12. 平凡 2


 九回での自然主義批判は一度だけで後が続かなかった。十回から十九回までポチの話で時間つなぎをしている。四迷の経験にもどづいた「とっておきの材料」をやむをえず使ったもので「平凡」の主題である自然主義批判は含まれていない。しかし自然主義作家と同じように身近な経験を切り取って描写したポチの話には自然主義に対立するリアリズムの特徴があらわれている。このような時間つなぎの短い文章にさへ反映する社会的本質について多少抽象的になるが今後の問題意識を喚起するために簡単に触れておこう。
 ポチの部分は誰でも四迷の巨匠としての手腕を認め高く評価している。例えば小田切氏の次のような評価には誰も異存のないところであろう。
 ポチという犬のことを描いた部分での、純粋無垢な愛情への溺没的な表現(これは利害関係によって傷つけられている明治社会の人間関係へのはげしい批判なのだ)…(「二葉亭四迷」岩波新書195頁)
 「ポチ」は純粋無垢という言葉に全く相応しいが、実はこれも明治社会の利害関係による複雑な媒介項を経た上での獲得物であり、この感情の意味を説明することは意外に難しい。本来は体系的な理論の中ではじめて説明できることなので自然主義に関連するかぎりでの外的説明をしておこう。
 まず四迷が他のどんな小説家よりも高度の思想を獲得していたことは「浮雲」や「其面影」によって明らかである。「ポチ」も、四迷の無垢の精神によってではなく、「浮雲」や「其面影」を描くだけの高度の思想を持つ小説家にしてはじめて描ける作品であると予想できる。自然主義作家には描くことの出来ない作品である。事実この「ポチ」も、社会的本質をより深く反映していることよって、つまり、より高度の思想的内容を持つことによって感動的であり、「無垢」と見える。したがって「無垢」の説明とは、文学作品における社会的本質の反映とは何か、高度の思想的内容とは何かを明らかにすることである。
 「浮雲」とポチ、あるいはトルストイの「アンナ・カレーニナ」とゴーゴリの「イワンとイワンがけんかした話」、バルザックの「幻滅」とモーパッサンの「雨傘」などのように非常にタイプの違った長編小説と短編小説もすべて社会法則を反映するイデオロギーの一形態であるから、その芸術的価値のレベルは社会的本質の反映のレベルのよって評価される。長編と短編のいづれが社会を深く反映するかというような問題は生じない。ただ反映する方法に、したがってその分析にも形態の違いからくる特有の困難がある。
 長編小説の場合大量の複雑な材料を必然的連関のうちに描いている。作家は大量の材料を必然的現象として構成するために材料に関する詳細な知識と連関についての深い洞察を必要とする。したがってそれを分析し理論的に再構築するには同じレベルの理論的力量を必要とする。社会的本質を発見する上での困難は、材料が豊富であるために、大雑把で教条的なやり方が必要とするだけの材料をいくらでも提供してくれることである。そのために小説の社会性が発見されやすいように思われがちである。特にルカーチの批評などがその典型であり彼のやり方は短編小説には適用できない。批評の方法と内容が誤っているからである。
 短編小説もまた社会的本質の反映レベルが芸術性の質であり、批評は同じ内容の理論的再構築である。長編と短編が同じ尺度で判定され、材料の大小が作品レベルを決定しえないのは全ての現象が本質の現象形態であり、現象が本質そのものだからである。
 現実世界では現象は本質と一致している。(対立についてはここでは触れない。対立とここでいう一致は矛盾しない。)しかし、小説の場合は精神による現実の再構成であるから本質と一致しているような現象を創造し描写しなければならない。このとき現象が部分的であるほど本質と一致するための独特の困難が大きくなる。たとえば動物学者が歯の一本、骨の一片、皮膚の一部からすでに存在しない動物の形態や生態を再現しようとする場合、その資料が小さく、非本質的部分であるほど再現が困難になるのと同じである。しかしその部分が全体との必然的連関のうちにあるかぎり再現は決して不可能ではない。資料が小さく、特徴的な部分から外れるはど、あらゆる動物に関する広範かつ詳細なしかも必然性にもどづいた深い知識が必要になる。その動物の本質の現象形態つまり他の動物との質的相違はより小さくなるからである。認識し再現する側から言えば、より小さな差異が本質的差異としての意義を持ち、したがって小さな誤りもより本質的誤りになる。本質は何らかの形で現象している。自然科学の場合我々の認識力、センサーの発展がより小さな現象をより本質的現象へと転化する。現象の本質化が認識の発展である。
 自然でなく社会を再現する場合主体に新たな条件が付け加わるとはいえ対象の再現そのものについては同じ事が言える。小さな現象、材料を社会的本質の反映形態として構成しなければならない。本質に対立する歪みとしての主観的構成があってはならない。主観的構成は主観の社会的本質を表現するだけである。主観の社会的本質と客観的世界の本質が一致していなければならない。描き方の小さなニュアンス、言い回しの微妙がこの一致と不一致の決定的な別れ道になり作品価値を決定する。作家は高レベルの感受性によって社会的本質に外れた主観性を不自然とか俗とか古いとか感じる。そのように感じ取る作家だけが天才の名に値する。枇評はまた高度の感受性によってその微妙な差異を感じ取るとともに同じ内容を理論的に再構築しなければならない。
 したがって結論としては、長編小説、短編小説、の創造も作品の理論的分析も社会に対する深い詳細な知識と連関の洞察力とを必要としていることになる。これは共通の対象を反映するという内容の共通性に発しており、各々の独自の困難は再現形態の特殊性による特殊的困難であり、対象=内容の複雑さと現象の本質化の課題は一致する。
 本質と現象の分離、つまり主観の社会性と客観約現実の社会的本質の分離が自然主義作品の場合「ポチ」とのどのような違いとして表れるのか四迷の批判に即して二点についてだけ指摘しておこう。
 社会的本質の高度の反映とは思想の客観性を意味する。写実、あるがままの再現は、社会法則、社会的本質を対象にしている時はじめて意味のある言葉になる。四迷の「ポチ」も客観性によって無垢とも見える普遍性、直接性を獲得している。外的に言えば四迷は高いレベルの感情を、的確に無駄のない文章で描いているということである。無駄というのはイデオロギーの場合いつでも客観性を逸脱したという意味の主観性である。自然主義の場合まず感情の質が俗であり、その俗な感情の必然的髄伴物としての主観的反省=人生論がある。自然主義は、経験的小事件そのものに一般性を発見し描写方法によって一般性にまで高める能力を欠いており、一般性を持たない描写に人生論や教訓といった非芸術的形式による一般性--これが理論上の一般性を持つものでなく、描写内容の個別性に応じた個別的で俗な内容を持つのは言うまでもない--という新たな、自然主義に特徴的な無駄がつけ加わる。
 四迷は長年の研究と才能のおかげで自然主義的感情も自然主義的人生論もふり払っている。「浮雲」や「其面影」に表現されている高度の精神とは、中年文士の性欲に関心や知識が限定されておらず、したがってその小さな事実から単純な教訓、人生論を引き出す教養的思想とも無縁である。高度の思想の獲得は、無駄な=低レベルの=主観的な思想の克服であり、無駄な文章が排徐されることによって小さな事実が直接心に訴えるようになっている。主観的反省が消えて直接訴えることが由来るのは、事実の描写そのものが高度の一般性を獲得しているからである。
 したがって自然主義者が無駄な人生論的反省を書かぬように努力したり消し去るという消去的方法では「ポチ」の無垢の精神を獲得することはできない。無駄は思想のレベルの低さであるから高度の思想ではじめて無垢、つまり客観との一致に達することができる。だから無規定的純粋という意味での常識的な無垢などありえない。インテリに限らず人は皆必然的に思想を持っている。その思想を無垢だとか純真だとか評価するのは、その対象に無批判的に惚れ込んでいたり、対象が高度過ぎたりして対象を全く分析できないからである。自分の無理解に感動しているのである。
 小田切氏の引用部分は括弧内の文章からも分かるように後者にあたる。どんな小さな文章も、一般にいい文章、かざりけのない、素直な、落ち着いた等々に感じとられる--感じとる方の高度の思想を前提にして、つまり実際にそうだとして--文章を書くには高度の思想を獲得する以外に方法はない。どんな文章も書き手の全思想力の対象化である。「ポチ」の描写も「浮雲」を書いた巨匠の筆であり、自然主義流の作品を書くことに熟練しても書けるものではない。四迷的思想に熟練しなければならない。
 ポチの無垢の単純さは高度の思想によってのみ獲得される。高度の思想は同時に高度の感情を意味する。そして社会法則に規定された、つまり社会的諸関係を意味する思想、感情レベルは階級性という特殊な質的規定を内包している。四迷の高度の思想とポチの素朴さ、単純さが一致するのはこのためである。
 ちっぽけなむくむくしたのが柔らかな乳首を探り当て、お腹もくちくなって溶けそうな好い心持ちになり、ついうとうとしてしまう、大嫌いの父親を説き伏せて何とか家において貰う、半分残してきた弁当をポチにやる、あつかましい犬にエサをとられて不思議そうに小首をかしげている、こんなポチや私の感情を何とも言えず感動的に描いている。このような感情は、不幸な小夜子の美しさを描き、小夜子のために全力を尽くそうとする哲也を描く四迷でなければ描けないし、小夜子や哲也の感情を読み取る感情でなければ感じとることはできない。
 「ポチ」には四迷である「私」がおかれた諸困難の中で生まれる深い感情が、あたかも哲也の厳しい人生が小夜子への深い愛情を生むように、四迷の対象化としてポチに注がれている。したがって小夜子はポチに対する「私」の愛情を理解する。深い愛情がポチに向けられるのは偶然であるがその感情の探さを理解することはできる。同じように小夜子や哲也と共通する困難を抱え、共通する感情を持つ人々は「私」の感情を理解する。たとえ子供であっても、四迷のように高度の知的訓練を受けていなくても、庶民的困難の中に生きているならば「私」と共通の感情を持ち、眠りこけていくポチの姿に言うに言われぬ感情をかきたてられるだろう。
 理論的にも感情的にも非常に高度な内容を獲得している四迷は他の全ての作家に比べて明治の「日本の下層社会」に格段に近づいていた。四迷は彼らのつき当たる諸困難の解決を生涯自分の課題としていたことにおいて、したがって彼らの感情に近い「ポチ」を書きうることにおいて天才だった。逆に言えば「日本の下層社会」の人々があらゆるインテリよりも四迷の天才的思想にはるかに近い思想を持っていることをも意味している。
 思想の階級性がインテリ的知的訓練の内容的方向を決定する。この質的方向が誤っていれば知的訓練を重ねるはど四迷の天才から遠ざかり、質が低下し、凡俗に、常識以下になる。「ポチ」の描写を読者がどのように感じ取っているか、感じ方そのものは誰にも分からない。それについての感想からおよそのことが推量できるだけである。
 小田切氏は引用にあるように無垢を明治の利害関係に対する抗議と位置づけている。事実は全く逆で利害関係に感情的にも思想的にも最も深くかかわっているから単純でなおかつ感動的なのである。だからこのような誤った解釈をつけ加えている分だけ、このような誤った解釈と一致できる分だけ、「ポチ」から受け取る感動は薄められ歪められていると予測できる。
 同じ「ポチ」について中村氏は、葉山や昇を正しいと感じ取る批評家らしく、まじめくさった、感動のかけらもない、まったく想像を絶するほどのバカバカしい文章を連ねている。中村氏の批評は感情や教養の質の階級性が四迷と対立的に発展した場合どのように堕落していくかの見事な見本となっている。中村氏の文章はあえて引用しない。「二葉亭四迷論」や「二葉亭四迷伝」の「ポチ」の部分全体を読むべきである。多少とも四迷を理解する人々はこのひからびた精神を哀れと思うだろう。中村氏の「平凡」に関する批評を読めば、彼があまりにも四迷からかけはなれており、結局四迷の作品を傷つけることなどなかったのだということ、ただ同じ階級性を持つ批評家に一緒に入るべき墓穴を掘ってやっただけなのだということが感じとれる。中村氏は批判に値しない。
 ポチで一息ついた後三十五回まで、生意気な学生の軽い描写とうわついた自由民権かぶれの平凡さや少々成上った先生を風刺している。これらの人物は文士ではないが、実に手慣れた軽いタッチで描写されており、四迷がインテリ的凡俗から遠く隔たっていたことを物語っている。例えば漱石のような優れた才能でさへ金持ちや出世主義者、俗なインテリを批判し厳しく自己区別しているのに対し、四迷はそのような努力を必要とせず、前提とした上での生き方の模索を課題にしていた。「吾輩は猫である」と「平凡」を比較すれば、四迷のユーモアのセンスの方が漱石に比べて格段に垢抜けしていることがわかる。
 三十六回から主人公の雪江さんに対する愛情つまり性欲が登場し、自然主義批判が佳境に入る。両親は出かけ手伝いの松も湯に行って、雪江さんが一人になってちょっと部屋へおいでなさいと言っている。自然主義文学では性欲の発現すべき、人生の大動機を惹起すべき好気運である。作者の力量の見せどころであり四迷も腕をふるっている。
 が、誰も居ぬ留守に、一寸入らツしやいよ、と手招ぎされて、驚破こそと思ふ拍子に、自然と体の震い出したのは、即ち武者震ひだ。千載一遇の好機、逸してなるものか、といふやうな気になつて、必死になつて武者震ひを喰止めて、何喰はぬ顔をして、呼ばれる儘に雪江さんの部屋へ行くと、屈むでゐた雪江さんが、其時勃然面を挙げた。見ると、何だか口一杯頬張つてゐて、私の顔を見て何だか言ふ。言ふ事は能く解らなかつたが、側に焼芋が山程盆に載つてゐたから、夫で察して、礼を言つて、一寸躊躇したが、思切つて中へ入つて了つた。
 雪江さんはお薩が大好物だつた。私は好物ではないが、何故だか年中空腹を感じてゐるから、食後だつて十切位はしてやる男だが、此時ばかりは芋どころでなかつた。(第四巻158頁)
 このような性欲の描写は四迷独白の方法である。自然主義者にとってはバカバカしいとしか言いようがないであろう。自然主義は人間の根源的欲望が発現すべき一大事を千載一遇の好機とか武者ぶるいとは書かないし、まして芋どころではないなどとは書かない。自然主義的観点からすれば俗で芸術性に欠ける。自然主義の露骨は、露骨でも露骨が違う。露骨であることが意義を持つのは、そこに言うに言われぬ煩悶、人間本来の根源的懊悩、近代的自我誕生の苦悩その他の常人には気付かぬような重大問題が隠れているからである。芋どころでないのは当然であるが、それは武者ぶるいがして芋どころでないのではなく、ここには性欲にともなう、芋どころではない煩悶が書き込まれるべきところだからである。四迷が芋などに「どころではない」とこだわるのが非芸術的であり、芋など初手から無視して性欲にまつわる人生問題にかかわるべきである。そうでないからこの場面は彼等にとってバカバカしくなる。
 このような感想が四迷のサタイヤのねらいである。四迷にとっては女学生に対する性欲で人生論は問題にならない。この芋どころでない性欲の場面がこの上なく愉快であるのは、自然主義者のまじめくさった人生論的反省の場所に芋があり、自然主義全盛の文学的環境の中でこの芋がイデオロギー的意味を持つからである。
 自然主義は性欲を人生観で潤色する。性欲を潤色しているだけの、つまり生地が性欲であるような、性欲に支えられているような、性欲の発現によって思いつような人生観は芋程の値打ちもない。性欲の発現に人生観を書き込まずにはおれず、人生観なしに性欲が発現しない哀れな作家にとっては、性欲の発現にあたって「芋どころではなかつた」などと書くことは、芋による人生観と性欲の冒漬である。あまりにもふざけた、自然主義をバカにした、非文学的作品である。しかし、本当は「芋どころではなかつた」性欲は、中年インテリの人生観で退屈にされ、いやらしくされた性欲よりはるかに上等である。
 三十九回まで全く見事なサタイヤを描写した後、四十回から自然主義の直接的批判を始める。細部に至るまで全て重要であるが、このすばらしいニュアンスを批評で再現することは不可能であるから、基本的な思想についてのみ説明し、「平凡」の草稿を準備しはじめた四一年一月前後から「平凡」に収めきれなかった文壇批判を論評形式で別に発表しているから関連のある部分を紹介しておこう。
 性欲を潤色する人生論は芋程の値打ちもない。しかし「芋どころでなかった」性欲はもちろん、人生論で潤色された俗な性欲でさえ芋よりはるかに上等である。性欲は人間のもっとも基本的な、重要で、強力な欲望であり、これは解放され充足されねばならない。四迷もこの点では他の天才達と同様で禁欲主義にはまったく縁がなかった。「茶先髪」では日露戦争で生じた多くの未亡人達が、両夫に見えずという道徳的偏見によって不幸な人生を強いられることに反対しようとしていた。「其面影」でも性欲に禁欲的に対処するのは偽善的俊子と彼女に影響された後の小夜子だけであり、しかもそれは彼女らの破滅の一要因と考えられている。「浮雲」ももちろん性欲の解放をめざしている。
 性欲の解放とは個人が互いに自由な感性によって自由に結びつくことである。しかし人間が自己意識をもつ自由な主体であり、社会的動物であることから特有の困難が生ずる。だからまた解放が意識されるのである。文三はお勢を愛し結婚したいと思っている。性欲の側面からいえばお勢との結婚で性欲を解放したいと思っている。しかしお勢は自分の性欲を文三との結婚によって解放しようとは考えなくなっていく。昇と文三の社会的対立の発展段階が、お勢の性欲を文三でなく昇の方向に解放しようとしており、したがって文三の性欲の解放は阻害されている。四迷は「浮雲」で文三の性欲をこの日本史的障害からどのように解放すべきかを課題にしている。
 人間は性欲だけでなく、同時に多くの欲望をもっておりできるだけ多くの欲望を充足したいと考えている。人間は社会的関係の中に生みおとされその中で多様な欲望を形成し、充足している。性欲はもっとも基本的な生物的種族維持のための欲望であるから決して消し去ることはできず、基本的欲望であるからこそ多くの社会的諸関係を媒介に貫徹せざるをえない。つまり多様な欲望と同時的に充足せざるをえない。彼を規定する社会的関係=彼の持つ社会的属性がより高度なほど多くの媒介項が必要となり、それにともなって性欲の内容も豊かにまた高度になっていく。性欲自身のあり方も充足のあり方も社会関孫に規定されておりそのために多様な内容をもつのである。四迷は性欲というたった一つの欲望の解放を目的とするほど愚かでなく、性欲も含めた全ての欲望と充足のあり方を規定する社会的関係に注目し、その現象形態としての欲望を持つ人物を描いている。個人の欲望の発生と社会的歴史的障害を具体的に研究しており、そのために性欲の解放という一点から見ても--非常に一面的で貧しい読み方になるが--性欲の解放にまったく言及していなくても四迷が性欲の解放をもっとも深く考察していたと考えることができる。
 自然主義作家も性欲の解放を望んでいる点で四迷と同じである。彼らは赤裸々な描写とか性欲そのものの解放とか言っているように性欲の社会的内容、阻害の社会性を意識していない。しかし人間の性欲の解放を阻害するのは医学の問題でないかぎりはすべて社会的である。自然主義者がどう考えていようと彼らもまた社会的障害と闘っている。
 自然主義者は性欲を吐露し露骨に描写することを性欲の解放と考えている。彼ら作家にとっての主な障害は、性欲を露骨に描写することが恥ずべき、非道徳的、反社会的だという、常識と作家自身にある観念、偏見である。自然主義が大流行した結果としての政治的弾圧は、後から性欲の解放に政治的意味を付け加えたのであって、自然主義作家は弾圧後彼らが表明しているように性欲の解放と政治的解放の関係などまったく考えていなかったし実際反動の役に立ちこそすれ解放の意義など持っていなかったのである。
 性欲を吐露すること、露骨に描写することを性欲の解放と考えるのは、そのような特殊な欲望を持ち、同時にそれに対応した特殊な障害を持つ人達だけである。文三や哲也は世間一般の人と同じように性欲の実質的解放を、つまり愛する人間との自由な恋愛や結婚を望んでいる。四迷もそうした一般的事実を描写しようとしている。性欲を吐露したいとか描写したいとは考えていない。
 性欲を解放し充足することと、性欲の吐露、露骨な描写の欲望を解放し充足するのは全く別である。性欲の吐露や露骨な描写で性欲を解放し満足できる人はいないし、それは自然主義作家も同じである。
 一般には性欲の解放の障害は道徳ではない。道徳の形式をとることもあるし、偏見も無視できないが基本的障害は社会的関係における利害である。性欲に対しては一般にはインテリが考えたり論じたりするよりは遥かに自由であり、道徳の一点で問題にすることはない。
 また一般にも自然主義作家も性欲それ自体の解放など問題にし得ない。自然主義者が性欲の吐露、露骨なる描写を人間解放の一環と位置づけ、批評家もまた同じように考えるのは、彼らにとって、性欲の吐露が彼らの社会的利害の解放として近代文学史上最初の、大胆な、偉大な試みであったからに他ならない。
 一般には性欲を吐露することは、無教養な、下ネタの好きな面白い奴と思われるくらいで、それ自体では良くも悪くも大した意味はもたない。しかし小説家が性欲を吐露し、露骨に描写するのは個人の一属性としてではなく、職業としての吐露である。インテリの職業能力としての、彼自身の全能力の対象化としての吐露あり、露骨な描写である。仕事の後でワイ談をするのとはわけが違う。職人が仕事の最中に性欲問題に夢中になっていれば親方にドヤされるし、サラリーマンが昼間から性欲の吐露に熱中しているようでは始末書を書かされる。
 ところが作家というのは、性欲の吐露を仕事の内容にする特別の階級である。性欲を露骨に描写し、もしそれが世間に受け入れられなければ、彼は好き者とからかわれるのではなく無能なインテリと言われる。しかし、もし性欲の描写が世間に受け入れられれば、からかわれるどころではなく作家先生としてもてはやされる。名誉と金を手に入れることができる。出世できる。
 イデオロギーによって生活する彼らにとって、性欲の吐露、露骨なる描写が作品世界として、作家の仕事場として認められることは、イデオロギー生産の欲望と、特に作家としての生活のため、社会的地位のために絶大な意義をもってくる。性欲は、自然主義作家でも知っているほどの普遍的な欲望であるから、どんな無能なインテリゲンチャでも例外なく持っており、性欲にまつわる経験も持つから、性欲の経験をありのままに露骨に描写することに、一般的意義ないし芸術的意義が認められれば誰でも自分の内部に材料を持つことになる。また普遍約欲望であるから、性欲に対して誰もが強い関心を持っており、性欲の露骨な描写と、露骨な描写を鑑賞することの芸術的位置付けには常に広範な需要が予想される。

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