
 或るものを有として、他のものを無(=否定=規定)として、有と無を分離すると、無を有との関係に引き戻すために向他有というカテゴリーが必要になる。この関係を規定することはできないから、関係を持つと断定されている。それが或るもの内部で定立される向自有もカテゴリーとしての内容を持たない。これらの用語が単純な経験的意識をカテゴリー化しているだけであることが次の記述でわかる。
 
 ■.2、更に、定有を有るところの規定性と見れば、われわれは定有において、人々が実在性という言葉のもとに理解しているものを持つ。人々は例えば、或る計画や意図の実在性という言葉を用い、それによって、それらがもはや単に内的なもの、主観的なものではなく、定有のうちへあらわれ出ていることを意味させている。同じ意味でまた、肉体を魂の実在性、法律を自由の実在性と呼ぶことができるし、全く一般的には、世界を神的概念の実在性と呼ぶことができる。しかし実在性という言葉はよくまたもう一つの意味、すなわち、或るものがその本質的な規定すなわち概念にかなっているという意味に用いられている。例えば、・・(これは堅実な職業だ)とか、・・(かれは信頼できる人間だ)とか言う場合がそうである。この場合問題になっているのは、直接的な、外的な定有ではなくて、むしろ定有するものとその概念との一致である。しかし、実在性という言葉がこのように解される場合には、それはもはや、その最初の姿が向自有においてみられるところの観念性と区別されない。
 
 ▲、ヘーゲルは定有を実在性として理解している。ヘーゲルの論理では、実在性は概念の外化である。この観点からすると、定有は規定された実在である。
 ヘーゲルの経験的な意識からすると、定有は現実の個別存在であり、定有と定有は併存して相互に関係している。これが或るものと他のものの対立である。
 第二に、定有は概念の外化であるから、定有には定有と定有の対立の外に、実在と概念の対立が含まれている。定有の規定が概念と一致するときは、定有は実在性であると同時に観念性である。これらの規定は二つとも間違いである。
 
 論理学は有と無の対立を基本原理としている。それは、論理学が物質と精神を含む存在の全体を運動態として規定することを意味している。だから、実在性と観念性の対立は論理学の基本対立ではない。ヘーゲルは論理学にこの対立を持ち込むことによって、多くの混乱を持ち込んでいる。
 精神を持つ人間の運動は概念論において規定される。社会法則を問題にする場合にはじめて、意識を持つ人間の実践活動がカテゴリーの内容になる。
 (2011.05.31改稿)


 
第九二節
 
 ■.1、(ロ) あくまで規定性とは異るものと考えられた有、すなわち即自有は、有の空虚な抽象にすぎない。定有においては規定性は有と一体をなしており、この規定性が同時に否定として定立される場合、それが限界、制限である。したがって他在は定有の外にあって定有と無関係なものではなく、定有そのもののモメントである。或るものはその質によって第一に有限であり、第二に可変的であって、或るものの有には有限性と可変性とが属する。
 
 ▲、規定性と異なるものと考えられた有とは純粋有である。だから即自有は必要ない。
 定有における無が限界である、というのは経験的な意識である。論理的には限界はこのようなものとして存在するのではない。
 有限性と可変性は存在一般の属性である。有限性と可変性は存在の運動を意味している。だから、有限性と可変性は定有の属性ではない。
 「他在は定有の外にあって定有と無関係なものではなく、定有そのもののモメントである。」というのは、定有が他の定有と関係している、という意味である。カテゴリーとしては無意味である。
 
 ■.2、補遺 定有においては否定性はまだ有と直接的に同一であり、そしてこのような否定性こそ、われわれが限界と呼ぶものである。或るものは、その限界内においてのみ、また限界によってのみ、現にそれがあるようなものである。したがって限界は、定有に単に外的なものと考えらるべきではなく、それは定有全体を貫いているのである。限界を定有の単なる外的規定と考えるのは、量的限界と質的限界との混同にもとづいている。ここでわれわれが問題としているのはまず質的限界である。例えば三モルゲンの土地を考えれば、これは土地の量的限界である。しかしさらにこの土地は牧場であって森あるいは池ではない。これが土地の質的限界である。--人間は、現実的に存在しようとするかぎり、定有しなければならない。そしてこの目的のために自己を制限しなければならない。有限なものをあまりに嫌悪する人は、少しも現実に到達することなく、抽象的なもののうちにとどまって、自分自身のうちで消えてしまう。
 
 ▲、限界とは何か。
 ヘーゲルはここでも、限界は外的なものと考えられるべきではない、と注意している。ヘーゲルの規定では限界は外的になるからである。
 論理的には、或るものは限界によってのみ現にそれがあるようなものである、のではない。或るものは運動によって限界を作り出す、というのが論理的な規定である。或るものは限界において或るものでなくなる、それは或るもの自身が他のものに変化する点である。他のものが或るものの限界になるのではない。或るものが限界を作り出すというのが限界の内的な規定である。ヘーゲルは或る物と他のものが関係する場合、内的な影響をも持っている、と言っているに過ぎない。
 
 個別存在を意味する定有のカテゴリーでは、限界は質の直接的な否定性=規定性となる。定有は一つの質として規定されており、質の規定において限界を持つのであり、限界において他の質と異なる。経験的な意識をそのままカテゴリーにするとこのように見える。
 実際はカテゴリーとして定有は存在しない。有と無の同一の最初のカテゴリーは質である。質が自己運動によってが質でなくなり、否定される点が限界である。質は質自身の量的な否定=運動によって限界に達して本質と現象を作り出す。質は量と対立し量によって否定されるのであって、他の質によって規定され、あるいは否定されるのではない。
 
 ヘーゲルは現実の個別存在=定有を質と考えている。定有の併存を前提すると、或るものの質的な限界は他のものである。或る土地が牧場であることの限界は、森でない、池でない、という実例になり、牧場という存在=有の無は森であり池である。
 限界はこのようなものではない。第一に、牧場の否定性としての他のものは無限である。牧場に対立する他のものは、森や池だけでなく、無人島も猫も杓子も木星もそうである。牧場でない存在すべてが、牧場に対する他のものである。だから、他のものによって或るものの質を規定することはできない。
 第二に、牧場の否定=限界として森が存在するためには、森は牧場と違う質として定立されていなければならない。つまり、森が牧場の規定=限界であるには、森の限界の定立を前提することになる。森が規定=限界を持たなければ牧場の限界にならない。だから、或るものの限界が他のものである、というのは、或るものの限界の定立を他のものに押しやっただけであって、この関係では限界というカテゴリーは定立することはできない。
 第三に、ヘーゲルの牧場に対する森や池の実例は、無人島でも猫でも杓子でも木星でもなく、牧場に接している特有の他のものを選択している。ヘーゲルはこの特有の他のものを、突然に経験的に実例として持ち出しているのであって、質の矛盾の自己展開として導き出しているのではない。
 ヘーゲルは現実の個別存在を前提としてそれを定有としてカテゴリー化している。そのために、限界も前提として出てくる。カテゴリーとしては、質が限界によって作り出されるのではなく、質の運動が限界を作り出す、というのが正しい順序である。
 
 定有を前提とする限界は、現実に併存するものは、互いに制限しあい、否定しあっている、ということを意味するだけである。この単純な事実を基にしたヘーゲルの教訓はもっともそうであるが結局大した内容ではない。限界は他との関係であり、自己を超えることを意味しているから、ヘーゲルの教訓には、逆の教訓が同等の意義を持って成立する。
 人間が現実的な目的を実現するためには、狭い自己に止まっていてはならない。人は常に自己の限界を超え続けなければ、何事もなすことはできない。ゲーテのように多くを成す事ができる場合には、現実的な時間的な制限があるために、やるべきことを選択しなければならない。しかし、選択の前に自分の限界を超えなければならないのであって、ゲーテのような天才こそは自分の限界を超え続けて偉大な自己になったということができる。
 ヘーゲルの論理学でもっともそうな教訓が出てくるときは、論理の展開がうまくいっていないときが多いというのも大事な教訓である。
 
 ■.3、さらに限界というものを立ちいって考察してみると、限界はそのうちに矛盾を含み、したがって弁証法的であることがわかる。限界は一方では定有の実在性をなし、他方ではその否定性である。しかし更に、或るものの否定性としての限界は、抽象的な無一般ではなく、存在している無、言いかえれば、われわれが他のものと呼んでいるものである。或るものと言えば、われわれはすぐに他のものを思いつく。そしてわれわれは、或るものだけでなく、他のものもまた存在することを知っている。しかし他のものとは単にそうしたものではない。或るものは、他のものなしにも考えられるというようなものではなく、或るものは即自的にそれ自身の他者であり、或るものの限界は他のものにおいて客観的となるのである。
 
 ▲、これは、定有というカテゴリーを作り出したための余計な説明である。弁証法ではなく屁理屈である。弁証法は限界というカテゴリーを自己展開として生み出す。ヘーゲルは限界を前提としているから弁証法はありえない。
 「或るものの否定性としての限界は、抽象的な無一般ではなく、存在している無」という説明は、ヘーゲルが有と無の対立をどのように理解しているかを示している。ヘーゲルによれば、或るものが有であると他のものが無である。他のものが無であるから、抽象的な無ではなく存在する無であり具体的な無である。そして他のものが有である場合は、或るものが存在する無である。
 これではまるっきり論理ではない。論理はこのような関係を形成しない。この段階のカテゴリーは質である。質の無は量である。このことについては後述する。
 

  
第九三節
 
 ■.或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。かくして限りなく続いていく。
 
 ▲、この「したがって」は言葉の遊びである。ヘーゲルは、或るものと他のものの併存を前提しているから、或るものと他のものは同一であり、したがって或るものから他のものへの変化は、単純なくり返しになる。現象の相互作用のことである。
 或るものが他のものになるのではなく、質が本質を生み出し、本質の領域で多様な質の関係を生み出すのが論理の発展形式である。論理は新しい運動形態、諸関係を無限に生み出していくのであって、或るものと他のものの相関を限りなく続けるのではない。
 (2011.06.01改稿)


 
第九四節
 
 ■.1、この無限は悪しきあるいは否定的な無限である。というのは、それは有限なものの否定にほかならないのに、有限なものは相変らず再び生じ、したがって相変らず揚棄されていないからである。別な言葉で言えば、その無限は有限なものの揚棄さるべきことを言いあらわしているにすぎない。この果しない進行は、有限なものが含んでいる矛盾、すなわち有限なものは或るものであるとともに、またその他者であるという矛盾を言いあらわすにとどまる。それは、相互に誘致しあう二つの規定の果しない交替である。
 
 ▲、ヘーゲルは果てしない進行をくり返す変化を悪無限として否定的に評価している。この単純な無限進行は、ヘーゲルが或るものと他のものの関係を純粋有と無と同じ同一性に解消しているために生れた。この無限性は、有限者は変化するものである、という単純な一般性であり、成の規定と同じである。有限と変化は同じ意味である。
 有限と変化は同じ意味である。無限において有限が消える事はないから、この点を悪無限として否定するのは間違いである。無限者とは運動である。存在=有限者は運動の現象形態である。
 
 ヘーゲルが指摘している悪無限は、質的変化を伴わない変化を意味しており、したがってそれは質的同一性の内部でおこる変化、つまり量的な変化である。量的変化が同じ事の繰り返しになるのは当然である。それが量の基本的特徴である。ヘーゲルは量のカテゴリーを扱っていることを理解していない。それは量のカテゴリーの意味を理解していないからである。
 量的な無限性を悪無限とする場合は、真の無限は質の変化である。ヘーゲルは無限を規定できていない。そのために、有の領域にカントおよびフィヒテの哲学の倫理の問題を持ち込んでいる。無限は量的無限と質的無限の二つの形態を規定すればよい。悪無限も真の無限も当為も、それについてのヘーゲルの規定もカテゴリーとしては必要ない。


 
第九五節
 
 ■.1、有限と無限との対立を克服しがたいものとする二元論は、次のような簡単なことをみのがしているのである。すなわち、このようにすれば、無限は二つのもののうちの一つにすぎなくなり、したがって無限なものは一つの特殊なものとされ、それに対して有限なものがもう一つの特殊をなしている、ということである。一つの特殊なものにすぎないような無限、有限とならんで存在し、したがって有限なものにその制限、限界を持っているような無限は、本物でない。それは無限ではなくて、有限にすぎない。--有限なものはここに、無限なものはかしこに、前者は此岸に、後者は彼岸におかれているというような関係においては、有限なものは無限なものと同等の存立と独立を持ち、有限なものの存在は絶対的な存在となっている。
 
 ▲、有限と無限は切り離されると、それぞれが対立物に転化する。無限は有限と切り離されると有限によって制限されることになり、有限になる。有限が無限と切り離され独立すると絶対的な存在になる。
 有限とは限界をもつことであり、それは変化することである。したがって、有限と無限の分離とは、存在と運動を分離することである。存在は有限で変化しており、存在の普遍である運動は無限である。有限と無限の統一は存在と運動の同一である。
 ヘーゲルは論理学の内容が運動の原理であることを理解していない。そのために、有限と無限の分離を批判することはできても、有限と無限の同一を規定することはできない。存在と運動の関係以外のさまざまの方法による統一を試みている。
 
 ■.2、向自有において観念性という規定がはいってくる。定有は、まずその有あるいは肯定の方面からのみとらえられた場合、実在性を持っているから(九一節)、したがって有限性もまた最初は実在性の規定のうちにある。しかし有限者の真理はむしろその観念性にあるのである。有限なものと並存させられ、それ自身二つの有限なもののうちの一つにすぎない悟性の無限もまた、同様に真実でないものであり、考えられただけのものである。有限者の観念性は哲学の主要命題であり、したがってあらゆる真の哲学は観念論である。
 
 ▲、これは客観的観念論の立場における有限と無限の関係である。ヘーゲルの論理では、有は存在であり有限者である。有の否定者である普遍、つまり無限者が観念性である。有限と無限の関係は存在と観念の関係になる。
 
 ヘーゲルは、客観的な自然的世界が有限的な変化の世界であり、その背後に絶対的な無限的精神が存在していると考えている。この絶対的精神の内容が論理学である。したがって、絶対精神が自己を実在世界へと外化し定立することが有限と無限の統一である。これは、客観的世界を主観が認識することを意味している。このためにヘーゲルの論理学は認識論になる。しかし、論理学は認識論ではない。有限と無限は客観的に同一である。
 (2011.06.03改稿)



 
第九六節
 
 ■.補遺・・向自有の最も手近な例は自我である。われわれは、定有するものとして、自分がまず他の定有するものから区別され、そしてそれに関係していることを知っている。しかしわれわれは更に、定有のこの拡がりが、言わば尖らされて向自有という単純な形式となることを知っている。我と言うとき、それは無限であると同時に否定的な自己関係の表現である。人間は自己を我として知ることによって動物から、したがって、また自然一般から区別される、と言うことができる。自然の事物は自由な向自有に達せず、定有に限局されたものとして常に、「他のものへ向っている有」にすぎないのである。
 
 ▲、ヘーゲルは個別存在を定有としてカテゴリー化している。定有は或るものと他のものの外的関係において相互に規定されている。この規定性を自己内に取り返して自己内関係としたものが向自有である。
 向自有は、他のものによって規定=否定されているのではなく、自己自身との関係において、自己否定において規定されている。これがヘーゲルの言う真の無限である。或るものとしての定有が他のものに関係し変化する場合悪無限となる。定有が他の定有との関係を内化して、観念性が実在性を支配するに至ることが定有の質の完成であり、真の無限性への到達である。これが動物と人間の違いである。
 この節の内容は平凡な経験的意識を難しげに構成しているだけで、論理的な意味はない。向自有は定有とともに生じた余計なカテゴリーである。
 ヘーゲルの絶対的観念論は物質の背後に実体として精神を想定している。そのためにヘーゲル論理学では実在性と観念性の対立がくり返し出てくるが、それは絶対的観念論に特有の関係であるからカテゴリーとしての意味はない。
 論理学の基本的な対立は、物質と精神ではなく存在と運動である。物質も精神も存在である。存在を運動として規定するのが論理学であるから、物質と精神の対立関係は問題にならない。概念論における主観の原理はこの対立とは別の問題である。
 
 ヘーゲルはここでドイツ語のaufheben(揚棄する)に言及している。ヘーゲル弁証法では「否定する」と「保存する」の両義を持つaufheben=揚棄という言葉が有名である。しかし、ヘーゲルの論理学において aufheben という言葉は、弁証法的な論理を展開できない場合に使われることが多い。また、ヘーゲルにかぶれると論理なしにこのことばは簡単に使われる。だから、論理の展開のためにはaufheben(揚棄する)という言葉は使わないほうがよい。
(2011.06.04改稿)


 
第九七節
 
 ■.1、(ロ) 否定的なものが自己へ関係するということは、否定的に関係するということであり、したがってこれは一者が自己を自己自らから区別すること、一者の反発、すなわち多くの一者の定立である。向自有するものが直接的であるという面からみれば、これら多くの一は有的なものであり、そして有的な多くの一の反発は、そのかぎりにおいて、存在するものとしてのそれらの相互的反発、あるいは相互的排除である。
 
 ▲、これも分かりにくい文章であるが内容は単純である。ヘーゲルの有論がわかりにくいのは論理的でないからである。ヘーゲルは個別存在の並列的な関係をカテゴリー化している。並列的な関係を論理的なカテゴリーにすることはできない。無理な図式である。
 
 複数の定有が永遠に同じ変化をくり返している世界では、定有と定有は或るものと他のものの相互関係である。或るものと他のものは内的規定を持たない質であるから区別できない。区別できない定有の相互関係は、他のものと或るものが相互に無=否定=規定であり、相互に質的な限界をなすことになる。
 次に、定有の相互関係である無=否定=規定は自己自身の規定へと内化される。それが向自有である。他との関係を自己内化すると独立的な一者となる。この一者となった或るものは、他のものと新たな否定的関係を形成する。一者としての向自有は、他を否定し排除する関係になる。このとき排除された他のすべての定有は多となる。こうして一と多という関係が形成される。
 また、すべての定有は各々が一者である。或るものが自己を一者として定立するとき、他のものとの関係は、一者である定有と他者=多という新しい相互否定的な関係となる。
 九七節は、相互の排除までである。或るものと他のものという定有のもっとも単純な関係から、向自有と向自有の関係、一者と多者の関係へとより高度で複雑な関係に発展する形式になっている。しかし、これは主観的で形式的な構成である。
 
 ■.2、補遺 一と言えば、まず多を思いつくのが常である。するとここで、多はどこから由来するかという問題が生じる。表象のうちにはこの問題への解答は見出されない。なぜなら、表象は多を直接的に現在するものと見、一を多のうちの一としか考えないからである。概念から言えば、これに反して、一は多の前提であり、一という思想のうちには、自己を多として定立するということが含まれている。向自有する一は、かかるものとして、有のように無関係的なものではなく、定有と同じく関係である。もっとも、それは、或るものとして他のものに関係するのではなく、或るものと他のものとの統一として自分自身へ関係するのであり、しかもこの関係は否定的な関係である。これによって一は全く自分自身と両立しがたいもの、自己を自己から突きはなすものであることがわかる。そして一がこのようなものとして自己を定立したものが多なのである。われわれは、向自有の過程におけるこの側面を、比喩的な表現をもって、反発と名づけることができる。反発とはもともと物質を考察する場合に用いられる言葉であって、物質が、多として、多くの一の各々のうちでその他すべての一にたいして排他的に振舞うことを意味する。
 
 ▲、個別存在の併存を前提とする表象は、一と多を直接に現在するものと見る。現実に一と多は併存している。しかし、カテゴリーの展開は一が多を生み出し定立する。これは量の運動形態である。
 ヘーゲルは定有の併存を前提しているために、一と多の関係を反撥と牽引の関係として規定しているが、これは必要ない。一と多は量の運動であるから、定有の関係として規定することはできない。定有と定有の関係は本質の領域における現象と現象の関係である。
 ヘーゲルは現実の個別存在は論理的には系統的に形成されるものであることを知らない。そのために定有相互の関係と個別定有内部の性質や性状の関係の規定が混乱しておりわかりにい。
 ヘーゲルの絶対的観念論の図式では、定有の背後に普遍としての精神が存在する。この構造によって、定有間の諸関係も定有の諸性質も、精神という一者の現象形態として経験的な規定をそのまま体系化することができる。定有の多くの性質は、意識において一つに纏められる。それが一と多の関係であり、真の統一者は精神である。自我が一で諸性質が多である。
 こうした余計な同質化の過程を経てようやく量のカテゴリーへ移行する。こうした同質化の過程は、論理的には質が他の質を生み出す本質の領域において生ずる量の関係である。ヘーゲルは質と量の関係を規定できておらず、質と量が系統的な関係として規定されていない。
 このへんはヘーゲルの間違った図式から生まれる規定であるから論理の内容にならない。
 (2011.06.05改稿)


 
第九八節
 
 ■.1、(ハ) しかし多くのものは互に同じものである。各々は一であり、あるいはまた多のうちの一である。したがってそれらは一にして同じものである。あるいは、反発そのものをみれば、それは、多くの一が互に否定的な態度をとるのであるから、同時にそれらが本質的に関係することでもある。そして一がその反発において関係するものは、諸々の一であるから、一は、それらのうちで自分自身に関係するのである。したがって、反発は同時に本質的に牽引である。かくして排他的な一あるいは向自有は揚棄される。一のうちでその即自かつ対自的な規定態に達した質的規定性は、これによって揚棄された規定性としての規定性へ移ったのである。言いかえれば、量としての有へ移ったのである。
 
 ▲、ヘーゲルは個別存在の併存を抽象化して同質的な定有の併存とした。だから、それは一と多の関係にあり、それぞれの定有は一である。ヘーゲルは定有の同質性を前提しているのだから、定有の全体は量的な関係にある。ヘーゲルは定有の併存によって、つまり定有の多の存在を前提することによって、一と多の量的関係を定有の規定のうちにもともと持ち込んでいるのであって、定有から量のカテゴリーに移行したのではない。
 この文章全体が言葉の遊びであり、論理的な意味は持たない。
 
 ヘーゲルがここでアトムに言及しているのは、アトムと定有が論理的に同じだからである。物質の最小単位をアトムとすると、アトムは無規定な粒子となり、アトムの離合集散によって規定を持つ諸物質が生まれる。定有は、存在の諸規定を抽象した最小単位であり基本単位である。存在の最小単位を物質とする場合唯物論になり、観念とした場合観念論になる。
 存在の最小単位を無規定なアトムあるいは定有とする場合、アトムあるいは定有が一で、その集合である個別存在と存在の全体は多である。ヘーゲルはこの離合集散を引き起こす力として反撥と牽引というカテゴリーを導入することによって、アトム相互の関係の必然性の規定としている。ヘーゲルはカントの説明は牽引と反発の二つの力の併存を指摘しているだけで、両力の必然性を説明していない、と批判している。しかし、牽引と反撥が併存しているだけでなく、相互に依存関係にあると規定しても、ヘーゲルはカント以上に反発と牽引の関係を発展させているわけではない。
 存在の構成単位としてアトムあるいは定有を想定し、その相互関係と離合集散によって存在の全体を規定することはできない。この方法では質的な変化を規定することはできないからである。そこに存在するカボチャと猫と人間とトラクターを素粒子の量で表現することができる。カボチャと猫と人間とトラクターの違いは素粒子の数の違いであり、一般的に言えばこれらは多と規定される。この規定自身は正しいが、質的な違いを規定できない。構成単位がアトムあるいは定有として同質化されているからである。論理学で問題になるのは、質自体の変化・運動の規定である。量的規定はその一部分にすぎない。
 
 ヘーゲルはアトム論を批判し、個人を国家の原理とすることをも批判している。それは、ヘーゲルの定有が抽象化した個別存在であり、それが存在全体の基礎になっているからである。だから、定有きアトムの違いを説明しなければならない。しかし、それはヘーゲルの論理ではできない。ヘーゲルは、定有の多を前提しており、定有の多を質から導き出していないからである。
 有の領域では有と無の同一としての質は一つの抽象的な質として形成されている。この質が分化して多を作り出していく。ヘーゲルの体系は質の分化の論理構造を持っておらず、定有の多を前提にしている。
 また、個人を国家の原理とする思想をここで問題にする必要はない。個人の意志が近代社会において、また論理学においても重要な意義をもつとしても、一と多のカテゴリーが国家の基本原理になることはない。一と多の関係は量的カテゴリーである。一と多の量的規定が意味を持つためには、国家と個人の質がまず規定されていなければならない。
 
 ■.2、補遺二 ・・われわれは最初に有を持ち、その真理として成が生じた。成は定有への過渡をなし、定有の真理は変化であった。変化の成果としてあらわれたものは、他者への関係および移行を免れた向自有であった。最後に、この向自有は、その過程の二つの側面をなす反発および牽引のうちで、それがそれ自身の揚棄であること、したがって質一般、質の諸モメント全体の揚棄であることを示した。この揚棄された質はしかし、抽象的な無でもなければ、同様に抽象的で無規定な有でもなく、規定性に無関心な有にすぎない。われわれの普通の意識のうちに量としてあらわれるものも、こうした有の姿である。したがってわれわれはまず事物を質の見地から考察し、そして質を事物の有と同一な規定性とみる。次に量を考察するにいたると、われわれはすぐに、事物はその量が変化して、より大きくなろうとまたより小さくなろうと、あくまでもとのままであるという無関心で外的な規定性の表象を持つようになる。
 
 ▲、ヘーゲルは、量を質に無関心な外的な規定性と考えている。それをカテゴリー的に規定すると、規定性に無関心な有であり、質の諸モメント全体の揚棄である。「量は揚棄された質」である。
 
 「量は揚棄された質である」という規定は間違いである。また、この規定を導き出す論理的過程も間違いである。
 成は運動の一般原理である。質は最初の具体的な運動形態である。この質一般における、質的な変化を伴わない質の内的運動が量である。量は質の内的な否定であり規定である。
 ヘーゲルは、量を規定性に無関心な有としている。量が質に無関心に見えるのは、量が質を前提しているからである。経験的な意識は前提とされている質を規定した上で量を規定するとは限らない。実際は質を前提しているが、質と量の関係は意識されずに量だけを独立的に規定する場合が多い。そのために量は質から独立して運動しているように見える。
 量は質と直接的に一致している変化=運動である。質の他の質への移行ではない質の内的な変化=運動が量である。質に無関心で質に外的であるというヘーゲルの規定とはまったく逆で、量は質と直接的に一致した質の内的規定である。すべての質にはその質と直接的に一致した内的な運動である量的な運動が存在する。
(2011.06.06改稿)


 
第九九節
 
 ■.1、量は、規定性がもはや有そのものと同一なものとしてでなく、揚棄されたものあるいは無関心なものとして定立されている純有である。
 (1) 大きさという言葉は、主として一定の量をさすから、量をあらわすには不適当である。(2) 数学は普通大きさを増減しうるものと定義している。この定義は、定義さるべきもの自身を再び含んでいるから、きわめて不十分ではある。しかしこの定義のうちにも、量的規定とは、可変的でありかつ無差別的なものとして定立されているような規定であり、したがって量的規定の変化、すなわち外延量あるいは内包量の増大にもかかわらず、事物、例えば家はあくまで家であり、赤はあくまで赤であるという思想を含んではいる。(3) 絶対者は純粋な量であるとする立場は、大体において、絶対者に質料の規定を与え、質料には形式が見出されはするが、形式は質料に無関係な規定であると考えるのと同じである。また絶対者は絶対に無差別なものであって、あらゆる区別は量的にすぎないと考えられている場合にも、量が絶対者の根本規定をなしているのである。--その他純粋な空間、時間、等々も、それを充たしている実在的なものが空間および時間に無関係なものとされているかぎり、量の実例と考えることができる。
 
 ▲、ヘーゲルはここで、表象的認識から概念への移行程を説明している。
 (1)大きさという言葉は、量の内部規定であり、一定の量である。量の規定ではない。(2)増減しうるもの、という定義は、定量ではなく、量の運動形式を表わしている。「増減しうるもの」という定義は量が可変的であることと、その変化が無差別であることを含んでいる。無差別とは、どの部分も同一である、質的区別を含まない、つまり同質という意味である。ヘーゲルは同質の規定まで進まない。
 
 (3)絶対者が純粋な量である、とは、絶対者は一者であること、質的区別を持たないこと、内部に否定を持たない事、同質であることを意味する。絶対者は同質で一者で、質的な変化をしない。だから、運動形式は量だけである。
 
 ヘーゲルは質と量を分離している。そのために、量は純有になる。ヘーゲルにとって規定は否定であり無である。ヘーゲルは量は規定から切り離されたもの、規定を揚棄したものと考えているから、量は純有である。
 ヘーゲルの規定は全体として変更しなければならない。有の領域に定有は存在しないからである。
 この段階のカテゴリーは質と量である。量は質の内的運動である。つまり質の内的な規定であり否定である。だから、質と量の対立において質は有であり量はその否定としての無である。この段階ではすでに純有は存在しない。
 量は質から独立した運動ではない。どのような場合でも質の内的規定であり質の無である。質はまず質の内部において量的に変化し運動する。質は量的に否定される。量は質の第一の否定であり変化であり運動である。質の第二の変化は他の質への変化、運動である。
 ヘーゲルが量と質を分離しているのは、実は量が質との直接的な一致であるために、質と量の関係が見えにくいからである。量は常に質の量であり、同質における運動=変化である。したがって、量は質に規定されているのであり、量の限界は質である。絶対者が量として規定されるのは、同質を前提としており、質的変化がないものとされており、したがって、質的限界がないものとされているからである。質的限界がない場合にのみ量の限界もない。
 
 ■.2、補遺 数学において普通行われているところの、増減しうるものという大きさの定義は、一見本節に含まれている概念規定よりも明白で尤もらしいようにみえる。しかしよく考えてみると、この定義は、論理的展開の道によって明かになった量の概念を、前提および表象の形で含んでいるのである。すなわち、大きさの概念は増減されうることにあると言われるとすれば、それはまさに大きさ(あるいは、より正しく言えば量)が、質とはちがって、その変化によって特定の事柄そのものに影響を与えないような規定であることを言いあらわしているのである。では上に指摘した普通の量の定義の欠陥がどこにあるかと言えば、それは、増減するとはまさに大きさの規定を変えることを意味するにすぎないという点にある。もし量がこれにつきるとすれば、量とはまず可変的なもの一般にすぎないであろう。ところが質もまた変化しうるものであるから、上に述べたような量と質との相違は増加あるいは減少ということによって言いあらわされている。そしてこのことは、一定の量がどの方向に変化させられようと、事柄そのものはもとのままであるということを含んでいるのである。
 
 ▲、ヘーゲルは量のカテゴリーを様々の側面から規定しようとしている。量の経験的な規定から概念的規定への移行、つまり量を現象形態においてでなくカテゴリーとして規定することは非常に難しい。カテゴリーの内容は、経験科学では扱うことのできない特殊な意味をもっている。この特有性をはっきりと理解したことがヘーゲルの歴史的功績である。
 量は大きさである、という規定を「増減しうるもの」と一般化してもなお経験的な規定である。この経験的規定を概念的規定に改変しなければならない。
 概念的規定とはカテゴリーの系統的な規定であり、量に限らずすべてのカテゴリーはカテゴリーの展開内部で規定されなければならない。或るカテゴリーは他のカテゴリーとの必然的な関連によってのみ規定される。経験的あるいは表象的意識における規定を使ってはならない。量を表象的に規定すると「増減しうるもの」となる。「増減しうるもの」とは何か、というと、大きさの規定が変化する、という意味であり、量の運動形式、量の現象形態の規定である。量の現象形態の規定は経験的であり、この規定を否定して量自体を規定するのが概念的規定である。
 
 量の現象形態の規定には質の変化との違いが含まれている。それは、「特定の事柄そのものに影響を与えないような規定である」という意味である。特定の事柄に影響を与えないとは、質的な変化をしないこと、同質内部の変化を意味する。質的限界内における変化が量である。
 
 ■.3、--ここで注意しておくが、およそ哲学において求められるものは、単に正しい定義ではなく、まして単にもっともだと思われるような定義、すなわちその正しさが表象的な意識にとって直接に明白であるような定義ではない。それは確証された定義でなければならない。すなわち、その内容が単に目前に見出されたものとして取上げられているような定義ではなく、その内容が自由な思惟のうちに基礎づけられているもの、したがって同時に自分自身のうちに基礎づけられているものとして認識されているような定義でなければならない。このことを今取扱っている場合にあてはめてみればこうなる。すなわち、数学で普通行われている量の定義がどんなに正しく、また直接に明白であろうとも、量という特殊の思想が普遍的思惟のうちにどの程度基礎づけられており、また必然的であるかを知ろうとする要求は、それによって満足されないのである。それのみではない。もし量が、思惟によって媒介されないで直接表象から取られるならば、量の妥当範囲は過大に評価され、量は絶対的なカテゴリーにまで高められるおそれが非常にある。
 
 ▲、ヘーゲルはここでも概念規定の意味を説明している。ヘーゲルがこうした説明をくり返しているのは、論理学が運動の一般法則の規定であることを明確に意識していないために、概念、つまりカテゴリーの意味を端的に規定できないからである。それでも観念論的な抽象的な形式の限界内で正しく規定している。内容は■.2 と同じである。
 哲学的な正しさは、表象的な意識と対象の一致を意味しない。哲学的な正しさをヘーゲル流に言えば、内容が自由な思惟のうちに基礎づけられた定義である、となる。
 自由な思惟のうちに基礎づけられた規定とは、カテゴリーの発展の内部で規定された規定、という意味である。カテゴリーはカテゴリーの必然的な系列において規定されるから、カテゴリーの順番が決定的に重要である。量の規定は質との関係において規定される。カテゴリーを大系化したヘーゲルによってはじめて量は概念内部で規定された。量を概念的に規定するには、純粋有を取り出し、成から定有へと展開し、質との関係で規定しなければならない。ヘーゲルの体系は有の領域にも本質の領域にも定有のカテゴリーを導入したことによって混乱しているが、カテゴリーの系列によって自己内でカテゴリーを規定していることは哲学史上の画期的な功績である。
 
 ここで注意すべきは、観念論の場合、経験的、表象的規定から概念的規定へと移行することが観念内部の規定になることである。表象的規定から概念的規定へと移行することは、表象的規定から観念内部の規定に移行することではない。表象的規定から概念的規定への移行とは、規定自身に即して言えば、存在の規定から運動の規定へと移行することである。運動の規定は存在の規定の普遍である。そして、運動は客観的存在の規定であるから、概念規定は観念内部に移行するのではなく、表象的規定と同じく客観の反映である。表象的規定から概念的規定への移行は、観念への移行ではなく、より深くとかより高度にといった量的な規定を意味するのでもなく、対象を運動として規定することである。このことを理解できないと、弁証法は観念論の世界に迷い込むことになる。
 
 「もし量が、思惟によって媒介されないで直接表象から取られるならば、量の妥当範囲は過大に評価され」るというヘーゲルの指摘は、量がカテゴリーの大系の系列から離れて規定されると、質から分離され、絶対化されることへの批判である。カテゴリーはカテゴリーの系列において先行するカテゴリーとの対立関係によって規定され、その内容は次のカテゴリーに受け継がれる。量には質の規定が先行しており、量は常に質の量であり、質の規定である。これがカテゴリーの系列の構造的な意味である。量は質的変化の系列の中ですべての質の内的規定として、常に質の量として同じ運動形態で登場する。このことが量のカテゴリーの理解を難しくしている。
 質のカテゴリーの系列的変化と量のカテゴリーの関係を規定できない場合は、質と量が分離され、ピタゴラス派がそうであったように、質的規定を見失ってすべてを量的に規定する。質的な規定を見失うと形式規定になり、量の内容に任意の偶然的な内容を投入できるようになる。つまり、量があらゆる質を規定しているかのように運動する。
 また、量的規定を絶対化することは質の規定ができないことを意味するから、法や道徳など量に還元できない内容に量を結びつけると、量的規定によって任意の偶然的な質的規定を与えることになる。質の規定ができないときに量の規定が先行して質を規定するように見える。こうしたことは、真剣な研究の場合でも起こる。量の規定ではヘーゲルも間違っている。
 このような間違いを避けるためにカテゴリーの順番を守らなければならない。量は質の量であるから、質の規定が先行する。そして多様な質を問題にする場合は、多様な質の普遍性である質がまず規定されて、その質が量的に規定される。質を同質化できない場合は量的規定はできない。量の規定はどのような場合でも質が先行しており、質の規定においてのみ量が規定されることを理解していなければならない。
 すべての存在はどの段階においても特有の普遍を持っている。実際は単純な存在から多様な存在へと分化している。したがって、あらゆる多様な存在の普遍性はその多様な存在の同一性であり質である。多様な存在が普遍性に還元されることは同質化を意味しており、普遍という同質性において多様性を量的に規定することができる。したがって、ある存在の量的規定はある存在の普遍性=質の具体的な規定でもある。こうして量的規定は常に、どのような段階においても対象のより本質的で具体的な規定となる。
 量のこのような性質は、量が質の内的運動であることから生ずる。量的規定の意味は質の内容の規定である。量の質的内容を見失う場合は、量的規定の内容が失われる。したがって、量的規定の重要性を理解する場合、カテゴリーの順番が意味するところの、量は質の内的規定である、という基本規定から外れてはならない。このことを見失うと量の規定は妄想になる。
 (2011.06.07)


 第一〇〇節
 
 ■.1、量は、まずその直接的な自己関係、あるいは牽引によって定立された自分自身との相等という点からみれば、連続量であり、そのうちに含まれている一というもう一つの規定からみれば、非連続量である。しかし連続量は、多くのものの連続にすぎないから、また非連続的でもあり、非連続量は同時に連続的であって、その連続性は多くの一の同一としての一、単位である。
 
 ▲、量の運動、つまり量における有と無の対立と同一の基本形式は連続性と非連続性である。質が他の質に変化していく場合も連続性と非連続性はあるが、量の運動は質の他の質への運動とは区別される。連続性とは途切れることがない、という運動の一般的な連続性を意味するのではない。運動一般の原理と質の運動と、質の内的運動である量の運動を区別しなければならない。
 量における連続性は自分自身との相等である。つまり、同質性である。同じ質が連続している、という意味の連続性である。量的連続性とは質的無変化である。量の運動は質の変化と違って、構造的な関係を生み出すことがなく、単純で同質的な量と量との関係である。
 
 ■.2、(1)このかぎりにおいて、連続量と非連続量とは、量の二種類とみるべきではなく、両者の相違はただ、同一の全体が或るときはその二つの規定の一方のもとに定立されており、他の場合にはもう一つの規定のもとに定立されているという点にあるにすぎない。
 (2)空間や時間にかんするアンチノミーとは、一方ではそれらが無限に分割されうることを主張し、他方ではそれらが分割できないものから成っていることを主張するものであるが、それは量を一方では連続的なものとして、他方では非連続的なものとして主張することにほかならない。もし空間、時間、等々が単に連続量の規定をもって定立されるならば、それらは無限に分割しうるものである。しかし非連続量の規定をもって定立されるならば、それらはそれ自身分割されているものであって、分割されない諸々の一から成っている。どちらの見地も同じく一面的である。
 
 ▲、連続量と非連続量は量の種類ではなくて、量の運動形態である。量は同質であるから一般に連続性である。その量が規定され、否定されると非連続性である。質の同一性における変化は、同じ自己への変化であり、質の無変化の変化である。連続とは同じ自己への変化であり、変化の形式は非連続である。連続における非連続が連続性の運動形式である。
 
 量的運動において空間と時間が問題になるのは、空間と時間が構造を持たない絶対的な均一性に見えるからである。その規定においては空間と時間には質的変化がなく、量的変化だけになる。しかし、実際は、空間も時間も構造を持っており、空間と時間とは別の質から変化したものであり、また別の質へと変化するものであろう。
 空間と時間に限らずすべての存在は質であり、質は内的に量的に運動している。連続性と非連続性の対立と同一は量的変化の基本規定である。連続性は非連続性の存在形式であり、非連続性は連続性の存在形式である。連続性は非連続の連続としてのみ存在し、非連続は連続性の分離としてのみ存在する。
 
 量的な規定は常に連続性と非連続性の対立と同一になる。連続性と非連続性を分離して両者を対立においてのみ規定すると二律背反が生じる。二律背反とは、分離した規定において対立的規定が同等の正当性をもって表れるということである。
 量の連続性の規定においては、無限に分割されるものという規定が表れる。連続性を非連続性で表現すると無限分割である。無限分割とは連続性であり分割不可能性である。
 量の非連続性とは、連続性の分割された量であり連続性を前提として連続性によって形成されている。非連続性とは連続性の否定であり、連続性によって構成されている。非連続性は連続されるものであり、連続において全体を構成する部分である。つまり、量は連続性の規定においては対立物である非連続性を前提としており、非連続性の規定においては対立物である連続性を前提している。両者は相互に対立物の現象形態である。
 一般に存在を正しく普遍的に規定すると二律背反が表れる。それは存在の普遍性の規定が運動の規定に到達することを意味している。存在一般を運動形式において規定すると、有と無の対立と同一である。この対立が量の運動として表れると連続性と非連続性になる。したがって、存在の全ては二律背反を含んでいる。それは存在を運動として規定する場合の一般法則である。すべての存在は客観的に有と無の対立と同一において存在する。存在は運動において形成されている。
 
 ■.3、・・しかし空間は連続的であると同時に非連続的である。だからわれわれは空間上の点について語り、また空間を分割して、例えば一定の長さを何尺、何寸、等々に分つのである。このことはただ空間が即自的には非連続的でもあるということを前提してのみ可能である。
 他方また百人の人間から成る非連続量は、同時に連続的でもある。そしてこの場合この量の連続性を基礎づけているものは、百人の人間に共通なもの、すなわちすべての個人を貫きそしてすべての個人を結びつけている人間という類である。
 
 ▲、空間は一定の長さ=量にどのような部分においても分割することができる。空間は同質的であり、つまり連続的である。同質的で連続的であるものを分割したものが定量である。同質的で連続的であるから任意に非連続量を取り出す事ができる。非連続性は連続性の現象形態であり属性である。逆も同じである。
 百人の人間は個別の人間としては分離量である。しかし、人間という普遍性においては分離できない連続量である。人間という普遍性において連続量であり、個別的人間として分離量である。百人の人間と百匹のネズミと百個のジャガイモは質的に違う場合は三百という連続量ではない。しかし、それを生物だとか物質に同質化すれば連続量になり、それぞれの百は分離量になる。あるいはそれぞれを重さに還元しても連続量と非連続量の同一性として規定することができる。同質性において量的な連続と非連続の同一性が生れる。質の違うものの同質性とはその普遍性である。この普遍性が一般に連続性であり、その個別性が非連続性となる。
 (2011.06.08)


 
第二章 量 第一項 純粋な量
 
  
第一〇一節
 
 ■. 量のうちには、他を排除する限定性が含まれているが、本質的にこのような限定性をもって定立されている量が定量、である。すなわち、定量とは限られた量である。
 
 ▲、質にも量にも他を排除する限定性が含まれている。定量とは限られた量である。量のうちでは同じ質の中で他の量が排除される。量は同質性における運動であるから、この運動内部において量を限定する他者は質ではない。同じ質の内部で他の量を否定し、他の量から否定されることが量の限定である。
 
 ■.補遺 定量は量の定有であり、これに反して純量は純有に、(次に述べる)度は向自有に対応する。--純量から定量への進み行きをもっと詳しく述べれば、それは次のような事態にもとづいている。すなわち、純量においては、区別が連続性と非連続性との区別として、即自的に存在しているにすぎないが、定量においては、これに反して、区別が定立され、量は今や区別されたもの、限界を持つものとしてあらわれている。しかしこれによって同時に定量もまた、多くの定量すなわち多くの限定された量に分れる。これらの定量の各々は、他の定量から区別されたものとしては、一つの統一をなしているが、他方それだけを考えてみれば、一つの多である。そしてこの場合定量は数として規定されているのである。
 
 ▲、ヘーゲルは論理的に規定性を持たないという意味の純粋有と純粋量を認めている。両者とも無規定ではない。純粋量は規定を持たない量である。しかし、量は一般に質に規定されている。量は質の内的運動であるから純粋量は存在しない。純粋量を想定するのは、ヘーゲルが質と量を分離しているからである。
 
 連続性と非連続性の同一は量の運動の一般規定である。定量は限界を持つ量であり、非連続性=否定を定立した量である。このように対立物の同一の否定=無の部分を取り出して定立すると存在の規定になる。量は運動としては連続性と非連続性の同一として規定される。連続性は有であり非連続性が無であり、無の定立が定量である。
 否定=無を定立した定量は、それ自体連続性と非連続性の統一としての量であり、無限の定量に分割される。否定を定立したそれぞれの定量は一つの統一した量であり、すべての定量は同じ量の部分であり、多である。これは同質内部の量の運動の連続性の特徴である。非連続性の定立において連続性の特徴が表れる。
 

 第一〇二節
 
 ■.定量は、数においてその発展と完全な規定性とに達する。数は、そのエレメントとして一を持ち、非連続性のモメントからすれば集合数を、連続性のモメントからすれば単位を、その質的モメントとして自己のうちに含んでいる。
 
 ▲、数は量の具体的な運動形態である。すべての定量は量の基本規定である連続性と非連続性の同一を自己のうちに含んでいる。
 数は具体的な量であるから数の規定は量の概念の規定ではない。数という量がどのような具体的運動形態を持つかは個別科学としての数学の課題である。哲学の課題は量とは何かを規定することであり、それは質という対立的カテゴリーとの関係において量を規定することである。
 (2011.06.09改稿)


 
第一〇三節
 
 ■.限界は定量そのものの全体と同一である。それは、自己のうちに多を含むものとしては、外延量であるが、自己のうちで単純なものとしては、内包量、すなわち度である。
 連続量および非連続量と、外延量および内包量との相違は、前者は量一般に関係するが、後者は量そのものの限界あるいは規定性にのみ関係するという点にある。--しかし外延量および内包量も、その各々が他方は持たない規定性を含んでいるというような、二つの種類ではない。外延量であるところのものは、同様に内包量でもあり、またその逆も成立する。
 
 ▲、連続性と非連続性は量の一般的規定である。定量、つまり規定された量の一般的な規定は外延量と内包量がある。定量における連続性が内包量であり、非連続性が外延量である。定量は、自己のうちで単純なもの、分割できないもの、一として内包量であり、自己のうちに多を含む、つまり分割されるもの、多として外延量である。
 
 ■.補遺1、内包量あるいは度は、概念上外延量あるいは定量とは異ったものである。だから、しばしば行われているように、この区別を認めないで、大きさのこの二つの形態を直ちに同一視するのは、許されがたいことと言わなければならない。こうした同一視は、特に物理学において甚しい。例えば、そこで比重の相違がどう説明されているかと言うと、他の物体の二倍の比重を持つ物体は、同じ空間内に他の物体の二倍だけ多くの物質部分(アトム)を含んでいるのだという風にして説明されている。同じことは、温度や光度の差が、熱や、光の粒子(あるいは分子)の多少によって説明される場合、熱や光についても言える。
 
 ▲、ヘーゲルはここで外延量と内包量の違いを強調している。
 外延量と内包量は二つの種類の量ではなく、同じ量の二つの規定である。内包量は定量の連続性の規定であり、外延量は定量の非連続性の規定である。ヘーゲルの実例で言えば、二つの定有を重さという質に同一化すれば比重という量的関係が表れる。二つの定量は連続性において同一的に規定すれば、密度、力、エネルギー等として規定される。定量は一様で分割できないものとして全体的に、つまり内包量として規定されている。
 同じ定量をアトムの集合として規定すると外延量となる。密度や力という連続性の規定とアトムの数という非連続性の規定は相互に同じ量の規定である。定量の一般的規定は外延量と内包量であるから、定量は常にこの二つの方法で、つまり連続量あるいは非連続量として規定することができる。
 
 ヘーゲルは内包量である比重を外延量であるアトムの数の規定に転化することに抵抗している。ヘーゲルの時代にはアトムの正体が明らかでなかったから、ヘーゲルは感覚的に捉えられない一者としての内包量を、感覚的に捉えて数えることができるアトムという想定物に転化することを、非哲学的な方法だと思った。ヘーゲルは単一的で抽象的な規定が概念的な観念論的な思惟的な規定で、非連続で多であるアトムは感覚的で、経験的で、個別的で、唯物論的な、つまりは非思惟的で悟性的な規定だと考えた。ヘーゲルはこうした観念論的な偏見のために、量における連続と非連続の同一を理解していない。
 
 ■. 2、なお、単なる連続量および単なる非連続量がないと同じように、単なる外延量も単なる内包量も存在しないということ、したがって量の二つの規定は、独立の二種類として対峙するものではないということは、全く正しい。あらゆる内包量はまた外延量であり、その逆の場合も全く同じである。例えば或る温度は一つの内包的大きさであって、全く単純な感覚がこれに対応している。しかし寒暖計をみれば、この温度には水銀柱の一定の高さが対応しており、そしてこの外延的大きさは、内包的大きさとしての温度とともに変化する。精神の世界でも同じであって、強い性格は弱い性格よりも広い影響を及ぼすのである。
 
 ▲、ヘーゲルは内包量と外延量の違いを強調したのだから、「単なる」というのは苦しい弁解である。ここでもカテゴリーの規定ができないために実例に頼っているが、結局量のカテゴリーは規定されていない。実例から量のカテゴリーを規定すると、量のカテゴリーは質から独立して質を規定するカテゴリーになり、量と質の関係は逆転する。ヘーゲルが実例によって外延量と内包量を説明するのは、量のカテゴリーを規定できないからであり、実例による量の規定はどうしても混乱する。
 
 内包量である温度は外延量である水銀柱の高さとして規定することができる。しかし、水銀柱の高さは水の温度の外延量ではない。水銀には独自に内包量と外延量がある。水の温度の内包量を水銀の外延量として示すことができるが、それは、水の温度の内包量と外延量の直接的な関係ではない。温度は水の分子の衝突の回数として規定する場合に外延量となる。
 20度の水3リットルをいくつに分けても20度であるという実例は、温度が単一な内包量であることを示しているように見える。これに対して3mのロープは、1mと2mに分割することができるので、3mという長さは外延量で度は内包量であるように見える。
 20度の水を体積で分割する場合は、温度とは違う質の違う量の分割である。だからいくら分割しても温度は単一である。しかし、体積と関係のある熱量であれば、温度は外延量として規定され、分割できる。20度の水2リットルは、20度の水1リットルの二倍の熱量として規定することができる。3mのロープは、どのような長さに分割しても、太さは変わらない。分割されている長さと太さは違う質の量だからである。同じロープであっても量との関係では違う質である。この実例ではヘーゲルが質の規定を理解していないことがわかる。
 
 ヘーゲルは自然科学の未発達と観念論的な偏見のために、重さをアトムの集合量として、温度を分子の衝突の回数として規定するといった外延量の形式に反対している。しかし、内包量と外延量は、連続と非連続の同一である量の規定であるから、一つの定量の規定には必ず二つの規定が表れる。外延量の規定と内包量の規定のどちらが意義を持つかは他の量との関係によって規定される。
 内包量と外延量は、概念的であるか経験的であるかの違いではなく、連続性の規定であるか非連続性の規定であるかの違いである。
 
 この節の終わりで説明されている実例も、本来関係することのできない違う質の量を関係させている。違った質の量は違う量である。違う量によって外延量と内包量を説明するのは不適切であり、ヘーゲルは自分が何を説明しているのかを理解していない。
 強い性格は弱い性格よりも広い影響を及ぼすとは限らない。内容が下らないほど影響力が大きい場合もある。外延量と内包量の関係を示すのであれば、強い性格とは広い性格でもあることを、性格そのものにおいて説明すべきである。性格の強さと社会の関係を問題にするのは量の規定から離れる。別の質の関係を別の量の同一視において間違って規定している。ここには温度の量的規定と水銀柱の量的規定を同一視するのと同じ飛躍がある。
 (2011.06.10)


 
第一〇四節
 
 ■.度において定量の概念が定立されている。それはそれ自身としては無差別的で単純な大きさであるが、しかしそれを定量とするところの限定性を、全く自己の外部にある他の諸量のうちに持っている。向自有的な無差別的な限界が絶対的な外面性であるというこの矛盾のうちに、量の無限進行が定立されている。すなわち、一つの直接態は直接にその反対物、媒介態(定立されたばかりの定量を越えること)へ転化し、媒介態はまた直接に直接態へ転化するのである。
 
 ▲、ヘーゲルは、或るものの限定が他のものであるとしたのと同様に、定量の限定が他の量である、としている。一般に限定はこのようなものではない。定量の限定は量の非連続性であり他の量との分離である。定量は量としてそれ自身において規定されている。だから、「向自有的な無差別的な限界が絶対的な外面性であるというこの矛盾」は存在しない。
 ヘーゲルはこのあと、量の特徴として「不断に自己を超える」としているが、これは量も質も同じである。そして、「同一の矛盾の無思想なくり返し」というのは、量が質の内的運動であることの特徴である。
 
 ■.1、補遺一 先に(九九節)述べたような、数学で普通行われている定義にしたがって、量を増減しうるものと呼ぶとすれば、その場合根抵におかれている直観は、全く正しいにはちがいないが、しかしまず、われわれがどうしてこうした増減しうるものを想定するようになるかという問題が残る。この問題に答えるために、単に経験を引合に出すのでは不十分である。なぜかと言えば、その際われわれの持つものが単に量の表象にすぎず、その思想ではないということは別としても、それでは、量が単に増減の可能性であることがわかるだけで、その必然性は認識できないからである。これに反して、私が行ったような論理的展開の方法によれば、量は自分自身を規定する思惟の一段階として示されたのみならず、自己を越え出るということが量の概念そのもののうちに含まれているということ、したがって増減は単なる可能ではなく、必然であることが明かになったのである。
 
 ▲、ヘーゲルはこの規定の必然性を規定することが量の規定であると考え、自己を超え出ることが量の概念である、と考えている。
 「増減しうるもの」とは量の現象形態である。ヘーゲルは、量が増減せざるをえないことを示すことが量の必然性の規定であると考えて、自己を超え出ることを量の特徴としているが、これは量の規定ではないし量の必然性ではない。
 量のカテゴリーの規定は、増減の必然性の規定ではなく増減とは何かの規定であり、量の増減を質との関係で規定することである。「自己を超え出ること」は「増減するもの」という規定を悪く言い換えただけである。悪くというのは、「自己を超え出ること」は質の特徴でもあるから量の現象的規定でもなくなっているからである。ヘーゲルが、「私の論理的展開の方法で増減の必然が明らかになった」とわざわざ注意しているのは、量のカテゴリーを規定できていないことを感じているからだろう。
 
 ■.2、補遺二 反省的悟性が一般に無限を問題とするとき、主として拠りどころとするのは量的無限進行である。しかし無限進行のこの形態については、先に質的無限進行について述べたと同じことが言える。それは真の無限の表現ではなくて、単なるゾレンを脱せず、したがって実際は有限のうちに立ちどまっている悪しき無限の表現にすぎない。スピノザが正しくも単に想像上の無限と名づけた、この有限な進行の量的形式は、詩人によっても(特にバラーとクロブシュトック)、自然の無限のみならず精神そのものの無限をも具象化するために、しばしば用いられている。
 
 ▲、悟性的精神は量的無限を無限の概念だと考えている。それは、量的無限は経験的に理解することができるが、質的な無限性、つまり質の運動の規定がヘーゲルの段階までできていないからである。しかし、質の運動が規定されていないのだから、量の運動つまり量の無限性も規定されていない。
 ヘーゲルにとって量的無限は真の無限ではなく悪無限である。悪無限は無限を実現しておらず、有限な進行の繰り返しに過ぎない、とヘーゲルは批判している。ヘーゲルは量のカテゴリーを規定できていないから、量的無限と質的無限を規定することなく、経験的無限である量的無限を様々の形式で批判している。しかし、批判は論理的ではなく経験的である。無限を真無限と悪無限に分けること自体無限の無理解を示している。
 無限の規定とは一般的に言えば運動の規定である。というのは、無限者=絶対者とは運動だからである。この一般的無限は、量的無限と質的無限に分かれる。運動形態は質的運動と量的運動の二つだからである。したがって量と質の関係と違いを規定しなければ無限の規定はできない。
 
 量的無限進行は同質性における質の運動であり、質的変化を伴わない質の変化であるから、同じ事の繰り返しになる。ヘーゲルの言う悪無限とは連続性と非連続性の統一という量の一般規定に他ならない。ヘーゲルが量の運動を悪無限というのは、同じ事のくり返しであり、限界を持たないから、つまり現実的な実現される無限ではないと考えるからである。哲学史上で量のカテゴリーを規定することができなかったことは、基本的には量的無限が限界を持たないと考えたことを意味している。
 量は質の内的運動であるから、量的無限性は常に質において限界を持っている。質が量的無限の現実性である。しかし、量は質的同一性を前提した同質内部の運動であるから、量の運動は質との関係を含まない。そのために、量のカテゴリーは質から独立しているように見える。ヘーゲルはこの質的な限界を理解していないから、量の無限性を、そのくり返しの点で、つまりは量である点で批判している。これは現象的な特徴を指摘しているだけで規定ではなく批判ではない。量的無限の特徴は質的限界を持つことである。
 
 数字が量的無限とされるのは、数はすでに量の規定だからである。時間と空間が量的無限性として理解されているのは、時間と空間が絶対的な同質で他の質に変化することがないとされているからである。時間と空間が同質的である場合は、質的限界はなく質的運動はない。したがって、時間と空間は質的に単一で不変であり、質の内的運動としての量的運動、つまり量的無限だけが時間と空間の規定になる。そうすると、時間と空間の絶対的特徴は連続性と非連続性の矛盾の展開としての量的無限だけであるように見える。この量的運動は質の限界を持っているが、質は認識されておらず、量的運動が空間と時間の質的特徴とされる結果として、運動の一般的規定が連続性と非連続性の同一として、つまり量的運動とされることになる。
 
 無限性は質的無限と量的無限の二つである。量は質の内的運動であるから、量的無限は質的限界を持っている。質的限界内部の無限性である。質の運動は質の多重構造を作り出す構造的な無限性である。量は、その構造のすべてにおいて同質性における量としての内的運動をくり返す。
 質的無限性は論理学の体系の展開である。量的無限はその内部の質の内的運動である。したがって、無限とは何かは一般的に規定することはできない。ヘーゲルは質的無限と量的無限の区別ができないために、無限を一つと考えた上で、量的無限を悪無限とし真の無限ではない、と考えている。悪も真も論理的な規定ではない。
 
 ■.3、補遺三 ピュタゴラスは、周知のごとく、数をもって哲学し、事物の根本規定は数であると考えた。この考えは普通の意識には一見全く逆説と見え、狂気とさえ見えるにちがいない。したがって、こうした思想をどう考えたらいいかという問題がおきてくる。この問題に答えるには、われわれはまず、哲学の任務は一般に、事物を思想に、しかも規定された思想に還元することにあるということを思い出さなければならない。ところで、数はもちろん一つの思想ではあるが、感覚的なものに最も近い思想である。もっとはっきり言えば、われわれが感覚的なものという言葉のもとに個々別々なものおよび多を理解するかぎり、数は感覚的なもの自身の思想である。宇宙を数と解する試みは、したがって形而上学への第一歩である。
 
 ▲、「哲学の任務は一般に、事物を思想に、しかも規定された思想に還元することにある」、というのは間違いである。思惟は一般に事物を規定された思想に還元する。事物の普遍を規定する思惟は経験科学である。哲学は事物を一般的運動法則として規定する。経験科学と哲学の違いを規定することはギリシャ以来の哲学の基本的な課題であった。ヘーゲルはこの分離を規定していない。
 ヘーゲルは、ピュタゴラスの思想をどう考えたらいいか、という問いを出しているが、ヘーゲルの論理ではこの問いに答えることができない。数は思惟規定である。数の思惟規定は量の規定である。ヘーゲルは量のカテゴリーを規定できていないのでピュタゴラスの思想の特徴を規定できない。
 
 ■.4 ピュタゴラスは、周知のごとく、哲学の歴史においてイオニア学派とエレア学派との間に立っている。前者は、すでにアリストテレスが指摘しているように、事物の本質を物質的なもの(ヒュレー)とみる以上に出なかったが、後者特にパルメニデスは、有という形における純粋な思惟にまで進んだのであって、ピュタゴラスの哲学の原理は、言わば、感覚的なものから、超感覚的なものへの橋をなしているのである。或る人々は次のように考えている。すなわち、ピュタゴラスが事物の本質を単なる数と考えたのは行きすぎである。確かに人は事物をかぞえることはできる。この点については異論はない。しかし事物は単なる数以上のものである、と。こうした見地をどう考えたらいいかは、以上述べたところから明白である。事物に帰された以上ということについて言えば、事物が数以上のものであることは疑をいれないが、ただ問題となるのは、この以上という言葉のもとに人が何を理解しているかということである。普通の感覚的意識は、その立場にしたがって、少しもためらわず、感覚的に知覚しうるということを指示することによって、ここに呈出された問題に答え、そして、事物は単に数えうるだけでなく、そのほかになお見たり嗅いだり、触れたりすることができる、と言うであろう。したがってピュタゴラスの哲学に加えられる非難は、現代の表現をもってすれば、あまりに観念論的だということになる。しかし、先にピュタゴラス哲学の歴史的地位について述べたことからすでにわかるように、事実はまさにその逆である。すなわち、もし事物が単なる数以上のものであることを認めなければならないとすれば、それは、単に数という思想をもっては事物の規定された本質あるいは概念を言いあらわすに足りないという意味に解されなければならない。したがって、ピュタゴラスの数の哲学を行きすぎであると主張するかわりに、むしろ逆にそれは行くべきところまで行かなかったと言うべきであろう。また実際エレア学派がすでに純粋思惟へ進む次の一歩をふみ出しているのである。
 
 ▲、ヘーゲルの認識論的な思惟は、感覚的意識から純粋概念へと発展する。ヘーゲル哲学の構造では、感覚的存在を思惟規定に変えることが認識の第一段階である。イオニア学派は特定の物質を原理として、存在の全体をその物質の変化によって説明した。アリストテレスはこの方法を、事物の本質を物質的なものとみる以上に出なかった、と批判した。物質的なものと見る以上に出なかった、というのは、物質的なものの変化の原因を規定することができなかった、という意味である。物質的なものの外に運動の実体を認めてその実体を規定することと、変化の起源である物質を規定することはまったく違う原理を意味している。
 
 観念論者であるヘーゲルは、事物の本質を物質的なものとみるより以上の観点を、事物の本質を観念に求めることだ、と考えている。ヘーゲルのこの観点ではピュタゴラスはイオニア学派とエレア学派との間に、つまり物質的なもの=感覚的なものと概念的なもの=思惟的なもの、の間に立つことになり、感覚的なものから十分に抜け出しておらず、純粋概念まで到達しなかったことになる。
 実際はこのような関係にはない。
 イオニア学派からエレア学派への発展は、存在の規定から運動の規定への深化である。パルメニデスの有は存在の原理ではなく運動の原理である。パルメニデスは運動を否定したが、静止の原理が運動の原理の出発点である。
 ピュタゴラス派は存在の原理から運動の原理へと移行している。しかし、運動の一般法則の原理に到達していない。ピュタゴラス派は量の運動を規定しているだけである。ピュタゴラス派の哲学が明確でなく抽象的であるのは、質の運動の規定を含まないからである。
 
 ピュタゴラスは行き過ぎていると感じられるのは、質の規定を捨象して量的規定だけを抽出しているからである。だから、現実の複雑な質的変化を規定すべきだ、という要求が起こる。この場合、感覚的な存在の規定に引き返すと経験科学になる。イオニア派を超えてさらにピュタゴラス派を超えるには、質の運動の一般法則を規定して、量を質の内的運動として規定しなければならない。
 ついでながら、「事物は単に数えうるだけでなく、そのほかになお見たり嗅いだり、触れたりすることができる、」と言う批判はあまりに素朴である。というのは、見たり嗅いだり、触れたりすることができるもの、そのことによって明らかになる対象の特徴もまた数に還元することができるからである。存在のすべてを、その属性も性質も数が還元することができる。だからこそ数が原理とされたのであり、また数が途方もなく無意味に拡張されることにもなる。数が途方もなく無意味に拡張されるのは質の規定がないからである。
 
 ■.4、しかしまた、かりにその規定性が本質的に一定の数および数の比に依存しているような事物は存在しないとしても、事物のそうした状態、および一般的に言ってそうした自然現象は存在している。音の相違や調和はその著しい場合であって、周知のごとく、ピュタゴラスはこの現象をみて最初に事物の本質を数と考えるようになったと言われている。特定の数にもとづいている諸現象をこの特定の数に還元するということは、学問上明かに重要なことにはちがいないが、と言って思想の規定性を一般に単なる数的規定性と解するのは、全く許しがたいことである。
 
 ▲、ピュタゴラスは、音の相違や調和が数の比によって規定されていることを発見した。数の比は量の規定である。音という質は音階という量的な運動形式を持っている。量は質の内的運動であるから、どんな質も特有の量的規定を持っている。だからどんな質をも量的に規定することができる。しかし、量の規定が質の規定から分離して質的な意味を失うと偶然的な恣意的な規定となる。現実の任意の任意を量的に規定して、その規定に任意の質的な意味を与えることもできる。この場合は質と量の関係が失われて概念は失われる。論理ではなく形式論議、屁理屈が生れる。
 量は質の内的運動である。だから、質の規定が先行して、その質の運動として量が規定されなければならない。量は質の内的運動であるからカテゴリーとしては質が量に先行する。経験的意識はこの順序が逆になる。
 (2011.06.13改稿)


 
第一〇五節
 
 ▲、この節は限度への移行の説明である。カテゴリーの移行の説明はこじつけである。
 ヘーゲルは質と量を分離しているから、純粋有が規定されて定有になるのと同様に、純粋量が規定されると定量になる。定有は、或るものと他のものの関係によって規定されている。だから規定が外的である。この規定が内化すると向自有である。この同じ関係が量でも展開されている。
 量の場合はまず純量があって、定量は純量としての自己を持っており、その上で他の定量に規定されている。だから、純量と外的な規定の対立と同一が量の内的矛盾である。このようにヘーゲルは考えている。
 比は数が数によって規定される関係である。つまり、量が量によって、自己が自己によって規定される自己関係であるから、他の定量から規定される関係から自己関係に環帰している。これが限度である、とヘーゲルは説明している。こんな説明は屁理屈であり無意味である。
 
 量は質の内的運動である。量は質の無であり規定である。だから、量の自己は質である。量の全体、量の絶対者は質である。
 量と量の関係は同じ質の内的関係である。質の分割である定量の相互の関係の一つが比である。この場合、定量も定量と定量の関係も量的関係だけを示しているように見える。実際は、定量も定量と定量の関係も質によって規定されている。定量そのもの、定量の自己自身は純量ではなく質である。
 質の量的運動の基本矛盾は、連続性と非連続性の同一である。量の非連続=分割が定量である。無限に分割される定量は同質内部で相互に無限的に関係し規定しあう。この関係は数学の内部で考察される。論理学は量的関係の無限の様相を考察するのではない。論理学が量について考察しなければならないのは、質との関係だけである。
 (2011.06.14改稿)
 

 
 第一〇六節
 
 ■.補遺 量は、これまでみてきたような諸モメントを通過する弁証法的運動によって、質への復帰であることを証示した。われわれは、最初、量の概念として揚棄された質を、すなわち有と同一でなく、有に無関係な、単に外的な規定性を持つていた。すでに述べたように、数学で普通行われる量の定義、すなわち増減しうるものという定義の根抵にあるのも、やはりこの概念である。この定義によるとまず、量とは、可変性一般にすぎないかのようにみえる(なぜなら、増減とはまさに大きさの規定を変えることにほかならないから)。しかしそれでは定量は、同じく概念上変化すべきものである定有と異るところがないから、この定義の内容は、量とは変化にもかかわらずあくまで同一であるような可変的なものである、という風にしてはじめて完全になる。これによって量の概念は自己のうちに矛盾を含んでいることがわかる。この矛盾が量の弁証法をなしているのである。ところでこの弁証法の結果は、質は真なるものであるが、量はそうでないというような、単なる質への復帰ではなくて、これら両者の真理および統一であるもの、すなわち限度である。
 
 ▲、ヘーゲルは質を揚棄して量に移行し、つまり質と量を分離した上で、量から質に復帰する。ピタゴラス派と同じ経験的意識によって質と量を分離したために、その修正として質への復帰が必要となる。これは余計な過程である。量は質の内的運動であり、質と量は直接的に一致しているからである。量が質から分離することはありえない。
 論理の展開から考えれば、有論の段階では質が形成された後に質の内的運動としての量が形成される。したがって質と量の直接的な一致が前提であり外見上の分離も生じない。論理を有と無の対立まで抽象化することができない経験的な意識において質と量の分離が生じる。ヘーゲルは経験的な意識における質と量の分離を前提として、形式的に統一を導き出そうとしている。
 
 「この定義の内容は、量とは変化にもかかわらずあくまで同一であるような可変的なものである、という風にしてはじめて完全になる。」という補遺の規定は形式的には正しい規定である。しかし、これが正しい規定であるためには、「同一」が質でなければならない。しかし、ヘーゲルには同質性の規定はないから、この同一についての説明は余計な内容ばかりである。
 
 量は質の内的な運動であるから同質性が前提になっている。そのために量は質から独立しているように見える。量の同一性は質である。量は質の内的否定であり運動形態である。質は自己内の量的運動によって自己を超える。量的変化の後に質の他の質への変化が起こる。量的変化が発展して質の限度に達するとき、つまり質の否定に達する時、それが量の限度である。
 質の量的運動が質の限度に達したとき、質の内的運動である量の運動は終わる。ところが、質と量を分離しているヘーゲルの論理では、限度において初めて質と量の一致が定立されることになる。しかし、実際は、限度は質の量的運動の到達点であるから、質と量の分離点である。質の量的運動がここで終わり、新しい質において新しい量の運動がはじまる。
 
 ヘーゲルが、限度が質と量の統一である、とする場合、量の限度あるいは節度が質を規定する関係になる。ヘーゲルの論理では量と質の関係が逆転している。正しくは、質の限度が量の限度である。限度とは、量の運動が質的変化を引き起こすこと、つまり質的同一性が終わること、質が内的運動を経由して他の質へと転化する移行点である。量は質の運動である。質は量的運動によって自己を否定する。
 量を質から独立させると、量の運動から限度を導き出す必要が生じる。しかし、量の運動によって限度を生み出すことはできない。量の運動で生まれるのは量の規定だけである。量の運動で質的規定が生まれることはない。量の限度は量より前に決まっている。量の限度は質である。
 量は質の外にでることができないこと、量が質から独立した外的なカテゴリーではなく、質の内的な運動のカテゴリーであることが限度によって明らかになる。
 (2011.06.14改稿)


 
第一〇七節
 
 ■.1、限度とは質的な定量である。それはまず直接的なものとしては、定有あるいは質がそれに結びつけられているような定量である。
 
 ▲、量は単純に無際限に増減するものではない。何ものにも限度があって、度を越すとそのものではなくなる。或るものがそのものではなくなる量があって、それが限度である。経験的な意識には世界はこのように見える。
 定有は量的に変化して限度を超えると他の定有になる。ヘーゲルのこの規定も経験的な意識を論理的形式で規定したものである。論理はこのように展開しない。有の領域に定有は存在しないし、量が質を規定するのでもない。
 「限度は質的な定量である」というヘーゲルの規定は、質と量を分離した上で、限度において量が質と一致するという意味である。しかし、実際はすべての定量は質的な定量である。限度において量の規定は終わる。
 
 ■.2、補遺 限度は質と量との統一であるから、同時に完成された有である。有は最初全く抽象的で没規定なものとしてあらわれる。しかし有はその本質のうちに、自分自身を規定するということを含んでおり、限度においてその完全な規定性に達するのである。限度は絶対者の定義の一つとみることができ、したがって神は万物の限度であると言われている。
 
 ▲、ヘーゲルの論理では、抽象的な純粋有が無と統一されると質になる。ヘーゲルの有の領域の論理は質と定有を同一視することによって混乱している。有と無の同一としての質は論理的規定であるが、定有は経験的な規定である。論理的な規定である質と経験的な規定である定有はまったく異質である。定有の内容は本質の領域で規定される。
 
 ヘーゲルの論理によると定有は二つの方法で規定される。或るものと他のもの、つまり定有による定有の規定が第一の方法で、第二が量的限度による規定である。両者がどのような関係にあるかは説明されていない。両方の規定が間違いである。
 ヘーゲルは限度においてその完全な規定性に達するとしているが、限度以前は不完全な規定性になる。神は万物の限度である、というのはすべての存在は規定されている、と言っているに過ぎない。ヘーゲルは量の運動によって限度を導き出すことができないために、限度の規定を実例から取り込んでいる。現実には限度が存在する、その限度は神が定めたものだと説明している。しかし、量の限度を決めるのは神ではなくて、質である。
 限度を超えると破滅するという教訓めいた話は、すべての存在は運動することを意味しており、それは論理的には成の内容である。運動は破滅を含んでいる。破滅は消滅ではなく、質を失うことである。質を失うことは消滅ではなく、質が運動することであり、質が固有の他者になることである。経験的に言えば他の質に移行することであり、論理的には質は本質の領域に移行する。
 
 ヘーゲルは量の限度が質を規定するとしているために、限度が量の運動においてどのように導き出されるかを規定できない。量が質を規定するのであれば、有と無の統一によってまず量が形成され、量の運動において限度が形成され、それによって質が生れるのでなければならない。その場合は、量の限度を規定することができなくなるだろう。量の限度は質によってのみ規定することができる。まず質があって、質が量的運動をする。
 有と無の同一が質である。有と無の同一である質の内部で、有である質と無である量が対立する。質の内的否定が量である。質と量の対立は質の内部での対立であるから量の限度は質によって規定されている。質と量の統一によって有が完成するのではない。有と無の統一によって質はすでに完成している。その内的運動が量であり、その限度において質は否定されて本質の領域に移行する。定有はこの本質の領域において規定される。有の領域に定有を導入するとこの論理的な移行を規定することができなくなる。
 
 ヘーゲルの有論は、「A 質」では質を基礎として、「B 量」では量を基礎として、「C 度」においては、量を基礎として両者を統一している。ヘーゲルでは質と量が対立して、度がその統一者となって、すべての規定の背後に無限者を想定して本質論に移行しようとしている。ヘーゲルの論理の移行は肯定、否定、否定の否定という形式をとっているために弁証法的に見える。しかし、この行程はまったく論理的ではなく、経験的な意識の図式化である。
 (2011.06.15)


 
第一○八節
 
 ■.1、補遺 限度のうちに存在する質と量との同一は、最初は単に即自的であって、まだ定立されていない。そのためにその統一が限度をなす二つの規定は、それぞれ独立性をも持っている。すなわち、一方では定有の量的諸規定は、その質へ影響を与えることなしに変化されうるとともに、他方ではこうした無関係な増減にはその限界があって、それを越えると質が変化される。例えば水の温度はまずその液体的流動性にたいして無関係であるが、しかしこの液状の水の温度の増減が或る点に達すると、この凝集状態は質的に変化し、水は一方では水蒸気に、他方では氷に変る。一般に量的変化が起る場合、それは最初それ以上の意味を少しも持たないようにみえる。しかしその背後には別なものがひそんでいるのであって、一見何でもなくみえる量の変化は、質的なものを捕える言わば狡智である。
 
 ▲、ヘーゲルまず質と量を分離している。分離した質と量は限度において統一される。だから、限度までは統一は即自的であって、定立されていない。これは即自というカテゴリーの便利で悪い使い方である。量的変化が質的な変化を起こした時に、量と質の統一が定立されて、それが限度である。これはカテゴリーの規定ではなくて、現象を見たままに規定しただけである。だからヘーゲルの限度の説明はすべて実例である。
 
 ヘーゲルは水の変化の実例を持ち出している。ヘーゲルが実例から量を取り出す方法は論理的に混乱している。水は複雑な構造を持つ具体的存在であるから一つの質と一つの量を持つのではない。
 水は温度の変化によって個体、液体、気体へと変化する。ヘーゲルはこの経験的な事実から、水という重層的で構造的な質を持つ存在から温度という単純な量だけを取り出している。水は複雑な構造を持つ存在として無限の質を持っており、したがって質の内的運動である量を無限に持っている。有論では質と量のカテゴリーが形成されているだけであるから、具体的存在である水の構造を規定することはできないし、その水を定有あるいは定量として規定することもできない。だから、実例から量のカテゴリーを引き出す場合は、水という構造物のどの質のどの量を取り出しているかを明確に規定しなければならない。経験的な意識は質と量のカテゴリーの関係を規定できないからである。
 
 質と量を分離しているヘーゲルは、水を質として温度を量とする任意の抽象をしており、自分がどのような抽象をしているかを考えていない。水を質として体積を量として取り出せば、水は個体より液体の方が体積が小さくなる特殊な量の運動を持っているから、質と量の関係は温度と水の三態の関係とは違ってくる。水の全体を質とするばあい、水からいろいろな量を取り出すことができるのであって、温度だけが水の量の規定ではない。構造的な質を持つ水は、質に応じた、質に内的な多様な量を持つのであって、量の運動形態は水に含まれる様々の質によって規定されている、と考えるのが質と量の一般的関係である。
 
 現在では、水の現象的な変化だけでなく、水と温度や体積といった量的規定がどのような質に対応しているかは厳密に理解されている。量的変化の質的内容が理解されている、と言ってもよい。だから、水全体を質として、温度を量として取り出して、それをカテゴリーの関係として規定する必要はない。水の内的構造が明らかになり、水の温度の量的変化がその内的構造とどのような関係にあるかは明らかになれば、質と量が抽象的に任意に関係させられることはなくなる。
 ヘーゲルは温度の変化が水の分子の運動量の変化であることを知らなかったし、水の分子構造を知らなかったから水の三態変化という存在形式と温度がどのような関係にあるかを知らなかった。経験的に、温度という量の規定の変化に水の飛躍的な形状変化が対応していることを知っていただけである。温度の変化の背後に潜んでいる別なものとは、質の変化、つまり水の分子間結合の変化である。
 しかし、ここで問題なのは、ヘーゲルの自然科学的な知識が歴史的な限界を持っていることではない。この現象を思惟によってカテゴリーに改変することにおける間違いである。
 
 ヘーゲルは、水の三態の変化と温度の変化を結びつけて、温度という量が限度に達することで質の変化が起こる、としている。現象はそのようになっており、温度の変化と形状の変化が常に一定の関係を持っている。ヘーゲルはこの現象から論理を組み立てて、温度という量が限度に達すると質的変化が起こるから、量的な変化が質的な変化を引き起こす、としている。実際に、水は時間的には量的な変化を経て、量的な変化の蓄積の後に質的な変化にいたる。これは、存在一般の法則であり、経験的な意識はそのように認識する。しかし、論理的には、質はまず量的に変化してそのあと質的に変化する。だから、質がまずあって、質が量の運動のあり方を規定している。水がまずあって、水の質があって、水の質に応じた量的変化が起こっている。水は他の液体とは違った量的運動形態をもっており、水と氷と水蒸気もそれぞれ違った量的運動形態を持っている。不思議なことにヘーゲルは、水という質を前提にした量を問題にしていることを理解していない。
 
 存在するものすべてが、時間的には量的な変化の後に質的に変化する。しかし、カテゴリーの順番は現象の時間的な変化と同じではない。変化する前にすでに質がある。量はこの存在する質の内的運動である。すべての質には特有の量的運動形式があり、質に特有の限度がある。質と質の相互関係の交差によって質の内容が変化し、したがって量的変化も限度も運動するから、予めすべての量の限界が規定されているわけではない。しかし、量が質によって限度を決められており、また量的な運動の内容も質によって規定されていることは動くことの無い基本的な原理である。
 
 経験的な意識にとっては、量は質の規定を捨象しているように見える。ヘーゲルもそのように規定している。実際は質を捨象しているのではなく、多様な質から一つの質を取り出して他の質を捨象してその量を問題にしているだけであり、そのさいに取り出された質と量を特定できていないだけである。どのような質を取り出しているかを認識できない場合、量が抽象的で根源的な規定であるように見える。まず抽象的で無規定な純量があって、それが限度づけられ、規定されると質が生れるように見える。質と量をこのような関係において規定する場合は、量が始元となり絶対者となる。
 カントはカテゴリー表において量のカテゴリーを質のカテゴリーに先行させた。また、純粋理性批判は空間と時間を量的な絶対者とした上で認識の始元としている。しかし、この方法では量の限度が出てこない。量の中には量の限度を規定する内的な契機は存在しない。だから、質はその無限者の中に予め与えられたもの、或いは任意に与えられたものとして、実際は経験的事実から取り出されて前提されるのであり、量自身において論理的に導き出されることはない。
 ヘーゲルは論理学の構造としては質の規定を先行させているが、質と量を分離した上で、量の規定においては量を質に先立たせている。
 
 ■.2 ギリシャ人はすでに、ここにみられるような限度のアンチノミーをさまざまの衣裳のもとに例示している。例えば一粒の小麦が小麦の山を作るかとか、馬のしっぼから一本の毛を抜けばそれは禿げたしっぽであるか、というような問がそれである。こういう問をかけられると、人はまず、量の本性が有と無関係で外的な規定性であることを考えて、それを否定したくなるであろう。しかし次に人は、こうした無関心な増減にもその限界があって、小麦を一粒ずつ加えていき、毛を一本ずつ抜いていけば、ついに小麦の山ができ、禿げたしっぽが生じる点に達する、ということを認めざるをえないであろう。元気に歩んでいる驢馬の荷を、とうとう驢馬が担いきれぬ重荷のためにたおれるまで、一オンスずつ増していったという百姓の話も、同じである。もしこうした例え話を空論的な無駄話と言う人があれば、それは大きな思いちがいである。なぜなら、ここには、それを知ることが実践および特に倫理にたいして非常に重要な意義を持っている思想が含まれているからである。
 
 ▲、ヘーゲルは実例に頼っている。ギリシャ人は経験的に面白い現象を見つけて描写するのがうまい。それは論理的な規定を求めているのであって、それ自身が論理的な規定になっているわけではない。論理には論理の順序があり、その順序は経験的な意識とは逆になるものであるから、現象を直接論理に改変することはできないものである。だから、ヘーゲルが実例に頼るのは、現象と違った論理の構造が分からなくなる時である。
 
 論理学は存在を一般的運動法則として規定する学問である。運動の原理は有と無の統一である。有と無の最初の同一が質である。質における有と無の対立は質=有と量=無の対立である。一般的運動法則において有は、つまりこの場合は質は相対的な静止状態を意味している。相対的な静止とは質的同一性を意味している。質的同一性である有と、有の否定である量が対立しており、質における運動は量の運動である。だから、量の運動とは、質が本質のカテゴリーへと移行しない限度内における運動形式である。
 
 ギリシャ人のこの実例は、質と量が直接に一致している現象を扱っているから、量のアンチノミーに見えるが実際は質のアンチノミーである。この場合質は複雑な構造を持っておらず、単純な運動形態を持っている。禿の質的規定は直接に毛の本数の規定と同じである。したがって、質的変化、質の運動、質の限度の運動と量の運動が一致している。ここにあるのは、質の限度が明確な規定として存在していないこと、つまり質の限度が運動していることに内在する一般的なアンチノミーである。何%の毛がなくなると禿になるかは規定されていない。禿の質的な規定がはっきりすれば、禿の内部における毛の運動形態を規定することができる。あと何本で禿になるか、一本の毛が抜けた場合に禿の何%にあたるかははっきりする。
 質の運動の限度は一般に明確ではない。飛躍がある場合でも厳密に見ると常に連続性があって限度を明確に決めることはできない。質が他の質へと運動する場合は固有の他者へと移行する連続性を持っているから断絶はありえない。だからこそ質の他の質への転化は本質への転化となる。つまり、ある質とその質が変化した質の関係は両者の直接的関係を超えて構造を持つことになり、ここに質の普遍が生まれ、本質と現象の対立という新しい領域が生まれる。或る質から他の質への転化は二つの質の関係として規定することはできない。構造的なカテゴリーの相関としてのみ規定できる。
 ヘーゲルは107節で、神が限度を決めると言っているが、この例から言えば、たとえ神であっても、どこから禿になるかを決めることはできないだろう。それは禿という質が明確な規定を持っていないからである。だから神が禿の規定を先に決めれば問題は起こらない。禿の例は禿の質の規定が明確でないこと、禿への質的な変化が明確な限度を持たない、という質の特徴を表わしているのであって、量の特徴を示すものではない。
 この問題は、さらに一般的に言えば、馬の尻尾から毛を抜くと馬の毛はなくなったと言えるか、という問題である。存在と非存在、有と無を明確に分離することはできない、存在はすべて有と無の同一である、存在は運動として存在しているということである。この場合の存在は禿と毛である。運動一般の法則が単純な実例の中に現れているのであって、ここから量を取り出すのはヘーゲルの混乱である。
 (2011.06.16改稿)


 
第一〇九節
 
 ■.1、限度のないものとはまず、限度がその量的本性によってその質的規定性を越えたものである。しかし最初のものの限度こそ欠いていても、第二の量的関係はやはり質的であるから、限度のないものも同じく一つの限度である。こうした二つの移行、すなわち質から定量への、および再び定量から質への移行は、無限進行、すなわち限度のないもののうちでの限度の否定および回復として表象することができる。
 
 ▲、ヘーゲルは現実世界の経験的認識をそのまま論理形式に移しかえようとしている。経験的意識は、質の基礎に量があると考え、量が質を規定すると考える。
 ヘーゲルの論理では量は質から独立している。そして、量は無限性を持ち、その無限性の本性によって質的規定性を超える。量が無限的な増減運動の中で自己を限度として規定すると質を形成し、その限度を超えて運動した後に再び次の限度=質を作り出す運動が量と質の関係である。つまり、量の運動が質を生み出す関係になっている。
 ヘーゲルの論理における質と量がこのような関係になるのは、定有の併存を認めて、質から質への変化、定有から定有への変化を論理化しているからである。定有から定有への変化、質から質への変化が、質と量の関係によって規定されることはありえない。
 有の領域では質と量の関係が形成されるが、質と質との関係は有の領域では生まれない。本質の領域においては定有と定有の関係が単独で生じることはない。したがって、質と質との関係、定有と定有の関係を論理化すること自体がヘーゲル論理学の間違いである。質と質との関係、定有と定有の関係が論理としてあり得ると考えるのは経験的意識の偏見である。
 
 ヘーゲルは有論に定有の併存を認めており、定有から他の定有への移行を認めている。そして、量がこの運動を規定する関係になっている。
 しかし、有の領域では抽象的な質のカテゴリーが現れるだけで他の質との関係は現れない。有の領域におけるカテゴリーの関係は質と量だけである。有と無の対立は質と量の対立として有の領域を形成している。質の内的否定である量の運動が質の限度に到達すると有の領域は終わる。したがって、限度とは質の限度であると同時に有の領域の限度である。
 有の領域では質と量があり、質の内部的な規定性である量の規定だけが現れる。経験的意識には、質が自己の限度を超えて他の質に移行するとき、質と質のあるいは定有と定有の相関関係が表れるように見える。だから、ヘーゲルはこの過程を論理化して、量の無限的な変化が質を生み出す、と考え、しかもそれを有の領域の相関と考えた。
 しかし、質が他の質を生み出す場合、質と質の併存や相関関係を生み出すのではない。質が他の質を生み出して複数の質が形成されると、質と質の特有の構造的な関係が生み出される。質と質の同一性が本質を形成し、その対立物である個別の質は現象となる。そして、本質の領域が生まれる。カテゴリーの展開においては質の固有の他者は他の質ではない。質の固有の他者は本質のカテゴリーである。質と量の対立は本質と現象の対立に移行する。質が量の運動によって他の質に移行するという単純な運動形態は論理としては存在しない。
 
 ■.2 補遺 量は、すでに述べたように、変化すなわち増減しうるにとどまらず、それは一般に本来自分自身を超出するものである。こうした本性を量は限度のうちでも保持している。しかし限度のうちに存在している量が、一定の限度を越えると、それに対応している質もまたこれによって否定される。といっても、質一般が否定されるのではなく、この特定の質が否定されるにすぎないのであるから、その場所はすぐにまた他の質によって占められる。かく交互に、単なる量の変化、次に量の質への転化として示される過程は、交点を結ぶ線として直観にもたらすことができる。こうした節線は、まず自然のうちに多くの形態のもとに見出される。水の質的に異った諸凝集状態が温度の増減によって制約されていることは、すでに述べた通りである。金属のさまざまな酸化の段階についても、同じことが言える。音の相違も、最初は単に量的なものが限度の過程において質的変化へ転化する一例とみることができる。
 
 ▲、ヘーゲルは、量が増減する運動において、量としての自己を超えて質になると考えている。量が質を規定するという意味である。しかし、量は自己を超えて同じ量になるだけであり、自己を超えて質になることはない。量は質の内的運動であり、質を超えない。量は質に転化しない。量は同質内の量になるだけであり、これは量に特有の連続性であって、この連続性は質の限度によって否定される。質はまず量的に自己を否定した後に自己に固有の限度において質としての自己を否定する。ヘーゲルの論理では、量の運動の中で質が形成されており、質が量の自己内運動になっている。定量が質になる。
 
 有の領域では質は質一般として一者として存在するから、量が質の内的運動であることは理解しやすい。有の領域の抽象化においてのみ質と量の関係を理解できるし規定できる。経験的意識は質一般まで抽象化することができずに、有の領域に定有あるいは質の併存を認める。そうなると有の領域に質と質の相関関係が表れ、量との関係を規定できなくなる。このような論理では、本質の領域においても量のカテゴリーを規定できなくなり、カテゴリーの相関の全体が混乱する。質と量を分離する経験的意識が本質の領域にも取り込まれることになる。
 質が他の質へと変化すると同時に自己を二重化して本質と現象の相関が表れると本質の領域がはじまる。有の領域で質と量を分離していると、本質の領域では質と量の分離がますますはっきりしてくるように見える。本質の領域では、質と質の関係は複雑な多重的な構造を持つようになる。その結果、質の内的運動である量の運動は、それぞれの個別の質の量の運動であると同時に、質と質の同一性としての多重化した本質の量的運動形式としても表れるために、量がどの質の運動であるかが分かりにくくなる。
 質が複雑な構造を持つ場合でも、量は質の同一性における運動という特質を持ち続けるために、質の多重な構造を反映することはできない。そのために量は質から独立した単純な運動をしているように見える。しかし、それは質の構造が複雑になって、質を単体で取り出すことが難しくなり、質と量の関連が見えなくなっていることを意味しているだけで、実際に分離しているのではない。
 
 現在でもアリストテレスの時代でも、或るもの=定有=質と他のもの=定有=質が量的に規定され、交換されていた。交換に量の限度があることは明らかである。しかし、交換の量の限度である質は何千年も明らかでなかった。
 五台の寝台が一軒の家と交換される場合には、量の比率が変動するものの、寝台と家が質的に同じものと見なされていることは明らかである。同質だからこそ量として比較されている。量的交換を規定しているのは質である。アリストテレスは量的な交換ができるのは質的に等しいからであることを理解していたが、この同質性が何であるかを理解できなかった。だから、家と寝台が交換されるにしても、両者が質的に等しいことは、「真実にはありえないことである」と結論している。(資本論・第一編・第一章・第三節・A 三 等価形態、参照)この同質性はマルクスによって初めて明確に規定された。
 また、例えばリンゴと羊と馬車があり、さらにまったく未知の物体があるとして、それが何であり、どのようなものであるかを知らなくても、大きさや重さを量として比較することはできる。この対象から取り出された大きさだとか重さという量の規定の質が何であるかを理解できなくても、量的に対象を規定することができる。このことが、量が質から独立して運動しているような外観を作り出す。
 リンゴにはリンゴの質があり羊には羊の、馬車には馬車の質がある。経験的な意識はこのように考えるだろう。そして、リンゴの質にはリンゴの質の量があり、羊も馬車も同じである。ところが、リンゴ、羊、馬車といった具体的存在は、無数の質を持っている。実際はリンゴや羊や馬車といった具体的存在の質を規定することは経験的な意識としても非常に難しく、論理的にそれを規定するには、論理学の全体が必要である。ところが、対象の質が明らかでない場合でも、まったく未知の対象であっても、対象を量的に規定することはできる。
 リンゴと羊と馬車を量的に規定する場合は、実際はその同質性を取り出している。リンゴと羊と馬車はそれぞれ無限の属性を持つが、その無限の属性の全体を知ることができなくても、あるいはまるで知ることができなくても、その一面の質を取り出して量的に比較し、同一化することができる。その場合、リンゴと羊と馬車を量的に規定するための基礎である同質化は意識されない。リンゴと羊と馬車の重さを規定することができるのは、重力との関係では三者とも同一の単純な関係にあり、三者自身においては、原子量に還元できるという同質性をもっている。だから、三者の量を規定しているときは、三者は同一化され、普遍化されている。量化とは一般に普遍化であり同質化である。
 
 リンゴの質を規定することはリンゴの何らかの質を量的に規定とすることと違って非常に難しい。経験的にも難しく論理的には論理学の全体になる。経験的な意識は、リンゴから、重さ、固さ、体積といった個別の質を取り出して規定することができる。その場合に、量と共にどのような質を取り出しているのかを規定することは難しく、そのことは意識されていない場合が多い。アリストテレスの例の同質性は、目に見えない社会的な質=抽象的労働というもっとも難しい実例であるが、リンゴや羊や馬車といった感性的な対象であっても、その質は無限の規定を持つからその質を規定することは非常に難しく、そこから任意の単純な量を取り出すことは簡単である。無論、複雑な関係に覆い隠されている質の量を取り出すのはその質を規定するのと同等に困難である。
 量が質から独立して質に対して無関心であり、外的な関係にあるように見えるのは、実際には量が質の内的運動だからである。これは、カテゴリーとしての量の客観的な特質である。そして、現象として現れる量的規定に対応した、その量を規定している質が量の背後にあって発見しにくいために、量が質から独立したカテゴリーであるかのように考えられてきた。リンゴと羊と馬車の質的区別に関係なく、これらの存在の重さを独自に規定することができるのは、重さがリンゴと羊と馬車に共通の普遍的な質だからである。
 (2011.06.17)


 
第一一一節
 
 ■.1、今や無限なもの、否定の否定としての肯定は、その二つの側面として、有と無、或るものと他のもの、等々のような抽象的な側面ではなく、質と量とを持つにいたった。この二つの側面は、(イ) まず質が量へ(九八節)、次に量が質へ(一〇五節)移行することによって相互に移行しあい、かくして否定的なものであることを示した。(ロ) しかし両者の統一、すなわち限度のうちで、両者はまず異ったものであり、各々は互を介してのみ存在している。しかし、(ハ) この統一の直接性が自己を揚棄するものであることが明かになったからには、この統一は今や、それが即自的にあるところのものとして定立されている。すなわち、有一般および有の諸形態を自己のうちに揚棄されたものとして含んでいる、単純な自己内関係として定立されている。--自分自身を否定することによって自分自身へ媒介され、自分自身へ関係する有、あるいは直接性、したがって自己を揚棄して自己内関係、直接性となる媒介--これが本質である。
 
 ▲、否定の否定としての肯定が無限だとか、統一、即自的、揚棄、といったヘーゲル的な用語があると弁証法的論理の展開に見えるが、これは論理ではなくヘーゲルの図式である。カテゴリーの移行の部分には常にヘーゲルの図式が表れるが、特に有の領域から本質の領域へといった大きな移行部分はまるで非論理的な図式になっている。
 
 ■.2 補遺 限度の過程は、質から量および量から質への反復的な転化という形を持った、果しない進行の悪無限であるにとどまらず、同時にその他者のうちで自己に出あうという真の無限である。質と量は限度のうちでまず或るものと他のものとして対峙している。しかしながら質は即自的に量であり、同じく逆に量は即自的に質である。したがってこの両者が限度の過程のうちで互に移行しあうとき、これら二つの規定の各々は、それが、即自的にすでにそうであるところのものへ移行するにすぎない。かくしてわれわれは、その諸規定を否定された有、一般的に言って揚棄された有をうる。これが本質である。限度は即自的にはすでに本質であったのであって、限度の過程はただ、限度が即自的にあるところのものとして自己を定立することにあるのである。
 
 ▲、質から量および量から質への反復的な転化を、「他者のうちで自己に出会う」と言いかえても一つの無限進行が構造的な自己内関係に変化することはない。ヘーゲルが想定しているように、量に規定された質の変化が、或る定有から他の定有への移行を意味しており、したがって或る質が他の質に移行することを意味するのであれば、或る定有における質と量の運動は他の定有において同じ質と量の運動をくり返すのであり、したがって悪無限である。ヘーゲルが、悪無限ではないとわざわざ書き込んでいるのは、直観的にこのことに気づいているからである。
 ヘーゲルは質と量と限度の関係を自己内関係としている。量的変化が質的変化を引き起こす限度において両者が統一される。両者の統一である限度が本質となり、その本質のもとで質と量が相関関係を持っている、とヘーゲルは考えている。「限度は即自的にはすでに本質であったのであって、限度の過程はただ、限度が即自的にあるところのものとして自己を定立することにあるのである。」という規定は、ヘーゲルが有論における有と無の直接的同一性を超える法則を見出せないことを示している。ヘーゲルは、本質が有に即自的に含まれていたとして、有論における規定をそのまま本質的な相関にして、この関係が定立されることをもって本質的相関の形成だと考えている。
 
 存在のすべては一者であるから、すべての関係は自己内関係である。自己内関係は本質の領域に限られるのではなく、それぞれの領域で特有の自己内関係がある。有の領域の自己内関係は質と量の関相関係である。質が他の質に移行することによって、本質の領域の自己内関係がはじまる。本質の領域の自己内関係は、質と質の相関関係である。本質の領域で自己内関係を形成するすべての質にその内的運動である量の運動が内包されている。
 ヘーゲルは有論で或るもの=定有から他のもの=定有への移行を問題にしているが、この移行が自己内関係を形成すること、本質の領域を形成することを理解していなかった。ヘーゲルにとって、或る質から他の質への移行は、現実の個別存在の併存を移行において規定するだけであり、外的な関係に過ぎない。したがって、ヘーゲルは質が他の質に移行する運動形態としての自己内関係を理解しておらず、そのために本質の領域に認識論が入ってくる。
 
 ■.3 --普通の意識は事物を有と考え、それを質、量、および限度の点から考察する。しかしこれら直接的な諸規定は、その実不変なものではなくて、移行するものであり、そして本質がそれらの弁証法の成果である。本質においてはもはや移行は起らず、ただ関係があるにすぎない。関係という形式は、有においてはわれわれの反省にすぎなかった。本質においては、これに反して、関係は本質そのものの規定である。
 
 ▲、現実の個別存在の抽象化すると定有になる。定有は運動しており、定有の運動を一般化すると、量的変化が限度において質的変化をもたらす。運動をこのように捉えるのは経験的意識である。
 
 ■.4 有の領域においては、或るものが他のものとなれば、或るものは消失してしまう。本質の領域においてはそうでない。ここには真の他者はなく、差別、すなわち、或るもののその他者への関係があるにすぎない。したがって本質の移行は、同時になんら移行ではない。というのは、異ったものが異ったものへ移行しても、異ったものは消失するのではなく、異った二つのものはあくまで関係しているからである。例えばわれわれが有および無と言えば、有はそれだけで存在し、同じく無もそれだけで存在している。肯定的なものと否定的なものとの場合は全くちがう。この二つも有および無という規定を持ってはいる。しかし肯定的なものはそれだけでは何の意味も持たず、それはあくまで否定的なものに関係している。否定的なものも同じである。有の領域においては関係は即自的であるにすぎない。本質においてはこれに反して関係は定立されている。これが、一般的に言って、有の諸形態と本質の諸形態との区別である。有においてはすべてが直接的であり、本質においてはすべてが相関的である。
 
 ▲、ヘーゲルの論理学では有の領域で運動一般の原理を規定している。それが成であり、量の質への転化である。経験的な意識はここで運動の原理が終わる。そして、本質の領域は移行ではなく、関係を規定する領域になる。だから、運動とは場所移動と、種が葉になり幹になり実をつけるといった或るものの成長と社会的な発展を意味していることになる。
 実際は論理学の全体が運動の原理を規定する。有の領域は運動の一般的原理の規定としての有と無の同一と、その第一の具体的運動形態であり、運動の基礎となる質の規定である。そして、本質の領域は質の運動を規定する領域である。ところがヘーゲルの論理学では運動の規定は有論で終わり、本質の領域は関係の領域となる。そして、カテゴリーの運動形態としては、認識の運動が入ってくる。
 ヘーゲルは現実世界を定有の併存と考えている。それぞれの定有の運動を規定するのが有の領域である。併存し運動する定有の相互関係を規定するのが本質の領域である。つまり、ヘーゲルの本質の領域は、定有が併存する世界をどのように認識するかという、認識方法が論理の内容となる。
 
 ヘーゲルの論理では、有は存在一般の規定であり、個別存在の抽象的規定が定有であり、有論は定有を直接的に認識する方法である。有論は定有を質と量と度における運動として規定する。経験的意識にとっても定有が運動していることは明かである。そして、本質の領域は定有と定有の相関を、その全体の本質である概念との相関関係において定立する。こうして認識論的には、有論は対象を直接的に認識する方法であり、本質論は関係において認識する方法になり、論理学は認識を、単純な方法から複雑な方法へと系統的に規定する学問になる。
 このような規定は経験的な意識を論理的な形式に整えただけの図式である。経験的な意識を論理形式に変えると認識論になる。論理学の大系は認識論でもないし方法論でもなく、客観的な世界を運動法則として規定する学問である。
 
 ヘーゲルは「有においてはすべてが直接的であり、本質においてはすべてが相関的である」としている。この直接的と相関的は、実は認識方法を示している。論理は客観的運動の規定であるが、有の直接性から本質の相関的関係へ移行するという形式を取らない。ヘーゲルの論理では客観的な論理的移行を規定することはできない。ヘーゲルの論理にとって客観的世界は、量の質への転化としての定有の運動にすぎないからである。
 
 有の領域は運動の一般的原理と、質の内的運動である量の運動を規定する。本質の領域における多重的構造をなす自己内関係は質の運動形式である。質が他の質を生み出し、複数の質が形成されると、質と質の同一性としての本質が生まれる。こうして質と質と本質という三つの関係が生まれる。この相関が本質の領域の運動形式である。弁証法的論理における運動の規定は本質の領域の内容を意味するものであって、有の領域は本質の領域の具体的運動の規定の基礎となる一般的運動の規定の領域である。
 
 ヘーゲルは水の三態を量の質への変化、度の規定の実例として使っていた。実際は水の三態は、有の領域から本質の領域への変化である限度の実例となる運動形式である。
 水は気体から液体そして気体へと変化する。このように変化しても水であることは同じである。氷、水、水蒸気は水として同一である。カテゴリーで言えば、或る質が他の質に変化する場合、質は固有の他者に変化したのであって、それは質自身の変化であるから、他者である質は変化する前の質自身でもある。また、質自身が自己の他者になったのであるから、その他者は自己でもある。或る質と他の質は同一である。しかも、他者に変化したのであるから自己ではない。個体であっても液体であっても気体であっても、水であることは同一である。しかし、個体と液体と気体は違うものへの変化である。
 この時、本質の領域を形成する二重化が形成されている。質が他の質に変化するとき或る質と他の質の同一性が変化の対立物として形成されており、この同一性は不変である。運動しない同一性が本質である。或る質が他の質に変化する場合に重要なことは、また経験的な意識に見えないものは、背後に運動しない同一性が存在することである。現実の個別存在を分離した併存とするのは、この同一性を否定することである。質の併存が構造的な自己内関係を持つことを理解しない場合は、現実は有の領域のカテゴリーにおいて認識される。
 
 水が個体、液体、気体に変化する場合、個体と液体と気体は質的に違うものであると同時に関係を持っており、その関係は、個体も液体も気体も水であるという同一性にもとづいている。個体も液体も気体も水という自己自身との自己内関係を持つことになる。このとき、氷と水と水蒸気は、互いに固有の他者として相互に関係を持つが、同時にこれら三態ともに固有の他者として水という同一性を持っている。このとき、この同一性を見失って、氷と水と水蒸気を単に併存的な関係にあると見るとき、或るものと他のものというヘーゲルの規定になる。氷と水と水蒸気という違った質が存在することになるが、多様な質と同時に同一性が形成されることが本質の領域の形成である。ヘーゲルの或るものと他のものの相関はこの点で間違っている。
 こうして個体と液体と気体であることの相互の直接的な関係と、水であることの同一性との関係と、その同一性を介した相互の関係が生れる。水の三態の自己は水という同じ自己を同一性として持つことになり、したがって、三態相互の関係も自己内関係であることになる。水においては、個体と液体の関係と、水であることと個体の関係、水であることと液体の関係という、関係と関係の相互関係も生れる。こうして質の変化と共に複雑な錯綜した関係が無限に構成される。こうした関係のすべてを系統的な法則的な運動として規定することが本質の領域におけるカテゴリーの規定である。
 この水の変化に現れる論理は、ビッグバン以来生まれた宇宙のすべての存在の運動形式であり、物質世界と社会と精神世界の普遍的な運動形式である。こうした分化の結果として、経験的な意識の前には氷と水と水蒸気が併存している。これを分離して別々のものと見るのが悟性的な規定である。自己内関係として規定するのが弁証法である。
 
 経験的な意識にとっては、自然も社会も精神も、ある質が他の質を生み出し、多様な質の併存を生み出す無限の過程に見える。それをカテゴリーで表現すると、量の運動が限度において質を生み出す過程になる。しかし、実際は質が多様に分化して複雑な相互関係を生み出す過程であり、その複雑な関係はすべて自己内関係である。これは客観的な進化の過程であり、存在の全ては同一性を持っており、存在の全体が自己内関係の無限の展開である。この複雑な自己内関係を系統的に、抽象から具体への上向として規定するのが本質論である。
 したがって、有と本質の領域における自己内関係は、認識が生み出すのではなくて、有と無の運動が生み出す客観的な運動形式である。本質の領域は移行ではなく関係である、として移行と関係を対立させるのは、ヘーゲルの経験的な意識である。経験的な意識には質の変化は質の併存と相互関係を生み出すだけに見える。しかし、質の変化は複雑な自己内関係を生み出しており、この自己内関係こそが宇宙の存在全体の運動形式である。
 質の他の質への移行は常に自己同一的であり、したがって同一性と区別との関係の発展である。有の領域は、有と無の直接的な同一性の領域であり、この直接性とは、質が他の質に移行しない領域という意味であり、質と質との関係を含まない、という意味である。質と質の関係を含まない質の内的な関係が質と量である。有の領域を理解する上での困難は、主にこの直接性の領域に質と質の関係の規定を持ち込まずにカテゴリーを規定することにある。
 
 有の領域から本質の領域への移行の問題は、経験的な意識においてであるが、近代哲学の出発点であるデカルトによって取り上げられた。有の領域はギリシャ哲学によって考察され、本質の領域は近代哲学によって考察されたと言ってよいだろう。デカルトは、省察二において有名な蜜蝋の例を取り上げている。
 固くて、冷たく、たやすく触れることができる蜜蝋を火に近づけると、味、香り、色、形、大きさといった感覚的な対象である内容はなくなり、まったく違った形状になる。それでもなおそれは蜜蝋であると我々は認識する。外見が変化しても同じ蜜蝋であると認識されるこの事実は何を意味しているのか。味覚、嗅覚、視覚、触覚、聴覚に感じられたものは変わっても、蜜蝋であると我々は認識するし、実際に蜜蝋であろう。蜜蝋は蜜蝋でなくなる、しかも蜜蝋として同一である。
 しかし、この同一性だけが蜜蝋で、その味や香りや色や形は蜜蝋ではない、とは言えない。そこで、蜜蝋の変化と同一性との関係を、思惟によって規定するの論理であり、この関係の規定が本質の領域である。デカルトの規定にすでに認識論が入ってくるのは近代哲学が主観の運動を含む社会法則を問題にしはじめたからである。これは概念の領域の運動形式である。




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