18. 彼岸過迄 2
 「本当の所をいふと、僕には少し陽気過ぎたのである。従つて腹の中が常に空虚な努力に疲れてゐた。鋭どい眼で注意したら、何処かに偽の影が射して、本来の自分を醜く彩つてゐたらうと思ふ。其内で自分の気分と自分の言葉が、半紙の裏表の様にぴたりと合つた愉快を感じた覚が唯一遍ある。」
 陽気さに疲れ、腹の中が空虚な努力に疲れることは社会的に孤立したプチブルによくある心理である。積極的な能力を失い、信頼関係を形成できないことを経験的に理解している須永は端的で素直な欲望や意志を持てなくなっている。無力な須永は自分に対する評価を気に掛けるだけで自分の能力を証明することができない。須永は自分に対する否定的証明を恐れて積極的人間関係を回避しようとする。無能と判断されることも期待されることも不安である。さらに須永は自分の能力の限界を理解しながらそれをまだ現実として確定しておらず、自分の価値に対する肯定的評価を棄てきれない状態に生ずる空虚な葛藤に苦しみ、それを解消したいと考えている。
 須永は千代子が病気のために消極的な気分になっているとき、あるいは須永がそう感じたときに内的な葛藤を逃れて平安な心理を得ている。これが自己肯定的な心理であることは初期作品を経過してきた漱石にとって前提であり、須永にとっては千代子との一致は重要な意味を持たない。千代子に素直に接するとは自分の無力を意識せずに接することである。しかし須永にとって自分の無力を具体的に認識すること、つまり千代子との関係で生じる素直でない心理的葛藤を発展させることが基本的傾向である。
 須永と千代子はかつて端的な関係にあった。現在は須永の端的な感情が失われ二重性が形成されている。社会的に孤立し積極的な能力を失った結果千代子との関係に距離を生じ、距離を感じさせられ、内面的な二重性を形成するのは須永である。この二重性は千代子や田口に評価される力量をつけるか、千代子や田口に評価される可能性のないことを現実として受け入れることで解消される。須永が田口に評価される能力を蓄積する可能性はない。そのような欲望がすでに解消されている。須永の発展の方向は田口に評価される可能性のないことを現実として認識することだけである。それは須永の階級的必然性の認識である。
 「今迄自分の安心を得る最後の手段として、一日も早く彼女の縁談が纏まれば好いがと念じてゐた僕の心臓は、此答と共にどきんと音のする浪を打つた。さうして毛穴から這ひ出す様な膏汗が、脊中と腋の下を不意に襲つた。千代子は文庫を抱いて立ち上つた。障子を開けるとき、上から僕を見下して、「嘘よ」と一口判切云ひ切つた儘、自分の室の方へ出て行つた。
僕は動く考もなく故の席に坐つてゐた。僕の胸には忌々しい何物も宿らなかつた。千代子の嫁に行く行かないが、僕に何う影響するかを、此時始めて実際に自覚する事の出来た僕は、それを自覚させて呉れた彼女の翻弄に対して感謝した。僕は今迄気が付かずに彼女を愛してゐたのかも知れなかつた。或は彼女が気が付かないうちに僕を愛してゐたのかも知れなかつた。---僕は自分といふ正体が、夫程解り悪い怖いものなのだらうかと考へて、しばらく茫然としてゐた。」
 財産や地位に対する批判意識の背後には地位や財産に対する執着が潜んでいた。田口家との関係の断絶が確定している須永は偶然的な千代子の言葉によって千代子に対する積極的関心を自分で発見している。千代子に対する積極的関心がすでに失われつつある意識であることと、それが容易に解消できない心理であることが描かれている。自分の不可解な心理の動きに苦しんでいる須永にとって、自分の内部に千代子に対する積極的関心が根強く残っていることを発見したことは自分を理解するための重要な材料になる。須永は千代子との関係で現れる心理のうちで千代子に対する積極的関心に代表される、現状を肯定しようとする精神を関心の対象とするほど自己肯定的な心理から遠ざかっている。この精神を具体的に捉え、この精神の残滓を徹底して払拭するのが須永の傾向である。田口との関係を反映する様々の心理は田口の地位や財産に対する直接的な関心と違って須永自身の階級的本質としての根強い心理であり、具体的な段階を経て払拭しなければならない。
 「斯ういふ光景が若し今より一年前に起つたならと僕は其後何遍も繰り返し繰り返し思つた。さう思ふ度に、もう遅過ぎる、時機は既に去つたと運命から宣告される様な気がした。今からでも斯ういふ光景を二度三度と重ねる機会は捉まへられるではないかと、同じ運命が暗に僕を唆のかす日もあつた。成程二人の情愛を互ひに反射させ合ふためにのみ眼の光を使ふ手段を憚からなかつたなら、千代子と僕とは其日を基点として出立しても、今頃は人間の利害で割く事の出来ない愛に陥つてゐたかも知れない。たゞ僕はそれと反対の方針を取つたのである。」
 須永の孤立的人生が確定せず自己認識が未成熟であったときは、千代子との関係を男と女の愛情だけで決定し、その後の運命を成り行きに任すこともできた。しかし須永は千代子と自分の距離を苦い経験によって思い知らされる前に内的反省によって認識し始めた。人間関係の必然性を自分の方針とした。深刻な自己批判に基づいて自分と千代子の結びつきはあり得ないこと、愛情だけに頼って個人的な結びつきを求めても悲劇に終わることを理解した。須永は自分と千代子が他の事情を別にした二人だけの関係としては一緒になる見込みのないものとはっきり理解している。須永はダヌンチオがプレゼントしたハンカチを火の中に投げ込んだ少女の実例によって自分の好意が裏切られたときの打撃を説明している。実際の力を求めて止まない千代子のような端的な性格との関係は須永の無力のために必ず破綻する。千代子が自分と結婚すれば幻滅し軽蔑することを予測する能力のある須永はその結果に対する恐怖から千代子と結婚することはできない。それを自己の必然性として確定し認識することが須永の課題である。
 須永は千代子を「猛烈過ぎる」と評価する松本の評価を「眼識に疑を挟さみたくなる」と否定し、千代子を肯定的に評価し直している。
 「千代子の言語なり挙動なりが時に猛烈に見えるのは、彼女が女らしくない粗野な所を内に蔵してゐるからではなくつて、余り女らしい優しい感情に前後を忘れて自分を投げ掛けるからだと僕は固く信じて疑がはないのである。彼女の有つてゐる善悪是非の分別は殆んど学問や経験と独立してゐる。たゞ直覚的に相手を目当に燃え出す丈である。夫だから相手は時によると稲妻に打たれた様な思ひをする。当りの強く烈しく来るのは、彼女の胸から純粋な塊まりが一度に多量に飛んで出るといふ意味で、刺だの毒だの腐蝕剤だのを吹き掛けたり浴びせ掛けたりするのとは丸で訳が違ふ。其証拠にはたとひ何れ程烈しく怒られても、僕は彼女から清いもので自分の腸を洗はれた様な気持のした場合が今迄に何遍もあつた。気高いものに出会つたといふ感じさへ稀には起した位である。」
 松本の見識は初期作品の「我」の強い女性に対する批判的評価である。須永はそれを自分との関係で自己否定的、対象肯定的評価に変更している。千代子の端的で積極的な性格を、自分の無力を暴露されることを恐れる臆病から否定的に評価すれば毒を含むという解釈になる。それは彼女との関係で生じる自分の二重性を単純で純粋な相手に対象化したものである。自分の二重性や無力を理解している須永は自分と千代子の関係を初期作品と逆に理解している。それが現実の人間関係をより正確に反映したより現実的な自己認識である。
 須永は千代子を肯定的に評価しているにもかかわらず結婚できない理由を次のように深く分析している。千代子の肯定的評価は否定的自己認識であり、千代子と自分の分離の必然性を受け入れることを意味している。
 「是程好く思つてゐる千代子を妻として何処が不都合なのか。−−実は僕も自分で自分の胸に斯う聞いた事がある。其時理由も何もまだ考へない先に、僕はまづ恐ろしくなつた。さうして夫婦としての二人を長く眼前に想像するに堪へなかつた。…
 僕は常に考へてゐる。「純粋な感情程美くしいものはない。美くしいもの程強いものはない」と。強いものが恐れないのは当り前である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の眼から出る強烈な光に堪へられないだらう。其光は必ずしも怒を示すとは限らない。情の光でも、愛の光でも、若くは渇仰の光でも同じ事である。僕は屹度其光の為に射竦められるに極つてゐる。それと同程度或はより以上の輝くものを、返礼として彼女に与へるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。僕は芳烈な一樽の清酒を貰つても、それを味はひ尽くす資格を持たない下戸として、今日迄世間から教育されて来たのである。
 千代子が僕の所へ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない。彼女は美くしい天賦の感情を、有るに任せて惜気もなく夫の上に注ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が、彼女から精神上の営養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から予期するに違ひない。年の行かない、学問の乏しい、見識の狭い点から見ると気の毒と評して然るべき彼女は、頭と腕を挙げて実世間に打ち込んで、肉眼で指す事の出来る権力か財力を攫まなくつては男子でないと考へてゐる。単純な彼女は、たとひ僕の所へ嫁に来ても、矢張さう云ふ働き振を僕から要求し、又要求さへすれば僕に出来るものとのみ思ひ詰めてゐる。二人の間に横たはる根本的の不幸は此所に存在すると云つても差支ないのである。僕は今云つた通り、妻としての彼女の美くしい感情を、さう多量に受け入れる事の出来ない至つて燻ぶつた性質なのだが、よし焼石に水を濺いだ時の様に、それを悉く吸ひ込んだ所で、彼女の望み通りに利用する訳には到底も行かない。もし純粋な彼女の影響が僕の何処かに表はれるとすれば、それは幾何説明しても彼女には全く分らない所に、思ひも寄らぬ形となつて発現する丈である。万一彼女の眼に留まつても、彼女はそれをコスメチツクで塗り堅めた僕の頭や羽二重の足袋で包んだ僕の足よりも難有がらないだらう。要するに彼女から云へば、美くしいものを僕の上に永久浪費して、次第々々に結婚の不幸を嘆くに過ぎないのである。」
 須永は千代子の客観的な姿を認識しようとしているのではない。須永は千代子との関係で自己認識の対象化としての千代子像を形成している。対象認識が対象の客観性に届かず、自己の対象化に止まるのはこれまでの作品すべての特徴であるが、須永は対象肯定的で自己否定的である点でこれまでの作品と違っている。須永は自分の能力が千代子にふさわしくないとする観点から千代子を高く評価している。千代子の肯定的評価は千代子との関係の分離を反映している。このような分離がインテリに特有の独立性である。千代子に対する批判的評価は千代子との関係で自己を肯定することである。千代子批判には自分が千代子を拒否するという錯誤があり、それは千代子に受け入れられることを自分の価値とした上での拒否である。須永の場合は独立が先行している。須永は千代子をよく思っているにもかかわらず妻にできないのではなく、妻にするのが不都合なことが厳しく意識されていることによって千代子は高く評価されている。対象肯定的で自己否定的な現実認識は分離の必然性の認識の結果である。
 須永は純粋でなく美しくなく弱く臆病である。それは千代子の価値観における積極性に応えられないことである。千代子の純粋さや単純さとは地位や財力を求めることであり、その能力を須永が持つと幻想することである。須永は千代子の評価を幻想だと理解しつつその幻想が破れることを恐れている。それは地位や財産を得る能力がないことを自分の必然として受入れ、さらにその必然性の反映として地位や財産を自分の価値観として必要としないことを確定できないことを意味している。須永は幻想を維持するための努力にも疲れて幻想の崩壊を望むほどに幻想の崩壊の必然性を反映した意識を形成している。しかし実世間で権力か財力を手にすることを求められればその面での須永の無力は明らかになる。須永の立場に形成された独自の精神的獲得物は千代子にはもちろん彼の世界の誰にも理解されない。その能力は須永の階級の自己否定であるから自己肯定的な意識すべての軽蔑の対象になる。自己肯定的意識である愚かな自惚れの方がまだ千代子には理解できる。インテリの無知な自惚れを解消し自分の無力を知った須永の精神的価値は千代子には理解できない。千代子の須永に対する幻想は須永が現在獲得しつつある高度の意識と対立関係にある。これは初期作品に描かれた想定的な対立と違って現実的な対立形態であり、その結果は須永にとって孤立と田口や千代子との対立という厳しい現実を受入れることになる。その厳しい現実を受け入れることができるか、その能力を持つかどうかが、千代子との分離千代子の自分に対する幻想を破ることができるかどうかを決定するための須永の主体的な条件である。
 「僕に云はせると、恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命である。僕の思ひ切つた事の出来ずに愚図々々してゐるのは、何より先に結果を考へて取越苦労をするからである。千代子が風の如く自由に振舞ふのは、先の見えない程強い感情が一度に胸に湧き出るからである。彼女は僕の知つてゐる人間のうちで、最も恐れない一人である。だから恐れる僕を軽蔑するのである。僕は又感情といふ自分の重みで蹴爪付きさうな彼女を、運命のアイロニーを解せざる詩人として深く憐れむのである。否時によると彼女の為に戦慄するのである。」
 詩人とか哲人とか恐れるとか恐れない等々の抽象的な自己批評は松本に触発された形式的規定である。須永はまだ自己認識を確定していない。愚図々々するのが取り越し苦労をするからだとか、自由なのは強い感情が一度に湧き出るからだというのは、同じことを別の形式で表現した上で因果関係で結ぶ同語反復である。積極的な千代子が「蹴爪付く」というのも同類の表現である。初期作品によく見られたこうした形式規定を漱石はすでに認めていない。それが敬太郎の感想として書き込まれている。
 「須永の話の末段は少し敬太郎の理解力を苦しめた。事実を云へば彼は又彼なりに詩人とも哲学者とも云ひ得る男なのかも知れなかつた。然し夫は傍から彼を見た眼の評する言葉で、敬太郎自身は決して何方とも思つてゐなかつた。従つて詩とか哲学とかいふ文字も、月の世界でなければ役に立たない夢の様なものとして、殆んど一顧に値しない位に見限つてゐた。其上彼は理窟が大嫌ひであつた。右か左へ自分の身体を動かし得ない唯の理窟は、いくら旨く出来ても彼には用のない贋造紙幣と同じ物であつた。従つて恐れる男とか恐れない女とかいふ辻占に似た文句を、黙つて聞いてゐる筈はなかつたのだが、しつとりと潤つた身の上話の続きとして、感想が其所へ流れ込んで来たものだから、敬太郎も能く解らないながら素直に耳を傾むけなければ済まなかつたのである。」
 敬太郎の感想は正しく、須永の自己分析はこれ以上進展しない。恐れる男とか恐れない女という言葉は須永の自己分析が行き詰まっていることを示している。須永もそれを意識して「話が理窟張つて六づかしくなつて来たね」と言っている。
 ここまでは「それから」以前の作品の総括を意味する須永自身の自己認識の記録である。須永の自己認識はまだ自分の客観的状態に届かない。彼の自己認識として現れた意識は彼の意識上の限界であり保守的部分を示している。漱石はここから須永の自己認識の上に、須永自身の認識を越えた須永の行動と人間関係の展開を描写している。須永の具体的経験は須永の自己認識より多くを語る。須永は常に自己認識を越えて行動しており、その行動の結果によってさらに自己認識を深める過程を繰り返している。高木と千代子をめぐる具体的人間関係によって須永の自己認識と客観的法則との関係が明らかになる。
 須永は鎌倉に行くことについても矛盾した欲望を持った上で結局積極的に行く方を選んでいる。この行動の意義は須永には明らかでない。
 「変窟な僕からいふと、さう混雑した所へ二人で押し掛けるのは、世話にならないにしても気の毒で厭だつた。けれども母は行きたい様な顔をした。さうして夫が僕の為に行きたい様な顔に見えるので僕は益厭になつた。が、とゞの詰りとうとう行く事にした。斯う云つても人には通じないかも知れないが、僕は意地の強い男で、又意地の弱い男なのである。」
 千代子のいる鎌倉へ行きたくないという須永の表面的な意識と、それでもなお行く実践的選択の矛盾が須永の本質であり、実践的選択は自己否定的傾向である。彼が挙げる行動の理由は彼の認識の限界内部での思いつきである。瑣末な状況によって単純に動揺することにおいて強くもあり弱くもあるのが意地の特徴である。意志と欲望が具体的な内容を持つ場合は意地は問題にならない。鎌倉に行くのは千代子との関係を決定し、実践的に自分の正体を理解する機会を求めることである。下らない動揺を克服する正しい方法は矛盾を発展させることである。須永は自分の行動の意義を理解できないが、自分にとって煩わしい矛盾の中に入る勇気が彼にはある。その勇気を生み出すほどに彼の自己否定的認識は進んでいる。
 鎌倉では「浴衣掛の男」を見かけただけで須永らしい消耗的で内向的な葛藤が始まる。須永は日常的にこうした心理を抱えているわけではない。千代子と関わりのない母との生活では敬太郎が羨むほどの奥ゆかしい若旦那として静かに生きている。屈折した心理は千代子と接触するときに生まれる。須永は葛藤を求めて鎌倉に来たにもかかわらずこの結果を見てすぐに帰ろうとしている。しかし須永は結局この葛藤の中に止まる。須永は自分の不毛な葛藤を脱するために葛藤を求めたのであるから葛藤を嫌悪することと葛藤を求める基本的な傾向は矛盾しない。鎌倉に来て「浴衣掛の男」を見かけただけで帰ろうとし、結局止まるという葛藤を持つこと自体が須永の本質である。母や千代子には須永のこの心理が理解できない。須永の行動は須永自身にとっても理解し難く、容認し難く、端的に行動する千代子を羨んでいる。須永はこの屈折した、自分にも統御できない心理を克服するためにこの葛藤の中でその正体を理解しようとしている。彼は自分が鎌倉に止まった根拠を「要するに僕は千代子の捕虜になつたのである」と説明している。根拠は彼の思いつきであり自分の行動の必然性を須永は理解していない。
 「夫程親しみの薄い、顔さへ見た事のない男の住居に何の興味があつて、僕はわざわざ砂の焼ける暑さを冒して外出したのだらう。僕は今日迄その理由を誰にも話さずにゐた。自分自身にも其時には能く説明が出来なかつた。たゞ遠くの方にある一種の不安が、僕の身体を動かしに来たといふ漠たる感じが胸に射した許であつた。それが鎌倉で暮らした二日の間に、紛れもないある形を取つて発展した結果を見て、僕を散歩に誘ひ出したのも矢張同じ力に違ひないと今から思ふのである。」
 須永が鎌倉に出かけ、高木の住居をわざわざ見るのは「遠くの方にある一種の不安」に接してその正体を理解し、不安を取り除くためである。須永の不安は「遠くの方にある一種の不安」と表現されるに値する本質的な奥深い心理である。この不安の形態自体がすでに彼が高木との接触によって生じる矛盾を回避しないこと、この葛藤を求めていること、葛藤の展開の中にいることを自己認識の契機として求めていることを示している。
  「彼は見るからに肉の緊つた血色の好い青年であつた。年から云ふと、或は僕より上かも知れないと思つたが、其きびきびした顔付を形容するには、是非共青年といふ文字が必要になつた位彼は生気に充ちてゐた。僕は此男を始めて見た時、是は自然が反対を比較する為に、わざと二人を同じ座敷に並べて見せるのではなからうかと疑ぐつた。無論其不利益な方面を代表するのが僕なのだから、斯う改たまつて引き合はされるのが、僕にはたゞ悪い洒落としか受取られなかつた。
  二人の容貌が既に意地の好くない対照を与へた。然し様子とか応対振とかになると僕は更に甚しい相違を自覚しない訳に行かなかつた。…彼は自由に遠慮なく、しかも或程度の品格を落す危険なしに己を取扱かふ術を心得てゐたのである。…彼は十分と経たないうちに、凡ての会話を僕の手から奪つた。さうして夫を悉く一身に集めて仕舞つた。其代り僕を除け物にしないための注意を払つて、時々僕に一句か二句の言葉を与へた。」
 高木の評価は千代子の評価と同じで高木自体を規定することが目的ではない。須永は自分と高木を比較して自分を否定的に評価している。高木自身の正確な規定ができないのは中間的立場の必然である。彼らが社会や人間を客観的に規定できるようになるには自己否定的認識が形成されていなければならない。彼らの自己認識とは自己の中間階級としての階級的無力を認識することである。高木に対する不当に肯定的な評価も正確な自己認識を得るために必要な過程であって、高木自体の正確な理解はその次の課題である。高木自体は複雑な規定を持つわけではない。須永にとっての自己認識が困難であり、自己認識が獲得されれば高木の批判的な認識は困難ではない。
 須永の高木評価の特徴は自分のインテリ的特徴を否定的に評価することである。インテリの特徴に対する批判的認識がなかった初期作品では高木をこのように評価することは決してできなかったし、こうした人物を設定することもできなかった。ここに描かれた高木のすべての特徴はインテリの優位の観点からは無能や俗物として描かれる。小市民根性の根強い日本ではインテリの立場が社会的にもっとも積極的で高度の精神を持っているという幻想が現象的な意識であり、インテリの劣位が本質として発見されねばならない。ブルジョアに対するインテリの優位が無批判的な現実認識である。
 高木を否定的に評価し自己を肯定的に評価するのは高木と現実に競争することなく自己を肯定するインテリ意識である。高木を肯定的に評価し、その特質が自分にないことを認識するのは自己内のブルジョア的価値観を廃棄するブルジョアとの分離的意識である。須永はすでに高木と競争して千代子と結婚することを望んでいるわけではない。須永にとって高木や千代子は自己認識の契機以上の価値はない。須永にとって客観的に存在する高木や千代子自体は問題ではなく、高木や千代子はブルジョア的精神一般としてのみ意味がある。須永に接するブルジョア的個性は須永の必然性によっていずれにせよ高木と同じように肯定的に評価される。須永にとって高木や千代子が自己否定のための契機としての意義を持つのは初期作品のブルジョア的な俗物がインテリを肯定する契機としてのブルジョア像であったのと同じである。須永にとっては自分よりブルジョア的価値観において優位にあるものだけが自分の葛藤の展開の契機として現実的意味を持っている。高木を肯定的に評価することで生ずる歪んだ心理は、高木を否定し、軽蔑し、嫌悪することよりはるかに現実的な精神である。初期作品での俗物に対する否定的精神はインテリ精神の表面的形態であり、彼らの精神の客観的構造とはまったく別であった。自己肯定していた初期作品は自己の社会的否定性を知らない段階の精神である。漱石はこの作品に至ってようやく端的な精神を理想とした初期作品の段階を克服し、僻み根性が高木と分離する傾向を反映した心理であるという肯定的側面を発見し、その側面を綿密に描いている。
  「僕は初めて彼の容貌を見た時から既に羨ましかつた。話をする所を聞いて、すぐ及ばないと思つた。夫丈でも此場合に僕を不愉快にするには充分だつたかも知れない。けれども段々彼を観察してゐるうちに、彼は自分の得意な点を、劣者の僕に見せ付ける様な態度で、誇り顔に発揮するのではなからうかといふ疑が起つた。其時僕は急に彼を憎み出した。さうして僕の口を利くべき機会が廻つて来てもわざと沈黙を守つた。
  落ち付いた今の気分で其時の事を回顧して見ると、斯う解釈したのは或は僕の僻みだつたかも分らない。僕はよく人を疑ぐる代りに、疑ぐる自分も同時に疑がはずには居られない性質だから、結局他に話をする時にも何方か判然した所が云ひ悪くなるが、若し夫が本当に僕の僻み根性だとすれば、其裏面には未凝結した形にならない嫉妬が潜んでゐたのである。」
 ここでは須永の心理の順番に意味がある。須永はまず自分が高木に及ばないことを確認した後、高木の態度が高木の悪意に基づくのではないかと自己肯定的な意識を持つ。漱石は高木の自惚れに対する批判意識が高木の言動に基づくのではなく、須永の内部で形成された僻み根性であることを須永の心理の展開によって明らかにしている。しかしそれはこの作品の課題ではない。須永はこの疑問をも疑う状態にある。須永は自分に生まれる自己肯定的な意識にも自己否定的な意識にも自己を確定することができずに動揺し、さらにその動揺する心理状態に苦しんでいる。須永は自分の高木に対する評価が自分の僻みではないかとして自己分析を進め、その背後に嫉妬を認め、さらにこの嫉妬を分析している。これは嫉妬と呼ばれているが嫉妬ではない。高木や千代子と分離している須永には嫉妬といった積極的具体的関係を意味する精神は生まれない。
  「僕は其時高木から受けた名状し難い不快を明らかに覚えてゐる。さうして自分の所有でもない、又所有にする気もない千代子が源因で、此嫉妬心が燃え出したのだと思つた時、僕は何うしても僕の嫉妬心を抑え付けなければ自分の人格に対して申し訳がない様な気がした。僕は存在の権利を失つた嫉妬心を抱いて、誰にも見えない腹の中で苦悶し始めた。」
 須永の名状し難い不愉快は嫉妬ではない。嫉妬は積極的感情である。須永には嫉妬の根拠となる千代子に対する愛情がなく、高木と競争して千代子を得ようとするどんな欲望も持たない。彼にはまだこの心理が何であるか理解できない。これまでに嫉妬を感じたことがない須永がこれを嫉妬と想定しているだけである。現象としてはっきりしているのは千代子と高木に接することで歪んだ感情が触発されること、自分の言動が千代子に「相変らず偏窟ね貴方は。丸で腕白小僧見たいだわ」と言われるほど馬鹿げていることである。彼自身不愉快になるほど馬鹿げた感情が無意識的に強烈に沸いてくる。須永の心理が彼自身にも不愉快になるほど馬鹿げていることと、彼がこれを解消する段階にあることは同じである。プチブルの保守的な精神は肯定的な形式を持っている。あるいはプチブルの保守的な意識は自分を否定的な精神にまで発展させることができない。
  「二人が斯んな話をしてゐる内、僕は殆んど一口も口を利かなかつた。唯上部から見て平生の調子と何の変る所もない母が、此際高木と僕を比較して、腹の中で何う思つてゐるだらうと考へると、僕は母に対して気の毒でも あり又恨めしくもあつた。同じ母が、千代子対僕と云ふ古い関係を一方に置いて、更に千代子対高木といふ新らしい関係を一方に想像するなら、果して何んな心持になるだらうと思ふと、仮令少しの不安でも、避け得られる所をわざと与へるために彼女を連れ出したも同じ事になるので、僕は唯でさへ不愉快な上に、年寄に済まないといふ苦痛をもう一つ重ねた。」
 須永が母を媒介にして自己意識を展開していることがよくわかる描写である。須永は母に対しても高木を優位に置く価値観を想定している。須永と高木の能力を比較する必要のない母には須永が想定する比較や葛藤は生じない。自己の否定的側面から高木と比較するのは須永であり、「仮令少しの不安でも、避け得られる所をわざと与へるために」鎌倉に来て苦痛を味わっているのも須永自身である。これは彼だけに生じる葛藤であるから外には出せずに内的葛藤として須永に鬱積している。これが須永の行動の原動力になる。
  「途中迄来た頃、千代子は思ひ出した様に突然留つて、「あつ高木さんを誘ふのを忘れた」と云つた。…
 「最う遅いわよ貴方。高木さん、もし入らつしやる積なら屹度一人でも入らしつてよ。後から忘れましたつて詫まつたら夫で好かないの」…
  高木は百代子の予言通りまだ汽車の着かないうちに急ぎ足で構内へ這入つて来て、姉妹に、何うも非道い、あれ程頼んで置くのにと云つた。」
 須永はこうした高木や千代子の現実との接し方、人間関係の形成ができないことを意識して苦しんでいる。することを望まないのではなく、望んでもできないのであり、問題は何故できないかである。あるいはできないことには現実の人間関係としてどんな意味が含まれているかである。この平凡なインテリ的な心理には複雑で深刻な社会的意味が含まれている。
 須永は非生産的、消耗的心理に悩まされ、これを解消したいと考えている。漱石はインテリによく見られる瑣末な自尊心の葛藤の実例をいくつか示して分析している。こうした瑣末な事件による不安定な心理の蓄積こそ須永の実践の目的であり、それを原動力に須永は決定的な認識を得るための実践的勇気を得ようとしている。それだけが彼に可能な方法であり、したがって合理的な方法である。須永が千代子との関係を一挙に解決する方法を取らないことは、須永の否定性の具体的な形態をすべて経由するという肯定的な側面をもっている。これがプチブルに特有の無謀と違った漱石特有の勇気であり度胸である。具体的な媒介項を飛躍した一挙の解決は須永の精神に具体的に定着しない。具体的な葛藤を蓄積することが真の飛躍の前提である。

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